織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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金ヶ崎の退き口 前

越前金ヶ崎城を陥落させた織田軍三万は、破竹の勢いで木ノ芽峠へと進んでいた。

この峠を越えれば、越前守護・朝倉義景は本拠一乗谷城に孤立する。

計画通りに進めば、一ヶ月どころか一週間足らずで越前平定は成るはずだった。

 

北国から京への要衝たる越前を、奇襲で押さえる──

それが信奈の真の狙いだった。

なぜなら、日ノ本最強の武勇を誇る武田信玄と上杉謙信、仇敵同士の二人が、つい先日休戦を結んだばかりだったからだ。

もしも軍神・謙信が越後から越前へと一気に兵を進めれば、信奈は近江の平野でその猛将と正面から対峙せねばならなくなる。

そうなれば、刃や浅井長政、松平元康ら頼もしい同盟軍を擁しても、勝機は薄い。

 

だからこそ、越前討伐は一刻を争った。

 

越前朝倉家は、伝統と格式を重んじる旧家である。

兵たちは時代遅れの地味な具足をまとい、槍や弓も古風なものばかり。

そこへ、尾張からやってきた織田軍が雪崩れ込む。

尾張兵は南蛮胴や異形の兜、色鮮やかな陣羽織をまとい、戦場に似つかわしくないほど華美に飾り立てていた。

 

朝倉勢は戦う前から目を丸くした。

「あれが戦をする者の恰好か……」

「いや……やはり都を制する軍勢は違う」

 

畏怖と困惑の中、「尾張兵は実は日本最弱」という真実に気づく者は一人もおらず、降伏を選ぶ者が続出した。

 

漆黒の名馬「利刀黒」にまたがる信奈は、金襴の南蛮具足をまばゆく輝かせ、頭にはフロイスから贈られた絢爛豪華な南蛮帽子を戴いている。

その横を、刃が並走し、周囲の兵を無言のまま威圧する。

 

さらに、小姓の犬千代たちが巨大な南蛮渡来の振り子時計を「わっせ、わっせ」と担いで進んでいた。

フロイスの献上品で、当初は「動かせないわ」と信奈が返却しようとしたが、刃が「これしきなら動かせますよ」と請け負い、そのまま信奈の宝物となっている。

犬千代たちも、まさか戦場にまで持ち込むとは夢にも思わなかっただろう。

 

田舎臭い朝倉勢の中には、「堺の新兵器か」「鉄砲より恐ろしい南蛮の秘具かもしれぬ」と怯える者まで現れ、戦わずして退く者もいた。

 

信奈の軍勢は、行く手を遮る者もなく、破竹の勢いで進む。

 

「くすっ。わたくしが浅井長政でしたら、今こそあなたさまを裏切りますわ」

 その言葉に、諸将がちらりと振り返る。松永久秀である。

「そうすれば、越前勢と浅井勢で前後を挟み、完全なる窮鼠となります」

 彼女の声は愉快そうでいて、どこか冷えた響きを帯びていた。

裏切りが日常茶飯事の久秀の口から出た言葉に、諸将は「またか」と笑って受け流す。

 

ただ一人、刃だけは違った。

(……久秀の言は、冗談では済まん。いざという時の覚悟は……しておかねば)

 そう思い、信奈の横顔に一瞬だけ目をやる。その瞳には、何かを決意した光が宿っていた。

 

だが、その破竹の行軍は木ノ芽峠を目前にして突如止まる。

陣中、主立った諸将が居並ぶ中に、馬を飛ばして相良良晴と竹中半兵衛の影武者・前鬼が駆け込んできたからである。

 

「……浅井家が、謀反した」

 

 短い一言が、軍議の場に落とされた。

 

 良晴は息も絶え絶えに馬から飛び降り、その勢いのまま膝をつく。

「織田軍は今、この小豆袋のように──前後の口をきつく縛られて、京への退路を断たれている!」

 荒い息の合間に、手に持っていた袋の口を固く締め、前後を塞ぐ仕草で説明する。

 

(……予感的中か。まずいな)

 刃は胸中で呟き、すでに解決策を探り始めていた。

 

 信奈はその報告を、最初は信じようとしなかった。

 いや、理解すらできなかったらしい。

「サル、何を言ってるの? 長政は勘十郎と仲良くしてるじゃない。最近じゃ人柄まで丸くなって……今頃は朝倉への旧恩と織田との同盟の間で板挟みになってるはずよ。それでも天下布武のためには、謙信より先に北陸を固める必要があるって、わかってるでしょう?……見て見ぬふりをしてくれるはず──」

 

 信奈の声は平静を装っていたが、わずかに震えていた。

 

 良晴は苦渋に満ちた表情で唇を噛み、低く吐き捨てる。

「……俺が、うかつだった……」

 拳を固く握りしめ、俯いた。

「越前を攻めれば、こうなることは最初からわかってた。ただ……俺はどうしようもないバカだった! お前が本気で若狭を攻めると思いこんで、確かめもしなかった……! お前に越前攻めの意志があるか、前もって確認しておくべきだったのに……!」

 

 その声には怒りよりも、悔恨の色が濃く滲んでいた。

 

 諸将がざわめく。

 

信奈はまだ、かすかな希望にすがるように首を振った。

「……でも……どうしても、信じられないわ」

 

その言葉の裏で、刃の紅い瞳がわずかに細まる。

彼はすでに、信奈の否定を越えた先にある「最悪の局面」を見据えていた。

 

「信澄は……城を抜け出して、この小豆袋をお前に渡すつもりだった」

 良晴は握りしめた袋を差し出し、低く、重く続けた。

「だが途中で追っ手に追いつかれ、俺が受け取った。……隠居した浅井久政がしゃしゃり出て、長政を幽閉してしまったらしい。俺たちが浅井家に無断で朝倉を攻めたと憤っているんだろう」

 

「いくら久政が愚物でも……そんな愚かな真似を……まさか」

 信奈の声はかすかに震え、握る拳は白くなる。

 

「信奈。有り得ないことなんかじゃない」

 良晴は目を逸らさずに言い切った。

「久政は、お前の親父とは……まるで出来が違う」

 

 その瞬間、軍議の場の空気が沈み込む。

 織田信奈は、ここに生涯最大の窮地を迎えていた。

 いや、信奈一人ではない。ここに布陣する三万の兵すべてが、死地に追い込まれていたのだ。

 

 信奈は姫大名ゆえ、もし一人で降伏し出家すれば命だけは助かる可能性がある。

 しかし──信奈の辞書に「降伏」という二文字は存在しない。

 天下布武の夢が潰えるときが、自分の死ぬときだと、そう思い定めてきた。

 

 それがあったからこそ、「わたしに、みんなの命をちょうだい」と爽やかに言えたのだ。

 だが今──自らの油断のために、最も信頼する仲間たちを死地に晒してしまっていた。

 

 万千代。竹千代。六。十兵衛。犬千代。弾正。サル──そして、刃。

 このままでは、全員が屍をさらすことになる。

 

「……そんな。嘘よ。全部、嘘だわ……」

「信奈! 今すぐ撤退しろ!」

 良晴が怒鳴った。

「ここで前後から敵を受けて戦えば、全軍玉砕するしかないぞ!」

 

「……そうだったわね」

 夢から覚めたように信奈が目をしばたたき、床几から立ち上がった。

「わたし自身が囮になる。しんがりをつとめて──」

 

「なりません、姫!」

 丹羽長秀が一歩踏み出し、声を張り上げた。

「この退却戦のしんがりは、全軍玉砕する他はありません!」

 

「でも……わたしには、みんなが必要なのよ。一人も死なせたくない……!」

「駄目です! 清水寺の愚は二度と繰り返しません」

 長秀の瞳は鋭かった。

「姫の身柄が敵の手に落ちれば、すべてが終わります!」

 

「じゃあ……降伏……降伏を……」

 信奈は唇を震わせ、絞り出すように言った。

「このままじゃ……みんな討ち死にしちゃう……!」

 

「それはなりません、姫!」

 長秀が声を鋭く切った。

「天下布武を諦めなさるおつもりですか?」

 

「だって……だって、みんなが……みんなが……!」

 

「お聞きあれ、姫」

 長秀の声は、戦場の鉄槌のように重く響いた。

「これほどの卑劣な裏切りをやってのけた以上、敵方は復讐を恐れ、決して姫を助命しますまい。姫大名が出家すれば殺してはならじという戦国の習わしを無視し、問答無用で姫の首を取ります。零点です」

 長秀が低く言い放つと、松永久秀が薄く笑いを浮かべた。

「仰せの通り。不慮の事故、家臣の暴走、毒殺……姫大名を闇に葬る手段はいくらでもございますわ」

 

「姫。この織田家は……いえ、これからの日ノ本は、姫なしには立ち行きません」

 長秀は一歩近づき、深く頭を垂れた。

「家臣の一人に、その手勢に……しんがりの役目を。死を、賜りますよう」

 

 つとめて毅然と振る舞っていた信奈の顔が、歪んだ。

「……そんな命令……できるわけが……!」

 

 選ばせては、ならない。

 姫さまに、そんな負い目を生涯背負わせてはならない。

 

 その思いが、諸将の胸に一斉に燃え上がった。

 

いっせいに、家臣団が「自分がしんがりを」と声を上げかけた、その刹那──。

 

「信奈! 俺がしんがりをやるから、お前は刃とみんなを連れて撤退しろ!」

良晴が息を荒げ、前へ一歩踏み出した。

 

だが、それよりも静かに、しかし確固たる足取りで前へ進む影があった。

刃だった。

 

周囲の視線が、その背中に吸い寄せられる。

武将たちは直感で悟った──この男は、もう決めてしまったのだと。

 

「は、刃? どこ……行くのよ」

信奈の声は、震えと恐怖を含んでいた。

 

「姫様。……ここで、お別れかもしれません」

その声音には、一切の迷いがなかった。

 

「……え……?」

 

「皆を連れて、早く撤退を。しんがりは私が務めます」

低く、静かな宣告。

その響きは、周囲の武将たちの胸を冷たい手で掴み、締め上げる。

 

信奈の顔から、血の気が引いた。

「……だめ……だめ! 刃! 命令よ!」

 

思わず駆け寄り、その胸に飛び込む。

鎧を着けていない刃の身体から、袴越しにじかに伝わる熱が、別れの予感をより鮮烈に突きつけてくる。

 

「すみません、姫様。その命令は……承諾しかねます」

刃は淡々と告げる。

「私は貴女の懐刀。貴女に降りかかる火の粉を払うのが、私の務め」

 

涙に濡れた目で、信奈は必死に見上げた。

「ここが私の墓場になるかもしれません。……だから、もしもの時は良晴か光秀を懐刀として、貴女の夢を追ってください」

 

「……いやよ! 絶対いや!」

声が震え、涙で滲む。

「わたしの懐刀は、あなただけなの! こんなところで、あなたを失うわけにいかないわ!」

 

「姫様、あまり我儘を言わないでください」

刃の声がわずかに柔らぐ。

「貴女が死ねば、私は生きる意味を失うも同義です」

 

ぱんっ!

広間に乾いた音が響き、刃の頬がわずかに熱を帯びる。

 

「……噓つき……」

信奈は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で刃を睨んでいた。

「ずっと、わたしのそばにいてくれるって言ったじゃない! わたしと結婚するんじゃないの! ……噓つき!」

 

その言葉は、鋼鉄の胸板を貫くほどに、刃の心を抉った。

 

「なんでなの……どうして、わたしが……わたしが好きになった人は……みんな、死んじゃうのよ……」

 

刃は無言で、信奈の華奢な肩を抱き寄せた。

胸元がじわりと濡れる。信奈の涙だった。

 

「……泣かないでください、姫様。俺は、姫様の涙は見たくない」

 

「……なら……行かないでよ。わたしを……一人にしないで」

掠れた声が、耳元で震える。

 

「無茶を言わないでくれ」

刃の声色が変わった。

いつもの堅苦しい敬語ではない、素の低い声。

 

「おい、刃! 俺が残るから、お前は──」

「良晴。お前が残ったところで時間は稼げん」

刃は静かに、しかしはっきりと言う。

「だが、俺の首なら敵は喜んで取りにくるだろう」

 

「刃! 信奈には、お前が必要なんだ! 他の誰でもない! 俺や十兵衛じゃ、お前のようにはできない! 悔しいが、信奈の懐刀は務まらない!」

 

「務まるさ。お前らならな。一人じゃ無理でも、二人でやればいい」

刃は口元にかすかな笑みを刻み、良晴の肩を軽く押す。

「……ほら、早く行け」

 

「ふざけんな!!」

良晴の叫びは怒号となって広間を震わせた。

「お前は、信奈を、犬千代を、長秀さんを、半兵衛ちゃんを置いて死ぬのか!? 他の男に取られてもいいのかよ!!」

 

「……いいわけ、ないだろうが」

刃は視線を落とし、短く吐き捨てる。

「なに、そう易々と死ぬ気はない。……生き延びられる可能性が低いだけだ」

紅い瞳が細められ、炎のように光る。

「俺の予想では、相手の数は二、三万。流石の俺でも、捌ききれる自信はない」

 

「だったら! 俺も残る!」

良晴が一歩踏み出し、刃に食らいつくように叫ぶ。

「俺とお前で、一緒に生き延びるんだ!」

 

 そのやり取りに、周囲の家臣や兵たちは固唾を呑んで見守っていた。

 二人の決意のぶつかり合いが、戦場の鼓動そのもののように場を支配していた。

 

「……無理だ」

刃の返答は冷たく短い。

「今回は撤退戦だ。戦いながらの後退──お前の足では、俺の動きに追いつけん。足手纏いは要らん」

 

「……足手纏い、だと?」

低く押し殺した声が、逆に怒りを滲ませる。

 

「ああ。そうだ」

刃は一歩も引かず、良晴の視線を真っ向から受け止める。

「お前が居れば、ただでさえ低い生還率がさらに下がる。……お前は姫様たちと共に京へ戻れ。そして俺が討ち漏らした兵の対処でも考えていろ。なに──半分……いや、八割以上は削ってやる」

 

そう言い放った刃の声には、一片の揺らぎもなかった。

 

「……やめて……やめてよ……」

細い指が袴をさらに強く掴み、爪が食い込み、絶対に離さないという強い意志を示していた。

 

「……いかせない。絶対にいかせないわよ、刃……!」

嗚咽混じりの声が震える。

 

「サル! あんたは、未来から来たんでしょ!? だったら、なにかあるはずよね!? 刃を助ける策……っ、お願い……おんしょうなら、なんでもあげる……だから、だから――っ!」

 

「……ある」

良晴の瞳に、決意の炎が灯った。

「俺はこの“金ヶ崎の退き口”を知ってる!どれだけ不利でも、どれだけ絶望的でも、ここは歴史に名を残す奇跡の撤退戦だ。俺が藤吉郎のおっさんの代わりをやれば、死なない可能性は十分にある! 刃、お前が俺を連れて行ってくれれば……俺に賭けてくれれば、もしかしたら──」

 

良晴は刃の紅い瞳を真っ直ぐ見据える。

「頼む、刃! 俺はずっとお前に助けられてばかりだった! だから今度は、俺がお前を助ける! 信奈たちを笑顔にできるのは、お前だけなんだ! だから……!」

 

「……」

 

「刃! この先、信奈にはいくつもの困難が待ち受けてる! その時、信奈たちを守れるのは、お前しかいないだろうが!! お前は──こんな場所で失っていい奴じゃねぇ!」

 

「……刃……」

信奈がぽつりと囁く。

その声は震えていたが、確かな想いを込めていた。

 

「お願い……死なないで……」

涙が頬を伝い、刃の胸元に落ちていく。

「わたしの……そばにいて……これからも……ずっと……」

 

その小さな声は、戦場の喧噪を遠ざけるほど切実だった。

 

「……あなたがいないと……わたし……もう歩けないよ……」

 

刃の紅い瞳が、わずかに揺らぐ。

しかし次に放たれた言葉は、またも冷酷だった。

 

「……しかし、今ここで良晴まで失うわけにはいきません」

刃は静かに言い、信奈を見据える。

「俺が死ねば、織田軍の戦力低下は避けられません。……姫様の名声も下がるでしょう。そんな中、俺と同じ未来人であり、俺にはない歴史の知識を持つ良晴まで失えば──天下統一はさらに遠のく」

 

その声音には、迷いと覚悟がないまぜになっていた。

「姫様……出会いがあれば、別れもあります」

「……やめて……」

 

刃の口元がわずかに緩む。

「貴女と出会えたのが運命ならば──ここで死ぬのも、また私の運命なのでしょう」

 

その瞬間、信奈の両腕がさらに強く刃を締め付け、周囲の兵たちの呼吸が止まった。

 

「……そんな運命、いらない……」

信奈の声は震え、細く、しかし必死に抗っていた。

「いらないわよ……そんな、運命……刃が死ぬなんて……そんな世界、間違ってるに決まってるじゃない……!」

 

その時、良晴が前へ踏み出した。

足元の泥がぐしゃりと音を立て、彼の瞳には迷いのない光が宿っていた。

 

「……なあ、刃」

低く、しかし戦場の喧噪を割って届く声。

「お前が今、何をしようとしてるか、もう分かってる。でもな……そんな結末、俺は絶対に認めねえ」

 

刃の紅い瞳が、わずかに細まる。

「良晴……」

 

「お前がここで死ぬってことは、信奈が一生……いや、死ぬまでその重みを背負うってことだ!」

良晴は一歩、また一歩と刃に近づく。

 

「……お前の命は、お前だけのもんじゃねえ」

良晴の声は、怒鳴り声ではなかった。だが、その一言一言が刃の胸を抉るように響いた。

 

「お前には恋人がいるだろ! 信奈がいる。犬千代がいる。長秀さんがいる。半兵衛ちゃんがいる。京では、ねねもお前の帰りを待ってるんだ!」

 

刃の紅い瞳が、かすかに揺れる。

良晴は胸倉をぐっと掴み、逃げ場を塞ぐように顔を近づけた。

「信奈を……犬千代や長秀さん、半兵衛ちゃんを置いて死ぬだ? 冗談じゃねえ!」

言葉が吐き捨てられるたび、その声には怒りよりも深い焦燥と切迫が混じっていく。

 

「お前が死んだら……みんなに、取り返しのつかない穴が空くんだよ! 埋められない、二度と塞がらない穴が。お前はそいつを分かってんのか!? 置いていかれる方の気持ちを……ほんの少しでも考えたことがあるのか!?」

 

信奈はその言葉に震え、刃の背に回していた手をぎゅっと握り締めた。

犬千代は奥歯を噛みしめ、長秀は無言で目を伏せ、光秀でさえ拳を震わせている。

 

良晴はさらに声を張った。

「生き残ることを考えろよ、刃! お前は信奈だけの懐刀だ! 信奈だけの切り札だ! 戦国最強の剣士だ! お前がいなきゃ、この先信奈は天下なんて夢のまた夢だ!」

 

刃は口を開こうとしたが、言葉にならない。

その沈黙を押し破るように、良晴が叫ぶ。

 

「……俺とお前で、生き延びる! 二人でこの“金ヶ崎の退き口”を突破するんだ! 敵が何万だろうが、やってやろうじゃねぇか! 絶対に死なせねえ! 絶対に死なねえ! それが、俺たちの運命だ!!」

 

信奈の頬を、大粒の涙が伝い落ちた。

その涙は、刃の胸元へと吸い込まれていく。

刃は静かに目を閉じ、深く息を吸った。己の死を厭わずにいた心が、今、揺れている。

 だが、信奈の手の温もりと、良晴の声が、刃の背を押した。

そしてゆっくりと吐き出すと、紅い瞳に迷いの影はもうなかった。

 

「……分かった。俺の命、お前に掛けよう」

刃が静かにそう告げると、良晴は大きく息を吐き、満面の笑みを見せた。

 

「よし! なら信奈、お前らは早く撤退だ」

 

「……分かってるわよ」

信奈は震える唇を噛みしめ、涙を拭う。

その目は、必死に笑おうとして、しかし笑い切れない。

「刃……ちゃんと、帰ってきて。絶対だから。……お願い」

 

「善処します」

刃は短くそう言い、袴の懐に手を差し入れた。

そして、黒塗りの小刀を取り出す。

鞘は深い艶を帯び、月の光を受けて一瞬きらりと光った。

刀身は刃こぼれ一つなく、研ぎ澄まされたまま眠っている。

 

「姫様、これを」

「……これは?」

 

「幼い頃、祖父からもらったものです」

刃は遠くを見るように目を細める。

 

「この時代に来る前から、持ち歩いていたお守りみたいなものです。ただ……不思議と、これを渡すべきだと思いまして」

 

信奈はそれを胸にぎゅっと抱きしめ、肩を震わせた。

「……絶対に取りに帰って来なさい。これは約束よ」

 

刃は口元にかすかな笑みを浮かべ、力強く頷く。

「ええ、約束です」

 

松永久秀が静かに歩み寄り、信奈の肩にそっと手を置く。

その眼差しは、母のように深く優しいが、同時に冷徹な武将としての決意を湛えていた。

 

「……刃……絶対に……!」

信奈は最後まで振り返り、紅い瞳を見つめ続ける。

その声は、遠ざかりながらも戦場の喧噪を突き抜け、刃の耳に刻まれた。

 

久秀に伴われ、信奈は馬に乗り、泥を蹴り上げて陣幕を抜けていく。

 

諸将も、無言のまま、次々と出立の準備にかかった。

だが、慌てふためいて逃げ出そうとする者は、陣中には一人もいない。

それぞれが己の役目を知り、静かに、しかし決然と撤退の隊列を整えていた。

その合間を縫うようにして、一人ひとりが順番に刃と良晴のもとへ歩み寄り、手を握りしめ、最後の言葉を交わしていく。

 

「……サル……お前……」

柴田勝家は、こんな時に気の利いた言葉が出てこない。

それでも、その手のひらは烈火のように熱く、良晴の指を折りそうなほどの力で握り締めていた。

ただ顔を真っ赤に染め、ぽろぽろと涙をこぼしながら──。

 

「……あたしたちの手勢から、しんがりを志願した兵を預けていく。餞別だ……」

「おう、ありがとうな」

 

そして、刃の方へ向き直り、声を震わせる。

「……刃、姫さまのために、生きて……」

「分かっている」

 

そんな真剣な空気を、良晴がぶち壊す。

「勝家。お前のおっぱいを見てると、この世に未練がわいてくる。もう行け」

「……バカ……っ。い、い、生きて戻ってきたら……いくらでもあたしの胸に触らせてやるっ。約束してやる! だ、だから……」

「いいって」

「……死なないで……お願い……」

 

勝家は最後に鼻をすすり、唇を噛みしめて背を向け、馬に飛び乗った。

 

「良晴、お前も死ねなくなったな」

「だな。それにしても、勝家にあんなこと言われるなんて思ってもみなかったぜ」

「鈍感」

「お前にだけは言われたくない!?」

 

次に現れたのは、丹羽長秀。

 

普段は何があっても微笑みを絶やさず、穏やかな振る舞いを貫く長秀が――この時ばかりは、嗚咽を堪えきれずにいた。

 細い肩を震わせながら、まるで溺れるように刃にすがりつき、胸元に顔を埋めて涙を流す。

 

(……長秀さんも、泣くんだな)

良晴は驚きと同時に、妙に納得する。

長秀もまた、刃の恋人なのだ。無理もない。

 

ようやく、長秀が顔を上げる。瞳には涙がたまり、頬を伝ってこぼれ落ちていた。

 

「……刃どの、お願いです。どうか、死なないでください……絶対に。生きて……必ず、私たちのところに帰って来てください」

 

「ああ……分かっている」

 

 刃の声は短く、けれど決然としていた。

 

 長秀は涙を拭い、良晴の方に向き直る。

 

「相良どの……刃どのを、お願いします。あなたなら、きっと……」

 

「任しとけ! 絶対に、あいつを死なせたりしねぇよ」

 

 良晴が胸を叩きながら答えると、長秀はかすかに微笑み、最後にもう一度だけ刃に目を向けてから、後ろ髪を引かれるようにして去っていった。

 

 次に現れたのは――犬千代。

 

良晴が笑って声をかける。

「お前には、うこぎ長屋時代からさんざん世話になったな。ありがとうな」

 

「……」

犬千代は何も言わず、ただ無表情で刃に近づき、ぎゅっとその体にしがみつく。

袴の布地ごしに伝わる力強い抱擁は、子犬のように必死だ。

 

「……」

「犬千代、早く姫様を追いかけてくれないか?」

「……離れない」

 

刃は小さく笑い、犬千代の頭を優しく撫でた。

「犬千代、死地にいるのは俺や良晴だけじゃない。姫様達も命懸けなんだ。俺が居ない間、姫様を守ってくれないか?」

 

少しの沈黙の後、犬千代はゆっくりと腕をほどき、顔を上げた。

その頬には、一筋の光が伝っていた。

 

「……ちゃんと、かえってきて。犬千代に、かまって」

「お前の気が済むまで構ってやるさ。半兵衛にもよろしくな」

「……良晴、刃を、おねがい」

「分かってるよ!」

 

こうして全員が、未練を胸に秘めたまま、次々と陣から撤退していく。

やがて喧噪は遠ざかり、残されたのは刃と良晴、そして迫り来る敵の蹄音だけだった。

 

良晴は深く息を吐き、肩の力を抜いた。

「……やれやれ、これで全員、無事に送り出せたな」

 

だがその隣で、刃は一切の隙を見せず、周囲の気配を研ぎ澄ますように集中力を高めていく。

次の瞬間、彼の低い声が響いた。

 

「……お前らも、早く撤退しろ」

 

 刃が低く、だがはっきりと告げる。

 良晴がふと顔を上げると――まだその場を離れていない者たちがいた。

 

 松平元康。そして、明智十兵衛光秀。

 

「ちょ、ちょっと待て。お前ら、何やってんだよ!? 逃げ遅れたのか? ってか、早く行けよ!」

 

 良晴の声に対し、元康がのほほんとした調子で言った。

 

「刃さん、吉姉さまを連れて、いっそ駆け落ちでもすればよかったですのに~」

 

「駆け落ち、か……無理だな」

 

 刃は静かに首を振る。

 

「俺が惹かれたのは、夢に向かって真っ直ぐ、愚直なまでに走り続ける姫様の生き様だ。姫様自身がそれを望むならともかく……俺から言い出すことは、絶対にないぞ元康」

 

「ふふっ。まぁ、それも刃さんらしいです~。ちなみに、いずれ私、素敵な名前に改めようと思ってます! “徳川家康”っていうんですよ~!」

 

「……その名前、あんま好きじゃねえんだよな。なんかこう……田舎臭ぇっていうか。ダサい」

 

 良晴がぽつりと漏らすと、元康はがーんと肩を落とす。

 

「ひどい……! 全否定されました~……」

 

 隣で聞いていた光秀が、すかさず胸を張った。

 

「その点、私の改名案は完璧です! “惟任日向守”。どうです、この高貴な響き! ぞくぞくするほどかっこいいです!」

 

「……それって人間の名前なんですかぁ? 訳がわかりません~」

元康が首を傾げる。

 

「改名の必要はないな」

刃が淡々と切り捨てる。

 

「〝明智十兵衛光秀〟がどこにも残ってねえよ!」

 

良晴がツッコミを入れると、光秀はふんっと鼻を鳴らし、さらにドヤ顔を深める。

 

(ったく……信奈がいないとやけに偉そうなんだよな、十兵衛は)

 

「天城先輩を、ここで死なせるわけにはいかないです!」

 

 光秀の声に、キッとした熱が宿る。

 

「よわっちぃ相良先輩なんて、全然頼りにならないですからね。この十兵衛光秀が、全力で天城先輩を援護するです!」

 

「おい、そこは素直に刃のほうを信じとけよ!」

 

 良晴が額に手をやるが、すぐに今度は元康が続く。

 

「私もです~。実は、半蔵から聞きました。私が三河で独立できたのも、刃さんの策があったからこそだって~。今こそ、そのご恩を返すときだと思いまして!」

 

 

「……ダメだ。お前らも、撤退しろ」

 

 刃は低い声で、はっきりと命じた。

 

「天城先輩……たしかに私、まだまだ未熟かもしれないです。でも……」

 

「受けたご恩は返す。それが、たぬき様を始祖と崇める、松平家の家訓ですから~!」

 

 二人からのまっすぐな視線に、さすがの刃もわずかにたじろぐ。

 

 すると、良晴が前に出た。

 

「……刃、任せろ。お前が言っても聞かねえなら、俺が説得する」

 

 良晴は、元康と光秀に視線を向けた。

 

「お前ら二人は、信奈の“天下平定事業”にとって、絶対に欠かせない存在なんだ。特に元康、お前は……おそらく信奈が日本を統一したあと、“まつりごと”を任せるつもりでいる」

 

「……えっ、私に~?」

 

「ああ。元康は律儀で、慎重で、守りに入れば抜群に強い。戦国最強の武田信玄が隣にいようが、絶対に怯まないし、なにより、信奈を裏切るなんてこと……考えたこともないだろ?」

 

 元康はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめ、ぽつりと答える。

 

「……はい~。吉姉さまの命令で刃さんが三河に侵攻してくるより……信玄さんと戦うほうが、まだましなので……ぶる、ぶる……」

 

「そういうとこなんだよ、お前の強みは」

 

 良晴は、ニッと笑って見せた。

 

「信奈には革新の力がある。でも、その夢を“形”に変えるには、お前みたいな冷静で粘り強いやつが絶対に必要なんだ」

 

 それは――良晴がかつて教科書で学んだ歴史に刻まれていたことだった。

 “徳川家康”が開いた江戸幕府は、戦乱の世を終わらせ、約三百年に及ぶ泰平の時代を築き上げた。

 信奈の志もまた、同じ未来を目指しているはずだ。

 

「そして……十兵衛。お前には、信奈や俺、そして刃と共に、いつか“海の向こう”へ出てもらう」

 

「……世界へ、ですか?」

 

「ああ。船団を率いて海を渡り、広い世界をその目で見る。――それが、信奈の“ほんとうの夢”だ」

 

 十兵衛の目が、かすかに揺れた。

 

「その夢を、ほんとうに理解できるのは……刃と、俺と、お前だけなんだ」

 

「……南蛮寺の時みたいに、また騙してるんじゃないでしょうね? 天城先輩には騙されましたから。サル先輩にまで騙されたくないです!」

 

「騙してねえってば! いいか、十兵衛」

 

 良晴は一歩前に踏み出し、真剣なまなざしで十兵衛を見据えた。

 

「信奈は、苗字や官位なんかにはぜんぜんこだわらない奴だ。だけどな。九州の大名武将たちがみなお前に従うよう、信奈はお前をわざわざ『日向守』に就任させ、さらに〝惟任〟という九州の名族だけが名乗れる苗字まで与えたんだ。わかるか。日向国には、高千穂がある。やまと御所の──日ノ本の発祥の地だ! 明らかに、お前一人が特別扱いだろうが!」

 

十兵衛の口元が、かすかに震える。

 

「……信奈さまは、私に……そこまで……」

 

「噓じゃねえ。あいつはそこまで、お前に懸けてるんだ」

 

 良晴の声は、まっすぐに、胸に刺さるように響いた。

 

「もし、ここで……俺と刃とお前、三人とも討ち死にでもしたら、信奈は……本当に、ひとりぼっちになっちまう」

 

 誰も返せなかった。

 元康も、十兵衛も、ただ黙って――その現実を受け止めていた。

 

 「それに──あいつが海へと繰り出した後、日本国内に松平元康がいなけりゃ、この国は再び空中分解する。戦乱の波に呑まれ、再び群雄割拠の泥沼へ逆戻りだ」

 

 良晴の声は低く、だがはっきりとした確信をもって響いた。

 

 「元康の他に、日本をまとめられる政治力を持った奴はいない……あいつはそう考えてる」

 

 「わ、わたし……そんな、大それた者じゃないです~……」

 光秀がふるふると首を振る。だが、その頬には悔しさとも悲しさともつかぬ熱が滲んでいた。

 「どうして、そんなふうに……わかるのですか~……?」

 

 「俺は千里眼だからな!」

 良晴は冗談めかして笑ってみせたが、言葉の裏には濃密な現実が潜んでいた。

 「信じろ。俺にはわかる。刃も、そうだよな?」

 

 すっと隣に立つ刃が、静かに頷いた。

 

 すると、少し間を置いて、光秀が問い返した。

 

 「……相良先輩。それでは、天城先輩と先輩自身が、この戦で死なないという未来も──見えるのですか?」

 

 良晴は、一瞬黙った。そして、わずかに目を伏せながら、ぽつりと答えた。

 

 「……それは、見えねえ」

 

 その一言は、どこまでも静かで、重かった。まるで、誰かが胸に針を落としたように。

 

 「俺と刃の未来は、誰にもわからねえ。だいいち──未来ってのは、見えるもんじゃない。自分の手で切り開くもんだ。違うか?」

 

 「生還率は──高く見積もって二割だがな」

 

 横にいた刃が、あっさりと告げた。

 

 その現実的な数字に、誰もが言葉を失う。

 光秀は拳を握り締め、歯を食いしばるように黙り込んだ。

 

 だが──それも数秒だけだった。

 

 「……わかりました。撤退、するです」

刃が安堵の息を吐く。

 

 「ただし、条件をつけるです」

 

 「条件?」

 

刃が眉をひそめて問うと、光秀は背筋をぴんと伸ばし、凛とした声音で続けた。

 

 「──私の虎の子の鉄砲、五十丁をお貸しします」

 

「いや、それはお前の撤退戦に必要だろう」

 

 「いいから、借りてください」

 

 光秀はぐっと首を振った。

 その目には、もう一片の迷いもない。

 

 「それで、天城先輩が生き残る確率が、一割でも上がるのなら……私は、それでいい。……後で、倍にして返してくださいね?」

 

 「……分かった。ありがたく借りるとしよう」

 

 刃は深く頭を下げた。感謝と、決意を込めて。

 

 「天城先輩……どうか、ご武運を」

 

 そう言って光秀は深く一礼し、背を向けた。

 その目は真っ赤に腫れていたが、涙はもう流れていなかった。

 

 ──その姿を、誰も引き止めなかった。

 

 続いて、元康が静かに歩み寄ってくる。

 

 そして、刃と良晴の両手を、そっと握った。

 

 「五右衛門ちゃんの代わりに──半蔵をおつけします~。どうか、ご無事で」

 

 「いいのか、元康。お前も忍びなしじゃ、この撤退戦……相当きついぞ?」

 

 「半蔵も、自ら志願しましたから~。それに、私は戦より政が本職ですし~」

 

 いつもの間の抜けたような笑顔を浮かべながらも、その目には深い覚悟が宿っていた。

 

 「刃さん、相良さん……くれぐれも、ご無事で」

 

 松平元康はそう言い残し、刃たちに背を向けて歩き出す。

 

 

 

 

 

「……もう一つ、死ねぬ理由が増えてしまったな」

 

 刃はそう呟くと、風にたなびく光秀の髪を遠くに見送りながら、ゆっくりと目を閉じた。深く息を吸い、静かに吐く。その呼吸にあわせて、周囲の気配すら沈黙していくかのようだった。

 

 やがて、どこからともなく低くくぐもった声が聞こえてきた。

 

「……やれやれ。人間どもは涙もろくて、まこと面倒な生き物よな」

 

 その声音には、呆れと諦観がにじみながらも、どこか慈しむような色があった。気づけば、前鬼が良晴と刃の背後に立っていた。衣の裾を風に揺らし、にやりと笑みを浮かべている。

 

「だがまあ……そういうところが、面白い。この俺も、仕えがいがあるというものよ」

 

「前鬼。よろしく頼むぜ」

 

 良晴が肩の力を抜いて笑いかけると、前鬼は腕を組み、口元を歪めた。

 

「ああ。俺は死なぬ。気楽なものだ」

 

「お前って、一度消えてもまた召喚されて戻ってくるよな。……もしかして、永久に消滅しないってことか?」

 

 良晴の疑問に、前鬼はちらと視線を流し、遥か彼方の空を仰ぐ。

 

「さあて。龍脈――この都を巡る地脈が絶たれれば、この俺とて例外ではない。いずれは、塵芥に還る運命よ」

 

「龍脈、か……。龍ってのは、古代の神様だよな。大地を流れる神気の流れ……」

 

「式神とは、“神”だ。そして“神”とは――もはや人にあらざるものを指す。生きてはおらぬ。ゆえに、死にもせぬ」

 

 その言葉には、どこかこの世の理から外れた冷ややかさがあった。

 

「いや、お前は生きてるだろ? 死なないこと以外、俺たち人間と変わらねえじゃねえか」

 

 良晴の率直な言葉に、前鬼はしばし沈黙した。

 

 そのまま、大空を悠々と舞う鳥の群れを見上げると、風に紛れるような声で呟いた。

 

「……相良。お前は、いい男だ」

 

「は?」

 

 良晴が間抜けな声を上げた瞬間、前鬼からくすりと笑い声が漏れた。

 

 その様子を見ていた刃が、口元を歪める。

 

「ふむ、前鬼は良晴に興味あり……良晴も、まんざらでもない様子と見た」

 

「お、おい待て刃!? なんでそうなるんだよ!? 俺にはそういう趣味はねえぞ!?」

 

「俺にもない。……残念だったな、前鬼」

 

「いや、誰もそういう話してねえだろ!?」

 

 良晴がわたわたと手を振って否定する一方で、前鬼は愉快そうに笑い続けていた。

 

「……ふふ。人間とは、実に飽きぬ」

 

三人で笑い合っていたそのとき──。

 

「久しいな、天城刃。相良良晴」

 

 風を裂くように、低く静かな声が背後から響いた。次の瞬間、音もなく一陣の風が走り、忍び装束の者たち十数名が影のように現れる。その先頭に立っていたのは、あの男だった。

 

「さて、朝倉は総軍を率いて、すでに木ノ芽峠へと殺到してきた。この絶体絶命の危機を……さて、どう乗り切るつもりだ?」

 

 服部半蔵。桶狭間以来の再会だった。

 

さらに、目を怒らせ、あるいは涙を流し、決死の形相で集ってきたしんがり志願兵、総勢五百人。

 

「俺たち五百人の足軽兵、しんがりを志願しやした者たちですみゃあ!」

 

「みな、命を捨てる覚悟はできておりますみゃあ! せめて、天城さまと相良さまだけは……!」

 

「わしらは金で雇われた寄せ集めの尾張兵なれど……相良さまの勇気、天城さまの忠義に、心打たれたでみゃあ!」

 

「もはや故郷へ帰るつもりもありゃせん。姫さまのため、せめて、天城さまを生かして届けてやりてえんだがや!」

 

「これ以上、あの愛らしい姫さまを泣かせたくねえ……天城さま、どうかっ……!」

 

 涙ながらに叫ぶ彼らに、良晴は耐えきれなかった。

 

(こいつら……ほとんど、死ぬつもりだ)

 

 ――戦国の世。忠義も恋も命も、踏み砕かれる時代。

 

 そう思うと、胸が張り裂けそうになり、良晴は思わず「わっ」と声を上げて泣き出しそうになったが、歯を食いしばり、拳を握りしめて空威張りした。

 

「は、はははっ! 見事なまでに男しかいねぇじゃねえか! 俺の夢、モテモテハーレム人生はどこで間違ったんだ!? ……刃も人気だな」

 

「そうだな。……まったく、馬鹿どもめ」

 

 刃が口元を緩め、肩を竦める。

 

「しんがりに志願したおにゃのこたちは、すべて追い返しましたでみゃあ!」

 

「これは命を投げ打つ戦。尾張一の女好きと噂の相良さまを、これ以上悲しませたくねえがや」

 

「ここにおるのはみな、姫さまに恋い焦がれた男たちですみゃあ。……でも、しょせんは身分違い。結ばれぬ恋と、とうに知っておりますでや」

 

 そして、誰かがぽつりとつぶやいた。

 

「せめて、その想いを……忠義に変えさせてくだせぇ」

 

その言葉に、刃の眉がぴくりと動いた。ゆっくりと彼らを見回し、静かに問う。

 

「……お前たち、本当に、それでいいのか?」

 

 静まり返った陣中に、刃の声が低く響いた。

 焚き火の炎が揺れ、パチパチと薪の爆ぜる音が妙に耳に残る。

 五百の足軽たちが一斉に顔を上げ、その視線が紅い瞳の剣士に集まった。

 

「確かに――姫様は俺の恋人だ」

 その一言に、兵たちの間でざわりと小さな波が広がる。

 羨望、嫉妬、悔しさ……そして、諦め。

 だが刃は一歩も退かず、視線を逸らすことなく続けた。

 

「お前たちには、諦めてもらうしかない。……だがな――やる前から諦めてどうする!」

 

 その一喝は、炎のように熱を帯び、兵たちの胸を直撃する。

 誰もが瞬きすら忘れて、その言葉に耳を傾けた。

 

「恋も、忠義も、生き様も……戦場でこそ証明される! 勝てば、未来がある! 死んだら、すべては過去だ!」

 刃の声は、夜の冷気をも震わせる。

「お前たちはこれから先も、何かを手に入れる前から諦め続けるのか? 好きな人ができても、自分じゃ釣り合わないと背を向けるのか? 戦わずして、自分の価値を捨てるのか!」

 

 兵たちの握る槍の柄に、じわりと力がこもる。

 その言葉は、彼らの胸の奥深く――長年錆びついていた何かを確かに揺さぶっていた。

 

「それに……今、お前たちの帰りを待っている奴らはいないのか?」

 刃の声色が少しだけ柔らかくなる。

「両親、兄妹、友人、幼馴染……そういう奴らは、俺や良晴の無事よりも、お前たちが生きて帰ることを、何よりも願ってるはずだ」

 

 一拍置いて、刃は淡く笑う。

「……まぁ、死のうとして姫様を泣かせた俺が言える義理じゃないがな。だが今は――生きて帰ることしか考えていない。泣かせたくないからだ。もっとずっと、守りたい。幸せにしたい。そして……これからも一緒にいたいからだ」

 

 その言葉が、重く、しかし温かく胸に染みる。

 兵たちの間で、火を灯すように熱が広がっていった。

 自分が何のために槍を握ってきたのか、誰のために命を懸けるのか、その答えを思い出した者の瞳が輝きを取り戻す。

 

 その空気を感じ取って、良晴が大きく一歩踏み出した。

 いつもの軽口はなく、全身から闘志を噴き上げるように声を張り上げる。

 

「……聞いたな、野郎ども!!」

 兵たちの背筋が一斉に伸びる。

「行くぞ!! 俺たちで、この死地をぶち破るんだ! 誰一人、置いていかねぇ!! 全員で生きて帰る!!」

 

「「「「おおおおおおおおーーッ!!!」」」」

 

 雄叫びが夜空を震わせ、槍の石突が地面を突く音が連鎖する。

 抜き放たれる刀の金属音が、これから始まる死闘の予感を告げた。

 

恐怖でも、諦めでもない。今彼らを突き動かしているのは、死地にあってなお燃える命の昂ぶり、誇り、そして――信じた者と共に生き抜くという意志だった。

 

 こうして――

 日本史上最大の撤退戦、〝金ヶ崎の退き口〟が、いま幕を開けた。

それは、敗走ではなく、生き延びるための総力戦――未来へ繋ぐための戦いだった。

 

 

 

 

 

 

 

見たことのない光景だった。

 

深夜。月は雲に覆われ、闇が山野を飲み込んでいる。

しかし、その闇の中――四方八方で刀が閃き、槍の穂先が光り、影が生き物のように蠢いていた。

耳をつんざく怒号、金属のぶつかる音、断末魔の叫びが混ざり合い、地面までもが脈打つように震えている。

 

天城刃は、その修羅の中を駆けていた。

右肩から斜めに走る深い裂傷が、袴と肌をずたずたに裂き、脇腹の種子島の弾痕からは黒ずんだ血が絶え間なく滴り落ちる。

太腿や脛には無数の切り傷や擦り傷。呼吸をするたびに胸の奥が焼けるように痛み、視界は徐々に赤黒く滲んでいく。

 

――それでも、足を止めなかった。

 

「……ねね……すまん……もう……お前を撫でてやることは、できん……」

 

掠れた声は、風にかき消されるように消えていく。

それが、天城刃の最後の言葉だった。

 

そして――彼の体は仰向けに崩れ落ちた。

夜空の黒が、その身を包み込む。

魂だけが、なおも京を目指して走り続けるように――。

 

 

「……刃どのっ!?」

 

ねねは、はっと目を見開いた。

全身から冷や汗が噴き出し、胸が痛いほどに早鐘を打っている。

 

気がつけば、戦場も、刃の姿も、すべて霧が晴れるように消えていた。

そこは、真っ暗な部屋。

わずかな蝋燭の灯りに照らされた畳の上だった。

 

「……はあ、はあ……夢……ですか……よかった、ですぞ……」

 

ここは京の妙覚寺。

天城刃とその仲間たちが宿として借りている寺だ。

隣の部屋では竹中半兵衛が病で臥せっており、神医・曲直瀬ベルショールからもらった薬で深く眠っている。

蜂須賀五右衛門と相良良晴は近江へ出かけたまま、まだ戻っていない。

 

(……妙ですぞ……あの夢……夢と呼ぶにはあまりにも……あまりにも、ほんもの過ぎましたぞ)

 

ねねはまだ幼く、これまで一度も戦場を見たことはない。

けれど、今見た光景は、まるで自分がその場にいたかのように鮮烈で、生々しく、血の匂いまで感じるほどだった。

 

(刃どのに限って、まさか……そんなはず……)

 

自分に言い聞かせる。

兄さまとは違う。刃どのは強い。

その武は天下一品、数多の窮地を乗り越えてきた。

桶狭間でも、墨俣一夜城でも、清水寺でも――必ず、ねねが待つ家へ戻ってきてくれた。

今回だって、きっと、きっと大丈夫。そうに決まっている……。

 

……そう言い聞かせても、胸の奥に巣くう震えは止まらなかった。

 

もう一度、布団に潜り込み、目をぎゅっとつぶってみる。

だが、闇の奥で、あの声がこびりついたように離れない。

 

――ねね……すまん……もう、お前を撫でてやることは……できん……。

 

その一言が、まるで鋭い刃のように、何度も何度も胸に突き刺さる。

息をするのも苦しく、目の奥が熱くなる。

 

やがて――。

闇の中、ねねの頬を、耐えきれずにこぼれた一粒の涙が静かに伝った。

その雫は、畳に落ちて消えたが、胸騒ぎだけは、ますます深くねねを締め付けていった。

 

 

 

 

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