叡山を焼き尽くす準備は、すでに完成していた。
叡山の琵琶湖側に面する坂本方面には、兵の半数が配置され、燃料となる薪や油を積み上げ、いつでも点火できる状態。
残る半数は、京都側──雲母坂の信奈本陣に集結していた。
この夜の空気は異様に乾いており、さらに山を吹き抜ける風は強い。
焼き討ちには、これ以上ないほどの好条件が揃っていた。
「……刃。もう一度だけでも、会いたかったわ」
月明かりに照らされながら呟く信奈の声音は、震えていた。
その横顔には烈火のごとき怒りと、深い絶望が入り混じり、勝家も長秀も、ただ黙り込むしかなかった。
犬千代は未だ信奈の陣に現れない。
刃が裂け目に落ちる瞬間を目撃した衝撃で、幼い心は耐えられず、竹千代の部屋で今も眠り続けていた。
「準備は整いました。今夜、叡山は灰燼に帰します。あとは、信奈さまのお下知をいただくばかりですわ」
久秀が妖しく微笑みながら進言する。
「デアルカ」
今の信奈は、ただ……刃と光秀を浅井久政の裏切りによって失ったという深い悲しみと激しい怒りに、心を支配されていた。
もう……天下布武も、広い海へ乗り出す夢も……刃も十兵衛も、自分とともには見てくれないのだ。
「……いいわ。全軍、火を──」
信奈が総攻撃の下知を発しかけた、その時。
「お待ちください!!」
「待て!信奈!」
竹中半兵衛と相良良晴が、息も絶え絶えに駆け込んできた。
その後ろには今井宗久と、ロザリオを首にかけた金髪の宣教師少女ルイズ・フロイスも並んでいる。
「信奈さま!」
半兵衛が声を張り上げる。その目には怒気と必死さが宿っていた。
「この国の古き権威と仏教界の象徴である叡山を焼けば、日ノ本中の宗派が信奈さまを仏敵とみなし、反旗を翻します! ことに全国に膨大な門徒を抱える大坂本猫寺が敵に回れば……信奈さまの天下布武は十年は遅れることになりましょう!」
普段は気弱で線の細い半兵衛が、鬼気迫る形相で必死に訴える姿に、家臣団が一斉に息を呑んだ。
「その上、民心も離れます! 僧兵たちの堕落や腐敗は事実であっても、民は知りません! ただただ、信奈さまが神仏を尊ばぬ残虐非道な“第六天魔王”であると信じ込むだけです! さらに──叡山の天台座主は、姫巫女さまの兄君。叡山を火にかければ、御所の信頼すら失う! それは、すなわち日ノ本中すべての人々を敵に回すことに他なりません!」
その真摯な叫びは、居並ぶ家臣たちの胸を打ち、誰もが動けなくなるほどだった。
だが──。
信奈の目が、ギラリと光る。
「うるさいわね、半兵衛!」
信奈の声が裂帛の気合と共に飛ぶ。
茶色の瞳が、涙に濡れながらも烈火のように燃え上がった。
「あんたも、わたしたちと同じく刃の恋人なのに……悲しくないの!? 憎くないの!? あいつらは、刃を奪ったのよ!!」
吐き捨てるような声に、嗚咽が混じる。だがその震えは、決して弱さではなかった。痛みを燃料に変え、灼熱の怒りを生む業火そのものだった。
「刃は幼い姫巫女さまにも気に入られていたわ! きっと姫巫女さまだって、刃のことを聞けば協力してくれるはず……! だから半兵衛! 邪魔しないで!!」
「信奈!」
良晴が叫ぶ。必死の声で、張り裂けそうな胸の内をぶつける。
「刃がこんなこと望んでるはずないだろ!!」
良晴が叫ぶ。だが信奈は一歩も引かない。
「望んでないですって? サル!あんた、今まで何を見てきたのよ!」
信奈が一歩、また一歩と踏み出すたび、周囲の兵たちは息を呑み、陣中の空気が凍りついていく。
「刃は、わたしに……犬千代に……万千代に手を出そうとした敵を……ためらいなく斬ってきた! それは、わたしたちを守るため! それと同じよ! 刃に手を出した敵を――わたしが討つ!」
その叫びは雷鳴のように轟き、陣幕を揺らすほどの圧で響いた。
「わたしたちから刃を奪った……その罪、浅井も、朝倉も、土御門も……誰ひとり、生かしておけるもんですか!!」
信奈の声は嗚咽混じりでありながらも、決意の刃を帯びていた。
「奴らは……わたしの! 犬千代の! 万千代の! 幸せを奪った!」
彼女の握り締めた拳が小刻みに震え、爪が掌に食い込み血が滲む。
「これ以上……邪魔するんなら――半兵衛! サル! あんたたちだろうと……容赦しない!」
その一喝は戦陣の鬨の声さながら、陣中の空気を完全に支配した。
焚き火の火が強風にあおられ、舞い上がる火の粉が信奈の紅い瞳をさらに燃え立たせる。
(……止められねぇ!)
良晴は喉が詰まる思いでそう呟いた。だが、心の奥底にかすかな光を見つけ、声を張り上げた。
「信奈! 刃は生きてる! 前鬼が言ったんだ! 消える寸前、裂け目から“何かが岩にぶつかる音”が聞こえたって!」
「──っ!」
信奈の瞳が、かすかに揺らぐ。
だが次の瞬間、そのわずかな希望を自ら叩き潰すように、絶叫が迸った。
「だから……だからッ! 一日待ったじゃない!!」
声が震え、涙が飛び散る。
「刃と十兵衛が……生きてるかもしれないって……信じて……待ったじゃない!!」
その嗚咽混じりの叫びは、兵たちの胸を抉った。
「でも……でも!! 帰ってこなかったじゃないッ!!」
信奈の拳が震え、爪が掌を裂き、血が滴り落ちる。
「竹千代から聞いた刃の傷が本当なら……もう……もう生きてるわけないのよ!!」
叫びとともに、信奈の肩が大きく震えた。
「全身傷だらけ、脇腹を種子島で撃たれて、胸に深い裂傷……全身血だらけ。そんな体で、底が見えないくらい深い裂け目に十兵衛を助けるために落ちて、生き延びるなんて──無理よ! 奇跡なんて、そんなの……! あるわけないのよッ!!」
その絶叫は雷鳴のように陣営を震わせた。
勝家も長秀も、良晴も半兵衛も……誰一人、言葉を返せなかった。
信奈の胸を引き裂く慟哭は、真実にしか聞こえなかったからだ。
重苦しい沈黙。
兵たちは誰もが息を潜め、地面に釘付けになったように動けない。
その時──
ガサッ……。
夜風が揺らした葉擦れではない。
もっと重く、もっと確かな、人間の足が土を踏みしめる音だった。
闇に沈む木立の奥から、草を押し分けるざわめきが近づく。
しかも一人や二人ではない。息遣いと鎧の擦れる音が幾重にも重なり、まるで小さな軍勢が進軍してくるようだった。
兵たちは一斉に顔を上げ、槍を構え、弓兵は音の方向へ弦を引き絞る。
弦が軋む音、鎧が鳴る音、緊張が夜の闇に凝り固まっていく。
「敵襲か……!?」
緊張に押し殺した声が漏れる。
「ま、待て……今、声が……!」
次の瞬間、夜気を震わせるように声が響いた。
「天城大将!……るみゃあ!」
「大将!もう少しだぎゃあ!」
「お前ら!天城大将を……るんじゃ……!」
「分かってるでごわす!」
掠れ、息の詰まった叫び。それでもどこかに誇らしさを含んだ声。
そして──
「こっちで………あって………です?」
細く、震えた女の声。
澄んだ響きと独特の「です」。
この陣中の誰もが、一度聞けば忘れられない少女の口調だった。
「ああ………間違い………姫様の………だ」
掠れた低い男の声が応える。
普段の揺るぎない響きはなく、血を吐くように弱々しい。
だが、その声の芯だけは変わらない──胸に焼き付けたあの響きを、信奈が聞き間違えるはずがなかった。
大勢の足音と共に、その声の主たちはゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。
草を踏む音のたびに、信奈の心臓が跳ね、視界が滲む。
「……ッ!?」
信奈の心臓が大きく跳ね、息が止まる。
全身の血が逆流するかのように熱くなり、指先が震える。
気づけば、足が勝手に一歩、前へ出ていた。
良晴と半兵衛も、目を見開き互いの顔を見合わせる。
兵たちは槍を下ろし、戸惑いと期待の入り混じったざわめきが広がった。
ガサガサ……!
草むらが大きく揺れ、次々と鎧姿の男たちが月明かりの下へ飛び出してくる。
「やったぜ大将! 俺たちは信じていたみゃあ!」
「大将は姫さまに会うまでは殺しても死なねえ、しぶといお人だと!」
「わしらしんがり部隊三百五十人、今日から大将の家臣にしてくれみゃあ!」
「これからずっと死ぬも生きるも一緒だぎゃあ、天城の大将!」
それは──金ヶ崎の退き口で刃に命を救われ、良晴ではなく刃の家臣になることを決めた男たち。
刃の生存を信じ、信奈に土下座したあと、休む間もなく西近江の山中を探し続けた、大馬鹿で、誇り高い三百五十の猛者。
誰もが全身に傷を負い、顔や鎧には血と泥がこびりついている。
しかし、その瞳は暗闇をも突き破るように輝き、口元には確かな笑みが浮かんでいた。
(命がけの使命を、ついに果たしたみゃあ!)
(姫さまと天城刃の大将を、生きて再び引き合わせることができたぎゃあ!)
その誇らしさと充足感が、誰の顔にも刻まれていた。
やがて、しんがり部隊の野郎どもが左右に分かれ、真ん中に道ができる。
ざわり、と夜風が兵たちの槍先を揺らす。誰も声を発さず、その視線はただ一点、開かれた道の奥に注がれていた。
やがて、闇の中から二つの人影が現れる。
重く沈んだ足音が、耳に直接響くように近づいてくる。
月が、雲間から顔を覗かせた瞬間──
淡い光が二人の姿を浮かび上がらせた。
「天城先輩、大丈夫です?」
「ああ、心配するな。……ありがとな、光秀。肩、助かる」
その声は掠れているが、確かな温もりを帯びていた。
右肩から左脇腹にかけて、深々と走る裂傷。乾ききった血が黒く硬く張り付き、その痛々しさを隠そうともしない。
右脇腹には、未だ抜かれぬ種子島の弾丸が肉の奥に沈み、歩を進めるたびにその顔がわずかに歪む。
銀の髪は血と土で重く固まり、月光を鈍く反射している。
――誰が見ても、瀕死の重傷。
だが、その紅の瞳に曇りはない。
荒い息の下でも、まっすぐ前へ──その視線は、ただ一人の主を探していた。
天城刃。
そして、その刃を全身で支えているのは、広いおでこにきんかんの髪飾りをつけた少女。
明智十兵衛光秀。
細い腕に伝わる、刃の重さと血の温もり。
それでも彼女の顔には、誇らしげな笑みと、必死の安堵が同居していた。
何度も膝が折れそうになりながらも、一歩も引かぬ足取り。まるで、この命を抱えたままならどこまでも歩けると信じているかのようだった。
陣の空気が変わった。
兵たちは息を呑み、槍を持つ手が緩み、ざわめきはいつしか完全な静寂に変わる。
夜風がひときわ冷たく吹き抜ける中、ただ二人の足音と衣擦れの音だけが響いていた。
「……っ……」
信奈の喉が、かすかに鳴った。
胸の奥からせり上がってくる何かが、息を詰まらせる。
涙が視界を滲ませ、形の定まらない光の粒が、二人の輪郭を淡く揺らした。
それでも──瞬きすら惜しい。見失うわけにはいかない。
刃の顔色は死人のように青白く、呼吸は浅い。
それでも信奈の視線に気づくと、わずかに口角を上げた。
それは、戦場の地獄を歩いてきたとは思えぬほど穏やかな微笑だった。
「信奈さま! 明智十兵衛光秀、ただいま帰還しましたです!」
「姫様……遅くなり、申し訳ありません。天城刃、ただいま帰還しました」
その声は弱々しくも、確かに生きている者の声だった。
堪えていた涙が、ついに堰を切ったように溢れ出した。
視界が一瞬にして霞み、頬を伝う熱い雫が顎から滴り落ちる。
胸の奥が焼け付くほど熱く、呼吸すらも苦しい。
それでも──足は止まらなかった。止める気もなかった。
「──刃ッ!!!」
慟哭とも歓喜ともつかぬ叫びが、夜空を突き抜け、兵たちの心臓を揺らす。
その声に振り向いた者たちは、まるで時が止まったかのように息を呑んだ。
信奈が、ただ一直線に、銀髪の男へと駆け寄っていく。
「光秀、すまないが……少し離れてくれないか?」
「……はいです!」
光秀がわずかに身を引くと同時に、信奈は勢いのまま刃の胸元に飛び込んだ。
「……帰ってきた……帰ってきたのね……!」
血の匂いが鼻腔を刺し、泥の感触が手のひらに広がる。
それでも構わず、両腕で彼の体を抱き締めた。
「……よかった……ほんとに……よかった……! あなたが……しんだってきいて……わたし……わたし……っ!」
震える声。
言葉の途中で嗚咽が喉を塞ぎ、続きは声にならず、唇の奥で溶けていく。
肩が小刻みに震え、握る手に力がこもるたび、爪が刃の衣を掴み、破りかねないほどに食い込む。
「……目の前が真っ暗になって……胸が潰れそうで……息も……できなくて……!」
涙が刃の胸元を濡らし、血の匂いと混じって熱を帯びた。
刃は、そんな彼女をそっと抱き締め返す。
その手は驚くほど穏やかで、痛みを堪えているはずなのに、まるで壊れ物を扱うように優しい。
「……すみません……心配を、おかけして……」
「心配……? そんなの……!」
絞り出すような声が、次の瞬間には嗚咽に変わった。
「心配どころじゃないわよ……! あんたがいない世界なんて……考えるだけで……っ、わたしは……っ……!」
吐き出すたびに胸の奥の痛みが増し、涙が止まらない。
「生きてるって……信じたかった……でも……瀕死の……重傷だって……!」
信奈の声は、泣き笑いのように震えた。
信奈は顔を上げ、涙で濡れた瞳で刃を射抜くように見つめる。
「……もう二度と……無茶しないって、誓って……」
刃は一瞬だけ目を細め、口角をわずかに上げた。
「……それはできかねます……姫様たちの危機を見過ごすなど、私にはできません」
信奈の胸の奥で、怒りと安堵と愛しさがせめぎ合う。
喉の奥が詰まり、拳で刃の胸を軽く叩いた。
「……ほんっとに……どうしようもない……!」
それでも――その拳には、もう力はなかった。
ただ、生きて戻ったことへの安堵と、二度と失いたくないという願いだけが、そこにこもっていた。
刃はふと視線を横に動かした。
紅い双眸が、ゆっくりと長秀と半兵衛へ向けられる。
その眼差しは弱っているはずなのに、まっすぐで、揺らがなかった。
「……お前たちにも、心配をかけたな。すまん」
掠れた声。
だが、その一言は二人の胸を深く震わせた。
「刃、どの……っ! 刃どの……!」
いつも冷静沈着な丹羽長秀の顔が、涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。
あの丹羽長秀が──感情を露わにして、声を詰まらせながらも必死に笑おうとしている。
訃報を聞いたとき、胸の奥が凍り付いた。生きて帰ってくるなんて、夢物語だと思っていた。
その恋人が、今こうして目の前に立っている。血まみれで、傷だらけで、それでも息をしている。
「刃、どの……っ! 刃どの……! ほんとうに……よく……生きて……! 満点です……!」
声は震え、言葉の端々で涙が溢れていた。
半兵衛ももう堪えきれず、その小さな身体で刃の脇腹へと飛びついた。包帯も止血布も巻かれていない箇所にしがみつくその抱擁は、痛みよりも、ぬくもりのほうが強かった。
「刃さん……! よ、よかった……生きて……! もう……もう二度と……置いていかないでください……!」
その声には、策士としての冷静さも、戦場の兵としての緊張感もなく、ただ一人の少女の切実な願いが滲んでいた。
刃は黙ってその頭を撫でる。
その手が止まると同時に、紅い瞳がふっと遠くを見るように揺れた。
「……犬千代は、どこだ?」
その問いに、しんがり部隊のひとりが息を呑んで前へ出る。
血と土にまみれた顔が、報告を口にすることを躊躇っていた。
「大将……! 前田さまは……大将があの裂け目に落ちるのを見てから……まだ目を覚ましてないんだぎゃあ」
言葉は重く、沈んだ空気が陣中を覆う。
別の兵が口を挟む。
「妙覚寺で……眠ってるみゃあ」
刃はほんの一瞬、瞼を伏せた。
自分が生きて戻れなければ、その心を永遠に閉ざしてしまったかもしれない。
「……そうか」
わずかに息を吐き、顔を上げる。
紅い瞳は再び鋭く、そして決意に満ちていた。
「……誰か、京まで行って、犬千代に俺の無事を知らせてくれないか?」
その静かな一言に、兵たちがざわめく。
信奈は横で刃を見つめ、胸の奥で同じ願いを抱いていた──早く、あの子にこの人の声を届けたい。
しんがり部隊の何人かが、迷いなく一歩踏み出す。
「大将! 俺たちが行くみゃあ!」
「必ず前田さまにお伝えするぎゃあ!」
刃は小さく頷き、短く「頼む」とだけ告げた。
信奈、長秀、半兵衛──三人が同時に刃へすがりつき、その身体にしがみつく。
信奈は刃の胸元に顔を埋め、長秀はその腕を両手で握りしめ、半兵衛は脇腹に必死に抱きつく。
その光景は、戦場に残された誰の胸にも、熱いものをこみ上げさせた。
ごつごつした武骨な手で目頭を押さえる兵もいれば、鼻をすすって肩を震わせる者もいた。
戦場に奇跡など存在しない──皆、そう信じて生き延びてきた。
だが今、誰もが「奇跡」を目の前で見てしまったのだ。
瀕死の重傷を負い、底の見えない裂け目へと落ちた男が、こうして自らの足で帰ってきた。
しかも、その紅い瞳は死に濁ることなく、真っ直ぐ前を見据えている。
「刃!……良かった、本当に……良かった!」
良晴の声は、もはや嗚咽に近かった。
彼は駆け寄るなり、涙と鼻水をぐしゃぐしゃにして刃の肩を掴む。
「お前にも……心配をかけたようだな」
刃は少しだけ口元を緩める。
「ああ、本当だよ! てかさ……どうやってあの裂け目からここまで帰ってきたんだよ!? あんなの絶対無理ゲーだろ!」
「ん?……それは光秀と、俺の家臣になったしんがり部隊のおかげだ」
淡々と告げられる答えに、良晴は思わず瞬きをした。
そう──洞窟に身を潜めていた刃と光秀を襲った、あの落ち武者狩りの連中。
実は、刃を捜索するために密かに若狭街道へと向かっていた、しんがり部隊の男たちだったのだ。
尾張弁丸出しで喋る彼らの声を、あの時の光秀が敵と誤認したのも無理はない。極限状態では、味方の笑い声すら刃の錆に聞こえる。
その当人たちは今、胸を張り、武功のように事の顛末を語り出した。
「いやあ、最初はよ……お二人さんだなんて気づかずに、ちょっと覗いてただけだったみゃあ」
「途中から、『あれ、この二人……?』って気がついたぎゃあ」
「なんか知らんけど、やけにえらく盛り上がっとったでよ、その先を見たくなったんだぎゃあ」
「惜しかったみゃあ……もうちょっとだったみゃあ……」
「おいおいおい! “もうちょっと”ってなんだよ! てか、お前ら絶対悪い顔してただろ!」
良晴がツッコミを入れると、光秀が真っ赤になって前へ出る。
「うるさいです! 覗きなんて……悪趣味です!斬り捨ててもいいですか、天城先輩!」
「やめておけ。こいつらがいなければ、俺も光秀もここにはいなかったかもしれんからな」
刃の一言に、しんがり部隊は途端に胸を張り、どや顔を隠そうともしなかった。
しかし、その次の光秀の声が、それ以上の衝撃をもたらす。
「天城先輩、それは違うです!」
きんかんの髪飾りが小さく揺れる。光秀は涙をにじませながら、胸を張って言い切った。
「天城先輩のおかげで、私は生きてるんです!」
「ん? どういうことだ?」
良晴が眉をひそめる。
「天城先輩は……気絶して動けない私を、片手に抱えたまま……折れた刀で、あの裂け目を登りきったんです」
「……なっ……!」
その場の空気が、一瞬で張り詰めた。
あの断崖を実際に見た者たち──良晴、しんがり部隊の面々、元康、半蔵までもが絶句する。
あそこは人間の登攀を許さぬ絶壁だった。
しかも瀕死で、もう一人抱えてなど……常識で考えれば不可能。
「あんなにボロボロで……痛みと出血で意識も朦朧としていたはずなのに……天城先輩は、自分の命よりも、まず私を……守ろうとしてくれたんです!」
光秀の声が震え、頬を伝う雫がぽたりと地面に落ちた。
「私は……登りきった後で目を覚ましたです。あの時は……本当にびっくりしたです……! 目が覚めたら裂け目から脱出してて……横を見たら……心の臓が止まって息をしてない天城先輩が倒れてたんです……!」
その告白に、陣中の空気が凍り付いた。
夜風すら止まったかのように、誰もが息を詰める。
「私は……必死で人工呼吸をして……天城先輩を蘇生して……近くの洞窟まで運んだだけで」
「だが、洞窟で俺の命を繋ぎ止めてくれたのは光秀だろう? お前がいなければ、俺はここに来る前に死んでいた」
「違うです! 私が……あの時……裂け目に落ちなければ……天城先輩は相良先輩たち殿部隊と一緒に京へ戻れて……あんな無茶をせずに済んだんです! もし天城先輩が死んでたら……私は……一生……自分を許せなかったです……!」
声が震え、言葉の終わりは嗚咽にかき消された。
その小さな肩が揺れるたび、周囲の兵の胸にも重くのしかかるものがあった。
刃は静かに光秀を見つめ、首を横に振った。
「光秀……そう自分を責めるな。元はと言えば、俺が式神の爪を避けられなかったのが悪い。お前は俺のために怒り、そのせいで落ちた。ならば……責任は半々だ」
「でも!」
光秀が食い下がろうとした瞬間――
「……この話は、不毛だ」
刃の低く落ち着いた声が、それを遮った。
紅い双眸が真っ直ぐに光秀を見据え、その瞳の奥に、譲ることのない確かな意志が宿っていた。
「俺も、お前も……無事だった。それが全てだ」
その言葉は、理屈ではなく、重ねた戦場と命のやり取りで得た真実として放たれた。
光秀はその視線を真正面から受け止め、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(……私が、これ以上自分を責めるのは……天城先輩の想いを踏みにじることになる……)
呼吸がゆっくりと整っていく。
涙で滲む視界の中、刃の輪郭が鮮やかに戻ってきた。
「……はい……」
光秀は小さく頷き、そしてもう一度、はっきりと言った。
「……はい、です!」
その声は先ほどまでの震えを含まず、確かな力を帯びていた。
刃はわずかに口元を緩め、頷き返す。
周囲で見守っていた信奈たちや良晴、しんがり部隊の面々も、そのやり取りに胸を熱くし、誰ともなく小さく安堵の息を吐いた。
戦場で生き残ることがどれほど困難か、誰もが知っている。
「一ついいかしら?」
刃の胸に抱きついたまま、信奈が低く鋭い声を放つ。
茶色の瞳がわずかに細まり、獲物を逃がさぬ狩人のように光秀を見据える。
「十兵衛、“人工呼吸”って何なの? さっき、心の臓が止まった刃を、それで蘇生したって言ってたけど」
「じ、人工呼吸と……言うのは、ですね……」
光秀は頬を真っ赤に染め、視線を刃へチラチラと送る。
息を呑み、言葉を絞り出すように続けた。
「その……せっ……接吻して……相手の肺に空気を……送り込む……もの、です……」
最後の一言を吐き出した瞬間、耳まで真っ赤になる光秀。
周囲の兵たちから「おお……」という低いどよめきが漏れた。
しんがり部隊の一人が勢いよく叫ぶ。
「天城大将! 恋人じゃないおにゃのこに唇奪われたぎゃあ!?」
「命を救うためとはいえ、ずるいぎゃあ!」
「天下一の色男だみゃあ!」
「大将より女好きだぎゃあ!」
刃は落ち着いた声で返す。
「それはない。俺が良晴より女好きなど、失礼だ」
「それは俺に失礼だろ!? 刃!」
良晴が即座にツッコミを入れるが、兵たちはまったく気にしない。
「てか、またか! またなのか!まだ戦国時代に来て一年経ってねぇんだぞ!? なのに──」
良晴は指を一本ずつ折り曲げて数え上げる。
「信奈、犬千代、長秀さん、半兵衛ちゃん、ねね、五右衛門、フロイスちゃん、梵天丸、姫巫女さま……そして今回の十兵衛ちゃんで十人目だ! 落とし過ぎだろ!!」
「……ほんとだ、二桁いったみゃあ!」
「戦国一のハーレム持ちぎゃあ!」
「一年経たずに十人! 天下統一より姫武将統一のほうが早いだぎゃあ!」
「来年には二十人突破確実みゃあ!」
「俺たちの誇りだみゃあ!」
「モテすぎて嫉妬するぎゃあ!」
「来年にはこれ何人になってるんだ!? 冗談抜きで俺のヒロインいなくなるんだけど!? お前ら分かってんのか!? 俺、この物語の主人公なんだぞ!?」
しんがり部隊の野郎たちが一斉に吹き出す。
「いや、どう見ても主人公は天城さまだみゃあ」
「そうそう、相良さまは……まあ、色物担当?」
「モテない主人公枠ぎゃあ!」
「しかもだ!」
良晴は、ついに堪え切れず声を張り上げ、周囲の注目を一身に集めた。
「刃は何でか知らんが、やたらめったらロリっ子に好かれる!! 犬千代! 半兵衛ちゃん! ねね! 五右衛門! 梵天丸! 姫巫女さま! 落としてる十人のうちロリが六人だぞ!? 半分以上だぞ!? おかしいだろ!!? こいつ、出会ったロリっ子全員落としてきてるからな!!」
「そもそも!」と、良晴はさらに畳みかける。
「刃は『お姫様から浪人娘まで幅広く対応可』みたいな怪物スペックなのに、どうしてロリ率がこんなに高ぇんだよ!? 戦国時代の婚姻観のせいか!? いや、絶対刃の趣味だろコレ!!」
「趣味じゃない」
刃が淡々と否定する。
「……ほら聞いたみゃあ、大将は無自覚ロリキラーだみゃあ」
「天然女たらしぎゃあ」
「戦国最強剣士で無意識ロリ特効持ち……天城さま、罪深すぎる」
しかし――
良晴がさらりと投下した「梵天丸」という名前に、場の空気が一変する。
「……刃? 梵天丸って誰? わたし知らないんだけど?」
「刃どの?」
「刃さん?」
「天城先輩? 誰です?」
抱きついたままの信奈、長秀、半兵衛、傍にいる光秀から鋭い視線が向けられる。
「……良晴、貴様」
刃の低い声が陣中に響き渡る。
紅い双眸が鋭く良晴を捕らえた瞬間、良晴の背筋を冷たい汗がつーっと伝った。
その視線は、まるで動けば即座に斬られると錯覚させるほど冷ややかだ。
「で?」
胸元で信奈が、冷たくしかし確実に熱を帯びた声を放つ。
「誰なのかしら? どこで会って……どうやって落としたのかしら?」
「姫様、落ち着いてください。私は落としてなど――」
「はぁ!? あんたはいつもそう言って、ちゃんと落としてるじゃない!!」
信奈の茶色の瞳がぎらりと光り、抱き締める腕にこもる力が増す。
「答えなさい、刃!」
その一喝に、近くの兵がびくっと肩を跳ねさせた。
しんがり部隊はというと――
「出たー! 姫様の問い詰めモードだぎゃあ!」
「これは逃げられねぇぎゃあ!」
そんな周囲のざわめきも気に留めず、刃は淡々と口を開く。
「……梵天丸と会ったのは、堺にある南蛮寺だ」
光秀が眉をひそめる。
「私が壊そうとした所です?」
「そうだ」
刃は短く頷く。
「光秀と良晴が姫様の命で、左遷をかけた料理勝負の準備期間中――良晴と共に堺の町を探索していた。その折、良晴がふらりと南蛮寺に入った」
良晴が慌てて両手を振る。
「いや、あれは偶然だって! 南蛮寺に入ったら――」
「そこで、フロイスと……梵天丸に会った」
「おお……現地調達か……さすがだぎゃあ」
「梵天丸って南蛮寺にいるってことは……異国の姫さまか!?」
「異国の姫さま!? それは強敵だみゃあ!」
殿部隊の茶化しとざわめきが再び広がり、信奈の茶色の瞳はさらに鋭く細められる。
「……で? そこで“会った”だけで終わるわけないわよね、刃?」
刃は一つ息を吐き、紅い双眸を半眼にしてぼそりと言った。
「……もう面倒だな。良晴、任せた」
「は!? なんでだよ!?」
良晴の声が裏返る。
その瞬間、信奈をはじめ長秀、半兵衛、光秀――そして陣中の兵全員の視線が、ぴたりと良晴に集中した。
まるで狩人たちが新しい獲物を見つけたかのような、じっとりとした視線だ。
「俺は落とした覚えはない」
刃は淡々と続ける。
「だが……怒られている」
「……」
信奈の瞳がさらに細まり、じわじわと迫ってくる。
「理不尽だ」
刃は肩をすくめる。
「お前のせいでこうなったんだ。責任を取れ」
「いやいやいや! 待って!? 俺は……」
必死に両手を振る良晴。だがその言葉は最後まで届かない。
「サル?」
信奈の低く冷たい声が、すっと耳元に入り込む。
その声音には、もはや逃げ場がないと告げる絶対の圧があった。
「説明してもらえるわよね? 梵天丸のこと……ぜぇんぶ」
「おおっと、矛先が完全に相良さまに移ったぞ!」
「姫様連合VSサル! これは新カードだぎゃあ!」
「何秒で白状するか賭け開始だみゃあ!」
「三十秒だ!」
「いや十秒ももたん!」
「俺は五秒に賭ける!」
茶化す声、冷たい視線、純真な好奇心――あらゆる方向から圧がかかる。
良晴の背中を、冷や汗がつうっと伝い落ちた。
「ああ、もう!!」
良晴は両手を振り上げ、やけくそ気味に叫んだ。
「梵天丸は出羽の大名、伊達家の次期当主だ!」
「伊達……大名……?」
信奈が眉をひそめ、長秀は静かに目を細める。
「ねねくらいの歳で、金髪に右目が茶色、左目がワインレッドのオッドアイ!」
「おおお……なんかすごそうだぎゃあ!」
「金髪!? やっぱり異国の姫さまか!?」
「いや、出羽ってことは日本人だよな……?」
「異国の血でも混じってんじゃねえか!?」
良晴はさらに続ける。
「で、南蛮かぶれで厨二病の美幼女!」
「「「「厨二病?」」」」
信奈、長秀、半兵衛、光秀の四人が同時に首をかしげた。
兵たちも「ちゅうに……?」と小声でざわつく。
「あ、そうか! この時代じゃ言葉がないのか!」
良晴は頭をかきむしり、叫ぶように言い換える。
「あれだよ! ちょっと……頭のおかしい子だ!」
「おい! 表現!!」
近くの兵が笑いをこらえきれずに突っ込むが、もう遅い。
「頭……?」
「おかしい……?」
「子……?」
「美幼女……?」
四人の反応がそれぞれ違う方向に行き、場の空気が一瞬混乱する。
その横で殿部隊は、肘で小突き合いながらニヤニヤと盛り上がっていた。
「なんだよそれ! 面白そうな娘だぎゃあ!」
「異国の見た目で出羽の姫さまで、しかも厨二病!?」
「天城大将、また濃いのを見つけてきたな!」
「これ、姫様連合に加入するのも時間の問題だぎゃあ!」
「……それで?」
その視線に押され、良晴は肩をすくめて一気にまくし立てた。
「で、まぁ簡単に言うとだな――梵天丸は髪と目の色のことで、家中で嫌われてるって悩んでたんだよ」
「……」
信奈のまぶたがゆっくりと下がる。長秀と半兵衛、光秀も、じっと聞き耳を立てている。
「そこに刃が、その目を褒めたんだ。『俺は好きだぞ』とか『俺も欲しいくらいだ』ってな」
「……ふーん」
信奈の口角がわずかに吊り上がる。
「さらに、目のことで何か言われたら『天の白刃が欲しがった目だと言ってやれ』って……完全に口説いて」
「おおお……」
殿部隊の誰かが感嘆を漏らし、別の兵が「殺し文句すぎるだろ……」と呟く。
「そしたら梵天丸が泣いて刃に縋り付いて、刃が宥めて――」
「……」
信奈の金色の瞳が一段と細くなる。
「目を好きになれるようにって“邪気眼”なんて名前をつけた」
「邪気眼……?」
「また変な言葉を……」
「かっこいいです!」
「で、梵天丸は“邪気眼流政宗”と名乗って、奥羽を統一したら天下を目指すらしい! 説明終わり!」
一瞬の沈黙。
そして――
「「「「口説いてるじゃない(ますよね)(ないですか)(です)!!!!」」」」
信奈・長秀・半兵衛・光秀の怒号が見事に重なり、陣中を震わせた。
しんがり部隊は腹を抱えて転げ回り、大笑い。
刃は全く動じず、淡々と一言。
「……事実を言っただけだ」
「あ、後な!」
良晴は人差し指をぴんと立て、さらに声を張り上げる。
「梵天丸は刃のこと、めっちゃ欲しそうにしてたぞ! 刃の名前を聞いた瞬間、目がキラキラして――『我の右腕になれ!』って言ってたからな!!」
「……ッ!?」
信奈の瞳がわずかに見開かれ、長秀の扇がぴたりと止まる。
半兵衛は笑顔のまま、背後の空気だけがぞくりと冷える。光秀は単純に「すごいです!」と拍手してしまった。
しかし良晴の暴走は止まらない。
「それにだ! 寺にいる間、ずっと刃の膝に乗ってて、刃はその頭を撫でてたぞ!」
「……」
信奈の口角がゆっくりと上がる――が、それは笑顔ではなく、背筋が冷たくなるほどの危険な笑みだった。
「出羽の姫さまにスカウトされるとか、さすがだぎゃあ!」
「天城大将、完全に攻略しとるぎゃあ!」
「出羽の姫さままで膝乗りとか、もう戦国全国区のモテ男だみゃあ!」
「天城さま、相良大将とは大違いだぎゃあ!」
「おいコラ! それは聞き捨てならんぞ!」
しかし、殿部隊は止まらない。
「戦果が城一つじゃなくて姫さま一人って、どんな武功だよ!」
「天城大将、そのうち異名が“天の白刃”じゃなくて“天の女たらし”に変わるみゃあ!」
「いや、“天下の女たらし”のほうが響きがいいぎゃあ!」
「天城大将を他国に送るだけで、国と姫武将をセットで持って帰ってくるでごわす!」
「しかも城より早く落とすぎゃあ!」
「大将が一人で遠征したら外交も婚姻も全部終わって国が増えてるぎゃあ!」
「ありそうだな、刃なら!!?」
槍の石突で地面をガンガン叩く音、手拍子のリズム、兵同士が肩を組んで揺れながらの大合唱――。
笑い声と野次は渦を巻き、もはや陣中は戦場の緊張感など微塵もなく、酒樽と肴さえあればそのまま宴会が始まりそうな有様だった。
そんな喧騒の只中で――。
信奈、長秀、半兵衛、光秀の四人だけが、凍てつくような静けさを纏って刃を見据えていた。
その視線は四方からじわじわと締め付ける枷のようで、刃の肩に目に見えぬ重みがのしかかる。
刃はそんな視線を受けても表情一つ変えず、淡々と口を開いた。
「……そんな未来はないのでご安心を」
その直後――。
一拍置いて、四つの声が重なった。
「「「「怪しいわ(((です)))!!」」」」
信奈の瞳がギラリと光り、半兵衛の笑顔は目だけが全く笑っていない。
光秀は珍しく眉を吊り上げ、長秀は扇をパチンと閉じて息を吐く。
しんがり部隊の笑い声はまだ響いているのに、その輪の中心にだけ、氷点下の空気が漂い始めていた。
その時、久秀の声が鋭く走った。
「信奈さま!? 見えましたわ! 金ヶ崎以来、信奈さまを呪詛してきた者の『気』が! おそらくは、信奈さまに終わらない悪夢を見せてきた者どもの『気』ですわ!」
信奈と刃の頭上に、黒々とした小さな雲が出現した。
それは渦を巻くように膨れ上がり、次の瞬間──破裂した。
刃は反射的に光秀を良晴へ、長秀を勝家へ押しやり、信奈と半兵衛を片腕ずつ抱えて庇う。
見えない爆風が炸裂し、三人ごと後方へ吹き飛ぶ。
だが、不思議なことに怪我ひとつない。
爆風は確かに激しかったが、それは実体を持たぬ幻。肉体に損害を与えることはなかった。
「いったいなんだったんですか、今のは!? 天城先輩、信奈さま、ご無事でなによりですぅ!」
「終わらぬ悪夢を秘薬で強引に断ち切っておいて正解だったようですわ。あの時にはすでに信奈さまは呪詛に取り込まれていたのでしょう。ですが天城刃が戻ってきたと知った喜びが、その呪詛を自ら振り払ってしまわれた……掟破りなお方」
久秀が光秀にそう語ったが、ほとんどの者は意味を理解できず、首をかしげる。
「刃、大丈夫?」
「刃さん、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
天城軍団と相良軍団の兵たちもすぐに騒ぎ始めた。
「危なかったぎゃあ!」
「なんだったんだみゃあ、今のは!」
「本陣が散らかっちまったぞ! 片付けろ、片付けろ!」
槍立てを直し、飛ばされた荷を集める者たちの顔には、先程までの空気はもうなくなっていた。
叡山――。
比叡山延暦寺の中心、根本中堂の護摩壇が、まるで天地が裂けたかのように崩壊していた。
祭壇の奥に鎮座していた三面大黒天の像は、信じられぬことに、縦一文字に真っ二つに割れている。
黒漆の木肌に走る裂け目からは、焦げた香木の匂いとともに、熱風が吹き出していた。
〝不滅の法灯〟――八百年もの間、絶えることなく灯され続けてきた聖なる火。
そこから分け与えられた無数の蠟燭が、一斉に台座から転げ落ち、朱と金の炎を巻き上げながら三面大黒天を包み込む。
火は木を裂き、漆を焦がし、やがて暗黒神のごときその面相を赤々と染め上げていった。
叡山焼き討ちを宣言し、四方から山を包囲した織田軍。
その最後の一手として、台密の密教僧たちは総力を結集し、奥義中の奥義――呪詛返し不能と謳われる最終呪法を繰り出していた。
彼らは己が命脈を削り、血を吐きながら、炎と闇を増幅させる真言を唱え続けた。
しかし――その瞬間が訪れる。
「……呪詛を、返されたぞ!」
「ありえぬ……! われらの負けだ!」
動揺と恐怖に満ちた叫びが、護摩壇の崩れた堂内に響き渡った。
老僧も若僧も、眉間のしわを深く刻み、震える指先で火柱を指差す。
そこには――二つの強烈な光が重なり合い、業火の中に浮かび上がっていた。
ひとつは、燃え盛る炎さえ押し返す黄金の円――日輪。
それはただの光輪ではない。
暗黒を切り裂き、呪詛を呑み込み、天を衝くような覇気と共に世界を照らす、圧倒的な輝き。
それは、己が信じた道を一歩も曲げぬ者だけが放つ、純粋にして苛烈な「意志」の象徴だった。
「これは……!? 炎を薙ぎ払うかの如く、まばゆく丸い光が……!」
「織田信奈自身が放つ、強烈な日輪の光だ……!」
僧たちが畏怖の息を呑む中――彼らの視線をさらに奪ったのは、その日輪を守るように外縁を取り巻くもうひとつの光輪だった。
それは白銀と深紅が渦のように混ざり合い、刃のごとく鋭く、極光のように眩い。
しかも、その輝きは日輪を覆い隠すことなく、むしろその光をより純粋に、より力強く映えさせている。
「その日輪を守るように周囲を取り巻いている……これは、一体なんだ……?」
「信じられぬ……織田信奈以上の覇王の『気』だと!?」
「この『気』……そうか! こいつが、織田信奈の『気』を支えていたのか!」
恐怖にも似た感情が、僧たちの胸を締め上げる。
この光、この覇気は、彼らの知るどの武将のものとも違う。
それは――
「われらの遠く及ばぬ彼方の世界より……はるか未来より来た、光じゃ」
「このようなことが……あり得るのか……」
炎が轟々と唸りを上げる中、台密の呪詛師たちは悟った。
もはや織田信奈に呪法は効かぬ。
いや、それどころか、この光は呪詛そのものを寄せつけぬ。
「われら台密の呪法を最終的に破ったものは、波斯の幻術でもなければ、陰陽道の術でも、忍術でもない」
「……人間の、意志よ」
その意志は、黄金の日輪を掲げる少女――織田信奈の中に燃えていた。
そしてその日輪を包み守る、白銀と深紅の極光――それは、この戦国の世に突如現れた未来人、天城刃という覇王の存在そのものだった。
台密の奥義に達した僧たちは、ついに膝をつき、織田信奈に屈した。
それは恐怖からではない。
理解を超えたものに触れたとき、人は自然に頭を垂れる。
まるで――この二人が出会うことこそが、天地創造の頃から定められていたかのように。
だが、その頃。
この光景をまだ見ぬまま、叡山最強の武勇を誇る僧兵――正覚院豪盛は、すでに山を下り、織田軍の本陣へと向かっていた。
槍を背負い、鉢巻の下の額に深い皺を刻んだその男は、難しい理屈よりもただ「武」によってのみ決着はつくと信じていた。
呪詛や幻術で戦を制する時代は、すでに終わっている。
叡山を守るのは己らの槍と腕力、それこそが唯一の正義――そう信じる豪盛は、もし今この光景を見たとしても、おそらく驚きはしなかっただろう。
「武で叩き伏せられぬなら、それは相手が己より上なだけ」と受け止めたはずだ。
一方、根本中堂に残っていた二人――土御門久脩と朝倉義景。
久脩は、炎の中で砕け散った呪法の結界を見つめ、薄く笑った。
「……天城刃が生きていたとは、驚きだなあ。あの怪我で裂け目に落ちたのに、まだ生きてるとか……本当に“人間”?」
彼の声は軽く響くが、その奥には濃い屈辱の色が潜む。
(このボクが……してやられただって?)
久脩は静かに舌打ちした。
自分の誇る陰陽道の術が破られた事実は、彼の矜持を深く抉っていた。
そして義景――。
彼は、炎の中に立ち上る日輪と光輪を見つめた瞬間、ふらりと膝をついていた。
「お……おお……これが……織田信奈の力……! 強い……美しい……! なんという、まばゆい光だ……!」
瞳孔は開き、口元は笑っているのに、涙が頬を伝う。
「余は……余はこれまでずっと探し求めていた……運命の女人を……ついに見つけたのかもしれん!」
「え……何を言ってるんだい? いよいよ顔が怖いよ?」
久脩の冷笑に、義景は顔を上げた。
そこには狂気と恍惚が入り混じった表情があった。
「技比べにうつつを抜かしている子供にはわかるまい……だがしかし、その光を取り巻く小僧が邪魔だ!
余が唯一無二の女人と出会ったというのに、その女人を……この俗物が守っているだと……!? 絶対に許さぬぞ!」
義景のその声には、戦略や大義とは別種の、個人的で粘着質な執念が滲んでいた。
久脩は目を細める。
(……この執着こそが、もし我らの連合が敗れるとすれば、その原因になるかもしれない)
畿内の反織田勢力――浅井、朝倉、六角、三好、叡山、土御門、甲賀忍び。
これらの盤石な布陣をも脆く崩す可能性があるとすれば、戦略の誤りではなく、義景のこの異様な感情だと。
久脩はふっと口角を上げた。
「さて……正覚院豪盛の強引な交渉が、どう出るかだね。
このまま叡山で決戦か、あるいは形ばかりの和睦か……」
そして小さく、愉悦を滲ませて付け加えた。
「どちらに転んでも、ボクは戦いたい。……竹中半兵衛とね」
「みんな! 刃と十兵衛の生還を祝いたいところだけど、浅井朝倉は叡山にこもったままだわ!
これ以上ここでにらみ合っていれば、刃がもたないわ! そして、三好と六角に背後を襲われて京を奪われる!
将軍・今川義元を取られたらわたしたちの負けよ、なにか策を出しなさい!」
信奈は、刃の額に汗が出ているのに気がつき鋭く陣中を見渡した。
その瞳には焦りと決意が混じり、兵たちの背筋を自然と伸ばさせる力がある。
「雪でも降りはじめれば朝倉勢は越前へ引き返すんだがな……」
良晴が頭をかきながらぼやく。
「三好勢は四国より摂津の尼崎へと迫っているもようでおます。甲賀の六角承禎も南近江へ攻め寄せ、京と美濃とをつなぐ東山道を封鎖しとるとか」
報告するのは今井宗久。
その声には皮肉まじりの落ち着きがあり、まるで戦況を商売の取引のように計算しているかのようだった。
三好勢の動きは、商売敵の津田宗及を通じて宗久の耳に筒抜けだ。いちどは近衛前久が画策した信奈打倒に乗った津田も、堺会合衆の代表の座を宗久に譲ってからは大人しくしている。
──もっとも、それも表向きだけかもしれないが。
「デアルカ……悔しいけど、敵の目算通り……もう時間がないわね」
信奈が唇を噛む。
「山にこもった浅井朝倉が、全軍で下山して決戦を挑んでくれればいいんだけど……意外にも、あいつら粘り腰だわ」
信奈は机上の地図に視線を落とす。
「あわわ……私、もしかしてこのまま永遠に三河へ戻れないのでしょうか~?」
竹千代が肩を落とし、半泣きの声をあげる。
「心配しないで、竹千代。なんとしてでもこの膠着状態を打破するわ」
信奈は優しく言いながらも、その眼光は戦略を練る鋭さを帯びていた。
「とはいえ……これといった策はありません。二十点です」
長秀が冷静に現状を切る。
一同が沈黙し、焦燥と重苦しい空気が本陣を覆った──その時。
「叡山より、使者が参りました!」
兵の声が陣幕の外から響く。
続いて現れたのは、やたらと酒臭い巨躯の僧兵だった。
頭巾の奥の顔は傷だらけで、まるで武蔵坊弁慶のような異形の迫力を放っている。
「天台座主さまより叡山を任されたこの正覚院豪盛が、きさまら姫武将どもに降伏を勧める使者として参ってやったぞ!」
(あいつが……夜討ちに来ては六に蹴散らされ、そのたびに叡山に逃げ込むという……)
(女人禁制を盾に、負けても平然としている……粗野で卑怯な男です。零点です)
(いったい女の子をなんだと思ってるですか。許せませんです)
信奈、長秀、光秀──三者三様の冷ややかな視線が豪盛に突き刺さる。
だが豪盛は悪びれもせず、使者でありながら頭も下げずに仁王立ちした。
その姿を見た刃の紅い瞳がわずかに細まり、空気がわずかに張り詰める。
「なんたる乱世、なんたる末法の世、小娘どもが武具を取って大の男を相手に戦をしているとは……なんと嘆かわしい!」
豪盛は鼻で笑い、わざとらしくため息をついて見せた。
そして、一方的に言葉を続ける。
「浅井久政どのと朝倉義景どのは、伝統ある叡山を灰燼に帰すことは忍びずと言っておる。織田信奈、貴様にわれらに降伏する考えはあるか? 条件次第では降伏を認めてやってもよいぞ」
使者とは思えぬ高圧的な物言いに、勝家が隣の良晴にぼそりと愚痴を漏らす。
「……使者のくせに、すっげぇ偉そうだなあ」
信奈はむすっとした顔で、しかしはっきりと告げた。
「降伏なんてもってのほか。結ぶならば、対等な和睦よ! そして和睦には条件があるわ」
豪盛が眉をひそめる中、信奈は扇を開いて突きつけるように言った。
「ひとつ。わたしを狙撃した杉谷善住坊を引き渡すこと。仏僧たちの修行の場である叡山ともあろうものが暗殺者をかくまうなど、言語道断だわ」
「ふん。それは無理というもの」
豪盛は嘲るように笑った。
「二度も暗殺を防がれた役立たずの杉谷善住坊は、すでに山から追放したのでな。いずこへともなく逐電したわ」
「デアルカ。まあ、あいつはどうでもいいのよ」
信奈は軽く肩をすくめ、しかし瞳には冷たい光を宿して言い放った。
「でも──次の三つの条件は絶対に吞んでもらうわよ」
「なんじゃ、チビガキ。言うてみるだけ言うてみるがいい。ぐはははは!」
正覚院豪盛は下卑た笑いをあげ、酒臭い息をわざと信奈たちに吹きかける。
その瞬間、刃の額に青筋が浮かんだ。
良晴はその変化に気づき、背筋に冷たいものが走る。
(やべぇ……刃、マジでキレかけてる……)
信奈は一歩前に進み、扇をピシリと豪盛に向けた。
「ひとつ。火事場泥棒みたいに〝金ヶ崎の退き口〟に割り込んできて、すんでのところで刃と十兵衛の命を奪いかけた、若狭の陰陽師・土御門久脩を引き渡すこと」
「……ふん……そうじゃのう」
豪盛は顎に手をやり、妙にあっさりと頷いた。
「まあ、引き渡すだけならば、よかろう」
あまりに簡単に承諾したため、信奈は一瞬いぶかしむ。
(……ずいぶんあっさりね。裏がありそうだけど、今は時間がない)
「ふたつ。今後二度と浅井朝倉に加勢せぬとの証文を作り、叡山の僧兵たちはただちに武装を解除すること。そして、これよりは僧侶本来の仕事に戻ること」
「なんじゃとっ!? 武装解除せよだと!? 痴れ者めが、そんな真似ができるかっ!」
豪盛の太い首筋が怒りで赤く染まる。
だが信奈は怯まず、鋭い声で叩きつけた。
「イヤとは言わせないわ! だいたい、なんで僧侶が薙刀とか持って暴れてんのよ! あんたたちの仕事は仏の教えで民の心を救い、自ら仏に近づくために厳しい修行をすることでしょう?
そんなに戦がしたいのなら、還俗して武家になればいいじゃない! 武家になるというのなら、このわたしが天下平定のためにいくらでもこき使ってあげるわよ!僧侶の特権は手放したくないけど武力も行使したいだなんて、あんたら、厚かましいのよ!」
一同がじろり、と豪盛を睨みつける。
女武将たちの迫力は、豪盛の図太い神経をも揺らがせた。
「ぐぐぐ……なんたる迫力……おなごも大勢になると、これほどの圧力になるとは……」
豪盛は歯ぎしりし、額に冷や汗を滲ませる。
信奈はさらに踏み込み、声を張った。
「すみやかに武装を解除しないというのであれば──浅井朝倉の連中も僧兵も、ともどもに焼き払うわよ! これは脅しじゃない、最終通告よ!」
「仏僧たちも焼き払う、と?」
豪盛が信じられぬという顔をする。
「仏僧とはいえ、武装兵でしょう!? 戦とは互いの命を奪い合うもの! 一方的に攻めるだけで、自分たちへの攻撃は『仏が許さない』だなんて、僧兵一流の屁理屈はこのわたしには通じない!」
「だが……武装しておらず戒律も破らず、高い徳を積んでいる僧たちも叡山には大勢いる……はずじゃ」
豪盛は語尾を濁す。彼にとって、その種の高僧は説教くさい存在で、あまり関わりたくない相手だった。
だが信奈の次の一言は、その豪盛をも戦慄させる。
「長年にわたって、あんたたちみたいな僧兵の横暴や風紀の乱れを見過ごしてきたのだから──そいつらも同罪だわ!」
「き、貴様……神仏をおそれぬのか! なんという罰当たりな小娘よ!」
「違うわ!」
信奈は一歩踏み込み、扇を豪盛の胸に突きつける。
「わたしがおそれないのは、神や仏を錦の御旗に掲げ、その陰に隠れて偽善や悪をなす卑劣な人間どもよ!
そんな奴らに罰をくだしたところで、神仏がもしあるとしても、このわたしに祟るはずがない!」
「ぐぬぬ……これだから神仏も学問も理解できぬ小娘は……」
豪盛は唸り声をあげ、顔を歪めた。
信奈はそこで、第三の条件を突きつける。
「それと、最後の条件よ。これが一番大事。絶対に譲れないわ」
「まだあるのかっ!? なんと厚かましい……三つ目の条件はなんじゃ?」
「和睦の調印を行う場所は──叡山の根本中堂! わたし自身が直接、叡山に乗り込んで印を押すわ」
その瞬間、豪盛の顔色が変わった。
「それだけは絶対にならんぞおおおッ!!!」
彼は立ち上がり、割れ鐘のような怒声を響かせる。
「ふざけるな、小娘! この南蛮かぶれの罰当たり者が!
根本中堂は〝不滅の法灯〟を守り続ける聖堂なのじゃあああ!
叡山にとっての心の臓にあたる、もっとも尊い場所なのじゃあああ!
女人を入れるわけには絶対にいかんのじゃああああ!」
陣幕内の空気が一気に冷え込み、双方の視線が激しくぶつかり合う。
──交渉は、決裂した。