織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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金ヶ崎の退き口 中

越前・金ヶ崎城からの脱出――。

 天城刃、相良良晴、そしてわずか五百の命知らずな野郎どもは、血まみれの形相で山道をひた走っていた。

 背後からは、矢の雨。追いすがるのは、朝倉義景率いる追撃軍。

 その数、雲霞の如し。山も谷も、敵兵で埋め尽くされていた。

兵の誰もが、既に体のどこかに傷を負っている。

 それでも、誰一人として足を止めることはなかった。

 

「これが朝倉義景の追撃軍かよ!? とんでもねえ数じゃねぇか!」

 

「喋ってないで足を動かせ」

 

 刃が吐き捨てるように言い放つと、次の瞬間には宙を舞っていた。

 味方の一人に襲いかかった敵兵二人の喉元を、寸分の迷いもなく突き出された刃が貫く。

「天城さま!ありがとうございますみゃあ!」

 刃はそのまま木を蹴って枝を伝い、良晴の隣へと戻ってきた。

 

「……ったく、あいかわらず人間離れしてやがる。何人目だよ、今ので」

 

「さあな。八十……いや、もう百は屠っているだろうな」

 

「うおおおおっ! 逃げるでや大将〜っ! 天城さま〜っ!」

「敵は幾人あろうとも、恐れるに足らんでよぉっ!」

「必ずや、姫さまのもとへ天城さまをお連れするだみゃあ~っ!」

 

 後ろから叫ぶのは、命を張って付き従う五百の傭兵たち。

 寄せ集めの軍勢とは思えぬ士気の高さ――その声に、命が宿っている。

 

「俺のゲーム知識によればな、このイベントは“金ヶ崎の退き口”っていう伝説の撤退戦なんだ。

 つまり……ここを生き延びれば、俺も信奈も、無事に京に辿り着けるはずなんだよ……──って、わわっ!?」

 

 ――ガチィンッ!

 

 乾いた音が響いた。良晴の鉢巻きの後頭部に、銃弾が直撃したのだ。

 

「ひえええええっ!? い、今のちょっとでもズレてたら死んでたぁ!? あわ、あわわわっ!」

 

「戦場で油断するな、馬鹿タレ」

 

 刃が冷静に言い捨てると、飛来する次の銃弾を真っ向から斬り落とす。

 抜き打ちの剣は、風を裂き、鉛玉を正確に両断した。

 

「やれやれ……思い込みの強い男だ。鉛玉に当たって死ぬなど、あまりにつまらん」

 

 そう言いながら、ふわりと宙に現れたのは――竹中半兵衛に召喚された式神・前鬼。

 風の中をふよふよと舞いながら、けたけたと愉快そうに笑う。

 

「だがまあ……“人間”というのは、思い込んだ者勝ちでもある。なあ相良、見ろ、お主と天城の顔。実に運気の良さそうな吉相だ」

 

「だろ? 俺も刃も、まだまだ死なねぇ。運命だって、知識でひっくり返してみせるさ!」

 

「だがな……相良。天城には“女難”の相がとても強く出ておるぞ。ふむふむ、前途にはなかなかに厄介な事態が待っておる。女絡みでの騒動は避けられぬようじゃな」

 

 良晴が思わず吹き出しかける。だが、刃は静かに――しかし確かに、口を結んで応えた。

 

「……覚悟はしている」

 

 その目には、一切の迷いもなかった。

 

 雨のような矢、唸る銃声、響き渡る怒号と、血の臭い。

 それでもなお、彼らは走り続ける。

 命を捨てるのではなく、生き延びるために。

 たった一つの願い――「姫のもとへ帰る」ために。

 

 

 

「良晴。このまま逃げ続けても、時間は稼げん。姫様たちを京へ逃がす。それが俺たちしんがり部隊の仕事だ」

 

 刃の声は静かだったが、その言葉の奥には揺るがぬ覚悟があった。

 

「天城刃の言う通りだ。我らを蹴散らせば、本隊の織田軍に追いつける――敵はそれを承知の上で攻めてきている。覚悟が違う」

 

 木々の間を音もなく駆ける黒装束。

 松平家の忍び、服部半蔵が氷のような目で良晴を見据える。

 

「五百人の手勢。正面から当たれば、確実に潰される」

 

「だが幸い、十兵衛ちゃんから種子島を五十丁借りてる。追っ手を銃撃しながら退くぞ!」

 

「五十丁では足らん。しかも今の我らに、弾込めの余裕はない」

 

 刃が一歩前に出た。

 

「良晴、俺はこれより斬り込む。お前はすぐに作戦を考えろ。鉄砲隊の一斉射撃を合図に、俺も引く」

 

 言うが早いか、刃はひとり飛び出した。

 

「は? ちょっ、待て刃!」

 

「一人で突っ込んできたぞ!」

「討ち取れ!」

「ま、待て……そいつは……!」

 

 敵の先頭にいた三人の首が、一瞬で飛んだ。

 

「やれるものなら、やってみるがいい。だがな――この首、タダで渡すほど安くはない」

 

 刃が低く呟き、血煙の中で刀を構える。

 

(……急げ良晴。この数を長時間、止め続けるのは流石に骨が折れる)

 

 良晴は振り返り、決死隊の面々に叫ぶ。

 

「急げ! 鉄砲を扱える者を募る! この中に種子島の扱いに長けた者はいるか!?」

 

「わしゃあ槍専門だみゃあ!」

「わっちは刀よ」

「わが得物は鎖鎌」

「私は落とし穴。ふっふっふ」

「おいどんは突っ張りでごわす」

 

 ……壊滅的だった。

 

 この五百人は皆、一騎当千の腕を持つ猛者たち。

 だが逆に、鉄砲にはまるで縁がなかった。

 

(十兵衛ちゃんは五十丁の種子島を惜しげもなく貸してくれたが……肝心の鉄砲隊の精鋭たちは、十兵衛ちゃんと一緒に先に撤退しちまってる!?)

 

 良晴は歯を食いしばった。

 

「クソっ……いくら刃でも、あの数を一人で食い止め続けるのは無理だ。何か……何か手は――」

 

 その時、脳裏に電流が走るようにひとつの光景がよぎった。

 

「……そうだ! 三段撃ちだ!」

 

 その場にいた兵たちが、どよめいた。

 

「「「三段撃ち!?」」」

 

 良晴は即座に叫ぶように指示を出した。

 

「いいか、これは未来で信長が長篠でやる伝説の戦術だ。絶対に他言無用! 種子島の欠点は、一発撃つと次の装填に時間がかかるってことだ。普通は二発目を撃つ前に斬り込まれて終わりだ……!」

 

「だから撃ったらすぐ刀を抜くのが常でごわすよ!」

 

「だが今回は違う! 五百人を三つの班に分ける! 一つは“火薬と弾を込める係”、もう一つは“火縄に点火する係”、そして“撃つ係”! この三人一組で、絶え間なく撃ち続ける!」

 

 良晴の目に、閃光のような自信が灯った。

 

 この戦術――“三段撃ち”には異説があった。

 一般に知られるのは鉄砲を千丁ずつ三列に分けて、前から順に連射する方法。

 しかしもう一つ、種子島の運用を「分業制」にすることで、射撃間隔を極限まで短縮するという説もある。

 

 良晴は、絶体絶命のこの戦場で、後者の戦術を思い出したのだった。

 

「刃! 撤退しろ! 今から撃つ! 流れ弾が当たっても知らねえぞ!」

 

 刃は一瞬、振り返って良晴を見やった。その口元にうっすら笑み。

 

「――了解」

 

 それだけ言って、敵軍の中で翻るように身を躱し、木立の影に退いた。

 

「うおおおお……やるぞ……撃てえええっ!!」

 

 良晴は声を張り上げながら、目をつぶって引き金を引いた。

 轟音とともに、火花がまき散り、鉄砲の反動が肩にずしんと響いた。

 

 ……だが、弾は当たらない。

 そしてそれは、周囲の即席素人鉄砲隊も同じだった。

 

 火縄に火を付ける者、薬包を詰める者、撃つ者。

 混乱と緊張の中、互いに動きが噛み合わず、構えもままならない。

 

 しかし――それでも効果はあった。

 

 朝倉軍の先鋒隊は、霧に煙る山道で、思いもよらぬ鉄砲の一斉射撃を受けた。

 霧の奥から鳴り響いた種子島の爆音に、敵の歩兵たちは一瞬足を止めた。

 視界は悪く、音ばかりがやたらと響く。敵の数も見えず、位置もわからない。

 

「な、なんだ!? 鉄砲だと!?」

 

「くそっ、どこから撃ってきている!? 距離がわからん!」

 

 混乱の声が響く。

 

「落ち着け! 種子島は単発! 一発撃ったら、もう次はすぐには撃てぬ!」

 

 敵軍の指揮官が、軍配を高々と掲げた。

 

「斬り込め! 一気に前へ! 間合いに入れば、もう終いじゃ!」

 

 軍配が振り下ろされ、槍兵たちが吶喊する。

 

 ――その時。

 

 良晴が必死に込め直した二発目が、偶然にも、その指揮官の兜を直撃した。

 

「ば……バカな……!?」

 

 敵の大将は、信じられないという顔で呻きながら、そのまま馬から落ちた。

 

 大将の落馬。それは、戦場では何よりの動揺を生む。

 

「大将がやられたぞ!」「あれは南蛮鉄砲か!?」

 

「まさか連発できるのか!?」「嘘だろ、聞いてねえ!」

 

 次の瞬間――。

 

「次、撃てえぇぇっ!!」良晴の怒声と共に、第三の射撃班が引き金を引いた。

 

 ――ドォン、ドォン、ドォォン!!

 

 再び響く爆音、火花、煙。

 霧に包まれた山道は、まるで雷が連続して落ちたかのように錯覚させた。

 

「こ、これは連発銃じゃあああああ!!」

 

「織田軍、南蛮から新兵器を……!?」「いや、魔術か!? 妖術か!?」

 

 たちまち、朝倉軍の先鋒は陣形を崩した。

良晴は歯を食いしばり、叫ぶ。

 

「今だ! 撃つ係は下がれ、装填係、交代! 次の班、前へ!」

 

 見よう見まねで始めた三段の分業は、徐々に形になり始めていた。

 

「……まぐれでも、当たれば勝ちなんだよ……!」

 

 震える手をぎゅっと握り締め、肩で息をしながら良晴は立ち尽くしていた。

 

 木々の影から、静かに忍ぶように現れた刃が、血に濡れた刀を軽く払って鞘に収める。

 

「上出来だ、良晴。……見直した」

 

「お、おう……ま、まだ終わってねえけどな!」

 

 口では強がるものの、良晴の額には冷や汗が滲んでいた。だがその目には、確かな光が宿っている。恐怖を押し込め、仲間の命を背負う覚悟の光だ。

 

「服部党、参るぞ」

 

 半蔵の鋭い一声とともに、黒装束の忍びたちが一斉に森の闇から躍り出る。音もなく、影のように朝倉軍の混乱の中へと滑り込み、手裏剣が空を裂き、クナイが喉を裂き、撒菱が敵の足を奪う。さらに視界を覆い隠すように煙幕が広がった。

 

 もともと霧に包まれていた山道が、忍びたちの技によって完全な闇と化した。

 

「う、後ろが見えねえ!」

「どっちが敵だ!? くそ、煙で前が見えん!」

「ぐあっ!? 足元に何か……!」

 

 混乱する朝倉軍。耳を劈くような種子島の轟音に、視覚も聴覚も奪われ、秩序は跡形もなく崩れていた。

 

 ――そして。

 

 突如、地の底から唸るような振動とともに、天地を揺るがす爆音が轟いた。

 

 視界の奥で火柱が立ち上がる。悲鳴と肉片が宙を舞い、木々を揺らす衝撃が周囲を包む。

 

 冷酷非情、服部半蔵。

 彼があらかじめ設置していた爆薬――ほうろく玉が、敵軍の密集地で炸裂したのだ。

 

「今だ!」

 

 良晴が全身の力を込めて叫ぶ。

 

「撤退ッ――全員、駆けろォォォ!!」

 

 五百の決死隊が一斉に山道を駆け出す。もう誰一人、振り返らない。

 

 その中で、良晴も必死に足を動かしていた。

 高校時代、ドッジボールで培った逃げ足。それは今、命を繋ぐ最大の武器と化している。

 

 だが、今回の逃走は過去のどんな授業よりも苛烈だった。山は険しく、背後からは朝倉の本隊が地鳴りのように迫っている。

 それでも――。

 

「よくやったぞ、相良良晴」

 

 いつの間に追いついてきたのか、服部半蔵が良晴の隣に並走していた。あいかわらず、足音ひとつ立てないその走り。息も乱さず、抑揚のない声で、だが確かに褒め言葉を口にした。

 

「仕掛けたほうろく玉が炸裂するまで、敵をあの場に釘付けにできた。あの混乱、もはや先鋒隊は壊滅と見ていい」

 

「半蔵! ……おまえなあ、いくらなんでもあれはやりすぎだ!」

 

良晴の抗議に、半蔵は一瞥だけをくれて言い放つ。

 

「戦だ。甘さが命取りとなる。……それに、残るほうろく玉はあと一つ。次の交戦は、貴様の機転と勘が全てを決する」

 

「勘と逃げ足だけなら、俺に任せとけっての!」

 

 良晴は必死に笑い飛ばしたが、その背中には冷や汗が止まらなかった。

 だが、それでも。

 

 ――決して足は止まらない。

 

 五百の決死隊。どいつもこいつも、どこか常軌を逸した連中ばかりだが、そのぶん体力は常人離れしていた。

 

 超人的な脚力を誇る服部党の速度にぴたりと食らいつき、誰ひとりとして脱落しない。

 

 後方では、刃が孤軍奮闘していた。敵に追いつかれかけた仲間を救い、そのまま振り向きざまに敵兵の喉を断ち切る。

 枝の上を滑るように走り、幹を蹴って高く跳ぶ。まるで獣のような動きで敵を翻弄し、寸分の無駄なく殺し続けていた。

 

 刃がいなければ、今頃この五百人のうち一割は落命していたことだろう。

 

「まだ……まだいける。まだ逃げ切れる……!」

 

 良晴は前方を睨みつけた。視線の先にあるのは、遥か彼方の京――。

 

「ふう……面倒な連中よのう、人間は」

 

 空中をふわふわと漂う前鬼が、優雅にあくびをしながら良晴たちを追い越していく。まるで空気の抵抗すら受けないような、夢のような浮遊だった。

 

 しかし、その目だけは爛々と輝き、次の戦を見据えている。

 

 

 

 

 

 

 

──戦場に、奇跡が、起こっていた。

 

 前鬼が呼び出す濃霧が、敵の視界を奪い、音と気配だけが支配する山の中に、不気味な静けさをもたらす。その霧の中、良晴が知識の断片から無理矢理にひねり出した三段撃ちは、予想外に効果的だった。素人集団の乱れ打ちですら、敵から見れば「次にいつ、どこから、何が飛んでくるかわからない」脅威であり、それが兵の足を止める。

 

 さらに、恐怖に支配された敵陣を切り裂いていくのは──天城刃。

 

「ぐ、ぐわあっ……!?」

「な、なんだあいつは……!? 見えなかったぞ……!」

「聞いてたか……! “天の白刃”だ……織田軍の最強戦力……織田信奈の懐刀……!」

 

迫ってくる者を一人、また一人と静かに斬り倒し、最後尾を死守し続けるその姿は、まさに一騎当千の化け物。

 

 そして、服部半蔵率いる忍び部隊の攪乱は、まるで神出鬼没。撒菱で敵の動きを止め、煙幕で視界を奪い、音もなく爆薬を仕掛けては突如として破裂させる。そのたびに山が鳴動し、朝倉軍は再び陣形を崩し、混乱と恐慌に包まれていく。

 

 ──四者が一体となり、まるで一つの生き物のように機能したその戦術は、追撃を五度までも振り切った。

 

 しかし。

 この奇跡を現出させた最大の要因は、策略でも剣でも忍でもない。

その中心にいたのは、誰よりも陽気で、誰よりも仲間を信じている男。

 

「おい! おまえらまだ死ぬなよ!? みんなで京に帰るんだからな!」

 

 しんがり部隊の中央で声を張り上げる、相良良晴。

 腕っぷしはない。剣の腕も並以下。鉄砲の狙いすら定まらない──

 だが、誰よりも折れず、逃げず、仲間を鼓舞し続ける“心”を持っていた。

 

「死ぬな! 信奈が泣くぞ! 俺も泣くぞ! だからお前ら全員、生きて帰れぇええっ!!」

 

 血まみれになって走りながら、良晴は笑っていた。

 いびつで、馬鹿みたいに前向きなその叫びは、疲労と恐怖で限界を迎えていた兵たちの胸を、深く強く打った。

 

「大将! わかってますみゃあ! 生きて、姫さまに報告するんだぎゃあ!」

 

「姫さまを泣かせるわけにはいかないぎゃあ! あの涙を、もう二度と見たくないぎゃあ!」

 

そして、その言葉を現実のものとするかのように、常に最後尾で味方の背を守り続け、絶えず追撃の刃を断ち斬り、まさに“盾”として、しんがり部隊全員の命を繋ぎとめてきた刃の存在だった。

 

言葉少なに、ただ剣で敵をなぎ倒し続けるその姿が、「絶対に見捨てられない」という信頼をしんがり部隊の者たちに深く植えつけていった。

 

「……あの二人のために死ねる」

 誰もが、そう思っていた。

 

 前鬼はその気配を、半蔵はその空気を、はっきりと感じ取っていた。

 この戦場を突き動かしていたのは、策ではない。戦術や戦略では説明しきれない、“心の力”──。

 それこそが、この戦場に奇跡をもたらした、最大にして最強の武器だったのだ。

 

「一刻も早く追っ手との距離を空けてぇが、この先は山越えの難所が続く。休まなきゃ、京までは走りきれねぇ」

 

 息を切らしながらも、良晴は周囲を見回した。足を引きずる者。肩を貸し合う者。だが、誰一人として倒れようとはしない。全員、顔を上げていた。

 

「よし、ここで休む!」

 

 そう言い放つと、良晴はズカズカと笹の葉の上に寝転がり、大の字になった。

 

 いびきが、響いた。

 

「おいおい、いくらなんでも……」

「ははっ、まったく……」

「だが、それが良晴さまだで」

 

 前鬼が木の枝に腰をかけて、クツクツと笑った。

 

「こやつ、ずぶとさだけは人間離れしておるな」

 

 足軽たちも、どこか安堵したような顔で口々に言う。

 

「戦はからきし弱いし、鉄砲の腕も下手っぴいだけど、立派な大将だぎゃあ」

「戦場であんなに爆睡できるやつ、おらんよな」

「いや、逆に尊敬するで……」

 

 笑いが起きた。乾いた、疲れ切った体から漏れるような笑いだったが、それは確かに“生きている者の笑い”だった。

 

 

 わずか十分の仮眠。それでも良晴には充分だった。

 

「よーし、それじゃ行くぜ! ここからは山登りだぞ!」

 

 血だらけの顔に、どこか無垢な笑顔を浮かべながら良晴が立ち上がる。

 

 誰も脱落していない。殿に志願した五百人、全員がそこにいた。

 それはもはや奇跡の領域だった。

 

 深夜。空は暗く、月すら隠れている。

 

「われらはこのまま山中を進む。これより、越前を抜けて若狭へ入る」

 

 先頭に立った半蔵が、切り立つ崖をよじ登って峠に立ち、静かに言った。

 

 その背後から、良晴たちが、四つん這いになりながら、あるいは仲間に手を引かれながら、次々に登ってくる。

 

 皆が皆、傷だらけだった。

 良晴は酷い。敵に「あれが大将だ」と見抜かれ、狙われ、常に狙撃や追撃の的になった男の顔は、血でぐしゃぐしゃだった。額も頰も切れていた。火薬の煙で目は赤く充血し、息を吸うたびに胸がズキンと痛む。

 

 だが、それでも前を向く。

 

 刃の姿もひどかった。最後尾を走り続けた刃は、体のいたるところに切り傷があり、袴は自身の血と返り血で赤黒く染まり、銀の髪は汚れと返り血で色を失っていた。だがその双眸は鋭く、呼吸は安定し、今にも次の戦に飛び込める気迫を残していた。

 

「みんな、足はだいじょうぶかっ!?」

 

 良晴が振り返って叫ぶと──

 

「まだまだ走れますみゃあ!」

「妙に気分が高揚してますみゃあ!」

「姫さまの笑顔を思い浮かべれば勇気百倍、鋭気りんりんだぎゃ!」

「喉は渇いてるが心は潤ってるで!」

 

 まるで狂気じみたテンションだった。だが、それでいいのだ。極限に置かれた者たちほど、笑うことで自分の正気を保つ。戦は理屈ではない、心で走るものだ。

 

「ならばよしっ! 若狭まで逃げれば、敵も追撃をあきらめるはずだぜ! あと一歩だ!」

 

 良晴の声に、血まみれの決死隊たちは一斉にどっと沸いた。

 

「おおおおおおっ!!」

 

 それはもはや士気というより、執念と魂の咆哮だった。生き延びてやる、絶対に帰る──その意志だけが、疲労を打ち消していた。

 

「油断するな」

 

 刃の声が、空気を冷やすように響く。

 

 銀の髪を血に濡らしながら、彼はじっと前方の山道をにらみつけている。

 

「敵は、俺たちを討ち取れずにここまで来た。その分、今度こそ仕留めねばならぬと、総力をかけてくるはずだ」

 

 全員がごくりと唾を飲んだ。山の向こう、風の音の中に、太鼓の音が混じりはじめていた。

 

「恐らく、今までの比にならないくらい激しい戦いになる。……死にたくなければ、全力を尽くせ」

 

「分かってる!」

 

 良晴は、ぎゅっと拳を握った。

 

「前鬼、半蔵! 準備はできてるな!?」

 

「当然だ」

 前鬼が笑う。狐顔に、妖しい気配がにじむ。

「ふん……言われるまでもない」

 いつの間にか後方に立っていた半蔵が、静かに頷いた。

 

と──

 

 谷を震わせるような鬨の声が、ついに霧の向こうから響いてきた。

 それは一つではない。一万を優に超える大軍の咆哮だ。

 

 木々の間から、無数の槍と旗が揺れて見えた。

 全身を甲冑で固めた朝倉軍の精鋭部隊が、まるで地鳴りのような足音を響かせて、こちらへ迫ってくる。

 

 見れば、敵兵の目は血走り、声を枯らして吠えている。

 この戦で、しんがり部隊を討ち果たすことが、自分たちの使命と叩き込まれているのだろう。

 

「来やがった……!」

 

 良晴が、血のついた額から汗をぬぐい、叫んだ。

 

「いくぞっ! ここが正念場だ! ここを超えれば、俺たちは生きて帰れるんだっ!!」

 

 その瞬間、五百人の決死隊が、一斉に雄叫びを上げた。

 

「「「おおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」

 

 まるで雷鳴のように、山に響く怒声。

 その声に呼応するように、前鬼が霧を濃く、濃く巻き起こす。

 空気が震え、視界が閉ざされていく。

 

 木々の間を駆け抜ける忍びたちが撒いた撒菱と煙幕が、敵の前進を遅らせる。

 半蔵の放った数本の火矢が、道端に仕掛けられた油を爆ぜさせ、火の壁が立ち上がる。

 

 良晴は、叫んだ。

 

「全員、配置につけっ! 三段撃ち、第一隊──構えぇッ!!」

 

 種子島を構える兵たちの顔に、もう恐れはなかった。

 そこにあったのは、ただ一つ──生還への狂おしいまでの願いと、仲間を守る覚悟。

 

 そして、ついに。

 

 山中の霧をかき分け、朝倉の精鋭が殺到してくる。

 

 しんがり部隊と、追撃軍。

 生と死と執念のすべてをかけた、最後の決戦が──始まった。

 

 

 

 

 

「姫さま。朽木谷に入りましたよっ! この難所を通り抜ければ、あとは一直線。京は目の前ですよっ!」

 

 勝家の声が山間に響いた。だが、その知らせに信奈は返事すらできなかった。

 

 金ヶ崎城に――自らの懐刀であり、魂の半身であり、そして何よりも、恋人。天城刃を、置き去りにしてきた。

 

 胸を貫くような現実が、信奈の小さな身体を蝕んでいた。

 

平坦な西近江街道を大軍勢で堂々と進んだあの出陣の日が、はるか昔のことのように思えた。今、彼女はわずかな側近とともに、落ち延びるしかない敗走者となっていた。

 

道は狭く、崖は険しく、木々は風を遮り、冷え切った湿気が肌にまとわりつく。だが、どんなに心細いこの裏街道よりも――横に、刃がいないことの方が、何倍も恐ろしく、寒かった。

 

この逃走劇のあいだ、信奈は一睡もしていなかった。

 

 体力は尽き、目の奥が灼けるように痛み、視界は時折歪む。

 

 だが、涙だけは流れなかった。

 

 もう、涸れてしまっていた。

 

 あまりにも強い悲しみ、あまりにも大きな喪失感が、信奈の内側を焼き尽くしていた。泣くという当たり前の感情すら、この小さな体に残されていなかった。

 

 ――刃が、そばにいない。

 

 ただそれだけで、信奈の中の何かが、少しずつ、静かに崩れ落ちていく。

 

 「ここが私の墓場になるかもしれません」

 

 その一言が、耳の奥で何度も、何度もこだまする。

 

 刃が、そんなことを言うなんて。あの無敵で、絶対に死なないと信じられる強さを持った彼が、初めて……本心から、死を覚悟していた。

 

 (……脱出の時は、大丈夫だと思ってたのに)

 

刃がそばにいないだけで、信奈の世界は、こんなにも不安定になる。心が、揺れる。呼吸が浅くなる。刃が、いない未来なんて──考えたくないのに、頭が勝手に想像してしまう。

 彼が倒れている姿。彼の刀が、泥にまみれて転がっている情景。声にならない絶叫が、胸の奥で押し殺されていく。

 

 後悔。

 胸の痛み。

 胸が引き裂かれそうな、痛み。

 

 もし彼を失ったなら──もし、あの男がもう、二度と目の前に現れなかったなら。

 

 信奈は、狂う。

 浅井久政を殺さずには済まない。いや、それだけでは済まない。浅井家ごと、朝倉家ごと、すべてを潰す。

 それが天下布武の夢を壊すとしても。

 なにもかもが灰になっても。

 

 あいつのいない未来なんて、考えられない。

 あいつと共に笑えない世界なんて、生きていたくない。

 

 だから――生きる。泥をすすってでも、這ってでも、必ず生き延びて、京へ帰る。

 

(あいつが帰ってきた時、真っ先に抱きしめてやる。二度と離れないって、言ってやるんだから……!)

怒りが、ほんとうなら馬から滑り落ちて号泣せずにはいられない信奈を、かろうじて支えていた。

 

しかし、その怒りも……。

 

 すでに、限度に達しようとしていた。

 

 燃えるような激情で心を支えてきた信奈の内面に、音もなく亀裂が走る。怒りは、常に燃え続けていられるほど都合の良い感情ではない。憎しみの炎すら、あまりに強く燃えすぎれば、燃料が尽きていく。

 

 刃を失うかもしれないという現実が、信奈の足元をじわじわと侵食していた。

 

 「姫さま、だいじょうぶですか?」

 

 勝家の声が、張り詰めた空気を切り裂くように響いた。

 

 「この朽木谷は、朽木信濃守という国人が支配する土地です。信濃守は浅井家に従属している身ですから、すでにわれらの敵に回っているやもしれません。しかも……われらの行く手には、朽木城が立ちふさがっていて、無断で通行するわけにも参りませんっ」

 

 それは、すなわち、ここが命運を分かつ関門であることを意味していた。

 

 「……姫さま。ここでいったん停止する!」

 

 鋭い声と共に、勝家と犬千代が同時に信奈の手綱を引いた。

 

 思わず、利刀黒がいななき、前脚を止める。信奈の身体が大きく前へ揺れた。

 

 「姫さまっ! お気を確かにっ!」

 

 勝家の手が信奈の肩を支える。犬千代の顔には、血と汗と泥が入り混じっていた。彼女もまた、満身創痍。鎧は擦り切れ、脇腹からはうっすらと血が滲んでいた。

 

 真っ先に戦場から逃げ出した……などという陰口は、もはや侮辱にすらならない。刃という最強の守護者が不在の今、信奈は決して安全な道をらくらくと逃げてこられたわけではない。

それどころか、

 「おい、見ろよ……あれが織田の姫だぁあ!!」

 「生け捕りで金百貫! 首だけでも五十貫だべ!!」

 「ひひひっ……すぐにでもひん剥いてやらあ!!」

と目を血走らせて続々と湧いてくる落ち武者狩りの連中につけねらわれ、追い回されてきた。

 

刃がいれば――。

 

 たった一人で全てを薙ぎ払ってくれたに違いない。

 

 あの紅い瞳と銀の剣が閃けば、敵は何もできずに沈む。信奈の前に立つことすら叶わない。どれほどの逆境であろうと、刃がいるというただそれだけで、信奈は王者として毅然としていられた。

 

 けれど今、いない。

 

 信奈は、ただの少女ではいられないのだ。

 

 刃の不在が、心の空洞となって彼女を襲う。

冷たく、無音で、無慈悲に。

 

 だが、止まってなどいられない。

 

 ――京へ、戻らなければならない。

 

 もし戻れなければ、「織田信奈は討ち死にした」という虚報が、都を駆け巡ることになり、京はどうなるかわからない。京が敵対勢力の手に落ちるよりも先に生還できれば、軍を再編し、反転攻勢に出ることができる。

豆粒ほどのほんの小さな可能性ではあるが、しんがり軍を率いている刃を救いだせるかもしれない……。

 

心のどこかで信じたい、「天城刃は絶対に死なない」と。

しかし、できない。

もう、涙なんて一滴残らず流し尽くしたと、思っていたのに。

 

また……流れてくる。

 

痛みは尽きない。悲しみは枯れない。

喉の奥が焼け付くようで、胸の奥が、鉛のように沈んでいく。

 

この世で、ただ一人。

自分を無条件で信じ、愛し、命を捧げてくれた存在──

 

「……うう、うぅぅぅっ……刃……」

 

信奈の声は、もはや言葉になっていなかった。

嗚咽がすべてを押し流し、名馬「利刀黒」の背の上で、ただ肩を震わせ続けていた。

馬上の姫大名の姿とは思えぬ、無防備で、壊れそうな横顔。

 

「ああ……姫さまが……姫さまがどんどん壊れていくぅ! 姫さま、なんとおいたわしや……!」

 

 どうしてよいかわからず、勝家は両手をぶんぶん振り回しておろおろとするばかりだった。勇猛果敢な女武者も、今はただ、混乱と涙の波に飲まれて立ち尽くしていた。

 

 ──その時。

 

 突如、乾いた音が夜気を裂いた。

 

 ぱんっ!!

 

 「……姫さま、いいかげんにする」

 

 静かに、けれど怒りを押し殺したような声が響いた。

 

 犬千代だった。

 口数は少ないが、どこまでもまっすぐな瞳を持つ少女武将──その手が、信奈の頬を力いっぱい張り飛ばしていた。

 

「……泣いていても、無駄。姫さまが生き延びなければ、刃と良晴がしんがりを志願した意味がなくなる」

 

 「ななななんてことするんだ犬千代~~っ!? 今のは反逆罪ですぞ!?」

 勝家が、泣き叫びながら制止しようとする。だが、犬千代は構わず一歩前へ出た。

 

 信奈は、呆然と犬千代を見つめていた。

 その赤く腫れた頬に、まだ手のひらの痕が生々しく浮かんでいる。

 

 「……犬千代……? わたし……なにをしていたのかしら……? ここは……どこ……?」

 

 「……ここは朽木谷。これから朽木信濃守と交渉しなければならない」

 

 犬千代の声は、静かで、力強かった。

 自分より幼いはずのその娘の目に、今の信奈にはない確かな光があった。

 

 「……そう……そうだったわね……」

 

 信奈がふらつきながらも立ち上がる。足元は覚束ない。だが、ようやく現実を受け止める覚悟が、その瞳に戻りつつあった。

 

 「……姫さま。刃と良晴は生きている。今は、そう信じるしかない。長秀たちも、みんなそう信じてるからこそ、刃と良晴のために道を作るという危険を冒しながら、厳しい撤退戦を続けている。自らしんがりを志願した名もなき足軽たちも……姫さまがそんな顔をしていたら、浮かばれない……」

 

 その言葉が、信奈の胸を打った。

 

 はっ、としたように目を見開く。

 脳裏に浮かぶ、刃の姿。そして良晴。さらに、名も知らぬ足軽たち──金で雇われただけの傭兵たちまでもが、命を捨てる覚悟で、しんがりを務めてくれている。

 

……なのに、わたしは。

 

わたしは、刃ばかりを心配していた。

あの優しく、不器用で、何も言わずに背負ってくれる刃だけを。

良晴のことも、足軽たちの命の重さも、顧みずに。

 

信奈は、ぎゅっと拳を握りしめ、犬千代に背を向けて深く息を吸い込んだ。震える心を、必死に押し殺し、目に涙を浮かべながらも、笑顔を作った。

 

「──ありがとう、犬千代。わたし、どうかしていたわ。そうよね、刃が死ぬはずなんてない!日ノ本最強で、わたしの──わたしだけの懐刀なんだから!」

 

 そう言って、信奈はぐっと胸を張った。

 

「きっと、朝倉勢を斬りながら、京に向かってるのよね!誰よりも真っ直ぐに、命を削りながら、わたしの元へ戻ろうとしてるに決まってる!」

 

 犬千代は、小さくうなずいた。

 

「……(こくり)」

 

「そうよ……大将であるわたしが、めそめそしてる場合じゃなかったのよね。ほんと、ごめんなさい、犬千代。……京に着いたら、ういろうをあげるわね」

 

 犬千代は、二度、力強くうなずいた。

 

「……(こくり、こくり)」

 

 その姿に、信奈もまた、わずかに微笑む。

 

(二人とも……金ヶ崎を脱出してからここまで、一度だってサルや刃のことを想って涙を見せなかった……)

 

 信奈はふと犬千代と勝家の横顔を見つめた。

 彼女たちの顔には、疲労と焦りの色が滲んでいる。それでも、涙は見せない。歯を食いしばって、ただ前を向いて進んでいる。

 

(ほんとうは、六も犬千代も……悲しくて、悲しくて、声を上げて泣きたいはずなのに……)

 

 それでも彼女たちは泣かなかった。自分の前でだけは。

 

(わたしのためなんだわ。わたしをこれ以上、悲しませたくない一心で、感情を押し殺して……)

 

 その想いが胸に迫って、信奈の喉がぎゅっと締めつけられた。

 泣きたかった。思いきり声を上げて、誰かの胸で泣きじゃくりたかった。

 けれど──

 

(……決めたわ。京へ、生きて帰るまで……涙は、もう流さない)

 

 その決意とともに、信奈はまっすぐ前を見た。

 視界に立ちはだかるのは、山深く、霧に包まれた朽木谷──まるで京の裏側にひっそりと口を開ける、隠れ里のようだ。

 

「朽木谷……まるで京の裏鬼門に潜む異界ね。無断で押し通るわけにはいかないの、犬千代?」

 

 信奈の問いに、犬千代は黙ってうなずいた。

 

「……この小勢では難しい。朽木谷は代々、足利将軍家の退避地として守られてきた特別な場所。たとえ戦火の中でも、無断で入れば、容赦なく討たれる」

 

「であるか……ぐずぐずしている暇はないわね」

 

 信奈が険しい表情を浮かべる横で、勝家が不安げに言葉を投げた。

 

「でも、誰が朽木信濃守と交渉するの? あたし、面識ないよっ! そもそも、武家言葉とか苦手だし!」

 

「……犬千代もない」

 

 犬千代はそっと首を振った。自分も交渉役には向かないと、静かに意思を示す。

 

「長秀か光秀がいてくれたら、うまく折衝してくれるんでしょうけど……到着を待つ?」

 

「それはダメよ、六」

 

 信奈の声が、きっぱりと断ち切った。

 

「朽木信濃守は浅井家に従属しているんでしょう? のんびり待っていたら、敵の本隊に追いつかれて終わりよ。このまま谷に潜み続けるわけにはいかないの」

 

 本当は、「早く京に戻って『織田信奈は無事だ』と天下に知らしめなければならない」「軍を立て直し、刃に援軍を送らなければならない」と叫びたかった。

 でも、それはまだ胸の内にしまっておく。焦りをあらわにすることで、仲間たちに不安を与えたくはなかった。

 

「そ、そうですねっ!」と勝家が無理やり気勢を上げる。「でもあたしが使者に立つと、たぶん揉める気がするなぁ……交渉の最中にあたし、カッとなって朽木なんとかをぶん殴っちゃうかも……いっそ殺しちゃいます?」

 

「……はあ、ほんとバカね、六」

 

 信奈は呆れたようにため息をついた。

 

「わたしたちはまだこの先、逃げの連続なのよ? そんな無体な真似をしたら、もう誰もわたしたちを通してくれなくなる。戦場での信用は命と同じくらい大事なの。自分で自分の首を絞めるような真似、やめてちょうだい」

 

「ぎょ、御意っ! ううっ……す、すみません……あたしってば脳筋で……」

 

「ノーキン?」

 

「サル語です、姫さま。意味はよくわかんないんですけど、たぶん“あたしの脳みそが筋肉でできてる”って意味だと思います……って、言ってて腹立ってきた! サルのやつぅうううっ!」

 

「……サルらしいわね」

 

 信奈は苦笑し、犬千代も小さくふるふると首を横に振った。

 口数少ない彼女の「わたしには交渉は無理です」という無言のアピールだ。

 

 ──結局、交渉に出られるのは一人しかいない。

 

「この面々で、いちばん弁が立つのは……わたしね。決めたわ。わたしが朽木信濃守に直接、会いに行く!」

 

信奈が馬の手綱を取り、意を決して一歩踏み出そうとした──その瞬間。

 

「だだだダメですってば姫さまああっ!! それ、火の中に突っ込む夏の虫ってやつですぅぅうっ!」

 

 勝家が飛びついて信奈の腕にしがみついた。

 

「……絶対だめ。姫さま、弁は立つけど、口が悪い。毒舌で唯我独尊。相手の怒りを買う天才……交渉が決裂する未来しか見えない」

 

 犬千代までが、無表情でしっかりと手綱を押さえている。信奈を止めるのに、珍しく強い力がこもっていた。

 

「でも……だったら、誰が行くっていうのよ!?」

 

 信奈が苛立ちを隠さず叫ぶと──

 

「──うふ。このわたくしが、参りましょう」

 

 その声は、唐突に茂みの奥から響いた。まるで舞台の幕が開くかのように、草葉をかき分けて現れたのは──

 

 褐色の肌に、唐風の艶やかな衣をまとい、長い足をだらしなく馬の背から投げ出して寝そべる、妖艶なる毒の麗人。

 

「久秀っ!?」

 

「……松永弾正」

 

 松永弾正久秀──通称「蠍」。

 

 かつて京を血と煙に染めた乱世の妖花。奈良東大寺の大仏を焼き払い、主君の三好一族を毒で葬り、果ては将軍足利義輝を襲撃して幕府そのものを滅ぼした謀反の常習犯。

 今、その悪名高き毒婦が、艶やかに長煙管をくゆらせながら、信奈たちを見下ろしていた。

 

「今までどこ行ってたんだよっ!? さては逃げようとしてたんじゃ──!」

 

 勝家が叫び、刀の柄に手をかける。

 

「……急に現れるなんて怪しい。姫さまを裏切る気かも」

 

 犬千代も静かに睨む。

 

「くすくす……確かに今ここで裏切れば、わたくしは大和一国の主から再び京の支配者に返り咲けるかもしれませんわ。どうなさいます、信奈さま? もしかしたら、朽木信濃守を巧みに説き伏せ、そして──浅井・朝倉方に鞍替えしてしまうかもしれませんわよ?」

 

 ぞわっ──と場の空気が一気に凍った。

 

「よくもまあ……いけしゃあしゃあと!」

 

 勝家が抜刀しかけた瞬間──

 

「待って、六!」

 

 信奈がその腕を制した。

 

「弾正! あんたに任せたわ。わたしは、絶対に生きて京に戻らなきゃならないの。それも、一刻も早く……お願い、頼んだわよ!」

 

「姫さまっ!? 信じるんですか、こいつをっ!?」

 

 勝家の悲鳴に近い声をよそに、信奈と久秀は静かに目を合わせ──小さく、確かにうなずき合った。

 

 信奈は、久秀のような「規格外の存在」に奇妙な親近感を抱いていた。

 美濃を奪い、商業による国家を目指した「蝮」こと斎藤道三は、信奈にとって「天下布武」の師であり、ある意味で父親のような存在だった。

 その道三と同じ匂いを持つ久秀は、信奈にとって──初めて出会った「母」のような存在なのかもしれない。

 

「うふ……信奈さま。いまや、あなたこそが京を統べる“弾正”。織田弾正大弼・信奈さまですわ。今のわたくしは、あなたの影として動くのみ」

 

「いいのよ。あんたは“弾正”のままで。わたしは、“信奈”で十分だから」

 

「まあ……お飾りの官位を飾りとしか思っていないなんて、悪いお方。そういう人、好きですわ……うふふ」

 

 久秀は細く目を細め、ふわりと馬上に姿勢を正すと、ゆっくりと朽木谷へと馬を進めていった。

 

「幸い、朽木信濃守は若造ですもの。すぐに籠絡して差し上げますわ」

 

 その言葉と同時に、久秀は濡れた唇を赤い舌で艶かしく舐め、ぞっとするような冷たい笑みを浮かべた。

 まさに“蠍”──人を喰らう、黒き美の化身だった。

 

その、これまで幾人の人間を毒殺してきたかわからない悪女の凄惨な笑顔を見るや否や、ぞおおおっ……と勝家は震えあがった。

はるか西方の異国人の血をひく久秀の容姿が人でないもののように美しいだけに、なおいっそうおそろしい。

 

「あたし、気が気じゃないよ。姫さま、なんであんな化け物と気が合うんだ……?」

 

「……さあ。謎」

 

「忠義の化身で斬首一直線の“刃”、猛毒を持った“蠍”と"蝮"、あたしのおっぱいをつけねらってくる“エロザル”……! 姫さまのまわり、動物園かっ! ろくなヤツがいないんですけどっ!?」

 

「……犬は、いい動物」

 

「ちょ、聞こえてるわよ六?」

 

「すっ、すみませええええんっっ!」

 

 信奈はそんなやり取りを聞きながらも、静かに、大きくうなずいた。

 

(久秀は絶対に裏切らない。少なくとも──今だけは)

 

 

 

 

 

 

 

「信奈さま。万事、うまくいきましたわ。信濃守さまは信奈さまに護衛をつけて、京まで道案内してくださるそうです」

 

 松永久秀の報告に、信奈と勝家はぽかんと顔を見合わせた。

 

 まさか、朽木信濃守がこちらに兵を貸してくれるなど、夢にも思わなかった。道を通すだけならともかく、護衛まで……?

 

 いったい、久秀はどんな魔法を使ったのか。

 

 しかし今、その久秀の全身は妙に火照ったように紅潮しており、紅い唇からは妖艶な笑みがこぼれている。言葉では説明できないような、ただの女ではない「魔」の気配がその身体から滲み出していた。

 

「かあっ……お、お、お前、まさか、いいいやらしいことをして信濃守を味方につけたなっ!?」

 

 真っ赤になった勝家が、半ば悲鳴のような声を上げる。

 

「くすっ。いやらしいことなんてしてませんわ。わたくし、そんな安い女ではありませんの。ただ──悪いことを、してきましたけど」

 

 意味深な微笑みとともに、久秀は口元に扇を添えた。

 

「半年ほどは、信濃守さまは夢を見ていられるでしょうね……半年で目が覚めればよろしいのですけれど。くす、くす……くくくくくっ」

 

 ぞっ……と勝家の背筋が凍りついた。

 

「ひひひ姫さまあっ! 弾正が、なんかやばいですよっ!? 妙な薬でも盛られたんじゃないですか!?」

 

「今はそんなことを詮索してる場合じゃないわ、六! とにかく、京へ急ぎましょう! これだけの護衛がいれば、落ち武者狩りからだって逃げきれる!」

 

 犬千代が、こくりとうなずいた。

 

 信奈は、馬を駆けた。

 

 ──刃が、死ぬわけない。誰よりも強くて、誰よりもわたしを想ってくれる、懐刀。

 

 でも、胸が痛む。どうしても、心が揺れる。

 

 父が病に伏せて亡くなったときでさえ、これほどの絶望はなかった。

 今、彼女の心を蝕んでいるのは「喪失の予感」──まだ失っていないのに、もう失ってしまったような錯覚と、その重さだった。

 

(刃は、生きている。……そう、サルもいる。……皆が、退路を整備してくれてる。……十兵衛も、竹千代も、万千代も……わたしが諦めるわけにはいかないのよ……!)

 

 信奈は、京へ続く若狭街道の終点を見据え、唇を噛みしめた。

 

 このとき初めて、信奈は理解した。

 

 葬儀で手を合わせ、僧侶の祈祷にすがる者たちの心の奥底──それはただの形ではなく、祈りの本質は、願わくば“運命を変えたい”という、人間の純粋で愚かな、けれど確かな願いだったのだと。

 

 京までもうすぐだ。

 

 自分が、今この瞬間を生ききることで──予想を裏切るほどの電撃帰還を果たすことで──

 京をうかがう三好の野望を挫き、

 甲賀で牙を研ぐ六角を沈黙させ、

 主なき都を奪おうとする浅井朝倉の息を止めることができる。

 

 信奈が生きてさえいれば──織田軍は、また立ち上がれる。

 

 生きるのだ。

 笑顔で、立っていなければならないのだ。

 

 少しでも身を軽くするために、鎧まで脱いで、小袖姿でここまで馬を駆ってきた。

 それでも──どうしても、捨てられなかったものが一つだけある。

 脇腹に抱いた、小さな小刀。刃が祖父から譲られ、大切にしていた形見。

 

 その柄に、小袖の上からそっと触れた。

 

「六、このあたりはどこ?」

 

「姫さま。我らは本来、八瀬を抜けているはずですが……どうやら、少し東へ逸れてしまったようです。ここは、叡山の麓──雲母坂かと」

 

「……いつの間に、道を……? 記憶にないわ」

 

「いずれにせよ、ここを越えれば京は目前です!」

 

 勝家が目を細め、はるかに京の灯を探す。

 

 長かった夜が、終わろうとしていた。

 

「デアルカ。犬千代、弾正──もう、馬を潰す心配はないわ。全速力で行くわよ!」

 

「……御意」

 

「御意にござります」

 

 峠の向こうに、かすかに霞む京の街──。

 

(わたしは、生きているわ。またあなたに、命をもらったのよ。待っていて、刃。今度はわたしが、貴方を助けるわ)

 

 信奈の両眼には、京の空が映っていた。

 

 木々の葉が揺れ、蝉の声が遠く響く中、彼女は一行の先頭に立ち、颯爽と馬を駆っていた。凛とした背筋。燃えるような意志を宿した瞳。そして、胸の奥に秘められた、たった一つの想い──“刃に再び会うために、生き延びなければならない”という強烈な願い。

 

 だが。

 

 その瞬間だった。

 

 全身を襲う、異様な悪寒。

 

 それは皮膚の表面をなぞるような寒さなどではなかった。まるで心の奥、魂の核にまで冷たい針を突き立てられるような――命そのものを凍らせるような、底知れぬ恐怖。

 

 同時に、喉の奥にねじ込まれたかのような異物感。吐き気に似た圧迫。胃の底がえぐられるような不快感。生理的な嫌悪が、身体の奥から突き上げる。

 

 それは、はっきりとした“警鐘”だった。理屈ではない。論理でもない。ましてや戦術的な勘でもない。もっと本能的で、もっと原始的で、もっと確かな。

 

 ――“死”が、近い。

 

 命が今まさに摘まれようとしている、その瞬間だけに訪れる、確かな確信。

 

(……なん、で……?)

 

 喉の奥が焼けるように乾き、瞬間、全身の血が引いていくのを感じた。意識の奥底で、心が叫んでいる。

 

 逃げろ。動け。すぐに、今すぐに。

 

 だが、身体が鉛のように重い。思考よりも早く、死が迫ってくる。

 

 信奈は……この感覚を知っていた。

 

 幾度となく、戦場の最前線で感じてきた、あの“刹那の終焉の気配”。

 

 けれど。

 

 けれども、それは――もう、遠い記憶だった。

 

 いや、違う。

 

 忘れていたのではない。

 

 《忘れさせられていたのだ》。

 

 あの日。

銀の髪と紅の瞳を持つ、異質な存在が現れたその日から。

天城刃――あの男が仕官して以来、信奈は常に“守られてきた”。

 

自分の影のように寄り添い、どんな戦場でも必ず先頭に立ち、背中を守ってくれる存在。

 

 あの人が隣にいる限り、自分は絶対に死なない。

 

 無意識のうちに、そう信じていた。

 

 どんな敵がいても、どんな策謀があろうとも、刃がいれば大丈夫。

 

 信奈は、いつしかそれを“当たり前”だと思っていた。

 

 彼が、自分に迫るすべての危険を排除してくれること。

 

 彼が、自分の死線をすべて薙ぎ払ってくれること。

 

 彼が、命をかけてでも守ってくれること。

 

 ――疑ったことすら、なかった。

 

 だが、今は――いない。

 

 あの背中が、ない。

 

 あの温もりも、声も、気配も――そばには、ない。

 

(わたしは……)

 

 信奈の心が、凍えるように軋んだ。

 

(わたしは、あの人に……甘えていた)

 

 無様なほど、依存していた。

 

 大将として、天下人として、いつも凛々しく振る舞っていたはずだった。誰よりも先に敵陣に突っ込む勇気を持ち、誰よりも高く未来を見据えていた。

 

 けれど。

 

 その“強さ”は……自分だけのものじゃなかった。

 

 刃という絶対的な守護者が、後ろに控えていたからこそ、信奈は“前”だけを見ていられたのだ。

 

 ……刃の存在が、自分を“強く”見せてくれていた。

 

 道の脇の、鬱蒼と茂った林の奥――

 

 そこから響いた、耳をつんざく破裂音。

 

 種子島の大砲声が、森の静寂を貫いて炸裂した。

 

「――ッ!」

 

 鼓膜を揺さぶる轟音の中で、信奈は本能的に悟った。

 

(……撃たれた……ごめんね……刃)

 

 それが、信奈の脳裏をよぎった最後の言葉だった。

 

 目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのは、刃の横顔。冷たく、無表情で、それでいてこの世の誰よりも優しいまなざしを秘めた、あの銀髪の男の姿。

 

 全身の筋肉が硬直する。肺が、呼吸という行為を拒否し、空気を吸うことすらできない。心臓は、自分の意思に反するかのように、ひとつ、ふたつと鼓動の数を減らしていく。

 

 ……ああ、これが、死か。

 

 かつて戦場で何度も死線をくぐってきたはずの彼女でさえ、あまりに突然訪れた“死の予感”には、ただ身を委ねるしかなかった。

 

 刃がいない今――守ってくれる者がいない今――

 

 死が、こんなにも、近い。

 

 その瞬間。

 

 キィインッ!!

 

金属が砕ける、耳をつんざく高音。脇腹に、何かがぶつかる衝撃。その直前まで一直線に走っていたはずの弾丸が、想定外の硬質な抵抗に弾かれ、肉を断つべき弾丸の軌道が、刃が渡した小刀によって逸らされたのだ。

 

「ッ!!?」

 

小刀が弾丸の直撃を防いだとはいえ、衝撃の全てを受け止められたわけではない。信奈の小柄な身体は馬上からふわりと浮き、空の青と、林の緑と、兵たちのざわめきが、目まぐるしく視界を巡った。音が遠のき、地面に近づいていく感覚が、まるで夢のようにゆっくりと流れる。

 

 ドサッ。

 

「姫さまッ!!」

 

 「狙撃手はどこじゃあッ!」

 

 怒号が飛び交う中、勝家と犬千代、護衛の兵たちがすぐさま発砲音の方角――林の中へと突入する。

 

 しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。

 

 「……取り逃がした……」

 

 「クソッ……って、それより姫さま! 大丈夫ですか!?」

 

 土煙を巻き上げて駆け寄ってきた勝家の声に、信奈はゆっくりと体を起こす。

 

 顔は土にまみれ、髪は乱れ、呼吸は浅い。

 

 けれど、――確かに、生きていた。

 

「……ええ、大丈夫よ」

 

 わずかにかすれた声で、そう答えた信奈は、ふらつく指で懐を探る。

 そこにあったのは、刃の小刀。

 

 ――もう、折れていた。

 

鞘は抉られ、金属の断面には鋭い弾痕が刻まれている。もはや武器としての役目は果たせない。だが、その折れた刃先は、不思議なほど誇らしげに、光を反射していた。まるでこう言っているかのように――“私は守った。あなたを。主が愛している人を”。

 

 信奈の瞳に、涙が滲む。

 

 けれど、それは悲しみの涙ではなかった。

 

(ありがとう、刃。貴方は、わたしのそばにいなくても……ちゃんと、守ってくれてるのね)

 

 小刀を両手で包むように持ち上げ、そっと胸元に引き寄せる。鼓動が再び打ちはじめた胸の奥で、それは確かに温かく、優しかった。

 

 再び馬に跨がった信奈は、誰よりもまっすぐに前を見据えると、凛とした声を放った。

 

「──行くわよ、みんな。京は、もうすぐそこよ!」

 

 声には、力があった。熱があった。命の鼓動があった。

 

 その背に、勝家と犬千代、護衛たちが続く。

 

 そして信奈は、風のように、光のように――一本道を駆け抜けていった。

 

 その姿は、まるで一陣の嵐。

 

 燃え尽きかけた希望に、再び火を灯す“希望の再臨”だった。

 

 かくして。

 

 信奈は、ついに――京へと、生還を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

追撃軍との死闘が始まって、すでに一刻近くが過ぎていた。

 

 荒れ果てた湿地のように泥濘んだ戦場に、夥しい血と肉が散り、煙と鉄の臭いが充満している。地を揺るがす怒号と悲鳴、槍と刀がぶつかり合う金属音が響き渡り、まるで地獄の蓋が開いたかのような有様だった。

 

 その中心で、ひときわ異彩を放つ者がいた。

 

 天城刃――その身に幾重もの傷を刻みながら、なお戦場に君臨する“死神”だった。

 

討ち取った数は、既に五百。剣が折れれば槍を取り、槍が折れれば素手で殴り、蹴り、首を刎ねる。殺した敵兵の槍を、斬った刀を、拳に変え、次の敵へと叩き込む。

 

彼の周囲に、朝倉兵は近づけない。ただ近づいた者が死んでいく。その現実に恐れを抱きながらも、それでも敵は止まらない。

 

――天城刃を討ち取れ。

――奴を殺せ。

――“天の白刃”こそが、織田軍の本陣であり、魂であり、最も手強く、最も邪魔な存在だ。

 

そう命じられているからだ。

 

種子島の銃弾などとうに尽きていた。もはや五百人の勇者たちは、それぞれの愛用の得物一つで戦っている。刀、薙刀、槍、長巻、鉞などを振るいながら、味方を一人として欠けさせぬよう、必死で刃の背を支えていた。

 

だが、朝倉軍はあまりに多い。殺しても、殺しても、殺しても――なお、地を這うように迫ってくる。人の数とは、ここまで恐ろしいものかと、誰もが喉を鳴らした。屍を踏み越え、血を啜りながら迫る朝倉兵の波に、ついに殿部隊に疲労の色が色濃く表れ始めた――そのとき。

 

「ドゴオォオンッ!!」

 

地面が震えるほどの爆音が辺りに鳴り響いた。

 

木が裂け、地が跳ね、黒煙が空を裂く。半蔵の仕掛けた焙烙玉が炸裂し、敵の密集部を中心に、十数人の朝倉兵がまとめて吹き飛んだ。

 

瞬間、張り詰めていた五百人の空気が弾ける。

 

「おおおおおッ!!」「やったぞォ!!」

 

「よくやった、半蔵!!」

良晴が喉を裂くように叫んだ。

 

「お前ら、今だ! 撤退だ!!」

 

兵たちは動き出す――だが、それを遮るように、朝倉軍の中から狂気の声が飛ぶ。

 

「怯むなぁああ!! なにがなんでも奴を逃してはならん!! 標的は“天の白刃”ただ一人だ!! 突撃ぃ!! ここが死に場所ぞ!!」

 

「天の白刃さえ討ち取れば、織田信奈など怖くない!!」

「やつは傷だらけだ!いまこそ仕留める好機ぞ!!」

 

「くそっ……! しつこいんだよ……!!」

 

良晴が怒鳴った。喉が裂けても足りぬ思いで、声を張り上げる。

 

「お前ら!! もう一踏ん張りできるかァッ!!」

 

「当然ですみゃあ!!」

「当たり前でごわす!!」

「我ら五百人、大将と天城さまのために!」

「この撤退戦で、天城大将に命を何度も救われてるみゃあ!今こそ借りを返すときみゃあ!!」

「なんとしても、天城さまを姫さまの元へ……!!」

 

叫びながら、兵たちは歯を食いしばって踏みとどまった。刃はそんな声を背に受けながら、なお一歩、また一歩と敵へ向かって進む。

戦闘は、激しさを増していく。

 

(マズい……! みんな、もう限界ギリギリだ……特に──刃がヤバい!)

 

 良晴は歯を食いしばりながら、混乱する思考を必死に押さえ込もうとした。

 

 刃は今、この地獄のような戦場で、五百人全員をその背で庇いながら戦っていた。左右から斬りかかる敵の刃を払い落とし、あるいは身を挺して仲間を守っている。

 

 重傷や致命傷こそ負ってはいないが、その体には無数の傷が刻まれている。

 刀が折れれば槍に持ち替え、槍が砕ければ素手で殴り、敵から奪った武器を即座に利用しては、また次の敵を薙ぎ倒していく。

 

 (それでも……それでも、刃は俺たちを誰一人として死なせていない!)

 

 その事実が、良晴の心を震わせた。ここまで無事に全員が撤退できているのは、明らかに刃の力によるものだ。

 

 (……くそっ……!あいつを助けるために残ったのに、結局助けられてばっかりだ! あいつ一人に、どこまで背負わせりゃ気が済むんだよ……!)

 

 胸の奥に怒りと悔しさが渦を巻き、一瞬、動きを止めた。いや、止めてしまった。

敵がそんな隙を見逃すはずがなかった。

 

 激しく交錯する喧騒の中、わずか一瞬──いや、刹那にも満たぬ隙を突いて、一人の朝倉兵が膝をつきながら狙いを定める。懐から取り出したのは、一発限りの種子島火縄銃。風を読み、照準を調整する手が止まらない。狙う先は、指揮を執る男──相良良晴。

 

「……もらった!」

 

 閃光と同時に火薬の炸裂音が空を割く。黒煙が噴き上がり、焼ける火薬の臭いが戦場に広がった。

 

 弾丸は一直線に、良晴の胸元をめがけて飛んでくる。

 

 それに気づいたのは、他でもない。刃だった。

 

 遠巻きに仲間を庇いながら戦っていた彼の視界に、まさに次の瞬間、命を奪うであろう鉄塊が捉えられた。

 

(……あの馬鹿、なにをしている……!?)

 

 良晴は、まるで呪縛に囚われたかのように立ち尽くしていた。恐怖か、疲労か。

 

 いずれにせよ、その一瞬の「停止」が、死を招くには十分すぎた。

 

(この距離じゃ、刀で弾くのは不可能……かと言って見逃せば良晴が死ぬ)

刃の判断は一瞬だった。

 

「良晴ッ!!」

 

 叫びと同時に、強い衝撃が良晴の体を押し飛ばした。

 

 視界が揺れた。地面が歪んで跳ね上がり、身体が地面を転がる。唖然とする良晴の目に、ひとつの影が映った。

 

「刃? な、にを――」

 

 その時、聞こえた。信じたくない音が、耳を突いた。

 

 ズギャァアァァン……と肉を砕き、骨を裂くような、あまりにも生々しい音。

 

 続いて、刃の低い呻き声が漏れた。

 

「……う、ぐっ……」

 

 振り返る。刃が、血に染まりながら片膝をついていた。脇腹の布が、破れ、真っ赤に染まっている。焼け爛れた肌の奥に、抉られた肉が覗き、そこから流れる血が地面に染みていく。

 

 その傷――正面から撃ち抜かれたに違いない。弾は、良晴の胸に命中するはずだった。だが、刃が自らその軌道を塞いだ。

 

 間に割って入ったのだ。迷いもなく。自身の命を顧みることもなく。

 

 撃ち抜かれた脇腹は、弾丸によってえぐられていた。だが幸運か、あるいは奇跡か、その弾は内臓の途中で停止しており、体を貫通はしていなかった。

 

 それでも、その損傷は致命的だった。

 

「刃……! おい、なんで……」

 

「戦場で、考えごとなんて、するな。馬鹿タレが」

刃が脇腹を押さえながら、苦笑混じりに言った。手のひらの隙間から溢れ出た鮮血が、土と血の混ざる戦場に音を立てて落ちる。

その傷――間違いなく致命傷だった。

 

その瞬間、良晴の背に電撃のような衝撃が走った。

 

 ――刃が、自分のために撃たれた。

 ――誰よりも剣を振るい、誰よりも仲間を守り抜いてきたあの男が。

 ――五百人の盾となり、血の泥濘に立ち続けた男が、自分を庇って倒れたのだ……!

 

良晴は歯を食いしばり、目の奥に火を灯す。血に濡れた地面を踏み締め、怒声を上げた。

 

「お前ら!刃が撃たれた!集まれ!!」

 

その一声は雷鳴のように戦場全体に響き渡り、怯みかけていた仲間たちの心に再び火を灯した。

 

「天城さまが撃たれた!?」「天城さまがッ!?」

「やらせるかこの野郎おおおお!!」「守るみゃぁぁぁッ!!」

 

仲間たちの怒声がこだまし、五百の兵が一斉に走り出す。疲労と痛みを振り払って突撃するその様は、まさに捨て身の覚悟が燃え盛る炎だった。

戦場が再び燃え上がる。

「おらああああああッ!!」

「天城さまに……近づくなぁぁ!!」

 

朝倉軍の兵が無数に押し寄せる中、五百人は刃を中心に円陣を組むようにして迎撃を始めた。誰かが倒れそうになれば、別の者が肩を貸し、傷を負っても一歩も引かずに戦い続ける。

 

剣が唸り、槍が突き、斧が叩きつけられる。敵兵の喉を狙って短刀が飛び、それをかわした敵を背後から槍が貫いた。血が降り注ぎ、泥が跳ね、鉄と肉の音が入り混じる。

 

その時、刃が血まみれの唇を震わせながら叫ぶ。

 

「――半蔵! 今だ!!」

 

即座に反応したのは、木陰に潜んでいた忍の影――服部半蔵とその一党だった。

 

半蔵が片手を挙げると、黒装束の忍たちが木々の間を駆け巡り、手際よく倒木用の縄と仕掛けを展開していく。鋭い鉈が唸りを上げて幹を削り、次々と木々が倒れ始める。

 

ゴオォォンッ!! ドガァァァンッ!

 

倒木と同時に火薬玉が炸裂し、爆風と煙が敵兵を飲み込んだ。視界を奪われた朝倉兵は次々と足を止め、混乱の中で味方同士が衝突する。

 

「いまだ! 撤退だ!!」

良晴の号令が響くと、殿部隊はすぐさま円陣を崩し、刃を守るように布陣を組み替えて後退を開始した。

 

良晴は血塗れの刃の肩を抱え、ぐらつく体を支えながら撤退の先頭に立つ。その背後では、勇者たちが身を挺して追撃兵を押し返していた。

 

敵の槍が飛び、銃声が響くたびに、誰かの肩や脚に血が咲いた。それでも誰一人として後退をやめなかった。

刃の傷は深刻だが、彼の存在がまだ皆の心の支えだった。

 

そして、前鬼の霧、半蔵の仕掛けた防衛線と、勇者たちの執念が敵の勢いを鈍らせ、遂に追撃を振り切って見せたのだ。

 

朝倉軍の執念深い追撃を、殿部隊はついに振り切った。

 

 

 そして――奇跡が起きていた。

 

 五百人。その誰一人として欠けることなく、京を目指して走り続けているのだ。満身創痍の者もいた。膝に矢が刺さったままの者もいれば、片腕が血に染まりぶら下がっている者もいた。それでも、誰も倒れなかった。

 

 その原動力は、ただ一つ。

 

 天城刃を死なせてはならぬ――という、五百人全員の魂から噴き上がる願いだった。

 

彼は、あの修羅の如き死地で、何度も自分たちを守ってくれた。折れた刃を拾い、素手で敵を倒し、時には盾となって血を流し──そして、ついに。

 

良晴を庇い、種子島の鉛弾をその身で受け、崩れ落ちた。

 

背中に感じる体は、異様なまでに熱い。それは命の炎が燃え盛っているのか、それとも……最期の火花が残る僅かな時間を灯しているのか。

 

良晴は、その重さを全身で受け止めていた。肩に食い込む刃の腕、脇腹を押さえる彼の手、そして自分の耳元でかすれる呼吸の音が──すべて、心を貫いた。

 

「俺が……俺が、あんなところで考えごとなんてしてなけりゃ……!」

 

血を滲ませながら、良晴は唇を噛んだ。悔恨が胸を焼き、足がもつれそうになるたび、歯を食いしばって走りを続ける。

 

「前を見ろ、良晴……俺を背負ってる間は……絶対に止まるな……」

 

背から響いた声は、かすれていた。けれど、その声には微塵の弱さもなかった。命を削るような声。それでも、なお強く、真っ直ぐだった。

 

「それが……俺への、礼だ」

 

良晴は顔を上げた。その目に涙はなかった。代わりに、刃の言葉を受け止めた意志の火が、宿っていた。

 

「……ああ、止まらねぇ。俺が死ぬまで、絶対に」

 

そのやりとりを聞いた者たちの胸にも、熱いものが込み上げた。

 

「天城さまを、姫さまのもとへ──生きて帰すんだ!!」

 

「最後尾で、命を張って守ってくれたんだ! 今度は、俺たちの番だろ!!」

 

「撃たれてもいい! 斬られてもいい!! でも……あのお方だけは、絶対に死なせるな!!!」

 

怒号のような誓いが、隊全体に広がっていく。

 

倒れそうになる者がいれば、誰かが支えた。

足を挫いた兵には、すぐに肩が差し出された。

血を流す者も、誰一人として地に臥すことなく、歯を食いしばって前を向き、走る。

 

五百の兵たちは、もはや軍勢ではなかった。

 

彼らは一つの意志だった。命を繋ぎ、刃という希望を繋ぐために動く、一つの巨大な生命体。

 

最後尾では、服部半蔵率いる服部党が、罠と地形を駆使して追撃を寸断している。前方では、前鬼が先導し、そして中央には──良晴がいる。

 

刃を背負い、ただ黙々と、荒れた街道を踏みしめながら、前を見据える。揺れるその肩に、刃の腕が回されている。

(間に合え……!信奈のところへ……!)

 

 

 

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