織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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潜入、武田信玄の秘湯 前

滝川一益の支配する伊勢・志摩と、松平元康が治める三河・遠江は、海路での往来が盛んであった。

だが今、その海路を覆うように不吉な報が駆け巡る。

 

――「武田信玄、上洛」

 

戦国最強と謳われる巨将が、ついに動いたのだ。

 

この凶報を耳にした松平元康は、織田信奈の同盟者としてただちに動いた。

本来ならば、尾張に隣接する三河に籠って守りを固めるべきところを、彼女はあえて東へ。

旧今川領の遠江を押さえ、駿河から迫る武田信玄の侵攻を水際で止めようとしたのだ。

 

だが――。

 

松平家臣団の多くは反対した。

「織田軍が救援に来てくれねば、我ら単独では戦えませぬ!」

「いっそ岡崎城に籠り、武田軍が通り過ぎるのを待つべきにございましょう!」

 

消極的な声が大勢を占める。

しかし、床几に座る元康は、震える手で眼鏡を拭きながらも、瞳に光を宿した。

 

「皆の者……今こそ一世一代の勇気を奮い起こすのです~!」

彼女は声を張り上げる。

 

「吉姉さまは、かつて大軍の今川義元を桶狭間で破ったのです! あの奇跡を、この松平元康も必ずや再現してみせます~!」

 

いつになく気丈な叱咤に、家臣団は一瞬たじろぎ、反論の声を飲み込んだ。

こうして松平軍は西遠江の拠点、浜松城に布陣したのである。

 

だが、この時の浜松城は、まだ天守閣も持たぬ小さな平城に過ぎなかった。

せめてさらに東、駿河との国境まで進出し、要地を押さえたかった。

それが元康の理想であった。

 

だが、現実は非情。

 

「――速い……! なんという速さですかああ!」

 

物見の兵や忍びがひっきりなしに持ち帰る報告に、元康のたぬ耳がふるふると震える。

「疾きこと風の如し」――武田軍の進撃速度はまさにその言葉通り、元康の予想をはるかに上回っていた。

 

「駿河の武田水軍が海路から攻めて来ております!」

報告に元康は思わず悲鳴をあげた。

 

「ええっ!? 武田水軍? 甲斐は山国ですよね!? なんでそんなの編成してるんですかあ!?」

 

眼鏡を外し、必死に拭きながら声を裏返す。

「流石は戦国最強の武田信玄……準備万端ということか!」

 

思わず声を張ったのは、軍議の片隅に座っていた良晴だった。

 

刃を追って伊勢に向かうはずが、道に迷い気づいた時には三河を歩いていた。

そこを服部半蔵に見つかり、元康と共に浜松城にて軍議に参加していた。

 

「大軍を率いて甲斐を出発した武田信玄自身は、天竜川沿いに猛然と遠江を侵略中! すでにわが方の北の前線である二俣城を包囲しています!」

 

「ふ、二俣城に援軍を……後詰めを出さなければ~!」

 

元康の顔から血の気が引く。

だが、目の前には浜松を狙う武田水軍。

うかつに兵を動かせば、背後を突かれて浜松城そのものが落ちる。

 

まさに袋小路。

 

前線を見捨てれば「家臣も土地も守れぬ」と見限られ、領国支配は瓦解する。

だが援軍を出せば、この本城が落ちる。

 

「う、打つ手が……打つ手がないのです~!」

元康のたぬ耳がぶるぶる震え、床几の上で今にも泣き出しそうになっていた。

 

その横で良晴は、額に汗を浮かべながら歯を食いしばった。

(やべぇ……刃がいねぇ今、信奈を助けられるのは俺と元康しかいねぇってのに! 信玄の奴、容赦なさすぎだろ!)

 

元康も果敢に攻めの姿勢を見せはするものの、すべては後手後手に回っていた。

進撃の速さも、周到な包囲の網も、松平軍ではとても受け止めきれない。

 

「み、みみ、美濃からの援軍は~?」

床几の上で震える声を振り絞る元康。

 

「美濃にも、すでに武田の別働隊が侵入しております」

報告したのは忍び。無慈悲な響きだった。

「斎藤道三どのは防衛で手一杯。援軍を出したくとも、出せませぬ」

 

「も、も、もう駄目です、わ、わ、わ、わたくしにはこれ以上は無理ですぅ……」

元康は白目を剥きかけ、床几から転げ落ちそうになった。

 

「お、お、お、近江と京を押さえておられる吉姉さまは!?」

 

「ご綸旨によって和睦していたはずの浅井朝倉連合軍が――あっさり和睦を反故にしました!」

別の使者が叫ぶ。

「すでに北近江に集結し、織田本隊へ決戦を挑む構え! 武田信玄の上洛に完全に呼応した模様!」

 

「ひ、ひぃぃっ……!」

元康は胸を押さえ、目に涙を浮かべて震えた。

「お、おしっこ漏らしそうです……っ」

 

家臣団の中にどよめきが広がる。

尾張の信奈軍が孤立する――この状況を「敗北必至」と見て取る者は多かった。

 

「逆に、こちらが織田家へ援軍を送らねばならぬのです」

重苦しい沈黙の中、冷ややかな声が割って入った。

 

床に伏していた忍び頭、服部半蔵。

その双眸は氷のように澄み、声には一片の揺らぎもない。

 

「東海最弱の尾張兵を率いる織田の姫は、このままではあえなく討たれましょう」

 

「……!」

元康の顔が強張った。

 

半蔵の冷徹な言葉は、家臣団に衝撃を走らせた。

信奈が刃を伊勢に左遷した話は、すでに家中ばかりか道三や元康の耳にまで届いている。

刃という切り札を欠いた織田軍が、これほどの包囲網を突破できるはずがない――その推測は誰も否定できなかった。

 

駿河湾からは武田水軍。

天竜川からは信玄本隊。

美濃には強力な別働隊。

そして近江では浅井朝倉連合軍。

 

――四方を囲む、完全なる包囲。

 

武田信玄による織田包囲網が、ここに完成していた。

 

「吉姉さまが……敗れる? 半蔵、まさか……っ」

元康が声を震わせる。

 

「叡山での籠城戦の時とは違います」

半蔵の言葉は冷たく、刃のように鋭い。

「今回は俊傑・浅井長政が浅井軍を率いている。その上、戦嫌いのはずの朝倉義景ですら打倒織田に執念を燃やしている。天城刃を欠いた織田軍のみで、この連合軍を退けるのは至難。松平の援軍なくば、勝利は望めませぬ」

 

「で、でででも、この状況で援軍なんて……絶対に無理です~!」

元康の声は裏返り、耳がぴんと立ったまま震えていた。

 

「……残念ですが遠江は、陸と海から挟み撃ちです」

半蔵は淡々と告げる。

「織田の防波堤として、武田本隊を迎え撃つ形。だがその織田からの援軍は来ない。奇跡でも起こらぬ限り、織田信奈の勝利はありえません。ここは降伏すべきかと」

 

「はあ!? てめぇ今、なんつった半蔵! 信奈を裏切る気かよ!!」

軍議の場で唯一声を張り上げたのは、良晴だった。

 

「吉姉さまは、絶望的な危機にこそ奇跡を呼び込むお方です~!」

元康も、涙目で必死に訴える。

「桶狭間の奇跡! 金ヶ崎の奇跡! どちらも修羅場を越えて勝利をつかんだのです~! わわわ私だって、絶対にあきらめません~!」

 

だが半蔵は冷徹に切り捨てた。

「二つとも、天城刃がいたからこそ成り立ったもの。それに、お家が断絶してしまえば、奇跡も再起もありませぬぞ」

 

その場に重苦しい沈黙が落ちる。

家臣団の誰もが分かっていた。

刃という怪物を欠いた織田軍が、もはや普通の大名家と同じ立場に過ぎないことを。

 

「い、いいえっ!」

元康が震える声を振り絞る。

「浅井長政さんに続いて私まで吉姉さまを裏切ったら、あまりにもおかわいそうです~! わたくしははやくに父を失いましたから、長政さんのような家庭の事情もありませんし~! ここで利に走って吉姉さまを裏切るなど、松平の姫として絶対にあってはならない卑劣な行いです~!」

 

必死の訴えも、半蔵の冷たい視線にかき消されかけたその時――。

 

「おおおおおおっ!!!」

城内がどよめいた。兵士たちがいっせいに歓声をあげ、その声が本陣にまで響き渡る。

 

「なんだ、どうした」

 

「半蔵さまっ、援軍です! 織田からの援軍が到着しました!」

見張りの兵が転がり込むようにして叫んだ。顔は涙で濡れ、声は震えている。

 

「馬鹿な。援軍など来るはずが……」

半蔵の言葉は途中で途切れる。

 

「はるばる志摩から! 織田家に加勢する九鬼海賊衆という連中が船団を率いて来たんです! どういうわけか、南蛮船まで連れています!」

 

「海賊衆と……南蛮船だと? なんだ、その異様な取り合わせは」

半蔵すらも目を見開く。

 

「刃だ! 間に合ったんだな!」

良晴が拳を握りしめ、涙を浮かべて叫んだ。

 

「きっと刃さんです~! 刃さんが、また奇跡を起こしてくれました~!」

元康のたぬ耳も「ぴこぴこ」と跳ね、立ち上がる。

 

 

浜名湖の水面を覆うように、数十隻の船団が姿を現した。

女だけの荒くれ海賊集団――九鬼海賊衆が、陽光を反射させる櫓と帆を翻しながら進軍する。その後ろには異国の巨大船、黒光りする南蛮船が白い帆をはためかせて並走していた。

 

「見ろ! 本当に南蛮船だ!」

「うおおおおっ、でけぇ……!」

兵たちは目を見張り、武田水軍の兵すらざわめいた。

 

旗本隊を率いて浜名湖の船着き場に駆けつけた元康と良晴。

そこに立っていたのは――。

 

九鬼嘉隆。南国のビキニをまとい、真珠をじゃらつかせる「海の女」が堂々と名乗りをあげた。

「あたしたちが武田水軍の進撃を阻みます。なに、急ごしらえの水軍などあたしの敵ではありません」

 

宣教師オルガンティノは白い歯を輝かせ、聖書を掲げながら一礼する。

「ノブナさまは神の御心に選ばれしクイーンです。フロイスさまも命を懸けて支えるお方……ボクも、交易と平和のために尽くしましょう」

 

そして黄金の鎧をまとった騎士ジョバンナが一歩前に進み出た。

「……ワタシは聖ヨハネ騎士団のジョバンナ・ロルテス。アマギハヤテ、タキガワカズマスと共に、陸戦に参戦する。武田の騎馬武者と、この身をもって渡り合おう」

 

その威容に、松平軍の兵たちから感嘆のどよめきが起きた。

 

「す、すごい……すごすぎます~!」

元康は眼鏡を外して涙をぬぐい、震える声で叫んだ。

 

「で、でも……刃さんは? 肝心の刃さんはどこですか?」

元康が眼鏡をくいっと持ち上げながら、半泣きで嘉隆に縋るように尋ねた。

 

「もうすぐ来るかと」

嘉隆が口の端を上げた、その瞬間だった。

 

湖面を渡る風を受けて、九鬼海賊衆の船から二つの影が姿を現す。

 

「ここが遠江なのじゃな。……ずいぶんと草深い田舎じゃのう。味噌の匂いがする……はっくしゅん! さむっ……はっしー、抱っこじゃ!」

 

「はいはい、仰せのままに」

 

すっ……と甲板から降り立ったのは、白銀の髪を陽光にきらめかせる剣士・天城刃。その両腕に抱かれているのは、頬を赤らめ、整った小鼻を指でつまんで甘える幼い姫武将・滝川一益。

その姿はまるで絵巻物から抜け出したかのようで、一瞬兵も家臣も声を失った。

 

「(あ、あいつ……もしかして“落として”きたのか!? しかもよりによってまた幼女! しかも姫巫女さまそっくり! ああもうどうなってんだよ!? ロリコン属性を極める気か、コイツ!?)」

 

良晴は全身で叫びたいツッコミを必死で飲み込むが、顔は引き攣りっぱなしであった。

 

「ふええええええ!」

そして感極まったのは元康だった。

 

「刃さんっ……! ありがとうございます~! このご恩は七代のちまで忘れません~! もう神仏に祈っても無理だと思っていたのに……!」

 

大粒の涙をぼろぼろ零しながら、駆け寄り、今にも飛びつこうとした。

 

だが――。

 

「はっしー、避けるのじゃ」

甘えるような声が刃の耳元に響く。

 

「了解した」

 

すっと刃が一歩、サイドステップを踏む。

 

「ずざぁっ!」

そのまま元康は空を抱きしめ、地面に転げ落ちる。

 

「な、なんで避けるんですかああああ!?」

涙と砂まみれになりながら元康が叫ぶ。

 

「主命だ」

刃の返答は短く、冷徹で揺るぎない。

 

「くすくす♪」

一益が、彼の胸元に顔を擦り寄せながら笑った。

 

「はっしーは姫の懐刀なのじゃ。抱きついたり、抱かれたりしていいのは、姫だけじゃぞ♪」

 

一益が甘ったるい声でそう言い放った瞬間、場の空気がぴしりと凍りついた。

「……い、今なんと?」

「ひ、姫の……懐刀……?」

「え、えええっ!? 織田信奈さまの懐刀じゃなかったのか!?」

場にいた兵たちがざわめき、家臣たちの顔色が一気に変わる。

九鬼海賊衆の少女たちは「きゃああ、姫さまったら大胆~!」と黄色い悲鳴を上げる。

 

「……は?」

良晴は目を剥き、石像のように固まった後、バッと指を突き出した。

 

「お、おい刃!? その幼女の言ってること、冗談だよな!? てか、その幼女だれだよ!? 伊勢で拾ってきたのか!! なんで平然と“お姫様抱っこ”してんだお前はぁあああ!!」

 

堰を切ったように疑問をぶつけまくる良晴。

 

「良晴? なぜここにいるんだ?……まぁ、いいか」

刃は微塵も動じず、冷静に答えた。

 

「よくないだろ!! よくないから俺が全力でツッコミしてんだろがぁあああ!!」

良晴は頭を抱えて地団駄を踏みながら叫ぶ。

 

「こいつは滝川一益だ」

刃の口から淡々と告げられた名前に、良晴は耳を疑った。

 

「……は?」

完全に固まった良晴の顔は、石仏のように動かない。

 

「滝川……一益……? この幼女が……?」

 

良晴の脳裏にある一益のイメージは――「渋い鉄砲の名手」「甲賀の切れ者」「年齢そこそこいってる」――そんな姿だった。

ところが現実に刃が抱いているのは、小柄で巫女服を着た幼女。しかも頬を赤らめて刃の胸元にぴったり甘えくっついている。

 

「イ、イメージが……全壊したぁああああ!!」

良晴は絶叫した。

 

「今の俺の主だ。姫様の元へ帰るまでではあるがな」

刃がさらりと付け加える。

 

「はぁああ!? まじで言ってんのかお前!? なんでこんなあざとさ満点の小悪魔幼女にたらしこまれてんだ馬鹿野郎!! 信奈が泣くぞ!!」

 

「くすくす、失礼なサルじゃの〜。姫はこう見えても織田家四天王のひとり。伊勢・志摩を統べる甲賀のやんごとなき姫じゃぞ♪」

 

胸を張って堂々と宣言する一益。その小悪魔的な笑みに、九鬼海賊衆が「きゃー! 姫さま可愛い!」と黄色い声を上げる。

 

「サルって言うな! 俺の名前は相良良晴だ!」

 

「相良良晴? なら、サルであってるのじゃ♪」

 

「ふざけんなぁあああ!!!」

良晴が涙目で崩れ落ちる。

 

だが当の一益はまったく気にせず、刃にさらに身を寄せる。

 

「ほれ、はっしー。サルなんぞ放っておいて、もっと姫を抱き締めるのじゃ♡ 姫は寒いぞえ〜。あっためてくれんと、風邪をひいてしまうのじゃ〜♪」

 

「……はぁ、世話の焼ける」

刃は結局、一益をさらに抱き寄せ、その頭をぽんぽんと撫でた。

 

「おいぃいいい!! 何イチャついんだお前ら!!」

良晴は顔を真っ赤にしながら地団駄を踏み鳴らす。

 

「刃! 一益ちゃんは幼女だぞ!? どう見ても小学生レベルだぞ!? 高三男子が小学生を“お姫様抱っこ”して、頭なでなでとか……完全に事案だろ!! 通報案件だろ!? タイーホだぞお前えええ!!!」

 

「くすくす、サルの顔が真っ赤になっておるぞ〜♪ さては嫉妬しておるのじゃな? はっしーが姫を抱いておるのが、羨ましいのじゃろ〜?」

一益が小悪魔のように笑い、刃の胸元でさらに甘える。

 

「だーーーれが嫉妬するかぁあああ!!!」

良晴は泡を飛ばしながら怒鳴った。

 

「俺は刃と違ってロリコンじゃねぇんだよ!! 俺は胸がデカくないとダメなんだ! ロリは完全に守備範囲外だあああ!!!」

 

「誰がロリコンだ」

刃の声は冷たいが、額に青筋が浮いていた。

 

「ロリコン以外の何者でもねぇだろこのやろおおおお!!」

良晴は全力で指差して絶叫する。

 

「幼女ばっかり甘やかして落としてんだよお前は!! どう見てもロリコンだろ!! そう呼ばれても仕方ねぇだろ!! このロリコン剣豪がぁああああ!!!」

 

刃の表情が若干引き攣る。

だが良晴の怒涛のツッコミは止まらない。

 

「ロリだけならまだ許せる! でもなぁあああ!! お前はロリ“だけ”じゃねぇんだよ!!!」

 

良晴は両手を天に突き上げ、空を仰いで魂の絶叫をあげる。

 

「信奈も! 長秀さんも! 十兵衛ちゃんも! フロイスちゃんも! 全部全部!! 美少女ばっかり落としやがって!!!ロリじゃねぇだろあの人たちは!! なんで俺のヒロイン候補を根こそぎ奪ってくんだよお前はあああ!!!」

 

拳を震わせ、涙目で刃を睨みつける良晴。

 

「俺がどんだけ頑張っても、気づけばお前が先に落としてるじゃねぇか!! ロリで満足しとけよぉおおおお!!!」

良晴は地面に膝をつき、がくりと項垂れる。

 

「……あぁぁ……俺の青春が……俺のフラグが……全部、白刃取りされていく……」

 

その姿は、戦場でもっとも悲惨に討ち死にした敗残兵のようだった。

 

「くすくす、下心満載で武力面でも頼りないサルと、下心なしで武力面は日ノ本最強、しかも口では冷たくあしらっても結局は甘やかしてくれるはっしー……どっちが好かれるか、一目瞭然じゃのう♪」

 

「や、やめろぉおおお!! 俺の心をえぐるなあああ!!!」

良晴は絶叫し、九鬼海賊衆は腹を抱えて大爆笑していた。

 

 

 

 

「いつまで騒いでいる。武田信玄と殺り合うのだろう?」

刃の冷ややかな一言に、良晴ははっと我に返った。

 

「はっ、そうだった! 敵は武田信玄! 戦国SLGの最高傑作『織田信長公の野望』シリーズでもな、コイツは“化け物パラメータ”で有名なんだよ!」

良晴は急にスイッチが入り、場の中心で両手を振り回しながら語り出す。

 

「統率・政治・知力がことごとく九十オーバー! しかも武力まで八十台後半! アイテム『風林火山旗』を持たせた日には、全能力オール百だぞ!? もう神だ! 接触した瞬間に溶かされる、史上最強のラスボス武将!!」

 

一益が「ぽかーん」と目を丸くし、ジョバンナは「……そのノブナガ・ノヤボウという戦記録は、シンゲンの強さを誇張しているのか?」と首をかしげる。

 

「誇張なんかじゃねえ! 信玄四天王──高坂昌信、馬場信房、内藤昌豊、山県昌景! どいつもこいつもステータスがアホみたいに高い! さらに軍師の山本勘助が、なぜか死なずに元気に参戦してくるんだ! 極めつけは真田一族!! これだけチート集団を抱えてりゃ、そりゃあ誰だって泣くわ!!」

 

良晴は腕を突き上げ、涙目で絶叫した。

 

「この状態で勝とうと思ったら、もう全員が心をひとつにして奇跡を起こすしかねえ! 史実なんてクソくらえだ! 俺たちが勝つ歴史を作るしかねえんだよ!!」

 

「す、すごい熱弁ですけど……ちょっと敵を褒めすぎてませんかサル晴さん?」

元康がたぬ耳を震わせながら冷ややかに突っ込む。

 

「うっ……た、たしかに。ちょっと盛りすぎた……」

良晴は頭を掻きつつも、すぐに調子を取り戻す。

 

「でも要点はこうだ! 対水軍戦は──」

びしっと九鬼嘉隆を指差す。

 

「海賊さんにぜ〜んぶ任せる! あっちは武田水軍っつっても急造だからな。所詮は補給と威嚇が役目! 本命はあくまで陸の本隊決戦だ! なにしろ武田と言えば騎馬隊! あの悪夢の突撃をどう防ぐかがカギだ!!」

 

「そうですね~、サル晴さん。二俣城が落ちれば次は浜松城です~。浜松を抜かれればそのまま尾張まで直通コース~」

元康がぶるぶる震えながら補足する。

 

「ひ、姫はイヤじゃ……汗むさい陸で、武田騎馬隊と血みどろの泥試合なんて……お肌が荒れちゃうのじゃ……」

一益が刃の腕の中でぷいっと顔を背ける。

 

「おい待てコラ! そんな理由で戦拒否すんな!」

良晴ががっくり崩れ落ちる。

 

だが、すぐにひらめき、口角を上げた。

 

「……でもな、一益ちゃん! もし武田信玄を倒せば──お前は日ノ本一のつわものとして歴史の教科書にドーンッと載るぜ! 織田信奈、徳川家康と並んで、滝川一益の名前が未来永劫残るんだ!!」

 

「キョーカショ? なんじゃそれ? おいしいのか?」

 

「お、おいしい……? いや違う! 未来の子どもたちが皆、授業でお前のことを学ぶんだぞ!? それこそ世界デビューだ!!」

 

「……世界デビュー!」

一益の瞳がきらりと輝き、すぐに頬を染めた。

 

一益は刃の腕の中からするりと抜け出すと、しゃなりと馬に飛び乗った。小柄な身体に似合わず動きは俊敏で、裾の巫女装束がひらりと舞う。

「はっしー! 今こそ、この姫がどれほど有能な武将かを後世に知らしめる好機じゃ! ふふん♪」

 

得意げに笑い、手綱を握る小さな手をぴんと伸ばす姿は、まるで天下を握る将の風格……なのに、声は幼女らしい高音でどうしても締まらない。

 

そこへ、良晴が「よいしょ」と遠慮なく後ろに飛び乗った。

 

「な、なぜ姫の馬に乗ってくるのじゃ! 腰に手を回すでない!」

一益が慌てて腰をひねる。

 

「ええい! 姫さまの腰に触れるでない、穢らわしいサルめ!」

九鬼嘉隆が「くわっ」とまなじりを吊り上げ、刀に手をかける勢いで良晴に噛みついた。

 

「悪い悪い。俺、馬はちょっと苦手でな。偵察がてら軍議するんなら、馬に揺られながらが都合いいと思ったんだよ」

良晴は涼しい顔で弁解するが、一益はむすっとした顔で振り返る。

 

「ならはっしーの馬に乗ればよいじゃろ……はっしーの馬はどこじゃ?」

 

「なに言ってんだよ、一益ちゃん。こいつは馬に乗らねぇんだ! 『走った方が速い』とか言ってさ!」

 

「ふむ……なら、はっしーに抱えて走ってもらえばよいじゃろ♪」

一益は勝ち誇ったように顎を上げる。

 

「嫌に決まってるだろ!? 一回やられたけどな、揺れと風圧で吐きそうになったんだぞ! 軍議なんて不可能だ!」

良晴は思い出しただけで青ざめる。

 

「情けないの〜。それでも男かえ?」

一益は「くすくす」と意地悪く笑い、馬上で背筋をしゃんと伸ばして小さな胸を張った。

 

「はぁ……ジョバンナ。良晴を乗せてやってくれ」

刃が深いため息をつき、巨馬にまたがる少女騎士へ視線を送る。

 

「む? 承知した。サガラヨシハル、乗れ。わが愛馬は二人乗りでもへばらない」

 

「オッケー。硬くて冷たそうな甲冑に抱きついても楽しくはないけど、ちっちゃい子供の背中にしがみついてるよりは絵になるかな」

良晴がぶつぶつ言いながらも、ジョバンナの背後に乗り込む。

 

「はっしー! 馬に乗らんのなら、姫を抱えて馬に乗るのじゃ♪」

一益が目をきらきらと輝かせ、子どものように両腕を広げる。

 

「……走った方が楽なのだが?」

 

「命令じゃ♪」

小さな顎をつんと突き出し、勝ち誇った顔。

 

「……はぁ」

刃は渋々といった顔で一益の馬に乗り込み、軽々とその小柄な体を抱き上げ、自分の膝の上へとひょいと乗せた。

一益は「えへへ」と満足げに背を預け、膝の上で足をぷらぷら揺らしている。

 

「そう言えば、良晴。ジョバンナは女の子だ。変なとこは触るなよ」

刃が何気なく釘を刺す。

 

「へ? 女の子?」

良晴がぎょっとした顔で振り向くと、すかさず一益が「くすくす」と笑いながら告げる。

 

「そうじゃぞ。しかも、かなりの美少女じゃ♪ 姫ほどではないがの〜♪」

 

「び、美少女! 刃が落としてない、美少女……マジでっ!? ジョバンナちゃん!ぜひ俺とつきあってくれええ!!!! ジュ・テーム! アイ・ラブ・ユー! 好きです愛しています!」

脊髄反射で良晴は叫んだ。外国語のボキャブラリーが貧弱すぎて、フランス語と英語しか出てこなかったのはご愛敬。

 

だが、返ってきたのは冷たい声。

 

「断る。ワタシは、お前のような生っちろい小僧にはときめかない。全身傷だらけの歴戦の勇士でなければ、立派な殿方とは認められないのだ」

騎士の碧眼が、嘲笑うように良晴を見下ろす。

 

「くすくす、サルめ。惨敗じゃの〜♪」

一益が嬉々として笑い、刃の胸板に軽くもたれながらさらに煽る。

 

「女の子はのう、強くて冷たそうに見えるほど憧れの的になるんじゃ♪ はっしーのように、な」

 

「うるせぇ!!」

良晴は涙目で怒鳴り返し、拳をぶんぶん振り回すが、馬上の一益は余裕たっぷり。

 

「いいか! 俺だってなぁ! 色んな戦場をくぐり抜けてきてんだぞ!? ちょっと女の子に優しくして、しかも日ノ本最強なんて肩書きを持ってる刃と比べられちゃ、分が悪いだけなんだ!」

 

 

「ふむ……泣き言を並べるくらいなら、まず剣を磨け。それがサムライの第一歩だ」

ジョバンナがきっぱりと突き放す。

 

「ぐっ……!」

良晴は胸を抉られたような顔で崩れ落ちそうになる。

 

そんな中、刃が静かに声を発した。

 

「軍議をするんじゃないのか?」

 

刃の低い声が落ちた瞬間、空気がぴりりと張り詰めた。

 

良晴は馬上で胸を張り、やたらと自信満々に叫んだ。

「今から武田軍の戦力がどういうものか偵察する。刃もいるし、俺の予想どおりなら、十二分に勝機はあるぜ。ふふふ……戦国ゲームマニアの知識力を舐めんじゃねえ!」

 

「さすがはサル晴さん、自信まんまんです~。もう勝っちゃった気分です~」

元康はたぬ耳をふるふる震わせながらも、頼もしそうに目を細める。

 

だが次の瞬間――。

 

「くすくす。ジョバンナ、気をつけたほうがいいぞよ。そうやって馬に乗せているうちに、いつの間にかおっぱいを揉まれてそして結婚させられてしまうぞえ」

一益のいたずらっぽい囁きに、良晴が「ギャー!」と顔を真っ赤にする。

 

「……ワタシは鉄の鎧を着ているからだいじょうぶだ。それにこんどこの男に求愛されたら、即座に斬る」

ジョバンナが冷然と宣告し、騎士の碧眼が良晴を射抜いた。

 

「しくしくしく! あ、あれはちょっとした言葉の弾みで……!」

「本気ではなく戯れで騎士をからかったと言うならば、やはり斬る。腹立たしい。侮辱だ」

「戯れじゃねえよ! 思わず正直すぎる本音を漏らしてしまったってやつだ!」

「本音なのか。気持ちが悪いので、やはり斬る」

「どっちに転んでも斬られるんじゃねぇかあああ!!」

良晴は馬上で頭を抱えた。

 

「くすくす。乙女心って微妙なものじゃからな♪」

一益は膝の上でゆらゆら揺れながら、愉快そうに笑う。

 

その空気を断ち切ったのは、半蔵の冷ややかな声だった。

 

「……敵の斥候に見つからぬよう、慎重に行軍しましょう。服部党よ、四方に散れ。これより結界を張りながら進む」

 

闇に溶けるように服部党の忍びたちが散開し、山道の両脇へと消えていった。

 

やがて一行は、二俣城を見下ろす丘陵へと辿り着く。

眼下には、二俣川と天竜川が合流する渓谷に挟まれた小さな山城があった。城下の畑はすでに焼かれ、川沿いには無数の篝火が揺れている。

 

「……二俣城か」

刃は腕を組み、冷たい視線で包囲網を見渡した。

 

「二俣城で籠城している味方は千人ほどです~。彼らを見捨てては松平家の信望は地に落ちてしまいます~。とはいえ、城を囲む武田軍は三万近い大兵力にふくれあがっています~」

元康の声は震え、たぬ耳が「ぴくぴく」と忙しなく動く。

 

「ほう。武田信玄は美濃攻めにも兵を割いているはずなのに、すごい兵力じゃの」

一益が驚いたように呟く。

 

「さ、サガラヨシハル、もぞもぞと動くな。不気味な動きをしたら斬るぞ」

「わ、悪いジョバンナちゃん。あまりにも悪路続きで馬酔いした……」

「……惰弱な」

ジョバンナの冷徹な一言に、良晴は情けなく肩をすくめた。

 

「信玄さんは、美濃で織田軍と決戦する前に、まずは松平を叩きつぶすつもりなんです~」

元康の声はふるふる震え、指差した先に広がる光景は――二俣城をぐるりと包囲する、無数の旗と篝火だった。

 

「ご覧のとおり、お城はびっしりと包囲されています。落城は間近です~」

「これは笑うに笑えん大軍勢じゃな……」

一益も珍しく眉をひそめた。

 

「これ、サル。信玄をやっつける知恵を今すぐ出すのじゃ。なにか策があると言ってたではないか」

期待を込めて一益が振り返ると、ジョバンナの背にしがみついている良晴がにやりと口角を上げた。

 

「ふ、ふ、ふ。聞いて驚くなよ一益ちゃん!」

良晴は胸を張り、わざとらしく人差し指を立ててみせる。

 

「実はな!俺たちの時代の歴史学者によれば――戦国時代の日本にいた馬は、一部の例外をのぞけばみんな身体が小さいんだ!現代日本でよく見られるサラブレッドは体重五百キロ。だが戦国時代の日本馬は二百五十キロ程度と半分しかない!甲冑を着た武者を乗せたら、人間が走るよりは速いが、猛スピードで突撃するなんて不可能なんだぜ!」

 

「な、なんじゃと……?」

一益の目がきらりと光る。

 

「たしかに……」

ジョバンナも周囲の馬を見比べ、頷いた。

「ワタシの愛馬よりも小柄な馬ばかりだ。これでは重装の騎兵突撃は成立しまい」

 

「そう!つまりな!」

良晴は声を張り上げ、丘に木霊させた。

「武田騎馬隊の強さの実態は、宣伝上手な武田信玄が作り上げた幻想!実際には馬を高速移動する荷駄隊として使い、山だらけの甲斐や信濃を縦横無尽に駆け抜けて補給路を支えた。それが“風林火山”の迅速な作戦行軍の正体なんだ!俺の戦国ゲーム知識が正しければ、いわゆる最強の武田騎馬隊などは存在しない!」

丘の上で胸を張り、高らかに宣言した良晴は、どこか勝ち誇ったように腕を組んだ。

「はっはっはっ。武田信玄よ、この俺さまが織田軍にいたことがお前の不幸だったな!」

 

だが、その隣で一益がぱちぱちと瞬きをして呟いた。

「武田軍は、槍兵や弓兵が主体だと言うのかの? ありもしない騎馬軍団をでっちあげて、敵の士気を戦う前からくじいておる、と? ほんとかのう?」

「情報戦ですか~。さすが信玄さん、頭のいい人です~」

元康がたぬ耳を震わせながらも、どこか希望を見いだそうとするように声を上げた。

「だとしたら、そのからくりを見破っている私たちには勝機があるかもですね~」

 

「良晴」

その時、静かに割り込む声。

紅い瞳を細めた刃が、丘陵の向こうを凝視していた。

「残念ながら、そんな上手い話はないぞ」

 

「な、なんだよ刃!不吉なこと言うなよ!」

「……お前らには見えんのか。見ていれば、わかる」

刃の声は低く、確信に満ちていた。

 

その瞬間だった。

 

どどどどどどどど……ッ!

 

大地を揺るがすような馬蹄の轟音が、彼方から迫ってきた。

振動が足の裏から這い上がり、全身を突き上げる。

空気が震え、耳を塞いでも止められない地鳴りが丘を支配した。

 

「な、なんじゃ……!?」

一益の小さな体がびくりと震え、思わず刃の袖を掴む。

 

視線の先――そこに現れたのは、まさしく“戦国最強”の名に恥じぬ軍勢だった。

 

武田の赤備え。

真紅に染め上げられた馬具と甲冑が、陽光を浴びて血のように輝いている。

一頭一頭が、ジョバンナの愛馬に勝るとも劣らぬ巨大な駿馬――アラブ馬、サラブレッドの祖を思わせる巨体。

その背にまたがる武者たちもまた、紅蓮の甲冑に身を包み、槍を構えて整然と進軍していた。

 

数十ではない。数百でもない。

数千の“赤き巨獣”が、一糸乱れぬ行軍をもって大地を蹂躙していたのだ。

 

その光景はまさに――

 

疾きこと風の如し。

侵掠すること火の如し。

 

旗指物が翻るたび、丘の上にまで熱風が押し寄せるかのよう。

赤備えの騎馬隊が放つ威圧感は、ただ目に映すだけで呼吸を奪う。

 

「げ、げぇぇぇっ――武田騎馬隊っ!?」

良晴の顔から血の気が引いた。

「あ、ああああ……じ、じじじ実在するなんてえええっ!?」

 

がちがちがち……!

歯の根が合わない。

手足が勝手に震え、膝が笑う。

 

「くっ……」

必死に声を絞り出すが、理性ではどうしようもなかった。

 

真っ赤な鉄の塊で武装した巨大な獣の群れを見た人間は、本能的な恐怖を感じさせられる。

見下ろす丘の上からでも、武田騎馬隊の進撃は大地を震わせ、熱風と砂塵を巻き上げて迫力を放っていた。

 

「こ、こ、ここここんなおっかねえ連中と、毎回川中島で互角以上に戦ってる上杉謙信ってのは……い、いったいどんな常識外れのバケモノなんだ!? や、やべえ、こええ! 戦国時代、超こええええ!!!」

良晴は歯をがちがちと鳴らし、馬上で半分腰を抜かしかけている。顔は真っ青で、脂汗が額から滴り落ちていた。

 

「落ち着け、良晴」

刃の冷ややかな声が、振動に揺れる空気を切り裂く。

 

「サガラヨシハル」

ジョバンナが鋭い碧眼で横目に射抜く。

「お前の読みは……大間違いだったようだが」

 

「サル、いくらなんでも怯えすぎじゃぞ?」

一益がくすくすと肩を揺らす。

「そちは、ほんとうに未来から来たのかの?」

 

「ち、ちがっ、違わねえんだよっ! あ、ああ。み、未来の日本じゃ、ここここの時代の馬はちっちゃくて、こ、甲冑武者を乗せれば人間よりちょっと速いくらいだって学問的に明らかになってんだ! だ、だってどどどどどう見てもあいつら……アラブ系の巨馬じゃねーか、反則だぜあんなの!!」

 

「わわわわ……だ、駄目です~……」

元康は情けない声をあげ、たぬ耳をぶるぶる震わせながら手綱を取り落としそうになっていた。

「こ、こんなすごい騎馬隊を見せつけられては……も、もう二俣城の皆さんの士気は持ちません~! もももう……終わりですうう~!」

今にも落馬しそうなほど腰を浮かせて騒ぐ姿は、もはや総大将とは思えない惨状だった。

 

「……あの騎馬隊が相手では、浜松城から後詰めを出しても、一蹴されてしまいますし~。あ、明日明後日には二俣城は、は、開城してしまいます~!」

 

「おいおい元康! あきらめたらそこで戦国時代終了だぜ!!」

良晴ががなり立てるが、声が裏返っている。

「お前ががんばらなくてどうするよ! で、浜松城の戦力はどれくらいだっ!?」

 

「み、みみ三河を空っぽにして全軍を動員しても……ははは、八千が限界です~。おまけに国人衆がどんどん信玄さんに寝返っちゃってますから~、全盛期よりだいぶ減ってるんですう~!」

元康の声は半泣きで、たぬ耳は完全にぺたんと垂れ下がっていた。

 

「敵は三万。しかもあの真紅の騎馬隊じゃ」

一益が肩を竦め、わざと愉快そうに笑ってみせる。

「完全に詰んでおるのう」

 

「な、なあ一益ちゃん。陸戦に投入できる援軍はどれくらいだ?」

良晴が縋るように問う。

 

「くすくす。海賊衆の女の子たちはくっきーに預けて海で暴れさせるからの、陸で姫が動かせる兵力はせいぜい二千くらいじゃの」

 

「……足しても一万三千か」

良晴が顔を歪め、頭を抱える。

 

「一万三千? いや、一万しかおらんぞ?」

 

「刃は一人で三千人計算だ……武田は三万、しかもあの騎馬隊は一人が三倍くらいの戦力になるだろうから……やべえぜ。小馬の荷駄隊が相手だったら、策もあったんだが」

 

「何を悩む必要があるんだ?」

刃は紅の瞳を細め、冷ややかに問いを突きつける。

 

「刃? な、何言ってんだよ。悩むに決まってるだろ!」

良晴が声を裏返らせて叫んだ。

 

刃はその横で、膝の上で小さく震えながらも笑っている一益の黒髪を静かに撫でていた。まるで、戦場にあってもその幼い姫を落ち着かせることが何よりも大事だと言わんばかりに。

 

「良晴。将棋はどうすれば勝てる?」

「は? 将棋? 今はそんなこと言ってる場合じゃねぇだろ!」

「いいから答えろ」

刃の声は低く、押し殺したような響き。逆らえばその場で斬り伏せられるような迫力があった。

 

「……相手の、王を取ったらだろ」

しぶしぶ良晴が答える。

 

「そうだ。取るまでの過程がどうであれ、最終的に王を取れば勝ちだ。そして、それは戦も同じだ」

 

その言葉に、場の空気が一瞬で張り詰めた。

目の前に広がる三万の武田の大軍勢を前に、恐慌寸前だった良晴も元康も、思わず息を呑んで刃の言葉に引き込まれてしまう。

 

刃の瞳は、一切の迷いも恐怖もなかった。

「なぜあれと戦う必要がある? 時間の無駄だ。狙うは――武田信玄、ただ一人」

 

「……っ!」

元康が息を呑み、たぬ耳をぴんと立たせる。

「この場での最善手は、武田信玄の暗殺だ。どれほど強大な軍勢であろうと、王を失えば木偶と変わらん」

 

凍りついた沈黙。

その冷酷すぎる真理に、誰もが言葉を失った。

 

だが、次の瞬間――。

 

「……はっ!」

良晴の目がぎらりと光り、馬上でぱん!と手を打ち鳴らした。

「それだ刃!!!」

 

「は? 何がだ?」

刃が訝しむように片眉を上げる。

 

「俺が……俺がゲームで覚えた歴史で、武田信玄が上洛できなかった理由! 武田信玄はな、織田軍に負けたわけじゃねぇんだ! 勝ち続けてた上洛戦の途中で、いきなり……死んじまうんだ!!!」

 

「……死ぬ?」

一益が目を瞬かせる。

 

「ああ! だから武田軍は、勝ちを収めていながらも甲斐に引き返すしかなかった! 織田軍は九死に一生を得たんだ! 要は――奇跡が起きたんだよ!!」

 

良晴が力いっぱい叫ぶと、場の空気は一瞬止まった。

 

「……とうとう妄想に取り憑かれてしもうたか。サル、哀れな奴じゃの……くすん」

一益がわざと涙ぐんだふりをして肩を震わせる。

 

「一益ちゃん、妄想じゃねえよ!」

良晴は必死に身を乗り出した。

「この世界ではどうなるかわからねえが、少なくとも俺が知っている歴史ではそうなるんだ!」

 

元康がたぬ耳をぴくぴくさせながら、ごくりと生唾を飲み込む。

「サル晴さん自慢の……千里眼、というやつですか~? でも、そんな吉姉さまにだけ一方的に都合のよすぎる奇跡なんて、ほんとうに起きるでしょうか~?」

 

「信奈には言うんじゃねーぞ!」

良晴が慌てて釘を刺す。

「あいつ、自分の未来をバラしたら俺を殺す、って言ってるからな……って、一益ちゃん、なに手紙なんか書いてるんだよっ!」

 

「別に、のぶなちゃんに一筆したためようとしているわけじゃないぞえ? くすくす」

一益は袖に隠した短冊をひらひらさせながら、いたずらっぽく笑った。

 

「おい、やめろ! マジで俺の命に関わるから!!」

 

仕方なく良晴は息を荒げながら、三人に向かって「歴史講義」を始めた。

 

「いいか! 武田信玄はな、上洛戦の途中で不意に死んじまうんだ! その死因は現代でもはっきりしてねぇけど、推論ならある!」

彼は指を三本立てて、必死に語った。

 

「一つ目! 武田信玄は実は以前から労咳か何かの病を患っていて、それが冬の上洛戦で寒さと疲労で急激に悪化し、死んじまった説!」

 

「病死か……なるほどのう」

一益が腕を組み、目を細める。

 

「二つ目! 胃癌だ! 癌ってのは現代でも死に直結する病気でな、当時の医者じゃどうにもできなかったんだろう!」

 

「が、癌……? 病魔にすら勝てぬとは、あの信玄公も人の子なのですね~」

元康はぶるぶる震え、胸の前で手を合わせてしまった。

 

「そして三つ目!」

良晴は指を突き出し、さらに声を張る。

「松平の城を包囲してたとき、敵陣から夜な夜な聞こえてくる美しい笛の音に信玄が心奪われてな! それを知った敵方に狙撃されて死んじまった、つまり暗殺説だ!」

 

「なるほど……やはり、はっしーの言った通り暗殺しちゃえばよいのじゃな!」

一益が刃を見上げ、にやりと笑う。

「接近して毒を盛る手ならいけるのではないか? 夜の敵陣に向けて鉄砲を放って暗殺するのはちと現実的ではないと思うがの」

 

「俺が単身突撃するのが一番早いだろう」

刃は、もはや息をするように冷酷な結論を口にしていた。その紅い瞳は冗談めかす色を一切帯びていない。

 

「待て待て待てお前ら!!」

良晴が慌てて二人の前に馬を寄せ、両手をばたばた振り回した。

「暗殺なんてバカな真似はやめろっつーの! 相手はあの武田信玄だぞ!? もし暗殺なんかしたらどうなる? 信奈に対する天下の信望が地に落ちちまう! “卑怯者の織田”なんてレッテル貼られたら、戦に勝ったところで終わりだろうが!」

 

言葉に力がこもり、空気が一瞬張り詰める。刃と一益は顔を見合わせ、それぞれ違う色の笑みを浮かべた。刃は冷ややかな皮肉、一益は子供らしい無邪気な悪戯心。

 

「いいか、聞けよ!」

良晴は馬上で身を乗り出し、全員を指差した。

「要人の暗殺なんかで歴史は動かせねーぜ。たとえ動いたとしても、ろくでもねぇ方向にしか進まない! 天下を獲るってのはな、正々堂々と戦って勝ってこそだ! それが織田信奈の天下だ!」

 

「でもサル晴さん……」

元康がおそるおそる口を開く。

「正々堂々と戦っても……信玄さんに勝てるのでしょうか~? あの騎馬隊、あの赤備えを前に……」

 

「ま、まあな……」

良晴は顔を引き攣らせつつも胸を張る。

「圧倒的すぎる戦力差を考えたら正直勝ち目はねえ……でもな、それでもやるしかねえんだよ!」

 

「ほほう」

一益がにやにやと笑みを深め、馬上から身を乗り出してきた。

「それで、どうするつもりじゃ? まさか“奇跡が起きる”なんて言うつもりじゃあるまいな?」

 

「違う!」

良晴は大げさに手を振り、胸をどんと叩く。

「俺は今から赤備えの甲冑を身につけて、武田軍に潜入する! そして口八丁手八丁で信玄に接触し、奴の体調を見極めてやる!」

 

「抜け駆けか?」

刃の声は低く、紅い瞳が鋭く光った。

 

「なるほど、信玄ちゃんに直接接近して毒入りのあんこ餅を食わせるつもりじゃな? サルも相当のワルじゃの〜。くすくす」

一益が口元に手を当てて笑う。

 

「違ぇっつってんだろ!!」

良晴が怒鳴り、額に青筋を浮かべる。

「暗殺から離れろ! 信玄暗殺説はボツだ! 正面からの戦は無理! だからこそ……俺は『信玄病死説』に賭けるんだよ!!」

 

その場が一瞬静まり返った。馬の鼻息と、風に揺れる草の音だけが耳に残る。

 

「……」

刃が無表情のまま、しかしその瞳にわずかに呆れを宿す。

 

「口調は勇ましいけど、すご~く後ろ向きな賭けじゃの」

一益が小馬鹿にしたように肩をすくめ、くすくすと笑った。

 

「でもよ! 信玄の死因が病だったなら、今もその兆候があるかもしれないだろ! 咳をしてないか、顔色が悪くないか、酒を控えてないか……そういうのを俺が直に確かめりゃ、こっちにだって策を立てられる!」

 

「サル晴さん……」

元康が眉をひそめ、ため息をつく。

「いつものお供の皆さんもおられないのに、一人で潜入なんて……危険すぎます~。今回は半蔵もつけてあげられませんし」

 

「黄金の鎧兜で身を固めているワタシは、かえって目立つだろうしな」

ジョバンナが低く呟く。

「かといってこの兜を脱げば異国人ということが明らかになり、余計に悪目立ちしてしまう。……だから協力できない」

 

「俺一人で大丈夫だ!」

良晴は無理やり胸を張った。

「そこは知略と口先を駆使してなんとかする! 俺のゲーム知識と未来人パワーを舐めんなよ!」

 

「……」

刃は紅い瞳を細め、良晴の顔をしばし見つめた。

 

「信玄さんは戦が強いだけでなく、石橋を叩いても渡らないほど用心深いお方です~」

元康が重ねるように首を振る。

「今までのようには、絶対に上手くいきませんよ~」

 

今回ばかりは、危険度が高すぎる。元康がなかなか折れない。

 

「でも、今の俺は信奈に黙って刃を追ってきたからな。五右衛門も置いてきちまったし、しょうがねえだろ」

良晴は肩をすくめ、苦笑しながらもどこか寂しげに吐き出した。信奈に隠れて出てきた以上、ここで手ぶらで帰るなんて選択肢は最初から存在しない。

 

「そうじゃな、サル」

一益が膝の上で小さな手を打ち合わせ、わざとらしく頷いた。

「織田家のために片道切符の突撃を敢行してくるのじゃ。くすくす、命を賭けてこそ真のサムライじゃろ?」

 

「……一益ちゃん。この任務から生還したら、ゆっくり話をつけてやるからな」

良晴は額に青筋を浮かべ、ぷるぷる震えながら返す。

 

「ひぃぃ……」

元康は馬上で耳をぴんぴん震わせ、顔面蒼白。

「一人で行くなんて駄目です~! おおお、おしっこ漏れそうなほどに怖いですけど……わわわ私が同行して……」

 

「おいおい!」

良晴が即座にツッコミを入れる。

「いくらなんでも総大将を斥候に出せるかよ! 万が一あったら松平軍そのものが終わりじゃねーか!」

 

「むぅ……」

ジョバンナも腕を組み、静かに口を開いた。

「ではワタシが行こう。碧い瞳はどうにもならぬが、髪ならば黒く染めればよいだろう。甲冑を脱ぎ捨てれば目立たぬはずだ」

 

「いや無理だジョバンナちゃん」

良晴は即座に却下。

「髪だけ染めても、そのエメラルドみたいな瞳で一発でバレるわ! しかも美少女すぎるから逆に目立つんだよ! 女の子に無茶はさせられねえ!」

 

「ワ、ワタシはマルタ島を生き抜いた騎士だぞ!」

ジョバンナは珍しく声を荒げ、碧眼を見開いた。

「女の子扱いするな! 剣を取れば、サガラヨシハルよりもよほど役に立つ!」

 

「おい! いちいち俺を基準にするんじゃねぇ!」

良晴が涙目で反論するが、誰も否定しない。

 

「うーん……しかたないの」

そこで、膝の上にいた一益がひょいと手を挙げた。

「姫が一緒に行ってあげてもいいぞえ。忍びがいれば潜入も脱出も簡単じゃろ? これでも甲賀の里の姫じゃ。はっしーがおれば万が一も起こらんしの」

 

「えっ? 危ないぜ?」

良晴は思わず目を剥いた。

 

「危なくとも行くのじゃ。忍びに危険は付きものじゃろ?」

一益は胸を張り、刃の腕の中で得意げに微笑んだ。

「それに、はっしーにぎゅっと抱えて守ってもらえるのなら、姫はむしろ安全じゃ♪」

 

「刃は無理だろ。髪と瞳の色で一発でバレるぜ?」

 

「……」

刃は小さく息を吐き、紅い瞳をすっと細めた。

「問題ない。主を守るのが俺の務め。俺の視力なら遠くからでも状況を把握できる。木々の陰を伝い、見張りに気取られずお前たちを追える。危険を察知すれば即座に加勢する」

 

その冷徹な声音に、良晴は背筋を震わせた。

(マジで言ってやがる……! やっぱコイツ、命を張るのに一片の迷いもねえ……!)

 

「……ほんとうは、姫巫女さまの血縁のやんごとなきお方に違いない」

良晴はふと、膝の上で刃に甘やかされている一益を見た。つい、思考がこぼれる。

(見れば見るほど姫巫女さまにうり二つだな……この愛らしい笑み、刃に当然のように抱き上げられている仕草。まるで、刃の膝の上が自分の玉座だとでも思ってるみたいじゃねーか……)

 

良晴は片目をぱちりと閉じ、愛くるしい笑顔を浮かべている一益を見つめながら、頭を抱えた。

 

その夜──。

 

一益の巧みな手引きによって、良晴はどうにか武田陣営への侵入に成功していた。

二人は武田軍の赤備えの甲冑を身につけ、二俣城攻めで傷を負った兵たちに混じり、「戦死した兵の死体のふり」をして潜り込んでいたのだ。

 

「……くすっ」

一益は幼いながらも、さすがは甲賀の姫忍。死んだふりの達人だった。

 

大きな黒目がちの瞳を「にゃああ」と見開き、小さな唇を半ば開いたまま、虚空をじっと凝視してぴたりと固まる。

その顔は、まるで能面のように感情を欠き、血の気を失った人形にしか見えない。

 

「完璧じゃろ。姫はこの“死体のふり攻撃”で、くっきーたちを何度も驚かせてやったのじゃ。くすくす」

(心労のあまり海賊衆の目尻にシワが増えそうだな……ほんとに楽しんでやがる)と良晴は心の中で嘆息する。

 

「そういや、刃はちゃんと見えてるかな?」と良晴が小声で呟くと、

一益はわずかに眉をぴくりと動かし、念話のように答える。

 

(大丈夫じゃ。常に視線を感じるからの♪ わざとこちらに気づかせておるのじゃろうが、位置を特定できんのじゃ。気配も完璧に消しておる。はっしーは忍びとしても超一流じゃな)

 

(そこまでかよ……)

良晴は心の中で絶句した。

 

その時、武田軍の衛生兵らしい一団が松明を掲げて近づいてきた。

良晴は咄嗟に目を閉じ、呼吸を止める。

一益も「死人のまなざし」を保ったまま、まるで氷の彫像のように動きを止めた。

 

(……暇じゃな。いきなり焼かれたらどうするかの、サル?)

(しーっ、しーっ。声がでけぇ! 冬だし、死体は片隅に積むだけで済むだろう。頃合いを見て動き出そうぜ)

 

(どこへ行くのじゃ?)

(この寒さだ。もし信玄が病を患ってるって説が本当なら、本陣には影武者を置いて、本人は温泉で養生してるはずだ。一益ちゃん、この辺に温泉はねえか?)

 

(直接見たことはないの。じゃが、この地形なら山奥に隠し湯があるはずじゃ。甲賀忍びはそういう情報に詳しいからの)

(さすが忍びっ子だな……よし、次は猟師のふりして温泉に潜入だ。三人で温泉に浸かって、信玄が現れるのを待ってやろうぜ)

 

(……なんだかんだ理屈をこねて、姫の裸をそんなに見たいのかの? やっぱり妖怪乳揉みザルじゃな♪ はっしーに言いつけるぞえ)

 

(そ、それだけはやめろ!! 俺はロリに興奮しねぇ! お前のつるぺたボディに欲情する趣味は断じてねえ!!)

 

一益の唇が、死人のふりをしながらもほんのわずかに吊り上がる。

その様子は、死体の皮を被った小悪魔のようだった。

 

 

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