「ここが伊勢か……」
京を発った良晴がまだ道中にある頃、刃はすでに伊勢の地へと足を踏み入れていた。
白銀の髪を潮風に揺らしながら、まず足を運んだのはこの地の心臓――伊勢神宮である。
だが、そこで刃は思わぬ光景を目にすることになった。
各地から詣でに来た参拝客が、境内の前で立ち尽くし、不安そうにざわめいている。
どうやら神宮に入ることすら許されず、戸惑いと苛立ちを募らせていたのだ。
「……どういうことだ」
刃が近くにいた土地の百姓や、立ち塞がる神官に声をかけると――。
「そ、それが……」
と、神官の一人が震える声で答えた。
「奇妙な船に乗った、鬼の軍団が……伊勢の港町に現れまして……! 我らが神宮に伝わる宝具を奪い去ってしまったのです!!」
「鬼……?」
刃の紅い瞳が細められる。
「俺はまだ見たことがないが」
「い、いえ! たしかにこの目で見たのです! まさしく地獄の鬼でございました!」
神官は青ざめ、必死に首を振る。
なるほど。参拝客を締め出しているのは、さらなる襲撃を恐れてのことらしい。
だが事情を知らぬ人々は納得せず、門前では「なぜだ」「不信心ではない!」と怒声が飛び交っている。
刃も最初は素浪人と間違えられ、門前から追い払われそうになった。だが身分を明かすやいなや、神官たちは慌てて手のひらを返す。
「おおっ、織田家のお方でございましたか! どうか……どうか、我らをお助けくださいませ!!」
皆、地に額を擦りつける勢いで平伏してきた。
「……姫様に報告すべきだろうか」
刃が小さく呟くと、神官たちの顔色がみるみる蒼白になった。
「そ、それだけはご容赦を! 織田信奈さまに知られたら、我らは……神宮ごと焼き討ちにされてしまいます!!」
「……焼き討ち?」
刃が眉をひそめる。
「は、はい……! あのお方は神頼みをされぬ合理主義者。我ら神官に求められる職務倫理も、誰より厳しく……。織田家は元は越前の神官の一族であったものの、当主が武門に転じる際に神官としての仕事も利権もすっぱり捨てられた、と伝わっております。そのため信奈さまは、神官や僧侶が怠慢であることを殊更に嫌うのです! もし宝具を奪われたことが露見すれば……激怒されるのは必定……!」
必死の弁明に、刃はしばし沈黙する。
確かに信奈なら、容赦なく「無能」と断じるだろう。
「……それほど重要な宝具を、どうして港町に持ち出したんだ?」
問いかけに、神官は深々と頭を垂れる。
「うち続く戦乱で、伊勢神宮は行事すら満足に行えぬほど困窮しておりました。しかしこのたび、滝川一益さまのご尽力により資金を得て、式年遷宮の準備を進めていたのです。社殿の建て替えのため、一時的に宝具を移していたところを……」
「そこに折悪しく、鬼が現れた……か」
刃の瞳がわずかに細まる。
「滝川一益はこの件を知っているのか?」
「ええ。滝川さまも大いに困っておられます。『なんとしても鬼の手から宝具を取り戻さねば、尾張には戻れぬ』と……。今、その鬼どもは志摩に潜んでいるとの報せが」
刃は顎に手を当てた。
「……そこまでの宝具なのか?」
声を潜めた問いに、神官がさらに一歩身を寄せて囁く。
「……ここだけの話でございます。織田信奈さまには、なにとぞご内密に……」
神官の額から汗が滴り落ちる。
「奪われたのは――三種の神器のひとつ。八咫鏡にございます」
刃の瞳が、一瞬大きく見開かれた。
三種の神器――それは皇統の正統を示す天皇家の至宝。
伊勢神宮にある鏡が本物か否かはともかく、その象徴性と重みは計り知れない。
どうやら一益は、八咫鏡を奪回するまでは尾張に帰参できないらしい。
「……志摩、初めてきたが、なかなかの絶景だな」
刃の視線の先に広がるのは、英虞湾。
幾重にも入り組んだ複雑な海岸線が、まるで竜の鱗のように連なり、碧い海を抱き込んでいる。
その海面には大小無数の島々が浮かび、朝の光を受けて銀砂のように輝いていた。
潮風が頬を撫で、鼻腔を潮の匂いがくすぐる。
凍てつく十二月の空気にもかかわらず、どこか温かみのある湿気を帯びた風。
自然が造りだした「海の迷路」の光景に、刃は思わず口元を緩めた。
「今度、姫様たちを連れてきたいものだな……」
その言葉と同時に、刃の脳裏に浮かぶのは―― 愛おしい主の太陽のように眩しい笑顔。
その時。
背後の気配に、刃の紅い瞳が細くなる。
殺気。敵意。潮風に混じる、獣じみた荒い息遣い。
振り返らずとも分かる。
分銅を唸らせる音。たいまつの燃え盛る匂い。漁に使う投網を担ぎ直すざらついた縄の軋み。
数人の気配が、砂を蹴りながら距離を詰めてくる。
やがて――。
「男だわ。それも都の人間よ」
「へぇ、上等じゃないの。こんな僻地に、のこのこ一人で刀も持たずに……」
「しゃらくせえ! 海に沈めてフカの餌にしてやろうぜ!」
「待って。……織田家の人間かもしれない。捕らえて、姫さまにつきだす方が得策よ」
刃が振り返ると、そこにいたのは――荒々しく焼けた肌を持つ女たちだった。
頭に布を巻き、腕も脚も惜しげなく晒し、冬だというのに真っ黒に日焼けしたその姿は、武士のものではない。
だが、鋭い眼光と海風に鍛えられた肉体は、戦うことを生業にしていることを物語っていた。
志摩を荒らし回る、女海賊衆――。
獰猛な笑みを浮かべ、獲物を見つけた狼のように包囲を狭めてくる。
(……織田家に関係のある“姫さま”か。もしや、滝川一益のことか? 違う可能性もあるが……ここで捕らえられた方が情報を得やすいかもしれん。広大な志摩で闇雲に探すよりも効率的だ)
刃は静かに目を細め、肩を落として気配を殺した。
あえて、気づいていない素振りを装う。
そして、わずか数秒後――。
「キャッホーーッ!!」
女海賊たちが鬨の声をあげ、一斉に刃へ飛びかかった。
「な、なんだ貴様らはっ!」
わざとらしい棒読み。刃自身も内心で「我ながら酷い演技だな」と呟く。
直後、ひゅっと空を裂いて投網が広がり、刃の体に絡みついた。
麻縄の網が肩や腕を拘束し、身動きを奪う。
(一応、抵抗しておくか……)
「ぐっ……何をする! 離せ!」
形だけ身をよじる。
「大人しくしろぉ!」
ごん、と分厚い櫂が頭を叩く。鈍い衝撃が走る。
だが刃は血を流すどころか、微動だにせず――。
(……さて。気絶した振りでもして、彼女らの巣まで案内してもらおうか)
紅い瞳を閉じ、静かに意識を沈めていった。
海賊衆に担がれ、荒々しい足音と波の揺れに身を任せること十数分。
やがて足が止まった。
「よいしょっと!」
海賊の女たちがどさりと刃を床に下ろす。
縄で縛られたまま転がされると、ゆらり、ゆらりと床が揺れ、波の音が絶え間なく耳に届いた。
(……やはり、船の上か)
天井は高く、そして不思議な意匠だった。
南蛮教会を思わせる細長い窓に、赤青緑の光を放つステンドグラス。
そこから差し込む陽光が、波に揺れる船室を幻想的に染め上げている。
漂う潮の香りと、鼻を突く湿った木材の匂い。
(有用な情報はなさそうだ……そろそろ“目覚める”とするか)
ゆっくりと瞼を開け、刃は顔を上げた。
「……ここは、いったい」
問いかけに、甲高い笑い声が響く。
「がははっ! よくぞ聞いたな! あたしは九鬼嘉隆! 泣く子も黙る九鬼海賊衆の頭領さ!」
南蛮椅子にどっかりと腰を下ろしていたのは、大柄で日焼けした女海賊だった。
艶のある黒髪を後ろでまとめ、鋭い目で刃を睨みつける。
だが、彼女の格好はさらに目を引いた。
(……なんだあれは)
身にまとっていたのは、南国風のカラフルなビキニ。
腰には申し訳程度に短いスカート布を巻いてはいるが、肩も脚も惜しげなく晒されている。
その上、首や腕には真珠を連ねた飾りをこれでもかとばかりに身につけていた。
「……痴女か?」
思わず良晴の顔が脳裏に浮かぶ。
(こんな姿を見たら、あいつは鼻の下を伸ばすに違いない)
「だ、誰が痴女だとっ!? ちっ、なんなんだお前は! 無礼な……!」
図星を突かれたかのように、嘉隆は真っ赤になって怒鳴った。
「親分、こいつ、斬っちまいましょう!」
「そうです斬り捨てましょう!」
背後から控えていた女海賊たちが、一斉に声を上げる。
「男なんて、あたしたちの世界には不要よ!」
「どうせスケベなことを企んで来たに決まってる!」
「でもさぁ、親分……男子禁制で女ばっか率いてるから、そろそろ婚期逃すんじゃ……?」
「わたしたちはまだ若いからいいけど、親分は結婚するなら今のうちかもね~」
「だぁーっ! 余計なお世話だぁ!!」
嘉隆が顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、子分たちを睨みつける。
その時。
「くっきー。しばし待つのじゃ」
甲高い、しかしよく通る声が響いた。
船室の奥、南蛮椅子にちんまりと腰掛けている小柄な影。
「斬るのは、どこの馬の骨か調べてからにするのじゃ」
「──はっ! 姫さまの仰せのとおりに!」
嘉隆は即座に態度を変え、真っ赤になって平伏した。
「こら貴様! こちらのお方をどなたと心得る! 甲賀忍び衆の頂点に君臨しておられる、やんごとなき滝川家の姫さま! 左近将監一益さまであらせられるぞ!! ええい頭が高い、ひかえおろう~~!!」
その名を耳にした瞬間――。
刃の口角が、僅かに上がった。
「……初めから当たりを引くとは、俺も運がいい」
「なにを呑気なことを言ってる! 早く頭を下げろ!」
嘉隆が怒鳴るが、刃はその視線の先の“姫”を見据えていた。
そこにいたのは――。
小柄な幼女。
まだ年端もいかぬ姿ながら、最新型の種子島を抱え、堂々と刃を睨み据えていた。
だが着ているのは、戦場の武装ではない。清楚な白と朱の――巫女装束。
その異様な取り合わせに、刃は思わず目を細める。
そして、驚愕に心を打たれた。
(……姫巫女様……? いや違う……だが、瓜二つだな……)
織田家四天王に数えられるはずの将、滝川一益。
だがその姿は、刃の記憶にある“姫巫女”に酷似していた。
「……お前、本当に滝川一益か?」
刃の低い声が、波の音の中に沈んだ。
「くすくすっ。この姫が滝川左近将監一益に決まっておろう。誰と間違えているのか知らぬが、本人が言っておるのだから間違いあるまいの」
白と朱の巫女装束に身を包み、小柄な体に不釣り合いな種子島を抱えた幼女が、楽しげに笑った。
「姫さま! このような男に関わられては姫さまが穢れます! 男子禁制の結界を破った不届き者――お仕置きは、この九鬼嘉隆が必ず!」
嘉隆は真珠の装飾をじゃらじゃら鳴らしながら立ち上がり、怒声を響かせる。
「ふむ……だが、こやつはただの間者ではないようじゃ。のぶなちゃんが送ってきた使者じゃな」
「織田信奈が、ですか?」
嘉隆は不満げに吐き捨てる。
「相変わらず、姫使いの荒い奴ですね」
その言葉に――刃の瞳がすっと細まる。
紅い光が冷たく揺らめき、薄ら笑いを帯びた口元がわずかに動く。
(……“様”をつけろ。痴女が)
刃の胸中に静かな怒りが走った。
「きっと姫が伊勢から動かぬので困っておるのじゃろ。天下盗り競争は目が回るほど忙しいからの。……のぶなちゃんも、たまには海に出てのんびりすれば良いものを。くすくす」
一益は人を喰ったような声音で笑い、頬をほんのり紅潮させながら視線を刃に向ける。
「姫さまっ! 我らにはまだ倒さねばならぬ強敵が山ほどおります! この男はやはり今ここで――斬ってフカの餌に!」
「そうですとも! 巫女たる者が穢れた男などに触れるべきではありません!」
「そうそう! たとえ九鬼の親分の婚期が、星の彼方へ吹き飛んでいこうとも!」
「お前らぁぁ! あたしの婚期の話はするなって言ってるだろうがあぁぁっ!!」
嘉隆が真っ赤になって子分たちをどやしつけるが、子分たちはきゃっきゃと笑っている。
一益は肩をすくめ、ひとつ溜め息を漏らすと――またもや「くすくす」と笑った。
「まあ、それもそうじゃの。姫はいまや“巫女”。清き身ゆえ、穢れに触れてはならぬ。……こやつを斬れば、のぶなちゃんが激怒するじゃろうが……それはそれで面白そうじゃ」
白魚のような指先で頬をかきながら、一益はにやりと口角を上げる。
「すぱっと斬ってしまおうかの。……まあ、斬れれば、じゃがな」
ぞくり、と場に冷気が走った。
「……では」
九鬼嘉隆が、腰の刀を抜き払った。
南蛮椅子の背もたれにかけていた長身の体がしなり、陽光を受けた刃がギラリと光を返す。
「親分が抜刀したぞ!」
「えっ、若い男を……!」
「せっかくの結婚チャンスが、さらに遠のくわね!」
「だからぁぁ! あたしの婚期の話はするなって言ってるだろうがあぁぁ!!」
嘉隆は顔を真っ赤にして叫び、海賊衆は「ぎゃはは」と笑い転げる。
――その喧騒の中で、ただ一人。
刃だけは、冷ややかに口を開いた。
「……ほう。俺とやる気か。面白い」
紅い瞳が嘉隆を射抜く。
ただそれだけで、空気が一瞬凍りつく。
「相手との力量差も測れん痴女が……無様に死ぬといい」
低く、鋭く、氷のような声。
船室の空気がぴん、と張り詰めた。
海賊衆の背筋にぞくりと寒気が走った。
嘉隆の握る刀からも、汗が滴り落ちる。
殺気を放っているわけでもない。ただ淡々とした言葉。
だが、そこには「自分が斬られることなどあり得ない」という揺るぎない自信が滲んでいた。
そこへ一益が、椅子の上で小さく手を叩いた。
「くすくす……。名乗るがよい。姫にはもう、だいたい誰だかわかっておるがのぅ」
その声に、刃はゆっくりと顔を上げる。
紅い瞳が、光を反射した種子島を構える幼女の姿をまっすぐ射抜いた。
「──織田信奈様の家臣、天城刃」
重々しい宣言が、船室全体に響き渡る。
その瞬間、海賊衆は一斉に息を呑んだ。
「なっ……なんだと!?」
嘉隆の目が大きく見開かれる。
「天城刃といえば――織田信奈の懐刀であり、墨俣一夜城を築き、金ヶ崎の退き口で大軍を退け、次々と手柄を立てている……あの天城刃か!?」
ごくりと唾を呑む音が船室に響いた。
刃の名を耳にした瞬間、それまでメラメラと燃え盛っていた嘉隆の闘志は、桶の水を浴びせられたかのように一気に冷え込む。
握っていた刀が急に重く感じられ、まるで鉛をぶら下げているように腕が震えだした。
「お、親分……相手……ヤバすぎじゃ……」
「う、うるさい! お前らがビビってどうする!」
虚勢を張る声が、震えていた。
「ほれ見たことか。やはりのぶなちゃんの懐刀じゃったか」
一益が「くすくす」と笑う。
「だが、竹中半兵衛たち自慢の家臣団はどこへ行ってしまったのじゃ? ……はっしー?」
「俺のことか? 呼ばれ慣れんな」
刃の無表情な答えに、一益が「ぱちっ」とウィンクする。
「きゃあああああああ!! 姫さまぁぁぁ!!」
「なんて愛らしい仕草! 私も抱きしめて~!」
「あたしも“愛らしいあだ名”をつけてもらいたいっ!」
「この九鬼海賊衆が、命に代えても姫さまをお守りいたします~~っ!」
――九鬼嘉隆も子分たちも、完全に手遅れだった。
船室はたちまち「姫さまコール」の嵐。
女だてらに荒波を生き抜いてきたはずの海賊たちが、まるで恋する乙女の集団と化している。
ちら、と一益を見れば、幼い顔立ちに似合わぬ底知れぬ光を宿した瞳、頬を紅に染めて甘えるような笑み。
その清楚な巫女装束が、逆に幼さと神秘を引き立てている。
「くすっ。伊勢の連中は伊勢神宮への信仰心が篤いからの。そこにこの愛らしい姫が巫女として現れれば――鬼に金棒、でしょ♡」
一益がまたもやウィンク。
「「「ひめさまばんざ~~い!!!」」」
九鬼衆は声を張り上げ、涙を浮かべながら手を叩く。
もはや熱狂は宗教の域に達していた。
荒波を生き抜いてきた猛女たちが、まるで恋に浮かれる乙女そのもの。
ロリコン趣味が強い戦国の男どもは言うまでもなく、女海賊衆までもを虜にしてしまう――まさしく小悪魔、滝川一益!
「ねえねえ? はっしーも、姫のお願いを聞いてくれるよね?」
上目遣いで刃を見上げる一益。
その小さな唇から甘えるような声が零れ落ちる。
「今回の戦は……休ませてぇ。お願い♡」
ぱちり、とまばたきと同時に投げかけられる無垢なウィンク。
――一瞬。
能面のように揺らがぬはずの刃の表情が、かすかに緩んだ。
紅い瞳に、波紋が走る。
(……俺は……)
戦国に来て以来、刃は無意識に「幼き者を守る」習慣を身につけてしまっていた。
ねねのわがままを許し、犬千代の頭を撫で、半兵衛を気遣い、五右衛門を甘やかす。
気づけば、幼い存在には自然と甘くなってしまう。
もし平時なら――頷いていただろう。
だが、今は違う。
信奈が窮地にある今、信奈至上主義の刃が承諾するはずがない。
天城刃とは、信奈のためなら火の中、水の中、地獄の底から這い上がる狂気の剣士。
どれほどの勲功を立てようと、恩賞に求めるのはただ一つ――「信奈の笑顔」
迷いはなかった。
「……残念だが、出来ん」
短い言葉が、鉄のように重く落ちた。
一片の揺らぎもない声音。
「……えっ」
一益の瞳に、潤んだ涙が滲む。
「くすん……くすん……はっしーの意地悪……ひどぉい……」
船室の空気が震える。
海賊衆が一斉に駆け寄り、口々に叫んだ。
「な、なんてことを! 姫さまを泣かせるなんて!」
「この鉄面皮! 鬼! 外道!」
「女の子の涙は世界を動かすのに、それを無視するなんて……お前、人間じゃない!」
涙に濡れた頬を見て、海賊たちは刃に殺気すら向ける。
だが――刃は一歩も揺るがなかった。
「……泣いても、ダメだ」
紅い瞳が静かに光り、声が船室を切り裂く。
「……ふふ」
次の瞬間、一益がくすくすと笑い出した。
涙の粒がまだ頬に残るまま、口元を愛らしく歪める。
「姫の涙すら通じぬか……。これほど徹底して“のぶなちゃん一筋”とは……」
黒曜石のような瞳に、愉悦の光が宿る。
「ますます気に入ったぞ、はっしー♡」
――狂人と小悪魔の邂逅。
その余韻に、海賊衆は「姫さまぁぁ!」と叫び、刃は無言で紅い瞳を細めた。
「とりあえず縄を解いてやれ、くっきー」
「その必要はない」
淡々とした声。
次の瞬間――。
ブチブチ!
刃の両腕がわずかに動いただけで、絡みついていた麻縄が悲鳴をあげるように裂け飛んだ。
厚い縄は容易く引き千切られ、床にばらばらと落ちる。
「こんなちゃちな物で、俺を拘束など……不可能だ」
その声音は淡々としていた。
しかし、海賊衆は悟ってしまった。
――今この場を血の海に変えるのも、この男の気分次第だ。
ごくり、と全員が同時に唾を呑み、顔色を失った。
「……そう言えば一益」
その静けさが、逆に恐ろしい。
「どうやって伊勢神宮の“巫女”の座を手に入れたんだ?」
問いかけに、一益はきょとんとした顔を見せ、やがて肩を揺らして笑った。
「はっしーはアホじゃな、愚鈍じゃな」
小柄な体を揺らし、無邪気に笑いながら答える。
「この愛らしさで伊勢神宮の面々に“お願い”したに決まっておろ。『姫のお願いを聞いて♡』って言えば、一発合格じゃ」
唇を尖らせて続ける。
「姫がおねだりしても聞いてくれぬ意地悪者は、天下広しといえど“のぶなちゃん”くらいのものじゃ。のぶなちゃんは茶器をくれぬ! ぷんぷん!」
そして、さらりと付け足す。
「そうそう。はっしーも意地悪じゃがな」
紅い瞳がちらりと細められた。
刃の胸の奥に、わずかな苛立ちが生じる。
(……巫女ってそんなに簡単になれるものか……だが、この小悪魔なら、あり得るのかもしれん)
「……姫様が茶器をくれない、か」
刃の声音は低く、鋭さを帯びる。
「まさか――茶器をよこさぬから、援軍も出さぬというわけか?」
一益はいたずらっ子のように笑った。
「くすくす。違う違う。まだこの志摩に“強敵”を残しているのじゃ。そやつらを倒したら……援軍を出してやってもいいぞえ」
「……伊勢神宮の八咫鏡を盗み出したという、鬼たちか」
「――なんじゃ、知っておったのか」
一益の瞳が細まり、頬がにやりと吊り上がる。
「のぶなちゃんには内緒じゃぞ?」
刃の表情は変わらぬまま、静かに続けた。
「ふむ、三種の神器・八咫鏡は伊勢神宮の権威を象徴するもの。
一益は伊勢神宮の権威で、伊勢の国人豪族大名たちを強引に押さえ込んでいる。 伊勢神宮の権威がなければ、伊勢はことごとく姫様の敵になるって感じか?随分と面倒だな」
淡々と告げられた言葉に、九鬼衆がどよめいた。
「こいつ……全部見抜いてる……」
「う、嘘でしょ……」
ざわりと空気が揺れる。
海の荒事で鍛えられた女たちですら、背筋に冷たいものが走った。
一益はしばらくぽかんと刃を見つめていた。
やがて――楽しげに、頬を紅潮させて目を細めた。
「くすくすくすっ!」
白魚のような手で口元を隠しながら、声を弾ませる。
「やっぱり、ただの剣馬鹿ではないのぅ。頭まで冴え渡っておるとは! のぶなちゃんが夢中になるのも道理じゃ♡」
その囁きは、甘やかで妖しく、艶を帯びていた。
「ゆえに、姫さまは志摩の鬼を退治せねばならないのだ。そして志摩を平定したら、半年ほどあたしたちと一緒に休暇を取られる予定なんだ」
嘉隆が腕を組み、ぎろりと刃をにらむ。
「広い海で自由に生きていただく! それが、姫さまの幸せに違いないと、あたしたちは信じているのだ!」
「半年休む……?」
刃の瞳がわずかに細められる。
「姫様によく雇われたな」
「ふふん」
一益は南蛮椅子で小さく足をぶらつかせ、胸を張って答える。
「この姫が『おねが~い、姫を雇ってえ~♪』とかわいくおねだりしたら、一発採用されたのじゃ」
「……姫様は、ちっちゃい女の子に甘いからな。姫様らしい」
刃が淡々と呟く。
「じゃが――」
一益はくるりと顔を背け、小さく吐息をついた。
「当分のぶなちゃんには会いたくないのじゃ。ましてや織田家の家臣団とのつきあいなど、まっぴらご免じゃ」
「……家臣団、か」
刃は腕を組み、思案するように低く呟く。
「俺や良晴のように姫様に直接引き立てられた若手はともかく、先代から仕えている古株どもは、一益が伊勢で独立して謀反を企んでいると噂している。大した力もないくせに、プライドだけは肥大した老害どもの醜い嫉妬だ……」
紅い瞳が鋭く光る。
「一度、姫様のもとに顔を出してやってくれないか?」
「イヤじゃ」
一益の声音が、ぴしゃりと冷たくなる。
「姫はそういう古くさい連中とは付き合いたくない。甲賀の里にいた頃を思い出して、気分が沈むのじゃ。……姫は、こう見えて過去に訳ありの女じゃぞ」
幼い顔に影が落ちる。
刃は深く息を吐いた。
「ならばせめて、姫様とだけでも対面してくれ」
その瞬間、一益の表情が凍りついた。
怯えるように、小さな唇が震える。
「……それもイヤじゃ……」
声はか細く、今にも消えそうだった。
「のぶなちゃんには……会いたくない」
「なぜだ?」
刃の声が、静かに落ちる。
一益は俯き、かすかに肩を震わせながら言葉を紡いだ。
「……長らく会わぬうちに、信頼関係が壊れ始めておる。じじむさい連中の讒言のせいでの……もしも、のぶなちゃんの心にも姫への疑いが芽生えておるなら……姫は、それを知りとうない」
細い声が震えた。
「……姫は、人の心のすべてを読めてしまう。会えばの……。金ヶ崎の折、のぶなちゃんを救いに行けなかった。そのことを、のぶなちゃんがどう思っているのか……姫は知りとうない。……嫌われたのではないかと、失望されているのではないかと……そう思うと、の……」
船室を満たしていた張り詰めた空気が、ふと緩む。
刃からにじみ出るのは、先ほどまでの氷のような鋭気ではなく、柔らかく包み込むような温もり。
その眼差しは、烈火のごとき剣士ではなく――誰かを優しく抱きしめる守護者のものだった。
「……そうか。ならば無理強いはせん」
刃は静かに言い、紅い瞳で一益をまっすぐに見つめる。
「俺が戻った時、謀反の疑いはないと報告しておく」
「……よいのか?」
一益の瞳が揺れる。恐れと安堵と、信じられぬという戸惑いが入り交じっていた。
「ああ」
刃は微かに口元を緩め、ゆっくりと幼い頭に手を置いた。
ごく自然な仕草。けれどもそこに、圧倒的な安心感があった。
その掌から伝わる温もりに、一益の心臓がどくん、と跳ねた。
「いくら姫武将とは言え、嫌がる女の子を無理やり引きずるのは……俺の流儀に反する」
紅い瞳が優しく細められる。
「それに――うるさい老害どもは、刀を抜けば黙る。姫様の家臣で一番強いのは俺だからな」
その言葉に、一益の小さな唇がわずかに開いた。
驚き、そして……甘い震え。
「……」
刃はさらに続ける。
「だが、援軍は出してもらうぞ。それが今回の俺の仕事だからな」
肩をすくめ、冗談めかしたように笑う。
その笑みは不可思議な魅力を帯びていた。
「……じゃが」
一益は小さな拳をぎゅっと握りしめる。
「旧家臣団がのぶなちゃんに協力しない。それどころか……謀反を起こすかもしれんのじゃぞ?」
「心配するな」
刃の声は低く、冷徹さを帯びた。
「裏切り者には、ただ――死を与えるだけだ」
ぞくりと空気が震えた。
九鬼衆の背に冷たい汗が流れる。
それは人の命を将棋の駒よりも軽く扱う声。
戦国に生きる武将たちですら、一瞬息を呑むほどの冷酷な断言。
「老害どもを処したところで、戦力は低下せん。むしろ――無駄なしがらみが減る」
その声音には、情がなかった。
ただ冷たく、合理的に。だが同時に――。
「お前が無理する価値など、あいつらにはない」
最後の一言だけが、まるで別人のように優しかった。
紅い瞳は冷たくも、そこに込められた響きは「お前は特別だ」と囁く甘い毒。
一益の心臓が、強く脈打つ。
刃の手のひらの温もりに、絡め取られるように胸が締めつけられる。恐ろしく、けれど抗えぬ吸引力。
(……な、なんじゃ、この男は……)
甘く、冷たく、狂気に満ちた覇王。
その存在に、一益の小さな胸は震え、抗えぬほどに惹き込まれていった。
「姫さまは特別なんだ。他の武将とは違う」
九鬼嘉隆の声は低く、船室にどすんと響いた。
「幼いから甘やかしてあげねばならない、ということではない。――誰も、姫さまを騙すことはできないんだ。それ故に、姫さまは悩まれねばならない。出世競争の激しい織田家の家臣団に、そんな姫さまを放り込むことを、あたしはよしとしない」
「……どういうことだ?」
刃の紅い瞳が細まり、ゆっくりと一益の頭から手をどける。
その視線が嘉隆に向けられた瞬間、海賊衆の背筋がぞくりと震えた。
気の迷いで不用意な言葉を吐けば、この場が血に塗れる――誰もがそう直感した。
嘉隆もごくりと唾を呑み、逡巡した末に口を開こうとした。
「それは……」
「待つのじゃ、くっきー!」
鋭い声が割り込む。
幼女の声とは思えぬ強さで、一益が命じた。
「姫の秘密を、はっしーに教えてはならぬ」
「ですが、このままでは天城にまで姫さまは誤解されます!」
嘉隆がなおも食い下がる。
しかし、一益はかぶりを振った。
その小さな顔に影が落ち、どこか怯えを含んだ声音が続いた。
「……はっしーにまで、妙な目で見られとうないのじゃ」
刃は黙って一益を見つめる。
紅い瞳には責めも嘲りもなく、ただ静かに観察する光が宿っていた。
一益はそれに耐えきれず、そっと視線を逸らす。
「……じゃが」
小さな唇が、かすかに震えた。
「八咫鏡失陥の件を、はっしーに知られてしもうた以上……八咫鏡奪回は、一刻も早く果たさねばならぬな」
やがて一益は、いつもの愛らしい笑みを浮かべ、ひらりと片手を掲げた。
「者ども! 舵を切るのじゃ!」
「はっ!」
九鬼衆が一斉に応じ、船室がどよめいた。
「これより、鬼のもとへ向かうぞ! 八咫鏡を取り戻すのじゃ!」
その声に、女海賊たちは「おおおっ!」と鬨の声をあげる。
潮の香りが一層濃くなり、船体がぎしりと大きく軋んだ。
一益は再び刃へと向き直り、にっこりと笑んだ。
「今宵はゆっくりと寝て、英気を養うがいいぞ、はっしー。鬼退治は明日じゃ」
その言葉に、刃はわずかに頷いた。瞳の奥で、紅の光が再び鋭く燃え上がっていた。
滝川一益が寝室に消えたあと。
刃は、月明かりに照らされた甲板で、思い詰めた表情を浮かべる九鬼嘉隆に呼び止められた。
潮風が強く吹き抜け、帆がぎしぎしと軋む。
海賊の女頭領は腕を組んだまま、しばし言葉を選ぶように沈黙し、やがて低い声で口を開いた。
「……今日出会ったばかりのお前を信じるのは、不安だ」
嘉隆の眼差しは真剣だった。
「だが、織田家にも姫さまにも、もう猶予はない。あたしは生まれながらの海賊だから、武家社会の厄介さはよくわからん。だが――織田信奈の領土拡張はあまりにも急すぎた。綻びが出てもおかしくはない」
刃は黙って頷いた。
嘉隆は続けた。
「姫さまが尾張に戻りたがらず、織田信奈さまに会いたがらないのには……理由がある」
潮騒の音をかき消すように、その声は重苦しかった。
「……理由?」
「ああ」
嘉隆は、空を仰ぎながら語り始めた。
「姫さまはもともと、甲賀の上忍の家に生まれた姫君だった。上忍一族とはいえ、中忍・下忍を束ねる立場だ。示しをつけるためには、幼い頃から厳しい修行を強いられる。――それは遊びでも訓練でもない。生きるか死ぬかの、血反吐を吐くような修行だ」
刃は静かに目を細めた。
「……だから、一益は見た目の割に大人びているのか」
「そうだ。ひどく小柄だが、もう十から十二歳くらいだと思う」
「……思う?」
刃が眉をひそめる。
「年齢を教えてもらってないのか?」
嘉隆は口を濁し、そして小さく頷いた。
「違う。正確な生年月日が……わからないんだ」
「……なぜだ?」
刃の声が低くなる。
「一益の出自は筋目正しい上忍の家系なんだろう?生年月日がわからぬはずが――」
紅い瞳が光る。
「まさか」
嘉隆は重苦しく息を吐き、覚悟を決めたように語った。
「……姫さまには、生まれながらにして“力”があった」
潮騒が、一瞬遠のいたように感じられた。
「不思議な力だ。他人の心を読むことができる。忍びの世界では“他心通”と呼ばれる類だ」
嘉隆の声が低く震えた。
「五右衛門は、忍びの術は必ず理屈がある、不思議のものではないと言っていたが」
「ああ。ほとんどすべての忍術は仕掛けと理屈がある体術だし、体術しか用いない忍びがほとんどだ。だが、忍びの世界にはごく希に例外とも言える異能力を持った者が現れるらしい。あたしも、詳しくはないが」
「だが、何か条件があるのだろう?」
刃が問う。
「そうでなければ、あの歳の女の子が背負えるものではない」
「ああ」
嘉隆は頷いた。
「相手の額に手を当て、質問をするのだ。その問いかけに対し――触れられた者は決して噓をつけない。必ず、ほんとうのことを口にしてしまう」
「……噓をつけない、か」
刃の低い呟きが潮風に溶ける。
嘉隆は苦い表情を浮かべた。
「……忍びの世界とはいえ、異能の持ち主は恐れられ遠ざけられる。特に姫さまの力は、噓と裏切りと権謀術数が飛び交う戦国の忍びにとっては危険極まりないものだった。……姫さまは次第に気づきはじめたんだ。なぜか、周囲の大人たちが自分を避けていることに」
潮風が甲板を吹き抜け、暗い海にさざ波が広がる。
嘉隆の声には、怒りとも悲しみともつかぬ響きがあった。
「……親ですら、そうだった。触れられまいと、笑顔を向けながらも巧妙に距離を置く。姫さまが遊び半分に問いかけようとすれば、急に用事を作って離れていく。……幼い姫さまには、理由もわからず、ただ冷たい仕打ちに思えたはずだ」
「そうか」
刃は腕を組み、紅い瞳を細める。
「忍びは秘密を抱えて生きる。……うかつに心を覗かれれば、死が待つ。まだ幼い子供に無邪気に質問されただけで――真実を吐かされる。それでは恐怖されても無理はない。……だから、一益は居づらくなって里を出奔したのか?」
嘉隆はかぶりを振った。
「いや。その程度の理由で、忍びが里を抜けたりはしない。抜け忍には容赦ない追っ手がかかる。命を賭けねば叶わん。……だが、姫さまにはもっと切実な理由があった」
「……理由?」
嘉隆の視線が夜の海に沈む。
そして、言葉を絞り出すように口を開いた。
「姫さまは……ご自分の正確な誕生日を知りたかったのだ」
刃は眉をひそめる。
「知らされている誕生日と……実際の自分の年齢が、どうも合わない。……そう疑っていたらしい。里の中でも妙な噂が流れていた」
「噂?」
「ああ。――姫さまは滝川家の実子ではない。滝川の当主が、山中に捨てられていた赤子を拾ったのだ……それが姫さまだという噂だ」
風が一瞬止まり、船上に重苦しい沈黙が落ちた。
「……」
「大人たちから避けられ、浮いている自分。……そして『滝川の血ではない』という噂。それが多感な姫さまの胸に重なって……疑念は膨れ上がっていった」
嘉隆の声が低く震える。
「そして――ついに、使ってしまったのだ。己の異能を」
「……」
刃は、静かに続きを促す。
「ある日、不意を衝いて……お母上の額に触れ、問いかけてしまったのだ。『姫のほんとうの誕生日は、いつか?』と」
嘉隆の表情が険しさを増す。
「姫さまは確かめたかったのだ。噂はでたらめで、自分はお母上の子だと。……愛されているのだと、ただ信じたかった。……だが」
「……答えは当然」
刃が、低く呟く。
「『お前は捨て子だったから、わからない』――」
嘉隆の声が震えた。
「そう……口走ってしまったのだ。お母上自身の口から……。言った瞬間に、青ざめて地に伏し、号泣されたという。……おそらく一生、墓まで持っていくつもりだった秘密を……姫さまの力が、暴き出してしまったのだ」
刃の紅い瞳が揺らぐ。
小さな少女が、ただ真実を知りたかっただけで――母の口から、残酷な現実を引きずり出してしまった光景が脳裏に浮かんだ。
「姫さまは……泣きながら何度も謝ったそうだ。けれど、謝っても謝っても、もう戻らなかった。お母上は姫さまを見るたびに苦しげに顔を背けるようになった……」
「……」
「その日から、姫さまは甲賀の里に居場所を失った。誰も近づかず、誰も笑いかけず……幼い心でそれに耐えきれるはずがない。……ついに、里を抜けた」
嘉隆の声に、潮風が重なり、痛みのように刃の胸を打つ。
「抜け忍として、追忍たちが容赦なく襲いかかった。まだ十にも満たぬ小さな姫さまを……里を守る掟と称して、仲間たちが次々と刃を向けた。……それでも姫さまは、血に塗れながら山を越え、谷を抜け、海へ出た」
嘉隆の眼差しが、どこか遠くを見つめる。
「――そこで、あたしと出会った。……そして、織田信奈さまとも」
甲板を叩く波の音が、大きく響く。
嘉隆は深く息をつき、刃に向き直った。
「今でも姫さまは……ご自分の力を、他心通を恐れておられる」
嘉隆の言葉は、甲板に打ちつける波音にかき消されそうなほど低かった。
「織田信奈さまと姫さまの関係は、今まさに揺らいでいる。もしも再会して……心の惑いから逃れるために、つい他心通を使ってしまったら……」
嘉隆の拳が、音を立てて欄干を叩いた。
「またしても、すべてが壊れるかもしれない。……あの方が望まぬ真実を引きずり出してしまえば、二度と元には戻れん」
潮風が強く吹き抜け、刃の銀の髪が揺れた。
「……信奈様は、本心を語らぬお方だ」
嘉隆の視線が刃を刺すように射抜く。
「素直じゃない。強がりで、不器用で……。だが、姫さまはそんな主君だからこそ気になるのだ。『ほんとうは自分をどう思っているのか』と。……だが他心通を使ってしまえば、また悲劇が起こるかもしれない」
「……」
刃は黙して聞いていた。
「まして、あの若さで伊勢を平定した新参者だ。旧臣どもは姫さまへの嫉妬を隠そうともしない。あの連中の前に立ちたくないと、姫さまが思うのは当然だ」
嘉隆の声には、怒りと悲しみが入り混じっていた。
「伊勢志摩でこうして独立軍を率いていれば、誰にも邪魔されずにすむ。……だが、このまま織田に戻らなければ、いくらお前が旧臣を押さえると言っても、いずれ既成事実となる。『滝川一益は織田を叛いた』と……。姫さまは惑っておられるのだ」
刃は静かに目を伏せた。
「天城刃」
嘉隆が一歩近づき、声を低めた。
「お前も得体の知れない浪人あがりの新参者だ。それでいて織田家の出世頭。……噂では、とんでもない女たらしだと聞く。だが――あの織田信奈さまから一番信頼されているお前なら……姫さまのお立場とお心を理解できるはずだ」
「……女たらしとは心外だな」
刃は肩をすくめ、わずかに苦笑した。
「だが――俺は、一益の選択を尊重する」
嘉隆は、安堵とも戸惑いともつかぬ表情で刃を見つめた。
「今夜のこの話のことは、姫さまには内緒だぞ?」
「……なぜだ」
「叱られるからだ」
嘉隆は苦笑いを浮かべる。
「他心通の力について知らされたことくらいならば、バレてもいい。だが……あの方の過去に触れたと知られれば、姫さまはきっと傷つく」
「了解した」
刃は短く答えた。
そして――胸の奥で、ひとつの推測を反芻する。
(……姫巫女様は、相手の身体に触れ、その心を読み取ることができる。滝川一益も同じ力を持つ。顔も声も瓜二つ……力まで一致するとなれば、偶然ではすまぬ)
(……おそらく一益は、姫巫女様と血が繋がっている。双子か……あるいは、近しい姉妹か)
(巫女は一人で十分。二人いれば、相続に支障をきたす。……だから甲賀へ送られたのか? 捨て子というのも、表向きの方便かもしれん)
潮騒が、重苦しい思索を洗い流すように響く。
(明日からは……優しくしてやろう。俺に出来るのは、それくらいだからな)
刃は夜空を見上げた。月は雲間に隠れ、海面に長い影を落としていた。
翌朝――。
澄み切った冬の空の下、志摩の海は陽光をきらめかせて蒼い鏡のように広がっていた。
「どうじゃ。海とは広大なものじゃろ。この広い広い海に比べれば、人と人の争いなんてちっぽけなものじゃ……」
潮風を頬に受けながら、一益が甲板に立ってくすくすと笑った。
「姫は陸に帰りたくないのぅ~。くすくす」
その隣で、九鬼嘉隆が真剣な眼差しを刃に向ける。
「天城刃。お前はこれより――鬼どもが無断占領している、あの島を奪回するんだ!」
嘉隆が指さした先、陽炎の向こうに緑の小島が見えた。
鬱蒼とした森に覆われた山の島。だが山頂にひらめく旗は異様だった。
「……あれは」
刃の紅い瞳が細められる。
「イスパニアの国旗……か」
赤・白・黄色の三色横縞。
その旗は、まるで嘲るように冬空をはためかせている。
港には大振りな南蛮船が何隻も停泊しており、巨大な帆布と高いマストが林立していた。
岸辺には風車がくるくると回り、町の広場では色鮮やかな衣装をまとった踊り子たちが、陽気にフラメンコを舞っている。
だが、その賑やかさとは裏腹に、港の縁には鋭く尖らせた木杭が並び、蠟燭や旗で飾り立てられていた。まるで「ここを攻めてみろ」と挑発するかのように。
「……鬼とは南蛮人のことだったのか」
刃が低く呟くと、嘉隆が歯ぎしりした。
「あいつら南蛮の鬼どもは、外海から勝手に押しかけてきて、伊勢の港で揉め事を起こした。どさくさ紛れに食糧を奪い、さらには八咫鏡までも盗み出した不逞の輩だ。――あたしたちは鬼が占拠したあの島を『志摩イスパニア島』と呼んでいる」
「誰だそんな妙な名をつけたのは」
「最初は『鬼ヶ島』と呼んでいたが、あまりにもおそろしいので名前だけでも愛らしくしてみたんだ」
刃は鼻を鳴らした。
「くだらんな」
嘉隆がうめく。
「あの程度、討伐できなかったのか? 九鬼海賊衆のほうが数では上だろう」
「そ、そんな簡単に言われてたまるか! やつらは――」
嘉隆の声がわずかに震えた。
「ど、どどどどんな秘密兵器を持っているかわからない! な、なな南蛮人だからな! 特に……あいつだ!」
指差す先、港の桟橋。
そこに――屹立する影があった。
一頭の巨大な馬。漆黒の毛並みは陽を浴びて金属のように光り、その巨体は常の軍馬より二周りは大きい。
馬上に跨るのは――黄金の鬼。
全身を黄金の南蛮鎧で固め、肩からは黒いマントを翻す。兜は顔を完全に覆い隠し、奥からぎらりと光る二つの瞳が覗く。
握るは長大な南蛮槍。鍛え抜かれた鉄の穂先が、陽光を浴びて灼けるように輝いた。
その胸甲と盾には、赤い十字架の紋章。
「あれは……十字軍の騎士か? なぜ戦国時代の日本にいるんだ?」
刃の低い呟きに、甲板がざわめいた。
「どう見ても、ほんものの鬼よ!」
「兜の下には、血走った赤鬼が潜んでいるに違いないわ!」
「一度、九鬼の親分が一騎打ちを挑んだんだよ。でも……」
「鎧兜が硬すぎて、刀も薙刀も弾かれて勝負にならなかったの!」
「親分の泳ぎの腕をもってすれば海上戦では勝てるけど、いくら挑発してもあの鬼は陸から動かない!」
怖いもの知らずの女海賊たちが、今は口々に怯えを吐き出す。
「黄金の鬼がいる限り、志摩イスパニア島は落とせない……!」
「姫さまの愛らしいおねだり攻撃ですら、あいつには通じなかったんだもの!」
普段なら豪胆な笑い声をあげる九鬼衆が、一様に蒼ざめている。
その姿は逆に、桟橋に立つ黄金騎士の威容を際立たせていた。
黒マントを翻し、黄金の甲冑をまとった騎士。
槍を地に突き立てるだけで、大地すら震えるような錯覚。
その馬の鼻息は白く噴き上がり、鼓動のように重々しく響く。
九鬼嘉隆が苦々しく吐き捨てた。
「どうだ、あのおそろしい迫力。あの鎧は硬い。重さだけでも尋常じゃないのに、人馬一体で放たれる突撃は……まるで雷の直撃だ。海でなら勝てるが、陸では我ら海賊衆は分が悪い」
そして嘉隆の眼光が険しくなる。
「下手をすれば、奴らは神器を奪ったことで伊勢の権威すら乗っ取るつもりかもしれん……」
「くすくす。わかったかの、はっしー?」
潮風に小さな袖を揺らしながら、一益が甲板の真ん中でくるりと身をひるがえす。
巫女装束に身を包んだ幼子のような姿は、戦の相談をしている場にまるでそぐわなかった。だが、紅い瞳で黄金の鬼をにらみつける刃の視線を受けてもなお、一益は悪戯めいた笑みを浮かべている。
「南蛮人に神器を奪われたせいで、伊勢の国人どもはみーんな動揺しておるのじゃ。八咫鏡を奪い返さぬかぎり、姫の立場は危うい。ねえ? はっしーもそう思うじゃろ?」
唇の端を上げ、上目遣いで覗き込んでくる。
九鬼嘉隆が渋い顔で続けた。
「悔しいが、あたしたち九鬼海賊衆は陸ではどうしても分が悪い。あの黄金の鬼には近づくことすら難しい。だから――」
嘉隆は錆びた日本刀を静かに刃へ差し出した。
刃は一瞥すると受け取り、重さを確かめるように振る。刃こぼれだらけの粗末な刀――だが、その刃を握った瞬間、彼の手の中でまるで名刀のごとき殺気を帯び始めた。
一益がぱんっと小さな手を叩き、飛び跳ねるように刃の目の前へ。
瞳をきらきら輝かせながら、体ごとぐっと押し寄せる。
「ねえねえ、はっしー?」
両手を合わせ、胸の前でちょこんと首をかしげる。
「さくっと一騎打ちして、あの鬼を倒してきてぇ~♪」
甲板に、くすくすと甘ったるい声が響く。
「お・願・い♡」
ぱちりと片目を閉じ、愛らしいウィンク。
「やっつけてくれたら……ご褒美として援軍を出してあ・げ・る♪」
周囲の九鬼衆は一斉に頭を抱えた。
「き、きた……! 姫さまの破壊力抜群のおねだり攻撃……!」
「親分でも抗えないのに、あの男が耐えられるのか……!?」
「はっしー、もう骨抜き確定だね!」
嘉隆は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「お前ら、軽々しく言うな! あの“お願いモード”は毒なんだぞ! 受けた者は必ず姫さまの手のひらで転がされる!」
一益はそんな大騒ぎを余所に、まるで子猫のように刃の袖をくいっと引っ張り、潤んだ瞳で見上げてくる。
「ねえ? ねえ? はっしー♡」
声は震えるように甘く、耳の奥に残るほどだった。
――その瞬間。
刃はふっと息を吐き、ためらうことなく一益の頭に手を置いた。
大きく温かな掌が、絹のような髪を優しく撫でる。
「……言われなくてもやってやるさ」
その低く落ち着いた声に、一益の頬が朱に染まる。
「くすくす……やっぱりはっしーは優しいのぅ♪」
甲板の空気が一瞬にして凍りついた。
九鬼衆全員が思った
――「ああ、姫さまの魔性に取り込まれた……」と。
だが、紅い瞳に燃える闘志を宿した刃の口元が、わずかに吊り上がる。
「十字軍の騎士か。なかなか楽しめそうだな」
呟きは鋭く、戦場に臨む獣の声。
刃から溢れる殺気に、海賊衆は息を呑んだ。
「病み上がりには――丁度いい相手だ」