織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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京での戦い 後

(……この男を懐に抱く織田信奈とやら……一体、どれほどの器量を持つというのですか!?)

戦場の静寂の中、久秀の思考が凍る。

 

だがその時、もう一人の少女が、彼の胸の中で小さく震えていた。

 

光秀。

 

(……な、何が……起きたです……?)

 

目の前が一瞬で暗くなり、次の瞬間には温かい何かに包まれていた。

気づけば、自分は刃の腕の中。

彼の胸に、しっかりと抱きしめられていた。

(天城先輩……?)

 

背後から迫った死を、刃の肉体が遮っていた。

槍を、ただ刀で弾くだけでよかったはずなのだ。

傭兵の気配に気づけなかった光秀のことは、見捨てるのが戦場における最善の判断だったはず――

いや、むしろ庇わずに槍を弾けば、怪我すらしなかった。

 

 それでも刃は――

 

一瞬の迷いもなく、自らの身体を差し出し、彼女を守った。

 

「大丈夫か?光秀」

 

低く、深く、落ち着いた声が耳に届く。

 その声音には、叱責も軽蔑もなく、ただ“心配”だけがあった。

 

「あ、天城先輩……ありがとうございます、です……」

 

震える声で返しながら、彼女の目には熱いものがこみ上げてきていた。

 

(天城先輩……私を庇わなかったら、槍を弾くだけでよかったのに……こんな危険な賭けをする必要、どこにもなかったのに……それでも、なんの躊躇いもなく、怪我をしてまで、私を守ってくれた……)

 

それは剣の技でも、戦術でもない。

もっと根源的なもの。

“在り方”そのものだった。

 

心の在り方。

魂に刻まれた信念。

誇りと優しさの融合。

 

普段は、護るべきと認識している六人にしか向けられないはずの、そのまなざし。その想いが――ほんの一瞬、自分にも向けられたという事実。

 

それが、信じられないほどに嬉しかった。

あまりにも強く、あまりにも温かくて、胸が張り裂けそうだった。

 

彼の背中が、こんなにも大きいことを。

その心が、想像していたよりも、はるかに深く、広いことを。

 

光秀は、初めて知った。

 

そして同時に、自分の胸の内に芽生えた感情の正体を――言葉にはできぬまま、ただ静かに噛みしめていた。

 

彼にとって、自分は守る価値のある存在なのだと。

その事実が、何よりも、何よりも嬉しかった。

 

「者ども! 狙うは今川義元の首一つですわぁ! 邪魔する者は撫で斬りにしなさいッ!!」

 

 松永久秀が吼えた。その声は戦場に響き渡り、雷鳴のごとく兵たちの血を沸かせる。

 

 彼女は光秀を仕留めるのを諦め、戦局を乱戦へと持ち込もうとした。

 松永勢の足軽たちが、一斉に咆哮を上げながら殺到する。

 

 槍が地を穿ち、刀が風を裂き、炎のような怒声が戦場を呑み込む。

 地鳴りのような足音が響き、空気が刃で引き裂かれる音に満たされる。

 

  「おうおう、死に急ぎたい奴は前に出ろやァアアアッ!」

 「うおおおおおおおっ!」

 

 松永勢の足軽たちがいっせいに叫び声をあげながら突撃する。槍が宙を裂き、刀が閃き、叫びと怒号が交錯する。戦場はたちまち血と汗と土の匂いが入り混じる修羅と化した。

 

「天城先輩……どうして、ここに?」

 

 思わずこぼれた問いは、震えを帯びていた。張り詰めた精神の糸が、ようやくほぐれたかのように。

 

「清水寺が危機だと聞いたからだ。……姫様もすぐ来る」

 

 抱き寄せる天城刃の声音は静かだった。

 

「え……信奈さまが?」

 

 その時だった。

 

 ──ドンッ!!

 

 清水寺本堂の屋根が、雷鳴のような轟音とともに鳴動する。

 

 種子島。火薬の爆音。まさか──。

 

「信奈さま……!?」

 

 光秀の目に飛び込んできたのは、紅い戦装束を翻し、堂々たる姿で屋根の上に立つ織田信奈だった。

 

 その眼差しは鋭く、燃えるような意志をたたえている。

 

「……ちっ。間に合ったものの、やっぱり兵力差は圧倒的ね。絶体絶命だわ」

 

 屋根の上から敵陣を睨みつける信奈は、まるで女神が天より舞い降りたかのように荘厳だった。

 

「信奈さま……かかる事態となったのは、すべて私の不徳と失策にございます。お叱りを──」

 

「そんな話はこの窮地を乗り切ってからよ、十兵衛!」

 

 きっぱりとした声が、光秀の言葉を遮った。

 

「……御意!」

 

 光秀は刃の腕の中でうなずき、瞳に力を宿らせる。

 

「名物勝負の件はあとで決着をつけるでござる。生きられよ、あけちうぢ!」

 

 屋根の脇に身を伏せていた蜂須賀五右衛門が、三丁の種子島を信奈のもとへと差し出す。舌足らずな口調も今は封じ、ただ黙々と弾を詰め、撃鉄を起こしては次々に銃を構える。

 

 ドンッ! ドンッ!

 

 信奈は迷いなく引き金を引き、次々と敵の先鋒を撃ち抜いていった。

 

「──犬千代! 半兵衛! サル!」

 

 信奈の背後に、三つの人影が現れた。瓦屋根の急勾配を、重たそうに「うんせ、うんせ」と這い上がってくる。

 

「……犬千代、参上。おなかすいた……」

 

 犬千代がぼそりと呟きながら姿を現す。だがその眼は獲物を狙う猛獣のそれ。朱槍を構えて準備万端だ。

 

「みそたこ焼きはやっぱり不味いですが、今は松永勢を追い払う時です!」

 

 半兵衛は札を片手に、もう片方の手で袖を払いつつ笑った。だがその目は鋭く、獣のような気迫を隠してはいない。

 

「つ、疲れた! 相良良晴、参上! ……てか刃、お前汗一つかいてないのな。まぁ、うん。お前だしな。それと、十兵衛ちゃんを抱きしめてるのにも、もうツッコまんからな……!」

 

 良晴は肩で息をしつつ屋根に立ち上がる。だがどこか安心したような笑みを見せ、刃と光秀の姿に苦笑まじりの声を漏らした。

 

 それは、乱戦のさなかにも確かに“仲間”が再集結した瞬間だった。

 

「十兵衛! 美濃まで戻る時間はなかったの。悪いけど、援軍は六人だけよ!」

 

 信奈は振り返らずに叫ぶ。銃口を向け、引き金を引きながら、まるで背中で語るように言った。

 

「でも刃がいるから三千人くらいの援軍にならないかしら?」

 

その言葉に、誰もが思わず笑った。だがそれは、刃の実力を誰よりも信じているからこその言葉だった。

 

 清水寺の屋根に立つ信奈。その傍らには最強の仲間たち。

 そして、刃の腕に抱かれながらも戦意を取り戻しつつある光秀。

 

 戦況は最悪――だが、まだ希望は残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

久秀はいよいよ本堂に火矢を射かけさせ、義元も信奈もともどもに燃やしてしまおうとばかりに総攻撃を仕掛けた。

 

「いよいよもって、舞台は整いました……! 織田信奈さま、よくぞ善住坊の暗殺を生き延びられましたね……。ならば、次はこの戦火の中で、あなたの本質を拝見いたしましょう──あなたこそが、わが生涯の主たる器かどうか!」

 

 久秀の声が、炎の咆哮にかき消される寸前──

 

 ヒュッ、と風を切る音。

 

 舞い散る火の粉を突き抜け、一条の影が飛び込んできた。

 

「──っ!?」

 

 その影──天城刃は、火煙の中から光秀を抱きかかえたまま、屋根へと鮮やかに飛び乗る。

 

 彼の背を追って炎が立ち上がり、その一瞬だけ夜空がまるで昼のように明るく輝いた。

 

「このわたしを値踏みするとは、いい度胸だわ、松永弾正!」

 

 屋根の上、風を孕むように立ち上がった織田信奈が、堂々とした声で叫ぶ。

 

 火に照らされたその顔には、恐れも焦燥もなかった。むしろ、誇りと闘志が燃えていた。

 

「十兵衛!」

 

 彼女は鋭く、そして温かく名を呼ぶ。

 

「刃が、あんたの背中を守ってあげるから……思う存分、戦ってみせなさい! 明智の桔梗紋を、今ここで天下にひるがえすのよ! こっちはわたしたちで、なんとかしてみせる!」

 

 屋根の下──敵兵の群れが煮えたぎるように蠢いていた。

 

 圧倒的な兵数、燃え上がる堂宇、崩れ落ちかける舞台。そのすべてが、絶望の象徴のはずだった。けれど信奈の声が、それをすべて塗り替える。

 

 光秀は目を見開いた。

 胸の奥で、何かが震え、砕け、そして確かに芽吹く。

 

「……え? それって……」

 

「行くぞ、光秀。背中は任せろ」

 

 刃の声が、雷のように彼女の胸に響いた。冷静で、力強く、そして何よりも――信じてくれている。

 

「天城、先輩……はい! お願いしますです!」

 

 光秀の足が、自然と前へ出た。

 

 刃と光秀は屋根から廊下へと一気に飛び降り、怒涛の勢いで敵兵の群れへと突撃した。

 

 「光秀、好きに動け。合わせてやる」

 

 刃の短く力強い言葉。それだけで、光秀の迷いは吹き飛ぶ。

 

 「はいっ!」

 

 気合いと共に刀を抜き、光秀は目の前の傭兵に勢いよく斬りかかった。鋭い斬撃が敵の脇腹を裂き、悲鳴と血飛沫が舞う。

 

 だが、その直後――

 

 「死ねっ! 女ァッ!」「隙ありだッ!」

 

背後から二人の傭兵が叫びながら襲いかかってくる。

 

 光秀が振り向くよりも早く、それは終わった。

 

 「──ダメに決まってるだろ」

 

 冷静な一声と共に、刃の刀が音もなく走り抜ける。

 

 次の瞬間、傭兵たちの首が無音で宙に跳ね、血が泉のように噴き出した。

 

 「天城先輩!ありがとうございますです!」

 

 「気にするな」

 

 刃は軽く返し、すでに背中を光秀の方に向けて立っていた。

 

 二人の肩が触れそうな距離。背中合わせに並ぶその瞬間、戦場の空気が変わった。

 

 「俺がお前の、そしてお前が俺の背中を守る。姫様が久秀を引き入れるか、討ち取るまで……俺たちは崩れねぇ。いいな?」

 

 「──はいです!」

 

 光秀は力強く頷いた。その心に、決意の火が灯る。

 

 

 

 (……やりやすい)

 

 敵兵を斬りながら、光秀はふと、そんな言葉を思い浮かべていた。

 

 刃の動きは、まさに“理想”だった。

 

 求めるよりも早く、援護が届く。呼ぶ前に、そこにいる。背後を任せたいと思った瞬間には、すでに刃が守っているのだ。守られている、という確かな実感が、光秀の動きにさらなる冴えをもたらす。

 

 (まるで心を読まれてるみたいです……)

 

 初めての共闘にも関わらず、動きが噛み合いすぎている。

 

 刃と共にいると、自分が“上手くなった”ようにすら錯覚するほどだった。

援護に回る必要がない。自分は、ただ前だけを見ていればいい。

 

そんな信頼を置ける相手は、これまでの人生において──一人もいなかった。

 

 刃の動きは、単なる達人のそれではなかった。まるで戦場全体を鳥瞰しているかのように、敵の配置、動き、味方の状態――あらゆる要素を把握して、最善の場所に最善の攻撃を加えている。

 

光秀が敵を斬るたび、刃がその死角を自動的に埋める。

 

 (後ろに、目でもついてるんじゃないですか……?)

 

 背後から迫ってきた敵の気配。振り向かずに動こうとする光秀の意志を、刃は言葉なく察知して動く。

 

 振り返るまでもない。──斬られている。

 

 光秀は、自分が斬るべき敵だけに集中できた。

 

 (これが……)

 

 過去に聞いた伝説のような逸話が、頭をよぎる。

 

(これが、天城先輩が蜂須賀どのと二人きりで、墨俣城の籠城中に二千の敵兵を討ち取ったという、あの話の真実ですか……)

 

 数では到底及ばないはずの二人が、戦局をひっくり返した理由。今ならわかる。

 

 天城刃は、誰と組もうとも相手に完璧に合わせることができる。

 

 あらゆる動きのズレを予測し、先回りし、補い、最大の効果を引き出す。味方すら刃の“武器”として使っているように思えるほど、完璧な戦術感覚。

 

 それを可能にするのは、異常なまでの空間把握能力と、戦場全体を見通す“目”だった。

 

 (こんなにも安心して背中を預けられるなんて……)

 

 光秀の胸が熱くなる。

 

 誰かに支えられて、誰かを支えられる戦いが、こんなにも気持ちいいものだったとは。血の臭いすら、少し遠くに感じるほどだった。

 

 ──刃が自分に合わせてくれているなら、自分も応えなければならない。

 

 (天城先輩の期待に、応えてみせるです!)

 

鼓動が早鐘のように打ち鳴らされるなか、彼女は気合いを入れ直して刀を構える。

 

 その瞬間――

 

 「くくく……隙ありだ、嬢ちゃん!」

 

 左斜めから迫る殺気。油断なく張っていた気配でも捉えきれなかったその男は、影のように光秀に忍び寄り、鋭い刃を振り下ろしてきていた。

 

 「光秀、あまり気を抜くなよ?」

 

 背後から、あまりにも自然な声音が届く。穏やかでありながら、確かな威圧と余裕を孕んだ声。

 

 「ここは戦場だ。それに、お前は女の子なんだ。肌に消えぬ傷ができたら……どうするつもりだ?」

 

 ズバン、と肉を裂く音。刃の一閃が敵の刀を受け流し、次の瞬間にはその傭兵の首が宙に舞っていた。

 

 「う、ずるい、です……」

 

 光秀は思わず顔を赤くし、むすっと頬を膨らませた。命を救われたのに、それよりも先に顔が火照ってしまうのが悔しい。

 

 冗談にしては破壊力がある。戦場で言うセリフじゃない。

 

 だが、天城刃という男は、戦場であろうが何であろうが、そういうことをさらりと口にしてしまうのだ。そこに重みがあり、優しさがあり、そして何より――圧倒的な強さがある。

 

別の方向から新たな敵が襲い掛かってきた。槍を構え、怒号とともに突き出される穂先。

 

 「死ねッ!串刺しだァッ!」

 

 長槍が空を切る。突進の勢いを活かし、一直線に刃の喉を狙っていた。が、刃は首をほんの数センチ傾けるだけで、槍の穂先を紙一重で回避する。

 

 「無駄だ」

 

 そのまま刃は、スッと片手で槍の柄を掴んだ。敵が驚いて体勢を崩す。

 

 「借りるぞ」

 

 彼は自分の刀を、逆にその槍兵の額めがけて投擲する。空気を切り裂く鋭い音。刀はまっすぐ飛び、敵の眉間を貫いた。

 槍兵が絶命するよりも早く、刃は奪った槍を構え直し、すぐさま周囲の三人に照準を合わせる。

 

 ドン、ドン、ドン!

 

 鋭い三連突き。

 

 一突き目、喉元に命中。

 

 二突き目、胸元から心臓を抉る。

 

 三突き目、目の間を貫通し、後頭部から槍先が抜けた。

 

 三人は同時に、無言のまま崩れ落ちた。まるで最初からそこに人がいなかったかのように、静かな殺戮だった。

 

「たまには槍も使わねばな」

 

 刃は軽く槍をブン、と振り、血を振り払う。くるりと槍を回転させて、まるで舞うように構える。その動きは優雅ですらあり、槍を武器ではなく、まるで自分の身体の一部として扱っているかのようだった。

光秀はまた頬を染める。

 

 「光秀、今度は俺が前だ。討ち漏らしは頼むぞ?」

 

 その背に、確かな信頼と期待を乗せた言葉を投げかけてくる。

 

 「はいです!」

 

 光秀は即座に返事をし、槍を構えた刃の背にぴたりと寄り添う。

 

 刃が動いた。まるで風のように、軽やかに、だが烈火のごとき勢いで突撃する。

 

 薙ぎ払う。敵の肩口から腹までを一閃。刃の穂先が赤い弧を描き、傭兵の内臓を空へと撒き散らす。

 

 突き刺す。壁際にいた敵を串刺しにし、力任せにそのまま突き抜けて壁に槍を打ち立てる。

 

 振り払う。迫ってくる敵を槍の柄で打ち据え、顔を砕いてから足払いで倒し、喉元に追撃の一突き。

 

 次から次へと現れる傭兵たちを、まるで草を刈るように倒していく。

 

 そして、ふと刃が足を止める。

 

 「そういえば、良晴が言っていた……“必殺技”ってやつをやってみるか」

 

 「えっ? 必殺技ってなんです?」

 

 光秀が目を瞬かせる。どこか子どもっぽい興味と純粋な疑問が混じった声。

 

 「俺もよく分からん。だが、“敵を倒すのに有効らしい”と聞いた」

 

 「そんなふわっとした情報でやるんですか!?」

 

 「確か……槍の必殺技ってのは、こうだったか?」

 

 刃は片手で槍を持ち上げ、構えを変える。

 

 体全体を使って後ろへ振りかぶり――

 

「――“牙突”」

 

 名を叫ぶと同時に、凄まじい勢いで槍を投擲。音が風を裂き、まっすぐに飛翔した槍は、目を見張るような精度で敵陣を貫く。

 

 ドン!

 

 前列の一人目を胸ごと貫き、そのまま二人目、三人目、四人目へと連続して突き刺さる。まるで稲妻が走ったかのような衝撃。最後の一人を串刺しにして、槍は遠くの壁に突き立ったまま、そこから微かに蒸気を上げている。

 

 しばし、静寂。

 

 誰もが呆然と見つめる中で、串刺しにされた傭兵たちがずるりと崩れ落ちていく。

 

「天城先輩! それ、めっちゃくちゃカッコいいです!」

 

 光秀が歓声を上げるように叫ぶと、刃はわずかに眉を下げ、唇の端を持ち上げた。いつもの無表情とは違う、ほんの少し柔らかくなった顔。

 

 「そうか。なら、また機会があれば使ってみるか……」

 

 「もう一回やってくださいです! 次はわたしが技名、叫びますから!」

 

 「いや、それはちょっと恥ずかしいな……」

 

 冗談を交わしながらも、二人の眼は常に敵の動きを捉えていた。建物の奥から、再びうごめく気配。傭兵たちはなおも湧き出るように姿を見せ、二人を取り囲もうとしていた。

 

その時、彼女は刃の手元が空であることに気づいた。そうだ、さっきの投擲で槍を手放してしまった――。

 

 「天城先輩、私の刀使ってくださいです!」

 

 咄嗟に差し出されたその刀は、光秀の愛刀。彼女自身の命の延長である。

 

 しかし刃は、真剣なまなざしで光秀の顔を見つめ、きっぱりと首を横に振った。

 

 「ありがたいが、遠慮しておこう」

 

 「え……でも……」

 

 「そうなれば、お前が無防備になる。それは俺にとって一番避けたいことだ」

 

 光秀が目を見開く。刃の言葉には、いつも飾り気がない。だからこそ、胸に突き刺さる。

 

 「傷つけさせるつもりは毛頭ないが……戦とは常に万が一がつきまとう。お前をその危険に晒す気はない」

 

光秀は、はっと息を呑んだ。自分を気遣ってくれているその言葉に、胸が熱くなる。

 

「……でも、先輩が無茶して傷ついたら、それもイヤです」

 

光秀の声が震える。彼女の中では、刃は傷ついてほしくない存在だった。自分よりもずっと強く、頼れる存在。それでも――それでも、彼が血を流す姿など見たくなかった。

 

 その想いに気づいたように、刃は優しく彼女の頭に手を置いた。戦場とは思えぬほどの、静かで優しい仕草。

 

 「安心しろ。こんな雑兵ども、素手で十分だ」

 

 その瞳が、再び戦士のそれへと変わる。冷徹で、鋭く、何者にも揺るがない闘志。

 

 「それに――」

 

 次の瞬間、二人の傭兵が横から突撃してきた。

 

 「死ねぇえッ!」

 

 「女と小僧、まとめて斬ってやるッ!」

 

 が、その叫びは最後まで続かなかった。

 

刃の身体がふわりと動いたかと思えば、左手の二指が一人の傭兵の目元に鋭く突き込まれる。短く悲鳴が上がり、傭兵は崩れ落ちた。

 

 続いて二人目。構えた刀を振り上げようとした瞬間、刃はその懐に踏み込むと、逆手で喉元を突き上げ、仰け反らせた隙に肩を掴んで投げ倒す。倒れ込んだ体から滑り出た刀と槍を、迷いなく拾い上げる。

 

 「武器なら――勝手に寄ってくるからな」

 

 振るう前から殺気が満ちる。刀は既に血を吸う準備を終え、槍は手に収まった瞬間に風を裂いていた。

 

 「さて――」

 

 刃はふたたび戦場を見据える。敵の数はまだ多い。だが、恐れて逃げ出す者は一人としていない。それは、彼らが命じられたからではない。目の前の“異常”を前に、引き下がれぬ意地があるからだ。

 

刃が一歩踏み出そうとしたその瞬間、空気が重くなった。

 

 空を見上げると、黒く澱んだ雲が渦を巻いていた。雲間から、不気味な音も風もなく、何かが――落ちてくる。

 

 いや、“誰か”が、だ。

 

 それは一体、二体……やがて五体、十体、二十体、三十体と、数を増やしながら、まるで雨粒のように空から降り注ぐ。

 

 だが、それらはただの兵でも、傭兵でもなかった。

 

 「女の子……?」

 

 光秀が呟いた声に、わずかな震えが混じる。

 

 降りてきたのは、いずれも幼く、儚げな少女たちだった。

 素肌に赤い着物を引っ掛けただけの、遊女めいた扮装。白い肌が不自然に蠢き、どの顔もどこか久秀に似ている。──それも、童女の頃の久秀そのもののように。

 

 「人形……いや、これは……」

 

 十五体。刃と光秀の前に降り立った彼女たちは、全く無言のまま、等間隔に並び立つ。目には何の感情も光もない。ただ虚ろに、命令を待つような無音の沈黙だけが漂う。

 

 刃は即座に踏み込んだ。目の前の“娘”の首を、ためらいなく斬り払う。

 

 刃が閃き、首が綺麗に跳ね上がる。

 

 だが──少女は、倒れなかった。血も出ず、首が戻ることもなく、ただその場に立ったまま、微動だにしない。

 

 「……ふむ? 死なんか。面妖な……」

 

 刃がわずかに目を細め、警戒を強める。

 

 「天城先輩! こいつら、信奈さまたちの方にも降りてったです!」

 

 背後で光秀が叫んだ。刃は即座に反応する。

 

 「何だと? ……よくやった光秀。今すぐ、姫様たちのところへ向かうぞ」

 

 判断は早かった。今の状況で最も重要なのは、姫たちの安全を確保すること。

 

 刃は躊躇なく光秀を抱き上げると、屋根上を見上げた。足に力を込め、瓦を砕くような勢いで踏み切る。

 

 「跳ぶぞ、光秀、しっかり掴まっていろ!」

 

 「はいですっ!」

 

 空を裂くような跳躍。刃の身体が音もなく宙を舞い、光秀を腕の中に抱いたまま、一直線に屋根上へと向かって飛翔する。

 

 その背後では、傀儡のような“娘たち”が、一糸乱れぬ動きで首を傾げ、音もなく二人の跳躍を見上げていた。何の感情もないその瞳に、ただ機械のような殺意だけが滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのころ、信奈たちはすでに戦局を押し潰されかけていた。

 

 屋根の上で、信奈は膝をつきながらも懸命に種子島を撃ち続けていた。肩が震え、薬莢が熱を帯びて跳ねるたび、手のひらに火傷のような痛みが走る。

 その隣では、犬千代が弓を素早く引き、矢を次々と射ていた。五右衛門は両手に短刀を握り、舞うような殺陣で敵兵を斬り伏せる。だが、松永の兵の波は尽きることを知らず、幾度斃しても、すぐさま新手が屋根へ押し寄せてくる。

 

 ──そして空。

 

 黒い空から、紅をまとった「娘たち」が降ってきた。

 

 十、二十、三十──数知れぬ少女の形をした傀儡たちが、空から花弁のように舞い降りる。

 赤い遊女風の衣をまとい、素肌をさらしたまま、無言で屋根に着地した彼女らは、いずれも久秀の姿を映したような幼い面差し。しかし、その目に生気はなく、意思もなく、ただ命令に従う人形でしかなかった。

 

 「この人は……ぎりぎりまで、信奈さまを見定めようとしているのですね……」

 

 半兵衛は、久秀の姿を見つめたまま、唇を血で濡らしながら、心のうちで呟いていた。

 

 (主君の三好長慶さまを失い、自らが毒殺したと噂され……信を裏切り、裏切られ、狂気に逃げた……。誰も信じられず、ただ一人で夢うつつの奈落を歩き続けている……)

 

 目の前にいるのは、野心に溺れた女などではない。

 壊れ、迷い、世界を呪ってなお、それでも何かを探し続けている、哀れな魂だった。

 

 ──だからこそ、自分が終わらせなければならない。

 

 半兵衛は、胸に手を当て、咳を押し殺しながら最後の護符を取り出す。

 

 (ここで倒れることになるかもしれません……刃さん、ごめんなさい)

 

 少女の小さな手が、護符を空へと放つ──

 

 だが、それは。

 

 久秀の細い指先が軽く空を払っただけで、護符はまるで紙吹雪のように、風に舞い、燃え尽きてしまった。

 

 「げほっ、げほっ……!」

 

 半兵衛の身体がふらつき、膝をついた。

 止まらない咳。こみあげる鮮血。彼女の意識が、遠のいていく。

 

 ──つまらない。

 これで……殺してもらえると思っていたのに。

 もう……終わり、なのかしら。

 

 「だったら──皆殺しにしちゃいましょうか」

 

 久秀の、どこか退屈そうな声が空気を裂いた。

 その言葉をきっかけに、傀儡たちが一斉に舞い上がる。

 

 音もなく、まるで赤い蝶の群れが羽ばたくように、死の影が信奈たちを覆いはじめた。

 

 「な、なによこれっ!? なんで人形が襲ってくるのよ!? 幻? 幻でも見せられてるっていうの!?」

 

 信奈の声は悲鳴に近かった。

 

 「違う! こいつらは幻でも、式神でもねぇッ! 実体がある! 逃げろ、信奈──ッ!!」

 

 良晴が絶叫したが、その声すら届く間もなく、信奈の周囲は完全に傀儡に囲まれていた。

 

 犬千代も五右衛門も、各々包囲されており、動けない。

 

(マズイ! このままじゃ信奈が──!)

良晴の思考が焦りに支配される。視界の端には、傀儡たちの冷たい無表情な顔。その無数の手が、まるで獲物を貪る蜘蛛のように信奈へと迫っていた。

 

手は届かない。間に合わない──。

 

万事休す……誰もがそう思った、まさにその瞬間だった。

 

ズガァンッ!

 

瓦を蹴破り、空を裂くように黒い影が屋根上に舞い降りる。 

 

そして、視界からその姿がかき消えると同時に──

 

ズバッ! ザシュ! ギィン──!

 

信奈を取り囲んでいた傀儡たちの首が、一斉に空を舞った。まるで音もなく、刃が空気を断ち切ったような感覚。だが、それは確かに現実だった。

 

「姫様に触れるな」

 

低く静かながらも、鋼のように硬質な声が、血煙の中から響く。

 

「刃……!」

信奈が、瞳を大きく見開いて声を上げた。

安堵と嬉しさ、ほんの少しの甘えが滲む声色。

 

続けざまに、刃の姿が疾風のごとく地を滑る。動きの読みづらい傀儡の四肢、腹部、頸動脈。的確に斬撃が走り、全てが断たれた。

 

「天城先輩!」

その瞬間、刃に抱えられたままの光秀が、必死に声を上げた。

「信奈さまは私に任せてください! 前田どのと蜂須賀どのをお願いします!」

 

刃は一瞬、光秀の瞳を見つめた。そして静かに頷く。

 

「……任せたぞ」

 

次の瞬間、光秀はふわりと屋根の上に下ろされ、刃の姿がふたたびかき消える。

 

それと同時に、犬千代と五右衛門を取り囲んでいた傀儡たちの身体が宙を裂かれたように崩れ落ちた。あまりの速さに、誰も動くことすらできなかった。

 

「……刃、ありがと」

 

犬千代が、血まみれの顔で微笑んだ。

 

「天城氏、助かったでござる……!」

 

五右衛門も肩で息をしながら、安堵の笑みを漏らす。

 

「刃! よく来てくれた!」

 

良晴が駆け寄って言った。

 

「お前がいなかったらマジで詰んでた!」

 

「礼なら光秀に言ってくれ。光秀がすぐに気づいたから早くこれた」

 

刃はそう言いながら、まだ咳き込んでいる半兵衛の背を支える。優しく、けれど迷いのない手つきで。

 

「よくやったわ、十兵衛!」

 

信奈が光秀に向かって笑う。その顔には、戦場にあってなお女の子らしい、優しさがあった。

 

「ありがとうございますです! お役に立てて、光栄です!」

 

背筋を伸ばして誇らしげに応える光秀。その頬には、誇らしさと、そして少しの照れが浮かんでいた。

 

──そのとき。

 

ドドドド……!

 

地響きのような馬蹄の音が、夜の京を震わせた。

 

「援軍だわ!」

 

信奈が西の空を指さして叫ぶ。

 

 誰もが目を凝らした。だが、思い当たる節はなかった。京に残る織田軍の主力はすでに美濃へ撤退済み。清水寺を守っていた守備兵は、ほんの百にも満たないはずだ。それが今、闇の向こうから迫ってくる軍勢は、どう見ても数百、いや、千を超えるか──。

 

「いったい誰の軍勢だ……!?」

 

 良晴が目を細め、ぎらついた光の中に現れた白馬の騎影を見て、思わず息を呑んだ。

 

 白銀の甲冑。金色の髪。青い瞳。そして胸元には十字架。

 それは――堺で刃に救われた南蛮の宣教師、フロイスだった。

 

「フロイスちゃんっ!? なんでお前が騎兵の先頭にっ!?」

 

 良晴の声も届かないほど、フロイスの姿は神々しかった。白馬にまたがる彼女は、戦場の只中にいるというのに、まるで天上の聖母のような静謐な気配を纏っていた。

 

 ――神に仕える宣教師フロイスが兵など持つはずがない。

 

 だが、彼女の背後には、無数の十字架を掲げる騎士、商人、町人、農民たちがいた。

 

「ハヤテさんっ! 畿内のキリシタンの方々をお連れしました!」

 

 フロイスの声に応じて、続々と名乗りを上げる者たち。

 

「わが名は摂津高槻城の城主、高山ドン・ジュスト! これより生涯、フロイスさまをお守りいただいた織田勢にお味方いたす!」

 

「堺会合衆の一人、小西ジョウチン! 軍資金武具兵糧のすべてを調達いたした!」

 

「敵味方の別なく怪我人を救うは京の医師、曲直瀬ベルショールじゃ」

 

さらに、「フロイスさまの受けたご恩、わてらがお返しします!」と口々に気勢を上げる名も無き町人、農民たち。

 

一人ひとりの力は弱くとも、フロイスのもとに結束すれば巨大な力となる。

武将とはいえドン・ジュストこと高山右近など、本来は松永久秀に逆らえるような力の持ち主ではない。

台風の前の芦のような存在なのだ。松永が動けば松永に、織田が上洛すれば織田になびくことで家名をどうにか存続させてきたひ弱な武将にすぎない。

 

それがまさか、フロイスという目の青い南蛮の娘を押し立てて、これほどの一大勢力としていっせいに織田方に加勢しようとは。波斯の幻術遣いである久秀は、南蛮嫌いである。

 

十字架にかけられた神を忌み嫌い、キリスト教などこれまで歯牙にもかけてこなかった。

しょせん、波斯は波斯であり、日ノ本は日ノ本であり、南蛮は南蛮である。

異なる文化、異なる神を頂く者同士。永遠に混じり合うこともなければ、わかり合えることもない。

 

自分が悪女呼ばわりされるのも、この肌、この血のせいだ。

そう信じて世を憎んできた久秀にとって「絶対に武器を持たないはずの伴天連の宣教師が異国の姫にすぎない織田信奈のために馳せ参じた」というこの事態はまったく計算外であり、そして、これまで彼女が経験したことがない巨大な衝撃だった。

 

違う。  この人は、違う。

長慶さまとも──この国に現れては消えていった幾多の英傑たちとも──他の誰とも、違う。

 

久秀は、懸命に“仕えるに値する主君”を探し続けてきた。

久秀という「毒」をもその強烈な光によって浄化し取り込んでしまえるような、そんな主君を。長慶との夢の続きを。

 

主君にすべてを捧げるつもりが主君のすべてを奪い取ってしまった自分に、もういちどだけ、現世の生をやり直すことを許してくれる運命の相手を。

 

だが足利義輝も三好三人衆も東大寺も、その器ではなかった。久秀という「毒」を浴びると、あっけなく瓦解した。

だがここに、久秀をまるごと飲み込んでしまえるような、破格の姫武将が、英傑が現れた──。

 

尾張のうつけ。

久秀がただ一人異性として愛した男、松波庄九郎の、義娘。

斎藤道三が見つけた夢の続きを、わたくしが、受け取る。それが縁というものだったのだろうか。

信奈にあらがい続けてきた蠍は、この時、ついに。

自らの完全敗北を、認めた。

 

 

深夜──。

 

半ば焼け落ちた清水寺に、月光が静かに差し込んでいた。

床几に腰を掛けた信奈の前で、ひときわ妖艶な女武将が優雅にひれ伏す。

 

「この松永久秀、今度こそ……心より信奈さまに降伏いたしますわ」

 

その声は、深夜の静けさに溶け込むようにしっとりと響く。

 

「デアルカ」

 

信奈の隣に控える良晴は、至近距離で初めて久秀を目にし――衝撃を受けた。

 

(う、うおおお……ッ!)

 

目の前にあるのは、男の目と鼻と魂を一瞬でかっさらう圧倒的な色香。

異国の香水のような妖しさと、露わな肌に刻まれた蠱惑の曲線。そして──

 

「うおおお! エキゾチック美人っ! オリエンタル美女っ! すげぇ色気っ……! 胸が……胸が、ぷるるんと揺れて……おうっ!?」

 

あまりの光景に鼻血寸前。若き思春期男子には、久秀の色香は強烈すぎた。

 

「……サル、あんた何前屈みになってんのよ」

 

信奈はその様子に呆れ、そのまま、じろりと横にいる刃を見上げた。

 

「いかがされましたか、姫様」

 

刃は眠っている半兵衛をお姫様抱っこしたまま、首を傾げる。まったく動揺も色気への興味も見せない、まるで石仏のような無表情。

 

「いや、サルが興奮してるから……もしかして、刃も、ああいうのにグラッときたりするのかな、って……ちょっとだけ、思っちゃっただけよ」

 

まるで恋人に浮気の気配を感じ取った乙女のような声音で、不安そうに問いかけると、刃はきっぱりと答えた。

 

「ご安心ください。俺が欲情するのは、恋人の四人だけです」

 

その真っ直ぐな言葉に、信奈と犬千代は顔を赤らめ、頬を緩ませた。

刃は視線を良晴に移すと、容赦なく断罪するように告げる。

 

「良晴。みっともない真似はやめろ。目を覚ませ。主君の前でその姿、恥を知れ」

 

しかし、良晴は鼻息をさらに荒くし、言い返した。

 

「はぁ!? 何がみっともないだ!! 思春期真っ只中の男子が反応して何が悪いッ!?

逆に、刃、お前が変なんだよ!! いいか、よく見てみろ!」

 

久秀を指差して叫ぶ。

 

「久秀さんは信奈や犬千代、半兵衛ちゃん、十兵衛ちゃん、五右衛門、それに……長秀さんまでひっくるめても、“エロさ”の次元が違うだろ!! どう見ても!! あの胸! あの脚! あの腰のくびれ! おとなの魅力ってやつが──」

 

「……は? 俺に喧嘩を売ってるのか?」

 

一歩、前へと進み出る。

 

「それとも……お前の目が腐っているのか?

どこをどう見比べても、姫様たちに勝っている部分など久秀には存在しない。断言する」

 

「ふざけんなあああああっ!!!」

 

良晴が叫ぶ。

 

「腐ってんのはお前の感性だろっ!!!

あれが見えてて何とも思わないって、どうかしてるわ!!

むしろ医者に診てもらえっ、刃ぇぇぇええ!!」

 

刃と良晴、互いの額と額が今にもぶつかりそうなほど近づき、バチバチと火花が散る。

 

──しかし、当の信奈はというと、そんな騒ぎをまるで気にしていない様子で、久秀の方へと身を乗り出していた。

 

「サルと刃は気にしないでいいわよ、弾正! よくぞわたしに帰順したわ。今度こそは本気のようね。頭がいい武将は、わたし……好きよ!」

 

それに対し、久秀は優美に微笑みながら深々と頭を下げる。

 

「わたくし、心の底では──このような結末を望んでおりました。わたくしよりも強いお方に、力で屈服させられることを」

 

そう言って、懐からすっと何かを取り出した。

 

「ですので、降伏の証といたしまして……大和より名物“九十九髪茄子”、お持ちいたしました」

 

渾身の茶器が、恭しく信奈の前に差し出される。

 

その香りと気品に、信奈の眉がぴくりと上がった。

 

「……ふふ、やるじゃない、弾正」

 

しかし──

 

その裏で、良晴はうっとりした顔で久秀を見つめながら、小声で呟いていた。

 

「おうっ……なんていい匂いがするお姉さんなんだ……」

 

そして、慌てて股間を押さえる。

 

対照的に、刃はそんな久秀に一瞥もくれず、片腕に半兵衛、もう片方で犬千代を撫でながら、月を見上げていた。

 

(……大人の色気? くだらん)

 

その横顔は、まるで戦場の死神のように、ただ静かに美しかった──。

 

「いちいち発情してんじゃないわよ、このエロザル!」

 

信奈の手刀が頭に落ちる。ごつん!と鈍い音が響いた。

 

「この“九十九髪茄子”こそは、かの足利義満公が秘蔵した唐物茶入れ。天下三茄子のひとつにして──銭二万文を積んでも手に入れられぬ、天下の大名物です」

 

その言葉に、信奈の後ろで控えていた光秀が思わず前に出る。

 

「……はぁ……ほぉ……!」

 

驚きと興奮の混じった吐息。光秀は茶の湯に関しては並々ならぬ造詣を持っていた。

茶器を前にしたその目は、戦場では見せない熱を帯びている。

 

久秀は口元に笑みを浮かべたまま、滑るように言葉を継いだ。

 

「信奈さま。日ノ本の文化の中心たる京を治めるには、もはや武力だけでは足りません。公家や堺衆と渡り合うには、文化という“権威”が必要です。……僭越ながら、尾張の野趣あふれる茶の湯では、時に相手の足元を見られてしまうかと」

 

その口調にはどこか、母が娘に礼儀作法を教えるような、優しさと厳しさがあった。

 

「うふふ。文化は時に、武力より強い武器になりますのよ」

 

信奈は茶器を一瞥したのち、ニッと口角を上げた。

 

「これだけの名物をもらっちゃってはね……。いいわ、弾正。大和一国、安堵してあげる!」

 

「うふ……ありがたき幸せ」

 

満足げに頭を下げる久秀。その笑みに、ほのかな快楽すら漂っていた。

 

だが──

 

「ええっ!?」

 

と、光秀が思わず声を上げた。

 

「信奈さま! かような謀反常習犯に国一つ安堵するなど……この者、いずれまた裏切ります。天城先輩がいなければ、我ら全員討ち死にしていたのです。ここは即刻、斬るべきかと!」

 

信奈は肩をすくめて、飄々と言った。

 

「いいじゃない、十兵衛。毒も使いようによっては、薬になるのよ」

 

「信奈さま! この十兵衛光秀、謀反人は決して許せません。斬りましょう!」

 

信奈がやれやれとため息をついたそのとき、光秀が半ば祈るように振り向く。

 

「天城先輩! 説得を!」

 

刃は一瞬だけ、久秀をちらりと見て、すぐに目を逸らす。

 

「……問題ないだろう。姫様が許すなら、俺は従うさ」

 

そして、低く静かに言い添えた。

 

「──次、裏切った時に殺せばいい。それだけだ」

 

その言葉の冷たさに、場の空気が一瞬張り詰める。

久秀は、目を細めてふふ……と喉の奥で笑った。

 

「うふ、なるほど。それもまた一興」

 

「ぎょ、御意……」

 

光秀はようやく頭を下げた。だがその顔には、明確な不満が浮かんでいる。

これほど謀反人を憎むなんて、なんだかんだ言っても真面目な子だなあ……この世界では本能寺の変は起きないだろうな、と良晴は安心した。

 

信奈は、久秀に再び向かい合う。

「ところで、弾正。あんたには聞きたいことがあるの」

 

「なんでしょうか。もう一つの名物〝平蜘蛛〟は命より大切なものゆえ、譲れませんわ」

 

「譲れと言ったら?」

 

その瞬間、久秀の目が細くなる。そして、かすかに笑った。

 

「──そうですねぇ。では、平蜘蛛を抱いて爆死いたしましょうかしら」

 

あまりにさらりと言うので、信奈は一瞬、虚を突かれた顔をした。

そして良晴は内心で思った。

 

(ほんとにこの人、史実だとそれやるんだよな……)

 

信奈は冗談交じりに苦笑しつつも、目を細める。

 

「弾正、あんた……本当に、主君だった三好長慶を毒殺してはいないの?」

 

その言葉に、久秀の目が大きく見開かれる。

 

「な、なんてことをおっしゃいますの! 信奈さま!」

 

瞳が潤み、袖でそっと口元を覆いながら、あからさまにショックを受けた様子を見せる。

 

「わたくしが……あの、長慶さまを毒殺……!? まさか! そんな酷い噂、どこの口さがない京の民が──!」

 

「でも、事実あの人、急死したじゃない。あんたの毒薬使いの噂も絶えなかった」

 

「……誓って申し上げます。長慶さまは、わたくしにとって唯一無二の存在。子のないわたくしにとっては、実の娘のようなお方でしたのよ」

 

一同が「娘?」とこっそりツッコむ中、久秀は毅然と続けた。

 

「わたくしが鳥兜の毒を用いたのは、あくまで長慶さまに仇なす弟君や、不忠な家臣たちに対して! あの方々が長慶さまを蔑ろにし、御身を危うくするような者ばかりだったのですもの!」

 

盛ってるんじゃねーかよ! と信奈と刃以外の全員から突っ込みが入った。

 

言われてみれば、弾正の頭の髪飾りは、紫色に染まった鳥兜の花ではないか。

 

「なにもかも、長慶さまのおんため!あやつらはみな、お優しい長慶さまをないがしろにしておりましたのよ!捨て置けば長慶さまは暗殺されていましたわ!それなのに……まさか、やっと三好家中の不穏分子を始末したと思った矢先に、長慶さまがお隠れになってしまわれるなんて……どうして」

 

「──わかったわ。要するに、長慶がいなくなった今、あんたが心から仕えるに足る“新たな主君”を探してたってことなんでしょ、弾正」

 

信奈の問いかけに、松永久秀は恭しく一礼し、静かに頷いた。

 

「その通りですわ。わたくしは、長慶さまを超える器を持つお方──わたくしがすべてを捧げるにふさわしい“真の主君”を、ずっと求めておりました」

 

久秀の目は、狂気を帯びたほどに澄んでいる。

 

「そのために、足利義輝公をはじめ、あらゆる英傑たちを“試し”てきました。人は極限まで追い詰められてこそ、本性を晒すもの。真の器とは、修羅場でこそ明らかになる……」

 

そして、ふっと微笑みながら、視線をまっすぐ信奈へ。

 

「そして、わたくしの眼鏡にかなったお方は──ただ一人。信奈さま、あなたですわ」

 

その言葉に、場の空気が変わる。

 

「陰陽師にあれほどの覚悟をさせ、伴天連に剣を取らせ、絶対者・天城刃を懐に抱く……。あれほど多様な者を、違和感なく従えられる度量。それこそが、“覇者の器”……」

 

そして、微かに口元を綻ばせる。

 

「……さらに、この国で忌み嫌われてきた波斯の幻術遣いであるわたくしを、真正面から受け入れてくださる、その懐の深さ。信奈さまこそ、わたくしが命を預けるにふさわしい、お方」

 

信奈は、わずかに唇を吊り上げて、にやりと笑った。

 

「いいわよ」

 

「……え?」

 

「わたしがなってあげる。あんたの“最後の主君”にね!」

 

その瞬間、久秀の表情が止まる。

信奈は、立ち上がり、真っ直ぐに久秀を見下ろすように言い放った。

 

「わたしは畿内を治めるだけでは満足しない! 日ノ本を、そしてその先の“世界”を相手に、天下布武の戦いを仕掛けるつもりよ! 長慶に仕えるより、絶対に面白いでしょ?」

 

「……信奈、さま……♡」

 

久秀の声が震え、瞳に涙がにじむ。

 

「だってわたしね、もともと足利幕府なんて、自分の手でぶっ壊すつもりだったのよ? あんたが壊してくれなかったら、あたしがやってた! 将軍家なんて、今や名前だけ! 京すらろくに治められない、無力な存在に意味なんてないの!」

 

信奈は手を差し伸べた。その手に、久秀は両手を重ねるように取る。

 

「さあ、弾正。わたしと一緒に、この腐った国を大掃除して、新しく生まれ変わらせましょう!」

 

「……ああ……ああ……!」

 

久秀の声が嗚咽まじりになる。

 

「このような結末を、心の奥底で、ずっと……ずっと望んでおりました。わたくしを、ほんとうに理解してくださるお方が、ついに……!」

 

感極まったのだろう。袖でそっと目元を拭う久秀。

 

――破壊者が、破壊者に惚れ込んだ瞬間だった。

 

新時代を目指す秩序破壊者と、主君のためなら世界すら壊せる秩序破壊者。

その相性が、抜群に良いなどと、誰が予想できただろうか。

 

(そういや信奈も、火ぃつけるの好きだしな……)

 

良晴は、ふと思い出しながら、眉をひそめた。

 

(でも……でもな……)

 

久秀の陶酔しきった笑顔を見て、彼は嫌な予感を覚えた。

 

(ほんとうに……こんなヤンデレめいた危険生物を、飼い馴らせるのか……!?)

 

普通の悪人の方がまだ扱いやすい。良晴の胸騒ぎは増す一方だった。

 

「……ただし、弾正。ひとつだけ、しっかり肝に銘じておいて」

 

信奈が厳しい表情で指を立てる。

 

「織田家の家臣に、一服盛ったら絶対に許さないわよ。もちろん刃にもね。わたしの家臣はみんな、わたしの“宝物”なの。あんたに勝手に毒殺する権利なんてない!」

 

「……はい。御意。これよりは、“白弾正”として生まれ変わりますわ」

 

久秀が晴れやかな笑みで、恭しく膝を折った。

 

その笑顔は、どこか幼げな、無垢な童女のような笑顔で――

 

(……やっぱダメだ。この人、絶対まともじゃねぇ……!)

 

良晴の胸騒ぎは、まったく収まる気配がなかった。

 

 

 

 

 

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