織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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叡山騒乱

「どうするんだよ? あとちょっとだったのに」

良晴が、苛立ちを隠さず信奈を睨む。

「俺か刃がお前のかわりに印を押してくればいいんじゃねえのか?」

 

「うるさいわね、サル!」

信奈は勢いよく振り返り、扇で良晴の額を軽く叩いた。

「あんたのような男にはわからないでしょうけど、この南蛮文化の新時代に〝女人禁制〟だのなんだの──ほんっっとに時代遅れでむかつくのよ!

あの荒法師の『姫武将だらけじゃ。このあたりの空気は実に穢れておるわ』と言いたげな尊大な態度を見ているうちに、だんだん腹が立ってきて……ついつい、あんな条件を追加しちゃったの! しょうがないでしょっ!」

 

「……お前、うっかり追加しちまったのかよ!?」

良晴は頭を抱え、わざと大げさに天を仰ぐ。

「いいかげんにしてくれよ! これじゃあ〝金ヶ崎の退き口〟での苦労が台無しだろーがっ!」

 

「はあ? 〝金ヶ崎の退き口〟で一番苦労したのは──あんたじゃなくて、あんたとしんがり五百人を守りながら戦った刃でしょうが!」

信奈は腰に手を当て、睨み返す。

「あんたの手柄みたいに言わないでくれる!?」

 

そのやり取りのすぐそばで、豪盛はどっかとあぐらをかき、酒臭い笑いを響かせていた。

「山の掟により、女人を根本中堂に入れることだけはできぬ。不服ならば、拙僧の首をこの場で刎ねるがよい。

……もっとも、追い詰められている貴様らには、どうせできはせんがな。ぐはははは!」

 

挑発的な言葉を吐きながらも、豪盛はその場から動こうともしない。まるで、交渉の場を自分の庭だとでも言いたげな態度だった。

 

そんな中、信奈と良晴は久々に真正面から火花を散らす。

長秀はそんな二人を見て、小さくため息をつく。

「姫のお気持ちにはまったく同感ですが、交渉決裂ですべては台無し。八点です」

 

「尊い叡山のお坊さまたちともあろうものが、今時女人禁制などと、私たち女の子をバカにしているです。そもそもいったん武装を解除させても今後も女人禁制の掟を押し通されるなら、叡山はいつまた敵に回るかわからないです。やはり焼きましょう、です」

 

「実際、叡山が掲げる女人禁制の掟を浅井さまと朝倉さまにうまく利用されたわけですからね。その掟を壊さない限りは、叡山は今後も反織田勢の拠点となるでしょう……でも、だからといって焼いてはいけません。イワシさんやアジさんじゃないんですから……くすん、くすん」

 

「あのお坊さまも、そうとうに強情なお方みたいです~」

元康は、困ったように眉を寄せ、扇をぱたぱたと動かしながら肩をすくめる。

「吉姉さまが異常なほどに強情なのは周知の通りですし~……これでは岩と岩で押し合いをしているようなものです~。困りましたね~」

 

次いで、宗久が落ち着き払った口調で口を開く。

「商人の間では〝損して得取れ〟と申します。ここは何をおいても、とりあえず和睦を成立させることが肝要。……最後に出した条件は、さすがに余計でございましょうな」

彼の言葉は穏やかだが、目の奥には“これ以上こじらせれば全滅だ”という商人特有の冷徹な算盤勘定が透けて見えた。

 

そこにフロイスが、心底不思議そうに身を乗り出してくる。

「ヨーロッパでもジパングでも、なぜ宗教界では女人は罪深いとされるのでしょうか? やはり、女の子におっぱいがついているのがいけないのでしょうか?」

彼はそこでわざとらしく自分の胸元を押さえ、震えた声を続けた。

「ゴーセイさまがわたしの胸をちらりと見たあの視線……〝悪鬼羅刹の使いじゃ!〟とでも言いたげな、すさまじい恐れと憎しみがこもっておりました……しくしくしく……」

 

久秀は薄く笑みを浮かべ、扇を口元にあてがいながら冷ややかに言い放つ。

「まともに女も知らぬくせに、女を小馬鹿にしている糞坊主など、生きる値打ちもございませんわ。……面倒ですから、わたくしがさくっと毒殺して差し上げましょうか、うふふ」

 

「……あ、あ、あたしはなにがどーなってるのか、さっぱりわからないんだけど……」

勝家は戸惑いと緊張が入り混じった顔で両手をわたわたさせ、視線をあちこちさまよわせる。

「みんな、さっきからいったい何を揉めてるの? あ、あう、あうあうあう……」

 

場の空気は重く、妙な湿り気を帯びていた。

なにしろ──豪盛は姫武将たちを異様なまでに警戒しており、久秀が得意とする色香を使った籠絡術などまるで歯が立たない。

 

戦国ゲームの知識では無双のはずの良晴ですら、「女人禁制」と正面から突きつけられれば、何も妙案が浮かばない。

根っからの女好きで、この世からかわいい女の子と胸の大きな女の子が消えたら一日たりとも生きていけそうにない相良良晴にとって──

「女の子は不浄だから入山禁止」などという古めかしい考え方は、理解を超えた別世界の論理だった。

 

刃は考え方は人それぞれだと割り切っているが、それが信奈の歩みを阻むとなれば話は別だ。

今すぐ道を斬り開きたい衝動に駆られるが、負傷と疲労で限界の体はそれを許さない。

 

世に生まれてくること三百年は早すぎた合理主義者の信奈は、叡山の武装解除とともに女人禁制の掟も叩き潰さなければ気がすまないらしい。

信奈の紅い瞳の奥に、すでに“戦”の火がくすぶっているのがわかった。

 

「そ、そうだ!」

ふと勝家が、稲妻のようにひらめいた顔で叫ぶ。

「豪盛の野郎が女嫌いなのがまずいってんなら、あたしたち織田家の美少女軍団でたっくさん接待して、女嫌いを改めてもらうってのはどーかなっ?」

 

勝家が愚策を捻りだし、場が一瞬ざわつく。

良晴の目が、ぎらりと輝いた。

「そりゃいい!」と両手を叩き、興奮気味にまくし立てる。

「全員バニーさんと巫女さんとメイドさんのコスプレであの坊さんを接待だ! ああ、想像するだけで……くっ、ついでに俺も目の保養!」

 

良晴は両腕を小刻みに上下させて、小躍りしながらニヤニヤと妄想の世界に没入していく。

──しかし、その時、不意に背筋に氷を押し当てられたような感覚が走った。

彼の脳裏で、警鐘がガンガンと鳴り響く。

(……やべ、これ……絶対、言っちゃいけないやつだ……!)

 

案の定、その場の空気を切り裂くような低い声が、背後から落ちてきた。

 

「……勝家、良晴」

 

二人の名前が、凍てつく刃物のような響きで呼ばれる。

ゆっくりと振り返ると──刃が、片膝をついたままこちらを見据えていた。

紅い瞳は炎のように揺れ、そこに潜む冷たい光は、あらゆる言い訳を焼き尽くす。

 

「姫様たちに……何をやらせるつもりだ?」

言葉は淡々としている。だが、耳の奥で金属が軋むような音がするほど、重く、鋭い。

 

良晴は思わず背筋を伸ばし、勝家も無意識に足を揃える。

刃の視線は二人を一瞬で縫い止め、その口元が、ほんのわずかだが不機嫌に歪んだ。

 

「接待……あれの? ……姫様たちが汚れるだろうが」

その言葉とともに、周囲の温度が一気に下がったような錯覚が走る。

勝家の喉が、ごくりと鳴った。

 

刃は、紅い瞳を細めてさらに言葉を続ける。

「やるにしても──勝家と久秀、元康でやれ」

「……は?」と勝家が情けない声を漏らす。

「姫様、長秀、半兵衛、光秀を巻き込むな」

 

最後に吐き捨てるような一言が落ちた。

「……斬るぞ?」

 

その瞬間、空気がぴんと張り詰め、誰もが息を呑んだ。

勝家も良晴も、慌てて両手をぶんぶん振って否定する。

「ち、ちがう! そんなつもりじゃ──」

「そうそう! 冗談だって! なっ、勝家!?」

「う、うん!」

 

「六!」

信奈が鋭く言い放つ。

「色仕掛けで天下を盗ろうだなんて、それこそ姫武将の評判が下がっちゃうじゃない!」

 

「うあああ……ごめんなさい、ごめんなさい姫さまっ!」

勝家は耳まで真っ赤にして、畳に額をこすりつける勢いで土下座した。

「そそそ、そこまで過激なことを言ったつもりはなかったんですぅ~!」

 

そしてついに、良晴が両手を上げてギブアップ。

「……ダメだ、女人禁制どーのこーのはもうあきらめてくれ信奈! たぶん明治時代になれば禁制は解けるはずだから!」

 

「明治い? いつの時代なのよそれって!?」

信奈の眉がぴくりと上がる。

「そうだなあ……今から三百年くらい後かな?」

 

「はあ? バカじゃないの? わたしに三百年も待てっての?わたしは今すぐ禁制を叩き潰さなきゃ、むかついて仕方がないのよ!」

 

「うわあ、やぶ蛇になっちまったあ!?」

良晴が頭を抱えた瞬間──。

 

 じっと座っていたはずの正覚院豪盛が、ずしりと畳を軋ませながら立ち上がった。

 その動きには、長く座していた者特有の重みと、これ以上この場に留まる気はないという意思の強さがにじんでいる。

 

 山門を背負う僧兵頭領の視線は鋭く、冷たい。

 しょせんは包囲網に追いつめられている姫武将たち。ここで突き放すように脅せば、慌てて自分に従うだろう――そんな傲慢な自信が、その顔にありありと刻まれていた。

 

「ぐはははは!」

 太い声が、障子越しに外の空気まで震わせる。

「そろそろ拙僧は帰らせていただこう! 女人禁制の掟を破るくらいならば、全山残らず灰となったほうがマシというもの! いくらでも攻め寄せてくるがよい!」

 

その時だった。

 

 意外な人物――南蛮渡来の宣教師少女、ルイズ・フロイスが、ほとんど飛びかかるように豪盛の袖をがっしと掴んだ。

「待ってください! ノブナさまと今一度、お話し合いを! このままでは、エイザンは……!」

 

「ぬおおおお!? 南蛮邪宗門のパードレ!?」

 豪盛の目が見開かれ、直後に顔が引きつる。

「しかも、このおぞましいほどにでかい胸は……ええい触るな、拙僧に触るでない! 法力が、法力が奪われるううう!」

 

 巨体がのけぞり、袖を必死に振りほどこうともがく。

 その額からは尋常でない量の脂汗がだらだらと滴り、畳に黒い染みを作っていく。

 フロイスは必死に食い下がるが、豪盛の反応はまるで火のついた猫のように過剰だ。

 

 これでは逆効果――信奈は唇を噛み、あきらめかけた。

 

(……もう駄目ね。ここまでか)

 

 しかし、その刹那――。

 

「おーっほっほっほっほっほ!」

 妙に芝居がかった、しかし耳をつんざくほど大きな笑い声が場を切り裂いた。

「信奈さん? ずいぶんとお困りのご様子。こういう時には、征夷大将軍であるこのわ・ら・わにお頼りなさい!」

 

 振り返れば、誰もがその存在を完全に忘れていた人物が、やけに派手な輿に乗って現れていた。

 巫女服の一団がその輿を担ぎ、まるで天下人の行列のように堂々と入ってくる。

 

 征夷大将軍・今川義元――。

 

 信奈の表情が、明らかに不機嫌さを増す。

「ハア? あんた、いつの間にか一人称が〝わたくし〟から〝わらわ〟に戻ってるわよ? わたしに降参した捕虜のくせして、なに調子こいてんのよ」

 

「あらあらまあまあ。征夷大将軍ともなれば、偉そうな一人称に戻すのが当然ですわ!」

 義元は涼しい顔で扇をひらひらとあおぎ、胸を張る。

「むしろ、わらわは一人称に〝朕〟を使いたいくらいですのよ? そこを姫巫女さまに遠慮して〝わらわ〟で我慢してさしあげているのですわ!」

 

「いいから帰りなさいよ。わたしたちは忙しいの。お呼びじゃないのよ」

「まあまあ、信奈さん。世は持ちつ持たれつと申しますわ」

 義元はわざと一拍置き、ゆっくりと言葉を区切った。

「このたびは征夷大将軍のい・ま・が・わ! この今川義元が、やまと御所の姫巫女さまに直談判させていただき、和睦の御綸旨をいただいて来てさしあげますわ!」

 

「敬語の使い方が滅茶苦茶なのよ!」

 

 だが、その瞬間――。

「それだ! 姫巫女さまの御綸旨だ、それしかない!」と良晴が勢いよく膝を打った。

 光秀も真顔でうなずき、「この際、今川義元というよれよれの藁にもすがらねばならないです」と相づちを打つ。

 

 丹羽長秀がくすりと笑い、「使者の人選が微妙ですが、八十点です」と冷静に評価した。

 

 信奈は一瞬迷い、しかし決断を下す。

「しょうがないわねえ……いまいち期待できないけど」

 

「大船に乗ったつもりでお待ちあそばせ!」

 義元は輿の上から胸を反らし、舞台役者のように高らかに宣言する。

「このわらわの神がかった外交能力を駆使しまして、さくっと御綸旨をいただいて参りますわ! おーほっほっほっほっほ!」

 

 ――この場で、その言葉を本気で信じているのは、今川義元ただ一人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 やまと御所──。

 

「なんじゃと!? あの駿河のお飾り公方と、死神が! 約束もなく、いきなり御所をたずねてきたとな!?」

 

 早朝、邸宅から慌てて御所へ駆けつけた関白・近衛前久は、あまりの報せに目を白黒させた。

 その顔色は、驚きと焦りが入り混じった青白さだ。

 

 そう、この男こそが陰で六角・三好らを糾合し、反織田包囲網を結成させた張本人であった。

 この日の朝も、彼は上座に胡座をかきながら、信奈打倒のための新たな謀を練っていた。

 

 浅井久政が突如として織田家との同盟を破棄したのも、元をたどれば前久の差し金。

 「織田信奈は、この国から身分制度をなくし、やまと御所も姫巫女さまも滅ぼしてしまわんと麻呂を脅してきたでおじゃる!」

 そんな「噓・大げさ・まぎらわしい」三拍子そろった怪文書を送りつけ、久政の恐怖心をあおったのである。

 

 叡山延暦寺を動かす時も、手口は同じだった。

 御所と縁戚関係にある寺社に「織田の魔手が御所を狙っている」と吹き込み、女人禁制の名目で信奈軍を封じ込めさせたのだ。

 

 さらに、一度は織田に敗れた六角・三好ら諸勢力にも、「織田軍が叡山に釘づけになっている間に所領を回復せよ」と立て続けに密書を送り、再起を促していた。

 

 ――すべては、この朝までは順調だったのだ。

 

 しかし、誤算がひとつ。

 杉谷善住坊――あの忍びが、またしても信奈暗殺に失敗したのである。

 やつさえ成功していれば、今ごろ織田家は四散していたはずでおじゃるに!

 しかも、失敗の上に勝手に姿を消すとは……やはり忍びなど、信用する麻呂が愚かだったでおじゃる!

 

 前久は御所の廊下を駆けながら、心中で毒づく。

 

「いかんでおじゃる……いかんでおじゃる……! 姫巫女さまはどういうわけか、死神と織田信奈をいたくお気に入りでおじゃる。あの駿河のお飾り公方に会わせてはならぬ……!」

 

 しかし、御所の門をくぐった時には、すでに遅かった。

 

 御簾の奥から、妙に耳に残る、耳障りなほど高くカン高い笑い声が響く。

「おーっほっほっほっほっ! それではさっそく和睦の御綸旨をいただけるのですわね! さすがは姫巫女さまですわ!」

 

 どう聞いても姫巫女の声ではない。

 案の定、今川義元であった。

 

 姫巫女は小柄な体をぴんと伸ばし、静かな声で答える。

「えいざんの……てんだいざすをつとめる……あにには、ちん……じきじきにはなしをしよう」

 

「まあまあ。おそれおおくも姫巫女さまにそこまでしていただけるなんて……この征夷大将軍・今川義元、有り難き幸せですわ!」

 義元はますます気を良くし、両袖を広げて得意げにお辞儀する。

 

「おだだんじょうのぐあいは、どうじゃ?」

「それはもう、ぴんぴんしておりますわ! 一時は怒りのままに『叡山焼き討ち』などと仰っておりましたけれど……金ヶ崎から天城刃が戻ってくると、まるで憑き物が落ちたように目を覚まし、いつもの信奈さんに戻られましたのよ!」

 

「そうか……あまぎはやても、ぶじか」

 姫巫女の声色には、押し隠しきれぬ喜びと安堵が滲む。その瞳がほんのり細められ、紅を帯びた唇が微かに緩む。

 

近衛前久は、そのやり取りを聞きながら、じわりと嫌な汗が額に浮かんだ。

くらり……とめまいがする。

 

今川義元は、これ以上はないほど派手に着飾り、金糸の小袖に宝石の簪、そして黄金の扇子を手に、八つ橋をもぐもぐと頬張っている。

御簾越しとはいえ、姫巫女さまの御前でこの有様。

 

近衛前久は額に青筋を浮かべ、思わず声を上げた。

「ま、待つでおじゃる!」

 

義元が、ぱたりと扇子を閉じ、涼やかな笑みを浮かべる。

「あらあら、関白さんでしたっけ? まあまあ、白塗りに描き眉にお歯黒……見事な麻呂っぷりですこと。さすが本家本元は違いますわね、おーっほほほほ!」

 

「う、うるさいでおじゃる!」

前久は唇を噛みしめた。

(この駿河のバカ娘……関白よりも将軍のほうが偉いと本気で信じておるでおじゃる! いや、下手をすれば姫巫女さまと将軍が同格だと勘違いしているでおじゃる!)

 

頭の中で警鐘が鳴り響く。

(これでは麻呂がいくら説教を垂れようとも、すべて「おーっほほほほ」と笑い飛ばされて終わりでおじゃる! なんという最悪の使者を送り込んでくるでおじゃる!織田信奈め!)

 

ここは英明な姫巫女さまをご説得させていただくしかないでおじゃる!

「姫巫女さま、浅井朝倉家と織田家の和睦をとりまとめる件はともかく、叡山の女人禁制の掟だけは破ってはならぬでおじゃる! 京の鬼門を守護する叡山の面目が丸潰れでおじゃる!」

 

「なぜじゃ、このえ」

御簾の向こうから、幼い姫巫女が不思議そうな声でたずねてきた。

 

「叡山と高野山が女人禁制と定められたのは、今よりおよそ八百年の昔、平城京の時代のことでおじゃる。八百年の伝統なのでおじゃる。それを壊すは、日ノ本の神事を司ってきたやまと御所と姫巫女さまの権威を失墜させるのも同然でおじゃる!」  

 

霊山における女人禁制の掟は平城京の時代、『養老律令』によって定められたのでおじゃる。決して女人を蔑視しているのではなくあくまでも仏教の戒律を守るためでおじゃる……と前久はとくとくと説明した。

 

「このえ。『ようろうりつりょう』では、おのこのてらにおける『にょにんきんせい』と、あまでらにおける『だんしきんせい』を、ともにさだめていたときく。ならば『だんしきんせい』のおきてのほうだけがすたれ、『にょにんきんせい』のおきてだけが、のこっているのはおかしい」

 

前久は、「あう、あう、あうでおじゃる」と身をよじらせた。

もともと約八百年前に『養老律令』が制定された際には、日本の仏教界は男寺と尼寺の二種類の寺院から成り立っていた。

 

仏教にはもともと「男女の僧は性的に交わってはならない」という厳しい戒律があったので、日ノ本の神事を司るやまと御所は男寺への女性の立ち入りと、尼寺への男性の立ち入りをともに禁じたのだった。

ところがこの国では尼寺は時代とともにすたれたため、「男子禁制」の掟のほうは忘れられていった。

そして「女人禁制」の掟だけが、仏教伝来以前の霊山信仰と結びついて、もともとの制定理由も忘れられたままに残っていったのである。 (ままままさか、幼い姫巫女さまがかような故事をご存じだとは……)  

 

 前久が「いやしかし女人は不浄と、いにしえより言われているのでおじゃる……」と、苦し紛れに口にした瞬間だった。

 御簾の奥から、鈴の音のように澄んだ笑い声がふっと漏れる。

 

「このえ。にょにんがふじょうであるから、えいざんにはいれぬというのならば……ちんがえいざんにはいっても、えいざんをけがすことになるのであろうか?」

 

 その問いは幼い声音でありながら、まるで鋭い刃で前久の言葉を真っ二つに断ち切ったかのようだった。

 場の空気がぴたりと凍りつく。

 

「は、はうっ!? そそそ、そのようなことはござりませぬでおじゃる! 尊き姫巫女さまを不浄などと申す者には……必ずや神罰がくだるでおじゃるー!」

 前久は腰を引きながら、全力で手を振って否定する。白塗りの額からは大粒の冷や汗が垂れ、描き眉に溜まって黒く滲む。

 

「ならば、にょにんきんせいのおきては……あくまでも、そうりょがじぶんのかいりつをまもるためのものにすぎぬ、ということじゃな?」

 

「……そ、そ、その通りでおじゃります~!」

 前久はすっかり腰を折り、頭を床に擦りつけるようにして平伏するしかなかった。

 

 しかし姫巫女の追撃は止まらない。

「そもそも、やまににょにんがはいってきたくらいで、かいりつをやぶってしまうようなそうりょであれば……それは、そのそうりょのしゅぎょうぶそくにすぎぬ。にょにんには、つみなどない。そうではないか?」

(なんという賢きお方。もはや麻呂は反論できないでおじゃる!)  前久は、ついに抵抗を諦めた。

 

その沈黙を見計らったかのように、義元が黄金の扇をぱんと鳴らす。

「おーっほっほっほっ! 文句はありませんわね、関白さん? それではこのい・ま・が・わ・よ・し・も・とが、姫巫女さまに成り代わり――叡山の根本中堂にて、盛大に和睦の儀式を執り行わせていただきますわ!」

今川義元のカン高い笑い声に続き、姫巫女の言葉。

 

「おだだんじょうに、つたえてほしい。ゆめは、ただひとりでみるものではない。あまぎはやてたちをたいせつにせよ、と」

「ええ、ええ。お言葉の意味はよくわかりませんけど、御意ですわ!」

この時。

(またしても窮地を脱したか織田信奈……かくなる上は、さらなる強敵を召喚するしかないでおじゃる)

と近衛前久が内心新たな悪謀を企てはじめていることを、御簾の向こう側に鎮座している姫巫女は知ることができなかった。

いや、そもそも公家たちはそのために御簾を設けているのだ。

 

 

 

 

 

十二月十三日。

 

 季節はすでに冬本番。

 叡山の山道は一面、白銀の衣をまとっていた。

 枝も幹も屋根も、すべてが雪に覆われ、踏みしめるたびにぎゅっ、ぎゅっと乾いた雪鳴りが響く。冷えた空気は澄み渡り、吐く息は白く、すぐに空へ溶けていった。

 

 その静寂を破るように、色鮮やかな陣羽織や甲冑に身を包んだ一団が、堂々と山道を登ってくる。

 八百年もの女人禁制という掟を突破した――誇らしげで、どこか挑発的な足取りだった。

 

「見晴らしいいわねー! ちょっと寒いけど、登ってきた甲斐があったわね!」

 先頭を行く織田信奈が、雪景色の向こうに広がる京の町並みを見下ろし、口元をほころばせる。

 

「叡山より眺める京の町並みは……九十五点です」

 丹羽長秀が淡々と評価を下す。その声音は冷静だが、瞳の奥に確かな満足が光っていた。

 

「おーほっほっほっほ! いいですか信奈さん?

 このわ・ら・わが姫巫女さまから御綸旨をいただいて参りましたのよ? 二条城に金のしゃちほこを飾らせていただけるかしら?」

 真紅の直垂に金糸をふんだんにあしらった今川義元が、扇子で口元を隠しながらも得意満面。

 

「義元さま義元さま。まだ浅井朝倉との戦いが終わってもいないのに、それは完全な無駄遣いです~」

 松平元康がやれやれと首を振る。

 

「あらあら元康さん。でしたら、銀のしゃちほこで我慢してあげてもかまいませんわよ?」

 義元は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

 

「天城先輩、速度は大丈夫です?」

 明智光秀が、歩幅を合わせ肩を貸す。

 

「ああ、大丈夫だ。すまんな光秀」

 刃は頷く。雪を踏みしめるたび、裂けた袴の間から赤黒い血の痕が覗いた。

 

「やれやれ。一時はどうなることかと思ったぜ」

 良晴が肩をすくめる。

 

「くすんくすん」

半兵衛の視線は刃の歩みに釘付けだった。

 

 織田信奈と、そのかしましい家臣団。

 ほとんどが姫武将という華やかな隊列の中に、天城刃と相良良晴も交じっている。

 

「見て見て! サルの親子がいるわよ! あんたの仲間かしらね」

 信奈が木の枝にぶら下がる二匹のニホンザルを顎で示す。

 

「うるせえ。あれはニホンザルだ」

 良晴が即座に言い返し、家臣たちの笑いが雪道にこだました。

 

 そうして大騒ぎのまま、一行は根本中堂へ到着する。

 雪に包まれた巨大な堂宇を、浅井朝倉の足軽たちがぐるりと取り巻き、鋭い視線で見張っていた。

 

「……あ、あれが織田家の姫ぎみ……き……綺麗なお方やなあ……」

「柴田勝家に丹羽長秀、明智光秀……揃いも揃って、凄いべっぴんさんや」

 

「あのサルと天の白刃は許せん! あんな綺麗どころの中に交じって、うらやましい!」

「けしからん! 神仏への冒涜だ!」

「相良良晴! 天城刃! 必ずや戦場にて討ち取ってくれるわ!」

 足軽たちが口々にどよめき、槍の柄をぎゅっと握りしめる。

 

 やまと御所からの御綸旨によって、しぶしぶ武器を捨てさせられた僧兵たちも、目を奪われていた。

 

「な、なんと香しく艶やかな姫武将たちか!」

「若く、美しく、気高く……まばゆいばかりじゃ……」

「現世も捨てたものではないな……いや、むしろ下界こそが極楽浄土なのかもしれん」

「……拙僧、還俗しようかな、でござる」

 

 しかし――その視線の端に、ふたりの異物が映る。

 

「約二匹、サルが交じっておるのが許せんが」

「死ね! 死んでしまえ、相良良晴! 天城刃!」

 

良晴はその異様な空気を肌で感じ、背筋をぞわりと震わせた。

 

「なんで、刃だけじゃなくて俺も憎まれてるんだ!? 憎むなら刃だろ!?」

必死に抗議の声を上げるが、返ってくるのは冷たい視線ばかり。

 

刃も眉をひそめて一言。

「……何で俺なんだ?」

 

しかし、周囲の答えは簡潔かつ残酷だった。

 

「お前は……一番“そこにいてはいけない顔”だからだ!」

「場違い感が腹立たしい!」

「美女の行列の中にサルが混じってるだけで、景観を損なう!」

「天の白刃はまだ許せる。武勇と美貌で納得できる。だが貴様は何だ!? ただのサルではないか!」

 

周囲の僧兵たちはなおも手を合わせ、姫武将たちを拝みながらも――二人に向ける殺気だけは、雪よりも冷たく、火よりも熱かった。

 

すでに浅井久政と朝倉義景は、和睦証書に印を押し終えていた。

残るは織田信奈が印を押すだけ――そう誰もが思っていた、その時である。

 

根本中堂の荘厳な山門前。

吹きすさぶ寒風と舞い散る粉雪の中、その道を塞ぐ二つの影が現れた。

 

一人は、白装束に朱の縫い取りを施した狩衣姿の少年。

透き通るような肌と細い目元に浮かぶのは、冷ややかな優越感。若狭の少年陰陽師、土御門久脩。

 

もう一人は、肩幅も腰回りも異様にがっしりとした巨躯の僧。

金棒を片手に持ち、頭頂から吹雪も弾き飛ばしそうな勢いで高笑いを轟かせる叡山の怪僧、正覚院豪盛。

 

「がはははははは! ひっかかったな、織田信奈!」

豪盛が金棒をぐるりと振り回し、門前の雪を大きく抉った。

 

「なによ、あんたたち。わたしたちは和睦しに来たのよ。姫巫女さまの御綸旨を無視してまで、まだ戦うつもり?」

信奈が鋭い目を向ける。

 

「すでに浅井・朝倉両家は御綸旨を受け入れ、印も押しておるわ」

豪盛はにやりと笑うと、金棒を肩に担ぎ直し、

「そして拙僧は約定通り、土御門どのを引き渡しに参った……ただし――」

 

ゴウ、と吹雪の中で笑みが歪んだ。

「引き渡しはするが、その後のことまでは約束しておらなんだのう! うわはははは!」

 

その言葉に合わせて、隣の久脩が扇子をゆったりと開く。

白く細い指先が雪を払い、紅い扇面に描かれた桔梗紋がぞっとするほど鮮やかに映える。

 

「そうとも。このボクは、キミたちに降伏するとは一言も言っていない」

薄く笑ったその顔は、凍てつく山風より冷たい。

「ここで、キミたちを倒すつもりだよ」

 

「さあ土御門どの!」

豪盛が大声で呼ばわる。

「禁制の掟を破った女人どもへの、お仕置きを――お願いいたす!」

 

信奈の眉がはね上がった。

「ずっこい糞坊主ね! 卑劣です! 御綸旨を無視するなんて言語道断よ!」

怒声は烈火の如く。家臣たちの間にも怒号が響く。

 

だが久脩は、信奈の怒気をまるで心地よい音楽のように受け流し、口角をさらに吊り上げた。

 

「ふふん……叡山は素晴らしい場所だ」

その声は山門の天井に反響し、冷えた空気に染み渡る。

「京に流れ込んでいる大龍脈から立ちのぼる『気』を、思う存分吸収できる――日本有数の龍穴地帯だよ」

 

久脩は白い息を吐きながら、周囲を見回した。

「ボクが操る式神どもの力は、若狭での十倍……いや、二十倍にはなっている」

そして、人混みの奥を射抜くような視線を向ける。

「……竹中半兵衛はいるかい?」

 

「わたしです」

小柄な子馬に跨がった半兵衛が、とっとことっとこ雪道を登りながら、おずおずと手を上げた。

 

「キミが“菩提山の臥龍”か。『今孔明』と呼ばれているそうだが――」

久脩はわざと鼻で笑う。

「しょせんは傍流の田舎陰陽師。翻ってこのボクは、始祖・安倍晴明公に連なる名門、土御門家の当主だ。どちらの術が上か、勝負しようじゃないか」

 

半兵衛の瞳が、ぎゅっと細められる。

「土御門さま。ようやく、金ヶ崎であなたが用いたからくりがわかりました」

雪を踏みしめ、半兵衛は一歩前へ。

「やはりあなたは、台密の呪術者たちに命じて叡山の『気』を龍脈に流し込み、式神たちに供給していたのですね!」

 

「おや……」

久脩が感心したように扇子をパタンと閉じる。

「さすがは今の時代を生きる竹中半兵衛だ。あの前鬼くんとは違う」

 

半兵衛は構わず続ける。

「ただ一人の術士が陰陽道で膨大な『気』を遠くへ送ることはできません。しかし、大勢の僧と“不滅の法灯”の力を束ねる叡山の台密なら、それが可能になる」

 

久脩はゆっくりとうなずく。

「その通り。土御門と叡山――相容れぬはずの両者が手を組んだ。ボクは叡山から送られてくる『気』を、その時もっとも近い龍穴から受け取り、式神どもにたっぷりと供給していたのさ」

 

久脩の声は誇らしげで、それがまた癪に障る。

しかし――次の言葉はわずかに悔しげだった。

「……ただ、二つの呪法を同時に行った結果、織田信奈も天城刃も結局は殺せなかった。……いや、仮に調伏相手を織田信奈一人に絞ったとしても、天城刃がいる限りは無駄だっただろうけどね」

 

久脩はわざと刃の名を強く吐き出すように言い、その瞳を紅い瞳へと向ける。

 

「死の淵にいながら、織田信奈の『気』を、自分の『気』で守り続けるなんて――正気の沙汰じゃない……まぁ、そのおかげで織田信奈は生き延びたんだけどね」

 

「叡山の台密が用いるその術は、本来は京の都に不足した『気』を送るための術です。低級霊たちを式神として使役するために利用するとは、邪にも程があります!」

 

前鬼が読んだように、現地供給では、あれほどの式神の大群を維持できるはずがない。

真の供給源は、叡山だったのだ。

叡山は、数百年にわたって京の都に『気』を送り続けてきた畿内随一の大龍穴地帯である。

 

若狭から近江へかけての山中に点在する、涸れ果てつつあった龍穴や磐座に、叡山から台密の術を用いて僧たちが『気』を流し込んでいたのだ。

しかしこれは、陰陽道における禁じ手であった。

 

「ずいぶんと無茶な法力を用いさせたから、僧侶が何人か死んだらしいけれどもね」

半兵衛は、珍しく眉をつりあげて怒っていた。

 

「なんてことを。強引に地脈をかき乱してもしも地龍を刺激し目覚めさせたら、天地を激震させてしまうんですよ! それでもあなたは陰陽師の総帥たる土御門家当主ですか! 地龍を鎮めるべき役目の者が、人間同士の合戦に勝利し刃さんを殺めるためだけに、地龍を目覚めさせかねない禁じ手を用いるだなんて……あなたのやったことは許されません!」

 

土御門久脩の薄笑いが、雪の匂いを含んだ冷たい風の中で不気味に響く。

その挑発的な声音は、あたかも自分こそが天地の理を操る覇者だと信じて疑わぬ者のものだった。

 

「ふん。激震などなかったのだから、もうそれでいいじゃないか。さあ。今この叡山でこうして二人の陰陽師が顔を合わせた以上、ようやくお互いに持てるすべての力を解き放って一対一の術勝負ができるというわけだ。二人の『気』は最高潮に充実している。言い訳なしの実力勝負だ。田舎陰陽師くん? ボクと勝負するのかい、しないのかい?」

 

「しつこいガキだなあ~!」

良晴たちが一斉に怒鳴り、地団駄を踏むように顔を歪める。

 

だが信奈だけは、半眼になって呆れたようにぽつり。

「……なに、この子供は」

その冷めきった口調が、逆に場の緊張感をいや増す。

 

「半兵衛、俺がやる。病み上がりなんだ、無理はさせられん」

刃の低い声。血で汚れた顔にも、主を守る意志は微塵も揺らいでいない。

 

「刃さんこそ、無理しないでください!」

半兵衛の声は、思いのほか強かった。

子馬の背からよたよたと降りると、小柄な身体を真っ直ぐに伸ばし、空気を切り裂くように告げる。

「……わかりました。勝負しましょう」

 

「は、半兵衛ちゃん! 危ないって!」

良晴が目を剥き、必死に引き止める。

「こいつの式神はとんでもねえ数だ! 以前より格段に手強くなってるはずだぞ!」

 

だが、半兵衛はゆるやかに首を振る。

「良晴さん、だいじょうぶです。おかげさまで体の具合もすっかり良くなりました。……だからこそ、清水寺で倒れてしまった借りを返す時なんです」

言葉とともに、胸の奥に燃える炎がにじみ出る。

 

(妙にやる気だ……)

良晴は戸惑いながらも、半兵衛の眼差しに宿る覚悟を感じ取っていた。

 

「でもな、半兵衛ちゃん……」

 

「ふふ。ほんとうに大丈夫ですから」

微笑みさえ浮かべ、半兵衛はきっぱりと言い切る。

「……刃さんを傷つけたんです。報いを受けてもらわないと」

 

その言葉に、刃の紅の瞳が細められる。

だが止めることはしない。ただ、その背で静かに息を吸い込んだ。

 

「さあ、臥龍くん。それでは勝負と行こうじゃないか」

土御門久脩が扇を翻すと同時に、天空に瘴気が渦を巻く。

 

――式神軍団、召喚。

 

紫黒の雲を裂き、無数の異形が姿を現した。

刃は光秀と信奈を背に庇う。

血に濡れ、刀もなく、満身創痍――それでもなお、その気迫は一歩も揺らがない。

殺気は、むしろ増していた。

 

出た出た! 化け物が出た! たいへんだああああ! と勝家が槍をかまえてじたばたと暴れるが、相手は空を舞う式神ども。

 

このままでは信奈たちは和睦の席上で壊滅──!?

しかし。

竹中半兵衛、いささかも慌てず、ただ一枚の護符を空へと放った。

 

「前鬼さん。お願いします」

「言われずとも」

狐顔の貴公子・前鬼が、土御門久脩の正面へと躍り出た。

 

「なんだ、また一匹ぽっちかい?無謀だね。いくら人の姿をした高級な式神であろうとも、たかが一匹ではボクの式神軍団には敵わないと思い知ったはずだろうに……式神一匹の力がそれぞれ強くなる叡山では、数が多ければ多いだけ急激に力が増大する。キミは足し算もできないのか。これはがっかりだなあ」

 

前鬼めがけて、すべての式神がいっせいに殺到してきた。

にたり、と前鬼が大口を開いて微笑んだ。

 

「あいにくだが──わが主は今、万全の体調となっておる。さらに叡山にて召喚された俺の力は、若狭での一千倍にはなるぞ」

 

「はったりだね。ボクよりも強い力を持った陰陽師は、始祖さま・安倍晴明公以外には存在しない。田舎陰陽師と半人半狐の式神などボクの敵ではないよ」

やれやれ、と前鬼は笑った。

 

「本来、土御門退治は後鬼の仕事なのだが。しかし金ヶ崎でまんまと一杯食わされたまま眠っているわけにもいくまい。よもや土御門家当主たる者が叡山の僧どもと手を組んで禁じ手を犯していようとは、この俺には読めなんだぞ。土御門家当主として、覚悟はできていような」

 

「覚悟するのはキミのほうじゃないのかい?」

久脩はあざ笑うように扇をひらめかせる。

「生前、何者だったかは知らないし興味もない。だが二度と式神の形を取れぬよう、こんどこそ五体を完全に吹き飛ばして蹴散らしてあげるよ」

 

「……ふむ」

前鬼の声音は、地を這うように重い。

「大地の龍脈とともに衰えたこの俺が、生前に等しい力を出せる場所は、この叡山と高野山しかあるまい。いい機会だ、小せがれ。貴様には“本物”との格の違いを教えてやろう」

 

「本物だって?」

久脩が目を細め、冷笑を浮かべる。

「なるほど。やはりキミは生前、陰陽師だったか。だが――どこの田舎の野良陰陽師だったのかな? 人の身体を失い、呪だけの存在となり、陰陽師に使役される立場に落ちぶれた者が、生きた当主をうらやんでいるのだろう。式神に堕ちた哀れなキミには、もう式神を召喚する力すら残っていない。人間に戻れるわけでもなく、生と死の狭間を彷徨うばかり。しかも、美濃の田舎陰陽師ごときと契約させられるとはな。…… さぞかし霊力の低い術士だったのだろうなあ。陰陽師の定めとは言え、虚しいね」

 

「そうだ」

前鬼の瞳が妖しく光り、鬼気を帯びた声が響く。

「式神を使役した陰陽師は死後、自らもまた呪となり式神とならねばならぬ。それがお前自身の未来だ」

 

「ハッ!」

久脩は鼻で笑い飛ばす。

「あいにくボクは、死後に呪となる運命を逃れる術を見つけている。ボクの誇りが、自分以外の陰陽師に仕えることを許さないのさ」

 

「おおかた、外道の術であろう。己の死後の運命に怯えているな、貴様」

 

「ふん」

久脩は腕を広げ、式神たちを従わせる。

「ボクほどの陰陽師ともなれば、仮に呪にされてしまったとしても契約できる術士などいない。お互いの霊力が釣り合わなければ、召喚した術士のほうが消し飛んでしまうからね。――キミとは違うんだよ」

 

そして声を張り上げる。

「さあ、大地へと還してあげるよ! こんどこそ!」

 

轟然。

無数の低級式神軍団が一斉に前鬼へ襲いかかる。

天地を震わせる咆哮とともに四方から前鬼を取り囲み、牙と爪をむき出しにする。

 

しかし、前鬼は一歩も動かない。

静かに、両の掌を胸の前で合わせ、低く呟いた。

 

「俺は特別でな。五体に『気』が満ちれば……強大な式神を召喚し、使役することができる」

 

「式神の二重召喚だって!?」

久脩が蒼白になる。

「馬鹿も休み休み言え! そんなことが式神ごときにできるはずが――」

 

「土御門よ」

前鬼の声は雷鳴のごとく轟いた。

「低級な怨霊や妖怪をいくらかき集めても、本物には敵わぬ。陰陽師とは、常にただ一人で天地の力と対峙する孤高の術者。己が救われたいなどという思いは許されぬ。無私であり、人々のために奉仕する者こそが真の陰陽師だ」

 

そして、眼を見開く。

「ひとたびその高みに立った術者は、如何なる術も習得し、神々すら取り込んで使役できる。仏教が生みだした菩薩や明神であろうとも――!」

 

「……はったりは結構!」

久脩が式神たちに命じる。

「行け! 食いちぎれ!」

 

四方八方から群れをなして突撃してくる式神軍団。

 

だが――。

 

前鬼は天を仰ぎ、静かに真言を唱え始めた。

 

「人であった時代の姿も心も忘れた、あさましき鬼ども……闇へ還るがよい」

 

低く、しかし天地を貫くような声で。

 

「オン・バサラ・ダルマ・キリ・ソワカ――」

 

空気が震え、空間そのものが歪む。

 

「千手観音よ、来たれ」

 

指を蒼天にかざし、呪文をひとたび唱えただけで──。

陰陽師と式神にしか見えない、無数の拳を繰りだし。

ばん!  どんっ!  しゅうっ……!  ぼひゅううぅ……!

式神どもを一匹残らず、瞬時に覆滅していた。

最強陰陽師の座を賭けた勝負は、ほんの一瞬で決着したのだ。

 

「……な……? そ、そんな……ば、バカな……!?」

土御門久脩の瞳が、怯えに揺らぐ。

彼の頭脳は理解を拒絶していた。

長年“最強”を誇り、いかなる陰陽師も越えられぬ壁と信じてきた自分の術式が――まるで赤子の戯れのごとく、たった一声で粉砕されたのだから。

 

「安倍晴明公の直系……日ノ本最強の陰陽師が……こ、こんな……」

久脩の喉が震え、言葉は途中で溶け落ちた。

 

前鬼は鼻で笑い、狐の瞳を細める。

「ふん。狐の霊力を糧に栄えた安倍家の血も、数百年の時を経れば衰えるもの。陰陽師の時代は、もう終わるのだ。わが主とともに、この俺が終わらせる」

 

その声音は、まるで滅びの宣告だった。

 

久脩の表情が一変する。

矜持も、名門の誇りも、支えてきた自負も、粉々に砕け散る。

代わりに浮かんだのは、幼子のような恐怖だけ。

 

「……まさか……あなたさまは……始祖……さま……!?」

 

狐の笑みを浮かべた前鬼が、愉快そうに牙を覗かせた。

「久脩よ。お前など、まだまだひよっこ。安倍晴明の末裔を名乗るなど十年早い。若狭で一から修行をやりなおして来るがいい」

 

その言葉を合図にしたかのように、久脩は叫び声を上げた。

「うわ……うわあああああああああああ!? ごめんなさいいいいっ!?」

そのまま失禁し、涙と鼻水を垂らしながら転がるように山道を駆け下る。

 

見えざる千手観音の拳が、なおも追いすがる。

「ボコボコボコボコボコボコ!」

空気を打ち破る連打音と共に、彼の背や頭に容赦なく拳が叩き込まれる。

鼻血をまき散らし、転がり落ちる久脩の姿はもはや陰陽師ではなく、ただの子供だった。

 

 

やがて、残された沈黙を破ったのは前鬼の低い声だった。

「……やれやれ。本来ならば命を奪うところだが、わが主の慈悲に感謝するがよい」

 

「ありがとうございます、前鬼さん!」

半兵衛が小さく頭を下げる。

「これで久脩さんも……もう刃さんを狙ったりはしないでしょう」

 

「うむ。半兵衛どの。そなたは、よい子だ」

前鬼の声音には、不思議な柔らかさが宿っていた。

 

信奈や光秀、良晴たちは呆然と立ち尽くしている。

「……なにが、起こったんだ……?」

「前鬼は、いったい……なにを……? なにも見えなかったぞ……」

 

前鬼は「こーん」と澄んだ声をひとつ残し、白煙とともに忽然と姿を消した。

その余韻がまだ漂う中で、場に残された者たちは口を噤み、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

――ただひとり、刃を除いて。

 

刃は半兵衛を横目に見やりながら、胸の奥で静かに思考を巡らせていた。

 

(……気の使い方か。覚えておいた方がいいかもしれんな)

 

その考えは決して軽いものではなかった。

戦場において、これまで幾度も死地を踏破してきた直感が、耳元で囁いている。

 

肩から脇腹にかけて、鋭い痛みが走る。

式神に裂かれた傷はまだ塞がらず、血の匂いが微かに鼻をついた。

だがそれ以上に、胸の奥に拭い難い不安が膨らんでいく。

 

(……何か、嫌な予感がする。やらねば後悔する。これはただの勘ではない。まるで、遠い未来からの“警鐘”のようだ。半兵衛の身に……何かが起こる。そんな気がしてならん)

 

刃は静かに瞳を閉じた。

 

(俺の勘はよく当たる。ならば今、この時から動くべきだ。万に一つの可能性でも、見過ごせば後悔する。半兵衛を失うなど、絶対に許さん。俺は……どんな力でも手に入れる。たとえこの身を削ることになろうとも)

 

紅の瞳がゆっくりと開かれる。

天城刃――無限の才を持つ覇王。

未来を射抜く双眸に宿る光は、運命すら捻じ伏せるという確信に満ちていた。

 

愛に飢え、孤独に耐えてきた獣は、己が愛する存在の不幸を決して良しとはしない。

だからこそ、どんな代償を払おうともさらなる力を求める。

この選択が正解であったと刃が知るのは、まだ先の話。

 

 

 

 

 

「そ、そんな、バカなああああああっ!? なぜあの土御門久脩が、かような子栗鼠の如き小娘に敗れたのじゃあ!?」

正覚院豪盛の絶叫は、もはや悲鳴だった。

 

最後の頼みの綱であった久脩が塵と消え、己は四方八方を信奈たちに取り囲まれる。

どれほど巨躯を誇ろうと、今や逃げ場はない。

 

「ぬおおおお! ついに根本中堂は女人どもに侵されてしまうのか! 無念じゃ! 観音菩薩さま、申し訳ありませぬ! なにとぞ、この女人どもに今すぐ、仏罰をお下しくだされええ! なにとぞ、なにとぞおおおおっ!もしも拙僧を憐れとおぼしめしならば、万策尽きた拙僧を女人どもの魔手からお救いくだされ~!」

 

身の危険を感じた豪盛は、小心にも得物の金棒を足下に落っことすと「あわわわわ」と巨大な体をぶるぶる震わせ、涙声になって吼えた。  実はヘタレだった豪盛を、ギロッとにらんでいる信奈たち姫武将軍団。

 

信奈たちの視線は、怒りに燃えていた。燃え上がっていた。

特に、豪盛との一騎打ちに勝てそうになるたびに叡山に逃げ込まれて歯ぎしりしてきた勝家。

そのすさまじい殺気がこもった姫武将たちの視線に気づいた豪盛は、慌てて咳払いし、

「こほん。それでは、拙僧はこれにて」

と、下卑たご愛嬌を振りまいてそそくさと立ち去ろうとした。

 

だが――。

 

ひゅん!

どんっ!

 

「ぐはああああっ!?」

信奈の華奢な足が、稲妻のごとく豪盛の脇腹へめり込んだ。

骨の軋む嫌な音が響き、巨体がくの字に折れる。

 

「誰が〝罰当たりな女人〟よ! わたしたちのどこが穢れているっていうのよ、この糞坊主!」

 

続けざま、光秀の叫びが鋭く重なる。

「その通りです! 和睦の席で卑劣にも私たちを暗殺しようとしたのはお前です! 御綸旨を踏みにじるなど、それでも叡山の僧ですか! 恥を知れです!」

 

ゴンッ!

グシャッ!

 

「ぎゃあああああああっ!?」

 

光秀の爪先が豪盛の股間を正確に蹴り抜いた。

鈍い衝撃音と共に、巨体が地を転げ回る。

その光景に、周囲の僧兵や浅井朝倉の足軽たち、良晴が一斉に顔を青ざめさせた。

 

「お、おい……やめてくれ……!」

「見てるだけで痛い……っ!」

無意識に全員が股間を両手で押さえ込み、震える。

 

とりわけ、かつて同じ一撃を味わった経験を持つ良晴は、顔を引きつらせながら豪盛へと同情の眼差しを向けずにはいられなかった。

(な、仲間だな……あの痛みは、男にしかわからねぇ……!)

 

豪盛は涙と涎をまき散らし、まるで丸められた団子のようにごろごろ転がり、ついには地に這いつくばった。

 

「お……お許しくだされ! 拙僧が間違っており申したあ~! かほどに強い女人さまがたが穢れているなどと、二度とたわけたことは申しませぬ! どうか命だけは!」

顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、巨体を土下座させる豪盛。

 

だがその必死の命乞いを、信奈たち姫武将軍団が容赦するはずもない。

 

「逃がすかあ、です~!」

光秀の瞳は怒りでギラギラと光り、すでに獲物を仕留める刃そのもの。

 

「みんな! こいつが二度と逆らえなくなるまで袋にするのよ!」

信奈が号令を下す。

 

「おーっほっほっほっほっ! わらわ、弓矢はからきしですが蹴鞠は得意ですのよ!」

義元は豪盛の頭をサッカーボールよろしく蹴り飛ばす。

 

「天下人の振る舞いとしては問題ですが、私の気分は満点です」

長秀が冷静に吐き捨てながらも、その足は止まらない。

 

「合点承知です、姫さま! 喰らえ柴田流必殺技──下段足刀〝顔面割り〟ッ!」

勝家の巨大な脚が唸りをあげ――

 

 ドゴオオオオン!!

 

豪盛の顔面を無慈悲に踏み抜いた。

 

「ひいいい、姫武将たちがこれほどに強いとはっ!? た……助けてくだされええええ!」

豪盛は絶叫し、転がり、のたうち回るが――姫武将たちの怒りの蹂躙は止まらない。

 

周囲の僧兵や浅井朝倉の足軽たちは、かつての英雄のあまりの醜態に愕然とする。

 

「あの豪盛さまが手も足も出ない……」

「っていうか、豪盛さまって意外と情けない男だったんだな~」

「男相手ならば無類の豪傑だということは間違いないのだが……」

「……妙に嬉しそうじゃね?」

「柴田勝家と一騎打ちするたびに負けそうになってたしな」

「要は、根っから女に弱いんだな……」

「それで女人禁制とかほざいてたのか……」

 

豪盛の威光は完全に地に落ち、僧兵たちでさえ冷笑と侮蔑を隠せない。

 

 

「半兵衛ちゃん半兵衛ちゃん。止めてあげようぜ」

良晴が小声で懇願するが、肩を震わせて泣き笑いしている半兵衛が答える。

 

「でも……怖いです。くすんくすん」

 

「うふっ。室町の高僧・一休さんはこのような歌を遺されていますのよ。〝女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む〟。男がいくら女人禁制だのなんだのと妙ちくりんな理屈を振りかざして空威張りしようとも、女には決して勝てませんのよ」

 

松永久秀は、あえて止めようとせず、むしろ哲学めいた言葉で火に油を注ぐ。

 

良晴も、金ヶ崎での鬱憤をここぞとばかりに爆発させている信奈たちを止める度胸はなかった。

唯一止められそうなのは刃だが――恋人を「穢れている」などとぬかした豪盛を救うはずもない。

 

しかし、ただ一人……。

「の、ノブナさま! 暴力はいけません! これ以上続けられては、あまりにショウカクインさまがおかわいそうです……!」

 

 勇気ある一人の少女が、血と泥にまみれズタボロにされて倒れている豪盛の体に自ら覆いかぶさって、信奈たちの怒りを制止した。

 

 その少女こそ――ドミヌス会の宣教師、ルイズ・フロイスであった。

 

「……フロイス? そいつはさんざん宣教師を迫害してきた仏僧よ。あんたの敵でしょ? なんでかばってるのよ?」

 

 信奈が怪訝な顔をするが、フロイスは涙ぐみながら毅然と首を振る。

 

「ノブナさま、デウスさまは〝汝の敵を愛せ〟と仰っています。すでにショウカクインさまはノブナさまに謝り、深く反省しておられます……。わがドミヌス会の修道士にも、このように偏見に囚われてしまう方をときおりお見かけいたします。おそらくはこの殿方は、幼き頃より比叡山にこもり、厳しい修行を続けられたゆえ……ずっと女性を誤解なされていたのでしょう。どうか、この殿方にお慈悲を」

 

 澄んだ声に、場は一瞬静まり返った。

 

「ま、あんたがそう言うのなら、いいけど?」

「でしたら、十兵衛も許してやるです」

「オブリガーダ(ありがとうございます)」

 

 フロイスは豪盛をかばいながら、優しくにっこりと微笑んだ。その慈愛に満ちた微笑みに、豪盛は――

 

「お、おお……ぼ……菩薩さま……!」

 

 涙と鼻水を噴き出しながら、うわーっと泣き崩れ、フロイスの足元にがばっ! とひれ伏した。

 

「拙僧の如きダメ男を救ってくださったあなたさまこそは、まさに観音菩薩さま! ありがたや、ありがたや……! なんと、一切衆生をお救いくださる菩薩さまが、南蛮の女人の姿で降臨されたとは!」

 

「……え? あの……?」

 

「観音菩薩さまは三十三の姿に変身なされるとは聞いていたが、実は異国のパードレの姿こそが三十四番目のお姿であられたか! おお、おお、その輝くような金髪……碧い瞳……まさに菩薩さまにふさわしい美しき異相! そして、そのあふれる母性を隠しきれないふくよかな乳房! まだ見ぬわが母とは、きっとこのようなお姿であったろうか!」

 

「……え? え?」

 

 豪盛はもう正気を失っていた。

 

「これよりこの正覚院豪盛、あなたさまを一生涯お守り申す! フロイスさまを守護する武蔵坊弁慶となり申す! そう……死ぬまで! ああっ菩薩さまああああっ!」

 

 がばあああっ! とフロイスの足をかき抱き、頰をすりすりすり……。

 

 そのあまりにも情けない姿に、僧兵たちは「……だめだ、もうついていけん」とがっくり肩を落とし、わらわらと散っていった。

 

「ちょ。や、やめてください!? わ、わ、わたしはあの、その……心に決めた方が……だだだ誰か、助けてください~!」

 

「なにやってんのよエロ坊主! フロイスから離れなさいよ!」

信奈が剣を抜きかけ、頬を引きつらせる。

 

「さらにタチが悪くなってるです! やっぱりぶち殺すしかないです!」

光秀も殺気を隠さず迫り――

 

「やれやれ、厄介な敵が味方になったのはいいですが……かえって面倒になりそうなので五十点というところです」

長秀は冷ややかに評定を下す。

 

「……あたしはまだ暴れたりないよっ! やっちまえ! きえーっ!」

勝家は完全に血の気が上って再び豪盛に飛びかかろうとするが、フロイスが悲鳴をあげて必死に庇う。

 

 ――結局、豪盛は「敵」から「フロイスの下僕」へと華麗に転落し、姫武将軍団からは完全に「情けない男」の烙印を押されるのであった。

 

 

 

 

 

かくして。

和睦は、成った。

信奈は、八方ふさがりの窮地を脱した。

 

小心な浅井久政は和睦の席に姿を見せず、信奈たちが根本中堂に足を踏み入れた時には、すでに叡山を下りていた。

 

そして。

今まさに根本中堂から出ようとしていた朝倉義景と、織田信奈は――この荘厳な堂内で、はじめて顔を合わせた。

 

 

朝倉義景は、確かに大柄で、美貌の青年武将と呼ぶにふさわしい風貌を備えていた。

しかし、その顔色は死人のように青白く、目は焦点を結ばぬまま宙を彷徨い、魂の半ばを虚無に置き去りにしたかのような、不気味な空気を纏っていた。

異様さを際立たせていたのは――その背後。

お堂の壁一面に描かれた『源氏物語』の女房たち。

艶やかに紅を差し、黒髪を垂らした姫君が幾十人と立ち並ぶ。

だが、その中央に描かれていたのは……織田信奈、その人としか思えぬ少女の立ち姿であった。

 

「……これは!? 朝倉義景……あんたが描かせたの!? いいの、お堂をこんなにしちゃって?」

 

信奈の声は震えを帯びていた。

 

「籠城暮らしがあまりに退屈だったので、越前から長谷川等伯を呼びつけて描かせたのよ」

義景の声は艶やかに響き、やがて恍惚とした笑みに変わる。

「ふ、ふ、ふ……そなたは等伯に描かせた立ち姿に、まことによく似ておる。余が想像した通りの美しき姫君。……ついに余は見つけたのだ。わが母の面影を重ね合わせられる、無垢の乙女を」

 

その瞳が、信奈に吸い寄せられる。

底の見えぬ暗闇と、熱に浮かされた執念が混ざり合った視線だった。

 

「美しい……臓腑をすべて抜き取って、そのまま剝製にしてしまいたいほどに、美しいぞ」

 

「……!?」

 

ぶるり、と信奈は震えた。

胸の奥から冷たいものが這い上がり、背筋を凍らせる。

 

(わが母の面影……剝製……? なにを……言ってるの、この男……!?)

 

義景の吐く言葉は恋慕ではない。

それは、異様に歪んだ“執着”だった。

 

「よもやこの現世に、余が手に入れるべき女性がいようとはな……必ずやそなたをわが館に連れ帰り、艶やかに着飾らせよう。そなたはわが若紫、それがわれら二人の宿命」

 

「……近づくな、下郎が」

 

刃の声が堂内を切り裂いた。

 

視界は霞み、体も言うことを聞かなくなってきた。

だが、彼は一歩も退かず、信奈を背に庇い立つ。

 

信奈は刃の背中に顔を埋めた。

物怖じせぬ彼女が、これほどまでに怯えるのは初めてのことだった。

それほどに、義景の眼差しは狂気に蝕まれていたのだ。

 

「刃! こいつ……なんだかヘンなのよ! まだ会ったこともないのに、わたしの立ち姿を描かせて……剝製にしてしまいたいなんて……! 怖いわ、わたし……!」

 

「落ち着いてください……姫様。私がおります」

 

刃は低く言い切り、紅い瞳を義景に突き刺す。

 

「貴様が――天の白刃か」

義景の声音が怒りに震えた。

 

「つまらぬ……つまらぬぞ! 現世とはいつもこうだ! ようやく見つけた美しき姫は、決まって貴様のような女に手の早いだけのつまらぬ男が弄んでいる! 余が風雅に少女を愛でようとする間に、盛りのついた害虫どもに花を散らされ、台無しにされてしまう!」

 

その怒号は、堂内の梁を震わせるほどだった。

 

「天城刃! 余は誓おう。必ず戦場で貴様を殺すと! 織田信奈は現世が生んだ奇跡の芸術作品。痴れ者の手に穢されることなど許さぬ! どんなことをしてもわが館に連れ帰り、閉じ込め、着せ替え、わが若紫として育て上げる! 織田信奈こそは、余の母となる女人なのだ!」

 

「……刃、わたし、ほんとに怖い……」

信奈が震える声を漏らすたび、義景の狂気は烈火のように燃え上がっていった。

 

「やれるものなら――やってみろ」

 

刃の声は冷え切っていた。

 

「次は戦場でお会いしよう、織田信奈。残念ながら今は平安絵巻の時代ではない。一乗谷のわが館に愛らしいそなたを飾るためには、織田軍を壊滅させ、その害虫を狩らねばならぬ。夢をこの手につかむには、生臭い戦を経なければならぬようだ」

 

義景の不気味な笑みを残した後ろ姿が遠ざかっていく。

信奈は強張った扇子を震える手で握り、胸の奥からせり上がる嫌悪と恐怖に押し潰されそうになっていた。

 

(……朝倉義景……狂っている……!)

 

理屈じゃない。直感だった。まるで冷たい蛇に舐められるようなあの視線。

全身が総毛立ち、背骨を冷たい刃でなぞられたかのように凍りつく。

 

「……刃……怖い……! あんなやつに捕らわれて館に閉じ込められるなんて……わたし、絶対にイヤよ……!」

 

堪えきれず吐き出した弱音は、信奈自身の耳にも少女の泣き声のように聞こえた。

 

その瞬間、刃が強張った体を捻り、正面から彼女を抱きしめる。

血の気が失せたはずの体から、それでも確かな温もりが伝わってくる。

 

「ご安心を。私が……守ります」

 

胸元から低く響く声が、恐怖を溶かすように広がる。

信奈は、ほんの少しだけ呼吸を取り戻した。

 

「だいじょうぶだ、信奈。朝倉義景との戦……必ずお前が勝つ」

 

横から良晴が声を張る。その目は焦りと怒りに満ちていたが、わざと大げさに笑みを作って見せる。

 

信奈はその言葉に縋るように上目遣いで問う。

「……ほんとうに? それって……未来をバラしてるの? だったら……あんた、打ち首よ?」

 

「いや、そうじゃねえ!」良晴は慌てて手を振った。

「自分の頭の中の世界をひとりぼっちでさまよってる奴に、俺たち織田軍団が負けるかよ。そうだろう?」

 

「……そうね、そうよね……」

信奈の表情にわずかな笑みが戻り、肩の震えが収まっていく。

 

刃は彼女を抱き寄せたまま、強い眼差しで言い放った。

 

「姫様は俺のものです。誰にも渡しませんよ、絶対に」

 

低く落とされた声。

それは優しく響きながらも、決して隠しきれない独占欲を含んでいた。

甘美な響きと冷徹な支配の宣告が入り混じり、聞く者の胸を震わせる。

 

信奈はその言葉を耳にした瞬間、全身が熱に包まれるのを感じた。

頬がかっと火照り、思わずその逞しい胸板へ顔を埋める。

 

(……わたしを、“俺のもの”って……言った……!

 だれにも渡さないって……わたしを独り占めするって……!)

 

胸の奥からこみ上げてくるのは、恐怖でも不安でもない。

甘い眩暈と、心臓を締めつけるような幸福感だった。

まるで彼の言葉そのものが契約であり、鎖であり、世界に対する宣言のように響く。

 

刃の胸に縋るその姿は、誰の目にも支配と愛の狭間で安らぎを得る少女のものだった。

――これが、天城刃という覇王の愛。

不器用で荒々しいのに、決して逃れられないほどの重みを持つ愛。

一度懐に抱き込んだ者は絶対に手放さないという、本能そのものの支配。

 

だが信奈はその支配を恐れず、むしろ望んでいた。

誰にも渡したくない。

この胸の中に、自分の居場所であってほしい。

 

彼女の細い指が、刃の衣をきゅっと強く握り締める。

まるで「どうか離さないで」と懇願するように――。

 

 

 

 

 

 信奈や刃、良晴ら織田の一行が去り、そして朝倉義景の狂気めいた笑い声も遠ざかった後――。

 

 静まり返った根本中堂には、竹中半兵衛がただ一人残されていた。

 

 堂内は闇に沈み、柱の隙間から吹き込む夜風が、灯火の小さな炎をゆらゆらと揺らす。数人の若い僧侶が黙々と法灯を守り、古より続く修行を続けている。その清廉さと静謐さの裏で、この幼い少女軍師が、何百年もの信仰を断ち切る一大秘儀を実行しようとしているなど、誰一人として気づいてはいなかった。

 

 ――女人禁制の比叡山。その根本中堂に至ること自体が本来はあり得ぬこと。だが半兵衛は、もはや己の命を投げ出してでも果たすべき覚悟を決めていた。

 

 叡山の下を巡る地脈。その要を、不滅の法灯の炎とともに断ち切り、京の都を覆う怨霊の結界そのものを消滅させる――。

 それは、台密・陰陽道の力を大きく削ぎ落とし、都に巣食う怨霊どもを祓い清める。つまり半兵衛は、自らの存在意義の根幹を削ぎ落とす作業に挑もうとしていたのだ。

 

 細い指が震える。ためらいもあった。だが心の奥に信奈の笑顔を思い描き、半兵衛は唇を結ぶ。

 (……この機を逃せば、二度と機会は巡らない……。)

 

「……信奈さまの強固な意志が、この千載一遇の機会を呼び込んでくれたのです。前鬼さん、後鬼さん。どうか……これ以後、わたしが召喚できるのは前鬼さんだけになります。申し訳ありません……」

 

 低く呟くと同時に、堂内の空気が揺らぎ、影のように二つの姿が現れた。

 狐面のように整った顔を持つ貴公子・前鬼と、獣耳を持つ少女・後鬼。半兵衛の両脇に静かに立つ二人の式神は、深い因縁で結ばれた宿命の相方であった。

 

「だが、わが主……これで、百年続いた乱世を終局へ向かわせることができる。織田信奈は、日ノ本で初めて“人の世”を築くことになるであろう」

 

「前鬼さん……」

 

「娘っ子よ。そなた自身にとっても大きな犠牲を払うというのに、よくぞここまで決断した。偉いぞ」

 

「は、はい……でも……」

 半兵衛は涙ぐみながら後鬼を振り返る。

「せっかく前鬼さんと相方になって楽しく過ごせていた後鬼さんには、申し訳ありません……」

 

「ば、馬鹿者! 楽しくなどしておらぬわ!」

 後鬼は狼耳をぴくぴく震わせ、顔を赤らめて怒鳴った。

「そもそも我と前鬼は仇敵同士! 生前は顔を合わせれば血で血を洗う戦を繰り広げていたのだ! 日ノ本各地に相打ちの跡が残っているほどに!」

 

「えぇぇ!? じゃあ……夫婦じゃなかったんですかぁ?」

 

「ち、ちがぁぁう!!」

 声を張り上げつつも、前鬼と後鬼は互いに視線を交わすと、不思議な微笑を浮かべた。

 

「……それでも、最後の勝負をするか?」

「……ああ。最強の陰陽師はただ一人でいい」

 

 二人が叡山から吸い上げた闘気を互いにぶつけ合い、堂内がびりびりと震える。

「あわわっ、や、やめてくださいっ! 最後のお別れなんですから仲良くしてくださいよぉ!」

半兵衛は慌てて両手を振り回し、涙目で二人を制した。

 

「ふん……冗談だ。我らが主の前で本気を出すものか」

 前鬼は片眉を上げて笑い、そして静かに告げる。

「では、〝不滅の法灯〟を消そう。……後鬼、一足先に行け。我らの因縁も、ここで終わりだ」

 

 後鬼はしばし無言のまま前鬼を見つめ――やがて柔らかく笑った。

「ふふ……また会えるさ。太極の根源で、ずっと待っている」

 

 二人は互いの手を強く握り、目を閉じる。

 

 その瞬間――。

 

 根本中堂の内に、突如として激しい雨が降り注いだ。

 永遠に消えることはないと信じられてきた〝不滅の法灯〟が、雨粒に打たれ、じゅっと音を立てて煙を上げる。

 幾千幾万の怨霊の声が混じり合い、悲鳴とも歓喜ともつかぬ叫びをあげながら、白光となって空へと昇っていく。

 

 ――炎が、消えた。

 

 半兵衛はその光景を目の当たりにし、胸を抉られるような喪失感に襲われる。

 後鬼、十二神将、そして京を覆っていた無数の怨霊と呪術の残滓――すべてが、太極へと還っていった。

 

 膝をつき、雨に打たれながら激しく咳き込む。

半兵衛は涙を流しながら小さな両手を合わせていた。

 

 

 

 

 

 叡山からの帰路──。

 かろうじて窮地を脱した信奈は、馬上で背筋を伸ばしていた。だがその指先は、何度も手綱を握りしめては緩め、緊張が完全に解けぬままだと物語っていた。

 

 強敵・朝倉義景との決戦は先送り。それでも、いまは充分だ。

 反旗を翻した三好も六角も、しょせん単独では織田家に抗える器量はない。形勢不利と見れば、また蜘蛛の子を散らすように逃げ散るに決まっている。

(……これで、刃を治療できる……!)

 

 思わず漏らした心の声を、鋭敏な男が聞き取った。

「いかがいたしましたか?」

 光秀と良晴に肩を貸され、足を引きずりながら進む刃が、静かに振り返る。

 

「……早く治療をって思ったのよ」

 信奈は唇を結び、しかし次の言葉ではわずかに柔らかな声音を作った。

「でもその前に、犬千代とねねに顔を見せに行きなさい。ねねなんて、あんたの無事を祈って水垢離を続けていたのよ。夜も昼もずっと……」

 

 刃の瞳が一瞬揺れ、静かに伏せられる。

「御意。ですが、私の無事はすでに伝わっているはずです」

 

「バカ言うな!」

 良晴が思わず怒鳴った。

「伝わってるだけじゃダメだ! 顔を見て、声を聞いて、安心して初めて生きて帰ったって実感できるんだよ! あいつらがどれだけ心配してたか分かってんのか!?」

 

 光秀も頷く。

「サル先輩の言う通りです! ……言葉だけでは癒せない傷があります。前田殿もねね殿も、その笑顔を必要としているのです」

 

「分かったから、良晴」

 刃は小さく息を吐き、肩を貸す良晴の腕を軽く払いのける。

「引っ張るな。……傷に響く」

 その声音には微かな苦笑さえ混じっていた。

 

 

 

 

「……」

 

「刃どの! 刃どの刃どの刃どの刃どの〜! ねねは、刃どののお帰りをずっと待っていたのですぞ!」

 

 京の妙覚寺。

 刃が宿として借りている部屋。その畳の上で、犬千代とねねは同時に飛びつき、むぎゅ〜っと全身で刃にしがみついていた。

 

「……本物」

「当たり前だろ?」

 刃は苦笑しつつ、犬千代の頭をやさしく撫でた。

 

「……死んだかと、思った。もう会えないって、声も聞けないって……犬千代は……」

 嗚咽まじりにこぼす犬千代の声は震えていて、刃の胸元を濡らしていた。

 

「馬鹿言うな、恋人おいて死ぬかよ。心配をかけたな」

 その低く落ち着いた声に、犬千代の目からさらに涙が溢れ出した。

 

 横でしがみつくねねも、必死に言葉を紡ぐ。

「ねねだって! ずっと……冷たい水かぶって! 刃どのの無事をお祈りしてたんですぞ! 信じてたんですぞ……必ず、必ず帰ってくるって!」

 目は真っ赤に腫れ、鼻をぐすぐす鳴らしながらも、笑顔を取り戻そうとしている。

 

 その様子を、少し離れた場所から見ていた良晴は……。

 

(……やべえ)

 

 胸がずきんと鳴った。

 

(な、なんか……ねねのやつ……めちゃめちゃかわいいじゃねぇか……!?)

 

 いつもは小生意気で、俺の色恋沙汰に水を差してばかり。しかも寝小便なんかもする、手のかかる妹。

 だが今――必死に涙をぬぐい、嗚咽をこらえながら「信じてた」なんて言って刃に抱きついている姿は……俺の知らねえ、まるで別人みたいに愛らしくて、胸を締めつけられるほどだった。

 

(ああ、ちくしょう! 目が真っ赤で……鼻水まで垂らしてんのに……なんだよそれ、ずるいだろ……! 俺のほうまで、涙出てきちまったじゃねえか!)

 

 ぐしぐしと袖で目元を拭いながら、良晴は心の中で熱く叫んだ。

 

(刃のやつ……! もし、この先ねねを泣かせるような真似したら――絶対に承知しねえからな!)

 

 普段は女好きで軽口ばかりの良晴が、このときばかりは「兄」としての顔に変わっていた。

 妹が笑って、泣いて、必死に誰かを想う姿。そんな大切なものを壊すようなことは、決して許さないと心に誓ったのだった。

 

ようやく二人を宥め終えた刃は、信奈の命に従い、神医ベルショールの元へ向かった。

 

妙覚寺の奥、白布を張った即席の治療室。

ベルショールはすでに待ち構えており、刃の体を見るなり眉をひそめた。

 

「……天城どの、なんという無茶を。これでまだ歩いていたとは、正気ではありませんな」

 

衣を脱がされた刃の上半身には、右肩から左脇腹にかけて走る深い裂傷。さらに右脇腹には黒ずんだ穴があり、その奥に鉛玉が埋まっているのが分かる。

 

「……腐ってはいないだろうな」

刃は平然と問いかけるが、その血の気の失せた顔色は、尋常ではなかった。

 

「奇跡的にではありますがな。しかし、時間の猶予はわずかです」

ベルショールは頷くと、道具を並べた。鋼の鉗子、針と糸、炭火で焼かれた鉄片――。

 

良晴は青ざめて叫ぶ。

「お、おいおいおい! それ、マジでやんのか!? 刃! 死ぬんじゃねえだろうな!?」

 

「……うるさい。騒ぐと手元が狂う」

刃がちらりと視線を寄越す。その紅い瞳には一片の揺らぎもなかった。

 

「では、始めますぞ」

ベルショールの声と同時に、傷口へ熱した鉄が押し当てられる。

 

ジュッと肉が焼ける匂いが立ち上がり、犬千代とねねが思わず顔を背ける。

「……っ!」

 

だが刃は、眉一つ動かさなかった。

その無言の忍耐が、むしろ周囲の者の胸を締め付ける。

 

続けて鉗子が脇腹へと突き入れられる。

ぐりぐりと肉をかき分け、鉄の先が硬いものに触れる感触。

 

「……見えました。あと少し」

ベルショールの額に汗がにじむ。

 

「……くっ……」

低く短い唸り声が刃の喉奥から漏れた。血が鉄臭く流れ出す。

 

良晴は両手を組み、祈るようにその場に立ち尽くした。

(頑張れよ、刃……お前がいなくなったら、信奈も犬千代も、みんな……)

 

やがて、カランと音を立てて、血塗れの鉛玉が盆の上に落ちた。

 

「……取れましたぞ!」

ベルショールの声に、空気が一気に解き放たれる。

 

その後、裂傷には何十もの縫合が施され、全身は幾重にも包帯で巻かれた。

やがて治療が終わり、寝台に横たえられた刃は、まるで白布に身を包んだ騎士のような姿だった。

 

ベルショールは深く息を吐く。

「傷の治り具合は、ここからの静養次第ですぞ。少なくとも……命を拾ったのは確かじゃ」

 

犬千代とねねは涙ぐみながら、その手をぎゅっと握った。

良晴は鼻をすすりつつ、心の中で呟く。

 

(……二度と無茶すんなよ、刃。お前がいなきゃ、俺たちは何もできねえんだからな)

 

 

 

 

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