時は戦国時代。
季節は、十二月。
吐く息が白く煙るほどの寒さが京の都を包み、宿代わりに寝泊まりしている妙覚寺の庭にも、霜がうっすらと降りていた。
冬枯れの木々の枝には、時折からすが鳴きながら飛び立ち、静けさの中にかすかな寂寥を加えている。
その寒空の下、現代から戦国時代に迷い込んできた男子高校生・相良良晴は、朝からずっと、とある女装貴公子を相手にしていた。
慰め役に徹して、ひたすらなだめすかし続けている。
「サルくん。ぼかぁ、もうダメだ。出家してしまいたいよ」
か細い声を洩らすのは、津田信澄――通称・勘十郎。
艶やかに紅を引いた唇、白粉を重ねた顔はまるで人形のようで、京の町娘たちに混じっても違和感がない。
だがその正体は、織田信奈の実弟。
姉の悪戯心で無理やり「姫」に仕立てられ、近江の戦国大名・浅井長政に嫁がされたという、不幸な少年だった。
良晴は、やれやれと頭をかきつつ、相槌を打つ。
「いやいや、出家なんて早まるなよ。気持ちはわかるけどさ」
「聞いてくれサルくん。詳しいことは言えないが、ぼかぁ今、悲しみの底に沈んでいてね……」
信澄は、庭園の池をぼんやりと眺めながら、青ざめた顔で嘆息を繰り返す。
良晴は鼻を鳴らした。
「信澄、お前の気持ちはわかるけどさ。過ぎたことをいつまでも後悔しててもはじまらねえぜ?」
すると信澄は、勢いよく振り返り、艶やかな袖をひるがえす。
「いや、きみはわかっていない! ああ……すでにぼくの幸せの青い鳥は飛び去ってしまったんだ。失った過去、幸福だった時間を取り戻すことはできないんだよ!」
その言葉に良晴は思わず肩をすくめる。
「そりゃまあ、浅井長政に嫁がされたあげく離縁されてバツイチになっちまった以上、能天気に美少女親衛隊を率いて颯爽としてたあの頃には戻れねえだろうけどさ。近江での日々は忘れろよ」
「忘れられるものかっ!」
信澄は、手にした八つ橋をぎゅっと握り潰さんばかりに力を込めた。
良晴は苦笑いを浮かべながら言う。
「忘れられないほどのトラウマになったのはわかる。わかるがな。政略結婚は戦国の世の定めだ。姫にされて男に嫁がされたお前の気持ちは、俺だって想像つくぜ。でも、だからって信奈を恨んじゃいけねえ」
「寅馬とはなんだいサルくん……。ああ、やっぱりきみはわかっていない」
信澄は、うつむいたまま、震える声を吐き出す。
「ぼくのこの悲しみの理由を……。だが、長政の秘密を他人に漏らすわけにはいかないし……ああ、ぼくはどうすればいいんだ」
良晴は眉を寄せる。
「とりあえずさ、もう女装する意味はねえんだから男の姿に戻れって。女装を続けることで信奈に抗議してるつもりかもしれねえけど、過去を引きずりすぎだぜ」
「いやあ……。誰にも秘密は打ち明けられない。けど、この悲しみを誰かにわかってほしい。難しいものだなあ」
「だから、信澄。お前の悲しみはわかるって。あれだろ? お前、美少年だから男でも女でもかまわん! とか長政に言われて、言えないような恥ずかしい目にあったんだろ?」
良晴は苦笑混じりに言ったが、信澄は慌てて首を横に振る。
「だから、そうじゃないんだ~! ああ、どうすれば長政の秘密を漏らさずに、ぼくの真意を伝えられるのか……。言葉とは、実に難しいものだなあ」
艶やかな姫姿の信澄は、またも八つ橋を口に放り込み、もふもふと噛み締めながら、きいと唇を嚙んだ。
──実は、近江の戦国大名・浅井長政は男装の麗人。
表向きは男を演じているが、その実は奥ゆかしく美しい女性だった。
女装を強いられた信澄と、男装を強いられた長政。
境遇の似た二人は、互いに惹かれ合い、ほんの短い期間ではあったが、仲むつまじい夫婦となっていたのである。
だが、親孝行という弱点を持つ長政は、父・久政に従って信奈と決裂。
織田と敵対し、朝倉義景に従うことを選んでしまった。
結果、信澄は離縁された形で信奈のもとに戻り、愛する妻とは敵味方に分かれてしまった。
それでも、長政の秘密を守るために胸にしまい込み、誰にも語れない。
朝からずっと、庭園に座り込み「はあ……ああ……」とため息ばかりついているのだった。
結婚どころか、ギャルゲーの世界以外では彼女を作った経験すらないわれらが相良良晴に、女装貴公子・信澄の複雑な胸の内を察してやれるわけがなかった。
だからこそ、彼の口から出る言葉は、ひたすら斜め上の方向にすっ飛んでいく。
「よほどおそろしい目にあったんだろうな、かわいそうに……。俺だったら、あの長政の野郎に押し倒されて、あんなことやこんなことをされたら、一生立ち直れねえぜ」
両手をぶんぶん振りながら、勝手に妄想を膨らませる良晴。
「そうか。心では長政を拒否しても、身体が長政を求めちまってるんだな、お前……。それで女装がやめられなくなったのか。うっ、哀れな……!」
「ち、ちがうんだ~!」
信澄は慌てて否定するが、唇を噛みしめると同時にそれ以上は言葉を続けられなかった。
長政の秘密を守らなければならない――その思いが、喉元にせり上がった真実を押し戻してしまう。
「そうじゃないんだ~でも伝えられない~」と嘆くばかりの信澄に、良晴はますます誤解を深めていく。
信奈陣営の中で長政が“女”であるという秘密を知っているのは、忍者の蜂須賀五右衛門とその郎党だけ。
信澄は彼らにさえ口止めを頼んでいた。
だから、良晴はもちろん、信奈すら信澄の苦悩の真相を知らない。
「いいな、信澄!」
良晴は縁側の板をばん、と叩いて力説する。
「近江での悪夢は忘れろ! そしてまだ清純だった頃のお前を取り戻せ!」
目を輝かせ、なぜか未来のラブコメ主人公みたいな熱意で励まし続ける良晴。
しかしその方向性は、ひたすらアサッテの方角を指していた。
「……ふう。サルくん、きみと話していても、らちがあかないよ」
さすがの信澄も観念したように肩を落とし、溜息を吐く。
「本能寺にいる姉上のもとへ行くことにする」
「信奈のところに? やめとけやめとけ。最近のあいつ、機嫌悪いしな」
良晴が顔をしかめて忠告するが、信澄は眉根を寄せ、真剣な声音で返す。
「……機嫌が悪いのも当然だよ。長政が裏切って朝倉側についた上に、甲斐の武田信玄が、今度こそ本気で上洛軍を興した。姉上は、京の支配権を維持するどころか、本国の尾張・美濃の防衛すら危うくなっている。さらに言えば――いや、むしろこっちが本命だろうけど――懐刀くんが療養中でそばにいないからね。姉上自ら『養生せよ』と命じたと聞くけれど……どうしても寂しいのだろう。だから、いつもの十倍、不機嫌なのさ」
信澄の声音には、姉への哀れみと不安がにじむ。
「困ったねえ……」
彼は小さく眉を寄せた。
良晴は顔をしかめ、無言で庭の砂利を小石で弾いた。
織田軍は越前・朝倉攻めのさなかに、盟友のはずの浅井軍に退路を断たれた。
最大の危機――「金ヶ崎の退き口」。
家臣団が一丸となって奇跡の脱出を遂げたものの、その代償はあまりに大きい。
最高戦力である天城刃は、撤退戦で満身創痍。
命を落とさなかったこと自体が奇跡であった。
療養期間で回復してきたとはいえ、まだ万全とは言い難い。
その刃の不在を埋められる者はいない。
息をつく暇もないまま、北からは浅井・朝倉連合軍、東からは戦国最強の武田信玄が迫る。
まさに織田軍は、絶体絶命の二面挟撃の危機に晒されていた。
せっかく手に入れた京の都を捨て、本国・尾張美濃の防衛に専念すべきか。
あるいは全軍玉砕も覚悟で、北の浅井朝倉・東の武田信玄という二大強敵を同時に迎え撃つか──。
選択を誤れば、織田信奈が「天下人」として君臨できるかどうか、その夢は砂上の楼閣のように崩れ去ってしまう。
いちど手にしたはずの京を、ここで失えば天下は遠のく。
しかし敵は強固な「反信奈包囲網」。
尾張美濃を守る斎藤道三の兵力だけでは、戦国最強と謳われる武田軍の進撃を押しとどめるのは難しい。
かといって信奈本軍が京を放棄し、美濃へ戻れば──その隙を浅井朝倉が突き、京を即座に奪取するだろう。
「浅井朝倉と和睦してから、まだ一月も経ってないんだぜ」
良晴は縁側で八つ橋をかじりながら、信澄に言った。
「それなのに武田信玄が動くとわかった途端、浅井朝倉がまた戦の準備を始めやがった。しかも今度は浅井軍を、あの戦上手の浅井長政が直接率いてるんだ。……どう考えてもヤバい情勢だろ」
信澄は細い肩を震わせながらも、意を決したように目を細めた。
「サルくん。こんな時だからこそ、ぼかぁ弟として姉上をお諫めしなければならないんだ」
「諫める? どうしても首をはねられたいようだな。だいたい何を諫めるつもりなんだよ。叡山焼き討ちの件なら、とっくに中止になったぜ?」
「ははは。ぼくに高度な政略のことなどわかるものかね。ぼかぁ姉上に、もっと素直になるようにって言うんだよ」
そう言いながら、どこか影を引きずったまま本能寺へ向かう信澄。
良晴はその背中を見送りながら、頬をかいた。
「うーん……どうも今日のあいつの言葉は支離滅裂だな。大丈夫かな?……いや、大丈夫じゃなさそうだ。精神状態と……ついでにお尻も心配だ」
そうぼやきながら八つ橋を飲み込み、良晴は手を叩いて声を張った。
「おーい! 五右衛門!」
庭先の白砂がかすかにざわりと揺れ、すっ……と気配もなく一人の忍びが現れた。
背丈も小柄な少女忍者──蜂須賀五右衛門である。
「相良氏、お呼びでござるか」
「おう。お前、浅井久政に幽閉されてた信澄と長政を救い出してくれたろ。……で、せっかく解放されたってのに、信澄の様子がすっげぇ妙なんだ。理由を知ってるか?」
問いかける良晴に、五右衛門は「うにゅう」と猫のような声を洩らし、居心地悪そうに身をよじった。
「拙者、その件に関しては津田氏から、かたくかたーく口止めちゃれているでごじゃる」
「おおっ! ひさしぶりに、五右衛門が噛んだ! やっぱ、これを聞かないと“わが家に帰ってきた感”がしねぇよな!」
「……うにゅうう~! 教えてやらないでござる!」
ぷい、とマスクの奥でそっぽを向いた五右衛門は、次の瞬間には庭から影も形も消えていた。
おそらく地中に潜ったのだろう。
「お、おい! 悪かったって! 久しぶりだったから、ついツッコんじまったんだよ! おーい、五右衛門ちゃーん! すねてないで出てこいってば~!」
『……ふんっ。相良氏のようなお子さまに話しても無駄でござる』
どこからともなく、拗ねた声だけが響いてくる。
「また土に潜りやがったか……。もぐら忍者かよ。はぁ……暇だし、刃の見舞いにでも行くか」
良晴は立ち上がり、縁側の霜を踏みしめて歩き出した。
ちょうどその時だった。
「刃どの! 明智さまになにを吹き込まれたのか、ですぞ!」
「たたたたいへんです、刃さん~! あああ明智さまがいらっしゃいました! 一体何を言ったらああなるんですか!」
幼い妹のねねと、小柄な軍師・竹中半兵衛の声が聞こえ、隣の部屋からごろごろ、ばたん!と何かが倒れる音がした。
「な、なんだ? 何があった!?」
良晴は慌てて襖を開け放ち、隣の部屋へと飛び込む。
するとそこには、思わず目を疑うような光景があった。
「半兵衛、どいてくれ。……俺の顔に尻が乗っている」
布団の上で横たわる刃が、赤い瞳を半眼にしながらぼそりと呟く。
「くすんくすん、ごめんなさい……! で、でも、そんなこと言ってる場合じゃないんですよぉ!」
泣き顔のままわたわたと腰を浮かせる半兵衛。だが余計にバランスを崩し、かえって刃の顔面にぺたりと座り込む始末。
「……余計に密着しているぞ、半兵衛」
刃の声は平然としていたが、その光景はどう見てもアウト。
さらに、ねねが小さな体で刃の腰にぎゅっとしがみつき、顔を埋めている。よりによって、位置が危険すぎる。
「ねねも退いてくれないか? ……股間に顔を埋められるのは、流石にまずい。誤解を生む……絶対に」
刃は淡々とした口調で言うが、状況はどう見ても修羅場だ。
その瞬間、良晴は目を剥いた。
「は、刃!? いや、まあ、半兵衛ちゃんは恋人だしな! 百歩譲って良いとする! ……が!」
ぶんっと腕を振り上げて叫ぶ。
「ねねはまだ七歳だぞ!? いやまさか、やっぱりお前は露璃魂だったのかぁぁぁ!?」
「違う」
刃は即答。だがその冷静さが逆に怪しさを増しているように見え、良晴はひとりで頭を抱えた。
「兄さま!」
ねねが涙声で顔を上げる。
「今はそれどころではないのですぞ! 明智さまが……たいへんなのですぞ!」
「十兵衛ちゃん? あいつが面倒臭いのはいつものことだろ。なにをおたおたしてんだよ。半兵衛ちゃんまで大泣きしやがって……」
「くすん……違うんです……今日の明智さまは、面倒臭いどころじゃないんです!」
半兵衛が嗚咽まじりに訴える。
(……半兵衛ちゃんがここまで取り乱すなんて、いったい十兵衛ちゃんがどうしたってんだ?)
良晴が口を開こうとした、その時だった。
襖が勢いよく開かれた。
「二人とも、私の旦那さまになにをしているですか! どきやがれ、です♪」
ぽんっ、ぽんっ!
華奢な手が伸び、ねねと半兵衛の小さな体がまるで枯葉のように軽々と掴まれて、部屋の隅へ次々と放り投げられる。
現れたのは──広いおでこ、長い黒髪にきんかんの髪飾り。見慣れた明智十兵衛光秀。
しかし。
「って、十兵衛ちゃん!? な、なんだその姿は! 誰と結婚するんだよっ!?」
良晴が絶叫した。
そう──。
なぜか今日の光秀は、純白の花嫁衣装に身を包んでいたのだ。
長い黒髪は文金高島田風に結い上げられ、雪のように白い肌に紅が差され、細身の体を包むのは、きらびやかな白無垢。
その頭には純白の角隠しがそっと添えられ、艶やかさと神聖さを兼ね備えていた。
花嫁衣装に身を包み、ほんのりと頬を染めている光秀に、良晴は思わず息を呑んだ。
(……やべえ。すっげぇ清楚! やべえくらい可憐! いやいや、これ花嫁ガチャで一番上位レアリティの演出だろ!?)
思わず鼻の下を伸ばしそうになったその瞬間。
地獄の釜の蓋は、あっさりと開いた。
「誰と結婚って、なにをわかりきったことを言うですか」
白無垢姿の光秀が、潤んだ瞳で微笑み、真っすぐに刃を指差す。
「もちろん──天城先輩に決まっているです♪」
部屋の空気が、ぱきん、と音を立てて凍りつく。
「は?……はぁぁ!?え?刃と十兵衛ちゃんが結婚!?え、え!? 刃!? 信奈は!? 犬千代は!? 長秀さんは!? 半兵衛ちゃんは!?……恋人四人とも置き去りで、恋人じゃない十兵衛ちゃんと結婚すんのか!? なんで!? どういうルート分岐だよこれぇぇぇ!!」
良晴が目を白黒させて床を転げ回る。
「いや、俺も初耳なんだが」
刃は変わらぬ調子で淡々と応じる。
「初耳!? お前、そこは否定しろよ!? 『俺の心は姫様だけだ』とか言っとけよ!? なんで『初耳』で済ませてんだよ!?この場の空気を爆弾で爆破してんじゃねぇぇぇ!!」
良晴は髪をかきむしり、壁に頭を打ちつける。
光秀はそんな彼を一瞥もしない。
純白の角隠しの下で、その瞳はただ一人──刃だけを映していた。
「これは主命です♪」
光秀は胸に手を当て、白無垢の袖を揺らしながら、艶やかに告げた。
「光秀は信奈さまから先輩を託されましたです。『これからも刃を支えて欲しい』って、そのお言葉は──すなわち婚儀の誓詞と同じ。だから、光秀はこの身を花嫁として捧げるです」
「主命!? いやいやいやいや! 勝手に変換するなぁぁ!!」
良晴が床をばしばし叩いて大絶叫。畳がみしみしと悲鳴をあげる。
「信奈はぜってーそんなこと一言も言ってねえ!! 『支えろ』はまだしも、『嫁げ』なんて言ってねえ!! 日本語の曲解にも程があるだろぉぉぉ!!」
しかし光秀は、潤んだ瞳を細め、一歩、また一歩と刃に歩み寄る。
白無垢の裾がすれるたびに、しん……と空気が張り詰め、畳の目が音を立てて軋むようにすら感じられた。
「でも……信奈さまが言ったのは事実です」
熱に潤んだ瞳。
「先輩を支えるとは……妻として寄り添うこと。愛するとは……夫婦として結ばれること。それ以外に解釈はないのです」
「いやあるだろ!? 他の解釈山ほどあるだろ!? むしろ普通はそっちだろ!!」
良晴は両手で頭を抱え、涙目で叫ぶ。
「なんで“支えろ”が“嫁げ”に変換されてんだよ!? お前の脳みそ、婚姻フィルター常時オンなのかぁぁぁ!?」
その時、刃が低く呟いた。
「……姫様からの命、そういうことか」
「お前まで誤解すんなよぉぉぉ!!」
良晴は顔を真っ赤にしてがばっと振り向いた。
だが刃の表情は、真剣そのものだった。
紅い瞳が淡々と光を帯び、重い事実を吐き出すように響く。
「俺は戦で名声こそ得たが、家柄はない。血筋もなく、どこの馬の骨とも分からぬ存在だ。……姫様はそれを案じられたのだろう」
「えっ……」
ねねと半兵衛が同時に声を洩らす。その声には驚きと、言いようのない不安が混じっていた。
刃は続けた。
「明智家は今は没落しているが、高貴な血筋と家柄を持っている。俺の家を一から立てるより、光秀を嫁がせ、俺の立場を補強する……そう考えたのではないか」
白無垢の光秀は、頰を赤らめながらうっとりと両手を組む。
「その通りです♪ 先輩を守るため、私が嫁ぐのです。信奈さまのお気持ちを無駄にしてはならないのです」
「ちょっ、ちょっと待て!」
良晴が飛び上がり、両腕を振り回して大騒ぎする。
「なんでそんな冷静に納得してんだよ!? 信奈はそんな打算的なこと考えねえって! むしろ信奈は“家柄?知らねー!刃がいればいい!”タイプだろ!? あの独占欲の塊みたいな信奈が、正妻の座を自ら明け渡すわけないだろ!!」
「しかしだな」
刃は微動だにせず、紅い瞳で光秀を見据えたまま言葉を継ぐ。
「大名を目指す上で、家柄がいいことは決して損ではない」
「損得の問題じゃねえだろぉぉぉ!!」
良晴は頭を抱えて床を転げ回る。
その時。
「くすん、くすん……刃さん……」
半兵衛が両目を潤ませ、袖で必死に涙を拭いながら刃を見上げた。
「わ、わたしじゃなくて……光秀さんと結婚するんですか……? そんな……そんなの、嫌です……!」
「刃どの……!」
ねねも小さな拳を握りしめ、震える声で言った。
「いつのまに……いつのまに明智さまとそんな抜き差しならない仲に……!? 刃どのは……て、手が早すぎますぞ!!」
「違うっ!」
刃が口を開くより早く、良晴が全力で割り込んだ。
「半兵衛ちゃん! ねね! お前らも冷静になれ!! これは全部十兵衛ちゃんの婚姻脳の暴走だから!! 刃は悪くねぇ! 悪いのは全部この白無垢に脳を侵食された十兵衛ちゃんだ!!」
「まあまあ、三人とも静かにするです♪」
光秀は両手を胸の前で合わせ、うっとりと微笑んだ。
「旦那さま? 信奈さまよりいただいた坂本の地で、ただいま城普請をはじめています。この『坂本城』には松永久秀の真似っこをして壮大な天守を築きますが――天守の最上階は、私たち夫婦の愛の巣にしちゃうです♪」
「……は?」
良晴の脳が一瞬フリーズした。
光秀は頬を赤らめ、恥ずかしそうに指で畳に「の」の字をぐりぐりと書きながら続ける。
「夫婦が愛しあうために毎晩一緒に寝るという『だぶるべっど』なる嬉し恥ずかしい寝具を、南蛮商人より高いお金を払って買い求めましたです♡ そのだぶるべっどは、私と旦那さま以外は立ち入り禁止となる愛の最上階に設置する予定になっておりますです♪」
にこにこと笑いながら、懐から大切そうに取り出したのは坂本城の設計図。光秀はそれを縁側に広げ、白無垢姿のまま身を乗り出す。
「ほら見てください♪ この最上階――ここが二人の愛の巣です♡」
嬉しそうに、天守最上階の部分を朱色の筆でぐりぐりと囲み、さらにハートマークまで描き足していく。
「坂本城はまたの名を『愛の巣城』と呼ばせる予定になっておりますです♪」
「そ、それは勘弁願いたいな……」
刃がぼそりと呟く。だが顔はいたって真剣で、図面を興味深そうに覗き込んでいる。
「やめろぉぉぉぉぉ!!」
良晴が絶叫しながら設計図を引き剝がそうとする。
「何勝手に天守を愛の巣にしてんだよ!? しかも名前が『愛の巣城』!? 織田軍の重要拠点がラブホテル扱いになっちまうだろおおお!!」
「え、え……愛の巣……? 刃さんと十兵衛さんが、毎晩……?」
半兵衛の顔が一気に真っ赤に染まり、耳まで火がついたように熱を帯びる。小さな手で口を押さえ、震えながら刃を見上げる。
「うぅぅぅぅ……ねねは……ねねは絶対いやですぞ!」
ねねは今にも泣き出しそうな顔で、拳を振り上げて光秀の図面をぐしゃぐしゃにしようと突進する。
「ま、待ってください、これは神聖な設計図です! 未来の夫婦生活が詰まった夢の地図なのですぅ!」
光秀が大事そうに図面を抱え込むと、ねねと半兵衛が「ダメです!」と同時に叫び、光秀に飛びかかった。
白無垢、涙、叫び声、設計図、そして「愛の巣城」。
妙覚寺の一室は、恋と嫉妬と勘違いが渦巻く、まさに地獄の修羅場と化していた。
「……津田信澄がふらりと遊びに来ている」
「デアルカ」
せっかちな信奈の口から、短縮された返事が無意識にこぼれる。
虎皮の帽子をちょこんと被った小姓・前田犬千代が「信澄が来ている」と声をかけたのだが、信奈はいらだちのあまり、いま自分が本能寺の仮宿で昼餉をとっている最中だということすら忘れかけていた。
――なににいらだっているのか。
その理由は山ほどあった。
まずひとつ。
同盟相手にして「弟分」だと思っていた浅井長政が、信奈の宿敵・朝倉義景側に寝返ったこと。信奈にとってこれは単なる裏切り以上の痛手だった。心を許していたからこそ、裏切りの痛みは鋭く胸に突き刺さる。
そして二つ目。
長政変心の原因が、自らが「妹」と偽って送り込んだ津田信澄にあるのではないか、という家中の噂だ。――信澄が女装して潜入したのが、結局ばれてしまったのではないか? それが長政の心を逆撫でして裏切りを決意させたのではないか?
信澄本人は近江で何があったのか口をつぐんで語ろうとしない。そこがまた信奈の神経を逆なでしていた。
さらに三つ目。
とうとう武田信玄が「上洛の軍を興す」と大義名分を掲げ、信奈に書状を送りつけてきたこと。挑発とも宣戦布告とも取れるその文面に、信奈は激昂しながらも内心の焦りを隠せなかった。天下取りを掲げる自分より先に、あの戦国最強の巨星が表立って動き出したのだ。
四つ目。
ひさしぶりに再会した義父・斎藤道三も、信玄の動きを聞いた途端に「この美濃を固めねばならぬ」と言い残し、慌ただしく岐阜城へ戻ってしまった。
――だが、最大の理由は別にあった。
刃が、そばにいない。
金ヶ崎の退き口で、右肩から左脇腹まで裂かれ、さらに種子島の弾を受け、瀕死の重傷を負った刃。彼を、妙覚寺に閉じ込めたのは他ならぬ自分の命令だ。
「療養せよ」と強く命じたせいで、信奈自身が会いに行きずらくなってしまった。
軍議の席で良晴に様子を尋ねても、返ってくる答えは決まって――
「半兵衛ちゃんやねね、五右衛門といちゃいちゃしてる」
その一言。
信奈は湯気の消えた膳に箸を落とし、食欲を失った。
重苦しい沈黙を破るように、犬千代が再び袖を引っ張った。
「……姫さま、姫さま」
「なに?」
「……信澄が来ている」
「ああ、そうだったわね」
信奈は無意識に声を荒げたが、すぐに唇を噛む。
「近江から戻ってきて以来、顔も見せずに閉じこもっていたのに……文句を言いに来たのかしら。男同士で政略結婚なんかさせたから」
犬千代は首を横に振った。
「……特に怒っている様子はない」
「あら、そう」
信奈は苦々しく笑った。
「食事中だけど、いいわ。通して」
犬千代が小さく頷く。
やがて襖が開かれ、家老の柴田勝家と丹羽長秀に伴われて――信澄が入ってきた。
白粉を引き、姫装束を纏った姿のまま。
「やあ姉上。この勘十郎信澄、長政に離縁されて織田家に出戻って参りました。ただいま、堺の今井宗久どのと組んでういろうの新味開発にとりかかっている次第です」
冒頭から、かねがね「ういろう大臣」の座を狙っていた信澄らしい挨拶である。
「デアルカ」
信奈は、意外にも久方ぶりに顔を合わせた信澄が、浅井長政との政略結婚の件で怒っていないことに安堵した。だがすぐに眉をひそめる。
(じゃあ……なにしに来たのかしら?)
鮎を頭からがぶりと齧りながら、いぶかしむ。
「最近、鮎ばかり食べている気がするわ。名古屋コーチンのてばさきが恋しいわね」
「姉上。本日は、ぼかぁ弟として、姉上に諫言しに参りました。ははは」
「諫言?」
信奈は箸を止め、鋭い視線を投げる。
「武田信玄と浅井朝倉連合軍を同時に相手にしながら京を守り抜くのは無理だとでも言いに来たの?」
「いえいえ、そういう軍事の話はぼくにはちょっと難しくて。ですが……ぼくにも得意な道というものがありましてね」
「得意な道?」
信奈は顎に手を当て、じっと考える。
「えーと……じょ、女装くらいじゃなかった?」
信澄のためになにかいいところを見つけてやろうとした信奈だったが、ほんとうに、他になにも思いつかなかった。
「姉上、ひどいなぁ」
信澄は頬を膨らませて抗議する。
「いやだなあ、おわかりになりませぬか? ずばり〝恋の道〟です、姉上。はっはっは!」
「はぁ?」
信奈の目が大きく見開かれる。
「……まさか……浅井長政にあんなことやこんなことをされて、頭が……? うっ、かわいそうに、勘十郎。あんたを姫に仕立てたわたしが悪かったわ」
「ち、違いますってば!!」
「……特に恋だの愛だの、そんな風流趣味はあんたになかったでしょう? 親衛隊をはべらせてどんちゃん騒ぎするくらいが関の山で」
「違います! ぼかぁつくづく思い知らされたんです」
信澄は畳に手を突き、真顔になる。
「人の一生には、運命というものがある。天の時・地の利・人の和……自分の思う通りにはならない。けれど……この乱世で、男女が互いに出会い、愛し合い、一度きりの人生を共に歩む――それは何より尊い幸運だと!」
珍しく信澄が真面目なことを口にしたので、場が一瞬静まった。
勝家は隣の長秀に小声で囁く。
「……難しすぎて意味が分からんが」
「浅井家で多少は成長なされたのでしょう。八十点です」
長秀がさらりと返す。
「勘十郎? わたし、回りくどい話が苦手なの。はっきり言ってちょうだい」
「承知しました!」
信澄は勢いよく顔を上げ、声を張り上げた。
「ぼくは浅井長政と夫婦になりましたが、運命によって別れてしまいました。ぼくたちは――まことに不幸です!」
「……謎」
犬千代が素直に首をかしげる。
「男同士で夫婦になったことが不幸。別れられて幸運なのでは?」
「勘十郎、それで? ういろうをあげるから、早く結論を言いなさい」
信奈も苛立ちを隠さず、眉をつり上げる。
そして次の瞬間――。
平伏していた信澄が、がばっと顔を上げ、炎のような眼差しで叫んだ。
「姉上、もっと素直にならないと!」
「……は?」
思わず信奈の口元がひきつった。箸を持った手も止まり、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「素直……?」
「そうです姉上!」
信澄は膝をにじり寄せ、拳をぎゅっと握りしめて熱弁を始める。
「ぼかぁ、浅井長政と夫婦になり……そして離縁され……恋の尊さと無情さを骨の髄まで味わいました。人は出会い、惹かれ合い、そして素直に心を伝えなければ……愛は、するりと指の間から砂のように零れ落ちてしまうのです!」
「……」
勝家は思わず口を半開きにして固まった。
長秀は「なるほど」と顎に手を当てながらも、眉尻を寄せて「ちょっと重いですね」と小声でつぶやく。
犬千代はといえば、きょとんとした顔で首をかしげていた。
「……つまり……姫さまが素直じゃないと、愛が逃げちゃう、ということ?」
「その通りだ!」
信澄は指をぴしっと突きつける。
「このままでは、懐刀くんの正妻の座は――他の方のものになってしまうかもしれませんよ?」
「なっ……!?」
信奈の頬が瞬時に朱に染まり、がたりと椅子を蹴って立ち上がった。
胸の鼓動がどくんどくんと早鐘を打つ。
「そ、そんなわけ……!」
「おかしい話ではないでしょう?」
信澄は畳を叩きながら、言葉を畳みかける。
「姉上の他にも三人恋人がおり、さらに乱波くんやねねちゃん、明智どのと……懐刀くんに想いを寄せる女の子はまだまだいます!」
「~~っ!?」
信奈の胸に鋭い楔が打ち込まれたようだった。
理屈では否定できても、心はざわめき、嫉妬の炎がじりじりと広がっていく。
そんな姉の動揺を見逃さず、信澄はさらに一歩迫った。
「姉上、懐刀くんがいなくて寂しいのでしょう? ならば何故、会いに行かないのですか!」
「っ……!」
喉の奥で声が詰まる。
言いたい言葉はあるのに出てこない。
会いたい。
抱きしめたい。
声が聞きたい。
姿が見たい。
刃の無骨な手が、自分の髪を梳いてくれる感触。
紅い瞳で優しく見つめ「姫様」と呼びかけてくれるあの声。
それらが脳裏に去来するだけで胸が苦しくなる。
だが――。
「……療養せよと、命じたのは……わたし……。わたしが会いに行って……療養の邪魔をするなんて、ダメよ……」
かすれた声で吐き出したその言葉は、苦しい言い訳にしかならなかった。
犬千代の丸い瞳がしゅんと曇り、勝家は腕を組んで嘆息し、長秀は「また始まった」と肩をすくめる。
だが、そんな空気をぶち破ったのは――。
「姉上!!」
畳を叩いて身を乗り出した信澄だった。
がばっと顔を上げ、炎のようにぎらついた眼差しで姉を射抜く。
「姉上のその! おそろしくねじくれて素直じゃない困った性格!」
「ひっ……!」
「もし懐刀くんに愛想を尽かされても、文句は言えませんよ!!」
ずばりと言い切られた瞬間、信奈の胸に雷が落ちたような衝撃が走る。
(……っ!? あ、愛想を尽かされる……? わ、わたしが……!?)
想像してしまう。
自分の隣にいるべき銀髪の青年が、ふと振り返り――
『もう姫様とはやっていけません』
そう突き放し、半兵衛やねねや光秀のもとへ歩み去っていく姿を。
手を伸ばしても、決して振り返ってはくれない。
紅い瞳は冷たく、もう自分を見てくれることはない。
「~~~~っ!!」
心臓を鷲掴みにされたように苦しい。
吐き気がするほど胸が痛い。
全身の血が逆流したように熱くなり、こみ上げる感情を抑えきれず――
がたり、と音を立てて椅子を蹴り立て、信奈は立ち上がった。
「そ、そんなわけ、あるかぁぁぁっ!!」
真っ赤に染まった顔で絶叫する。
声は震え、唇はわななき、涙さえ滲んでいた。
「刃はっ……わたしを裏切らないっ!!」
「……」
「見捨てたりしないわ! 絶対に!!」
叫ぶ信奈の姿は、気丈な大名ではなく、愛に縋る少女の慟哭だった。
しんと静まり返る部屋。
勝家は驚いて腕を組んだまま言葉を失い、信澄はしてやったりと得意げに顎を引く。
そして――。
「信澄どのの献策は、満点です」
ようやく落ち着きを取り戻した丹羽長秀が、静かに立ち上がった。
涼しい声に宿るのは、冷静な判断と優しい叱咤。
「姫。私や犬千代も、姫に合わせて刃どのに最近会えていません」
「……刃に会いにいく、犬千代も会いたい」
朱槍を担いだ犬千代と長秀が、「えっ、ちょっと」とじたばた暴れはじめた信奈の両脇をつかんで、ひきずっていった。
こうして三人は、地獄の修羅場に足を運んだ。
襖を乱暴に開け放ち、信奈・犬千代・長秀の三人が雪崩れ込む。
その瞬間、目に飛び込んできた光景は――
純白の衣に身を包んだ明智光秀が、花嫁のような恍惚の笑みを浮かべて座っている姿だった。
その手には婚姻誓詞。震える筆先で書きかけられた「天城」の名。
「天城先輩♪ あとはこの諸書に名前を書いていただければ……私と天城先輩は、めでたく夫婦です♪」
甘く蕩ける声。瞳は熱に潤み、すでに“嫁入りする女”の覚悟そのものであった。
「うわあああああああああああああああああっ!!?」
光景を前に、床を転げ回る影が一つ。
相良良晴だ。髪をかきむしり、目をひん剥き、叫びながら畳に頭を打ち付ける。
「だから待てやぁぁぁぁぁぁ!!? 刃もなんか言えよ!やっきから黙って図面見て何してんだよ!?」
その叫びに、銀髪の青年はゆるりと顔を上げた。
「ん? いや、よく考えられているなと思ってな。要害としても十分機能するだろう。……だぶるべっどの場所はさておき、ここからの眺めは確かに良さそうだ」
淡々と告げる刃。
その指は光秀の誓詞ではなく、広げられた建築図面をなぞっていた。
「図面の心配してる場合かああああぁぁぁっ!!」
良晴が血を吐くような絶叫を放つ。
だが、その叫びにかぶさるように、二つの甲高い声が重なった。
「刃さんっ! 光秀さんと結婚なんてダメですからね!」
「刃どの! そんなのは、ダメですぞ!!」
振り返れば、半兵衛とねねが涙目で必死に刃の袖を引き止めていた。
半兵衛は震える唇で「だめですだめです」を繰り返し、ねねは「ねねの方が……!」と子犬のように訴えている。
白無垢姿の光秀。
床を転げ回る良晴。
図面を見つめる刃。
涙目で縋る半兵衛とねね。
――その地獄絵図を目の当たりにして、突入してきた三人は、一瞬にして凍り付いた。
犬千代は槍を取り落としそうになり、長秀は無表情のまま額に青筋を浮かべ、信奈は……信奈は。
(……な、なに、これ……?)
頬を引きつらせ、眉を跳ね上げ、燃え上がる炎のようなオーラを放っていた。
その瞳には怒りと嫉妬と、そして滲む涙。
――その中で。
銀髪の青年だけが、違った。
彼は背後から迫る気配をいち早く察し、静かに図面を畳むと、すっと立ち上がる。
そして片膝をつき、深々と頭を垂れた。
「……お久しぶりです、姫様」
その落ち着き払った態度は、むしろ怒りを煽る燃料にしかならない。
良晴は信奈の顔を盗み見て、全身の毛穴が開くのを感じた。
(やっべえええ!! 信奈のやつ悪鬼羅刹どころか泣き鬼羅刹モードだぁぁ! 涙まで滲んでんじゃねぇか!! これマジで首飛ぶぞぉぉ!!)
――ゴオォォ……
信奈の背後に、燃え盛る炎と角を生やした巨大な鬼の幻影が揺らめく。
次の瞬間。
ばちいいいいんっ!!!
乾いた音が妙覚寺に響き渡る。
信奈の掌が、刃の頬を全力で打ち据えた。
「じゅ、じゅじゅじゅ十兵衛と……け、結婚するですってぇぇぇ!?!?」
声が裏返り、怒りと動揺がないまぜになった絶叫が飛び出す。
「いったい……あんた、なに考えてんのよぉぉぉっ!!?」
震える声には怒りだけでなく、裏切られる恐怖、愛想を尽かされる不安が滲んでいた。
涙が頬を伝い、火照った顔が一層紅く染まる。
犬千代は朱槍を握り直し、長秀は扇を閉じて刃を真っ直ぐ睨む。
二人とも、背筋から氷柱のような殺気を滲ませている。
刃は、まるで当然とばかりに口を開いた。
「なにを、と言われましても。姫様が光秀に、私に嫁ぐよう命令を下されたのでは?」
「は、はぁぁぁぁぁっ!?!?!?」
信奈の絶叫が、障子を突き破って外へ漏れ出した。
「な、なんでわたしがっ! 十兵衛にそんな命令するわけないでしょうがあああ!!
そんな言い訳、通ると思ってるのっ!?!?」
彼女は再び手を振り上げ、刃の頬にもう一度ビンタを叩き込もうとする――その瞬間。
「そうなのです♪」
ひときわ陽気で甘ったるい声が響いた。
白無垢姿の光秀が、恥じらうどころか満面の笑みを浮かべて両手を広げる。
「この祝言は、信奈さまじきじきのご命令なのです♪
天城先輩も了承済みで、あとは婚姻の儀を執り行うばかり……です♡」
「…………っ!?」
信奈の振り上げた手が空中で硬直する。
全身から血の気が引いていくのを感じながら、わなわなと震えた。
「わ、わたしはそんな命令をした覚えは……」
「なあんだ、十兵衛の勘違いか」と、信奈の怒気がほんの僅かに和らいだ――その瞬間。
「もっとも……この十兵衛光秀はすでに先輩に唇を捧げ、裸で抱き合ってしまった仲ですから♡
たとえご命令がなくとも、いずれはこうなる運命だったです♡」
「……………………」
時が止まった。
「~~~~~~~~~~~~~~~っっっ!!!!!」
信奈の全身に稲妻が走り、顔が爆発したように真っ赤に染まる。
(なっ……ななななに言ってんのこの女あああああああああ!?!?!?)
犬千代と長秀も「え、えええええ!?」と素で声を漏らし、顔を真っ赤にして固まる。
信奈の頭の中では――
刃が光秀を抱き寄せ、激しく口づけ、互いの体温を確かめ合いながら肌を重ねる淫靡な光景が勝手に再生されてしまった。
「じゅ、十兵衛ちゃんそれ一番言っちゃダメなやつううううう!!!???」
良晴が床を転げ回りながら絶叫した。
「金ヶ崎での救命処置だったのは分かるけどぉぉぉ!? 今そんなこと言ったら火に油だってぇぇぇ!!!」
しかし時すでに遅し。
信奈は顔を真っ赤に染め、ぶるぶると震えていた。
やがて、その瞳の奥から光が消える。
「……死罪」
――静かで、抑揚のない声。
「……っ」
良晴の背筋を冷たい悪寒が走る。
(や、やっべえ……信奈の静かなキレっぷり……これはマジだ。本気で首飛ぶやつだ……!)
鬼火の幻が再び信奈の背後に現れ、今度は巨大な炎の鬼が刀を抜く幻まで見える。
あわてた長秀、半兵衛たちが
「お待ちください姫!」
「い、いけません! 刃さんを失っては織田の軍勢は……っ!」
長秀と半兵衛は必死に両手を広げて刃を庇い、犬千代は朱槍を逆手に構えて信奈の前に立ちふさがる。ねねは刃の腕にすがりつき涙ながらに訴えてくる。
それでも刃本人は――微動だにしない。
片膝をつき、静かに頭を垂れたまま、まるで自らの死を受け入れるかのように。
「……姫様がそう望まれるのならば」
無抵抗の声音が、逆に信奈の怒りを燃え盛らせる。
胸の奥で、嫉妬と独占欲がごうごうと炎を上げていた。
かろうじて周囲の必死の嘆願で、信奈は刀を振り下ろす代わりに怒りを呑み込み――死罪だけは免じられた。
――だが。
光秀は、事態をまるで理解していなかった。
白無垢姿のまま、にっこにこで鼻歌を歌い出す。
「愛の巣城♪ 愛の巣城♪ 天城先輩と十兵衛のお城~♪」
空気を読まない光秀の浮かれっぷりは、信奈の逆鱗を完全に踏み抜いた。
「……もう、我慢ならないわ!」
信奈の声が震え、部屋の空気が一気に凍りつく。
「刃ッ! あんたはヒラ足軽に降格よっ!
天城刃軍団は解散っ! 半兵衛は今日からわたしの直属の家臣!
あんたは伊勢に左遷よ! 今すぐ伊勢に行っちゃえ!
左近の下働きで一生を終えちゃえっ!!」
完全に感情だけでぶっ放された無茶苦茶な報復人事だった。
長秀が蒼白な顔で声を張る。
「姫っ! 伊勢の滝川一益どののもとへ刃どの一人を左遷するなど……零点よりも最悪です!
この策は戦術としても、戦略としてもっ……!」
だが、信奈は聞く耳を持たない。
その瞳は涙で揺れながらも、意地の炎を絶やさぬようにぎらついている。
そして――良晴が堪え切れず、ついに爆発した。
「待て信奈ァァッ!!てめえ今なんつった!?
この状況で刃を左遷だと!? 軍団解散だと!?
バカも休み休み言えやああああ!!!」
良晴は目を血走らせ、信奈を睨みつける。
「浅井、朝倉、それに武田信玄だぞ!?
日本最強の敵が牙を剥こうって時に、最強の切り札を自分の嫉妬心で捨てる気か!?
頭おかしいんじゃねぇのか!? バカ女ぁっ!!」
良晴の顔は真っ赤に染まり、拳を震わせて叫び続ける。
「お前、そんなに死にてぇのか!?
天下とかどうでもいいのか!?
こんなしょーもないヤキモチで破滅してーのかよ!?
織田信奈が天下人? 笑わせんな! そんなんただの恋に狂ったお子様だ!
織田信奈がこんなバカ女だったなんて……呆れたぜ!
バカ! バーカ!!」
その痛烈な罵声に、信奈の顔は真っ赤に染まる。
怒りなのか、羞恥なのか、涙がこぼれそうなのか――誰にも分からない。
「ふ、ふんっ……! 刃なんかいなくたって織田軍は無敵よ!
殺されないだけありがたく思いなさいよっ!!」
声は怒号というより、泣き出しそうな少女の強がりだった。
その時、場違いなほど浮かれた声が響く。
「まったく困ったことです。でも、これは旦那さまが十兵衛の夫として相応しいかどうかを試すために、信奈さまが与えた最後の試練……!」
白無垢姿の光秀が、うっとりと手を合わせて頬を染めている。
「十兵衛光秀は、旦那さまのお帰りをいつまでもお待ちしております……愛の巣城で♡」
「テメェいい加減に黙れぇぇぇ!!」
良晴が床を転がりながら光秀に突っ込むが、その滑稽さすら今は笑えない。
「良晴、もういい」
低く落ち着いた声が響き渡る。――刃だ。
彼は堂内の中央で姿勢を正し、静かに頭を垂れた。
銀の髪が揺れ、紅い瞳がわずかに伏せられる。
「承知いたしました、姫様」
澄んだ声が堂内に響く。
その響きは、決して逆らうことのない忠誠を帯びていながら、どこか冷ややかに遠い。
「これより伊勢に向かいます」
「はっ、刃さん……!」
半兵衛が慌てて声を上げ、ねねも涙目で首を振る。
だが刃は静かに続けた。
「空席になった姫様の護衛は、光秀が適任かと。
剣術の手解きも幾度か行いました。
姫様の傍らに仕える者として……光秀は申し分ないでしょう」
「……!」
光秀の頬が朱に染まり、胸に手を当てる。
「旦那さまが……わたしを、姫様の護りに……♡」
と呟き、恍惚とした表情でうなずくその姿は、なおさら信奈の胸を苛立たせた。唇を噛み締め、拳を握りしめる――けれど、それ以上の言葉は喉を塞がれたように出てこない。
「姫様の勝利を……お祈りしております」
その一言は、祈りではなく――別れの宣告だった。
(姫様、またお会いしましょう。……そんな顔をしないでください、貴女の意図は分かっています)
怒りに震える表情の奥で、隠しきれずに滲む信奈の不安と期待。
刃はその揺れる心を、ただ一人、確かに見抜いていた。
(武田信玄との戦には……必ず、間に合って見せます。伊勢から援軍を引き連れて)
彼の脳裏に、まだ見ぬ武将の名が浮かぶ。
滝川一益――甲賀からの流れ者にして、伊勢を預かる切れ者。
(どんなやつかは知らん。だが扱いやすければ助かる。姫様の未来のために、利用できるものはすべて使う)
心の声は、冷ややかな仮面の奥に沈められた。
そして――。
刃はゆっくりと立ち上がり、障子を開ける。
妙覚寺の庭に出ると、突如として風が巻き起こった。
松の枝がざわめき、砂利が渦を描き、白い衣がはためく。
銀の髪が風に乗って翻り、紅い瞳が一瞬、振り返るかのように輝いた。
次の刹那――。
その姿は霞に溶けるように、音もなく消え去った。
ただ、風の残響だけが堂内に吹き込み、消えていった。
――失われたのだ。
織田信奈ただ一人の懐刀。
敵軍にとっては災厄、味方にとっては絶対の守り神。
最強の剣士が。
信奈の影であり、未来を切り拓く白刃そのものが。
「……っ」
誰一人、すぐには言葉を発せなかった。
良晴は拳を握り締め、怒りと無力感に唇を震わせる。
犬千代と長秀は息を呑み、信奈の顔を窺う。
光秀だけが胸に手を当て、「旦那さま……」と夢見るように呟いていた。
信奈は動けなかった。
刃を突き放したのは自分。
けれど、その背が霞に溶けて消えた瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような痛みが走る。
――それでも、涙だけは絶対に見せられない。
織田信奈は、この軍の主なのだから。
(お願い、刃。どうか、左近を)
妙覚寺の堂内に残ったのは、張り裂けそうな静寂だけだった。
刃が去ったあと、信奈・犬千代・長秀は本能寺へと帰って行った。
怒りをぶちまけた姫大名の背は、誰も近寄らせぬほどに強がりと孤独を纏っていた。犬千代も長秀も、掛けるべき言葉を見つけられぬまま、ただその小さな背を追いかけるしかなかった。
その夜。
良晴は、妙覚寺の一室で慌ただしく旅装を整えていた。
「ちくしょう……置いていかれてたまるかよ。アイツは絶対、伊勢で無茶やるに決まってる」
腰に短刀を差し、槍袋を担ぎ、米俵を裂いて少量の糧食を詰める。あの銀髪の背中をもう一度捕まえるために。
そんな良晴の背後に、いつのまにか半兵衛がひょっこり現れていた。
「……良晴さん。追いかけるつもりなんですね」
「当たり前だろ。放っとけるかよ。アイツがいなきゃ信奈も織田も終わりだ。……それに、オレは親友だからな」
良晴は振り返りもせず答えた。だが、半兵衛の声音はいつになく低く、含みを持っていた。
「じゃあ、ちょっとだけ内緒話を」
半兵衛は扉を閉め、外の気配を確かめてから、声を落とした。
「信奈さまが、ただ怒って刃さんを伊勢へ飛ばした――そう思ってるんでしょう?」
「……違うのか?」
半兵衛は小さく首を振る。
「もちろん、刃さんと光秀さんの祝言話を聞いて、心底から激怒しておられたのは間違いありません。ですが、それだけではありません」
彼女は扇で口元を隠し、いたずらっぽくも憂うように瞳を細める。
「伊勢には別働隊を率いる滝川一益さまがおられます。あのお方が、いまだに尾張へ戻って来られない」
良晴は眉をひそめた。
「滝川……?聞いたことはあるが、会ったことはねぇな」
「当然です。滝川さまは甲賀から流れてきて、信奈さまに仕官された新参者。独立独歩で伊勢を着々と攻略されてきた異能のお方です。ですが……旧家臣団との付き合いを避け、本国に顔を出さない。異例の出世の早さに、謎めいた出自。あまりに孤高すぎるために、一部からは謀反を疑われているのです」
半兵衛の声には、皮肉と憂いがないまぜになっていた。
「六角さまが甲賀に逃げて再起された時、滝川さまは動きませんでした。――そのせいで、『六角さまと裏で通じていたのでは?』なんて口さがない噂まで立っているのですよ」
良晴は息を呑む。
「まさか……信奈は滝川を疑って、刃を送ったってことか?」
「いいえ」
半兵衛は静かに首を振った。
「信奈さまは滝川さまを信じておられます。ですが、滝川さまのほうが信奈さまを避けている……。六角を撃した今も、尾張に戻ろうとされない」
半兵衛の目が、わずかに刃の消えた方角を追った。
「そこで……次に迫る武田信玄との大戦に、伊勢方面軍を必ず参加させたいと信奈さまは望んでおられます。その切り札こそ刃さん。刃さんなら、滝川さまを動かせる。だから信奈さまは刃さんを送ったのです」
良晴はぽかんと口を開けた。
「じゃあ……左遷ってのは、全部芝居か? 刃を目付役に見せないための……」
「おそらくは」
半兵衛は扇で口元を隠し、笑みを忍ばせた。
「懐刀から外し、軍団を解散してみせたのも、表向きは冷酷な感情人事に見せかけるため。実際には、刃さんを滝川さまの元へ送り込む密命だったのです。そして……刃さんは気づいていましたよ。だからあっさりと伊勢行きを受け入れたのでしょう」
「……バカ姫」
良晴は拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「どこまで回りくどいんだよ……素直に言えばいいのに。嫉妬して泣いて、同時に未来を守る策まで打って……。あの女はほんと、強がりばっかで」
その声音には怒りだけでなく、どうしようもない哀れみと、信奈への深い理解が混じっていた。
半兵衛は黙ってその横顔を見つめる。
やがて、目を細めて小さく囁いた。
「……良晴さん。わたしから言えるのはここまでです。あとは、頼みます」
部屋を去る半兵衛の小さな背が、闇に溶けるように消えていった。
残された良晴は、大きく息を吐き、荷を背負うと、決然と立ち上がった。
「よし……待ってろよ、刃。お前がどこまで霞みたいに消えても、俺は絶対追いついてやる!」
翌朝
良晴が妙覚寺を出ようとした時、門前から子供たちの甲高い声が響いてきた。
「出たっ! 勝家ゲットォ!」
「ずるい、オレはまだ光秀が出てないのに!」
どうやら京で流行っている「戦国武将メンコ」に夢中になっているらしい。
商人が店先で配る簡素なものから、絵師が丹精込めて描いた豪華版まで、その種類は数十に及ぶ。
名だたる武将の似顔と称号を描いたもので、子供から大人までこぞって集めては投げ合い、勝負に興じている。
行商人はその需要に便乗して高値で札を売りさばく。もはや一種の社会現象と化していた。
札を地面に叩きつける音が町のあちこちから響く。歓声、悔し泣き、勝者の自慢げな笑い声――戦国の世の人たちは、やはり戦国を遊びにして楽しんでいるのだ。
その中でも特に人気が高いのが、なかなか手に入らない「貴重メンコ」だ。その中には、とりわけ人気の高い四枚があった。
・武勇一等 …… 柴田勝家。戦場に響くその武名を子どもたちは「鬼柴田」の一言で覚えている。
・人徳一等 …… 丹羽長秀。温厚篤実な人格者として町人からも慕われる。
・知略一等 …… 明智光秀。軍師然とした姿が描かれ、知恵比べ好きの子どもたちの憧れ。
・勲功一等 …… 滝川一益。伊勢方面を治める功績を称えられた札であり、その希少性もあって奪い合いの的となっていた。
――そう、世にいう「織田家四天王」。
四枚を揃えた子供は仲間内で英雄扱いされ、町角でちやほやされる。札の紙切れ一枚であっても、子供たちにとっては戦国の夢そのものだった。
しかし、良晴は札の名前を耳にして、思わず心の中で叫んだ。
(いやいやおかしいだろ!? 武勇一等は絶対刃だろ!?勝家も強いけど、あの人外に勝てないからな!?知略一等? あいつの未来予測じみた戦略眼は、十兵衛ちゃんが霞むレベルだ!勲功一等? 織田家の戦勝の大半は刃がいなきゃ成り立たなかっただろ!?)
そう思うのは、良晴だけではない。
確かに勝家も長秀も光秀も、みな信奈を支える要の将だ。滝川にしても伊勢で大きな働きを立てているのだろう。
だが――。
実際、織田家の家臣や兵士たち、そして敵にすら――「最強は天城刃」と認めぬ者はいない。
京童たちが無邪気に札を並べているのを見れば見るほど、良晴の心はざわつく。
誰の目から見ても「一等」の座は刃であるはずなのに、そこにその名がない――それはあまりに不自然だった。
だが、そこには理由があった。
良晴は知らないが、刃にも当然織田家から「四天王の一角に」との正式な打診が届いた。
しかし、刃はその誘いをあっさりと――まるで興味もないかのように断ったのである。
――なぜか。
答えは単純。
「織田家四天王」だからである。
「織田家四天王」とは、織田家そのものに忠誠を誓う家臣の栄誉。
だが、刃は織田家に忠を誓ったことなど一度もない。
彼にとって織田家とは「信奈の居場所」にすぎず、家そのものに価値を見出しているわけではなかった。
むしろ過去の因縁――信奈を追い詰め、泣かせてきた旧家臣団の数々の仕打ちを思えば、刃の織田家そのものへの忠誠心など零だ。
刃が忠を誓う相手はただ一人。
――織田信奈。
彼の剣は、人生で最初にして最後の「主」である少女のため、そして彼の周りにいる限られた大切な者たちのためだけに振るわれる。
刃が織田家に身を置いているのも、信奈がその家の当主であるからにすぎない。
もしも信奈が追放され、当主の座を失ったとしても、刃に迷いは一片たりともない。
――彼はその背に付き従う。
新しい居場所を築き、必要ならば一から天下を取りに行くだろう。
織田家が立ち塞がるならば、敵として斬り伏せる。
たとえ何万の兵を揃えようと、信奈を害するならば容赦なく滅ぼす。
彼にとって織田家とはその程度の価値しかないのだ。
だからこそ、「織田家四天王」の枠に刃の名は入らなかった。
だが、それでも刃という存在を外すわけにはいかない。
その結果生まれたのが「貴重メンコ」の中でもさらに入手困難な一枚。
「織田信奈の懐刀 天城刃」
大名ですらないのに一枚限りの枠が設けられたのは、彼が織田の戦で最も恐ろしく、最も美しく、そして何よりも信奈の側に寄り添う存在だからだ。
札の表には、銀髪と紅の瞳を持ち、妖しくも気高い気配を放つ姿が描かれている。その鋭い刀身が墨線で煌めき、見る者の背筋をぞくりとさせた。
その稀少さゆえ、町中の子どもたちは喉から手が出るほど欲しがり、札を手にした者は英雄のように周囲から羨望の眼差しを浴びた。
さらに「貴重メンコ」の中には――ごく少数、二人一組で描かれたペア札も存在する。
その中で最も人気が高く、そして最も手に入りにくい一枚があった。
「織田信奈 × 天城刃」
札の絵柄は、背中合わせに立つ二人。
一方は、華やかな衣装に身を包み、扇を高く掲げた織田信奈。
もう一方は、銀の髪を風に散らし、紅い瞳に静かな光を宿した天城刃。
互いの背を預け合いながら、前を見据えるその姿。
そこには覇気と華が溢れ――主従にして、まるで夫婦のような気配すら漂っていた。
そのため、この札を引き当てた者は皆、大興奮。
「信奈さまと天の白刃さまが、二人で一枚になってる!」
「これはもう、ただの家臣じゃないぞ!」
子供から大人までが口々に叫び、町娘たちは赤面しながら「やっぱりお似合い……!」と囁き合った。
このペア札が市井に出回ったことで、京の町はさらに沸き立った。
子供たちは札を巡って喧嘩し、寺子屋では「俺は天の白刃だ!」「じゃあ俺は信奈様だ!」と役を決めて遊ぶ姿が見られた。
町娘たちはこぞって札を探し、茶屋では「誰かあの札を見せてくれないか」と値を吊り上げて取引される。
まるで小さな天下取りのように、札を巡る争奪戦が巻き起こっていた。
人々の目に映る「信奈と刃」は、すでに戦場を超え、町の遊びや日常の中にまで「象徴」として刻み込まれていたのである。
「刃はもう、伊勢についてるかもしれねぇ、俺も急がねぇと」
言葉にした瞬間、胸の奥に火が灯るように思えた。
未知の土地、未知の武将、未知の敵――そして刃を追いかける道。
それは怖ろしくもあり、胸躍る冒険でもあった。
こうして彼は、地図と期待と不安を胸に、伊勢へと旅立つのだった。