織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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風林火山の旗

南近江──冬の琵琶湖

 

冬の琵琶湖は鉛色の水面を凍らせるように冷え込み、吹きすさぶ湖風は兵の頬を切り裂くようだった。

叡山との和睦を辛うじて成立させた信奈は、すぐさま京を発ち、南近江へと兵を進めていた。

六角承禎が再び甲賀へ逃げ込んだとの報に眉をひそめたその時、彼女の目に映ったのは、思いもよらぬ人物の旗印であった。

 

「ふっふっふっ。信奈どの。もう心配は要らぬぞえ」

低く響く笑声とともに姿を現したのは、斎藤道三。

 

かつて「美濃の蝮」と恐れられた男。

信奈が上洛した際に京へ上ったものの、借金取りの婆たちに追い回され、美濃へ逃げ帰った義父である。

その後も「武田信玄が動くのではないか」との噂に縛られ、岐阜を動けずにいた道三は、金ヶ崎から続いた信奈の苦境を歯噛みしながらも静観するしかなかった。

 

だが今は違う。

「織田信奈、復活」「浅井朝倉、叡山より撤退」「天の白刃・天城刃、帰還」――その報が届いた瞬間、道三は決断した。

(信奈どのが健在ならば、信玄とて容易には動くまい)

 

岐阜を発ち、わずかな手勢を率いて南近江へ進軍。

道三は即断即決で六角承禎軍に襲いかかった。

 

野洲川の流れを背にした戦場にて、道三は神算鬼謀を振るう。

「構うな!六角承禎の首一つを狙え!」

小勢でありながら六角軍を翻弄し、逆に敵の陣形を乱していった。

矢が唸り、槍が火花を散らす中、六角の旗は次々と倒れ、承禎軍は大混乱に陥った。

 

だがその最中、思わぬ伏兵が現れる。

東山道を通り本拠・小谷城へ撤退中だった浅井久政の軍勢が、戦場に迷い込んできたのである。

「六角はかつての仇敵だが、今は味方ぞ!道三を討て!」

 

浅井軍の突入で戦場は一時混沌とした。

数で劣る道三軍は四方から圧迫される形となったが――。

 

「久政ごときに何ができる!射撃を止めるな!」

道三は冷然と命じ、乱戦を逆手にとって浅井軍の動きを分断。

老獪な策を前に、浅井軍は算を乱し、たちまち潰走した。

久政は武具を投げ捨てるようにして命からがら小谷城へ逃げ帰る。

 

六角承禎もその混乱に紛れて甲賀へ逃げ込んだのは痛恨であったが、結果として「野洲川の合戦」は道三の大勝利となった。

南近江はほぼ織田方に奪還され、京に孤立していた信奈の本隊は、これにより美濃と再び繋がったのである。

進軍中に道三に出くわした信奈は、率いて来た軍を丹羽長秀に任せると、全軍に半日の休憩を命じた。

 

 

 

 

冬の夕暮れ。

薄墨色に染まった空の下、琵琶湖は鉛のような輝きを放ち、遠くの湖面は寒風にさざめいていた。

 

その場にいたのは、織田信奈、斎藤道三、松永久秀――。

 

「信奈どの。こたびはそなたの危機だというのになかなか力になれず、申し訳なかったのう。なにもかも、金貸し婆どもから逃げ出したワシの責任じゃ」

 

道三は眉根を寄せながら、ういろうをひと口かじる。

しかしその声音には、自責と同時に、どこか照れ隠しの響きが混じっていた。

 

「うふふ……本当のことをおっしゃい。わたくしに再会するのがおそろしかったのでしょう、蝮どの」

久秀は細い指で茶碗を傾け、微笑みながら茶を点てている。

その笑みは、柔らかくも底知れぬ毒を含んでいた。

 

「……」

道三は額に汗を浮かべ、茶碗を凝視する。

「そ、その茶……ど、毒は入っておらぬであろうのう?」

 

「ご心配には及びませんわ。良晴どのに“絶対に毒を盛るな”ときつく戒められておりますから」

 

「ふむ。あの男、そなたをも恐れぬのか。たいした肝の据わりっぷりよ」

道三は破顔し、呵々と笑った。

 

「ええ。それに、刃どのに殺されてしまいますわ。わたくし、あの御仁に狙われるのだけは御免ですもの」

「……あやつは、信奈どのたちのこととなれば一切容赦しないからのう」

 

蝮と蠍。

二人は互いに笑みを浮かべつつ、しかし指先一つで命のやり取りに移っても不思議ではない緊張感を漂わせていた。

 

「蝮と蠍が昔なじみだったなんて、わたし、ぜんぜん知らなかったわ」

信奈は二人のやり取りを眺めながら、手羽先をかじり、頬をふくらませている。

「この狒々ジジイにいったいどれくらい金を貸したの、弾正?」

 

屈託のない笑顔。

それは幾度も死線を越えてきた少女の、束の間の安堵の表情だった。

道三と久秀は目を合わせ、ふっと笑みを漏らした。

 

二人の間に金の貸し借りなど存在しない。

かつて互いに惹かれ合い、手を取り合って同じ未来を見ようとした日もあった。

だが、最後には野望が二人を分かち、激しい憎悪と罵倒を残して別れたのだ。

 

道三は天下統一という果てしない夢を掲げ、美濃を商業と軍備の拠点にせんとした。

久秀は京を牛耳る悪党どもへの復讐に憑かれ、都の支配に固執した。

 

「守りにくい京を本拠としてはならん。美濃に富を蓄え、大軍を率いてこそ天下は取れる」

そう説く道三に、久秀は「夢物語だ」と冷笑した。

 

その返答に、道三は容赦なく切り返す。

「六条御息所ではあるまいし、情に流されすぎよ。やはりお前も根は“女”だな」

 

その言葉は久秀の心を深く傷つけ、二人の間に決定的な溝を生んだ。

永遠に交わることはない――そう思われていた二人の道が。

今、信奈というひとりの少女によって、奇跡的に交差している。

 

「……はて。遠き日のことゆえ、いくら借りたのか忘れてしもうたのう」

道三は琵琶湖の向こうに視線を投げながら、わざとらしく惚けた。

 

「莫大な利息がついていますわ。ご返済は無理かと」

久秀は唇の端をゆるめ、毒を含んだような笑みを浮かべた。

 

「まさか、そなたとこうして味方として再会するとは思わなんだわ」

「ええ。まことに人の縁とは、不思議なもの」

 

道三は、久秀に静かに視線を送った。

――怨恨は持ち出すまい。もう終わったことだ。

互いに野望のために歩み、幸福を捨ててしまった者同士。

夫婦として結ばれることはなかったが、それでも。

 

(……今のワシらには娘が、おる)

 

信奈。

自らの夢を美しき理想として受け継いでくれた、かけがえのない宝。

 

久秀もまた、茶碗を傾けながら目だけで答えてくる。

――異形の自分を恐れず、母のように慕ってくれる娘。愛おしくて仕方がない。

 

その時、信奈の声が弾む。

 

「見て!叡山の向こうに、夕日が落ちていくわ!」

 

瞳を輝かせ、夕焼けを指差す少女。

冬の空は紅に染まり、琵琶湖の彼方で白鳥の群れが飛び立つ。

道三と久秀は、この時、信奈と心をひとつにしていた。

(いつまでも、こんな静かでのどかな時間が続けばいいのに……)  と。

 

「この琵琶湖のずっと向こうに、竹生島があるのね」

夕映えを背に、信奈がぽつりと呟く。

「わたしの弟と浅井長政が捕らわれている島だわ」

 

「さぞご心配でしょう、信奈さま」

久秀が慎ましやかに言葉を添える。

 

「ううん。乱波の五右衛門が必ず救い出してくれるわ。心配なんてしてない。二人が無事に戻ってきたら、すぐに天下布武の戦いを再開するの!」

 

「しかし信奈どの」

道三が低く声を落とす。

「こたびの騒動で、あの小僧は随分と傷を負ったと聞くが……大丈夫かの?」

 

「……」

信奈の顔に一瞬、不安の影がよぎる。

 

「完治には時間がかかるけど、大丈夫だって言ってたわ」

必死に微笑もうとするが、声は少しだけ震えていた。

 

「今回の進軍も、本当は京に残って養生しなさいって言ったのに……あの人、無理やりついて来たの」

 

言葉には苛立ちが滲む。

けれどその奥底には――どうしようもなく嬉しい、愛おしい想いが宿っていた。

彼が自分を選んでくれたこと、自分の隣に立ち続けてくれることが、何よりの支えだったから。

 

久秀はその表情を見逃さなかった。

唇を綻ばせ、茶碗をそっと置いて目を細める。

 

「ふふ……信奈さまのために生きているような御仁ですもの」

その声音はどこか母めいて優しい。

「しかも狙撃されたばかり。信奈さまを案じるあまり、じっと休んでなどおれますまい」

 

道三もまた、静かに頷いた。

「人は己のためなら休める。だが、誰かのために生きる者は休めぬ……あやつは、そういう男よ」

 

その一言は、叱責でも称賛でもない。

ただ、刃という男を正しく見抜いた者の言葉だった。

 

信奈は口を開こうとしたが、言葉にならなかった。

胸に広がる温かさと不安と、そしてどうしようもない幸福感が、涙になりかけて瞳を潤ませたからだ。

 

道三も久秀も……。

言葉のかわりに、信奈の頭を優しく撫でていた。

信奈は、幼子のようにその温もりに身を委ねていた。

「ほんとうに。……いつまでも、いつまでも、この穏やかな時間が続けばよいのう」

道三は心の底から祈った。自らの野望や血に塗れた過去ではなく、この娘の未来のためだけに。

 

――その頃。

 

安土山のふもと。

信奈の一行を遠巻きに守る影があった。銀髪紅眼の剣士・天城刃、いつもの軽口を叩く相良良晴、そして涼やかな黒髪の十兵衛光秀。

 

「天城先輩」

光秀が一歩前に出て声をかける。

「私たちも信奈さまと一緒に、たこ焼きをいただくです。わが旧主・道三さまともしばらくお会いしておりませんでしたし」

 

「……空気を読めよ、十兵衛ちゃん」

良晴が額に手を当てて呆れたように言う。

「せっかく信奈がほっこりしてんだから、そっとしておけよ」

 

「うーん。サル先輩に言われるのは癪ですが……それもそうですね」

光秀は小さく息を吐き、しかしすぐに話題を切り替える。

「ところで天城先輩、金ヶ崎で貸した種子島五十丁、返せそうです?」

 

刃はわずかに沈黙し、赤い瞳を伏せた。

「……すまない、光秀。二十丁ほど、紛失してしまった」

 

刃の低い声に、光秀はふっと息を吐いて小さく笑った。

 

「やはりそうでしたか。でも……天城先輩の助けになったのなら、それで十分です。種子島などまた集めればいいですが、天城先輩の命は二つとないですから」

 

その真摯な言葉に、良晴は思わず頭を抱える。

「おいおい、お前……ほんっと忠犬みたいだな。普通なら“二十丁もなくしただと!?”ってブチ切れる場面だろ!?なんでそんなにニコニコしてんだよ!」

 

「ふふん。相良先輩には理解できないでしょうね!」

光秀はわざと鼻を鳴らし、胸を張った。

「私にとって、天城先輩の無事こそが最上の褒美です!種子島ごときで腹を立てる必要はないのです!」

 

「ごときってお前……!」

良晴は地面に突っ伏すほど大げさに嘆いた。

 

「しかし、十兵衛ちゃんが織田家初の城持ち大名に出世するとはな……」

良晴は地を叩いて歯ぎしりする。

「ちくしょう、てっきりこの俺か刃が城持ち一番乗りだと思い込んでいたのに。くっ……悔しいぜ!」

 

「ふふん」

光秀は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。

「相良先輩など、このお利口な十兵衛光秀の足下にも及ばないです。天城先輩は辞退されたと伺いましたが、何で辞退したです?」

 

刃は紅い瞳を伏せ、静かに応えた。

「今回は……姫様を泣かせてしまった」

その言葉は、自らの胸を責めるように重く沈んでいた。

「俺は、姫様を泣かせないと決めていたのにだ。だから、恩賞を受け取るべきではない」

 

その言葉に光秀の胸は熱く締め付けられ、良晴は逆に絶叫した。

「……なぁ刃。そういうカッコいいこと言うのやめろ!?マジで俺の存在価値がなくなるだろ!」

 

「良晴、お前には価値があるぞ」

刃が淡々と告げる。

「……柿を食う、という役割が」

 

「おいコラァ!!」

良晴は飛び上がった。

「柿ってなんだ柿って! 聞けよ十兵衛ちゃん! 金ヶ崎でしんがりをやった俺の恩賞が“柿一個”だったんだぞ!? 恩賞を辞退した刃は給金、十兵衛ちゃんは近江坂本五万石! この差は何だよ!? えこひいきじゃねえのか!?」

 

光秀はくすくす笑いながら肩をすくめる。

「柴田どのの胸を揉んだ変態ザルの恩賞なんて柿でじゅうぶん、と信奈さまはお怒りのご様子でしたよ。サル先輩♪」

 

「うわぁぁぁぁああ……やっぱりそうかあああああ!!」

 

良晴は膝から崩れ落ち、天を仰いで嘆いた。

 

「あああ……勝家もあとから『触れとは言ったけど揉めとは言ってないよ!』なーんて言いだして逆ギレして、俺の命を虎視眈々と狙っているし……なんてこった……」

 

光秀は袖で口を隠して笑い、刃は無表情のまま小さく首を振った。

――結局、この場で一番大騒ぎしているのは良晴ひとりであった。

 

 

 

 

 

この時──光秀は、先日、本能寺に泊まっていた信奈に、夜更けに突然呼び出された時のことを思いだしていた。

まだ蝋燭の灯がわずかに揺らめく本堂奥。ほかの家臣たちは退けられ、広間に残ったのは信奈と光秀、ただ二人だけだった。

 

(あの時、信奈さまは……)

 

普段の凛とした姿とは少し違う、どこか陰影を帯びた横顔で、信奈は光秀をまっすぐ見据えていた。

「叡山の抑えとして、琵琶湖西岸の坂本を十兵衛に守ってほしいの」

信奈の声音は静かだが、その奥には揺るぎない決意が宿っていた。

 

「叡山に連なり、西近江街道の京側の玄関口にもあたる坂本は戦略上の要地。浅井・朝倉の手には絶対に渡したくないわ。十兵衛、あなたに任せる」

 

光秀は胸を張り、深く頭を垂れた。

「御意です。それでは坂本に城を建てさせていただき、城代として浅井・朝倉から守り抜くです!」

 

だが光秀の心はそれだけでは収まらなかった。

なにごとにも才気あふれるこの光秀、常に「これからの城普請」について研究を重ねておいたのだ。

折よくこの場で、その研究の成果を披露する好機が訪れた。

 

「信奈さま。もし坂本に城を築くのでしたら──このようにしたいです」

 

そう言って、光秀は自らの腹案を語り始めた。

もはや、山城の時代は終わる。

高地に立て籠もる城は、種子島を備えた部隊に攻め込まれれば、集中砲火を浴びた後に一気に本丸まで突破されかねない。

 

「これからは“平城”の時代です。平地に築き、水を最大限に利用するのです」

 

光秀の目がきらりと輝いた。

 

「水?」と信奈が首を傾げると、光秀は力強く頷いた。

「城塞の外側に広大な堀を築き、水を流し入れることで敵の進撃を防ぐです。湖や川に面することで水を自在に操り、補給路も確保できます。坂本城は琵琶湖を背負い、前方に広大な水堀を構えた『水上の城』となるでしょう」

 

さらに光秀は矢継ぎ早に利点を並べ立てた。

「琵琶湖を利用すれば、水運の拠点にもなります。美濃から京へと移動する時間も大幅に短縮できる。これで清水寺の戦のような急報にも迅速に対応可能です」

 

その言葉に信奈の目が見開かれ、扇子を握る手に力がこもる。

 

「……すごいわ、十兵衛!」

 

光秀はさらに続けた。

「また、戦とは直接関わりませんが……久秀どのが大和の多聞山城に築かれた“天守”という新奇な建築、あれは人々を感動させる壮麗な宮殿です。乱世はもう終わる、これからは平和の時代が訪れる──そう人々に予感させるためにも、坂本の城には荘厳な天守を建てたいです」

 

胸を張り、光秀は誇らしげに結んだ。

「これが、わが腹案です。いかがでしょうか、信奈さま?」

 

沈黙。

 

そして──。

 

「十兵衛……あなたの構想は素晴らしいわ!」

信奈の声は震えるほどの熱を帯びていた。

「弾正の特技を真似るのは少しこすっからいけど……やっぱりあなたって天才ね!」

 

「いえいえ。そんなほんとうのことを言われると……照れるです♥」

光秀は両手で頬を覆い、心の中で小躍りしていた。

(ああ……またしても信奈さまに褒められてしまったです……自分の才能が怖い、です)

 

信奈は少し笑ったあと、真剣な眼差しに戻った。

「あなたの思う通りに造ってちょうだい。でもね──坂本城には“城代”はいらないのよ」

 

「と、言いますと?」

 

「あなたに坂本の城を任せるわ。城主になって。石高は五万石ほどになるわ」

 

「……し、城持ち大名に……!?」

光秀の目が見開かれ、背筋に電流が走る。

 

「しかし、この光秀はまだ織田家に仕官して間もない新参者! そ、それに、功績の大きさでは金ヶ崎で犠牲なしにしんがりをやり遂げた天城先輩や相良先輩のほうが、光秀よりもはるかに上です!」

 

信奈は、少し鼻で笑う。

「サルはいいのよ。六のおっぱいなんか揉んで興奮してるようなバカなんだから」

 

「は、はあ……しかし。この十兵衛光秀が天才でお利口で高貴な血筋の生まれで気高き美少女であることは太陽が東からのぼって西に沈むくらいにたしかな事実ですが……しかしながら天城先輩に比べれば、たいして活躍していませんし……」

 

「刃は、辞退したのよ」

 

「じ、辞退……ですか?」

 

「ええ。理由は言ってくれなかったけど。刃は自分の代わりにって、あなたを推薦したのよ」

 

「天城先輩が、私を……」

 

光秀が呟いた瞬間、信奈はこらえきれなくなったかのように、十兵衛の両手をぎゅっと掴み、顔をくしゃりと歪めて涙をこぼした。

ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、光秀の白い指先を濡らす。

 

「……ありがとう……ほんとうに、ありがとう。十兵衛のおかげで、刃は生きて帰ってこれたの」

 

その声音には、戦場で幾度も修羅をくぐり抜けてきた姫大名とは思えぬほどの、ひとりの少女の弱さと安堵が滲んでいた。

 

信奈は震える声で続けた。

「これからも、どうか刃をお願い。あの人はわたしたちのためなら、どんな無茶でも、命を投げ出す選択も平気でしちゃうから。十兵衛がこれからもずっと刃を支えてくれるのなら……わたしも安心できるわ」

 

「…………」

 

光秀は息を呑んだ。

信奈さまが刃を恋人として大切に思っているのは疑いようもない。だが、今の言葉は……まるで。

 

(ま、まさか……!? わ、私と天城先輩を……け、結婚させるおつもりなのですか!?!?!?)

 

頭が真っ白になる。

だが胸の奥からこみ上げてくるものは、恐れよりもむしろ甘美な喜びだった。

 

(わ、私が……天城先輩の正妻でいいんです!?う、嬉しいですけれども!!)

 

頬が燃えるように赤く染まり、思わず叫んでしまった。

「御意です! ご命令とあらば、天城先輩のことはこの十兵衛光秀にお任せください!」

 

信奈は泣き笑いを浮かべながら、その手をさらに強く握り返した。

「ありがとう。十兵衛が刃を救ってくれたこと、わたし、決して忘れないわ。死ぬまで、感謝するわ」

 

近江坂本五万石は、この光秀が天城先輩をお救いしたその功績への恩賞──そうとわかれば、引き受けざるを得なかったです。

もちろん、刃には今日のことは言わないで、と信奈さまからかたく口止めされたですが。

 

「──というわけで、これからはこの十兵衛光秀が天城先輩を支えることにしたです。まあ、私たちは相性ぴったりですし♪ ふふふ……」

 

光秀は胸の前で指を絡め、夢見るように上気した顔を見せる。まるでお伽噺の姫君のようにうっとりと微笑んでいた。

 

「って、なにを一人で顔を赤らめながらニヤニヤしてるんだよ、十兵衛ちゃん!? いったいどうしたんだ!?」

良晴が慌てふためき、光秀を覗き込む。

 

「でもでも、いきなり女の子から結婚を迫るなんてはしたないですよね。これから坂本城の普請で忙しくなりますし。とはいえ段階を経てじょじょに仲むつまじくなるには、ライバルが多すぎますです。あ、天城先輩から迫っていただけたら……『光秀、俺の女になれ』……きゃっ♥」

 

光秀は両手で頬を覆い、夢想に震える。

 

「わけがわからねえ……城持ち大名になったからってあんまり浮かれてると道で転ぶぜ?」

良晴が呆れ顔で忠告すると、光秀は胸を張った。

 

「いえいえ。坂本城はいずれ天城先輩の城になりますですから、そのあたりはサル先輩が心配する必要はないです」

 

「はあ? なんで?」

 

「それはぁ、嫁入り前の乙女の口からは恥ずかしくて言えないです♪ きゃあっ♥」

 

「……刃、十兵衛ちゃんが壊れた!! さっきから会話が成立しねぇし、なんか危険な方向に暴走してるんだけど!? 完全に“別世界の花畑”に行っちまってるぞ!?」

良晴は半泣きになり、刃の肩を揺さぶった。

 

刃はしかし、動じることなく光秀を見つめ続ける。紅い瞳に浮かぶのは柔らかな光。

「そうか? 何を言っているのか分からんが……可愛いじゃないか」

 

「お前の目はどうなってるんだ!? フィルターかかりすぎだろ!? 今の十兵衛ちゃん、見た目は姫様級に可愛くても、中身は完全にやばい人だからな!? 現実と妄想の境界線突破してるぞ!?」

 

しかし刃は肩を竦めて、どこか柔らかな声音で言う。

「幸せそうじゃないか。この顔が見れるだけで、俺は満足だ」

 

「お前は悟りでも開いたのか!? 妄想だとしても頼むから少しは危機感を持てぇぇぇ!!」

良晴の絶叫が響き渡る。

 

一方、光秀はそんな喧騒をものともせず、夢の続きを紡ぎ続けていた。

「……坂本城の天守に並んで立つのは、この十兵衛……。そして天城先輩が……『光秀、俺の妻になれ』……ふぁぁぁぁぁ♥ 正妻……正妻……♪ ああ、夢じゃないです。これは天から与えられた運命です。天城光秀……うふふっ♥」

 

恍惚とした表情で胸に手を当て、瞳を潤ませながら、甘美な未来に酔いしれている。

 

「ちょおおおお!! 苗字勝手に変え始めたぞ!?!?こいつ完全に婚姻届を脳内で提出してる!! 誰か止めろおおお!!!」

 

良晴の絶叫が空を震わせる。

だが──この日この時、うかつものの光秀がしでかしている重大な勘違いが、後にあの姫大名を烈火の如く怒らせ、織田家を揺るがす火種になるなどとは……誰一人、気づけなかったのであった。

 

 

 

 

 

 

琵琶湖に浮かぶ孤島、竹生島。

 地下牢には水の匂いと湿った苔の臭気が満ち、時折、頭上から水滴が落ちて岩床を叩く音が響いていた。

 

 通路を挟み向かい合う牢の中。

 片や、浅井家の姫大名にして男装の麗人・浅井長政。畳が敷かれ、屏風まで立てられた牢座敷に収められ、三度の食事も贅を尽くした膳が届けられる。形式上の「幽閉」に過ぎない待遇であった。

 しかし、もう一方の牢は違った。石壁はじっとりと濡れ、地面には藁すらなく、わずかな粥が一日一度与えられるのみ。そこに押し込められた津田勘十郎信澄の体は、寒さと飢えでやせ細り、骨ばった指先が小刻みに震えている。

 

 「お市、気をしっかり持つんだ。必ず助けは来る」

 かすれた声で、信澄は向かいの闇に呼びかける。

 

 「はい。……勘十郎こそ、お体の具合は……?」

 長政の声が返る。心配を悟られまいと努めて平静を装っていたが、その響きには滲むような哀切があった。

 

 「心配ご無用。ぼくはこう見えてけっこう体力あるからね。ははは……」

 無理に笑う信澄。しかしその笑い声は、石壁に反響するより先に途切れ、虚ろに沈んだ。

 

 「でも……声に元気がありません」

 長政の指先は、格子の鉄に触れる。冷たさが骨身に染みた。そこに、もし勘十郎の手が触れてくれたなら……そう願うが、決して届かない。

 

 この地下牢に二人が閉じ込められてすでに十日。

 互いの姿は闇にかき消され、唯一の絆は声だけ。

 長政にとって、捕らわれていることよりも、お市と呼ばれ愛されたその人に触れられないことの方が何よりも苦しかった。

 

 「……お市」

 信澄が再び呼ぶ。声は震えていたが、その芯には消えぬ炎があった。

 「牢番から聞かされた。天城刃が死んだ、と。だが信じるな。彼は姉上たちを置いて死ぬような人じゃない。必ず、助けは来る」

 

 沈黙。やがて、長政の唇から小さく絞り出すような声が返る。

 「……はい。……信じております」

 

 牢番の足軽たちも、二人の会話に耳を貸さぬふりをしている。尾張と近江を繋ぐ夫婦を、同じ牢に入れるなと大殿・久政から命じられているが、あまりに憐れで、せめて言葉だけは交わせるように距離をとってくれているのだ。

「サルくんが、乱波くんをこの北近江に置いていってくれた。脱出の機会はあるさ」

 信澄は声を潜め、囁くように言った。その言葉には、決して希望を手放さぬ強さがあった。

 

 「勘十郎。私は、父から家督を再び奪い返します。義姉上を今こそお救いしなければ、この国の乱れはもはや収拾不能になってしまうゆえ」

 長政の声には決意が宿っていた。囚われの身であっても、武門の嫡子としての覚悟は揺るがない。

 

 「決心してくれたかい。さぞ、辛いだろうが……」

 「……近江からほとんど出たことのなかった父は、なにもわかっておられないのです。今はこのような狭い島国で同胞同士が戦っている場合ではないというのに……」

 

――二人が祈るような思いで、闇の彼方にうっすらと光る洞窟の入り口を眺めていると。

 

 ぼむっ!!

 突如、轟音とともに土煙が洞窟を揺るがせた。石の破片が飛び散り、蝋燭の火が消える。

 

 「きゃっ!」

 長政が思わず悲鳴を上げる。信澄は咄嗟に鉄格子へ身を寄せ、闇の向こうを凝視した。

 

 「やあ! 乱波くんだ!」

 歓声を上げた瞬間、煙の向こうから、例の甲高い声が響いた。

 

 「浅井氏、津田氏、お待たせしたでござる! 泣く子もだまるはちちゅかぎょえもん、ただいまちゃんぢょう!」

 「川並衆を束ねる幼女の味方・前野某、親分のすべすべのお肌に傷をつけぬため見参!」

 「われらが永遠の偶像・親分を守る川並衆も、ただいま参上だぜ!」

 

 煙をかきわけ、五右衛門と川並衆が乱入してきた。

 松明の炎に浮かび上がるその姿に、二人の瞳が潤む。

 

 「さあ野郎ども! 竹生島からお姫さまとお坊ちゃんを脱出させるぜ!」

 

 ――ついに、待ち人来たる。

 

 牢の閂は一瞬で切り飛ばされ、信澄と長政は互いに駆け寄り、かたく抱き合った。

 鉄と石に阻まれていた日々が終わり、ようやく触れあえたその温もりに、二人の胸が熱くなる。

 

 「そういうのはあとでござるよ! 今はとにかく逃げきるでござる!」

 五右衛門が甲高い声で急かす。

 

 「おお、そうだったね乱波くん!」

 「私は、父と直談判せねば」

 「浅井氏、まずは安全な場所まで逃げるでござる! 交渉はそのあとで!」

 

 しかし長政の瞳には、烈火のような決意が燃えていた。

 「いや。私は小谷城へ向かう。家督を奪い返さねばならぬのだ」

 

 「ダメでござる! 浅井久政、すでに話を聞いてくれるような状態ではありまちぇぬ! それにあの男、小谷城にはおりまちぇんぞ!」

 「なに? それはどういうことか?」

 

 問いただす間もなく、怒号が迫った。

 「乱波くん、お市! 急ごう! 追っ手が来たぞ!」

 

 ぼむっ! ぼむっ! ぼむっ!

 洞窟へ殺到してきた浅井の兵たちを、五右衛門は煙幕を投げつけて翻弄する。黒煙の中、川並衆は軽業のように立ち回り、敵を次々と転ばせ、縄罠に落としていった。

 

 「さあ、この小舟に乗り込むでござる!」

 「かたじけない、乱波くん!」

 

 「……勘十郎!」

 「お市!」

 

 二人は手を取り合い、跳ぶように舟へ飛び乗る。水面がぱしゃりと弾け、舟が揺れる。

 

 「とにかく出発でちゅ!」

 五右衛門の合図で、川並衆が一斉に櫂を漕ぎ出す。

 

 「えっさほいさ、えっさほいさ!」

 荒くれ者たちの呼吸はぴたりと合い、追っ手の舟をみるみるうちに引き離していった。

 

 「はーっはっはっは! 二人を幽閉する場所を間違えたな! 水の上での工作活動なら、俺たち川並衆は無敵だぜ!」

 「〝墨俣一夜城〟の伝説は伊達じゃねえ!」

 「やったぜ、あまりにも完璧だ! これで俺たちゃ親分に褒められるぅ~!」

 

「織田軍と浅井朝倉軍は叡山でしばし睨み合っていましたが、ごちょからいただいたりんちによってわぽくいたちまちた。あちゃいぐんは、まもなくおだにちょうへきかんいたちまちゅ」

 

途中から、いまいちなにをしゃべっているのかわからなくなったが……。

 

 湖面に月の光が揺らぎ、舟を銀色に照らす。

 信澄と長政は、その光の下で見つめあい、静かにうなずき合った。

 

 「両家の正面衝突は回避された! 御所より御綸旨をいただいて和睦に持ち込めたとは、理想的な展開じゃないか。いまいちど浅井家と織田家の絆を修復する時だね、このぼくたちが」

 「義姉上が見ておられる、天下布武の夢……いちどはあきらめかけたが、生きて再び、この私も同じ夢を見られるのだな」

 

 「一応、その夢の末席にこのぼくもいるんだけどね、ははは」

 「末席ではない。そなたは、私の夫ではないか。ともに行こう」

 「うん」

 

冬だというのにずいぶんと熱いでちゅな……

あーあー色恋ってのは男前と別嬪がやってるとさまになるもんだぜえ~どうせ汗臭い俺たちには関係ねえ~、と五右衛門および川並衆の野郎どもは二人の仲むつまじさにあてられてヤジを飛ばしまくった。

 

しかし……。

 運命は、変転する。

 

 舟を漕ぎ続け、ついに琵琶湖の岸に辿り着いた長政たち。安堵の吐息をもらしながら舟を降り立った瞬間、その目に飛び込んできたのは、あまりに惨憺たる光景だった。

 

 湖岸に沿って延びる街道――そこを、わずかな隊伍もなさず、散り散りに逃げ惑う浅井軍の残党が敗走していたのである。

 

 「に……逃げろ~~!」

 「美濃の蝮が……蝮が追ってくる~~!」

 「ダメだ! 久政さまじゃ、蝮の相手にならねえ!」

 「小谷城へ逃げるんだぁぁ!」

 

 兵らは血まみれで、甲冑の板金も折れ曲がり、槍や刀は握る力さえ残っていない。まるで怨霊に追われるかのように顔面蒼白で駆け抜けていくその姿に、長政も信澄も言葉を失った。

 

 「いったい……どうなっているんだ、乱波くん?」

 

「おそらくは叡山より小谷城へ退却する途中、美濃より出兵してきたさいとうどうちゃんのぐんぜいといくさになり、まけたのでちょうにゃ」

 

「美濃の斎藤道三は、わずかな手勢しか率いていないはずだったが……」

 

「名うての戦上手と、有名な戦下手。指揮官の差がこれだけあれば」

 

「数倍程度の兵力の差など、問題にならない、ということかい?」

 

信澄の声は冷ややかに震えていた。

 

 そして。

 

 敗走兵の群れの中に――手傷を負い、馬にしがみつきながら、涙を流している浅井久政の姿があった。

 

 髭に血がにじみ、顔は泥にまみれている。

 久政は、嗚咽をこらえるように口を歪め、悔し涙を流していた。

 

 (自分に、いま少しの戦才があれば……せめて、長政に申し訳の立つ戦果を残せたなら……)

 

 ――戦下手と嘲られてきた生涯。

一子・長政に天下を取らせるために、ついに奮い立った一世一代の戦。

 だがその夢も叶わず、ほとんど手にしていたはずの信奈の首も取れず、道三との遭遇戦に無残に敗れ、浅井家の運命はいまや風前の灯火。

 

 「……父上」

 長政の胸は重く締め付けられた。

 

 そこへ、浅井家の三家老が駆け寄ってきた。いずれも歴戦の兵ではあるが、このたびの道三との戦では総大将の統率力の差ゆえに武勇を発揮できず、それぞれが深手を負っていた。

 

 「おお……これは! あなたさまは長政さま!」

 「猿夜叉丸さま! まさか、まさか父君をお迎えに来てくださるとは!」

 「なにとぞ! 浮き足立つ足軽どもの前に、あなたさまのお姿をお見せくだされ!」

 

 彼らは、地に額を擦りつけるほど深々と頭を下げた。

 

 「この窮地……長政さまがおらねば、もはや脱することは叶いませぬ!」

 「久政さまは、小谷に戻り次第……自刃なされるお覚悟!」

 「だが、ここで猿夜叉丸さまが陣頭に立たれれば……浅井家はまだ救えるのです!」

 

 家老たちの声は嗄れ、涙で震えていた。

 

 長政は息を詰まらせ、返答に窮した。

 

 今、目の前で、浅井家が滅び去ろうとしている。

織田方からのこれ以上の追撃はないようだが、もはや久政自身が自決を覚悟しているようだった。

この三人の家老もまた、浅井家と運命をともにする覚悟なのであろう……。

 

父・久政も、家老たちも、この猿夜叉丸こそが天下人にふさわしい英傑と信じてくれたからこそ、織田家に反旗を翻したのだ。

 

織田信奈と自分の器の差と、家臣の質の差を――英邁な浅井長政は、痛いほどに知り抜いていた。

 

それは数の差でも、財の差でもない。

もっと本質的な、主君の器量が引き寄せる「人」の差であった。

 

あの若き姫大名の背後には、まるで天が選りすぐったかのような盤石の家臣団があった。

 

剛勇にして猛将、戦場にあれば必ず最前線を駆け抜ける「鬼柴田」こと柴田勝家。

 

臥龍と呼ばれ、その知略をもって十倍の敵すら退ける天才軍師――竹中半兵衛。

 

そして、何より恐るべきは――天城刃。

織田信奈が誇る最強の懐刀にして、織田軍の要。

 

単騎で数千の軍勢を斬り伏せる圧倒的な武勇。

たった一人で美濃という大国を陥落させた、その神算鬼謀。

しかも彼は信奈に対して絶対の忠誠を誓い、その忠義心は一歩も揺らがない。

その生き様は兵たちを奮い立たせ、信奈の覇道を「正義」として彩ってしまう。

 

武と智と義を兼ね備え――その気になれば、甲斐の虎・武田信玄や越後の軍神・上杉謙信をも凌ぎ、容易く天下を取るであろう、戦国という時代そのものを揺さぶる怪物。

 

その上で、織田軍にはまだまだ精鋭が揃っている。

 

槍働きにおいて右に出る者のない猛将――前田利家。

冷静沈着にして寛容、内政・軍略どちらも支える丹羽長秀。

そして剣の冴えと智略をもって頭角を現してきた明智光秀。

 

それぞれが一国一城の主となる器量を持つ、戦国屈指の強者揃い。

 

しかし、父を。そして、自分を信じてくれた家臣たちを見捨てるのは、あまりにも忍びなかった。

 

「長政さま!」

「……わかった。浅井家の当主に戻ろう……」

「承知つかまつる!」

「御意!」

「これで浅井家は救われるぞ!」

 

家臣たちの瞳に一瞬、光が宿る。涙すらにじむその声は、敗色濃い戦場にかすかな希望を灯した。だが、それは同時に、長政の胸を鋭く抉る決断でもあった。

 

──戦国大名・浅井長政の運命は、この時、大きく暗転したのである。

 

驚愕したのは、信澄であった。

 

「お市!? それではきみは、織田家と戦う道を進むというのかい?」

 

信澄の声は震え、まるで夢が崩れていく音を追いかけるかのように、必死に響いた。

 

「……父親と家臣団が死んでいくのを黙って見ているわけにはいかない。すまない、勘十郎」

 

お市――いや、もはや「お市」ではなく「浅井長政」として答えるその声は、決意と哀しみが混ざり合い、聞く者の胸を締めつけた。

 

足軽兵が牽いてきた白馬に跨ると、長政は顔を伏せたまま、震える手で手綱を強く握る。

そして振り返らぬまま、白馬は土煙を巻き上げ、小谷城へと駆けていった。

 

「そうだったのだ。私の名は、浅井家の当主・浅井長政。お市とは、はかない夢であったのだ……勘十郎よ、さらば──」

 

その背を見て、信澄は絶叫した。

 

「待ってくれ、お市……! きみはもう猿夜叉丸ではない! ぼくの妻、お市なんだ! きみは姉上を裏切り、このぼくを敵に回して戦うというのか……!」

 

必死に徒で追いかける信澄。だが、敗走してくる足軽兵たちの群れに押し流され、前へ進むことすら叶わなかった。

 

「お市ぃいいいッ!!」

 

その叫びは虚しく戦場に吸い込まれていく。

長政は信澄の声を背に浴びながらも、振り返ることはできなかった。唇を血がにじむまで噛みしめ、己の選んだ道を裏切らぬように――。

 

「そんな、バカな……戻ってきてくれ……お市……! お市……!」

 

土埃の中、膝をつき蹲る信澄。その姿に、前野某ら川並衆の荒くれ男たちは声を失い、ただ気まずげに目を逸らした。

 

五右衛門だけが、悲しげに長台詞をつぶやいている。

「人は、すべての実を拾うことはできぬでござる……浅井長政とお市、いずれかをえらべば、いじゅれかをちゅてねばにゃらにゅ……ちょれが、よのちゃだめというもにょ」

──かみかみだった。

 

 

 

 

 

 

東国──甲斐国。

 

この山国には、京や安土のように戦国大名が本拠とする巨大な城塞は存在しない。

甲斐武田家の本拠・躑躅ヶ崎館は、鎌倉・室町時代の風情を残した、あまりに簡素な武家屋敷にすぎなかった。

 

甲斐源氏の嫡流、武田家の第十九代当主・武田信玄は「自らの家臣団こそが武田の城である」という意味の「人は城、人は石垣、人は堀」という名言を口にし、その言葉のとおり決して本国・甲斐に巨城を築かなかったと言われている。

 

さすがは名将・武田信玄……と、戦国の人々は感心していたという。 だが、それは実は──ただの噂。

武田信玄は、そのような人間ではない。

 

本拠など躑躅ヶ崎館でじゅうぶん。

防衛用の巨城など金と労力の無駄。

なぜならば、信玄は、他国を攻めることしか考えていなかったからだ。

 

「領国に敵を迎えて守るなど、愚か者のすること! 戦は常に外でやるものだ! 攻めて、攻めて、攻め抜いて、敵を滅ぼす。それがあたしの流儀だ!」

 

そう、甲斐源氏の嫡流に生まれたこの姫大名は、父・信虎譲りの荒々しい性格に加え、誰よりも戦を愛する「全身戦国大名」だった。

 

父を駿河へ追放して家督を奪うや否や、矛先はすぐさま隣国・信濃へ。数え切れぬほどの出兵を繰り返し、ついには「義将」越後の上杉謙信をも戦場へと引きずり出す。

 

「義? 笑わせるな! 野望もなく戦うだと? それは自己矛盾そのものだ! 上杉謙信、お前はあたしが叩き潰す!」

 

川中島の原で幾度となく対峙した二人の姫武将。

毘沙門天を名乗る謙信に対し、信玄は不動明王像を自らの姿で彫らせ、善光寺の秘仏すら奪い取る。改名すれば対抗して改名し、戦うたびに互いを照らし合う宿命の双星となった。

 

だが、信玄は川中島に留まることを良しとしなかった。

東の上野に触手を伸ばし、南の駿河では同盟者・今川家を裏切り、盟友だった北条氏康と激突してこれを退ける。三増峠では大勝利を収め、ついには駿河一国を手に入れて武田家の悲願であった「海」へと到達した。

さらには飛驒に遠江にと「攻撃こそ最大の防御!」とばかりにあたり構わず出兵しまくって阿修羅のごとく戦い続け領土を切り取り続け、いまや武田家の領土は百二十万石を優に超えていた。

 

まさに、武田信玄こそは押しも押されもせぬ戦国一の強者。

信玄個人が醸し出す強烈なカリスマ性によって、家臣団の統率も完璧。

無敵の騎馬隊を中心とした甲州軍団は、質量ともに戦国最強。

 

しかも、信玄に絶対的な忠誠を誓う武田家臣団はキラ星の如く、それぞれが優に戦国大名をつとめられるほどの実力者揃い。

 

さらに、実は武田信玄──ただ戦を好む猛将ではなかった。

むしろ内政こそ、涎が出るほどに大好きである。

まさに文武両道の名将。

 

領国経営が進むたびに信玄は「勝利の快感」を覚えていた。戦の勝ち鬨にも匹敵する充実感。それが彼女の歩みを遅らせていたのだ。

 

さらに、宿敵・上杉謙信との決戦は、もはや年中行事と化していた。

川中島で相まみえる度に血が沸き立ち、あの白刃を交える瞬間こそが至上の悦楽。

 

もし内政に熱を入れず、もし謙信という美酒に溺れなければ──。

信玄は家督を奪ってわずか五年で天下の半ばを制したであろう。

それほどに、甲州武田軍団は強大であった。

 

上杉謙信の強さは、謙信ただ一人の強さである。

だが信玄は一騎打ちにおいてすら謙信に匹敵し、さらに統率力、政治力、家臣団の質と忠誠心、領国経営の巧みさ──なにもかもが最強の次元にあった。

まさに「戦国乱世の覇王」と呼ぶにふさわしい存在だった。

 

その日。

覚恕が、関白・近衛前久の意図的な誤報を届けてきたのは、まさに信玄が躑躅ヶ崎館で茶会を楽しんでいる最中のことである。

 

「これは一大事。拙僧、もはや帰る寺もなくなってしまった」

 

「織田信奈め! 叡山を焼き討ちか! さすがは第六天魔王と呼ばれるだけあるな! はははは!」

 

「し、信玄どの、笑っている場合ではござらん……」

 

「泣くな泣くな。ならばあたしが甲斐に“新比叡山”を造ってやろう! 金閣寺もかくやという金ピカの寺にしてやるぞ!」

 

覚恕は絶句した。

(そんな品のない寺、絶対にいやじゃ……しかも甲斐って……!)

だが、機嫌を損ねれば虎の逆鱗に触れる。口に出しては言えない。

 

信玄は盃を置き、猛虎のように立ち上がった。

 

「謙信は越後に籠もって動かぬ! 今川義元の領土は我が手に落ちた! 北条は懲りて再び盟約を結んだ! 決めたぞ! 叡山焼き討ちを口実に、織田信奈に果たし状を叩きつける! あたしは今こそ都にのぼり、天下を手に入れる!」

 

その姿は、ただの女大名ではなかった。

長髪を腰まで伸ばし、甲斐源氏の血筋にふさわしい整った面差し。

だが、虎の眼光のごとき猛々しい光が愛らしさを吹き飛ばし、見る者を圧倒する。

 

肉食獣のように引き締まった肢体は、無駄肉ひとつなく、しかし胸元は乙女らしい豊かさを誇る。

凛烈なる美貌と、日本人離れした肉感的な体躯と、飢えた獣のごとき視線。

それらすべてが渾然一体となり放たれる威光に、覚恕はただ震えるしかなかった。

 

「右筆よ、こう書け!

『おいこら第六天魔王。あたしはそろそろ京にのぼりたくなった! 天台座主・武田信玄さまがじきじきに成敗してやるから、首を洗って待っていろ!』とな。よしッ、決まった!」

 

「……あ、あの。天台座主は、この覚恕……大僧正あたりで我慢してくれませぬか?」

 

「これはケンカ状だ! 名乗りは派手なほうが気分が盛り上がるだろうが! 細かいことを言うな!」

 

覚恕は胃が痛くなり、ただうめいた。

 

「勘助! 勘助はまだ生きてるか!?」

だんっ! と信玄が床を踏むと同時に、頭を剃り上げた僧形隻眼の小男が音もなく覚恕の背後に現れた。

「──は……。道鬼こと山本勘助、ここに……」

 

「山本勘助どの、とな? そなたは先の川中島の合戦で討ち死にしたはず?」

覚恕が驚くが、山本勘助は

 

「たしかに謙信の軍に策を破られ、討ち死に覚悟で突撃しました……が、不思議と命を拾い、生き恥を晒しておりました。長らく山中で療養しておりましたが、再び御屋形さまのお側へ」

 

陰気な声で勘助は語った。

信玄は笑った。

「勘助! 多大なる犠牲を払ったが、川中島での上杉謙信との抗争は一段落し、武田は駿河の海と東海道を手に入れた! 京への道が開けたのだ! こんどの戦は、天下盗りの総仕上げとなるぞ! あたしにはまだ貴様が必要だ!」

 

「……は……」

実は生きていた伝説の天才軍師・山本勘助、どうしたわけか織田家との全面対決を前にしてもいまいち盛り上がっていない。

 

「……どうした? 甲斐に戻ってきて以来、お前はやる気がなさそうだな」

 

信玄は座上で扇をぱたりと閉じ、じろりと勘助を見やった。

「このあたしのそそる美貌を見ても燃えてこないとは。やりづらいぞ」

 

冗談めかして言ったつもりだった。

だが勘助の隻眼は曇り、笑いを受け止めるどころか、深い影を宿していた。

 

「……御屋形さまのお姿を拝見して年甲斐もなく興奮するなど、下世話な者のやること。そもそもそれがしは出家の身、色欲などとうに解脱しておりまする」

声は低く、石を擦るようにかすれている。

 

「ほかの武将とこの勘助を一緒にされては困りまする……」

そこで一度、唇を結び、息を止めたように見えた。

 

「……そもそも川中島よりおめおめと生還して以来、どうも体調が思わしくなく。時折、頭の古傷が激しく痛むのでござりまする」

 

信玄の眉がぴくりと動く。

「『啄木鳥』を謙信に破られて気落ちしたか」

 

「犠牲を出しすぎたことを、軍師として恥じております。御屋形さまの大切なお方たちを……」

 

「待て!」

信玄は扇を乱暴に畳に叩きつけ、声を荒げた。

「まだだ。まだあたしたちは上洛を果たしていない。まだ死んだ者のことを振り返る時ではないぞ勘助!」

 

勘助はしばし沈黙した。

やがて静かに頭を垂れ、重々しく口を開く。

 

「されど心身に力がみなぎりませぬ。老いというものは悲しいものでござりまする、御屋形さま。軍師の力とは脳髄の力。その脳髄が、長い療養暮らしの間にいささか衰えておるようなのです」

 

「そうではない」

信玄の声には苛立ちが滲む。

「お前は倒れていった武田家の者たちを思って鬱々と塞いでいるだけだろう」

 

「かもしれませぬ……」

勘助の隻眼が、虚空をさまよった。

「次郎信繁どの。太郎義信どの。飯富兵部どの……」

 

その名をひとつひとつ口にするたび、空気が重く沈んでいく。

「……あまりにも犠牲は大きうござった。それも含めて、それがしは老いました……」

 

不意に、信玄の表情が歪んだ。

唇の端が引き攣り、豪胆さを演じ続けてきた仮面が音を立てて崩れそうになる。

軍師勘助とともに築いてきた「無敵の名将・武田信玄」の虚像が、目の前で脆くも揺らいでいく。

 

「……やめろ勘助。唐突に次郎たちの名前を口にするな!」

声は怒声に似ていたが、その奥には動揺と痛みがにじんでいた。

 

「もっ、申し訳ござりませぬ!」

勘助は慌てて頭を垂れる。 

 

「……お前がそうして落ち込んでいるままでは、上洛戦は難しくなる。やむを得ない、奥の手を使おう。

おーい、四郎! 四郎! ちょっと来い!」

 

信玄はぽりぽりと頭をかきながら、義妹の名を呼んだ。

 

「は~い。あねさま~」

 

廊下の奥から、ころころと鈴のような声が響く。

禿の童女が、ぱたぱたと小走りに現れた。

 

武田四郎勝頼。

信濃の諏訪家を滅ぼした折、あまりに幼く可憐であったため、信玄が「追放や幽閉では可哀想すぎる」として義妹に迎えた少女である。

 

「おう四郎。今日もお前はかわいいな! さぁ、姉の膝の上に乗れ!」

 

「うん。あ~い~」

 

信玄の膝にちょこんと腰かけ、にこにこと見上げる幼姫。

その瞬間──。

 

「おおお……かっ……勝頼さまあああああぁぁ~~!」

 

山本勘助の形相が、ぐわっ! と一変した。

それまで沈んでいた隻眼はぎらぎらと光を取り戻し、頰は十代の小僧のように真っ赤に染まり、剃り上げた頭皮からは滝のような汗が流れ落ちる。

 

はぁはぁはぁ──!

 

まるで山中から現れた怪獣のように肩で息をしながら、しかしその眼差しは熱烈に勝頼へ注がれていた。

 

実は、

「あとあと面倒なので四郎姫は尼にしてしまいましょう」

と勧める家臣団を一喝し、山本勘助ただ一人が

「勝頼さまをぜひ、御屋形さまの義妹になされませい!」

と鼻息荒く信玄の気まぐれに賛成したという過去がある。

 

そう。

生涯独身、軍師の道を貫いてきた山本勘助──。

幼き姫が、大好きであった。

 

なかでも四郎勝頼は、別格。

勘助は、由緒正しき諏訪大明神の巫女の血をひく四郎勝頼を、生き神さまとして崇めていた。

いや。勘違いしてはいけない!

彼は決して幼女に淫らな思いなどを抱いているわけではない。

 

純粋に、禿の幼き姫の愛らしいお姿を拝見するだけで日々戦に追われる汚れた魂が浄化され、

「姫をお守りするためなら犬馬の労もいとわぬ!」

と生きる意欲がまんまんと満ちてきて、それはもう生きながらにして心は極楽浄土へ舞い上がるのである。

純粋な愛なのである!  そこに一片の後ろめたさもないのである!

 

「おおおおお、勝頼さまああああ! なんと、なんとうるわしいお姿……!」

 

「四郎。この姉が教えた通りの言葉を、言ってやれ」

信玄は静かに命じる。その声音は揺るぎなく、だが奥底に確かな狙いを孕んでいた。

 

「あい」

勝頼は小さな体をぴんと伸ばし、まだ拙い舌で、けれど必死に言葉を紡ぐ。

「かんすけ、あねさまを、きょうへつれていってたもれ。おねがいじゃ」

 

――ぺこり。

 

次の瞬間。

 

「ブハッ!」

まるで堰を切ったように、山本勘助の鼻から鮮血が迸った。

 

「ぬおおおおおおお~!? いけませぬ、いけませぬ勝頼さまああ! それがしなどに頭を下げてはなりませぬうぅ~! いかん! 鼻血が、鼻血が……! いかん、目が回って立っておられぬ!」

両手をぶんぶん振り回し、まるで田んぼの案山子が崩れるようにふらつく勘助。

 

だが、それは断じていやらしい感情ではない。

老軍師が胸に抱くのは、主君の血を継ぐ若君への純粋無垢な愛情――孫を見る祖父の情にも似たものだった。

 

「御意にございまする! この山本勘助、こたびの上洛戦にて悪鬼羅刹と化し、川中島での汚名をそそぎまする~!」

 

勘助は、ふらつきながらも米つきバッタのように四郎勝頼の御前へと平伏した。だが次の瞬間――がばっ! と顔を上げたその姿には、先ほどまでの枯れ果てた老爺の面影は微塵もない。隻眼は爛々と輝き、全身からは黒々とした「気」が滲み出ている。

 

覚恕はその変化を目にして、ぞくりと背筋を冷やした。まるで老人が妖怪変化に憑依されたかのようだった。やはり軍師というものは、常人の道徳を踏み越えた“外道”でなければ務まらぬのだと。

 

「……くっくっく……! 日ノ本広しといえども、御屋形さまにかろうじて太刀打ちできる者は越後の軍神・上杉謙信ただ一人。織田信奈、斎藤道三、松平元康……いずれも戦上手なれど、しょせんは御屋形さまの足下にも及ばぬ者ども。この勘助が御屋形さまのもとにある限り、必ずや討ち滅ぼしてご覧にいれまする」

 

「ふふ……やっと本気を出したな。初めてあたしと相まみえたときのような、いい顔になったぞ、勘助」

妖艶に笑う信玄。その紅の唇の奥から漏れる声音には、家臣の心をも自在に操る支配者の響きがあった。

 

「しかし、織田信奈を討ち滅ぼすならば、かの怪物をどうするかが問題です」

勘助の声は低く沈み、まるで地下から響いてくるかのようだった。

 

「怪物……織田信奈の懐刀、天城刃だな?」

信玄が細めた眼差しで問う。紅をさしたような艶やかな唇が、嘲笑とも不安ともつかぬ弧を描いた。

 

「その通りでございます」

勘助は深々と頷き、隻眼を光らせる。

 

「噂が真実ならば――真っ向からぶつかった場合、御屋形さまの誇る無敵の騎馬隊を中心とした甲州軍団や、武田四天王ですら討ち取るのは難しい。いや、討ち取るどころか返り討ちに遭う可能性すらありまする」

信玄の眉が一瞬歪む。

 

「馬よりも早く走り、矢を斬り払い、ただ一人で数千の軍勢を蹴散らす姿はまさに死神。人々はそれを“天の白刃”と呼び、敵は彼の姿を見るや心胆を寒からしめて戦意を喪うと聞きます」

 

勘助の声音は一層重くなる。

 

「さらには、墨俣一夜城の考案、実行など軍師としても一流。義に厚く、織田信奈への忠誠心は家臣一とまで言われております。……非の打ち所がないとはこのことにございます。まさしく、織田信奈にとっては覇道を切り拓く最強の矛であり盾でございまする」

 

座敷に重苦しい沈黙が落ちる。

風の音すら聞こえぬほどの圧が満ち、ただ勘助の隻眼だけが妖しくぎらついていた。

 

「……ふん」

やがて信玄が扇子をぱたりと閉じ、鼻で笑った。

「面白いじゃないか。天下に怪物が一人いれば、怪物を喰らう怪物もまた現れる。それがこの甲斐の虎――このあたしだ」

 

艶然と笑う女傑の声に、張り詰めていた空気が一気にざわめきに変わる。

しかし、信玄自身の胸奥に走る緊張は決して消えたわけではなかった。

あの刃という男を前にすれば、誰であれ薄氷を踏む思いをする――その事実を、覇王である彼女自身もまた本能で理解していたからである。

 

――天城刃。

織田信奈を討ち滅ぼすためには、必ず越えねばならぬ"前人未到の断崖絶壁"であり、日ノ本における最強の剣、最恐の影。

 

「出陣の前に、景気づけに一つ占ってもらおうか」

 

「御意。しかし御屋形さま――」

勘助は恭しく頭を下げ、怪しげに声を落とす。

「それがしの操るは易にあらず。宿曜道と申しまして、星々の運行より人間の天命を読み取る秘術にござりまする」

 

「理屈の多い奴だ」

信玄は笑いながらも、期待に満ちた眼差しを扇の奥から向けた。

 

勘助は小者に命じ、天球図を運ばせた。油灯の下で広げられたその図には、無数の星座が煌めくように描かれている。勘助は骨ばった指で円盤をゆるやかに回し、隻眼で食い入るように見つめた。

 

「ふぅむ……」

 

やがて口元が歪む。

「──うむ。さいさきよし! 御屋形さま、西に輝く巨星が地に墜ちようとしておりまする。敵将の命運、まもなく尽きまする」

 

「ほう。誰の命が尽きるというのか?」

信玄が扇を閉じ、身を乗り出す。

 

「織田信奈、あるいは斎藤道三。二人のうち、いずれかが!」

 

勘助は声を張り、全員の耳を打った。

 

「この両者は、ともに手を携えて天下を望むという“天命”を与えられてはおりませぬ! いずれかの星が輝けば、もう一方の星は必ず墜ちる。――それが天地自然の定めにござりまする」

 

座敷にざわめきが広がる。

 

「だが今は、何者かが両者の天命に介入し、両雄が並び立っておる。本来なら決してあり得ぬこと……」

 

勘助は隻眼をぎらりと光らせ、声を低める。

 

「……その“何者か”のせいで、道三も信奈も滅びずにいられるのです」

 

「ほう……? 面白い話だな。いったい誰が天命などという不可思議なものに介入しているというのだ?」

信玄は身を乗り出し、紅の唇に妖しい笑みを浮かべる。その眼差しは、目の前の勘助を射抜くというよりも、むしろ遥か西方――京の方角に向けられていた。

 

勘助は、片膝をついた姿勢のまま、隻眼をぎらりと光らせる。

「おそらくは……天城刃にござりまする。いかなる術を持って天命に介入しているのかまでは、それがし如きには測りかねます。しかし、この勘助にも、宿曜道にも、おのずと限界がござりますれば……」

 

「……天城刃」

信玄は低く呟いた。

「英傑たちの天命をも左右する者……面白い。実に面白い。ならば、真田の者どもを動かして調べさせる価値があるな」

 

「御意!」

勘助は即座に頭を垂れる。

 

「天城刃……。いつか必ず、あたしの眼で確かめねばならぬ。天命すら歪めるという怪物……。ぜひとも、会ってみたいぞ」

信玄の声には、戦の覇者に似つかわしい血の匂いを帯びた昂ぶりが宿っていた。

 

そして信玄は、静かに、しかし確固たる決断を告げる。

「――上洛、しよう」

 

その一言に、座敷の空気が凍りつく。

「瀬田に武田菱を、そして“風林火山”の旗を立てる。山を動かすときが来た」

 

勘助は隻眼を細め、ほくそ笑む。

「御屋形さまのご決断、まことに千載一遇。もはや日ノ本に、武田の覇を阻む者はおりませぬ」

 

信玄はなおも問いを重ねた。

「勘助……もしも道三坊主と織田信奈、この二人がなおも手を携え続ければ……その果てには、いったい何が待つ?」

 

勘助は、確信に満ちた口調で告げた。

「もし両者が天命に叛き続ければ――揃って〝破軍の星〟を背負いましょう。ふたつの巨星はともに輝きを失い、地に墜ちる運命にございます」

 

「ふむ……ようやく父を得られたというのに、憐れなことだ。それが、織田信奈という姫武将の宿運か」

信玄は一瞬だけ、年頃の少女らしい繊細な顔を見せ、気の毒そうに息を吐いた。父を追放してまで野望を選んだ自分の境遇を、無意識に重ねたのかもしれない。

 

だが――次の瞬間には、信玄の表情は戦国最強の覇王のものへと戻っていた。

 

「勘助! 武田四天王を全員召集せよ! 全軍を動かす! こたびの戦は、あの川中島をも凌ぐ大戦となろう!」

 

武田信玄は立ち上がり、高らかに唱えた。

 

茶室の片隅に隠れるように縮こまっていた覚恕は、

(織田信奈と武田信玄……戦国の両雄が、いよいよ天下の覇権を賭けて相まみえるというのか)と震えあがるばかりであった。

 

疾きこと風の如く

徐かなること林の如く

侵掠すること火の如く

動かざること、山の如し

 

風林火山の軍旗が、躑躅ヶ崎館の門前にいっせいに掲げられた。

山は──動いた。

 

 

 

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