ところは東北地方、出羽国にそびえる米沢城。
奥州に割拠する一大名・伊達輝宗の本城である。
その広大な城郭の一角――城の外堀に面した鬱蒼たる森の奥に、人々が近寄りたがらぬ不気味な一角があった。杉と檜が入り乱れて陽光を遮り、昼なお薄暗く、風が吹けば木々の影が人の形のように揺らめく。そこに、なぜか漆黒に塗り固められた南蛮教会が建っている。
ただでさえ場違いな異国風の建築物なのに、その尖塔の先に掲げられている十字架は――上下逆さま。
見た者は眉をひそめ、子どもなら泣き出しかねない、あからさまに不吉な光景だった。
そんな“アンチクライスト”な教会から、早朝だというのに甲高く突き抜ける幼女の叫び声が響き渡った。
「小十郎──────っ!!」
声の主は、梵天丸こと伊達輝宗の長女・伊達政宗がお供の片倉小十郎を呼びつける声だった。
不思議なことに、この梵天丸が名前を呼べば、たとえ何里離れていようとも、片倉小十郎はなぜか反応してしまう運命にあった。
「はいいいいいっ!? 姫っ、こんな朝っぱらからボクをお呼びとは……な、なにごとですかぁっ!?」
当年十五歳、名門家老の娘として育ち、品のある立ち居振る舞いを叩き込まれた小十郎。
しかし彼女は梵天丸の誕生以来、お守り役を仰せつかり――女の子でありながらお小姓姿に扮し、四六時中ワガママ姫に振り回されてきた。
このままでは婚期どころか、普通の娘らしい人生すら送れぬのでは、と周囲からも心配されているほどだ。
とにもかくにも、呼ばれたからには行かねばならぬ。
小十郎は息せき切って森の中の怪しい教会に駆け込み、重い扉を押し開けた――その瞬間、目に飛び込んできた光景に固まった。
しばらく堺旅行に出かけていたはずの梵天丸が、南蛮風の黒合羽を羽織ったまま、祭壇の上で腕組みし仁王立ちしていたのだ。背後の逆十字が、彼女を異様に引き立てている。
「ふはははははは! 小十郎! 我はこれより奥州の覇者となることに決めたぞ!」
「は……はいぃぃっ!? な、なにを言い出すんですか姫っ!? まさかまた、堺で妙ちくりんな南蛮文化にかぶれて……! 奥州の大名家はみんな複雑な姻戚関係で繋がっていて、本気で戦なんてしない暗黙の了解が……っ!」
「知らぬ! 〝黙示録のびぃすと〟の前には、そんな古びた常識など紙くず同然よ! ふはははは! 一刻も早く奥州の覇者とならねば、すでに京を押さえておる織田信奈に先を越されるのだ!」
「み……都は遠すぎますっ! わ、わわわれ奥州の人間には関係のない別世界ですってばぁ~!」
「えーい黙れ小十郎! ちっちゃいことを言うな! 織田信奈はもっとデカかったぞ! 手始めに宿敵・相馬家を攻める! 〝びぃすと〟に逆らう者は、まとめて撫で斬りじゃ~っ!」
「ひええええええ~~っ! 堺で織田信奈にかぶれてしまったんですか姫ぇ!? あんなおっかない人の真似なんかしたら、四方八方ぜんぶ敵だらけになりますって! それに姫は伊達家の当主じゃありませんよ!? お父上の輝宗さまがまだご健在で……!」
「フ……やむをえまい。よいか小十郎、我は元服まで待ってはおれぬのだ。我が野望のため、父上には楽隠居していただく」
「ええええええ~~!? む、無理です無理ですっ! 姫はまだ幼すぎますしっ、そんなことしたら奥州中を敵に回しますぅ~!」
「〝黙示録のびぃすと〟たる我に家督を譲らぬというならば……父上とて容赦はせぬ! ああ、覇王の道とは何と茨の道であることよ! だが我は敢えて修羅の道を行く! 〝ごるごだの丘〟を重い十字架を背負って登ったという〝じぃざす・くらいすと〟のごとく! だがな、我はその〝じぃざす・ろうど〟を逆に進むのだ~! 我こそは黙示録に預言された〝あんち・くらいすと〟だからな! ふはははは!」
手を振り回し、黒合羽を翻し、祭壇の上でぴょんぴょん飛び跳ねながらの熱弁。
まるで芝居役者のごときオーバーアクションに、小十郎はただただ目を白黒させるばかり。
さんざん祭壇の上で手を振り回し、飛び跳ね、逆十字を背に大仰な演説をぶちまけたあと――梵天丸は、急にけろっとした顔に戻り、腕を組み直して言った。
「……あとな、小十郎。〝独眼竜政宗〟という、超かっこいい通り名を準備していたのだが……あれはやめた」
「へっ!? や、やめるんですか!? あれは姫とボクが三日三晩、目の下にクマ作って徹夜で考えた通り名じゃないですか! 唐国の歴史に名高い隻眼の英雄、李克用にあやかって――しかも姫が黒い衣を着るようになったのも、李克用の真似じゃ……」
「まあ聞け小十郎」
梵天丸は片手を高く掲げ、もう片方で自分の左目を指し示す。
「知っての通り、我は実は独眼にあらず。堺で――天城から教えられたのだ。我こそは一天万乗の英傑にして、超強力な〝邪気眼〟の持ち主なのだと!」
「あ、天城? ま、まさか姫……織田信奈の懐刀、て、天の白刃・天城刃に会ったのですか!?」
「うむ!」
即答する梵天丸の声は、誇らしさと自慢げな響きに満ちていた。
「その邪気眼って……そのぉ……左右で瞳の色が異なるって意味ですか?」
「そのとおり!」
梵天丸は胸を張り、堂々と左右の瞳をさらけ出した。
右は深い茶、左は燃えるような赤――太陽と血を思わせる対照的な色が、光を受けて不思議な輝きを放つ。
だが、この瞳は、かつて彼女にとって呪いの証だった。
父親が南蛮人だからだ――母が南蛮商人と密通したせいで仏罰が当たったのだ――。
そう囁かれる声を、幾度となく耳にした。
「我は醜い」といじけ、廃嫡の影に怯え続けてきた。
そして、母から言い渡された「一人で旅に出て、ほんものの南蛮寺を見てきなさい」という厳命。
畿内遊学を決めた瞬間、反梵天丸派の家臣たちは喜び、ほくそ笑んだ。
「いい厄介ばらいになる」
「そのまま南蛮へ帰ってくれればいい」
「これで弟の竺丸さまがお世継ぎじゃ」――。
そうして、帰る場所を失うかもしれない不安を胸に抱いたまま、梵天丸は旅立ったのだ。
……だが、堺から戻ってきた今の彼女は別人だった。
背筋は真っ直ぐに伸び、赤と茶の瞳は誇り高く輝き、その言葉と動きには確信が宿っている。
「天城は我に言ったのだ!」
梵天丸は声を張り、わずかに顎を上げる。
「我の瞳は――綺麗だと!『俺も欲しいくらいだ』と、真剣な顔で言ってくれたのだ! そして、もし馬鹿にされたらこう言えとも教わった――『天の白刃が欲した瞳だ』と!」
その瞬間、梵天丸の声には誇りと昂揚、そして少しの熱が混じっていた。
堺へ発つ前の自分では、決して持ち得なかった感情だった。
あの言葉が、胸の奥に残って消えない。まるで暗闇に差した光のように――。
小十郎は口を開きかけ――しかし、言葉が出てこなかった。
目の前の梵天丸は、堺へ発つ前とはまるで別人だ。
これまでの笑顔は、どこか虚勢を張った仮面のようだった。
だが今のそれは、胸の奥底から湧き上がる誇りと自信に満ち、見ている者をまぶしさで射抜く。
胸の奥で驚きが膨らみ、気づけば口が勝手に動いていた。
「……姫、それ……口説かれてませんか!?」
言った瞬間――空気がぴたりと止まった。
教会の中に差し込む朝の光すら、その場で固まったように感じられる。
「はあ!?」
梵天丸は振り返るなり、耳の先まで真っ赤に染め上げた。
目は大きく見開かれ、肩がぴくりと震える。
「そ、そんなわけあるか!? 」
声は裏返り、語尾がわずかに震えている。
「いや、だって――」
小十郎は一歩踏み込み、じっとその顔を見上げる。
「もし姫が、この瞳は天の白刃が欲したって言えば、聞いた人によっては……“姫はあの天の白刃が狙っている女の子”って思うんじゃないですか〜?」
「なっ……!?」
梵天丸の喉がひくりと動く。
「そ、そそそ……しかし! 我が懐刀に誘ったが、断られてしまったのだ!」
言葉とは裏腹に、その口調には微かな沈みがあった。
祭壇の上で胸を張っていた覇者の姿から一転、視線は少し落ち、口元はわずかに結ばれる。
小十郎はその変化を見逃さない。
「……姫、今の顔……少し寂しそうですね」
「そ、そんなことはない!」
梵天丸は慌てて顔をそらすが、その頬の赤みはさらに濃くなっていた。
袖の端をぎゅっと握り、足元でそわそわと体重を移す。
小十郎は、わざと間をあけてから――にやりと笑った。
「姫、惚れました? 天の白刃に」
その一言で、梵天丸の肩がびくんと揺れた。
瞳が一瞬泳ぎ、唇が小さく震える。
「な、な、なにを言うか小十郎っ!」
声は完全に裏返り、覇者の威厳は影も形もない。
「惚れてないなら、そんなに慌てる必要ないですよ〜?」
小十郎の追撃に、梵天丸は「うるさい!」と叫びながら、耳まで真っ赤にして袖で顔を半分隠した。
「なんならボクが、天の白刃に感謝の文を出して――ついでに、恋人がいるかどうか聞いてもいいんですよ?」
その言葉に、梵天丸の全身がぴたりと硬直した。
「や、やめろ小十郎! 絶対にやめろ! そんなことをしたら……その……我の立場が……!」
祭壇から飛び降り、小十郎の肩をがしっと掴む梵天丸。
その手はわずかに震えており、握る力は強いくせに、どこか必死さがにじんでいた。
「立場など気にしている場合じゃないですよ!」
小十郎は、追い打ちをかけるように一歩踏み込み、声を低くしてささやいた。
「……噂では、天の白刃は複数の恋人がいるとか」
「なっ……」
梵天丸の瞳が、驚きと――ほんのりとした嫉妬の色に揺れる。
「……う、噂だろう……? 根拠は……あるのか?」
声はかすかに震え、耳はさらに真っ赤になる。
「だ、だいたい……大名でもないのに……複数の恋人など……いるはずが……」
言葉を濁しながらも、足元では無意識に小さくステップを踏んでいる。
まるで、聞きたくないのに耳を塞げない子供のように、落ち着きなく体重を移し替えて。
小十郎は口元に薄い笑みを浮かべ、さらに追撃する。
「天の白刃は、とても顔が整っているらしいじゃないですか〜」
「た、確かに……見たことないくらい整っていたな」
口に出した瞬間、梵天丸はしまったという顔になり、頬の赤みが一段と強くなる。
「さらに――日ノ本一の剣豪であり、頭も回って、しかも優しい」
小十郎は言葉を重ねる。
「そんな人に、恋人がいても……なんの不思議もないのでは〜?」
「……っ!」
梵天丸の眉間に、きゅっと皺が寄る。
「……優しいのは……認める。強いのも……頭が回るのも……認める。だが……!」
「いいではないですか、姫〜。天の白刃は織田信奈の懐刀。出羽へ来る暇などありませんでしょうし、姫にもチャンスがあるのですから〜! 幸い、姫には婚約者もおりませんし……」
小十郎はわざと間をあけ、唇の端をにやりと持ち上げる。
「……お父上の輝宗さまに、織田家へ――天の白刃と姫の婚約を打診してもらいますか〜?」
「そ、そんなことしなくてよい!!? 天城は我のことなど、その、ど……どうとも……!」
梵天丸は慌てて首を振るが、言葉を口にした瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
否定すればするほど、心の奥底にざわつきが広がっていくのを止められない。
「どうとも?」
小十郎はゆっくりと首を傾け、悪戯っぽく片眉を上げる。
「つまり……天の白刃が姫のことを、どう思っているかは――気になるんですね〜?」
「ち、違う! そ、そういう意味では……!」
梵天丸は食い気味に否定するが、その声は裏返っている。
視線は落ち着かず、袖の端をぎゅっと握りしめ、足元では無意識に左右へ体重を移している。
「ほら、姫。天の白刃が他の女性に取られてからでは遅いですよ〜」
「と、取られるだと!? そ、それは……っ!」
梵天丸の肩がびくんと跳ね、茶と赤の瞳がわずかに揺らめく。
その動揺を隠そうと強気な顔を作るが、耳までの赤みは隠しきれない。
「……だ、だが……天城は織田信奈の懐刀だ。織田信奈が許すはずが……」
声は自信なさげにかすれ、その実、胸の奥では「もし許されたら」という想像が膨らみ始めていた。
小十郎はわざと軽く鼻を鳴らし、言葉を切ることなく詰め寄る。
「……じゃあ、もし“天の白刃が姫を好きだ”って言ったら、どうします?」
「そ、それは……っ!」
梵天丸は一瞬口を開けかけ――だがそこで言葉が止まる。
返事までのわずかな間合いが、やけに長く感じられた。
頭の中に、天城刃が真っ直ぐに自分を見つめる姿が浮かび、その光景に胸がどくんと跳ねる。
喉がひゅっと鳴り、やっと絞り出した声はかすかに裏返っていた。
「……っ、それは……奥州統一の後だ……!」
小十郎はその様子を逃さず、にやにやと笑みを深める。
「なるほど。じゃあ統一が終わったら、お答えいただけると」
「ち、違う! そういう意味ではない!」
梵天丸は慌てて叫ぶが、その耳までの赤さが、否定よりも雄弁に答えを語っていた。
「う……ぅ……ん……はやて……」
微かな寝言のようにその名を呼びながら、信奈はゆっくりと瞼を開けた。
ぼやけた視界が徐々に焦点を結ぶ。
見慣れた天井──本能寺の、夜の天井。
燃えるような熱にうなされていた身体が、ようやく現世へと戻ってきたことを感じる。
「……弾正?」
枕元で静かに座していた松永久秀が、静かに答えた。
「御意にございます」
その声は、いつもより少しだけ安堵に満ちていた。
「信奈さまが……深い熱にうなされておられました。悪夢にうなされ、うわ言で何度も“はやて”と……。そこで、薬師・曲直瀬道三直伝の処方を用い、夢路を優しく導く薬を調合いたしましたの。すると、みるみるうちにお熱が引き、目覚められた。まさに──奇跡ですわ」
久秀はそう言って、淡く微笑んだ。
「……デアルカ……」
寝ぼけた頭で、それでも信奈は夢を思い出していた。
闇の中で、彼が自分を見つけ、抱き上げてくれたこと。
あの優しい声と温もりが、どこかまだ身体に残っている。
「どのような夢をご覧になりましたか、信奈さまは?」
「……刃が……わたしを連れ戻してくれたのよ。あの暗い場所から……わたしを抱いて、光の方へ……」
語りながら、信奈の目が潤む。
するとそのとき──
「松平元康、折峠より帰還いたしました」
声を上げて入ってきたのは、泥にまみれ、表情を硬く引き締めた元康だった。
その後ろには、ねねとベルショールが心配そうに付き添っていた。
信奈は起き上がろうとしたが、少しふらついた。
「竹千代? どこに行っていたの……? 十兵衛たちは? 刃たちは……」
焦るように問いかける信奈に、元康は苦しげな表情で視線を逸らした。
「……吉姉さま。こちらへ……」
彼女はそれ以上言葉を重ねず、信奈をそっと支えながら、寝室の外へ導いた。
ふらつきながら庭へ出た信奈の目に映ったのは、月光に照らされたしんがり部隊の姿。
良晴をはじめとする五百人の兵たちが、ひとところに集まっていた。
皆一様に俯き、沈痛な面持ちをしている。
「……サル? サル! 無事だったのね……!」
信奈は良晴の姿を見つけ、安堵の声を上げた。だが次の瞬間、彼女の視線は周囲をさまよい始める。
どこ? 彼は?
あの声を、聞きたかった。
「……サル? 刃は? 刃はどこ?」
その名が口からこぼれた瞬間、全員が同時に動いた。
「すまん!!」
『まことに、申し訳ございません!!』
良晴と五百人の兵が、一糸乱れず、音を立てて地面に土下座した。
鎧と兜が土を打つ重い音が、静かな夜に痛々しく響く。
その異様な光景に、信奈の心臓が冷たく締め付けられる。
「……や、やめて……嘘……でしょ……?」
喉が震える。足が動かない。胸の奥で何かが崩れていく。
「頭を上げて……ねえ、答えてよ……誰か、何か……!」
懇願するような声に、良晴が顔を上げた。
目元は赤く腫れ、口元は震えていた。
その姿は、あの明るく頼もしい「サル」ではなかった。
「俺のせいなんだ……!」
嗚咽交じりに良晴は叫ぶ。
「俺が、あのとき一瞬、考えごとなんかしてたせいで……! 刃は、俺を庇って……種子島を脇腹に、くらって……っ!」
声が途切れた。彼の肩が震える。
「……それさえなければ、アイツが式神に遅れをとるなんて……そんなこと、ありえなかったのにっ!」
良晴の言葉に、周囲の兵たちが次々と顔を上げて叫んだ。
「大将だけのせいじゃないみゃあっ!」
「天城さまは、何度も何度も、我らを庇ってくださったでござる!」
「そうでごわす! 天城大将に命を救われたのは、この場にいる者すべてでごわす!」
「姫さま! 責めるなら、大将だけじゃなく、我ら全員を……!」
彼らの声は涙に震え、まるで処刑台に立たされるように全員が泣き叫んだ。そこには虚構も芝居もなかった。皆が、心から失ったものの大きさを思い知っていた。
信奈は、その叫びを聞きながら、震えた唇でさらに問う。
「じゅ……十兵衛は……? 十兵衛は、無事……なの?」
元康が静かに答えた。声が、苦しみでかすれていた。
「光秀さんは、土御門の術によって断ち割られた、大地の裂け目に落ちました。
……刃さんは……瀕死の体で、それでも彼女を救おうと動き──
そのまま、彼女と共に……消息を絶ちました……」
言葉の最後、元康は唇を噛んでいた。
「──しかし、底の見えぬほどの亀裂。
普通の者ならば、生きてはいないでしょう」
そう続けたのは、久秀だった。
その言葉が落ちた瞬間、世界が反転した。
「────っ」
信奈の耳に、遠くで鐘が鳴っているような耳鳴りが響く。
視界がぐらつき、月明かりがぼやける。
足が力を失い、膝が崩れ落ちる。
「嘘……嘘よ……」
彼女の目には、夢の中で交わした約束がまだ焼き付いていた。
「だって……わたし……さっき、刃と話したの……!」
泣き笑いのような声が震える。
「夢の中で……刃が抱きしめてくれて……“また会いましょう”って……あんなに、あたたかくて……優しかったのに……!」
久秀が慌てて駆け寄り、信奈の肩を支えようとする──が、
「触らないでっ!!」
信奈はその手を払いのけた。
「信じない……! 信じない……っ!」
目の焦点が合わないまま、泣きながら、叫ぶ。
「サル! あんたが嘘をついてるんでしょう!? 刃は、わたしの、わたしだけの懐刀なのよ!!
日ノ本の誰よりも、強いのよ……!負けるはずないじゃない! 死ぬなんて、ありえないじゃない……!」
信奈は地を這うように、庭を見渡した。暗がりの中、どこかに──
──「あの背中」がいると信じて。
その時、視界の隅で何かが崩れる音がした。
「うわあああああああああん!!」
ねねだった。地面に崩れ落ち、泣き崩れる。
「刃どの……刃どのぉ……!
このねねが……ねねが身代わりになりたかったですぞ……!
あれほど……あれほど神さまにも仏さまにも……おねこさまにもお願いしたのに……!!」
嗚咽が夜空に響く。
それは、失った者の絶叫だった。
だが──その声を受け止めた信奈の目に、ひとすじの光が灯る。
(……冷静に、冷静になるのよ、わたし)
今ここで、崩れてはいけない。
誰よりも、彼を信じているのは自分なのだから。
(刃と十兵衛は、生死不明……ならば、生きている可能性がある。
刃が、私との約束を破るはずがない。
“また会いましょう”──そう言ってくれた。なら、絶対に帰ってくる)
信奈は、深く息を吸い込む。
涙が一筋、頬を伝う。
だがその表情に、先ほどまでの絶望はなかった。
代わりにあったのは、信じる者の眼差し。
「刃……あなたを待ってるわ」
その言葉は、夜の風に乗って、どこか遠くへ消えていった。
しかしきっと、届くと信じている。
彼の耳に、彼の魂に──必ず。
ガツンッ! ガツンッ!
冷たく湿った空気が籠もる大地の裂け目の奥から、鋼と岩がぶつかる甲高い音が、何度も反響していた。
それは、死地から這い上がる者の音。
それは、希望を信じる者の音。
その音の主は──瀕死の刃だった。
片腕にはぐったりとした光秀を抱きかかえ、もう片方の手で握るのは、刃こぼれだらけで半ばから折れた刀。
その刀身を岩肌へ突き立てては身体を引き上げ、一歩……そしてまた一歩と、目も眩むような垂直の絶壁を這い上がっていく。
岩肌は凍りつくように冷たく、指先から体温を奪っていく。
下方からは底の見えない暗黒が口を開け、わずかに落ちた小石が、カラカラと音を立てながらやがて吸い込まれるように消えていった。
ここで足を滑らせれば──二人の命は一瞬で終わる。
「……絶対に、死なせんぞ……光秀」
その声はかすれていたが、決意だけは揺らいでいなかった。
それは約束でも、義務でもない。
ただ、一人の“男”としての信念だった。
あの瞬間、本来なら二人とも地底へ叩きつけられて命を落としていた。
しかし奇跡が起きた。
光秀の乗っていた馬が、己の命を顧みず、最後の跳躍を見せたのだ。
落下していく刃に向かって、光秀を渾身の力で投げた。
光秀は空中で岩に頭を打ち、頬を血に染めて気を失ったまま、刃の胸へと飛び込んだ。
刃はその身体を受け止めると、反射的に折れた刀を岩肌に突き立て、刃先を岩と岩の隙間へ無理やりねじ込み、全身の重みをそこで食い止めた。
しかし、刃の身体は――とうに限界など超えていた。
全身の皮膚は裂け、そこかしこに刀や槍の切り傷が走る。脇腹には、いまだ種子島の弾が肉を裂き、鉛の塊が臓腑に触れるたびに、焼けた鉄をねじ込まれたかのような激痛が脳天を突き抜ける。
さらに式神の鋭い爪によって右肩から斜めに深く裂かれ、鍛え抜かれた筋肉の奥、内臓にまで達するほど深い裂傷が開いたままだ。
その血の匂いが、今も鼻腔にまとわりつく。
常人であれば、とうの昔に絶命している。
だが、刃は動く。いや、「動かす」のだ。
意思の力で、壊れた肉体を無理やり前へと進ませていた。
胸中にあるのは、たった一つ。
『……会いたい』
それだけだった。
『犬千代に、長秀に、半兵衛に、そして……信奈に。もう一度、会いたい。こんな自分を愛してくれる恋人たちと……もっと、ずっと、一緒にいたい』
その一念だけで、折れた刀を突き立て、岩肌をよじ登る。
何度も何度もずり落ちる。
だが、そのたびにまた刀を突き立て、身体を引き上げる。
「……死ねるものか……こんなところで……!
俺は……生きて……帰らなければ……!」
また、一歩。
ガツンッ!
刀を突き立て、腕に力を込める。
筋肉が裂ける感触と共に、激痛が脳裏を灼く。
──その瞬間、胸に抱く光秀の身体がかすかに揺れた。
彼女の頬が、刃の胸にそっとすり寄る。
その微かな温もりが、冷えきった刃の体に、確かな命の炎を灯す。
さらに……どこからか、耳元で声がした。
『……刃……あなたを……待ってるわ』
甘く、切なく、強く――確かに信奈の声だった。
刃の紅い瞳に、再び火が宿る。
「……もう、少し……もう少しで……」
顔を上げれば、闇の裂け目の上端が見える。
月の光が、そこから差し込んでいる。
そして――最後の力を振り絞り、刃は光秀を抱えたまま、裂け目の縁に手をかけた。
腕の筋が悲鳴を上げ、血が滴る。
だが、それでも引き上げる。
ついに、二人の体は大地の上に転がり出た。
冷たい外気が頬を撫でる。
それは生の証。
刃は光秀をそっと地面に横たえる。
「……あとは……京まで……歩くだけ、だ」
そう呟いた瞬間、緊張の糸がぷつりと切れた。
刃は仰向けに倒れ込み、石の上に鈍い音を立てた。
当然だ。
視界は霞み、音は遠ざかり、鼓動はゆっくりと弱まっていく。
(……くそっ……ここまで、か……)
傍らの光秀を見やり、
(……すまん……光秀……)
そして、心の中で大切な者たちの名を呼んだ。
(……すまん……信奈……犬千代……長秀……半兵衛……ねね……五右衛門……もう……俺、は……)
その瞬間、刃の意識は深い闇に沈んでいった。
「落ち着きなさい! サル! あんたもよ!」
信奈の声が、本能寺の庭に鋭く響き渡った。
土下座したまま額を地に擦りつけ、何度も謝罪を繰り返している良晴と、五百人のしんがり部隊に向かって、信奈は強く言い放つ。
その紅い瞳には焦燥と苛立ちが渦巻いているが、声にはまだ主君としての冷静さが残っていた。
「刃は生きてるはずよ! わたしと約束したんだもの!」
その断言に、沈んでいた空気が一瞬だけ揺れる。
良晴は顔を上げ、まだ赤く腫れた目で信奈を見た。
「……信奈……そう、だな。あいつのことだ、生きてるはずだよな!」
自分に言い聞かせるような声。それでも、希望を手放せない思いが滲んでいた。
「竹千代、犬千代は?」
問いかける信奈に、竹千代は静かに首を振った。
「犬千代さんは……刃さんが落ちていくのを、目の前で見てましたから……。ショックで、今はわたしの部屋に寝かせてあります〜」
信奈の眉が僅かに動き、その表情が曇る。
犬千代のあの小さな背に、どれほど深い衝撃と恐怖が刻まれたのか――信奈には、想像に難くなかった。
「……そう。無理に起こさなくていいわ。犬千代は、心の傷が癒えるまで休ませておきなさい」
その声色は、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。しかし次の瞬間、鋭い決意が混じった声音に変わる。
「これから、叡山を攻めるわ」
その言葉に、場が凍りつく。
「そんな罰当たりなことをしたら、日ノ本中のあらゆる仏門宗派が敵になりますぞ!」と、曲直瀬ベルショールが慌てふためき、思わず声を裏返す。
「うるさいわね」
信奈は睨みつけた。
「叡山に――わたしを撃ったやつと、刃を傷つけた朝倉、それに陰陽師の土御門がいるんでしょ? なら、報復しなくちゃね」
「叡山の僧兵どもを、いかがされます? 信奈さま。うふ」
久秀が、口元を歪めて問いかける。
「……焼き尽くそうかしら?」
あまりにも軽く放たれたその一言に、良晴が飛び上がる。
「待て待て! ダメに決まってんだろ!」
信奈は肩をすくめ、薄く笑う。
「冗談よ。とりあえず、叡山を焼き討ちするふりから入るわ」
そして、真剣な顔に戻り、竹千代へと向き直った。
「竹千代。刃の傷は、どれくらい酷かったの?」
竹千代は小さく息を吸い、言葉を選びながら口を開く。
「半蔵から聞いた話によると――全身に刀や槍、弓矢による切り傷、脇腹には種子島による銃創。胸には……式神による、深い裂傷が走っていたそうです」
信奈の眉間に皺が刻まれる。
「その出血量は、普通なら死んでいる。あの体で、光秀さんを助けるために動けたのが異常だって……。生きてる方が、奇跡って、言ってました」
「ッ……!!」
信奈の指先がぎゅっと扇子を握りしめ、骨が軋む音がするほどだった。
だが、次に吐き出した声は震えていなかった。
「……分かった。一日待つわ」
その紅い瞳には、鋼のような光が宿っていた。
「一日以内に――刃と十兵衛が帰って来なかったら……叡山を、焼くわ」
その場の空気が、一気に重くなる。
家臣たちは息を呑み、誰も軽々しく口を挟めなかった。
信奈の背後に、血の匂いが漂うような圧が生まれていた。
もはやそれは姫大名の威厳ではない。愛する者を奪われかけた獣の、無慈悲な眼光だった。
「うぅ……ここは……? どうして、私は生きて……?」
ぽつ、ぽつ……
光秀の頬に冷たい雨粒が落ちた。
次第に視界がぼやけ、頭に残る鈍痛がそのまま現実をつなぎ止めていた。
地面に横たわった彼女は、ぼんやりとした目で夜空を見上げる。
雨が容赦なく降り注ぎ、大地を濡らし、肌を突き刺すような冷たさが体を包んでいた。
「ここ、地上……です? でも、どうして、私は……裂け目に落ち、て……」
思考はまだ曖昧だった。記憶の奥底から、崩れ落ちる大地、血の臭い、誰かの叫び──
──天城先輩。
光秀の心に、ある一声が鋭く突き刺さった。
彼の叫びだった。
自分の名を、必死に呼ぶ声。
その声に導かれるように、彼女は上体を起こした。
「っ……!」
身体はずぶ濡れで、全身の節々が痛む。
それでも、彼女は懸命に顔を左右に振って、周囲を確認した。
そして── すぐ横に、仰向けに倒れたまま微動だにしない銀髪の男が目に飛び込んできた。
水滴を弾くはずのその髪は、雨と血でべったりと張り付き、紅い瞳は閉じられたまま。
「……天城先輩……っ!? 天城先輩っ!!」
駆け寄る。泥に手を突っ込み、足を滑らせても構わなかった。
刃の身体は……近づくだけでわかるほどに酷かった。
「天城……先輩……」
その身体は見るも無残で、破れた衣の隙間から覗くのは、無数の切り傷。特に胸の傷は深く、足元には折れた刀。刃こぼれだらけの残った刀身には泥がこびりつき、柄はべったりと血で赤黒く染まっていた。
「まさか……まさか、私を……抱えて……この裂け目を登ったんですか……?」
言葉にするほど、信じられなかった。
だが、それ以外に説明のつかない現実がそこにあった。
あの絶望の淵から、自分だけが無事であるという事実が、すべてを物語っていた。
しかし次の瞬間──彼女の心臓が凍りついた。
「……え? 息、してない……?」
光秀は震える指で、刃の頬に触れ、そしてすぐに耳を彼の胸に当てた。
「……っ……心の臓が……脈打ってないです……!」
その瞬間、全身から血の気が引いていった。
冷たい雨よりも冷たい現実が、光秀の心を締め付けた。
「天城先輩……いや……そんな……!」
まだ体温はあり、硬直は始まっていない。
完全に死に切ったわけではない。
だが、今まさに彼は黄泉路を歩き出そうとしている。
「まだ……間に合う……! まだ遅くないです……!」
光秀は震える手を組み、天城の胸へと押し当てた。
呼吸法を思い出しながら、リズムも何もかも手探りで、必死に、心臓マッサージを繰り返す。
「お願いっ、お願いですから…… 帰ってくるですっ……天城先輩……!」
雨に濡れ、泥に塗れ、そして血に染まった刃の顔を見ていると、胸が張り裂けそうだった。
その顔は、かつて見せてくれた穏やかな笑顔とも、戦場で見せる鋭い眼光とも、まるで別物だった。
涙が雨と混じり、頬を伝う。
それでも両手の動きを止めない。止めてしまえば――この人はもう二度と帰ってこない。
光秀は一度、大きく息を吸い込み、そしてそのまま、刃の唇に自分の唇を密着させた。
唇に触れた瞬間、ふと胸の奥が跳ねる。
──これが、私の初めての……でも……!
迷いは、一切なかった。
今はただ、彼を生き返らせることだけが、全身全霊の目的だった。
「……んぅ……んむっ……ふぅうううぅぅっ……」
空気が漏れぬよう、唇をしっかり塞いだまま、ふう、と彼の肺へと空気を送り込む。
刃の胸がわずかに膨らみ、雨がその輪郭を縁取った。
二度目。
三度目。
冷たい唇の感触に、胸が締め付けられる。
「まだ……行っちゃダメです……! 私を置いていかないでください……!」
懸命な人工呼吸と、胸骨圧迫。
何度も、何度も、腕が痺れても指が震えても、光秀は止めなかった。
肩は悲鳴を上げ、視界は揺れ、呼吸は荒い。
それでも――止められるはずがなかった。
──もう一度、会いたい。
もう一度、この人の声を聞きたい。
もう一度、その紅い瞳を見たい。
四回目の人工呼吸を終えたその時。
「……う……がはっ……ごほっ……!」
刃が、咳き込んだ。
それはかすかで、頼りない音だったが、確かに命の響きだった。
「……! せ、先輩!」
光秀は思わず胸元に手を当てる。
とくん、とくん……。心臓が、確かに再び脈打っている。
だが──
「意識が……戻らない……」
光秀は額を刃の額にそっと重ねる。触れた瞬間、その熱に驚き、小さな悲鳴を漏らした。
「きゃっ……すごい熱……! このままじゃ、また……!」
異常な熱。
それは体が必死に命を保とうと戦っている証拠でもあり、逆に、このままでは命を焼き尽くしてしまうかもしれないという危機でもあった。
「心の臓の音が……弱い……」
再び、刃の胸に耳を当てた。
とくん……とくん……
だが、その鼓動は今にも消えてしまいそうなほど、弱々しく、頼りない。
冬の夜。冷え切った山の空気と、絶え間ない雨の冷たさが、容赦なく刃の体温を奪っていく。
このままでは、蘇った心臓も、また止まってしまう――
「火を……火を起こさないと……!」
だが雨では火も起きない。
何より、火を起こせば、落ち武者狩りに気づかれるかもしれない。
葛藤が胸を締めつける。だが──
「このままじゃ、先輩……!」
光秀は必死に周囲を見渡した。
──そして、発見する。
茂みの奥、岩に隠れるようにして、小さな洞窟の入り口が口を開けていた。
「洞窟……!」
光秀はすぐに刃を背負い、その入口へと向かった。
ずっしりとした体重。水を吸った衣はさらに重い。
足は滑り、呼吸も荒くなる。それでも光秀は前に進んだ。
「……がんばるです……絶対、助けるですから……!」
狭い洞窟の入口を通り抜けると、その先は予想外に広い空間──天然の鍾乳洞だった。
天井は高く、そこから垂れる氷柱のような鍾乳石が、無言の存在感を放っていた。
壁面には、地下水がゆっくりと流れ、小さな音を立てていた。
光秀は、刃を鍾乳洞の冷たい岩の床にそっと寝かせると、自らの足で濡れた薪を必死にかき集めた。
洞窟の外はなおも雨が降りしきり、火がつく保証などなかった。
それでも、彼女は諦めなかった。
──ぱちっ。
──ぱちっ。
──……ぱちっ!
震える指先で火打石を何度も何度も打ち付け、かすかな火種を布の切れ端に包んで息を吹き込み、ようやく、ひとすじの炎が揺らめいた。
その小さな命のような火を守るように囲いをつくり、火はやがて、あたたかい光を洞窟に広げていった。
光秀は火のそばに戻ると、横たわる刃の顔をじっと見つめた。
「これで……少しは……」
温もりが、わずかに洞窟の中を照らす。
刃の蒼白な顔にも、ほのかに色が戻る。
「天城先輩……私のために……こんな身体で無茶して……なにしてるですか……」
声が震える。
胸の奥が、張り裂けそうだった。
あの瞬間、光秀が裂け目に落ちたとき、刃は何も迷わずに飛び込んできた。
命をかけて。
光秀は刃の隣に座り込み、その顔を両手で包んだ。
「私を追いかけて、裂け目に飛び込まなければ……サル人間たちが、京まで……連れて行ってくれたはず……」
唇を噛みしめる。
「……死んだら……絶対、承知しないです……!」
ふと──光秀は気づいた。
焚き火があるにも関わらず、刃の身体が、かすかに、だが確かに震えている。
「やはり……たき火だけでは、足りない……」
刃の服はずぶ濡れで、体温を奪い続けている。
火だけでは、その命の灯を守りきれない。
今、刃の命をつなぎ止めるには――この冷え切った体を、火ではなく、人肌で温めるしかない。
それを悟った瞬間、光秀の胸は激しく脈打ち、頬に血が集まっていくのを自覚した。
目の前の天城刃は、いつもの鋭い紅の瞳も、背筋を伸ばす堂々たる姿もなく、ただ静かに横たわっている。
あれほどの剣豪が、まるで壊れ物のように脆く見える。
(天城先輩は……あの時も、私を守ってくれた)
京の清水寺。信奈さまと共に、命がけで駆けつけてくれた。
その腕が、私の命を確かに抱きとめてくれた。
光秀は自分が着ていた衣服を、すべて脱ぎ捨てていた。
洞窟の入り口からうっすらと差し込んでくる月の明かりが、恥じらう明智十兵衛光秀の裸身を照らし出す。
若く美しい、肢体だった。
もしも鍾乳洞がものを言えるのであれば、「この娘の気高くそして美しき裸身こそが、自然が生みだした奇跡であり神秘」とうろたえたに違いなく。
火のそばでも肌を刺すような冷気が肌を襲う。だが、刃の冷たさに比べれば、そんなものはどうでもよかった。
「……天城先輩。今夜一晩、この十兵衛光秀が先輩のお体を温めさせていただきます」
光秀は刃の体からそっと衣服を脱がすと、こごえて震えている刃の裸身を躊躇わず、正面からかたく抱きしめていた。
ぎゅう、と。
光秀の身体が、刃の大きな身体に寄り添う。
まるで、何かを確かめるように──必ず生きて戻るようにという祈りをこめて。
冷たい。
信じられないほど、冷たい。
まるで氷の彫刻を抱きしめているかのようだった。
背中や腕に刻まれた、数えきれぬほどの切り傷。
その中には、古傷の上から新たに裂けたものもあれば、血が固まったばかりの生々しいものもある。
脇腹には、火薬と鉄の焦げた匂いが微かに残る――種子島の弾丸が、肉と骨をえぐって埋まっているのだろう。
そして何より、光秀の目の前で見たあの傷。
式神の爪が無残にも胸を斜めに引き裂いた、深く大きな裂傷。
――金ヶ崎の退き口。
光秀は、肌越しにその地獄を想像していた。
どれほどおそろしく、どれほど厳しい撤退戦だったのか。
冷たい血潮の感触が、それを雄弁に物語っている。
(……天城先輩が、こんなに……ボロボロになるなんて)
胸の奥から、ふつふつと熱いものが込み上げてくる。
(サル先輩や、他の兵たちは……どうやって生き延びたのですか?)
そして――気づいた。
良晴も、しんがり部隊の兵たちも、誰一人欠けることなく生還できた理由を。
その理由こそが、目の前のこの男だった。
なぜ一番強いはずの刃が、一番深く傷ついているのか。
それは、彼が全員を守り切ったからだ。
種子島の弾だって、きっと誰かを庇って受けたものだ――そうでなければ、彼が撃たれるなどあり得ない。
(……全部、あなたが……)
光秀の喉が詰まり、息が熱く震えた。
少しでも熱を伝えようと、光秀は刃の背中を必死にさすった。
自分の胸や腹の温もりが、少しでも彼の命を繋ぎ止められるように。
さらに、自分の足を刃の足に絡め、肌と肌を合わせて体温を逃がさないようにした。
外では冷たい雨音が洞窟の天井を叩き続けているが、光秀はそれを耳から追い出すように、ただ黙々と彼の体を抱きしめた。
その時――。
「……光、秀」
かすれた声が、耳に届いた。
刃の唇が微かに動く。
「天城先輩!? 起きたのですか!」
光秀は慌てて顔を覗き込む。
だが――刃の瞼は固く閉じられたまま。
意識が戻ったわけではなかった。
「……絶対に………死なせん……」
掠れた声に、光秀の目が見開かれる。
その言葉は、夢の中の独り言。
裂け目から必死に登っていた時の記憶。
意識のなかった光秀を抱え、ずり落ちても、何度でも、岩肌をよじ登ったあの瞬間の声。
(……夢の中でも、私のことを……)
胸の奥が熱くなる。
どれほどの苦しみと痛みに苛まれていても、刃は自分を離さなかった。
それどころか、夢の中ですら、ずっと抱きしめ続けてくれている。
光秀は震える唇を噛み、そっと彼の頬に自分の額を寄せた。
「……ありがとう、ございます。天城先輩……私を……助けてくれて」
焚き火の明かりが、二人の影を静かに揺らしていた。
しかし――そんな光秀のもとへ現れたのは、よりにもよって落ち武者狩りの連中だった。
その数、ざっと見積もっても百名を優に超える。槍の穂先が林立し、洞窟の入り口には影が重なっていく。足音、鎧の擦れる音、湿った息遣いが押し寄せ、空気が一気に血の匂いを帯びた。
(ひいいいい……な、なにをしているですか、この出歯亀ども! わざわざ洞窟に詰めかけてくるなんて……このまま散るです、去るです、帰るですってばぁぁぁ!)
今の光秀には、太刀がない。
刃が裂け目を登るとき、背中の荷と一緒に滑り落ちてしまったのだ。
(天城先輩なら、素手で百人程度余裕なんでしょうが、私にはかなり無理です!?)
落ち武者狩りの連中の中から、こんな声が聞こえてきた。
「あやしいぎゃあ……まさかとは思うが、恋人同士を装った織田方の落ち武者だぎゃあ?」
(ひぃっ……き、気づかれかかっているです!? こ、こうなったら――)
光秀は、必死に脳を回転させる。
武器はない。逃げ道もない。となれば――小芝居で煙に巻くしかない。
(そうです、“逢い引き中の男女”という設定で……あわよくばスルーしてもらうです!)
しかし――
(ま、待って……私、この十兵衛光秀、逢い引きどころか初恋すら未経験じゃないですか!? 愛を語らう台詞なんて……無理ですぅぅぅ!)
心臓が耳のすぐ横で太鼓を叩くように暴れ、呼吸が浅くなる。視線の端では、刃が意識を失ったまま静かに横たわっている。
(くっ……こうなったら、げげげ源氏物語とか、ああいうえっちな絵巻物の台詞を……ええい、やるしかないです!)
光秀は、必死に顔を赤らめながら口を開く。
「あ、天城丸さま……光子は、天城丸さまを……お慕い申しておりました……♥」
……偽名になっていない時点で、既に破綻していた。
だが、落ち武者狩りの足が一瞬だけ止まる。ざわり、と何人かが顔を見合わせる。
(よし……今です、あと一押しです!)
光秀は喉を鳴らし、さらに声を震わせる。
「え、ええと……光子は、実はずっと天城丸さまのことを……お慕い申し……ええと、その……」
――しかし、頭の中で言葉がぐるぐる回って絡まり、舌が動かなくなる。
「あれま、言葉がぐるぐる回っとるぎゃあ」
「なんか、サル芝居っぽいみゃあ」
その瞬間。
ぷつん!!!!!!!
光秀の中で、何かが盛大に切れた。
(だ、だだだ誰がサルですかっ!? サルは相良先輩に決まっているではないですかっ!! この十兵衛光秀をサル人間と同列に扱うなんて……むきいいいいいいっ!)
光秀は刃の頬に――勢い任せに唇を押しつけていた。
正体がバレたら、二人まとめてなぶり殺し。そんな極限状況の中、羞恥も理性も全部吹っ飛び、体の奥から湧き上がる感情に支配されていた。
「先輩……私は……私は、目の前のことに夢中になると、なにも見えなくなるです! 人に騙されやすくて、空気も読めないから……きっとこれからも失敗を重ねてしまうです! どうか……油断するとすぐに悪い子になってしまいそうな私を……お導きください……!」
震える声を吐き出しながら、光秀は自分でも気づいていなかった想いに、そこでようやく辿り着いた。
「先輩……あの清水寺で……私は、明智十兵衛光秀は……天城先輩に、恋を……してしまったのかも、しれないです。あの時、命を救われてから……天城先輩を見るだけで、胸がどきどきして……苦しくなるです」
――あっ。
しまったです。
うっかり本名を名乗ってしまったです。
いやあ……やっぱりこの十兵衛光秀、嘘をつくとか芝居をするとか、そういうずる賢い真似がまったくできない、まっすぐすぎる良い子なのです。
(てへっ……じゃないですぅぅぅうう!)
などと、心の中で頭を抱えている場合ではなかった。
「って、えらいこっちゃ~! あの女、明智光秀だぎゃあああ!」
「じゃあ天城先輩ってのは……まさか……」
「天の白刃・天城刃だみゃあああ!」
落ち武者狩りの一揆衆の顔が一斉に変わった。
驚きと興奮と嬉しさがないまぜになった、むき出しの表情。
その瞬間、数十人分の足音が爆ぜるように響き、鍾乳洞の奥へ向けて一斉に突撃してきた。
「し、しまったです!」
光秀は反射的に刃の前へ飛び出し、倒れた彼の身体を背で庇った。
冷たい岩壁と湿った土の匂い、そして迫る鉄の匂いが入り混じり、息が詰まりそうなほど空気が重くなる。
(……決めました。かくなる上は、先輩をかばいながら素手で戦い……息絶えるその瞬間まで、この命を天城先輩に捧げるです)
光秀は、腰までずり落ちていた小袖をきゅっと引き上げ、帯をきつく締め直した。
そして――すらりと立ち上がる。
暗がりの中で、その姿は鍾乳洞に差し込む微かな光を背負い、ひときわ凛として見えた。
その心に、もはや恐怖は微塵もない。
あるのはただ、天城刃を守り抜くという炎のような感情のみ。
「下郎ども、推参なり!」
響き渡る声は、まるで堂々たる武将の戦場宣言。
「われこそは土岐源氏の末裔、わが名は明智十兵衛光秀――惟任日向守なるぞ!」
剣聖・塚原卜伝より鹿島新当流の奥義を受け免許を皆伝された、この無限の才を備える知勇兼備の姫武将は、徒手空拳の戦いにおいてもいささかもひるまない。
「われは、天に問う!」
その声は、洞窟の奥で反響し、雷鳴のように響き渡った。
「運命ならば――この光秀と天城刃の出会いが、戦国の世を変える巨大な天命ならば……われらはまだ死なぬ! われらが出会いは、是か非か! 天よ、われに答えよ!」
だが、その時。
「……やめろ、光秀。お前らもだ」
背後――光秀の後ろから低く響いた声は、静かでありながら、まるで岩盤を砕く重みを伴っていた。
耳に届いた瞬間、光秀の全身から力が抜ける。
あまりに聞き慣れた、しかしもう二度と聞けないかもしれないと思っていた声だった。
しかし、一日経っても──刃と十兵衛は帰ってこなかった。
織田信奈は、ついに決断した。
叡山を焼き討ちにするための準備を開始したのである。
冬の叡山。
女人禁制の霊山・叡山の根本中堂に本陣を構え、一方的に有利な籠城を続けていた朝倉義景と浅井久政。
その夜、月明かりの下、物見の兵が血相を変えて駆け込んできた。
「ご報告──っ! 織田信奈が叡山を包囲し、こともあろうにこの叡山に……火を放つ準備を進めております!」
「な、なんだと……!?」
久政の顔色が一瞬にして青ざめる。
「ば、バカな……叡山を、焼き討ちだと!? 叡山こそ八百年の歴史を誇る、日ノ本仏教界の最高峰ぞ! いや、それどころか仏教伝来以前の神代の昔より、神仏が鎮まる霊山にてある! そこに火を放つなど……正気の沙汰ではない!」
彼の叫びは、この時代の誰もが共有する常識そのものであった。
叡山は、攻められることのない「聖域」。
ゆえにこそ守りは脆弱であり、そこを頼りに久政と義景は籠ったのだ。
「織田信奈は……乱心したのか!? 女の身でありながら叡山へ攻め込むだけでも非常識だというのに……全山焼き討ちなど……!」
久政が半ば泣き叫ぶその横で、『源氏物語』の絵巻を広げ、月を愛でていた朝倉義景は、ぽつりと呟いた。
「……これは酔狂なことになってきた」
ぱちん、と扇子を叩き合わせ、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「感服したぞ、織田信奈。さすがは天下布武を高らかに宣言しただけのことはある。女人の身にして女人の枠を踏み破り、聖山に火を放つ覚悟……! 現世の凡愚の女人とは思えぬ。あれは──魔王の器よ」
「な、なにを……! さすがとは、なんだ……!?」
久政が声を荒らげる。
義景は涼やかな顔で続けた。
「織田信奈は、共倒れを覚悟で余の策の盲点を突いてきた。久政よ、聞くがいい。この叡山は険しい山ではあるが、岐阜城のような堅牢な城塞ではない。攻められることのない聖域ゆえに、守りを考える必要がなかったのだ。ゆえに──本気で攻められれば、これほど脆い拠点もない」
「ぐ……っ!」
「しかも女人禁制──この一点に余は賭けた。女子である信奈が叡山に足を踏み入れまいと。だが、その常識は、根こそぎ覆された」
義景の眼差しが異様に光り、月を仰いで声を震わせる。
「だがな、叡山を焼き討ちすれば、織田信奈は日ノ本中の仏僧や信者をすべて敵に回す。しかも、懐刀である“天の白刃”を失った今──常道であれば躊躇するはずだ。……されど! なおも炎を放つというのなら……あの娘は、常識を凌駕した存在。魔王か、それとも……ただの狂気の小娘か」
「ひ、ひぃ……」
義景は笑みを深め、胸の高鳴りを抑えきれずに声を漏らした。
「なんだ、この胸の昂ぶりは……ぞくぞくする……! 余は見たいぞ、この眼で! 織田信奈が、果たして本当に叡山を焼けるのかを!」
「笑っている場合かぁっ! 義景どの! もとはといえば、あなたが籠城を勧めたのだ! 責任を取ってくだされ!」
久政は汗を滝のように流し、声を裏返らせる。
まったく風流を理解せぬ御仁だ、と義景は鼻で笑いながら久政をにらみつけた。
「久政、策は三つある」
「さ、策……?」
「上策は、先手必勝よ。山に火を放たれてからでは手遅れ。今すぐ全軍をもって麓の織田軍に逆落としをかけ、乾坤一擲の勝負を挑むのだ」
「なっ……! む、無謀すぎる! 敵は、叡山焼き討ちの報に慌てたわれらが山を駆け下るのを、待ち構えているやもしれんではないか! 待ち伏せの策に嵌るのが落ちだ!」
久政は顔を蒼白にし、ぶるぶると震えている。
義景は半ば呆れ、片眉を吊り上げてため息をついた。
「やれやれ……小心者に限って、このような猜疑心ばかりは強いものよな。ならば二つ目──中策だ」
「な、なんじゃ……?」
「叡山の僧侶を使者に立て、和睦を申し入れるのだ。叡山を焼き討ちにすれば、織田信奈は日ノ本中の仏僧と信者をすべて敵に回す。それをこんこんと説けば、よほど狂っておらぬ限りは躊躇するだろう。和睦は成立するやもしれん」
「ほ、ほう……それは……」
「無傷で本国に帰還できる。だが、八方塞がりの織田勢も息を吹き返し、戦況は再び膠着することとなろう」
久政は安堵の色を浮かべ、深くうなずいた。
「たしかに安全な策だな……義景どの……」
「そして三つ目──下策だ」
義景の目が冷たく細められる。
「勝ち目なしと見て、織田信奈に降伏せよ。お主は、織田信奈の妹を娶っている長政に家督を返し、さっさと出家するがよい。さすれば浅井家は滅ぼされずに済むだろう」
「なっ──! な、ならんっ! 絶対にならんぞ!」
久政が血相を変えて立ち上がり、顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「わ、わしはわが子・長政を天下人とするために、敢えて織田と手を切ったのじゃ! それを降伏など……親としての面目が立たん!」
義景は心の底から退屈そうに、杯を傾けた。
(この浅井久政という男……優柔不断で、ただ自尊心だけは一人前。実に小物よな)
「義景どの!」久政が叫んだ。「ここは中策を取ろう! 叡山は神仏の聖地だ! われらに加勢してくれた叡山を、焼き討ちなどに巻き込んではならん! 和睦を申し入れ、織田信奈との決着はいずれ堂々と……堂々とつければよい!」
その瞬間。
「おやおや」
中堂の隅で護符を磨いていた土御門久脩が、扇を広げて口元を隠し、にやりと笑った。
「善人ぶるのは結構だがねえ……裏切り者の浅井久政殿。素直に『死にたくない』と白状すれば、よほど潔いものを。はてさて、八百年の聖山を人質にして和睦を乞うとは……いやはや、お主らしい卑劣さだ」
「なっ……!」
久政は顔を真っ赤にし、歯ぎしりする。
さらに、これまで無言で座していた巨漢──正覚院豪盛が、ドスの利いた声を響かせた。
「ならば拙僧が、織田の陣へ使者として参ろうぞ」
「ほう……」義景が目を細める。
豪盛は太い腕を組み、鼻息荒く言い放った。
「がははは! おなごごときが、叡山を焼くなど笑止千万! この豪盛、断じて許さぬ! だが、和睦なぞ片腹痛し。織田信奈めに、こう言ってやるわ。──『たくましき男に、女どもはひれ伏せ! 今すぐ刀を捨てて降伏せよ!』とな!」
「が、豪盛殿……!」久政が慌てる。
豪盛は続ける。
「この根本中堂には、八百年にわたり燃え続ける〝不滅の法灯〟がある。これは叡山の象徴、仏法の証。守らねばならぬのだ! 小娘の癇癪で、滅ぼさせはせぬ! 滅ぼさせはせぬぞ!」
なぜか女を仏敵の如く憎むこの偏屈な奇人の姿に、義景は思わず扇を口元に当てて笑った。
(正覚院豪盛か……実に滑稽で、実に使える。和睦の使者に立てるもよし、交渉を潰させるもまたよし。どちらに転んでも、余を退屈させはせぬだろう)
義景の目が妖しく光った。
「半兵衛どの! どうか起きてくだされ、ですぞ! 姫さまを、姫さまをお止めしなければ!」
「半兵衛ちゃん! 頼む、起きてくれ! 信奈を、一緒に止めてくれ!」
京、妙覚寺。
障子の外では夏の蝉が鳴きわめいているというのに、この一室だけは、時間が止まったように重く静まり返っていた。
ねねと良晴は、汗だくになりながら布団に横たわる半兵衛の両肩を揺さぶっていた。
何度も、何度も、呼びかけて。
その声には焦燥と、かすかな泣き声が混ざっていた。
半兵衛に薬を処方した曲直瀬ベルショールは、幾度も二人を制した。
「残念じゃが……まだあと数日は起きられぬじゃろう。命をつなぐのに全ての力を使い果たしておる」
だが、二人は首を振った。
今、刃も光秀も帰還しない。信奈の耳には誰の声も届かない。
織田家に残された最後の切り札は――「今孔明」と称される天才軍師、竹中半兵衛ただ一人。
「頼む! 起きてくれ! 信奈は叡山を浅井朝倉勢ごと焼き尽くすと言ってる! 勝家も長秀さんも、俺も、何を言っても聞く耳を持たないんだ!」
「お願いですぞ、半兵衛どの! あのままでは姫さまが……!」
必死の訴えの最中、ねねの目尻から、ぽたり――透明な雫が半兵衛の頰に落ちた。
それは、何度水垢離をしても、何百回祈っても届かなかった想いが、やっとひとつだけ通じた証だった。
……瞬間。
「……良晴さん……そのお話は……ほんとうでしょうか」
閉ざされていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
眠りの淵から浮かび上がった半兵衛の瞳は、まだかすかに霞んでいるが、その奥には確かな光が戻っていた。
「半兵衛どの! 目覚められたのですな!?」
ねねは、堪えきれず泣き笑いになりながら、その華奢な体に飛びついた。
「良晴さん。これまでの経緯を、お聞かせください」
良晴が口を開こうとした時、背後から、南蛮渡来の片眼鏡をかけた大柄な商人風の男と、そしてロザリオを胸にかけた金髪の宣教師少女が声をあげた。
「天城はんと明智はんをともに失われたおひいさまは、怒りのあまり物事がまったく見えておられぬご様子。宗教者でありながら武具を手にして織田家に戦を挑んだ叡山の僧兵どもが滅びるは自業自得なれど、明らかにおひいさまの天下布武事業にとってこたびの叡山焼き討ちは致命的な愚行!」
片眼鏡の男は堺の豪商、今井宗久。
「エイザンはジパングにおいてもっとも伝統ある最高学府と聞きます。いにしえの叡智を集積したこの国の学府を燃やしてはいけません。エイザンの方々が宗教者の使命を忘れて武器を持っているのはよくないことですが、彼らの武装を解除させればそれですむことです」
金髪の少女は、信奈の許可を得て京に入り南蛮寺の建築をはじめていたルイズ・フロイスだった。
二人は、信奈の異変を聞いて駆けつけてきたのだ。
二人の声は切迫していたが、半兵衛は静かに聞き流し、まずは良晴を見据えた。
「二人とも静かにしてくれ! 半兵衛ちゃん、実は──」
良晴の必死の説明に耳を傾けると、知恵者・竹中半兵衛はすぐさま全貌を理解してしまった。
自分が臥している間に何が起き、そしてこれから何が起ころうとしているのか──頭脳は冴え渡り、全体を一瞬で把握してしまう。
曲直瀬ベルショールの治療が効いたのか、あるいはねねの祈りが通じたのか。
あれほど半兵衛を苛んでいた熱は完全に引き、彼女は冷静さを取り戻していた。
だが──。
「あの……刃さんが、死んだ? そんな……嘘……ですよね?」
かすれる声。
その顔には、理性では抑えきれぬ動揺と、深い悲しみが浮かんでいた。
無理もない。
目覚めて最初に告げられるのが、最愛の人の死の報せなど──残酷すぎる。
胸がぎゅっと締めつけられ、息ができない。
喉の奥が焼けるように熱い。
涙があふれそうになる。
「まだ……まだ死んだって決まったわけじゃねぇ!」
良晴の必死の叫びが、半兵衛の耳に届く。
半兵衛は震える指で懐から護符を取り出した。
「……確かめます。私の手で……!」
半兵衛は深く息を吸い込み、震える声で言葉を紡いだ。
「式神召喚──前鬼!」
護符が淡い光を放ち、空気が裂けた。
「前鬼さん……刃さんは……本当に、死んでしまったのですか……?」
半兵衛の声はかすれていた。
前鬼はしばし黙し、半兵衛を鋭く見据える。
そして、重々しい声で告げた。
「主。天城刃は確かに、土御門のガキが開いた裂け目に、明智光秀を救うためあの死に体で飛び込んだ。あの傷……あの出血……常人なら――いや、この世の誰であろうと間違いなく死んでいる」
半兵衛の胸に、冷たい鉄の杭が突き刺さるような感覚。
やはり、もう。
心臓が潰れそうな絶望が押し寄せる。
だが──。
「……だが、消える寸前、俺には聞こえたんだ」
前鬼の低い声が、闇を裂いた。
「岩と硬い“何か”が衝突する音が。ただ砕ける音ではない。抗って、生き延びようとする音だ」
「──っ!」
半兵衛の瞳に、光が戻った。
「まさか……!」
希望という名の炎が、再びその胸に灯る。
刃が──まだ生きているかもしれないという、かすかな可能性が。
前鬼は牙をむき、嗤った。
「主。天城刃を……常識で測るな。あの男に“死んで当然”なんて言葉は通じない」
半兵衛は息を呑み、こぶしを握り締める。
涙はもう悲嘆の雫ではなかった。確かな希望が、その奥で灯っていた。
「……わかりました、良晴さん」
半兵衛は布団をはねのけ、ふらつきながらも立ち上がる。
その背筋はまっすぐで、声にはもう迷いがない。
「今すぐ本陣へ向かい、信奈さまを止めます。まだ……間に合います!」
「おう!」