織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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金ヶ崎の退き口 後

京に向かっている途中のことだった。

木々のざわめきを裂いて、一陣の風のように前鬼が前方から戻ってきた。険しい表情のまま良晴の横にぬっと立つ。

 

「……まずいな、相良」

 

「ん? どうした? 何があったんだよ」

 

良晴が声を張ると、前鬼は低く、重々しい声で言った。

 

「実にまずいことになりそうだ。どうやら――若狭の土御門が、朝倉の側についたらしい」

 

「……は? つちみかど? それ誰だよ? 新手の武将か?」

 

一瞬、何を言っているのか理解できず、良晴は刃を背負ったまま目を瞬かせた。

 

「馬鹿者、土御門だ。知らぬはずあるまい。日ノ本の陰陽師どもの頂点。かつて安倍氏を名乗っていた一族の末裔よ」

 

「え……まさか……」

 

前鬼は頷く。

 

「そうだ。平安の世を騒がせたあの“安倍晴明”の血を引く連中だ。千年にわたって陰陽道を受け継ぎ、都を離れて若狭に隠れ住んでいたが……その土御門家が、いま、お前たちを討ち取るために動いた」

 

「は、はあああ!? いやちょっと待てよ……じゃあ、なんで今さら出てくるんだよ!? しかもなんで朝倉と手を組んでんだ!?」

 

良晴の声が裏返った。刃の命が燃え尽きそうなこの状況で、新たな敵――しかも歴史の中に埋もれていたような陰陽師が、敵として現れるなど。

 

その混乱を見透かしたように、前鬼は目を細めて言った。

 

「天城刃。お前と良晴……未来から来た者の存在が、この時代に“ひずみ”を生んだのだろう」

 

「……ひずみ?」

 

「この世は陰と陽の均衡で保たれておる。未来から来たお前らは、時空を飛び越えて現れた“陽”の力。ならば、同じように過去の世界から呼び起こされる“陰”の力も、等しく強まる道理だ」

 

「……作用・反作用ってやつか……」

 

「わが主・竹中半兵衛は、その反発して強まる陰の力を祓うことで、天城刃を輝かせようとしておられるのだ。しかし今は遠い。遠すぎる──身体を壊されて臥せられている主の力は、この山中までは届かぬ。その方法もない」

 

前鬼も護符の多層重ねでどうにか人の形を維持している状態だからな、と良晴はため息をついた。

 

「……じゃあ、俺たち、詰んでんじゃねぇか」

 

良晴の声に、絶望が滲んだ。

 

刃の息は浅く、もう何度も途切れかけている。走りながらの応急手当ではどうにもならない。時間がない。

 

「土御門はお前らを討ち取るつもりで、われらの退路に結界を張って待ち伏せておるようだ。しかも、どうも俺が知っている土御門とは違う……『気』の一大集積地たる都から遠く離れているはずなのに、『気』があまりにも強力すぎる。都から遠く離れた若狭の地にいながら、かつての“安倍晴明”すら凌ぐほどの力を感じる」

 

「け、結界……って、なんだよそれ……!」

 

良晴は思わず周囲を見回した。前方の山道は何も変わらず、木々が風に揺れているだけだ。

 

「俺の目には、なにも見えねぇぞ……!」

 

「当然だ。陰陽師の結界は、“見えぬ者”には決して見えん。だが感じるだろう? 空気が妙に重い。湿っているようで、どこか冷たく、息が詰まるような気配――それが“気の壁”だ」

 

良晴は気づいた。

風が吹いているのに、汗がまったく引かない。

背筋が粟立ち、全身をぬるい手で撫でられるような悪寒が止まらない。

ここが、まさに“結界”の入り口なのだ。

 

「くそっ……そんなのとやり合ってたら……!」

 

良晴が歯を食いしばった。

 

「刃がもたねぇ!!」

 

一瞬、周囲の空気が震えた気がした。

 

そのとき、前鬼の金色の瞳が、鋭く前方を射抜いた。

 

「来た。結界が狭まり、圧が強くなった……どうやら、向こうから来たようだ」

 

彼の白い頬に、つう……と一筋の汗が垂れる。

 

山道の空気が一変した。

風が止まり、音がなくなる。

虫の声も、葉擦れの音も、何もかもが“途絶えた”。

 

まるでこの世界が、丸ごと密閉された結界の内側に封じ込められたようだった。

 

そして、そこに。

 

現れた。

霧を裂いて進み出てきたのは――十歳前後の、小柄な少年だった。

 

白磁のように青白い肌。

感情の抜けたガラス玉のような瞳。

無垢で、だがどこか冷酷さの滲む薄い笑み。

陰陽師特有の直衣をまとい、その袖口からは微細な護符の紙片が、ふわりと浮かんでは消えていく。

 

少年は、地を歩いているようには見えなかった。“浮いている”のだ。

重力に縛られていない。彼の存在そのものが、この世界の法則から逸脱している。

 

「こいつが……」

 

「土御門……」

 

前鬼が歯噛みする。

 

その少年は、にこりと笑った。

 

「そう。ボクが、土御門家当主、土御門久脩。そろそろ京へ戻ろうかな、不意にそんな気になったんだ。となれば、新たに京の支配者となるであろう浅井さん朝倉さんへの手土産が必要でしょ。そこで今宵これより、〝天の白刃〟の首をもらおうと決めたんだけど、なんかもう瀕死だね」

 

陰陽師としてのいでたちだけは半兵衛に似ているが、凍りついたかのようなその心根は半兵衛とはまるで正反対のようだった。

 

だがその冷たい笑顔は、自分こそが強者であるという絶対の自信の表れなのだ。たしかに、土御門久脩はまだ子供だ。

それゆえ、子供特有の残虐さを、その小さな体の内側に秘めていた。

 

 力を、それもとびっきりの大きな力を持っている。

だから、力を、使ってみたい。敵を、殺してみたい。捕らえた昆虫の翅を無造作にむしり取るかのように。

そこには、人間的な意味での、悪意はない。 憎しみもない。

純粋に己の力を行使したいという子供らしい欲望が、土御門久脩の行動原理そのものなのだろう。

 

だから……。命の尊さだの、他人の心情だの、そんな言葉は……童子のまま由緒ある陰陽師宗家の頭領に君臨してしまった土御門久脩には、通じない。

 

「くす、くす、くす」

 

 ――この時代に“いてはならぬ”異物。

 良晴はようやく悟った。とんでもない敵が現れたと。

 

 少年――土御門久脩は、愉快そうに笑いながら言った。

 

「よく若狭まで逃げてきてくれたね。逃げ足の速い織田信奈はすでに京に入ったようだけどさ、あの有名な〝天の白刃〟の干し首を持参すれば、浅井さん朝倉さんもさぞ喜ぶだろうなぁ──」

 

(子供であろうが、死合を挑んできた者は殺すのみ)

半蔵が無言で手裏剣を投げるが、朝焼けの空に高々と浮かぶ土御門久脩の体には当たらない。

見えない壁のようなものが、久脩を守護しているかのようだった。

 

 その時だった。

 

 周囲を囲んでいた決死隊の兵士たち――血に塗れ、満身創痍の五百余名――が、一斉に吼えた。

 

「やらせないみゃぁッ!!」

「天城さまは我らが命にかえてもお守りするぎゃあ!!」

「そうだみゃぁ!姫さまには天城さまが必要なんだみゃあ!!」

 

 全身から噴き出す怒号と気迫。

 

 だが、その叫びを冷笑するかのように、が震えた。

 

 朝日が雲に隠れ、風が止まる。

 空間そのものが「何か」に呑まれていくような、呪術的な違和感。

 

 そこに、現れた。

 

 土御門久脩の背後――

 

 空間を裂くように、数十体の式神たちが、朝焼けの空を割って這い出してきた。

 

この世ならぬ存在たちが、禍々しい“気”を帯びて、宙を舞い、地を這い、久脩の背後に陣をなしていく。

 

 異臭とともに立ちこめる殺気。

 それらは生き物ではない。意思を持たぬ呪いの塊。

 まさに――式神の軍勢であった。

 

 それを見て、前鬼が一歩、前に出た。

 

「土御門久脩とやら。貴様の一族は、かつて京を守護する重責を背負いながら、それを投げ捨て、戦乱から逃げ出した。陰陽寮を見捨て、都を棄てた“負け犬”の末裔よ」

 

 その声は静かだったが、怒りを滲ませていた。

 

 久脩がくすりと笑い、金色の瞳で前鬼を見据える。

 

「へえ。そこの狐顔の貴族さんは、式神だったのかい? ふーん、完全な人間の姿に化けられる高等な式神なんて、ボクも初めて見たなあ。やっぱり、すごいね」

 

 唇を吊り上げ、少年は冷笑する。

 

「でも、残念。そちらの式神は一匹だけのようだね?」

 

 そして、手をかざす。宙に浮かぶ式神たちが、静かに震えた。

 

「式神同士の戦は、質より数。いくらキミが強くても、ボクが呼び出したこの数には勝てないよ。だいじょうぶ、暴走する付喪神は呼んでないから安心してね? ボク、そういうところはちゃんとしてるから」

 

 前鬼は目を細める。

 

「……それが、貴様の言う陰陽師の在り方か」

 

「そうだとも。そちらの陰陽師、竹中なんとかさんのように、足軽や雑兵を動かすような“陰陽師軍師”なんて道化だよ。ボクはね、式神だけで万を屠ることを理想としてるの。……そっちの方が、陰陽道の伝統に忠実だと思うけど?」

 

 前鬼が小さくつぶやいた。

 

「……そうか。主・竹中半兵衛が天城刃のために動いたことで、土御門という災厄をこの世に引き出してしまった……か。因果とは、ままならぬ」

 

 その時、久脩の瞳に、明確な“憤り”が浮かぶ。

 

「そうさ。竹中なんとかという田舎陰陽師が、こともあろうに織田信奈に仕えて京へ来た。この陰陽師の頭領たる土御門家のボクを差し置いて、〝今孔明〟などと呼ばれてもてはやされているらしい。実に不愉快だよ」

 

土御門久脩は、にこやかに言葉を紡ぐ。だが、その声の奥には氷の刃のような殺意が含まれていた。

 

「だから面倒っちいけど、京へのぼって、身の程知らずの田舎陰陽師を誅しなくちゃ──ボクと竹中なんとか、どちらが最強の陰陽師かを決める戦いをしなくちゃね。さあ、これで説明はじゅうぶんだよね?」

 

 口調はあくまで穏やか、微笑みすら浮かべているが、周囲の空気は凍てついていた。

 地面に触れた草木が静かにしおれ、空気が重く淀み、吐く息さえ白く変わっていく。

 それは少年の発する〝気〟によるものだった。

 無邪気で残酷な天才が、戦場という遊び場に舞い降りたのだ。

 

 その時だった。

 良晴の背にいた刃が、ぴくり、と動いた。

 

 命の灯が消えかけているはずの男が、まるで火の粉が再び燃え上がるかのように。

 

「……半兵衛に……手を……出すきか……それは……ゆるさん……」

 

 かすれた声。だが、確かな怒気が込められていた。

 

「刃っ!無理するな、まだ動いちゃダメだって!」

 

 良晴の制止を無視し、刃はその背からゆっくりと降り立った。

 足元がふらつくが、出血は止まっておりその瞳は決して揺るがない。

 己が命より大切な恋人──竹中半兵衛に危機が迫ると知ったその瞬間、彼の魂は再び剣士として燃え上がった。

 

 刃は、血で濡れた帯を締め直し、刀を構える。

 それは刃の生き様そのものを象徴する、凶器にして矜持。

 

「はあ?刀で届くわけないでしょう? もしかしてバカなの?」

 

 久脩は面白そうに目を細めた。からかうような声音には、嘲笑がにじむ。

 

 その言葉の終わりと同時に、式神の一体が姿を現し、刃に向かって風を裂いて飛翔する。

 

「と、いうわけで。キミたちには──」

 

 ザンッ!

 

 語りの途中で、断末魔の音が割り込んだ。

 

 閃光が走る。

 その一閃は、言葉より速く、理屈を超えていた。

 

 白装束の式神が、空中で引き裂かれ、淡い光の塵となって消えていく。

 

「──ここで、全滅してもらうよ……って、あれ?」

 

 久脩の眉がひくついた。

「は?」

 

「刀が、届かぬ、だと?」

 

 刃の声は低く、静かだった。

 

「跳べば、とどくで、あろう?」

静かに、低く、だが確かな怒気と覚悟を込めた声が、戦場の静寂を裂いた。

 

刃の足が、一歩、前へ出る。もう一度土を蹴るつもりだった。

 だが──

 

「っ……!」

 

 膝が、わずかに沈んだ。呼吸が荒くなる。

 視界がにじむ。かすんだ空と大地が、ひとつに溶け合って揺れている。

 脇腹の傷が、まるで意思を持ったかのように悲鳴を上げた。

 

「ハア、ハア……ハア……」

 

 乾いた喉。肺が空気を求めて痙攣する。

 出血は布で圧迫して止めてあるものの、致命的な銃創に変わりはなかった。

 刃の体内には、いまだ鉄の塊──種子島の弾が埋まったままだ。

 

その刹那。

 

「お前ら行くぞッ!刃を守れ!!」

 

 良晴の怒声が、森を割った。

 その声に呼応するように、五百の仲間たちが、怒涛のように刃のもとへ駆け寄ってくる。

 

「天城さまのまわりを囲むでごわす!」

「陰陽師の攻撃が来るぞ!陣を張るみゃあ!」

「生かすんだ、天城さまを生かして、絶対に京まで連れ帰るんぎゃあ!」

 

 剣を、盾を、身体を掲げて、仲間たちが次々に刃の前へ立つ。

 その瞳に恐れはない。あるのは、信頼と覚悟のみ。

 

 重傷を負い、今にも倒れそうな男を、彼らは「生かす」と決めた。

 それは戦術ではない。指揮でもない。

 もはや、意思の塊だった。

 

「……天城さま、動かないたらだめみゃあ!」

「天城さまが死んだら、俺たち全員姫さまに顔向けできんぎゃあ!」

 

 誰も命令されたわけではない。

 ただ、刃という存在のために。

 その背を、これまで護られてきた者たちが、今度は盾となる番だった。

 

 最前列に立つのは、顔に血を浴びた若者。

 その後ろに、矢を構えた射手たち。

 さらにその背後に、負傷兵ですら剣を抜き、立ち尽くす。

 

 彼ら全員が、刃の周囲を幾重にも取り巻き、まるで城のごとく守りを固めた。

 

土御門の笑みが、わずかに歪んだ。

 

「ふぅん……なるほどね? なんかさ、ボクが遊んじゃいけない雰囲気? やめてくれるかなぁ、そういう“友情パワー”とか、“絆”とか……つまんないんだよね、正直」

数十体の式神が降りてくる。

 

その瞬間、五百の兵たちが一斉に声を上げた。

 

「──守れ!天城さまを!!」

 

 絶叫が、咆哮となり、怒濤となって、森の奥を震わせた。

 

 戦いの火は、まだ、消えていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

早朝、京――。

 

 空が白みはじめたばかりの静寂の都。

 だがその静けさの下には、深く重い不安が渦を巻いていた。

 

「……織田軍、越前から敗走。総崩れに……」

「しんがり部隊を率いていたのは……天の白刃、天城刃……未だ、帰還せず……」

 

 町の隅々で交わされる囁きは、やがて広がり、京の空気を緊張で染め上げていた。

 屋根の上ではカラスが騒ぎ、商人たちは早々に店を閉め、町人は顔を伏せて歩く。

 

 誰もが知っていた。

 “彼”が帰らないということが、どれほど深刻な意味を持つのかを。

 

 

 妙覚寺の一角。

 

 そこには、まだ幼い少女が膝を抱えて座っていた。

 ねねである。

 まるで時が止まったかのように、彼女はただひたすら、刃と良晴の帰りを待ち続けていた。

 

「……刃どの……兄さま……」

 

 その声は、祈るようでもあり、呪うようでもあった。

 頼りの半兵衛は、未だ昏睡のまま。かすかな寝息をたてるばかりで、目覚める気配はない。

 

 心の拠り所を失ったねねは、ついに耳にした。

 

「信奈さまは、ご無事で……本能寺におられるらしい」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ねねの小さな身体は弾かれるように立ち上がっていた。

 そして、靴を履くことすら忘れ、裸足のまま朝靄の中へ駆け出した――。

 

 

 本能寺――。

 

 露に濡れた石畳を踏みしめながら、ねねはただひたすら走った。

 細い足には冷たさと痛みが染み入り、何度も転びかけたが、それでも止まらなかった。

 

 信奈に会わねば。お願いせねば。

 刃を……兄さまを、見捨てないでと……!

 

 本能寺の門前で、警備の兵たちがその前に立ちはだかる。

 

「子どもがこんな所に来てはならん! 引き返せ!」

 

「離してですっ!! 姫さまに、姫さまに会わせてくだされっ!」

 

 必死に叫び、暴れるねねは丹羽長秀に見つけられ、長秀におんぶしてもらい境内へと乗り込んだ。

 

「丹羽さまっ……刃どのと兄さまは……まだお戻りにならぬのですか?」

 

 ねねの声は、背中越しでも震えていた。

 

「……まだ、知らせは入っていません。ねね殿」

 

「でも……でも、丹羽さまたちの奮戦で、織田軍は無事に京へ退却できたのでしょう!? それなら、今すぐに二人を――!」

 

「それが……厄介な事態になっているのです。一点です」

 

長秀の言葉は、重く鈍く、ねねの胸に沈んでいった。

 

「厄介な事態……?」

 

「織田軍敗戦の報と、刃どのの不在を聞きつけたのでしょう。四国へ逃げ散ったはずの三好一党が、再び畿内をうかがっています。甲賀に隠れていた六角承禎も再び南近江に姿を現しました。その上、浅井朝倉の連合軍が京へ迫っています」

 

「そ、そんな……でも、このままじゃ……刃どのと兄さまが……!」

 

 涙声になりながら、ねねは叫んだ。

 

「お願いですっ! 姫さまに、姫さまに会わせてください! きっと直接お願いすれば、姫さまなら……!」

 

 長秀は黙ってうなずき、ねねをそのまま本能寺の奥、信奈の部屋へと運んだ。

 

 

 その部屋は、かつての信奈の“王国”ではなかった。

 

 虎の敷物も、南蛮の地球儀も、豪奢な望遠鏡も、ぬいぐるみのパンダも消えていた。

 残されていたのは、ただ一組の布団。

 

 そしてその中に、小さく身体を丸めて眠る――いや、倒れている信奈の姿があった。

 

「……姫さまっ!?」

 

 ねねは駆け寄り、信奈の手を取った。

 その手は熱く、震えていた。額には汗が浮かび、唇はかすかに動いている。

 

「……はやて……う……はやて……いかないで……」

 

 うわ言のように、信奈は刃の名を呼んでいた。

 その顔に、あの無鉄砲で快活な“うつけ姫”の面影は、なかった。

 代わりに、傷ついた一人の少女が、必死に夢と現の狭間で愛しい者の名を呼び続けていた。

 

「……姫は、刃どのの救出に自ら行こうとされていました。

 しかし、周囲の制止と、進軍する敵軍の報を聞き……」

 

 長秀は静かに続ける。

 

「力尽きたように……そのまま、寝込んでしまわれました。まるで、糸の切れた人形のように」

 

 信奈のすぐ脇には、一人の老翁がひざまずいていた。

 

 白い道服に身を包み、背筋をぴんと伸ばしながらも、眼差しには深い哀しみと諦観が滲んでいる。

 京の都では知らぬ者のいない名医――「神医」の誉れ高き男、曲直瀬ベルショールであった。

 

 彼は信奈の額の汗を布で静かに拭いながら、そばに立つねねに言った。

 

「おうおう……ここは戦の後じゃ。幼き者が来るべきではなかろうて」

 

 その声に咎める響きはなく、むしろ慈愛と戸惑いが混じっていた。

 

「……なぜ、ベルショルー殿が、ここに……?」

 ねねの声は震えていた。信奈の惨状を前に、幼い胸が不安で押しつぶされそうだった。

 

 ベルショールは一度、長く静かに息を吐くと、重い口を開いた。

 

「――信奈さまは、弾を一発、脇腹に喰らいかけた。あれは、まさに死神の一撃じゃった」

 

「弾を……!? 姫さまは、撃たれたのですか……!?」

 

 ねねの声は裏返り、全身から血の気が引くようだった。

 戦場にいるとはいえ、信奈ほどの人物が実際に狙撃されたと知ると、それはただの恐怖ではなく現実の重さとして襲いかかってくる。

 

 だが、ベルショールは静かに首を横に振った。

 

「いや、実際には……身体に直撃はしておらんのじゃ。信奈さまの命を、守ったものがあった」

 

 そう言うと、老翁はゆっくりと懐から、何かを取り出してねねに差し出した。

 

 それは――一本の折れた小刀だった。

 

 鞘は抉れ、刀身は見事に真っ二つに裂けていた。

 しかしその折れた刃は、どこか誇り高く、使命を果たした者の静かな誇りを纏っているようにさえ見えた。

 

「これは……刃どのの……!」

 

 ねねは息を呑んで、それを見つめた。

 懐かしい、そして胸の奥に沁みついたような感触が、指先からじわりと広がっていく。

 

「……形見の品だったのじゃろうな」

 

 ベルショールの声は、静かだったが、どこか哀惜の色を帯びていた。

 

「鎧も脱ぎ捨てることすらためらわなかった信奈さまが……懐に唯一、この小刀だけを大切に入れていたという。

 どうしても、どうしてもこの天城どのの形見だけは、手放せなかったのじゃな……」

 

 ねねは、震える手で小刀を受け取った。

 

 重かった。折れているはずなのに、手にしたそれは、まるで命の重みを抱えているかのようだった。

 

「そして、偶然にも――いや、運命と呼ぶべきか。

 あの一発の銃弾は、この小刀に命中し、信奈さまの命を救ったのじゃ」

 

 ねねは、涙が止まらなかった。

 刃は、今この部屋にいない。けれどその想いと、誓いは、こうして信奈を守っている。

 身体は共にいなくとも、その存在は確かに、ここにあったのだ。ねねはその小刀を信奈のそばに置いた。

 

と、そのとき。

 

「ねねどの」

 

 丹羽長秀が、静かに信奈の傍らに膝をつき、寝汗にまみれた彼女の額をそっと布で拭った。

 

「……曲直瀬殿。姫が、なにか……おっしゃっておられます」

 

 唇がわずかに動くのを見て、長秀は耳を寄せた。

 しばらく耳を傾け、そして顔をしかめる。

 

「……逃げて……刃……逃げて……」

 

 信奈は夢の中でも、刃を気遣っていた。

 刃が、死んでしまう未来を、何度も何度も見続けているのだろう。

 

「刃……ごめん……なさい……」

 

 そのつぶやきとともに、信奈の瞼の端から、静かに、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 

 その涙は、まるで心の奥に刻みつけた懺悔と祈りの結晶のようで、見る者の胸を強く締めつけた。

 

「そうか……信奈さまは、刃どのが戦で討たれる悪夢に囚われておられるようじゃ。

 それゆえに、心の支えを失い、気力が……急激に萎えておられるのじゃ」

 

 ベルショールが静かにそう語る。

 

「……いや……刃……一人に、しないで……」

 

 信奈のかすれた声が、再び胸を刺した。

 

「……曲直瀬どの……いかがすれば……! 私は、どうすれば……!」

 

 長秀が掠れた声で問う。

 軍略の才を誇り、常に冷静だった彼女の声が、今はまるで迷子の子供のように揺れていた。

 

「これより先は、医術の及ぶところではない。長秀どの……そなたが決めることじゃ」

 

 老医の言葉は穏やかで、それでいて逃げ場のない現実を突きつける。

 

「私ごときには……この八方ふさがりの局面を打開する策など……半兵衛どのも、病床から目覚められぬままで……!」

 

 言葉に自責と無力感がにじんだ。

 

「落ち着くのじゃ、長秀どの」

 

 ベルショルーは、背筋を正しながら、老いた声で静かに諭す。

 

「そなたがここで諦めたら、すべてが終わるのじゃ。誰かが、絶望の淵で手を伸ばさねばならぬ。信奈さまが、生きたいと願っている限り──まだ、戦は終わってはおらぬぞ」

 

 丹羽長秀と柴田勝家。

 織田家を支える両翼とも言える名将たち。

 だが、彼らがどれほどの武勇と知略を備えていようとも──信奈という主君があってこそだった。

 あの少女こそが、戦国という混沌を照らす光だった。

 だが、その信奈が……いま、最も奮い立つべきこの絶体絶命の時に──立ち上がることができずにいる。

 

 主を失った軍勢のように、織田家の人々は、静かに、だが確実に士気を失っていく。

 まるで魂を凍てつかせるかのような、深い絶望の夜だった。

 

 その時、ねねが唇を強くかみしめると、何かを決意したように庭先へと裸足で駆け出した。

 

「神さまでも! 仏さまでも! おねこさまでも、なんでもかまいませんぞ!」

 

 ねねの叫びは、冷えた夜空に突き刺さった。

 

「なにとぞ……なにとぞ刃どのと兄さまを──お救いくださいませぇぇぇぇ!」

 

 井戸のそばまで走ると、彼女は水桶を引き、頭から氷のように冷たい井戸水をかぶった。

 

 水垢離。

 

 子どもにしては厳しすぎる祈願だった。

 だが、ねねにできることは、これしかなかった。

 

(槍を持って戦場へ行きたい。兄さまや、刃どののように……)

 

 しかし、現実は非情だった。

 彼女はまだ幼く、小柄で、戦場には出られない。

 それがどれほど歯がゆくても、祈ることしかできなかった。

 

「ねねどの! 風邪をひいてしまいます! やめてください!」

 

 長秀が駆け寄って、彼女の肩に手をかけた。

 だが、ねねは振り返りもせず、顔を濡らしたまま水をかぶり続けた。

 

「風邪なんてどうでもいいんですっ! 刃どのや兄さまが死んじゃうより……ずっとマシですっ!」

 

 その叫びに、長秀は言葉を失った。

 その小さな背中が、ひどく大きく見えた。

 

 ──そして。そんなねねの姿に心を動かされた者は、長秀だけではなかった。

 

「丹羽どの!」

 

 突如、庭先に三人の影が現れた。

 

「丹羽どのは柴田どのとともに兵を率い、防備を固めてください! この十兵衛光秀が隠密としてこれより、近江へ潜入し、天城先輩たちを救出して参ります!」

 

 真っ直ぐな眼差しでそう告げたのは、額が広いこと以外、容姿・頭脳ともに完璧な少女である、明智光秀。

 

「……犬千代も、行く。山野には慣れている」

 

 短く、だが力強く言ったのは、虎皮のマントを羽織った小柄な少女、前田犬千代。

 野山に通じ、ゲリラ戦に長けた野生児のような存在。

 

「わ、わわわ私も参ります~。たとえ危険でも、私の決意は固いのです~!」

 

 おどおどしながらも目は決して逸らさない。

 メガネとたぬ耳のかぶり物で妙に目立つ──松平元康だった。

 

 三人はつい先ほど、金ヶ崎からの撤退を成し遂げたばかり。

 その疲労を押して、まっすぐこの場に駆けつけてきたのだ。

 

「しかし、そのような少数では……こんどはあなたたちまで死ぬことになる可能性が高いです。隠密を派遣するならば乱波を使うべきです。二十点です」  

 

長秀が押しとどめようとする。むろん、乱波を送れるならばとっくに長秀が送っている。

だが五右衛門は近江へ向かったまま戻っておらず、松平元康に仕える服部半蔵も刃と良晴と行動をともにしていて、つまりもう繰りだせる乱波はいないのだ。

 

「かまわないです!」

 

 光秀が声を張る。

 

「天城先輩を失えば──織田軍は終わりです! 信奈さまも、もう立ち上がれなくなる!」

 

「……犬千代は、とにかく行く。止めても無駄。止めたら、斬る」

 

「私、刃さんには命を助けられましたから〜。ご恩を返すチャンスです〜!」

 

 三人の目に宿るのは、迷いなき覚悟だった。

 命を捨てに行くのではない。命を賭して、希望を繋ぎに行くのだ。

 

 長秀は、しばし沈黙した。

 言葉では止められないと、痛いほど分かっていた。

 ならば、せめて背を預ける覚悟だけは、示さねばならぬ。

 

「……わかりました」

 

 目を閉じ、ゆっくりとうなずいた。

 

「だが向かう先は、敵の本拠です。深追いは無用。必ず、生きて戻られよ」

 

「「「承知!」」」

 

 三人の声が、夜空を貫いた。

 それは、ねねの祈りに応えるように──力強く響いた。

 

 彼女らは振り返り、なおも水垢離を続けるねねに向かって叫んだ。

 

「ねねどの──必ず! 天城先輩と兄上を救って参りますです!」

 

 ねねは涙で濡れた顔をあげ、ぎゅっと手を握りしめた。

 

 三人の背中が、夜の闇に溶けてゆく。

 

 

 

 

 

織田軍を、奇跡的ともいえる無傷の状態で京へ撤退させた三人──明智光秀、前田犬千代、松平元康。

 その功績は、もはや歴史に刻まれるほどの偉業だった。だが──。

 

 彼女らは一瞬たりとも、その栄光に酔うことを許されなかった。

 

 隠密任務。

 目指すは、刃と良晴、そして残された五百のしんがり部隊。

 戦線を維持するため、命を張ってしんがりを引き受けた勇者たちだった。

 

季節は冬。

 山道は、枯葉に覆われて滑りやすく、風は頬を裂くように冷たい。

 比叡山の脇に連なる*雲母坂を、三騎が風のように駆け抜ける。

 

「……このあたりだった」

 

 犬千代が馬の手綱を引き、険しい顔で言う。

 冷気に頬を紅潮させながら、じっと前方を睨みつけていた。

 

「……姫さまが撃たれたのは。なみの撃ち手ならば、あれほど速く駆けていた姫さまに弾を当てられないはず。おそらく撃ち手は、またしても杉谷善住坊」

 

 声には怒気がこもっていた。

 

「甲賀の暗殺者……忍びですね」光秀の瞳が鋭く細められる。

「しかし、信奈さまを二度狙い、両方とも天城先輩に阻止されるなんて思ってもみなかったでしょうね。しかも二回目は、そばにいないのに」

 

元康も首をかしげる。

「それにしても……なぜ吉姉さまたちは八瀬から京の出町柳へ最短で向かわず、わざわざ叡山寄りの雲母坂に逸れていたのでしょうか〜?」

 

「……わからない。気がついたら、雲母坂を通っていた」犬千代が短く答える。

「妙ですね」光秀が眉間に皺を寄せた。

「暗殺者も、なぜ八瀬ではなく、この雲母坂に隠れていたのか……偶然とは思えないです」

 

しかし、今は理由を詮索している場合ではない。

最優先すべきは──天城刃と相良良晴の救出。

 

三人は、長秀の指示でしんがり部隊のために整備された退路を逆走する。替え馬や食糧、簡易の治療具までもが道々に用意されており、彼女らの進軍はまさに神速だった。

 

途中、落ち武者狩りの一揆と幾度も鉢合わせたが、刃の命を救うため、最小限の応戦のみで振り切る。少人数ゆえ、山中の獣道や斜面を使って敵の目をすり抜けることができたのだ。

 

息は白く、馬の鼻息も荒い。耳元をかすめる冬の風が、焦燥をさらに煽る。

そして──。

 

若狭街道最大の難所、花折峠の頂に辿り着いたその時だった。

眼下に広がる谷底に、無数の影がうごめいているのを視認した。

 

「……いたです!」

光秀が息を呑む。

そこでは、刃たちしんがり部隊と、異様な気配を放つ土御門式神軍団との戦闘が、まさに始まったばかりだった。

 

「あそこです! みんな戦っていますです!」光秀の声が上ずる。

「ああもう、どうして種子島を撃たないですかっ?」

「すでに弾薬を切らしたんじゃないでしょうか~」 元康が答える。

犬千代が険しい顔で前方を見据える。

「……敵の式神たちが空を飛んでる。面妖すぎ」

 

「いましたです!」光秀の瞳が鋭く光る。

「相良先輩が、あやかし相手に猛烈に暴れています! でも……何で円陣を組んでいるです? 天城先輩は、どこに」

 

その瞬間、光秀の視線が一点で止まった。

 

「天城先輩!?」

五百人の勇者たちが、まるで砦のように組む鉄壁の円陣。その中央で──刀を杖にして膝をつく、銀髪紅眼の男。

 

戦況は見るも無残。式神部隊は空と地を自在に行き交い、円陣にじわじわと迫っている。五百人は必死に防いでいたが、攻撃は四方八方から降り注ぎ、いつ突破されてもおかしくない。

 

だが、その混乱の只中──突如、戦場に濃い影が走った。

「……半蔵!」

血まみれの服部半蔵が低く構え、両袖から放たれる無数の小筒が地面に叩きつけられる。

 

ドォン──ッ!

 

瞬間、濃い煙が爆ぜて敵陣を覆い、式神の視界を奪った。白煙は冷え切った空気に広がり、まるで戦場全体を飲み込もうとするかのようだ。

 

光秀はその隙を逃さなかった。

馬上で種子島をかまえ、声を張り上げる。

 

「式神どもはこれに弱いと聞きます! 今すぐ、馬で谷を駆け下りるです!」

 

元康も続く。

「私たちが準備した退路へ、刃さんとサル晴さんをお連れしましょう~! 煙幕が持つうちに抜ければ……逃げきれます~!」

 

犬千代が短く頷く。

「……犬千代、参る」

 

──これで。

これで刃も、良晴も、そして信奈も救われる。

 

三人は、そう確信していた。

幸運と思われたのは、ほんの一瞬。

彼女ら三人が谷を駆け下りているそのわずかな間に、運命は暗転した。

 

「……そろそろ、終わりのようだね」

冷ややかな声が、谷間の戦場に染み渡った。 

 

幼い少年陰陽師が、手にしていた扇を、一振りした。

半蔵が張った煙幕が、たちどころに吹き飛ばされていく。

光秀たちは、見た。

 

煙が晴れた瞬間、刃の上空から影が落ちる。

 

「……っ!」

低く唸る獣じみた咆哮。空を裂く速度で降下した式神が、刃めがけて急襲する。

刃はふらつく足取りのまま、なおも立ち上がり、迎え撃つように刀を振り抜いた。

刃と爪が衝突した刹那──甲高い破裂音。

 

ガキィンッ──!

 

刃の刀身が、真ん中から弾け飛ぶ。

「……!」

刃の紅い瞳が見開かれた瞬間、式神の鋭い爪が右肩から脇腹までを斜めに引き裂いた。

 

鮮血が冬の空気に細い霧を散らし、刃の体が仰向けに倒れる。

地面を打つ鈍い音が、戦場の喧噪に溶けた。

刃はそのまま身動き一つしない。

 

「……う……うわ……」

光秀の喉から、最初は言葉にならない震えが漏れた。

「うわあああああああああああああっ……!?」

 

その心の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。

視界の端から色が消え、ただ一つの感情だけが残る。

 

──よくも。

──あの人を。

──私の、大切な人を。救うと、誓ったのに。

 

光秀の目が真紅に染まる。

 理性も、任務も、すべて吹き飛んだ。

背中に担いでいた種子島を乱暴に構え、引き金を引いた。

どうんッ! 火薬の轟きが谷に響き渡る。

 

驚いた低級式神たちが、散り散りに空へ舞い上がる。

だが久脩は、ただ片眉をわずかに動かしただけ。

「やれやれ……くだらない意地で自分から粉微塵になりたいとはねぇ。ほんと、サルの考えることは理解できない」

 

薄く笑い、護符を一枚──ひらり。

光秀の弾丸は見えない壁に弾かれ、空気の中で火花のように散った。

 

「今のボクはね、最高に機嫌がいいんだよ。織田信奈の懐刀、天の白刃・天城刃を討ち取ったばかりだからね。

……追ってこないなら、今回だけは見逃してあげよう。でも、もし追ってくるなら──」

にたり、と冷たい笑みが朝日に浮かび上がる。

「──殺すよ」

 

久脩は翼龍の式神に軽やかに飛び乗り、地を蹴るでもなくふわりと宙に浮かび、悠々と空へ舞い上がった。

 

「誰が逃がすか……よくも……絶対に殺してやるですッ!」

光秀の両目は血走り、狂気の赤に染まっていた。

 

「待て! やめろ十兵衛!」

良晴の声が谷を裂く。

だが光秀は、聞かない。馬腹を蹴り、単騎で空を追う。

 

「だ、だめです! 追えば罠が──絶対にあります、待ってください~!」

元康の叫びも届かない。

 

だがもう、光秀の耳には、なにも届いていなかった。

 

 その目には、ただ──空に逃げる少年の姿しか、見えていなかった。

 

 刃を殺した、敵。

 それだけが、全てだった。

 

 ──その時。

 

 空から、呪文の声が降り注いだ。

久脩の扇が、空中でくるりと回る。

「──さあ、地龍の背に沿って開け。〝道満井戸〟」

 

光秀の駆けるその大地に、突如として黒い亀裂が走る。

 ごごご、と大地がうねり、地面が口を開けた。

 

 まるで地獄そのものが、喰らおうと待ち構えていたかのような、深く暗い裂け目だった。

 

 光秀は、それに気づかなかった。

 怒りに支配され、思考はすでに蒸発し──ただ、前へ、前へ。

 

 馬が、その亀裂の上に跳ねた。

 蹄が、空を蹴る。

 そして──

 

 光秀の身体ごと、馬は裂け目へと吸い込まれていった。

 

その瞬間。

 

 もう立てるはずのないはずの、天城刃が。

 

 血まみれの身体を引きずり、折れた刀を杖にして立ち上がった。

 

 その目に映っていたのは、空ではない。

 

 ──裂け目に落ちていく、光秀の姿。

 

どれだけの傷を負っていようとも、目の前で光秀が落ちていくのを、ただ黙って見ていることなど──彼にはできなかった。

 

 ──助けなければ。

 たとえ、自分の命が尽きようとも。

 

 ──あの子だけは。

 

「光……秀……ッ!」

 

 叫ぶと同時に、刃の身体が光秀を追って、亀裂へと飛び込んだ。

 

 動けぬはずの男が、最後の力を振り絞って、己の命より大切な者を追った瞬間だった。

 

「……あの傷で、まだ動けるのかい?」

土御門久脩が、まるで珍しい標本を眺める学者のように、目を細めた。

翳りのない冷たい瞳。そこに宿るのは、戦士への敬意ではない。

ただ純粋な興味──異常な生命力を見せた獲物に対する、好奇と愉悦。

 

「本当に……人間か?」

薄い唇が、冷笑の弧を描く。

「まぁ……あの傷で、この〝道満井戸〟の裂け目に落ちて、生き残れるはずないけどね」

 

洞窟の奥から吹き上がるような冷気が、久脩の髪を揺らす。

その声色には、勝者の確信と、飽きたような退屈さが同居していた。

 

「首を持って帰れなかったのは、ちょっと残念だけど……」

ひらりと扇を閉じ、視線を谷底の闇から外す。

「──死んだから、いいか」

 

それは、戦場に響くにはあまりに軽い、しかしあまりに残酷な一言だった。

その瞬間、五百人の勇者たちの胸を締め付ける冷気が走る。

良晴は喉の奥から迸る声を抑えられず、叫んだ。

 

「刃ぇぇぇぇぇぇッ!!!十兵衛ぃぃぃぃぃぃッ!!!」

 

だが、その声が届くことはなかった。

谷底からは、ただ地鳴りと、闇の底へと吸い込まれていく砂礫の音だけが響いていた。

 

 

 

 

「あ、あああ……そ、そんな……」

元康の声は、ほとんど声になっていなかった。

「は、刃さんも、光秀さんも……そんな……!」

 

 地面の裂け目──それはもはや「穴」などという可愛らしいものではなかった。

 地獄の喉元のような、暗黒の渦だった。

 

 二人の体は、落ちていった。

 その深さは底が見えず、ただ黒く、どこまでも深く。

 地の底に吸い込まれていくように、刃と光秀はその中に消えた。

 

 風も止まり、戦場は凍りついたかのような静寂に包まれた。

 

 もう、この高さからでは助かる道理などない。

残された者たちは、呆然とその裂け目を見つめ続けた。

 

 犬千代はがくりとその場に膝をつき、力なく崩れ落ちる。

 元康が思わず彼女を抱きとめたが、その体はまるで魂が抜けたかのように冷たく震えていた。

 

 良晴もまた、ひときわ深い絶望の中にいた。

 

「刃……ごめん、ごめんな……!」

 震える声が、谷に響く。

 「俺を庇って……お前が、種子島なんかに撃たれなければ……! 十兵衛があんなふうに……!」

 

 拳を地に叩きつけ、良晴は叫ぶ。

 

「全部、俺のせいだ……! 俺が未熟だったから……!俺は、助けられてばかりで……!信奈達にも、刃を連れて帰るって言ったのに……!」

 

 裂け目の中からは、何の音もしなかった。

 まるで、最初から誰もいなかったかのような静けさ。

 それが、かえって残酷だった。

 

 その場にいたすべての者たちが、打ちひしがれていた。

 

 しんがり部隊──命を賭して信奈を護り、退路を守り抜いた彼らの誰一人として、自分の生還を喜ぶ者はいなかった。

 

「うおおおおおおっ……! すまねぇ……天城さまぁあ……!」

 腕に刀傷を負った若武者が、地に拳を突き立てて泣き崩れる。

 

「……おにゃのこまで、巻き込んでしもうたぎゃあ……」

 頬に泥と血をつけた一人が、すすり泣きながら頭を抱える。

 

「なしてじゃあ……天城さま……なんで、なんでじゃあああ……!」

 

「これじゃあ……姫さまに合わせる顔がねえみゃあ……!」

 

 それぞれの兵が、刃の名を叫び、地に突っ伏す。

 その涙は、決して誇張ではなく、英雄を失った者たちの悲嘆だった。

 

 誰一人、自らの生存を誇らず、誰一人、自分のために戦ったと思っていない。

 だからこそ、その後悔は深く、胸を裂いた。

 

 その中で、ひときわ深く泣き崩れる良晴。

 そんな彼に、凛とした声が飛ぶ。

 

「姫さま」

 

 声の主は、服部半蔵だった。

 

 すでに周囲を警戒していた彼は、空気の変化を敏感に察知していた。

 

「この場にあまり長く留まっていては、落ち武者狩りの連中に見つかります。敵の残党も、山に潜んでおります。今すぐこの場を離れねば、残らず全滅いたします」

 

 だが元康は、動かなかった。

 

「でも、二人を……!」

 

「奇跡でも起きぬ限り、二人は死んでおります。それに、われら服部党にとっては、姫さまのお命こそがなによりも大事」

服部半蔵は、真に冷酷非情な男だった。

 

「われらは織田家家臣にあらず、あくまでも姫さまの家臣。これよりはわが主、姫さまを京まで守らねばなりません。姫さまも分かっているでしょう。織田信奈のためを思うなら、ここで全滅する方が最悪の結末です」

 

 鋼の意志を宿したその眼差しが、良晴に向けられる。

「相良良晴、いつまで泣いているつもりだ?」

 

ぐっ……と良晴は歯を食いしばった。

 唇を、血が滲むほど噛んだ。

 だが、立ち上がった。

 

「……わかってるよ。わかってるさ……!」

 

 そして、兵たちもそれに呼応するように、よろよろと立ち上がっていく。

 

 足元はふらつき、顔は血にまみれ、目は赤く腫れ上がっていた。

 

 それでも、進まねばならなかった。

 

 今ここで、立ち止まるわけにはいかなかった。

 

「──行軍、再開だ」

 

 半蔵の号令とともに、しんがり部隊は、悲しみを胸に抱いたまま、京へと向かって歩みを始めた。

 

 誰も、背を振り返らなかった。

 

 ただ、心の中で、皆がそれぞれにひとつの願いを抱いていた。

 

 ──どうか、どうか、あの二人がまだ、どこかで生きていてくれますように。

 

 雪が、再び舞い落ちた。

 

 白く、静かに。

 けれど、冷たい風は、その願いをあまりに無情に吹きさらしていた。

 

 

 

 

 

事態は、まさに風雲急を告げていた。

琵琶湖西岸を南北に貫く西近江街道。そこを黒い奔流のごとく突き進むのは、浅井朝倉連合軍──その数、およそ三万三千五百。

 

刃たちしんがり部隊──正確には、そのほとんどを刃一人が支えていた──が敵の追撃を必死に食い止め、およそ千五百を討ち減らした。

だが、それでもなお圧倒的な兵力差は揺るがない。

 

織田方に、もはや信奈の完全な回復を待つ時間はない。

急遽、筆頭家老であり織田家随一の剛将・柴田勝家を総大将に任じ、二万五千の軍が京より出撃することとなった。

副将には、戦略と統率に長けた丹羽長秀。

 

二人は轡を並べ、霜を踏みしめる冬の街道を進みながら策を練る。

だが──その会話の温度差は、あまりにも大きかった。

 

「ああああたし、どどどどうしていいかわからないよっ!? とにかく、突撃だ! うんっ!」

「……勝家どの。決戦の地は坂本となりましょう」

「さ、坂本?」

「比叡山東麓に位置する交通と防衛の要衝です。ここを抜かれれば、京までは一本道。京の門を叩かれるのは時間の問題……即ち、敗北です」

 

長秀は、坂本の地理的価値と戦術的意義を丁寧に説明していく。

しかし勝家は、眉間に皺を寄せ、唇を尖らせたままだ。

 

「とととにかく、あたしの辞書には『突撃』の二文字しかないんだよ! 速攻で決着をつけてやるっ! 特に浅井久政──あの裏切り者は絶対にこの手で討ち取ってやる! ……って、ほんとに大将ってこんなんでいいのか、長秀?」

「ええ、今回に限ってはそれで構いません」

「……は?」

「対峙が長引けば、甲賀の六角承禎をはじめ、周辺の反織田勢力が次々と蜂起します。短期決戦で決着をつける──それが唯一の道です。勝家どの、九十点です」

 

「ななな長秀がそんな高得点くれるなら、心配ないなっ! 見てろ長秀、この柴田勝家──戦場で悪鬼羅刹と化して、姫さまの恨みを必ず晴らす!」

「……ええ。大いに期待しております」

 

そのやり取りを聞きながら、列をなす足軽たちは歯を食いしばり、槍を握る手に力を込める。

今回ばかりは、普段“東海最弱”と揶揄される尾張兵たちの士気が異様なまでに高かった。

誰もが慕っていた二人──「信奈さまの飼いザル」こと相良良晴と、「信奈さまの懐刀」こと天城刃が、この敗走戦で姿を消したという事実はすでに広まっていた。

「二人はまだ戦場にいる」「今も敵を喰い止めている」──そう信じたいが、その胸中の奥底には、形容しがたい不安と怒りが渦巻いていた。

 

そして──。

 

坂本を目前にした勝家と長秀のもとに、物見の兵が血相を変えて駆け込んできた。

冬の冷気を切り裂く、その叫びは、二人の鼓膜を震わせる。

 

「報告ぅぅ! 浅井朝倉軍、坂本を無視! そのまま叡山へと登っております!!」

 

「な、なんだってぇ!? 叡山へっ!?」

勝家は手綱を引き絞り、ぎしりと馬を止める。肩越しに振り返り、長秀に詰め寄った。

「ちょ、ちょっと長秀! いったいどういうことっ!? あたし、さっぱり意味がわからないんだけどっ? うあああ……」

 

長秀は無言で唇を噛み、地図を広げる。

「……われらの状況は、十一点です」

 

「じゅ、十一点って……おい、百点満点でか!?」

「はい。どうやら敵方には、相当な切れ者がいる様子。叡山に籠城し、持久戦に持ち込む腹づもりでしょう」

 

「っていうと?」

「こうなれば、われらは叡山を包囲せねばなりません。そうなれば戦況は膠着します。時間が経てば経つほど、織田軍は補給と士気を削られ、南近江を六角承禎、京を三好一党に奪われてしまうでしょう」

 

勝家は目を剥いた。

「じゃ、じゃあ包囲をやめれば──」

「その時こそ、叡山から浅井朝倉軍が背後に打って出ます。こちらは二進も三進もいかなくなります」

 

勝家はこめかみを叩き、声を張り上げた。

「おいおい、どうして叡山があたしたちの敵に回ったわけぇ!? あたしたち、坊主どもを怒らせるようなこと、なんかした!?」

「わかりません。浅井朝倉と結んだのは急すぎます。浅井久政の裏切りは、子の長政すら知らない不意打ちだったはず……誰かが裏で糸を引いているのやもしれません」

 

織田軍は攻撃目標を失い、やむなく坂本へと布陣を開始する。

しかし、越前金ヶ崎からの総退却に続き、今度は目の前で敵軍が叡山に逃げ込んだ。

復讐の炎を燃やしていた足軽たちは、怒りの矛先をかわされ、さらに休みなき強行軍で心身ともに疲弊しきっていた。

 

──だが。

 

「ぐわははははは! 我が名は叡山の山法師・正覚院豪盛よ!」

地を震わせるような咆哮とともに、叡山の麓から僧兵軍団が雪崩れ込んできた。

「女だてらに天下布武などとぬかす思い上がったおなごどもよ、かかってこいませい!」

 

その先頭に立つは、巨躯にして鬼神のごとき山法師・正覚院豪盛。

太い腕に握られた金棒は、振り下ろされるたびに空気を裂き、ぶおん、ぶおんと低く唸る。

甲冑の上からでも骨を砕く一撃は、馬さえも一打で地に沈める凶器だ。

 

「なっ……坂本に陣を築いてる最中だぞ! 迎え撃つ準備が──」

「右へ避けろ! 金棒が来るぞっ!」

坂本に布陣中の織田勢は大混乱に陥った。槍を立てる間もなく、僧兵たちの長槍が突き込み、金棒が唸りをあげる。

 

長秀が叫ぶ。

「勝家どの、今こそあなたの武勇に頼る時です!」

 

勝家はにやりと笑った。

「合点承知! 勝負だ、正覚院なんとかぁ!」

 

槍をしごき、馬腹を蹴る。

「おりゃああああああ!」

獣のような突撃とともに、勝家は僧兵たちを蹴散らしながら一直線に豪盛へ迫った。

その勢いに、さしもの叡山僧兵軍団も思わず足を止める。

 

「あたしたちが何をしたっていうんだよっ!? その坊主首、この柴田勝家がいただくっ!」

勝家は並走する小姓に合図した。

 

「喰らえ必殺! 秘太刀──瓶割大斬撃!」

 

小姓が抱えていた巨大な瓶を高く放り上げる。

勝家は愛槍を一閃、瓶へと振り下ろした。

 

がちいいん!

乾いた破裂音とともに、瓶は粉々に砕け、四方八方へ破片が弾丸のように飛び散った。

 

「うぐっ!」

「ぎゃ!」

「ぬうっ……!」

 

破片は僧兵たちの顔面や鎧の隙間を容赦なく打ち、何人もがその場に崩れ落ちる。

勝家は追撃の手を緩めず、馬上から豪盛を見据え、さらに距離を詰めていった。

 

「やいこら正覚院! あたしと尋常に勝負しろおおお~!」

 

坂本の戦場に、勝家の甲高い咆哮が響き渡った。

その声に、金棒を肩に担いだ正覚院豪盛の眼がぎらりと光る。

 

「ふん……穢れた姫武将と一騎打ちなど、我が身に仏罰がくだりそうだが──そこまで言うのならば、受けて立とうぞ! ぐわはははは!」

 

地鳴りのような足音と共に、豪盛が金棒を大きく振りかぶり、勝家へ突進してくる。

鎧の板金がぶつかり合い、槍と金棒が火花を散らす。

 

がん! がんっ! ごんっ!

三度、四度とすれ違いざまにぶつかり合うたび、衝撃が馬の蹄から地面に伝わり、土が跳ね上がる。

膂力では僅かに豪盛が勝っていた。金棒の重さと破壊力は、まともに受ければ人も馬も一撃で粉砕する。

 

だが、勝家は馬上からも自在に槍を操り、相手の懐へ踏み込む技量で豪盛を押し返していた。

「おらおらおらぁっ! 織田家に〝掛かれ柴田〟ありっ! 正覚院、覚悟ぉ!」

 

「むぅ……なんたる膂力!? き、貴様……実は男ではないのか!? こんな強いおなごが、この世にいるものか!」

 

「きーーっ! 失礼なこと言うなよーーっ!」

勝家は全身で怒りを爆発させ、槍をしごいて連続突きを浴びせる。

 

その様子に、怯えて後退していた織田軍の足軽たちも、

「勝てるがやーっ! さすがは男まさりの勝家さまだがやーっ!」

「押せ押せぇ! 僧兵どもを蹴散らせーっ!」

と再び士気を奮い立たせた。

 

豪盛は唇を歪め、金棒を地面に叩きつけた。

「がはは……小娘よ、拙僧の真の任務は叡山の守護。今回はこの程度にしておいてやろう」

 

彼は僧兵たちに撤退を命じる。

整然と隊列を組み直した僧兵軍団は、乱れることなく叡山へと退き始めた。さすがは名高き叡山僧兵、退き際すら隙がない。

 

「待てこのっ! 一騎打ちはこれからだというのに、逃げるのかっ!? 卑怯者ぉーっ!」

勝家は槍を構えて馬腹を蹴り、追撃に移ろうとする。

 

豪盛は笑いながら振り返った。

「がはははは! 悔しければ、聖なる叡山の奥まで追ってくるがよい! 女人禁制の霊山に足を踏み入れるとは……おろかなり、おろかなり、姫武将どもよ!」

 

「ちくしょおぉぉぉぉ! 逃げやがって、この糞坊主がぁ! このまま叡山に攻め上っちまえぇ!」

勝家が目を剥いて槍を振りかぶった、その時。

 

馬を飛ばしてきた長秀が、必死に彼女の前に躍り出る。

「お、お待ちください勝家どの! 叡山は京の鬼門を守る、日本を代表する霊山です! 本堂の根本中堂には、開山以来絶えたことのない〝不滅の法灯〟が灯っております。その炎が消えれば鬼門封じの霊力が失われ、京は厄災に襲われると信じられているのです! そんな聖域に攻め込むなど、もってのほか!」

 

「そんなこと言っても、あたしは──」

 

「さらに、叡山は女人禁制。仏門における古き戒律ゆえ、勝家どのも私も山に入ることすら許されません!」

 

「えええぇっ!? 女人禁制? なんでぇ!?」

 

「宗教上の理由です。仏教伝来以前からの古きしきたりとも言われています」

 

「じゃ、じゃあ……あたしたちは叡山に籠もった敵を攻めることもできないし、包囲を解くこともできない……八方ふさがりじゃんか!」

 

「ええ。進退極まれり──二点です」

 

「ぐぎぎぎぎ……正覚院め……! 大口叩いておきながら、あたしに押されるや否や女人禁制の安全地帯に逃げ込みやがって! なんてずるい野郎だ!」

 

勝家と長秀は、標高八百五十メートルの霊山・叡山を見上げた。

その荘厳な山影は、ただの地形ではなく、織田軍の行く手を完全に塞ぐ巨大な壁となっていた。

 

そして本能寺で臥せっている織田信奈は、この時もなお、刃の帰還を待ち続けながら、うなされていた──。

 

 

 

 

 

 

 

叡山。根本中堂――。

千年の歴史を誇る堂内には、昼なお薄暗い空気が漂っていた。

中心に据えられた「不滅の法灯」が、ゆらゆらと揺れる炎で天井を照らし、壁際には護摩壇や呪具、無数の経巻が整然と並ぶ。

その奥、静寂を破るのは、呪文を唱える低い声と、時折響く木鉦の音のみだった。

 

そこに座すのは、特別な「力」を持つ三人の僧――呪術を専業とする叡山の能力者たちだ。

彼らは今まさに、織田信奈を調伏するべく、数日にも及ぶ呪法を続けていた。

 

「……まだだ。まだ“死”の報せは届かぬか」

額に汗を浮かべた老僧が、焦燥を押し殺すように呟く。

 

「織田信奈が、未だ生きている……」

「馬と人との感覚を惑わせ、八瀬から雲母坂へと引き寄せる呪法には、確かに成功した。あの場で仕留められておれば……」

 

しかし現実は、彼らの想定とは違っていた。

「……『気』は大きく削られた。だが尽きてはおらぬ。まるで外部から補充されているような、異様な回復だ」

「異常な『気』の持ち主……いや、異常な“存在”か」

 

信奈の意識は失われているはずだ。それでもなお、生命力はしぶとく燻り続ける。

「終わらぬ悪夢を見せ続け、心を削り、魂を摩耗させる。逃げ場のない夢を、永遠に」

 

だが戦国の世に「絶対」はない。

彼らの視線は、次第に呪法そのものから、この先の戦局へと移っていった。

信奈を直接討つ機会を得られずとも、合戦の流れ次第では勝機は巡ってくる。

 

――その一方で、根本中堂の奥に設けられた広間では、別の会合が進められていた。

 

重厚な畳敷きの間に、三人の武将が座している。

 

一人は、痩せ気味の顔に陰を落とす浅井久政。

「……まさか初手から籠城戦を採るとはな」

指で茶碗の縁をなぞりながら、久政は小さく息を吐く。

「織田信奈もまだ生きておるようだし、果たして……わしらは勝てるのか……」

裏切りの一手までは自信があった。だが、ここで織田軍を壊滅できねば、浅井家の未来は暗い。久政の瞳には、不安が色濃く滲んでいた。

 

その向かいに座るのは、長身痩躯の優男――朝倉義景。

髷を結わず、黒髪を肩口まで流し、京の公家風の衣を纏っている。

年の頃は三十前後、磨き上げられた体つきは野生の獣のようで、その顔には薄く白粉が施され、色香さえ漂っていた。

 

義景は杯を傾け、穏やかに微笑んだ。

「久政よ。時を稼げば稼ぐほど、戦局は我らに傾く。血を流さぬ戦こそ、真に美しい。姫武将の血など、土に吸わせるべきではない」

その声は、まるで雅楽の音色のように柔らかく響く。

 

戦を好まぬ義景にとって、今回の出兵は火の粉を払うためのやむを得ぬ行動に過ぎなかった。

「織田信奈を滅ぼすのに、血で染まる必要はない。地の利と時の運、この二つを握れば、熟れた柿の実が枝から落ちるように、勝利は我らの手に落ちる」

 

久政が深々と頭を下げる。

「義景殿、織田信奈を討った暁には……我が子・長政を次の天下人に」

義景は杯を置き、あっさりと頷いた。

「よい。余は天下など興味はない。長政が京も天下も好きにすればよかろう。ただし――京にある主立った風雅の品々は、一乗谷へ運ぶ。それらを戦火から救うためにな」

 

その言葉に、一片の冗談もなかった。義景の関心は、あくまで美と風流にある。

俗事に囚われぬがゆえに、彼の戦略眼は澄んでいた。

 

そこへ、場の空気を変えるような笑い声が響く。

「ぐわははははは!」

巨躯の山法師、正覚院豪盛が盃をあおり、酒を豪快に喉へ流し込んだ。

僧兵軍団を束ねるその体躯は岩のようで、戦場の匂いをまとっている。

 

「武門の頭領は男子でなければならぬ! 織田信奈ごとき小娘が天下人とは片腹痛し。拙僧は叡山の総力をもって、お二方をお助けいたす!」

金棒を横に置き、豪盛は笑いながらも目を鋭く光らせた。

 

そして。

 

「天下を幼い小娘に渡すなど、もってのほか!」

正覚院豪盛の声は、根本中堂の太い柱を震わせるほどの響きであった。

「拙僧はな、昨今の武家の風潮を嘆いておる! なにが〝姫大名〟じゃ。もののふとは、たくましき肉体と胆力を誇るおのこでなくば務まらぬわっ!」

 

その目は血走り、火炎のごとき激情が燃えている。

「女人は拙僧の悟りを妨げる悪魔よ!」

声には濃密な憎悪が混じっていた。それは単なる差別や偏見ではなく、まるで何十年も積み重ねられた怨念のように、どす黒く淀んでいた。

 

豪盛は拳を握りしめ、膝前の畳をぐっと押し潰すようにして言い放つ。

「浅井どの、朝倉どの。この国をおなごなどに好き勝手させてはならん! 奴らは今、僧兵たちとの戦を終え油断しきっておる。今こそ夜襲! 日が完全に落ちたその刻、全軍で坂本へ討って出て、一気に大決戦と行こうではないか! なぁに、不利と見ればまた叡山へ逃げ込めばよいのだ、がっはっは!」

 

その短慮かつ好戦的な提案に、朝倉義景は杯を指先で転がしながら薄く笑った。

「……あきれた殺生坊主だな。相変わらず血の匂いを求めることにかけては誰にも引けを取らぬ」

 

一方、小心な浅井久政は眉間に深い皺を刻み、不安げに口を開いた。

「……しかし義景どの。十二月ともなれば、あなたの領国・越前への帰路は雪で閉ざされましょうぞ」

 

義景は視線を湖面のように静かに久政へ向け、淡々と答えた。

「より時間に追われているのは織田方だ。この戦は、先に織田軍が崩れる」

 

久政は、なおも口ごもる。

「う、うむ……だが、敵の大軍を前に呪詛頼みというのは、やや心もとない。なにか、もっと確実な手立てはないか……たとえば、坂本に陣を張る織田方の大将を暗殺するというのは……。特に、豪盛どのと一騎討ちで互角以上に渡り合ったという柴田勝家さえ消せば……」

 

だがその提案を、義景は鼻で笑った。

「柴田勝家とやらも、丹羽長秀とやらも、姫武将であろう? 無粋はよそう。興が削がれる」

 

豪盛はごつごつとした顎を撫で、歯を剥き出して笑う。

「がははは! 女人の本懐を忘れた柴田勝家づれは、そのうち拙僧がこの手で仏の道へ送ってやる。……だが、暗殺と言うならば――杉谷善住坊という鉄砲の名人が当山にはおる。越前より逃げてきた織田信奈を狙撃した男よ」

 

豪盛は手を振り、少年僧を走らせた。

しばしして、根本中堂の奥の暗がりから一人の男が姿を現した。

だがその姿は、名の知れた暗殺者というよりも、己の影に潰されそうな落人のようだった。

衣は乱れ、髪は脂で固まり、眼窩の奥に深い隈が沈む。

手には酒瓶。足取りはよろけ、口元からは酒と血の匂いが混ざり合った息が漏れていた。

 

「──俺にかまうな。放っておいてくれ」

低く掠れた声に、豪盛が眉をひそめる。

 

「……俺はあの女を、二度も暗殺し損じた」

善住坊は自嘲気味に笑い、酒瓶を傾けた。

「なにが天下の撃ち手だ……! 天の白刃に、二度も防がれたのだ。俺の腕が鈍ったのか……いや、鈍ったのは腕じゃない……」

 

その言葉に、これまで退屈そうにしていた義景が、ふと興味を示す。

「ふうむ。貴様ほどの求道者が、なぜ狙撃に失敗したのだ?」

 

善住坊は、黙って義景の眼差しを受け止め、そして苦しげに吐き出した。

「……顔を狙えば、確実に仕留められた。だが俺は――織田信奈の顔を、撃てなかった」

 

義景の口元が僅かに上がる。

「撃てなかった? なぜだ?」

 

「……わからん。だが、あの小娘の笑顔が、やけにまぶしかった。俺のような地を這う虫けらが、決して冒してはならない“何か”を……俺は撃とうとしていた。――そう思った瞬間、迷いが生じた。この杉谷善住坊としたことが……」

 

彼の声音には、殺し屋としての矜持が砕けた音が滲んでいた。

浅井久政が舌打ち混じりに「貴様が撃ち抜いておれば、今頃……!」と愚痴る。

だが義景は、久政を鋭く一喝した。

「無粋なことを言うな」

 

善住坊は再び杯をあおり、低くうめく。

「……だから俺は、とっさに腹を狙った。あの弾丸は確実に腸を貫くはずだった。それなのに……脇腹に入れていた何かに、銃弾を逸らされた。……おそらく、天の白刃が渡した物だろう」

 

「ふん……」

この男はもう使い物にならんな、と豪盛が太い指で無造作に頭をかき、鼻で笑った。

「出て行け。この豪盛、おなごも撃てぬような役立たずを食わせてやるつもりはない! 要は――お前は織田信奈の色香に迷ったのではないか!」

 

善住坊の目がぎらりと光った。

「……そのような野暮な迷いではない! この杉谷善住坊を舐めるな!」

拳を握る音が聞こえるほどだったが、豪盛は意に介さず、豪快に酒をあおる。

 

そんな二人を見やりながら、朝倉義景がふと、静かに笑んだ。

「……この男も、風流の心を知ってしまったということだ」

その声音には、どこか愉悦めいた響きがあった。

 

僧兵たちに追い立てられて山を下りていった善住坊と入れ替わるように──義景の一人語りを遮る者が現れた。

 

「朝倉さん、浅井さん。天の白刃は死んだよ」

軽やかで、しかし底に冷たい棘を含んだ声だった。

 

根本中堂の扉口に立つのは、白面の少年陰陽師──土御門久脩。

漆黒の直衣に身を包み、白磁のような肌と人形めいた笑顔。

その背後には、瘴気をまとった低級式神たちが、ぎちぎちと密集し、虫のようにざわめきながら蠢いている。

灯明の光が、彼らの歪な輪郭を壁や柱に映し出し、百鬼夜行の絵巻がそのまま現世に現れたかのようだった。

 

「道満井戸の裂け目に落ちてね。首を持って帰れなかったのが残念だけど──杉谷善住坊の代役は、このボクがつとめてあげよう」

久脩の紅い瞳が細く歪み、その口元が三日月のように吊り上がる。

 

「あの前鬼とやらも、まさか叡山と土御門が裏で手を組んでいるとは気づけなかったようだね。彼はずいぶん古い時代の者らしい。ふふふ……」

 

「まるで百鬼夜行じゃな!」

豪盛は、化け物じみた式神の群れを見て、豪快に笑い飛ばす。

しかし浅井久政は、その光景に顔を引きつらせた。

 

「こんな子供が土御門家の当主……? それに天の白刃の首も持ってこずに、なにを威張っているのじゃ……」

思わず洩らした呟きが命取りとなった。次の瞬間、翼を生やした獣面の式神が音もなく久政の背後に回り、首根っこをわしづかみにする。

 

「ひ、ひぃいい! 許してくれえええ!」

久政は情けない悲鳴をあげ、ぶら下がったまま必死に足をばたつかせたが、式神の握力はびくともしない。

 

「いいかい」

久脩は、まるで小鳥に囁くような声で続ける。

「織田勢を滅した暁には、土御門家を京に再興する。そして日ノ本各地に散った流れ陰陽師のすべてを、安倍晴明公直系の後継者であるボクが頭領として束ねる。そういう約束だよ」

 

「好きにするがいい」

朝倉義景は、静かに杯を傾け、細い笑みを浮かべた。

「陰陽師と式神が京を跋扈する平安の昔に戻る……実に喜ばしいことだ。京が再びいにしえの闇に覆われる。まことに風流ではないか」

 

「朝倉さんは話がわかる人だなあ」

久脩はくすくすと笑い、今度はさらりと別の毒を吐く。

 

「そうそう。ついでにあの明智光秀も殺しておいたよ。しばらく前に朝倉さんのところにいた、気位ばかり高いくせに貧乏なおでこ娘さ。惜しいことをしたかな?」

 

義景は、わずかに目を細める。

「──そうか。あれほどの才を秘めた高貴な娘が、あっけないものだ。おでこがあと少しばかり狭ければ、理想の若紫となれたものを……いや、どちらかと言えば朧月夜に似ていたか」

 

久脩の目が、ぞっとするほど無邪気に細められる。

織田信奈は今なお出陣できぬ病床。

そして、最も厄介だった二人の重臣──天城刃と明智光秀は、すでに土御門久脩の手によって討たれたと豪語されている。

 

美濃尾張を少ない手勢で守る斎藤道三は、甲賀の六角承禎と東の武田信玄とに挟まれ、身動きが取れない状態。

伊勢戦線に張り付いている滝川一益も同様で、やはり六角が防壁となっている。叡山へは辿り着けまい。

 

織田軍は今、叡山を囲みながらも実は敵中で孤立している。

四国の三好一党が畿内へ再上陸し、空き家同然の京を突くまでに要する時間を計算すれば──。

 

「二週間だ。あと二週間この退屈な籠城を続ければ、われらの手に勝ちが転がり込んでこよう」

 

「がはは、勝ったな朝倉どの。柴田も丹羽も姫武将。この叡山には一歩も踏み込めず、決して手出しできん! 叡山の女人禁制の掟を戦に利用するとはおぬし、なかなかの知恵者よのう」

 

「余はただ、女たちを血なまぐさい戦に巻き込みたくなかったのだよ。風流人としてね。女とは……館に閉じ込め、毎晩着せ替え、飽くまで眺め、ひたすらに愛でるもの。ふ、ふ、ふ」

 

なんだか気持ちの悪い人だなあ、とまだ子供の土御門久脩がさらりと本音を漏らしたが、朝倉義景は(二週間も館へ戻れぬとは、面倒なことだ。叡山は男ばかりでつまらん。長谷川等伯も連れて来るべきであったな)と退屈を憂えていた。

 

 

 

 

 

 

京・本能寺──控えの間

 

 静けさが支配する本能寺の一室。

 吹き込む風は冷たく、かすかな灯火が炭の音に合わせて揺れている。

 

 寝台には、織田信奈。

 額に浮かぶ汗は止まらず、唇は乾き、頬の色も蒼白に沈んでいた。

 その枕元で、老医・曲直瀬ベルショールは静かに彼女の容態を見守っていた。

 眉間に深く刻まれた皺が、名医としての無力を物語る。

 

「……教えてくだされ、ベルショールどの……」

 震える声で尋ねたのは、ねねだった。

 小さな体で必死に気丈さを保とうとする姿が、痛ましい。

 

 ベルショールは目を伏せ、重々しく口を開く。

 

「叡山に攻めることもできず、退くこともできぬ。まさに膠着の極み……。このままでは織田軍は凍りついたまま、崩れ落ちるやもしれぬ」

「なんとか……なんとかならぬのですか?」

「良晴どのや光秀どのが健在であれば、奇策のひとつも飛び出すところじゃろう。ましてや刃どのがいれば、単騎で敵陣を揺るがせる力もあった……」

 

 ねねがぽつりと呟いた。

 

「知恵者の……半兵衛どのは?」

 

 ベルショールは少し言い淀み、周囲を見渡してから声を潜めた。

 

「……いましばらく、薬の眠りから覚められぬ。ここだけの話、半兵衛ちゃんの病は、意外に……篤いのじゃよ。誰にも言うてはならぬぞえ」

「そ、そんな……」

「いつ目覚めるかは、半兵衛ちゃんの気力次第じゃ」

 

ねねは拳を握りしめ、目を潤ませながら叫んだ。

 

「……みなが一大事というのに、子どものわたしには何もできぬ……それが、悔しゅうてたまりませんぞ!」

 

 その言葉に、ベルショールの表情が一瞬だけ和らいだ。

 

「いや、できぬことなどない。ねねちゃんがこの寒空のなか、祈りを込めて続けた水垢離とお百度参り──その想いは、必ず良晴どのや刃どのに届くじゃろうて。魂は、道を越えて響くのじゃ」

 

 そして、ねねは恐る恐る訊いた。

 

「では……姫さまのご様子は──」

 

 ベルショールは顔を伏せ、答えを絞り出すように言った。

 

「……信奈さまは、いまだ熱にうなされておられる。夢の中に囚われ、その夢がさらなる熱を呼び、悪循環に堕ちておられる……」

「なにか、なにか手立てはないのですか!?」

「わしは東洋と南蛮の医学を学んだが……夢の中に立ち入る術までは持たぬ。魂の病は、薬では癒せぬときもあるのじゃ……」

 

「刃どのと、兄さまさえ……帰ってきてくだされば……!」

 

 本能寺の空気は、凍るような沈黙に包まれた。

 

 ──そのとき。

 

 ギィ……

 控えの間の襖が、軋む音とともに、ゆっくりと開いた。

 

 静けさのなかに、異様な香りが混じりはじめる。

 花のようでありながら、どこか甘く、毒を秘めたような重たい香り。

 

「うふっ……お爺ちゃん。そろそろ、わたくしの出番ではなくて?」

 

 現れたのは、異国の装束に身を包んだ、妖艶な女──

 長煙管を片手に、褐色の肌に鳥兜の髪飾りを揺らす女傑。

 

 ──松永久秀。

 その異名は、「蠍」。

 

 まるで人を喰うような笑みを浮かべながら、ゆらり、ゆらりと部屋に入ってきた。

 

「ま、松永さま!? 姫さまが撃たれたのを見て、織田家を見限って逃げたと、京の町で噂されておりましたぞ!」

「うふふっ、あいも変わらず京童は口が軽いですわね。わたくし、信奈さまのために、特別なお薬を調合していたのですわ。少しばかり時間がかかってしまいましたけれど」

 

 ベルショールはその言葉に顔色を変え、震える声で問う。

 

「だ、弾正ちゃん……そ、そんな薬、信奈さまに使うつもりか? なにをたくらんでおる……!」

 

 かつてベルショールは、久秀とともに閨房術の秘書を編んだ過去がある。

 その際、彼女に手を出そうとしたが、「爺さんは嫌い」と吐き捨てられ、芥子の毒を盛られた挙句、ゴミと共に多聞山城から捨てられたという恥辱の記憶が、頭をよぎる。

 

 久秀は、その様子を愉快そうに見ながら言った。

 

「もう、お爺ちゃんの手には余る頃でしょう? 夢を操る薬、波斯より伝わった秘術でございますの。原料をそろえるのに骨が折れましたわ」

 

「夢を、操る……薬じゃと……?」

 

 ねねが目を見開いた。

 

「そう。信奈さまが今、囚われている悪夢……それを、この薬で切り裂いて差し上げますの。代わりに、信奈さまが本当に望む夢を見ていただく。それができれば、心は安らぎ、気力が戻り、熱も下がる……そして、目を覚まされる」

 

「お願いしますぞ! 久秀さまっ!」

 ねねは、久秀の手をぎゅっと握り、頭を何度も下げる。

 

 だが、その背後から、ベルショールの震える声が飛んだ。

 

「待つのじゃ、ねねちゃん……! この女が使う波斯の薬は……ほとんど毒と変わらぬのじゃ! 一つの効能の陰に、十の害が潜む。いまのように、ただでさえ弱っている信奈さまの身に……そのようなものを投与すれば……命取りになるやもしれんぞ。危ないのじゃ、危ないのじゃ……!」

 

 曲直瀬ベルショールは、ふるふると首を振りながら顔をしかめた。

 だが──

 

「……では、お爺ちゃんには、信奈さまを救うすべがあるのかしら?」

 

 長煙管をくゆらせながら、松永久秀は鋭い視線で問い詰めてくる。

 その眼差しは、まるで毒蛇が獲物を睨むように、冷たく、ねっとりと絡みついてきた。

 

 ベルショールは、はっと言葉を詰まらせた。

 言い返そうとしても、何も出てこない。

 ──ぐぅの音も、出ない。

 

 久秀の瞳は、静かに、しかし明確に語っていた。

 「これ以上邪魔するなら、そこの童ごと、毒を回す」──と。

 

「良薬は口に苦し、というではありませんか。信奈さまの命が救われるのなら……多少の毒味くらい、目をつぶっていただけますわよね? ふふっ」

 

 そう言って、久秀は意味深な笑みを浮かべた。

 

「しかし、弾正ちゃん……その波斯の秘薬とやら……ほんとうに、人で試したことはあるのか?」

 

「ええ、自分の体で、少しだけ。効いている間……ふふ、多聞山城の大広間で信奈さまと天の白刃さまに挟まれて、極彩色のキノコ鍋を囲みながら、三人でゲタゲタ笑い転げるという夢を見ましたわ。おもしろくてたまりませんでした」

 

 ねねは、思わず身をすくめた。

 

「じ、実に危なそうですぞ……!」

 

 ベルショールは手を振りながら、声を荒げた。

 

「弾正ちゃん、そなたの身体はもう、長年の薬物と毒物のせいで常人のそれではない。毒に慣れすぎておるのじゃ。かの弘法大師・空海が錬丹術によって己の身体を神仙の域に変えたごとく、そなたもまたすでに人の身体ではない。そんな異形の身体で試した薬が、信奈さまに通じるとは思えぬ!」

 

 だが久秀は、眉ひとつ動かさず、すっと煙管を口から離した。

 

「いいえ。他に道はございませんの。敵方の呪詛が信奈さまの悪夢の一因だとしたら、尋常の薬では対処できませんわ。波斯の秘術にのみ、対抗手段があるのです」

 

 そして彼女は一歩、ベルショールににじり寄ると、低く囁いた。

 

「……少なくとも、信奈さまのお命だけは保証いたします。この松永弾正の──首に賭けて」

 

 その声音には、奇妙な誠意と狂気が同居していた。

 それを前にして、ベルショールはもう否とは言えなかった。

 恐怖と不吉な予感が胸に渦巻いたが、己の無力さを思えば……首を縦に振るしかない。

 

 ──ついに彼は、決断した。

 

「……分かった。信奈さまの命、そなたに託す。だが、もしものことがあれば──」

 

「ふふふ。ご安心くださいな。わたくし、約束は破らない主義ですのよ」

 

 そしてその夜。

 久秀は、誰の手も借りず、一人で信奈の眠る寝室へと入った。

 

 寝台に横たわる信奈は、額に浮かぶ汗を拭われながら、まだ目を覚まさぬ。

 頬はこけ、唇はかすかに青い。

 夢の中で何を見ているのか……その眉間は苦しげに寄せられていた。

 

「……だいじょうぶなのでしょうか」

 ねねが不安げに問う。

 

「うむ……これは、大きな賭けじゃ。弾正ちゃんの薬が、良薬となるか毒となるか……。いや、いっそ両方かもしれん。信奈さまに天運、あるやなしや……」

 

 ベルショールは老いた手を合わせ、天に祈るように呟いた。

 

 その横で、ねねは

「刃どの……姫さまに、どうか……力を」

震える声で、ただ静かに──祈った。

 

「信奈さま……なんと、おやつれになって……。おいたわしや」

 

 久秀は、静かにひとつ息をつくと、懐から天下の大名物――平蜘蛛の茶釜を取り出した。

 その中には、どろりとした黒い液体。異国の香草と幻覚草、そして毒と解毒が表裏一体となった、夢を操る禁忌の霊薬が秘められていた。

 

「さあ、信奈さま……お飲みくださいませ。これで、悪夢は終わりますわ。ふふっ……さあ、楽しい夢を――本当にあなたが望んだ夢を、見ていただきましょう」

 

 彼女は、火をともした香炉の前に平蜘蛛を置き、その中の液を静かに煮はじめた。

 薬草の濃い香りと、ほのかに甘い匂いが寝室の空気に混じり、夢と現の境界をぼやかしていく。

 

 ――このお方は、これほどに傷つかれ、こんなにも無残に弱られていてもなお……

 どうしてこんなに、気高く、美しいのかしら。

 

 久秀は、うっとりと信奈の寝顔を見つめた。

 その額に浮かぶ汗さえ、透き通る宝石のように見える。

 

 「あなたは……このわたくしが、どこまでもお守りいたしますわ」

 

 そっと、平蜘蛛の縁を信奈の乾いた唇に添え、煎じた薬を、ゆっくりと――まるで何かを封じ込めるように――流し込んでいく。

 

「……う……う……ん……」

 

  ……

   ……

    ……

 

信奈は一人、果てのない闇を彷徨っていた。

 何も見えず、何も感じず、ただ冷たい空気だけが皮膚にまとわりつく。

 

 歩いても歩いても、そこにあるのは──

 また、あの光景。

 

 刃の、死の瞬間。

 

 倒れる音。響く銃声。走り寄れない距離。

 そして、守るように良晴の前に立ちふさがり、種子島の弾丸を受ける刃の姿。

 血が噴き出し、袴が赤黒く染まる。動きが鈍った彼を、朝倉の兵が囲み──容赦なく斬り伏せる。

 刃の身体が、地面に崩れ落ちる。

 

 その傷の位置は──信奈自身が撃たれた場所と、まったく同じ。

 その度、信奈は泣き叫びたい衝動に駆られる。

 けれど叫びは届かない。声にならない。

 その度に、空間は真っ暗になり──そして、また一人で彷徨い始める。

 

 終わらない、悪夢の輪廻。

 信奈の心は、とうに限界を迎えていた。

 

 「もう……いや……」

 

 誰にも届かない小さな声。

 でも、それは叫びに等しかった。

 助けて、という言葉すらもう出てこない。

 ただ、心が擦り切れていく音だけが響く。

 

 「……もう、しにたい……」

 

 その言葉は、自分でも気づかぬほど自然に、絶望の底から漏れ出たものだった。

 

 その時だった。

 

 「そんなこと言わないでください、姫様」

 

 ──その声は、まるで春の陽光のようだった。

 今一番、聞きたかった──あの人の声。

 信奈の心の凍りついた芯を、やさしく溶かすように。

 

 「……え?……はやて……?」

 

 信奈は振り返る。

 そこに立っていたのは、懐かしい姿。

 凛とした袴姿、穏やかな目、そして確かに──信奈が一心に想い続けた、あの男の姿。

 

 「はい、姫様。遅れてしまい申し訳ございません」

 

 その一言が、信奈の心を壊した。いや、壊れていた心を一気に溢れさせた。

 止めどなく流れる涙。嗚咽。

 叫ぶように、泣きながら、彼の胸に飛び込んだ。

 

 「はやてぇええええええっ!!!」

 

 刃は何も言わず、ただその身をすべて使って受け止めてくれた。

 言葉ではない。抱擁がすべてを語っていた。

 信奈の髪を、細い背を、彼の手がやさしく撫でる。壊れたものを、少しずつ修復するように。

 

 「姫様、貴女にこんな場所は似合いません。俺が、正しい場所にお連れいたします」

 

 低く、優しいその声は、嘘のない真実の響きを持っていた。

 信奈は、抵抗せず身を預けた。

 次の瞬間、刃は彼女の身体をそっと持ち上げた──まるで、壊れ物を扱うかのように。

 

お姫様抱っこ。

 

 信奈がこの世で最も無防備になる形。けれど今だけは、何も怖くなかった。

 

 刃の歩みが始まる。

 その足取りは、信奈が歩いていた方向とは真逆だった。

 

 すると──

 

 黒く濁っていた世界が、少しずつ、色づきはじめた。

 一歩ごとに、地面に草が生え、空に霞が射す。

 やがてどこからともなく、風が吹いた。

 あの地獄のような無音の世界に、風の音が……命の音が、戻ってくる。

 

 「……あ……」

 信奈は、刃の胸の中で小さく声を漏らした。

 そのぬくもりが、現実なのか幻なのか、もうわからなかった。

 でも確かに、今、自分の命はこの人に包まれている。

 

 「姫様。もう、怖がらないでください」

 刃は歩みを止めることなく、優しく語りかけた。

 

 「……でも、貴方がいないと……わたし……わたし……」

 また、涙が止まらなくなる。

 どれだけ泣いたかわからないはずなのに、まだこんなにも涙が出るのかと、自分でも驚くほどだった。

 

 そんな信奈に、刃はふっと笑みを浮かべた。

 

 「……全く、困った姫様ですね」

 

 その笑みは、刃らしかった。

 何があっても動じない、強くて、真っすぐで、心から信奈を愛している男の顔だった。

 

 「俺は貴女の剣です。姫様が望む限り、俺はそばにいます。貴女が生きている限り、俺は地獄の底からだろうとも、何度でも這い上がって帰ってきます」

 

 「……っ」

 

 言葉にならず、信奈の目からは再び涙がこぼれた。

 だがそれは、もう絶望の涙ではなかった。

 

 「姫様は一人ではありません。忘れないでください。誰よりも貴女を想う人々がいて、守りたいと思う命があって、そして……貴女自身の未来があります」

 

 「……うん……うん……っ……!」

 

 光が、視界の先に大きく広がっていく。

 刃は足を止めた。そこが、夢と現の境界だった。

 

 「この先に進めば、この悪夢は終わり、姫様は目を覚まします。進みますか? それとも、まだ……」

 

刃の声は静かだった。

 迷いも、押し付けもなかった。ただ、信奈の選択を尊重するという強い意志が、そこにはあった。

 

 信奈は、その胸の中で深く息を吸った。

 足元には、かつての闇の名残がまだ微かに揺らいでいる。けれどそれ以上に、先へ進めば確かに“現実”へ戻れるとわかっていた。

 

この温もりも、この声も、この夢が終われば消えてしまう。

 刃の腕の中は、あまりに心地よく、優しすぎた。

 もうこのままここにいたい、そう願ってしまいそうになる。

 

 それでも。

 

 信奈は、刃の胸に顔を埋めながら、呟いた。

 

 「……進むわ」

 

 その声は、かすかに震えていたが、揺るぎなかった。

 

刃は、少し目を細めて、そっと微笑んだ。

その微笑みに、偽りはなかった。誇らしげで、限りなく優しい。

 

 「それでこそ、姫様です」

 

信奈は刃の顔を見上げる。

 その顔が、少しずつ淡くなっていくのがわかった。

 手の感触も、少しずつ、指の間から抜けていく。

 

 「……はやて……怖いよ……」

 

 「大丈夫です」

 刃は、最後にもう一度だけ信奈の頬に手を添えた。

 その指先が、涙を拭うようにそっと撫でる。

 

「貴女は、俺が選んだ、唯一無二の主なのですから」

刃は、ふっと笑った。

 

 「では、一旦お別れです」

 

 「うん……また、現実でね」

 

 「はい。必ず、またお会いしましょう」

 

 信奈は、思わず刃の首にしがみついた。

 まるで、もう二度と離したくないとでも言うように。

 

 「はやて……本当に……だいすき……」

 「……俺も、誰よりも……姫様をお慕い申しております」

 

風が、優しく吹き抜けた。

 そして、刃の姿は光の粒となって、溶けていった。

 

 

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