織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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将軍宣下 金ヶ崎へ

「このわたくしの全身からあふれる人徳が、危地を救ったのですわ! おーほほほほ。信奈さん、新将軍にふさわしい二条城の造営を急いでくださいます?」

 

朝日が昇る。

夜の騒乱から一転して、洛中にはざわつきとともに新たな秩序の兆しが漂い始めていた。

 

清水寺が半壊した報せを受け、美濃の柴田勝家、丹羽長秀、さらに近江の浅井長政がそれぞれ大軍を率いて再び京へ駆けつけてきた。

だが、彼らが到着した時には、信奈はすでに清水寺の代わりとなる新たな拠点──今川義元の名代としての将軍職を担うにふさわしい新城・二条城の建設を、自らの手で陣頭指揮していた。

 

南蛮風のマントを肩に掛け、腰には虎皮を巻き、まさしくうつけそのものの姿で愛馬にまたがった信奈。

片手に種子島を構え、もう片方の手には革鞭を携え、不埒な者がいれば容赦なく地面を叩きつけ、威圧してまわる。

 

その姿はまるで、“雷神”そのもの。

 

「おいそこの足軽! 砂利運び遅いわよっ! 三倍速で動きなさーいっ!!」

 

「うひゃあっ!? は、はい姫様ぁっ!!」

 

信奈が動けば、民も兵も三倍の速さで働く。

まさに“信奈特急工法”が炸裂していた。

 

そこへ、馬を飛ばして駆けつけてきた柴田勝家が、土煙を巻き上げながら大声で叫んだ。

 

「姫さまああっ! 姫さまのご危機に、この勝家が駆けつけられず、誠に申し訳ありませんっ!」

 

すぐ隣では、丹羽長秀が冷静に言葉を継ぐ。

 

「幸運にも命拾いしましたが、今後このような危険な真似はお慎みください。三十点です」

 

信奈はやれやれと肩をすくめながら、軽く微笑んだ。

 

「刃がいるんだから問題ないわよ。サルには叱られたけどね。“家臣と主君、どっちの命が大事かぐらい分かるだろうが!”って、本気で怒鳴られたわ。まったく、口うるさいったらありゃしない」

 

そう言いながらも、信奈はふと目を細め、銀髪剣士を思い浮かべる。

 

「……サルにも、刃を見習って欲しいわね。あの子なんて、最初から十兵衛を助けに行く気しかなかったんだから。わたしには『自分ひとりで行くから、美濃から増援を連れてきて欲しい』なんて言ってきて……」

言葉の端には苛立ちと同時に、どこか誇らしさが滲んでいた。

 

「ふふ……刃どのでございますからね。当然かと存じます」

 

長秀が微笑みながらうなずく。

 

「ところで姫さま。サルはいつから、岐阜城の厨房係に?」

 

「……その話は、流れたわ」

 

「ええええっ!? えこひいきです、姫さまあっ!」

 

「だって、十兵衛が言い出したのよ。“今回は引き分けでいい”って。やれやれ、器の大きい子だわ」

 

「勝家どの。あまり喚くと、後ろの大工たちが笑ってます。三点です」

 

長秀がさらりと告げると、勝家はぐっと拳を握りしめた。

 

「むむ……なにかと勝家どのは、サルに突っかかりますな。もしかして──惚れているのではありませんか?」

 

ふいに口を挟んだのは、近江から駆けつけた浅井長政だった。表情は至って真面目で、静かに首をかしげる。

 

「なななっ、長政っ!? 変なこと言うなよっ! あたしがサルを!? バカ言え、あんな奴、憎くて憎くて仕方ないんだからなっ!」

 

「さて。かわいさ余って憎さ百倍……とはよく言ったものです。恋心とは、理屈では測れぬものですからな」

 

長政の言葉に、勝家の顔がみるみる赤くなる。

 

「……え、えええええええっ!? あたしが……サルに恋を……!? そ、そんなわけ──!」

 

「六。自覚してなかったの?」

 

「勝家どの、十点です」

 

そこに、光秀の乗った白馬が、しずしずと現れた。

その横を歩くのは天城刃。肩には、ぐったりとした相良良晴をまるで米俵のように担いでいる。

 

「き、気持ち悪い……刃っ、ふざけんなって! もっと揺れ抑えてくれよ、吐きそうなんだよ俺は!」

 

青ざめた顔で良晴が必死に訴える。

 

「足の遅いお前が悪い。馬と並走くらいできるようになってから文句を言え」

 

「普通できねえよ!? お前の常識、基準が人外なんだよっ! ったく、あーもう……あ、信奈ー! フロイスちゃん、連れてきたからなー!」

 

「相良先輩は道中、天城先輩に担がれていただけです。この十兵衛光秀と天城先輩が、フロイス殿をお連れしましたのです」

 

キリッと胸を張って光秀が言う。

 

「おいおい。堺へ帰ろうとしてたフロイスちゃんに“二条城へ来ないか”って声かけたの、俺だってば」

 

「それは事実かもしれませんが、フロイス殿が来てくれたのは天城先輩の存在があったからです。そして、ここまでの道案内を務めたのも、この十兵衛光秀です。相良先輩は……正直、方角すら怪しかったではないですか」

 

「うぐっ……言い返せねぇっ……」

 

良晴が唇を噛みしめている間に、件のフロイスが馬を下りた。

 

昨夜は高山ドン・ジュストらに「弾が当たれば大変です!」としつこく勧められ、純白に輝く南蛮甲冑に身を包んでいたが、今は清楚な修道女の衣へと着替えている。

そして、静かな気品を纏いながら、まっすぐ信奈の前へ歩み出る。

 

「はじめまして、ノブナ様。ポルトガルより参りました、ルイズ・フロイスと申します」

 

「……」

 

その声を聞きながら、信奈の視線は彼女の顔から徐々に下がり、やがて一点で止まった。

胸元。

 

(なによこの子……なんでこんなに乳がでかいのよ……。六よりもはるかに……! あれ? なんで私、妙にイラッとしてるのかしら……)

 

信奈は馬から下りると、静かに──まるで無意識に──フロイスの背後へと回り込んだ。

そして、いきなり手を伸ばし、むぎゅっ、と。

 

「乳を触らせなさい。それ、詰め物なんでしょ?」

 

「きゃうううっ!? ちっ、違いますっ、ほんものですっ!? ノノノ、ノブナさまあっ!」

 

「……なにこれ、でかすぎてつかみきれない……なによこの感触。柔らかいのに芯がある……。詰め物じゃない……ガチなの……? なにこれ。ちょっと理不尽なくらい大きいんだけど……!」

 

信奈は明らかに混乱していた。

そして、つぶやく。

 

「六の胸を見ても“牛だなあ”としか思わないのに……なんでフロイスの胸には、こう……胸をざわつかせる妙な劣等感が……。刃、十兵衛、サル、説明しなさいよ!」

 

「姫様。フロイスが明確に困っています。――その辺でやめてください」

 

刃がやれやれと肩をすくめ、フロイスの救出に入った。

 

「は、はあ……助かりました、ハヤテさん……心臓が止まるかと思いました……」

 

「次は、裸にむいて観察しなきゃね……。自分の目で本物かどうか確かめないと、ちょっと信じられないわ」

 

「お前、どこの変態だよ!! 好奇心丸出しも大概にしろって、信奈!」

 

良晴が抗議の声を上げる。

 

「俺だって我慢してんだぞ!? くそぉ……! ああもう……! うらやましすぎる!!」

 

「……ちっ。ここにはエロザルの目があるわね。仕方ない……フロイス、今度わたしと一緒に温泉に入りなさい。いい? ちゃんと観察させてよ」

 

「は、はい……あの……できれば、私の胸以外のことで何かご質問はないでしょうか、ノブナさま……?」

 

「そうそう。パードレに会うのは十年ぶりよ。いろいろ聞きたかったことがあるの」

信奈は、海の外の世界に子供のような憧れを抱いていた。

まるで幼子のような瞳……とフロイスは吸い込まれそうになった。  年齢はいくつ? ポルトガルから日本に来て何年になるの?

日ノ本にキリシタンの教えが広まらなかったら、ポルトガルに帰っちゃうの?

どうして命をかけてまで、こんな航海をして日ノ本に来たの?

 

フロイスは、飽くなき好奇心を隠さずに目を輝かせる信奈の質問に、誠心誠意答えた。

 

「神の教えを広めてこの国の民の心を救うこと以外に、目的はありません。わたしは、二度とポルトガルには戻りません。このジパングで死ぬ覚悟です」

 

静かな決意が込められたその声に、信奈は目を細めた。

 

「デアルカ。なら──お願いがあるのね?」

 

「はい。ぜひノブナ様に、京での布教再開をお許しいただきたいのです」

 

「いいわよ」

 

あまりにもあっさりとした即答に、周囲がざわついた。

 

「姫、それは……神事を司る御所の許可を得ませんと……」

長秀が控えめに進言するが、信奈は鼻で笑うように一蹴した。

 

「やおよろずの神を祀る姫巫女さまが、今さら一柱増えたくらいで反対するわけないでしょ。

実際に邪魔してるのは、寺社と公家の利権を守りたい連中だけよ。公家衆なんてほっときゃいいの。事後承諾させればいいだけ」

 

その言葉に、フロイスは一瞬言葉を失った。だが、すぐに「僭越ですが……」と控えめに切り出す。

 

「堺の小西ジョウチン殿より、ノブナ様へ──銀十本を進呈したいとの申し出がございます」

 

その場にいる家臣たちがわずかに身じろぎし、空気がぴんと張る。

だが、信奈は苦笑いを浮かべた。

 

「はるばるポルトガルから海を越えて、この国に来たパードレから金を受け取ったりしたら、私は後世まで物笑いの種になるじゃない。

その銀は、京に南蛮寺を建てるための資金に使いなさい。それが本望でしょう?」

 

「……オブリガーダ。(ありがとうございます)ノブナ様……」

 

フロイスは深く、丁寧に礼をした。

その瞳には感謝と、信頼の色がはっきりと宿っていた。

 

すると、信奈はにっこりと笑い、フロイスの手からひとつの品を抜き取った。

 

「この南蛮帽子だけ、貰っておくわね」

 

そう言って、自分の頭に孔雀の羽根があしらわれた羅紗地の帽子をちょこんと載せる。

 

「どう? 似合ってる?」

 

少女のような無邪気な笑みで、信奈は横に立つ刃を見上げた。

 

「ええ。大変お似合いです」

 

刃は柔らかな微笑みを浮かべ、迷いなく即答する。

 

信奈は、少し得意げに胸を張った。

その姿は、野望に燃える戦国の姫大名であると同時に、まだ年若い少女の顔でもあった。

 

 

 

 

二条城の石垣の裾。

互いに椅子に腰かけた信奈とフロイスは、静かに視線を交わし──そして、はにかむように微笑み合った。

 

「……堺の南蛮寺を、壊さなくてよかったです」

光秀が、はじいるようにフロイスに頭を下げる。

 

「いえ。お気になさらずに。神は、決してあなたを罰したりなどしません」

フロイスは慈愛に満ちた笑みで応じた。

 

傍らで見ていた良晴が小声でつぶやく。

 

「……俺、今、とんでもない歴史の瞬間を目撃してる気がする……!」

鳥肌を立てながら、ぶるると肩を震わせた。

 

だが──そこから先は、空気が変わる。

 

フロイスの目にわずかに陰が差し、声のトーンも少しだけ重たくなった。

彼女が信奈に語ったこの“警告”については、後に彼女が記した長大な記録書『日本史』にも一切書かれていない。

 

「ノブナさま……実は、どうしてもお伝えしたいことがございます」

 

信奈の瞳が細められる。

それが“良い話”ではないと、彼女はすでに気づいていた。

 

「……聞こうじゃないの。顔に出てるわよ。あんまりいい話じゃなさそうね」

 

フロイスは深く息を吸い、胸の奥にあった言葉をしぼり出すように語り始めた。

 

「わたしたちドミヌス会の宣教師たちは、ただひたすらに神の教えを広め、世界中の魂を救うことを目的に活動しています。ですが……わたしのような貧しい修道女が、遠いポルトガルからこのジパングまで航海して来られるのには、理由があるのです」

 

「理由?」

 

「はい。ポルトガルとイスパニア両国は通商のために航路を切り拓き、各地に拠点を築いています。私は、その王のご厚意により、無償で貿易船に乗せていただいております」

 

信奈はうなずいた。

 

「ええ。それくらいは知ってるわ。それが、どうしたの?」

 

「……ですが、実際には──その背後に、別の目的があります。

それは、世界各地で進められている“植民地政策”です」

 

植民地。

戦国日本にはまだなじみのない、その“新造語”。

 

だが、信奈は以前、とある人物からその言葉を聞かされていた。

彼女は言葉の意味をすでに理解していたが、フロイスの目に宿る決意と覚悟に気圧されるように、静かにうなずく。

 

「……聞かせて」

 

「はい。植民地政策とは──武力で海外の領土を奪い、政治・経済の支配下に置くことです。

たとえば、アメリカ大陸にはかつてアステカ帝国やインカ帝国といった偉大な文明がありましたが、今はイスパニア軍の重火器攻撃によってことごとく滅亡の危機にあります」

 

「じゃあ……イスパニアやポルトガルが、この国をも……?」

 

「わかりません。ですが、ジパングは例外的に武人たちがとても強く、職人たちは異常なまでに器用です。南蛮の火縄銃を、ほんの数年で大量生産できるまでに技術を高めています。

ですが──火薬の原料となる硝石だけは……」

 

信奈の整った眉が、ぴくりと動いた。

 

「……硝石は、日ノ本国内では産出できない。南蛮との交易に頼るしかない……」

 

「もしも硝石の輸出を差し止められれば、日ノ本の火力は途端に立ち行かなくなります。

さらに──考えたくないことではありますが、もし軍人たちが布教活動を利用して国内の勢力を分断すれば……」

 

「宗教戦争を起こさせて、内乱に乗じて介入してくる……。

最終的に、日ノ本はポルトガルかイスパニアの“事実上の植民地”になる、と?」

 

「確証はありません。ですが……これは他国で何度も起きてきたことなのです。

我が師・ザビエル様も晩年には『自分の行いは、侵略の手助けになったのではないか』と悩まれておりました」

 

「ザビエル……」

 

ほんの一瞬――信奈の瞳がわずかに揺れ、時が止まったかのように固まった。

 しかし、その沈黙は長くは続かない。彼女はすぐに口を開き、何事もなかったようにフロイスとの対話を再開する。

 

「フロイス。ポルトガル人のあんたが、どうして日本人のわたしに、そんな話をするの?」

 

 問いかけられたフロイスは、一瞬ためらったが、やがて静かに答えた。

 

「この美しい〝黄金の国〟を……善良で賢きジパングの人々を、心から愛しているのです。それに、神は決して――他国を武力で侵略し、支配するなどという悪しき行為を許されません。布教と侵略とは、本来まったく反対のものでございます」

 

 信奈は、ふっと笑みを浮かべた。その笑みには皮肉も混じっている。

 

「でもね、人によっては――どちらも同じだと考える奴もいるかもよ。

 『キリシタンの教えも知らない野蛮な原住民は、自分たちが支配してやったほうがいい』ってね。……宣教師の中にも、そういう輩はいるんじゃない?」

 

 その言葉に、フロイスは唇をかみしめ、俯いた。

 

「……はい。残念ですが、現実には……そうです」

 

 短く、しかし重い答えだった。

 

「わかったわ、フロイス。言いにくいことを正直に教えてくれて、ありがとう。辛かったでしょう」

 

 信奈はやさしく頷き、少しだけ目を細める。

 

「……わたしがノブナさまにお伝えしたかったことは、伝えられました。これで、この国から追放されても……悔いはありません」

 

「何を言っているの、フロイス。あんたにはキリシタンの教えを広めるという使命があるんでしょう?」

 

「え……? でも、ノブナさま……?」

 

 信奈は真っすぐフロイスを見据え、その声音を力強くした。

 

「誰がどんな神仏を信じようと――その者の自由よ。

 わたしのような武家が現世のまつりごとを為すだけでは、民の命は守れても、心までは救えないもの。

 わたしが許さないのは、民の信仰心を利用して戦を仕掛けたり、私腹を肥やそうとする生臭坊主どもなの。……あんたはそうじゃないでしょ、フロイス?」

 

 フロイスは、自分の耳を疑った。

 目の前の少女大名は、他国の神を排斥するどころか、その布教すら許し、支援すると言い切ったのだ。

 

「あんたの神の教えが、この国を滅ぼす元凶になどならないという、断固たる信念があるのなら――

 この国をより良くできると、本気で信じるのなら――遠慮せずに、いくらでも広めなさい!

 資金が足りないのなら、わたしが出すから!」

 

 その言葉を吐き終えると同時に、信奈は椅子から颯爽と立ち上がった。

 裾を翻し、陽光の中へ歩み出る。

 馬のたてがみを一撫でして軽やかに鞍に跨がると、手綱を握り、振り返ることなく走り出した。

 

 朝の日輪はすでに高く昇り、その背を黄金色に染め上げる。

 

その後ろを、静かに――しかし確かな足取りで、刃が歩み去っていく。

銀色の髪が、朝の風をはらんで揺れた。

 

 フロイスは、その姿を見送るうちに――一瞬、錯覚を覚えた。

 この極東の島国に、神が人の肉を得て降臨したのではないかと。

 まだうら若き乙女でありながら、戦乱の続くジパングの民を救うために生まれてきた女王。

 いや。もしかしたら、ジパングだけではなく……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「な、な、な……杉谷善住坊も松永弾正も、揃って織田信奈を討ち損じたのでおじゃるかっ!? 信じられぬでおじゃる! なんと……よりにもよって、畿内のキリシタンどもが信奈を救ったとなっ!?」

 

 やまと御所──朝の静寂を切り裂くような、関白・近衛前久の絶叫が大広間に響き渡った。

 その白粉の下の面は驚愕に引きつり、まるで能面が割れかけたように眉と口角が震えている。

 

 信奈が擁立した今川義元への将軍宣下。

 それを阻むため、前久は権勢を笠に着て「十二万貫文の奉納金を納めよ」という無理難題を突きつけた。

 一週間という期限──それは、彼にとっては余裕の猶予であり、信奈にとっては不可能を突きつける処刑宣告のはずだった。

 

 だが、それが甘さだった。

 まさか本当に、信奈がこの難題を解決してしまうとは。

 

 しかも、そのわずかな間に立て続けに天下を揺るがす大事が起こった。

 武田信玄と上杉謙信の休戦により川中島戦が突如終結、東国情勢が激変。

 甲賀の暗殺者・杉谷善住坊による信奈暗殺未遂事件。

 さらに松永久秀が清水寺を急襲するという乱心じみた策動。

 常人であれば一つでも命を落とすような試練が、三つも四つも牙を剥いたのである。

 

 にもかかわらず──信奈とその家臣団は、全てを乗り越えてみせた。

 

(おのれ、織田信奈……麻呂がこれほど精密に陰謀の蜘蛛の糸を張り巡らせたというのに……やはり、すべては“天の白刃”が邪魔でおじゃる)

 

 そう──全ての発端も糸の端も、この近衛前久の手の内にあった。

 上杉謙信を川中島から撤兵させ、武田信玄を対上杉戦から解放したのも。

 暗殺者・杉谷善住坊を堺へ送り込み、津田宗及を動かして松永久秀に謀反をそそのかしたのも。

 すべては、信奈の野望を阻止すべく、この男が二重三重に張り巡らせた罠であった。

 

 だが結果は、全て空振り。

 もはや彼に信奈へ抵抗する大義名分は残されていない。

 

 そしてこの日──信奈は、堂々とやまと御所の正門をくぐった。

 御所側には関白・近衛前久、太政大臣、そして御簾の奥には気配を消しながらも、あの“姫巫女”が鎮座している。

 広間の空気は、張り詰めた刀の刃先のように冷たく硬い。

 

 信奈はこれ以上ないという正装で現れた。その姿は、あの美濃での道三との会見以来、再び天下を射抜く舞台に上がった女傑のそれ。

 

 背後には、今や日ノ本で知らぬ者はない“天の白刃”・天城刃が控えていた。

 見事な着物を着こなし、公家風の冠を戴き、紅い瞳は波一つない湖面のように静かで冷ややか。

 

 その隣には配下の明智光秀、そして──何を血迷ったか、氏素性も怪しい相良良晴までが参列している。

 頭に冠を載せ、ちんちくりんな着物を着せられた良晴は、広間の格式など意に介さぬ口ぶりでぼやく。

「似合わねえ……これじゃ本当に猿回しのサルだな、俺……」

 

 「織田弾正大弼信奈、参内つかまつりました!」

 信奈の凛とした声が大広間を満たす。

 

 四人は御簾の正面に正座し、深々と一礼。

 信奈、刃、光秀は所作も完璧だが、良晴は見よう見まねでぎこちなく頭を下げる。

(うわ……急に手汗が……!)

 剛胆で脳天気な良晴ですら、この御簾の奥に座す姫巫女の威光に背筋が冷たくなる。

(俺の時代で言うところの……ヤバすぎる超大物……? ここでヘマしたら切腹コース確定じゃねぇか!?)

 

 案の定、近衛前久は蒼白になり、震える声を漏らした。

「このような者を姫巫女さまの御前に……ああ、世も末でおじゃる……!」

 

 本来ならば、刃も光秀も良晴も姫巫女の御前に出るには、それ相応の官位が必要。

 ゆえに信奈は周到に根回しを済ませていた。

 刃には「尾張守」、光秀には「惟任日向守」という新たな姓と官位、そして良晴にすら「筑前守」という官位を授けさせていたのである。

 

 だが、三人の主君たる信奈自身──かねてより名乗っていた「上総介」は、実のところ単なる自称に過ぎず、この日の土壇場まで無位無冠だったのである。

 これがまた、近衛前久にとっては許しがたい非礼。公家の格式を何より重んじる彼にとって、武家の女大名が無位無冠のまま参内するなど暴挙も甚だしい。

 

 まさか、このままでは姫巫女の御前に出すわけにもいかぬ──。

 結局、腹の底で(なぜ麻呂がこんな屈辱を……)と泣きながら、前久は大慌てで信奈に「正四位下・弾正大弼」という高位の官位を与える羽目となった。

 

 だというのに、当の信奈は、授与された官位を一瞥して鼻で笑った。

「弾正って言えば松永久秀じゃない。ややこしくなっちゃうわ。いやねえ……」

 全く喜ぶ様子も見せない態度に、前久は怒り心頭。眉間に青筋を浮かべながら、舌を噛みそうになるのをこらえていた。

 

 ともあれ、今川義元への将軍宣下の時は刻一刻と迫っている。

 関白・近衛前久は「こほん」と大きく咳払いし、渋々ながらも信奈にお褒めの言葉をかけようと口を開いた、その瞬間──。

 

「おだだんじょう。たいぎであった」

 

 御簾の向こうから、鈴を転がすような幼い声が響いた。

 姫巫女──。まだ年端もいかぬであろう少女の、たどたどしいながらも理知の光を帯びた涼やかな声だった。

 場にいた公家たちが一斉に息を呑み、畳を擦る衣擦れの音すら消える。

 

「ひ、姫巫女さま! ならぬでおじゃる! この場はこの関白、近衛前久が──」

 

「なぜじゃ、このえ」

 

 御簾越しに返された短い問いかけが、前久の声を封じた。

 

「これらの者は、つい先日まで血に塗れ、戦をしておった者ども! 姫巫女さまのお体が穢れまするでおじゃる!」

 

「このえ、だまっておれ。ちんは、おだだんじょうとはなしがしたい」

 

 ぴしゃりとしたその一言に、前久は口をつぐむしかなかった。

 今まで従順で、麻呂の意向を素直に受け入れてきた姫巫女が、なぜ急にこんな……?

 困惑と動揺が胸の内で渦を巻く。

 

 御簾を隔て、姫巫女と信奈が言葉を交わし始める。

 

「おだだんじょうのはたらきは、ぶけのほまれ。せいいたいしょうぐんに、にんずる」

 

「いえ。将軍職は、二条城で宣下を待ちわびている今川義元に」

 

 前久は心の中で(そうでおじゃる、姫巫女さまはただ勘違いしておられるだけ──ここは黙ってうなずけばよいのだ)と必死に念じる。

 

 しかし、次に発せられた姫巫女の言葉は、彼の想定を軽々と飛び越えた。

 

「〝おうにんのらん〟いらい──すでに、あしかがけには、しょうぐんとしてのちからはない。いまがわけもおなじこと。おだだんじょう。これからはそなたが、このくにをおさめよ」

 

「姫巫女さまっ!? なんということを仰せでおじゃるか────っ!?」

 

 前久は胸を押さえ、はあはあ、ぜえぜえと息を荒げた。

 

「織田信奈は平氏でおじゃるっ! 征夷大将軍には、源氏の血筋しかなれぬという決まりをお忘れでおじゃるかっ!?」

 

「そうか、このえ。ならば、おだだんじょうよ。かんぱくとなって、このくにを──」

 

「ひいいいっ! 関白はこの近衛前久でおじゃるーっ! そもそも藤原氏でなければ関白にはなれぬでおじゃる──っ!!」

 

「では、だいじょうだいじんとして、このくにを──。へいしならば、だいじょうだいじんになれるであろう。たいらのきよもりが、そうであった」

 

「このような南蛮かぶれのうつけが、太政大臣などもってのほかでおじゃるーーっ!」

 前久は声を張り上げ、袖をばたつかせながら必死に抗議する。

 

 そんな彼をよそに、御簾の奥から新たな名が告げられた。

 

「では、あまぎはやて。そなたが、せいいたいしょうぐんとして、このくにをおさめよ」

 

 ――その言葉が放たれた瞬間、広間の空気は音もなく凍りついた。

 襖の向こうで鳴く鳥の声すら消えたかのように、全ての音が奪われる。

 

 その場にいた誰もが、声を失う。

 信奈、光秀、良晴、近衛前久──

 誰ひとりとして、すぐには言葉を返せなかった。

 姫巫女の発した意味を頭で理解しようとするほど、心臓は速く打ち、呼吸は浅くなる。

 

「ひ、姫巫女さま!」

 張り裂けんばかりの声を上げたのは近衛前久だ。

 青ざめた顔に脂汗を浮かべ、着物の袖を震わせながら、まるで悪夢を振り払うかのように叫んだ。

「先ほども申し上げましたが、征夷大将軍には源氏の血筋しかなれぬという決まりがあるでごじゃる!」

 

 御簾の奥から返ってきたのは、凛として澄んだ声。

「そんなもの、なくしてしまえ」

 

 その一言は、威厳ある王命のごとき響きで広間を貫く。

 

「あまぎはやては、はおう。てんがのぞみ、だいちがおそれる──うまれながらのぜったいしゃ。おうのなかのおう」

 御簾の向こうの声はなおも続く。

「……しかし、そのほんしつは、しゅご。はかいではなく、まもるためのやいば」

 

 その声音は不思議なほど清らかで、同時に背筋を粟立たせるほど重い。

 言葉の一つひとつが、畳に染み入り、空気そのものを震わせる。

 

「ずっとずっと、とおきところより、きたりしもの。てんが、このくにのたみのなげきをききいれ、つかわされたもの」

 

「ま、ま、まさか姫巫女さま……この死神に触られたのでおじゃるかっ!?」

 前久が悲鳴に近い声を上げる。

 

「どういうことよ、近衛?」

 信奈が鋭く問い詰めると、前久はうろたえながらも説明を口にした。

 

「初代の姫巫女さまは、相手の目を見るだけで、その者の心のすべてを読み取ったと伝わっておりまする。その霊力は時代とともに弱まっていったでおじゃるが、今上の姫巫女さまにもなおその力が……。相手に触れれば、その心の底まで読み取れるのでおじゃる!」

 

「……なるほど。それであんたたちは、姫巫女さまを御所に押し込め、誰にも触れさせずにきたってわけね。その上、自分たちでさえ触れられぬよう、御簾の向こうに隠して……」

 信奈の声は低く、鋭い棘を含んでいた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 良晴が慌てて口を挟む。

「姫巫女さまが刃に接触する機会なんて──」

 

 そして気づく。

(……あの時か!?)

 御所の警備中、刃がアイコンタクトで意思疎通し、抱き上げていたあの少女──あれが……!

 背筋に冷たい汗がつっと伝った。

 

「あまぎはやて──ひきうけてくれるか?ちんは、うつしよのまつりごとを、そなたにゆだねたい。しょうぐんとして、ちんのごえいとして、そばに、いてはくれぬか」

 

それは“勅命”ではない。

それは──巫女としてではなく、一人の少女としての、切なる願いだった。

 その瞬間、視線が一斉に刃へと注がれる。

 紅い瞳の剣士は、御簾の奥を静かに見据え、ひと呼吸置いてから口を開いた。

 

「姫巫女さま──私の心を読んだのなら、答えはすでにお分かりでしょう」

 低く、よく通る声。

「私は姫様──織田信奈を主に選びました。私の剣を振るうに値する者として」

 

 その言葉に、信奈のまなじりがわずかに震える。

 

「姫巫女さまからのご提案は、大変魅力的です。しかし……」

 刃はゆっくりと頭を垂れ、静かに続けた。

「姫様が私を手放さぬ限り、私が姫様のもとを去ることはありません」

 

 広間に沈黙が落ちる。

 信奈の胸中には熱いものがこみ上げ、光秀はその背に尊敬の眼差しを向け、良晴は小さく息を吐き安堵する。

 ただ一人、近衛前久だけが、額を押さえて天を仰いでいた。

 

 

 

『姫様が私を手放さぬ限り、私が姫様のもとを去ることはありません』

 

 ──その瞬間、信奈の心臓が、鋭い音を立てて跳ねた。

 鼓動が胸の奥から波のように広がり、指先の先まで熱を運んでいく。

 

(……やっぱり、刃は……私のものよ)

 

 全身を駆け巡った熱が、じんわりと誇らしさに変わる。

 

 姫巫女さま──この国で最も神聖で、最も権威ある存在が直々に呼びかけ、望んだ。姫巫女さまの護衛という栄誉と、征夷大将軍として、この国を治めるという絶対の座を差し出してなお……刃は迷わず、私を選んだ。

たとえ王座よりも、天下よりも、私の傍を選ぶ──そんな存在、どこにいるというのか。

 

 その事実が、胸を焼くような喜びをもたらす。

 けれど同時に、ほんの一瞬、冷たい影が胸をかすめた。

(ふん……魅力的、なんて言ってくれちゃって。危うく連れて行かれるかと思ったじゃない)

御簾の奥の姫巫女の声は清らかで、抗いがたい力があった。

 もし刃が……あの紅い瞳で「はい」と答えてしまったら──そう想像した途端、胸の奥が鋭く締め付けられた。

 だが、その不安は一言で吹き飛ばされた。

 私を選ぶ、それも揺るぎなく。

 あの人らしい、不器用なほど真っ直ぐな宣言で。

 

 思えば、初めて会ったときからずっとそうだった。

 危険を承知で、私のために立ち、私のために斬り、私のために傷を負う。

 そのたびに私の中で、恋人としての想いと、主君としての誇りが、絡まり合うように強くなっていった。

 

(……覚えておきなさい、刃。あんたが選んだのは、天下一の女であり、天下一の主君なんだから)

 

 広間の空気はまだ張り詰めている。

 だが信奈は、表情一つ動かさず、ほんのわずかに顎を上げると、御簾の奥の姫巫女へとまっすぐ視線を向けた。

 その瞳には、勝者の誇りと、恋人の独占欲が同じ炎の色で燃えている。

 その視線は、まるで「この男は渡さない」と無言で告げているようだった。

 

 

 

「……よい。それでこそ、はおう」

 

 御簾の奥から落ちてきたその声は、深く澄んでいて、静かな温もりとどこか諦観の匂いを含んでいる。

 

 刃は、そこに宿る感情を敏感に察したのか、静かに口を開いた。

「しかし──もし姫巫女さまに危機が迫り」

 紅い瞳が、御簾の奥をまっすぐに射抜く。

「私が必要な時は、いつでもお呼びください。どこにいようが駆けつけ、御身を必ずお守りします」

 

 ――す、と。

 御簾の奥で、確かに息を呑む気配があった。

 微かだが、広間にいた全員がその音を聞き取った。

 

「なあ、刃? なんで口説くの? 今そんな空気じゃないんだけど?」

 良晴が口を挟む。

 

「口説いてなどいない」

 刃は即座に否定するが、その表情は変わらない。

 

「いやいやいやいや!」

 良晴は大げさに腕を振り、声を張り上げた。

「“どこにいても駆けつけます”って……それ、ほぼプロポーズだろ!?」

 

「ちょ、ちょっとサル!? 刃が姫巫女さまにプロポーズだなんて、何言ってんのよ──!」

 信奈が食ってかかるが、良晴はさらに畳み掛ける。

 

「いやいや、ねぇ!? 今のやりとり、みんな聞いてたよな!?

 あの言葉、女の子が言われたいセリフランキングで間違いなく上位だって!『必要なときはいつでも駆けつけます』なんて、言い方次第じゃ“生涯の伴侶になります”ってことだぞ!?」

 

 信奈のこめかみに青筋が浮かび、光秀は視線を逸らし、場の空気が微妙にざわつく。

 しかし刃は、ただ冷ややかに良晴を見やり、短く告げた。

 

「そんなわけあるか。良晴、姫巫女さまに失礼だろ」

 

 その瞬間だった。

 

「……ちんは、あまぎはやてならば……かまわぬ」

 

 ――空気が、一瞬で凍りつく。

 全員の呼吸が止まり、広間の温度が数度下がったかのようだった。

 

「え……?」

 良晴の間の抜けた声が、氷のような沈黙に小さく響く。

 

 姫巫女の声は、さらに澄み渡る。

「ぶりょく、ちりゃく、しんねん……すべてをそなえ、たいせつのためなら、せかいすら、てきにまわす、かくごもある。

 さきもいったが、あまぎはやては、てんにのぞまれ、うまれたぜったいしゃ。そんなおとこを、ほうっておくほうが、どうかしている。

 このひのもとに、あまぎはやていじょうの、おうはおらぬ」

 

「姫巫女さま! 何を言っているでおじゃる!? こんな死神、だめに決まってるでおじゃる!!」

 近衛前久が袖を振り乱し、半ば悲鳴のような声を上げる。

 

「そ、そうよ!! 刃はわたしや犬千代たちの恋人なんだから!!」

 信奈の声が鋭く響き渡る。その瞳は怒りと焦り、そして剥き出しの独占欲でぎらついていた。

 

「おい刃! 相手はまだ幼女だからな!? 本気にするなよ!?」

 良晴が慌てて口を挟むが、その直後──

 

「このえと、おだだんじょう、さがらよしはるは……ちんに、おんなとしてのしあわせを、ゆるさぬというのか?」

 

 その問いかけは、幼い声音でありながらも、あまりに真剣だった。

 あどけなさの奥に潜む深い孤独と切実さが、広間の全員の胸を突き刺す。

 

「――――っ!!」

 

 全員が一斉に息を呑み、言葉を失った。

御所の広間は、ただ一人の“少女の問い”によって完全に支配されていた。

 

「姫巫女さま、話が逸れています」

刃はあくまで穏やかな声で、しかし場の流れを正す冷ややかな鋭さを帯びて告げた。

「今は私のことではなく、将軍についてです」

 

 御簾の奥で、微かな衣擦れの音。数拍の沈黙ののち、姫巫女の澄んだ声が響いた。

 

「──いまがわよしもとを、しょうぐんに」

 その宣告は迷いなく、広間の隅々まで透き通る。

「ばてれんの、みやこでのふきょうを、みとめる。また、ごしょのしゅうりには、じゅうにまんかんもんもいらぬ。にまんかんもんを、ごしょのしゅうりひにあてる。のこり、じゅうまんかんもんは、おだだんじょうにかえす。てんかへいていのしごとに、つかうように」

 

「有り難き、幸せ」

 信奈は深く頭を垂れ、その言葉を胸の奥で固く刻みつけた。

 まさしく怪我の功名。この潤沢な軍資金があれば、畿内の平定は一気に現実味を帯びる。

 良晴は安堵の息を漏らし、胸をなで下ろしていた。

 

「おだだんじょうは、いまがわばくふの、ふくしょうぐんか、かんれいとなるよう」

 

 だが信奈は即座に顔を上げ、きっぱりと首を横に振る。

「それはご遠慮願います。わたしが望むものは──〝自由〟です」

 

「じゆう……みみなれぬ、ことば」

 姫巫女の声がわずかに揺れた。御簾越しのその奥に、興味と探求の光が宿るのが感じられる。

 

「この国の人々から、生まれながらに決められ、生涯縛りつけられる身分というものをなくしたいのです」

 信奈は一語一語、押し出すように言葉を紡いだ。

「己の立場は、己自身の努力と才覚によってつかみ取るべきもの!

 むろん人間には、自らの役割があります。姫巫女さまには、姫巫女さまにしかなせない神事を司る才がある。

 しかし、役割や才能と、身分の貴賤は別です。人に、生まれながらの貴賤などありません」

 

 その声は、広間の空気を押し広げるように熱を帯びていく。

「わたしは──自分自身の生き様によって、そのことを天下に知らしめたいのです!」

 

「おおおおお……身分を、血筋を認めぬだと……!?」

 前久が顔面蒼白となり、着物の袖を握りしめる。

「いずれは姫巫女さまをも滅ぼすつもりか、この謀反人め……!」

 半ば卒倒しかけたように腰を引きながら呻くが、信奈も姫巫女も、その悲鳴をまるで耳に入れていない。

 

 御簾越しに、二人の視線がぶつかり合う。

 そこにあるのは敵意ではなく、鋭く研ぎ澄まされた意志と意志のぶつかり合い──互いの魂を探るような眼差しだった。

 

「よくわかった、おだだんじょう」

 姫巫女の声が、少しだけ柔らかくなる。

「だがなぜ、このくにから〝みぶん〟をなくしたいとおもうのか?」

 

 信奈の頬に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

 その瞳は、雲間から顔を覗かせた太陽のように、眩しく、そして力強く輝いている。

 御所の広間にいる誰もが、その光を直視した瞬間、息を呑んだ。

 

「──わたし自身の、夢のために!」

 

 その一言は、剣の一閃のように真っ直ぐで、揺るぎなかった。

 御簾の奥で、姫巫女はわずかに瞼を伏せ、小さく吐息を漏らす。

 

「……ちんも、いのろう。そなたたちのゆめが、かなうことを」

 

 その声には、神子としての静謐と、一人の少女としての温もりが混ざり合っていた。

 それが消えてもなお、広間はしばし、時を忘れたように静まり返っていた。

 

 

 

 

 

 

「兄さま! 京での留守番中、女遊びは厳禁ですぞ! このねねが見張りますぞ!」

 

 朝の座敷に響いたねねの張りのある声に、良晴は畳の上でごろりと寝返りを打ち、面倒くさそうに片目を開けた。

「……なんでお前が京にいるんだよ……」

 呻くような声でそう返すが、ねねは腰に手を当て、胸を張って言い放つ。

 

「姫さまから兄さまのお目付役を仰せつかっていますぞ。だから兄さまは逃げられませんぞ」

 

 どこ吹く風といった調子だ。

 ここ、京の仮住まい──妙覚寺は、かつて斎藤道三が子供の頃に修行していたという由緒ある寺で、その縁もあって上洛した信奈一行に何かと便宜を図ってくれる。

 

 良晴は、織田の全軍を率いて若狭攻めに出陣した信奈から京の留守居役を命じられ、この寺で久しぶりに骨を休めていた。もっとも、彼にとって「京の留守番」という響きは、やや気の抜けたものに感じられたが。

 

「こほ、こほ……ご心配をおかけして、申し訳ありません」

 布団の上からか細い声がした。竹中半兵衛である。清水寺での合戦中に無理を押して働いたせいか、熱を出して倒れ、それ以来ずっと床に伏せっていた。

 

 信奈は若狭攻めの際、「すぐに片付くから、あんたは半兵衛を看てなさい」と良晴に言い残し、美濃尾張の守りを義父・斎藤道三に任せ、自らは天城刃・柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀・松平元康・前田犬千代、そして松永久秀という豪華な顔ぶれを引き連れて北の若狭方面へ出陣していったのだ。

 

 今川義元が正式に征夷大将軍に任じられ、足利幕府を直接継承する形で「今川幕府」が京の二条城に発足してから約一カ月。

 諸国の大名からは今川幕府──正確には義元を擁する信奈──への祝賀の使者が続々と訪れていた。特に京からほど近い畿内の諸将は、この機会に使者を送らねば信奈に討伐されても文句を言えぬ立場に追い込まれていた。

 

 だが、越前の大名・朝倉義景と、その隣国・若狭の武田元明だけは頑として使者を寄越さなかった。

 信奈はその態度に冷ややかな笑みを浮かべ、「若狭を攻める」と称して三万もの大軍を動員し、堂々と出陣したのである。

 

「しかし、どうして俺が留守番役──京都所司代なんかをやらなきゃならねえんだよ」

 良晴が天井を仰ぎながらぼやく。

「俺は格式張った公家衆なんかとつきあえねえぜ。こういうのは十兵衛の仕事だろうが」

 

「くすっ。良晴さんの京都所司代役は、あくまで一時的な任務です」

 半兵衛が布団の上から穏やかに笑う。

「光秀さんが戻り次第、お役交代となりますよ」

 

「だといいけどなあ」

 良晴は頬をかきながら答える。

 

「光秀さんは今回、道案内役を務めるそうです。越前朝倉家の食客をしていた経験もある人ですから、越前・若狭の地理にも通じているんですよ」

 半兵衛が補足する。

 

「マジかよ。ほんとに、なんでもできる奴だな……俺も、うかうかしちゃいられねえ」

 良晴が感心混じりに呟くと、ねねがすかさず笑顔で割り込んだ。

 

「兄さまは桶狭間以来、一日も休まずに働き通し。たまには息抜きさせてあげようと姫さまはおぼしめしなのですぞ」

 

「相良氏はあちこち怪我しているでござる。いい骨休めでござる」

 畳の上に寝そべった五右衛門が、顎だけ動かして相槌を打つ。いつもは天井裏に潜んでいる彼女が、こうして畳に伸びている姿は確かに珍しい。

 

 良晴はその様子を横目で見ながら、ぼそりと漏らす。

「働き通しなのは刃もだけどな。てか、俺よりあいつの方がよっぽど動いてるだろ……」

 

「刃さんは信奈さまの懐刀ですからね」

 半兵衛が微笑を浮かべながら言う。

 

「懐刀って、そんなブラックな職場なんだな……しかし半兵衛ちゃん、体のほうは大丈夫なのか? 清水寺で急に倒れちまって、なかなか回復しねえ。心配だぜ」

 

「はい。これから名医の曲直瀬道三先生に診ていただきますので、数日中には起きられます」

 

「……道三?」

 良晴は首をかしげる。清水寺では確か“ベルショール”とか名乗ってなかったか──と思っていると、奥から聞き覚えのある老人の笑い声が近づいてきた。

 

「ふぉっふぉっふぉっ。はいはい。診てさしあげますぞい」

 

 現れたのは「神医」曲直瀬ベルショール道三。

 白く長い髭と腰まで伸びた白髪が顔の半分を覆い、その下の口元が妙に愉快そうに歪んでいる。全身は清潔な白い道服に包まれ、年齢は六十をとうに超えているはずなのに背筋はぴんと伸び、血色も異様に良い。まるで仙人と怪僧の中間のような風貌だった。

 

「わしこそが、先の将軍・足利義輝公のお抱え医を務めた神医・曲直瀬道三。昨年、フロイスちゃんのお体を診察した折に洗礼を受けてキリシタンになってのう。わが洗礼名は、ベルショールぢゃよ」

 

「爺さん、えらく若いな」

 良晴が眉をひそめると、道三は得意げに胸を張った。

「養生法を心得ておるのでな。わしゃ百まで生きるよ」

 

「養生法?」

「ふぉっふぉっふぉ。掌を生娘の素肌に当ててな、〝悶気〟を吸い取るのじゃよ……おっと、今のは秘中の秘であった」

 

(あやしい……めちゃくちゃあやしい……)

 良晴は内心で呟くが、当の半兵衛は全く疑っていない。

「先生は、いぢめませんから」

 初対面の男には必ず式神を飛ばしたり小刀を投げたりして様子を見る半兵衛が、こんなにも警戒心を解くのは異例だった。さすがは日ノ本一と謳われる神医である。

 

「ふぉっふぉっふぉ。めんこい子じゃのう……ここか。ここが痛いんか」

 道三は眼を細めて半兵衛の枕元に腰を下ろすと、唐突に「えいやっ」と半兵衛の寝間着を肩からひんむき、枯れた手であんなところやこんなところを遠慮なく触りはじめた。

 

 その瞬間、良晴の視界に飛び込んできたのは──白磁のような肌と、儚げに隆起した愛らしい胸元。

「……っ!」

 反射的に顔を背けようとしたが遅く、脳に焼き付いた光景と同時に鼻から盛大に赤い液体が噴き出した。

 

「きゃああああっ! ま、曲直瀬先生っ!?」

 半兵衛が布団をかき寄せ、涙声で抗議する。

 

「ふぉっふぉっふぉっ……これはただの診察じゃ。よいぞ、よいぞ……めんこいのう、めんこいのう」

 枯れ木のような指が、容赦なくあんなところやこんなところをなぞる。

 

「は、刃さん!! 助け──あ、いないんでしたぁぁ!!」

 半兵衛が泣きそうな声で叫ぶ。その言葉が良晴の頭を一気に沸騰させた。

 

「やいやい、この変態ジジイ!」

 良晴が床を蹴って飛びかかる。

 

「これこれ、何をする。男の肌と触れおうても〝悶気〟は得られぬて……ふぉっふぉっふぉっ」

 

 ゴンッ!!

 遠慮の欠片もない拳が、老人の後頭部に炸裂した。

 

「ひいいいっ! 命ばかりはお助け──お助けぇ!」

 道三は情けない悲鳴を上げ、両手をばたつかせて必死に命乞いする。

 

「やめるでござる、ちゃがらうじ!」

 五右衛門が慌てて割って入り、良晴の腕を押さえる。

 

「兄さま、このお方は神医さまですぞ!」

 ねねも必死で良晴の背中にしがみつく。

 

「そうじゃとも! 決していやらしいことをしようとしたのではない!」

 道三は片手を上げ、必死に釈明を続ける。

「患者を裸にするのは熱気を冷ますため。患者の肌に触れるのは……ええと、その……南蛮風の触診というものじゃ!」

 

「ふざけんな!! 俺はな! 刃から、あいつが帰ってくるまで半兵衛ちゃんのこと任されてるんだよ!!」

 

 その叫びは怒号というより、ほとんど絶叫に近かった。怒りというより“恐怖”に支配された声。

 両の拳は固く握られ、震えが止まらない。

 

「ただでさえ、半兵衛ちゃんが倒れたことで、アイツは限界ギリギリなんだぞ!!」

 吐く息が熱い。額から汗が玉のように滴り落ち、畳に黒い染みを作っていく。

「心配で夜も眠れてねぇんだ! 夜は隣で付きっきりで、何度も熱を確かめて……そんな状態で信奈の懐刀として戦に行ってんだぞ!」

 

 良晴の声は、段々と早口になり、息継ぎも荒くなる。

「……もし、もしもだ……その間に、半兵衛ちゃんの身に、何かあったら……」

 

 次の言葉を吐き出すとき、拳がさらに震えた。

「──俺が刃に殺される!!!」

 

 その場の空気が、ぴたりと凍り付く。

 ねねも五右衛門も神医も、思わず背筋を正し、誰もが心の奥で“その光景”を想像してしまった。

 

 紅い瞳が無表情のまま自分に向けられる──そんな幻覚が、一瞬、全員の脳裏をよぎる。

 

 神医は口をぱくぱくさせながら何か言おうとするが、喉がからからで言葉が出ない。

 良晴は肩で息をしながら、怒りと恐怖の入り混じった目でその老医を睨み据えた。

 

「おまえもだよ、変態ジジイ。おまえも殺される。冗談抜きで」

 

 その声には一切の冗談が含まれていなかった。

 

「半兵衛ちゃんはな、刃の恋人の一人なんだよ!! “手を出したやつは殺す”──刃の中ではそれが常識なんだぞ!? 弁明の余地なんて、一切ない!! あいつは信奈、犬千代、長秀さん、半兵衛ちゃん──この四人の恋人には特に過保護なんだ!!」

 良晴は畳を叩き、身を乗り出す。

「四人のためなら世界を敵に回しても良いって、ガチで思ってるんだぞ!!」

 

「そ、そそそんな滅相もない……わ、わしはその、南蛮の……学術的に……」

「学術的な変態はもっと悪質だ!!」

 

 怒鳴られた神医は、「ひぃっ!」と悲鳴を上げ、正座のまま土下座に崩れ落ちた。

 

「あいつの中じゃ、“その四人に手を出すやつの命”なんて、石ころ以下だ!!」

 良晴の言葉がさらに重く、熱を帯びる。

「しかも今回は“未遂とはいえ性的に手を出した”って話になるんだぞ!? ひん剥いた! 見た! 肌にさわさわ──なんて、刃の耳に入ったら……」

 

 良晴の顔色が、さっきまでの紅潮から一転、真っ青に変わる。

「終わった……マジで何されるかわからん……あいつ、普段は冷静で無口だけど、ああいう時だけは異常なくらい“感情的”になる。自分でも抑えられないんだ……」

 

 額の汗が止まらない。

「こっちは止めたんだ! 止めたから殺されはしないと思うけど……よくて──よくて、あの地獄の稽古だ!!」

 

「……地……獄……の……?」

 神医の顔が引きつり、青ざめていく。

 

「あの人外から刀か体術で一本取るまで終わらない拷問だぞ!! 戦国最強の剣士から一本なんて、俺が取れるわけないんだよ!? 実質死刑宣告だぞ!?」

 

 良晴は半兵衛に這い寄り、額を畳にこすりつけるように深く下げた。

「半兵衛ちゃん! 頼むからっ! 刃が帰ってきたら弁明してくれ!! 俺は止めたって! ちゃんと、止めようとしたって!!」

 

「……弁明をって言われましても、良晴さん」

 半兵衛は上目遣いでじっと見つめる。

「わたしの肌、見ましたよね? 鼻血、出してましたし」

 

「ち、ち、違うんだ半兵衛ちゃん! あれは不可抗力で! 事故で! その……汗が! いや、布団が滑って──」

 

「兄さま、頑張るですぞ!」

 ねねがにこにこしながら背中をバンバン叩く。

 

「相良氏、強く生きるでござる」

 五右衛門は肩をすくめつつも、

「天城氏には拙者からしぇつめいをしゅるでごじゃる」と口にする。

 

そして。

 

「……刃さん以外の男の人に、肌を見られて……触られるなんて……くすん、くすん……わたし、捨てられるかも……。軽い女は要らない、って、そう言って、見限られちゃうかも……」

 

ぽたっ、畳に落ちる涙。

その言葉は、冗談やからかいではなく、純粋な不安の吐露だった。

良晴の背筋に冷たいものが走り、心臓がどくんと大きく跳ねる。

 

「……だ、大丈夫だ!!刃は、刃はそんなやつじゃない!! お前をそんなくだらねぇ理由で嫌うような奴じゃない!誰よりも優しい!!誰よりも半兵衛ちゃんを大事にしてる!!」

 

その必死さに、部屋の空気が一瞬静まり返った。

 半兵衛は、潤んだ瞳でじっと良晴を見上げる。長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。

 

「……なら、良いのですが」

 

 涙を拭い、半兵衛はようやく布団の中で体を落ち着けた。ねねが「よかったですぞ」と微笑み、五右衛門も安堵の吐息を漏らす。

 

 その空気の隙を突くように、ベルショールが白い髭を撫でながらずい、と前に出た。

「ふぉっふぉっふぉ……では、診察を続けるとしようかの」

 懐から取り出した小瓶の蓋を、年寄りとは思えぬ器用さで開ける。途端に、南蛮渡来らしい薬草の独特な香りがふわりと漂った。

 

「こちらが漢方の薬、こちらは南蛮の薬じゃよ。じゃが半兵衛ちゃんは虚弱体質というやつでの。この病には栄養を付けるのが一番、これからは進んで肉を喰うことじゃな」

 

「お肉ですか……生臭くて苦手です。獣さんを殺すのはかわいそうですし……くすん」

 半兵衛は枕に頬を押し付け、眉を寄せて小さく肩を震わせる。

 

「やれやれ。仏教がこの国に入ってきてからというもの、御所の公家どもはみだりに獣を殺生してはならんと言い出し、民の肉食を禁じおった。そのせいで人間の寿命が短くなってしもうたのじゃよ。かつてこの国では、誰もが鹿や猪や狸を喰うておったというのにのう」

 ベルショールは、長い白髭を撫でながら嘆息する。

 

「そうなのでしょうか、良晴さん?」

 半兵衛が顔を上げ、視線を送ってくる。

 

「ああ。俺の時代の日本人は、ほとんどが肉食だ。戦争がないから男が長生きできるってのもあるし、公衆衛生が発達して赤ん坊が死ぬ確率も減った。でも一番は……栄養が変わったことだろうな。男女とも平均寿命は戦国時代の倍近くに伸びてるし、体も大きくなった。女の子のおっぱいもでかくなった」

 

「そうなんですか……胸が大きく……」

 半兵衛は小さく呟き、自分の胸元をちらりとのぞき込む。すると、めずらしく目を吊り上げた。

「た、食べます! でも、栗鼠さんや猫さんは無理です、ダメです」

 

「あーいや。未来の食肉といえば、牛と豚と鶏だな。栗鼠や猫なんてさすがに喰わねえよ」

 

「ふぉっふぉっふぉっ。いかん、いかん。幼い女の子の胸はつるぺたがよいぞ、よいぞ。やっぱり肉食禁止じゃ半兵衛ちゃん」

 

「うるせえよロリコンジジイ!」

 良晴が即座に突っ込みを入れる。

 

「して良晴どの。そなた、未来人というのは本当かの?」

 南蛮好きのベルショールは、今度は目を細め、良晴に興味を向けてきた。

 

「おう。約四百年先の日本から来た。刃もな。あんまり言いふらすなよ」

 

「なるほど……破格の出世の裏には、そのような秘密があったとはの」

 ベルショールの声には感心と同時に、探るような響きが混じる。

「未来の武人はみな天城どののように強いのかの?」

 

「そんなわけあるか! あいつが異常なんだよ!」

 

「そうか……して、未来の医術には詳しいかの?」

 

「刃はどうだか知らんが……俺は……とても医学部に行けるような成績じゃなかったな。ま、まだ高校生だったし……せいぜい英語を多少たしなんだくらいかな」

 

「ほう、英語とは?」

「イングランド語のことだ。今は南蛮といえばイスパニアとポルトガルだが、もうすぐイングランドとオランダが強くなる」

 

「なるほど……しかし、あまり未来の話を他言せぬほうがよいぞ、よいぞ」

 ベルショールが長い髭をなでながら、声を低くした。

「そちの切り札じゃ。それにな、歴史ががらりと変わってしまえば、そちの千里眼も役に立たなくなるじゃろうが」

 

「それは……わたしも少しだけ心配しています」

 半兵衛が静かに口を開く。

「良晴さんと刃さんは、すでにあれこれと歴史を変えてしまっています。桶狭間で討ち取られるはずだった今川義元さんを助けましたし、長良川では斎藤道三さまも助けました。お二人とも、良晴さんが知っている歴史では……あれらの合戦で命を落としていたのだと言います」

 

「なるほどの。じゃが、キリシタンの教えには〝すべては神の御心のままに〟という考え方もある」

 ベルショールは、白髭をゆっくりと撫でながら語る。

「人間の世界での出来事には、あらかじめ神が定めた運命というものがある。小僧ひとりが何をしようが……その大枠は変わらぬ、変えられぬ、という可能性もあるわけて」

 

「神が決めた運命……ね」

 良晴は、顎をさすりながらぼそりとつぶやく。

 

 そしてふと、何かを思い出したように手を打った。

「そういや俺が戦国ゲームで覚えた歴史じゃ、三好三人衆と松永久秀は足利義輝を殺してたはずなんだ。で、織田家が上洛した時に将軍にしたのは、今川義元じゃなくて義輝の弟・義昭だった」

 

 そこまで言うと、半兵衛がすぐに続きを引き取る。

「──けれど、この現実では足利義輝公は生き延びられ、妹の義昭さまとともに明へお逃れになられました。本来、将軍になるはずだった義昭さまが、歴史の表舞台から姿を消されたわけです」

 半兵衛の声音は冷静だが、その奥に淡い寂しさが滲んでいた。

 

「これは、死ぬはずだった今川義元さんが生き延びたために……歴史そのものが、あとから帳尻を合わせた、とも考えられるのではないでしょうか」

 

「歴史が帳尻を合わせる……って、誰がどうやって合わせるんだよ、半兵衛ちゃん」

 良晴は片眉を上げ、呆れ半分で問い返す。

 

「わたしにはわかりかねます。ですが、あるいはキリシタンが〝デウス〟とか〝神〟と呼ぶ、大いなる意志が……そうさせているのかもしれません」

 

「俺は信奈と同じで、そういうのは信じねえ」

 良晴の声ははっきりと拒絶を示す。

「だいいち、そんな“天意”なんてのが本当にあるとしたら……俺がこの時代に来た意味がなくなっちまうだろ」

 

 彼は拳を軽く握りしめ、言葉を強めた。

「仮に天意があるとしても、そいつは俺に仕事をさせたがってるはずだ。刃が来てるのに、俺まで呼んだんだ……何かをやらせたいに決まってる」

 

 その目には、自分なりの使命感と意地が宿っていた。

 

「むむっ……難しい話ですな、兄さま!」

「舌がかみかみになりそうでござる!」

 ねねと五右衛門が同時に悲鳴を上げ、場の空気が一気に和らぐ。

 

 結局、二人のギブアップ宣言をきっかけに、この込み入った話題はひとまず幕を下ろすことになった。

 

「歴史を変えると言えば、今回の若狭攻めは、良晴さんの知らない未来だったようですね」

 半兵衛が、枕元から身を少し起こして問いかけてきた。

 

「ああ。信奈は、てっきり越前の朝倉を攻めると思っていたんだけどなあ」

 

「ほう。若狭ではなく、越前でござるか?」

 五右衛門が首を傾げる。

「しかし朝倉を攻めれば、朝倉家と同盟ちている浅井長政がこまりまちゅぞ」

 

「そうなんだ、五右衛門。俺のゲーム知識では、そうなるはずだった。越前の奥深くまで侵攻したところを、いきなり背後の浅井長政に裏切られて……織田軍は京への退路を断たれて絶体絶命。これが『織田信長公の野望』の超有名イベント──〝金ヶ崎の退き口〟ってやつだ」

 

「背後を任せた浅井に裏切られれば袋のネズミですな! 考えただけでおそろしいですぞ!」

 ねねが両手で頬を押さえ、青ざめる。

 

「大丈夫だよ、ねね。なぜかこの世界では信奈は若狭を攻めてるんだし」

 

 その瞬間、半兵衛が鋭く顔を上げた。

「そんな……大変です!」

 かすれた声に、全員がはっと振り向く。

 

「若狭攻めは……偽装です!」

 半兵衛の声は震えていたが、その瞳は獲物を捕らえた鷹のように鋭かった。

「家臣団にも隠し通した信奈さまの真の狙いは、若狭入りと同時に東へ反転して、越前の朝倉義景を急襲することです!」

 

「……なんだって……!?」

 良晴が思わず息を呑む。

 

「けほ、けほ……ごめんなさい、良晴さん。わたしが〝金ヶ崎の退き口〟という未来を知っていれば、すぐにお教えできていたものを……!」

 

「どういうことですか、軍師どの!?」

「たいへんでござる……」

 

 半兵衛は枕元で体を支え、息を整えてから一気に言葉を繋げた。

「信奈さまは、老大国・朝倉家は新政権に協力しないと見切っています。畿内を早期統一するため、奇襲で越前を平定するおつもりです。しかし──浅井長政さまに前もって相談すれば、長政さまは織田と朝倉の間で板挟みになります。だから、あえて長政さまを外し、短期決戦で決着をつけようとしているのです!」

 

 彼女の声は次第に熱を帯び、言葉は矢継ぎ早になった。

「西近江路より若狭へ進軍した織田軍は……おそらく今頃、東の越前領へと反転侵攻中。目標は金ヶ崎城、その先の木ノ芽峠を越えれば、一乗谷まで一直線です!」

 

 半兵衛の脳裏には、地図と駒が目まぐるしく動いていた。

「ですが──それは敵地への危険な深入り。もしも北近江の浅井長政さまが、この瞬間に裏切れば……!」

 

「……裏切れば……」

 良晴が小さく反芻する。

 

「前方からは越前朝倉軍の本隊二万以上! 背後の北近江からは一万五千の浅井軍! 西近江路という唯一の退路は封鎖されます。そうなれば、織田軍は三方ふさがりの──完全な死地です!」

 

 半兵衛は咳き込みながらも、きっぱりと言い切った。

「すべての武将が……すべての足軽兵が、殲滅の危機に瀕します」

 

 室内の空気が一瞬にして冷たく張り詰める。ねねも五右衛門も顔色を失い、息を呑む音だけが響いた。

 

 その時──良晴の胸の奥に、嫌な予感が稲妻のように走った。

(……いや、待て……)

 

「多分……信奈たちは生きて帰れる」

 その言葉に、全員の視線が一斉に良晴に集まる。

 

「そんなはずが──」

 半兵衛の反論を遮るように、良晴は低く呟いた。

 

「死ぬのは……刃だ」

 

空気が止まった。

 その場にいた誰もが、その名に込められた予感の重さに息を呑み、言葉を失う。

 

「あいつなら、やる。信奈たちを脱出させるためなら、殿を──進んでやるはずだ!」

 良晴の声は震え、拳は固く握り締められている。

「……俺の油断だった……! ちくしょう……!」

 

 勢いよく立ち上がると、顔面は蒼白のまま、目には焦燥の炎が燃えていた。

「長政がどう出るか、確かめなきゃならねえ! 俺は今すぐ小谷城へ行く!」

 

「けほ、けほ……わたしも参ります……」

 半兵衛が布団から身を起こしかける。

 

「半兵衛ちゃんはまだしばらく寝てないとダメだ! だろ、爺さん?」

 

「ふぉっふぉっふぉ……そうじゃのう。あと一月は安静にしておらんとのう」

 ベルショールの声音はいつになく真剣だった。

 

「でも、わたしは刃さんの軍師です! 今すぐ行かないと……刃さんが……!」

 咳き込みながらも、必死に訴える半兵衛の瞳は涙に濡れていた。

 

「いかん。絶対に無理は禁物じゃ!」

 ベルショールが低く、きっぱりと断言する。その口調には医師としての決意が滲んでいた。

 

「それでは、ねねがついていきますぞ!」

 ねねが、良晴の頭の上に飛び乗り、両手を腰に当てて仁王立ちする。

 

 良晴はその体をそっと抱き上げ、畳の上に降ろすと、くしゃっと頭を撫でた。

「危ない仕事だぞ。……俺の代わりに、金の勘定を頼む」

 

「おう、了解です兄さま! 金勘定は、ねねの得意技ですな!」

 胸を張るねねの声には、少し寂しさが混じっていた。

 

「というわけで五右衛門、いつも悪いが同行を頼む」

 

「承知でござる」

 五右衛門はすぐにでも飛び出せる準備を見せた。

 

「では、わたしの代わりに──前鬼さんをつけましょう」

半兵衛がうなずいた。

 

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