織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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モンハンワールドにハマってしまった



潜入、武田信玄の秘湯 後

「よーし。水の手を断つ策は完璧だ。城兵どもは渇きに追い詰められ、もはや籠城を続けられるまい。うちの騎馬隊の威容を見せつけてやったのも効いている。守備兵の士気は既にぐだぐだだ……二俣城は明日には落ちるな」

 

低く唸るような声が、武田本陣の奥から響いた。

 

そこは軍勢三万を束ねる大本営にして、迷宮のように幾重にも陣幕が張り巡らされた最奥。

外部の者がたとえ潜入できても、途中で幾度となく警備の兵と検問に阻まれ、まず到達は不可能といっていい。

その奥深き空間で、ただ一人「甲斐の虎」が床几に腰掛け、地図を睨んでいた。

 

──武田信玄。

 

理知的な鋭い眼光はまるで獣のごとく、眼下に広がるすべての戦局を射抜いている。

日本人離れした豊満な肉体は甲冑の下でもなお圧倒的な存在感を放ち、肩から流れる赤髪と艶やかな紅の唇は、武将でありながら妖艶な姫君の気配すら漂わせていた。

だがその眼差しは、一切の慈悲を欠いた猛虎のもの。

まさしく「甲斐の虎」という異名にふさわしい存在であった。

 

「二俣城を落とした後、浜松城を蹴散らす……備えとして五千を遠江に残すとしても、動員できる兵力は二万五千。十分だ」

 

信玄は手元の碁盤のような軍図に兵駒を置いていく。

動かすたびに、駒はまるで生き物のように戦場を駆け抜け、三方から迫る織田・松平・斎藤を呑み込んでいく幻が見えた。

 

「水軍が織田の援軍に阻まれているのは誤算だが……たぬ耳娘ごときが率いる急ごしらえの水軍、あれは所詮見せ札。赤備えの突撃の前には塵も同然よ。松平元康の腰抜けどもを一気呵成に蹴散らせば問題ない」

 

信玄の声には確信があった。

 

すでに十二月も半ば。年の瀬が迫るこの時期に、三河から遠江にまで大軍を押し出すなど、常人には不可能の戦略。

だが信玄は己の才覚をもってそれを実現していた。

 

「二カ月もかける必要はない。一カ月で松平、道三、信奈を屠り、畿内を制圧する。雪が融ければ越後の龍が牙を剥く。あやつが動き出す前に、必ず片を付けねばならん」

 

冷徹な声でそう言い切った。

戦国乱世において、春になれば必ず蘇る宿敵・上杉謙信。

雪深き越後の地に縛られている間だけが、甲斐の虎に与えられた僅かな猶予であった。

 

「すべては浅井・朝倉がどこまで織田信奈を足止めできるかに懸かっている……」

 

唇を噛む。信玄の計算において、唯一の不確定要素がそこにあった。

 

──天の白刃。

 

その名を心中で呟いた瞬間、信玄の瞳が僅かに細められた。

 

噂では冷酷無情、織田信奈以外には心を砕かぬ死神。

信奈が動かぬならば、彼も動かない。

逆に、信奈が動けば、死神もまた動く。

 

「天の白刃……織田信奈が使う、最も危険な“剣”。」

 

信玄は深く吐息を漏らす。

その声音には恐怖ではなく、同じ猛獣を相手にする時の研ぎ澄まされた緊張感が漂っていた。

 

「我が軍略と兵力をもってしても、奴を殺し損ねればすべては瓦解する。……ゆえに、まずは松平と道三を討ち、そのうえで必ず、信奈とその白刃を、我が手で屠らねばならん」

 

『御屋形さま、東美濃の拠点・岩村城はすでにこの勘助が落としましてござりまする! それがしが岐阜城にこもる斎藤道三と御屋形さまの決戦場を整えております。どうか至急美濃へとお進みなされ! この上洛戦は時間との戦いにござる。松平のたぬき娘にかまけてはなりませぬぞ──勝頼さま、万歳』

 

届けられた山本勘助の書状を火にくべ、燃えゆく紙片を見つめながら信玄は唇を吊り上げた。

 

「ふふ。相変わらず四郎勝頼に夢中だな、あのジジイは。あれほど子供好きであれば、さっさと所帯を持てばよいものを……まあ、あたしも他人のことは言えんがな。『甲斐の虎』などと恐れられてしまっては、嫁入り先もあったものではない」

 

手を軽く叩くと、幕の影がわずかに揺れた。

 

「逍遥軒、いるか」

「──あい、ここに」

 

影の中から現れたのは、もう一人の「信玄」。

生き写しのように似通った顔立ち、声色までが酷似している。

 

「妹よ、あたしは隠し湯で疲れを癒す。しばしの間、武田信玄の影を務めてくれ」

 

「またですか、姉上。ふいと姿をくらますのは姉上の悪癖。敵どころか、味方に怪しまれますぞ。くれぐれも……」

 

「わかっておる。だが忘れるなよ。お前が演じるのは『素のあたし』ではなく、勘助が作り上げた虚像だ。勇ましく、雄々しく、常に顎を上げ、甲斐の虎そのものを演じよ。……子供を見て頬をゆるませたり、猫を抱いて目尻を下げたり、うまそうな団子を見てよだれを垂らすあたしを真似るな。常に虎であれ」

 

「ふふ、御意」

 

妹・信廉──武田逍遥軒は、風流を好む画工でありながら、この場では姉の影武者として鎧を纏い、諏訪法性の兜を戴いた。

 

一方、甲冑と陣羽織を脱ぎ去った信玄は、町娘のような小袖姿に着替える。

その瞬間、「甲斐の虎」は消え、少し背の高い、胸の豊かな一人の乙女──勝千代が姿を現した。

 

すれ違う兵たちは彼女をただの小者としか思わず、誰も気づかない。

「甲斐の虎」が、鼻歌交じりに兵卒の群れへ紛れ込んでいくなど想像だにできぬからだ。

 

(木は森に隠せ、か。……この方がずっと安全だ)

 

そう思うと、肩の力がふっと抜ける。

戦場を駆ける「虎」と、子供や猫を好み、時折町娘のように振る舞う「乙女」と──二つの顔を持つこと。

その落差こそが、信玄を「最強」にした秘密だった。

 

「……胸が重いな。肩凝りのせいか……やはり、温泉はありがたい」

 

勝千代はそっと肩を押さえながら、くすっと笑う。

超好戦的な「御屋形さま」像を背負う一方で、素顔の彼女は人間らしい弱音を零すこともある。

 

「さて……ここか」

 

曲がりくねった山道を抜けた先に、湯けむりが白く立ちのぼっていた。

小さな少女兵たちが控えているだけの、ひっそりとした隠し湯。

戦乱のただ中とは思えぬ静けさが、そこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

勝千代、いや「甲斐の虎」と恐れられる武田信玄は、ひとたび鎧と陣羽織を脱ぎ捨てると、肩の重荷まで外れたように素の少女へと戻っていった。

月明かりに照らされた隠し湯の岩場に、白い肌がふわりと浮かび上がる。湯けむりは夜風にたなびき、月光は湖面のような湯面を銀色に染めていた。

 

「ふぅ……やっぱり力を抜いて“あたし”に戻るなら、温泉に限るな」

と、勝千代は両腕を伸ばし、ぐっと背を反らせる。肩甲骨から心地よい音が鳴った。

「厠をいくら広く作っても、長居なんかできないしな。ははっ……ここなら誰もいない」

 

湯が肌を包み込む。温かさが血管をゆるめ、戦場で張りつめた神経が少しずつ解けていく。

しかし頭の中は休まらない。むしろ解き放たれた思考は奔流となって駆け巡り、戦や政治の青写真を描き出す。

 

「……早く東海と畿内を押さえないと。織田を倒したあとは町割り、治水、新しい市の開設……やることが山ほどある」

勝千代の唇が湯気に曇りながら小さく動いた。

「近江には巨城を築かねばならない。大坂湾に出入りできる港を整備すれば、南蛮貿易だってもっと盛んになる……。ああ、そうだ……あそこに銀山を開発すれば貨幣流通ももっと安定するはずだ」

 

彼女の思考は、合戦よりも内政に向かう。

戦いはただの手段にすぎない。土地を富ませ、民を豊かにすること。栄えゆく市場の喧噪を夢見るその胸は、政治家としての才覚に満ちていた。

 

だが、その夢を阻み続ける存在が一人いる。

 

「──上杉謙信」

 

その名を呟いた瞬間、勝千代の蒼い瞳には、憎悪にも似た強い光が宿った。

「……せっかく領土を奪っても、ぷいっと越後に帰ってしまう……? なんだそれは。毘沙門天の化身? 義の武将? 笑わせるな。あいつだって、結局は戦に取り憑かれたただの小娘じゃないか」

 

湯に指先を沈め、ばしゃりと音を立てる。水面に散った月光が揺らぎ、彼女の怒りを映し出すかのようだった。

 

「“義”だの“秩序”だのときれい事を並べてみても、民は飯を食えない。土地は耕されず、川は氾濫し、町は荒れる。……そんなものは乱世を終わらせる力にはならん。国を治めるのは理と算盤、土木と開発。それだけだ」

 

声は低く、しかし確信に満ちていた。

 

「不俱戴天の敵……あたしにとって、それは織田信奈ではなく、上杉謙信。あいつこそ、必ずこの手で打ち破らねばならん」

 

湯気に包まれた勝千代の横顔は、少女らしいあどけなさを残しながらも、その奥底に燃え盛る炎は覇王のものだった。

 

「にゃ~」

 

 夜の静寂を破ったのは、小さな鳴き声だった。

 お腹まで湯に浸かり、ほぅ……と長い息を吐いていた勝千代の視線の先に、岩陰から一匹の野良猫が姿を現した。

 まだ若い白猫で、月明かりを受けて毛並みがほのかに光っている。

 

「おお。かわいいな♪ 来い。おいで、おいで」

 

 勝千代が指先をちょいちょいと動かすと、猫は小さく尻尾を振り、ためらうように一歩ずつ近づいてくる。やがて彼女の膝の上へぴょんと飛び乗り、喉を鳴らした。

 

「にゃああ~」

 

 その温もりに勝千代の口元が自然とほころんだ。

 湯気と月光のなかで猫をぎゅっと抱きしめ、頬をすり寄せる。猫の毛の柔らかさと心地よい振動が、戦場で冷えきった心に染みわたった。

 

「にゃあ、にゃあ……」

 

「ふふ。お前も、本猫寺の連中から『おねこさま』に祀り上げられて、疲れているのじゃないか? この乱世では、誰もが不安だからな。明日をどう生きられるかもわからん。だからこそ、人は毘沙門天だの、義将だの……そして猫にすら救いを求める」

 

 勝千代は遠くの空を見やった。月が白く輝き、湯面にゆらゆら揺れている。

 

 本猫寺──。かつては小さな仏教宗派にすぎなかったものが、いつしか「猫を仏の化身」と信じる奇妙な宗教に変貌していた。

 大坂を本拠に、伊勢長島や北陸加賀にまで拠点を広げ、動員兵力は一国の大名を凌ぐほど。

 しかも「おねこさまのために死ねば、猫まみれの極楽へ行ける」と信じる信徒は、命を惜しまず戦う。武将の命令で動く侍より、よほど強靱な兵となる。

 

「……乱世は、化け物ばかりを生み出す」

 

 猫を抱いたまま、勝千代はぽつりと漏らした。

 自身もまた「甲斐の虎」と呼ばれた化け物のひとりに違いない。

 

「だが、あたしは天下を平らげる。そうすれば、お前ももう少し気楽に、ただ猫として生きられるだろう」

 

 その声には、どこか自分に言い聞かせる響きがあった。

 

「……甲斐の虎でいるのも、楽じゃない。勘助は知恵は回るが、主君を使い潰すのが得意だからな」

 

 思い浮かぶのは軍師・山本勘助の顔。あの老人は占いを好み、運命や天命の話をよくする。

 勝千代自身は占術など信じない。だが、勘助の言葉には理屈を超えて心を動かされる何かがあった。

 

──織田陣営に、「天命を動かす者」が紛れ込んでいる。

 

 勘助はそう告げた。

 

 本来なら、斎藤道三などとうに滅びているはず。

 義娘・織田信奈と手を組んで共に蒼天に輝くなど、天命に反している。

 だが現にそれが起きているのは、彼らの陣営に「天命を狂わせる異質の存在」がいるからだと──。

 

「……“天命を動かす者”」

 

 勝千代は湯面を見つめた。

 勘助は、それは「天の白刃」だという。

 

 腕の中の猫が「にゃあ」と鳴く。

 勝千代は細い肩を揺らして笑った。

 

「一度会ってみたいな。その者が本当に死神か……それとも、別の何かか」

 

 湯気の向こうで、虎の瞳が月光に光った。

 

 

 

 

 

同じ「隠し湯」の対角線上。

天城刃と相良良晴、滝川一益の三人は、仲良く湯煙に包まれながら混浴中だった。

 

一益はまだまだ幼く、自分の裸を若い男に見られて羞恥心を抱く年頃でもない。むしろ堂々と刃の膝の上にちょこんと座り、胸を張って得意げに甘えている。

 

「どうじゃ、姫の珠のような肌は? つるつるすべすべ、どきどきするじゃろ?」

 

「……姫様にならしたかもしれん」

刃は無表情のまま、ぽつりと返す。

 

「むぅ〜、まだ信奈ちゃんには勝てぬか」

一益が頬を膨らませて抗議。

 

「良晴ならしてるんじゃないか?」と刃が何気なく言うと、

 

「くすくす、サルにどきどきされても嬉しくないの〜♪」

一益が悪戯っぽく笑う。

 

「しねえよ!」良晴が湯をばしゃっと叩いて声を上げる。「だいいち、お前を見てるとだな……あの“やんごとなきお方”の顔が浮かんできちまって、それどころじゃねーんだ!」

 

「やんごとなきお方? のぶなちゃんのことかえ?」

「ぜんっぜん違う!」

 

とぷん……。

その時、静かな湯面を破る音がした。

 

三人同時に反応する。

刃の紅い瞳がすっと細まり、一益の黒目がきらりと輝く。良晴は胸の鼓動が跳ね上がった。

 

「おおっ! サル。あっち! あっちじゃ! 若い女がおるぞ!」

一益が指を突き出す。

 

「おお、一益ちゃんと違ってナイスバディのお姉さんだ! こりゃ超ラッキーだぜ!」

良晴は目を輝かせて立ち上がりそうになる。

 

一益と良晴は、まるで悪ガキコンビのように興味津々で湯気の向こうを覗き込んだ。

 

「……茄子馬手? 未来語ってむつかしいの〜」

「おい刃、あのお姉さん……猫のにくきゅう突いてはしゃいでるぞ。武田信玄ってもっとド迫力の大女傑だろ? 違う気がする」

 

「くっきーと比べれば若いが、信玄の小姓にしては年がいっておる。影武者かもしれぬの」

「なるほど……武田信玄本人なら即退散だが、影武者なら問題ねぇな! 湯気が邪魔だ! あの美人のお姉さんのふくよかな胸元、俺の目で確認してやる!!」

 

「これ、サル!」一益が小さな胸を張って仁王立ち。

「見つかったらまずいじゃろ! ほらほら、姫のおっぱいで我慢するのじゃ!」

「ぺったんこな胸板押しつけられてもなぁ……」

 

「な、なんじゃとぉ!? む・な・い・た、などと! この姫のあられもない入浴姿になにも感じぬとは、そちこそどうかしておる!」

 

「それは刃もだろうが」

 

もしもこの場に山本勘助が潜んでいたら――良晴の暴言に烈火のごとく怒り狂い、

『貴様は幼き娘子の尊さがわからぬのか! 生きる値打ちのない腐れ外道めがッ!!』

と血涙を流しながら飛び込んできて、斬りかかってきたに違いない。

 

「む? 誰だ、お前たちは? 織田方の刺客かっ!?」

 

しまった! 勝千代に気づかれた!

湯煙越しの鋭い声に、良晴の背筋が氷のように凍りつく。

 

「やべっ!」逃げ腰になった良晴の髪を、一益がぱしっと掴んだ。

大声をあげられれば兵が集まってきて一巻の終わり。ここは誤魔化せ、と言いたいらしい。

 

「刃はどうする!?」

 

「はっしーならもう気配を消しておる。……バレることはないのじゃ」

小声で一益が答える。

 

「よ、よし。俺たちは……そうだ、遠江のマタギ兄妹だ! 俺が兄でお前が妹!」

「……また苦し紛れの設定を……」

 

良晴はごくりと唾を飲み込み、視線を勝千代の胸元に吸い寄せられながら呟いた。

「(勝家よりも……でかいかもしれねぇ……ゴクリ)」

 

「そんなことを言っておられる場合ではないぞえ!」一益が小声でツッコむ。

 

良晴は必死に顔を引きつらせながら、お湯をかき分けて接近。

「いやあ、まさか先客がおられるとは! これは奇遇ですねえ、山のお嬢さん!」

 

客観的に見れば、完全に痴漢の第一歩。

だが、緊張のあまり良晴自身は気づいていない。

 

「俺はこの辺りでマタギをやってる、相良の権蔵って者で……こいつは妹の猫丸だ!」

 

「うにゃ~ん。猫丸だみゃ♡」

 

一益は即座にぶりっ子幼女へ変貌。

大きな黒目をうるうると輝かせ、猫のような語尾を駆使してぺこぺこと頭を下げる。

その芝居の完成度たるや、さすがは甲賀の姫。

 

勝千代の口元に笑みが浮かぶ。

「おお……兄のほうはどこか、太郎を思わせるサル面だが……妹はなんと綺麗で愛らしい子だ」

 

良晴にとっては僥倖だった。

この瞬間、勝千代は目の前の良晴の中に、若くして戦で命を落とした最愛の弟の面影を見てしまったのだ。

 

さらには「猫と子供が一緒にやってくるなんて、なんと縁起がいい」と、一益の無邪気な笑顔に心を和ませている。

 

本来なら――「くせ者!」と一喝されて、その場で首を折られていてもおかしくなかった。

 

(サンキュー、一益ちゃん……お前のおかげで誤魔化せそうだ……! それにしても……やっぱりすげぇ美人だ……! しかもとんでもねぇでかいおっぱいだ! 勝家とどっちが大きいか、触って調べたくなってきた……)

 

(……敵陣ど真ん中で女の子漁りとは。やれやれ、サルはやっぱりサルじゃな。はっしーを少しは見習ったらどうじゃ?)

 

湯煙の中で、一益はあきれ顔で肩をすくめるのだった。

 

「どうもあやしいな……」

勝千代の碧眼が細められる。月明かりに濡れたその横顔は、ただの湯治中の美女ではなく、猛獣が獲物を値踏みしているような危険な光を帯びていた。

 

「うぬら、このあたりの者か? 妹さんのしゃべりは、尾張なまりのようだが?」

 

「な、なまってないみゃ……」

一益が猫耳をぴくぴくさせるように小首を傾げ、必死にぶりっ子声でごまかす。

 

「猫丸の口調は尾張弁じゃないんです、ははは!」良晴が慌てて割り込む。

「ほら、今流行ってるだろ? おねこさま信仰! 一文字間違えたら大変なことになるヤツ! 特に大坂ではブーム到来中でさぁ~」

 

「……そうなのか? あたしは大坂弁には疎くてな」

勝千代はじっと見つめる。抱いている猫の耳を撫でながら。

 

「お姉さんも猫なんか抱いて、信者みたいじゃないですか」

良晴は笑顔を作りながら、心の中で(ちっ、この猫が邪魔でおっぱいが見えねぇ……)と呪う。

 

「ふん。あたしはただ猫が好きなだけだ。信仰心などない。むしろ猫も神さま扱いされて迷惑しているだろう」

 

「そうか……まあ、俺も信仰ってのは特にないがな」

 

「権兵衛。マタギにはマタギの信仰があるみゃ。われらは山の女神を崇めてるみゃ」

一益が、相変わらず猫演技全開でフォローする。

 

「お、おっと、そうだったっけ!? ……って、俺は権兵衛じゃねえ! 権蔵だ!」

 

「間違えたみゃ。ちなみに姫の名前は猫叉だみゃ♡」

 

「それ妖怪じゃねーか! お前は猫丸だろうが!」

 

「あっ」

 

やべえ! 思わず突っ込んでしまった!

良晴は慌てて自分の口を両手でふさいだが、遅かった。

 

湯気越しに、勝千代の碧眼が鋭く光る。

まるで獲物を捉えた鷹のような視線が、良晴の心臓を射抜いた。

 

「……なるほど。うぬら、土地の者ではないな」

低く落ちる声。唇の端がゆっくりと吊り上がっていく。

 

「やはり織田の刺客か。よくぞここまで潜り込んだ。褒めてやろう」

 

勝千代が、にやりと微笑む。

その笑顔の奥には、もはや隠しきれぬ獰猛さ――武田信玄としての本性がちらりと覗く。

湯煙の向こうで、一瞬だけ虎の幻影が見えた気がした。

 

「だが、もう遅い。ここに来た時点で逃げ場はない。捕虜として首を差し出すがいい」

 

ぐぐっと迫り来る圧力。空気が一気に重くなる。

ただ湯に浸かっているだけなのに、戦場で敵陣に包囲されたかのような息苦しさ。

 

「し、しまった! 突然に化けおった! この女は影武者じゃない! まぎれもなく武田信玄本人じゃぞ、サル!はっしーがいなかったら、姫たちはもう囚われの身じゃったな」

 

「はっしー? 貴様、何を言っている? この場にはあたしたち以外誰も――」

 

「本当にな。お前らは潜入に向いて無さすぎる」

 

低く響いた声に、勝千代の全身がびくりと震えた。

「な……っ!」

咄嗟に振り返る。だが、そこには誰もいない。

 

「どこを見ている?」

 

声が再び、反対側から。

勝千代は勢いよく首を巡らせる。だが、湯煙に包まれた岩肌しかない。

 

──いや。いた。

 

湯気の奥、月明かりの筋に淡く浮かび上がった人影。

銀の髪が夜風を受けてさらさらと冷たく揺れ、紅の双眸が闇を貫くようにこちらを射抜いている。

湯面に映る影さえ、異様な迫力を帯びていた。

 

そしてその膝には、先ほどまで勝千代の眼前にいたはずの一益が、まるで瞬間移動でもしたかのようにちょこんと座っていた。

幼い姫は殺気に震えていた身体を緩め、安堵の吐息をもらしながら刃の胸へと身を預けている。

 

甘えるように小さな手を刃の胸元に伸ばす一益。その姿は、幼女ではなく「懐刀を得て守られた姫」そのものだった。

 

「な……っ!」

勝千代の心臓が跳ねる。

 

(い、いつの間に……!? あたしが振り返った刹那に、あの幼子を連れて……? この距離、この警戒態勢で……! わたしが、気配を感じ取れなかっただと!?)

 

彼女の背筋に、熱湯よりも鋭い寒気が走った。

 

「……何者だ」

勝千代が唇を震わせる。

 

「天城刃」

 

名乗りは、ただそれだけ。だがその声は、夜気を裂き、湯煙を震わせ、まるで天地に轟く雷鳴のように響いた。

 

「……天の白刃……」

勝千代の喉がかすかに鳴った。

(噂に聞いた冷酷無比の死神……! 織田信奈の懐刀……!)

言葉にした瞬間、己の胸の奥底に「恐怖」と「歓喜」が同時に芽生えるのを感じた。

 

「なぜここにいる? 噂では──織田信奈以外はどうでもいい男だと聞いたが」

 

「誰だそんな噂を流したのは。……良晴か?」

 

「違うに決まってんだろ!!!」

 

ばっしゃああん、と湯を叩きながら良晴が絶叫。

顔を真っ赤にし、鼻の穴をふくらませ、まるで「俺を犯人扱いした罪を絶対に許さん!」とばかりに湯気の中で仁王立ちする。

 

「つーかお前!! なんで俺を放置してんだよ!?髪引っ張ってでもいいから一緒に移動させろや!! 一益ちゃんだけちゃっかり救出してんじゃねーよ!!」

 

「腕が足りない。俺の腕は二本しかないんだぞ」

 

「足りるだろおおおがあああ!!! バランスボールでも持ち運んでんのか!? 軽い幼女だぞ!? 小脇に抱えれば余裕だろ!! なんでよりによって、わざわざ両腕でお姫様抱っこなんだよ!! なんだ、その意味不明な拘り!! お姫様抱っこオンリー縛りでも課してんのか、このロリコン剣豪があああああああああ!!!!」

 

その瞬間、刃の顔がぴくりと引きつった。

「……またそれか。お前はよほど俺をロリコンにしたいようだな、妖怪乳揉みザル」

「誰が妖怪乳揉みザルだコラァアアアア!!!!」

全力でツッコむ良晴の声が、山間にこだまのように響き渡る。

 

「姫様から贈られた渾名だろう? 大切にしろよ」

 

「いらねえよそんな不名誉極まりない渾名ァアアア!! 何千石の褒美よりいらねえよ!!! これ以上歴史の教科書に俺の名前を“妖怪乳揉みザル”で刻む気か!? 俺の子孫が泣くわ!!!」

 

全身で湯を跳ね散らしながら暴れる良晴。

湯気が舞い、温泉の表面は大荒れ、まるで武田騎馬隊の突撃そのものだった。

 

「安心しろ。お前にそんな立派な子孫はできん。……まあ、そんなことはどうでもいい」

「どうでもよくねぇよォオオ!! 死活問題だよ!? 家系図に“乳揉みザル”って書かれたらどうすんだよ!? 絶対に黒歴史どころじゃねえぞ!? 織田信奈公の天下布武の陰に、“乳揉みザルの血筋”とか! 後世の歴史家が泣くわァアア!!!」

 

「……」

刃は片手で一益の頭をなでながら、冷ややかに良晴を一瞥。

「ほら、武田信玄をなんとかしろ。この場で殺すのは容易いが……お前が暗殺は無しだと言ったのだからな」

 

その低く静かな声が、ようやく場を凍らせた。

勝千代がピクリと眉を動かす。

(殺意を完全に制御し、まるで雑談のように“殺せる”と言い放つ……やはり、この男……!)

 

「きゅ、急に真面目な話にしやがって。分かってるさ! しかし……まさか武田信玄が女の子だなんてな。この世界では、戦国武将がなぜか美少女になってることが多いけれど、どういうことなんだろう? 開発者の趣味か? 運営の方針か? はたまた……」

 

「……お前なあ」

勝千代の目が細くなり、湯気の奥で黄金の虎が牙を剥いたような威圧感が放たれた。

「辞世の句が、そんな意味不明の戯れ言でいいのか? このあたし、武田信玄が男であるはずがないだろうが」

 

ごぅ……。

まるで大気そのものが揺れるような圧力が温泉の水面を震わせた。

勝千代の殺気が一気に膨れ上がり、良晴の喉がひゅっと鳴った。

 

「天の白刃は動かぬようだし──そろそろ死ぬか?」

 

「ちょっと待って!! これは俺的には真剣な話なんだ! ふざけてるんじゃねえぞ!? 俺、ずっと気になってたんだよ! この戦国時代……どうも“おっぱいの大きさと武将としての戦闘力”が比例関係にある気がするんだ! 勝家と半兵衛ちゃんを見比べてみると、なんとなく数値的に納得できるっつーか!」

 

湯気の中で、良晴は滝のように汗(いや湯気のせいだが)を流しながら、必死の形相で叫ぶ。

 

「ということはだ!! 爆乳を誇るお姉さん──あなたはやっぱり知力だけじゃなくて、武力も兼ね備えた“甲斐の虎・武田信玄”その人に違いないっ! たとえ武田信玄じゃなくても、山県昌景とか馬場信房あたりの大物武将であることは確実だッ!」

 

「山県昌景の前で胸の話はしないほうがいいぞ」

勝千代が淡々と口をはさむ。

「……あいつは胸が薄いからな。激怒される」

 

「え? そうなの!? そんなはずは……」

良晴は湯船の中で両手をがしっと頭に当て、がくがく揺れる。

「そ、それじゃあ俺が発見したと思っていた“姫武将おっぱい相関理論”は……まさかの幻だったのかああああ!? 歴史に残る大発見だと思ったのにいいいいっ!!」

 

「これサル。説得じゃなくて、そちはさっきから本気でアホなことをしゃべっているだけではないか。普段よりもさらにサルになっておるぞ」

一益が湯の中で頬をぷくりとふくらませ、呆れたようにため息をつく。

 

「はっ!? そうだった!? 俺、死を目前にして何を考察してんだあああああ!!!」

良晴は頭を抱え、ばっしゃんばっしゃんと湯を跳ね散らした。

 

「錯乱しておるのかの……人間、追い詰められると正体を見せるというからの」

一益が小声でくすくす笑い、刃は「なるほど」と目を細めた。

 

「……フ」

勝千代の口元に、ふいに笑みが浮かんだ。

「どうやらほんとうに刺客ではないようだな。殺気のかけらも見えん。それどころか……あたしの正体が『甲斐の虎』武田信玄だと知りながら、なお胸にいやらしい視線を向けっぱなしとは。ふん……いい度胸だ」

 

「す、すみませんっ! これが人生最後に見るおっぱいだと思うと、目が勝手に……っ!」

 

その瞬間、奇跡が起きた。

勝千代の纏っていた鋭利な殺気が、ふっと消え去ったのだ。

 

(……この愚かさ。この無邪気な馬鹿さ加減……)

勝千代の胸中に、亡き弟・太郎の面影がよぎる。

顔立ちそのものは似ていない。だが、臆病なくせにどこか憎めず、無防備な笑顔を見せるところが、どうしても思い出させる。

 

殺そうと思えば瞬殺できる。武力も、立場も、何も持たない。

──それなのに。

(……殺したくない)

勝千代は、気づけば心の奥でそう呟いていた。

 

 

 

 

 

 

「殺気が消えたな、よかったな良晴」

刃が湯気の向こうで淡々と告げる。

 

「え、ええ? 俺の命を助けてくれるのかっ? どうしてだかわからねーけど、ありがとおおお!!!」

良晴は涙目で、湯の中で正座して手を合わせる。

 

「そうだな。面白そうなので、奴隷として飼うかどうか、今、考えている」

勝千代は口元に笑みを浮かべ、頬杖をついた。

 

「どこかで言われたことがある言葉のような……いやしかし、そうなのか。ほんとうにお姉さんが武田信玄か。これが天下一の名将・武田信玄の真の姿なのか……」

良晴は感極まって拝むように眺めるが、その視線は胸元に釘付け。

 

「こら。胸元をあまり見るな」

勝千代の眉がぴくりと跳ねた。

「どうやらお前らは、あたしの虚名をまるで恐れない。……純朴な感覚の持ち主らしいな。感性がひねくれきって一周回った山本勘助とは、また違った意味で奇妙だ。人相見が得意そうだな。──このあたしの人相をどう見る?」

 

「そうだなあ……」

良晴は腕を組み、したり顔で唸った。

「美形で、おっぱいでかくて、性格も強気っぽい。うん、まさに俺のイメージどおりだぜ。もうちょっと虎っぽくてワイルドな女の子かと思ったけど、意外と清楚で物静かそうな雰囲気もあるんだな。……あれだ、中井貴一が信玄役を演じた、いにしえのNHK大河ドラマ『武田信玄』に近いよな。だがそれがいい! 女の子なんだしなっ!」

 

「……だいがどうらま? なんだそれは? 貴様、いったい何者だ?」

勝千代の目がぎらりと光る。

 

「俺か? 俺は相良良晴! 織田家の武将だ! 信奈のバカが刃を左遷しやがったから、俺が後を追ってきたんだよ! こうして、ほんものの武田信玄と出会う……こんな奇跡的な幸運に巡り合えるなんて……歴史ゲーマー冥利に尽きるぜっ!!!」

良晴は湯の中で立ち上がり、湯をざっぱーんと豪快に跳ね散らして仁王立ちする。

 

「……あたしはこの上洛戦をはじめるにあたって、織田軍の顔ぶれをそこそこ調べてきた。だが──お前の名など聞いたことがないぞ?」

勝千代が目を細め、湯気の向こうでじっと良晴を見つめる。

 

確かに刃ばかりが目立っている。だが、織田軍に「サル」と呼ばれる怪しい男がいる、くらいの情報は武田家の耳にも届いているはずだ。

 

良晴は胸をどんと叩き、湯気の中で仁王立ちした。

「そのサルが俺だ! そう、俺こそが織田信奈軍の──」

 

「ほう……」

勝千代は猫を撫でながら、じろりと細めた瞳を良晴へ向けた。

「織田家に、一匹のサルが紛れ込んでいるという噂は耳にしている。自分を人間と勘違いしている哀れな獣だそうだが……」

 

「……」

 

「しかも、これがまるで役に立たぬ。戦場では逃げ回り、女どもに取り入り、隙あらば乳ばかり揉もうとする──人間の屑、サル以下の下郎である、という話だったな。……お前がそれか?」

 

「……あながち間違いではないな」

刃が無表情でうなずいた。

 

「ちがああああああうっ!!」

良晴がばしゃーんと湯を跳ね上げて絶叫。

「なんでお前まで肯定してんだ刃ぇ!! 俺の尊厳が泡のように消えていくじゃねぇか!!」

 

「泡ならすぐ隣に立ってる」

「風呂の泡と一緒にすんなぁあああ!!!」

 

勝千代はぷっと笑みを洩らし、肩を揺らした。

「ふふ。なかなか自覚のある下郎ではないか。面白い」

 

「面白がるなああ!! 信奈が勝手に“サルサル”呼ぶから、日ノ本中にそう広まっちまっただけなんだよ! 信玄ちゃん、頼む! 武田家の歴史書には俺の本名を遺してくれ! 俺は──相良良晴だ! どこの誰だかわからねえサルじゃねえ! 本名を……せめて本名を伝えてくれえええ!」

 

「歴史書……?」

勝千代が首を傾げる。

 

良晴は、ぐっと拳を握りしめた。

「俺は……わけもわからんうちに、二十一世紀の未来からこの戦国時代に迷い込んじまったんだよ! 今から四百年以上も先の未来からだ! 最初は、織田信奈に天下を盗らせるのが俺の使命なんだって思って、全力でがんばってきた! でもなぁ……」

 

そこで良晴の視線が、湯気の奥で冷たく輝く銀髪紅眼の剣豪へ向く。

「……同じ時代に未来から来た刃がさ。超イケメンで、戦えば天下無双。頭も切れるし、女の子からの信頼も厚い。人外レベルの化け物みたいなやつなんだよ……!」

 

「…………」

刃は湯に半身を浸したまま、無言で一益の髪を梳いている。

 

「でもな!! 恋愛偏差値だけはゴミなんだよ!! ゼロ! マイナス! 恋愛偏差値破産寸前! しかも気づかないうちにヒロイン全員からモテまくってやがるんだ! どういう理不尽だよこの世界!!!」

 

良晴はがばっと頭を抱え、湯船でばしゃばしゃ暴れた。

「気づいたら俺の立場は、“サル”だの“妖怪乳揉みザル”だの不名誉なあだ名ばっかり! いったい俺は何のためにここに来たんだよぉおお!!!」

 

にわかには信じがたい、法螺話だ、と勝千代は思いたかった。

しかし、どうしてだろう、こいつは馬鹿だが噓はついていない……と直感してしまう。

 

「……未来から来た、だと? いったいどうすればそんな真似が可能になるというのだ?」

 

「それが俺らにも自分の身に何が起きたかわからないんだ。気がついたらこの時代にいた」

 

「そ、それで、迷わず織田信奈に仕えることを選んだのか、お前たちは?わからぬな。なぜこの武田信玄ではなく、織田信奈なのだ?」

 

「ああ、それは……」

その先はちょっと言いづらいな……と良晴が口を濁した。

 

「なぜ、か。姫様には、俺を惹きつけ、魅了する輝きがあった。それだけだ」

 

刃の低く澄んだ声が、湯気の中に溶けていった。

その声音は、戦場で無数の敵を屠った死神のものではなく、一人の男が己の魂を吐き出すものだった。

 

「……俺はこれまで、己より弱い者に興味を抱いたことなど、一度もなかった。勝つことは当たり前。敗北を知らず、挑む者すら現れず、ただ勝利を重ね、虚しさだけが積み重なっていった。誉れも喝采も、何もかもが色褪せ、剣を振るう意味すら失いかけていた」

 

その言葉に、一益も良晴も、そして勝千代でさえ、反射的に呼吸を止めていた。

それは刃の胸の奥から迸る真実──彼の生き様そのものだったからだ。

 

刃はゆっくりと視線を落とし、膝の上で身を寄せる一益の濡れた髪を指先で払った。

銀の髪が月明かりを受け、紅の瞳に揺れる。

 

「だが、姫様と出会った瞬間、理解した。いや、理解させられた。俺がこの世に生まれ、剣の道を極め続け、未来からこの時代に飛ばされた理由は……この人に出会い、その背を守るためだと」

 

刃はわずかに笑みを浮かべる。

だがそれは皮肉や冷笑ではなく、心の奥底からの温かな微笑だった。

 

「姫様は弱い。幼く、我儘で、傲慢で、甘い。警戒心も低く、非情になりきれず、情に流され好機を逃す。王としてはまだ未熟だ。……武田信玄、今はまだお前の方が王としては上だろう」

 

勝千代は眉をひそめ、しかし否定はできなかった。

それほどまでに、刃の声には確信が宿っていた。

 

「だがな──未熟だからこそ、誰よりも真っ直ぐに、どんなに笑われようとも、不可能だと言われようとも、決して諦めない。太陽のように輝く笑顔で周囲を照らしながら、天下統一し、世界に出るなんて荒唐無稽な夢に向かって歩き続ける。……その笑顔、その生き様が、俺の剣を……いや、俺という人間そのものを変えた」

 

かつて天才ともてはやされ、勝ち続けたがゆえに、心は凍り付いていた。

勝利はただ義務であり、刃を振るうのはただの習慣でしかなかった。

 

湯気の奥で、紅の双眸が炎のように燃え上がる。

 

「天才と呼ばれ、勝ち続け、冷め切った俺の心に焔を灯した。色褪せた世界に再び彩を与えた…… 初めて、誰かを守りたいと思った。剣を振るうことしかできなかった俺が、初めて愛おしいと思った」

 

静かに、しかし断固たる声で刃は結ぶ。

 

「だから、俺は姫様に仕え続ける。例え、その果てで地獄に堕ちようとも、悔いはない」

 

湯気が静まり返る。

誰もが息を呑んだ。

 

勝千代は言葉を失い、まるで全身を剣で斬り裂かれたかのような衝撃に立ち尽くしていた。

一益は、誇らしげに微笑みながらも、刃の腕に小さな身体をぎゅっと寄せる。

 

そして──良晴は、口をぱくぱくさせながらも、なんとか声を絞り出した。

 

「……ま、まあ、刃は別としてさ。出自や家柄に関係なく人材を雇い入れてくれるっていう、ただその一点においては……信奈がいちばん優れた大名だったんだよ。俺らの時代じゃ、一応そう伝えられていたんだ」

 

湯の表面が、ざわりと震えた。

勝千代の心臓も同じように、大きく揺れた。

 

(……伝えられていた? 未来で……?)

 

信奈という少女は、未来で英雄として語られている。

ならば──あたしは? 武田信玄は?

 

勝千代の喉がごくりと鳴る。

だが、声はうまく出なかった。

 

「……相良良晴」

 

ようやく絞り出した声は、かすれていた。

彼女は湯気の奥で、恐ろしいほどに鋭い目を良晴に向ける。

 

「教えろ。あたしは……武田信玄は、お前が知る歴史の中で、どう語られているのだ? やはり──」

 

言葉が途切れる。

胸の奥を焼くような問い。

「やはり、織田家には勝てなかったのか?」

「武田は、ただの一時のあだ花だったのか?」

 

そう問いたい。

そう聞きたい。

 

だが、唇は動かず、喉は硬直し、声が出ない。

 

もし未来を聞いてしまえば。

自分がこの先歩むすべての道が、無意味になるのではないか──。

 

勘助の言葉が、ふいに勝千代の胸裏に蘇る。

 

(……「天命を動かす者」……。

まさか──この、どこにでもいる凡庸な顔立ちの少年が……?)

 

そう思った瞬間、彼女の心臓が大きく跳ねた。

目の前の銀髪の剣豪が「冷酷な死神」として恐れられるのは当然として、だ。

この凡庸で、軽薄そうで、口先ばかりで、しかしどこか憎めぬ相良良晴までもが──「天命を動かす者」。

 

「相良良晴」

勝千代の声音は、湯煙の奥で鋭く響いた。

「お前も、天の白刃と同じく……あの『長良川の合戦』で斎藤道三を救出した決死隊の一人か?」

 

「そうだけど? っていうかさぁ、そこまで甲斐に伝わってるなら、なんで俺の名前だけ消されてんだよ!? 信奈めええええっ!」

 

良晴は湯船でばしゃばしゃ暴れながら、顔を真っ赤にして地団駄を踏む。

そのあまりの凡人っぷりに、勝千代は逆に息を呑んだ。

 

(死すべき宿命を背負っていた斎藤道三……その定めを覆したのは、天の白刃だけではなかった!

この、凡庸な少年もまたその一端を担っていた……!)

 

脳裏に閃光が走った。

──そうだ。この二人こそが、あたしが会いたかった宿命の好敵手。「天命を動かす者」たち……!

 

勝千代の胸が、どくんどくんと高鳴りはじめる。

普段ならば自らの肉体美に絶対的な自信を持ち、男の視線など意に介さぬ彼女が……今は違った。

なぜだか、急に頬が熱を帯び、湯に浸かる裸身を隠したくなる。

(あ、あたしが……恥じらっている……?)

理屈では説明できない羞恥が、勝千代を支配していた。

 

「俺はな、武田信玄が労咳かなんかで弱ってたんじゃねえかっていう学説を検証するために潜入してきたんだ。俺らの時代じゃ、そういう説があったんだよ。でもまあ──見るからに健康そうでよかったぜ! いや、信奈の家臣としては全然よくねえんだけどな!」

 

良晴が笑い混じりに言った途端、場が一瞬ゆるむ。

「……お肌ぷりぷりじゃの。ぜ~んぜん病死しそうにないの」

一益がくすくす笑いながら囁く。

 

「当てが外れたな良晴」

刃は一益を撫でながら、冷徹に告げる。

「どうする? やはりこの場で殺すか?」

 

「殺さねぇよ!!」

良晴が全力で突っ込み、湯を派手に跳ね散らす。

「正々堂々と戦で勝負をつけるぞ! 頼んだ、刃!!」

 

「……正々堂々と言いながら、俺に押し付けて逃げる気か」

銀髪の剣豪が、低くため息をつく。

 

「……か、勝千代だ」

 

不意に、勝千代の声音が震えを帯びた。

「え?」と良晴が間抜けな声を漏らす。

 

「……し、信玄というのは、出家名だ。戦国大名としての名は『晴信』だったが、改名したのだ。越後の上杉景虎が『謙信』と名乗ったのと同じくな。出家名を名乗るのは最近の武将の間で流行っている。……だが、あたしのほんとうの名前は、勝千代。女の子っぽくて迫力がないから、公の場では決して口にしない。ただ……こうして湯に浸かっているときのあたしは、ただの勝千代だ」

 

その告白は、武田の御屋形さまという絶対的存在が、わずかに垣間見せた少女の素顔だった。

 

「へえ……武田信玄がそんな名前を持っていたなんて知らなかったなあ」

良晴は、珍しくしんみりとした声音で呟き、だがすぐに顔を赤くし、慌てて頭を抱えた。

「よく考えたら、武田信玄も年頃の女の子だったんだよな。……って、悪い! おおお俺、すっかりここが温泉だってことを忘れてた!!」

 

「サルは、別の意味で死を賜っても文句言えないの」

一益が湯気の向こうから冷ややかに突っ込む。

 

だが勝千代は、ふっと力を抜き「……いや、かまわない」と微笑んだ。

「わ、わたしは労咳でもなんでもない。この通り健康そのものだ。だが、なぜあたしが労咳だなどという説が未来に遺されていた?」

 

「歴史学者ってのは、勝手にいろいろ言うんだよ」

良晴がぶんぶん手を振る。

「たとえば“戦国最強の武田騎馬隊は実在しない”とかさ。俺たちはそーゆー諸説に何度騙されてきたか……」

 

「騙されているのはお前だけだ」

刃が低く切り捨てるように言うと、勝千代も一瞬くすりと笑みを漏らした。

 

「騙されていたのはサルだけじゃ」

すかさず一益が肩をすくめる。小さな手でお湯をかき回しながら、子供っぽく唇を尖らせた。

「はっしー、姫はそろそろ上がりたいのじゃ。湯に浸かってばかりでは、のぼせてしまうのじゃ♪」

 

「こら一益ちゃん!我慢しろ!」

良晴が慌てて止めるが、幼女の姫はぷいっと横を向き、にやりと笑う。

 

「うるさいのじゃ! これでもくらうぞえ!」

 

ばしゃあっ!!

一益が両手でお湯をすくい、良晴の顔めがけて豪快にぶっかけた。

 

「わっぷ!? か、かけるなってば!!!」

顔を押さえてのたうつ良晴。刃は額に手を当てて深い溜息をついていた。

 

「……まったく、くだらん」

「くすくす、湯あそびは戦場の醍醐味じゃ♪」

「醍醐味じゃねえよ!!!」

 

一益とじゃれ合い、湯の中でばしゃばしゃとふざける良晴。

その姿を、勝千代は静かに見ていた。

 

(……なんと無様で、なんと眩しいことか)

 

敵のど真ん中で、命の危険を顧みずにふざけて笑い合う少年たち。

その凡庸な姿が、勝千代の胸に妙な温かさを灯していた。

 

勇気を、振り絞った。

たとえ未来がどのようなものであれ──。

 

数百年もの未来から来たという名も無き相良良晴という少年が、武田信玄の存在を知っていて。

敵味方という立場すら忘れて、今の自分が「健康でいる」ことを心から喜び、無邪気にはしゃいでくれる。

そのことだけで、もう自分は満足していいのではないか。

 

ふと、そんな思いが胸をよぎったのだ。

 

だから──問うた。

 

「……あたしの天命は、ここで尽きるのか?」

湯気の向こう、真剣な声が響いた。

 

「……」

 

「これまでの“武田信玄”としての人生は、すべて虚しい努力にすぎなかったのか。なぜだかわからない。絶対的に有利な状況を作っているにもかかわらず、この上洛戦は成功しない気がしてならない……。相良良晴。敵であるお前に尋ねるのは筋違いで、愚かしい真似かもしれない。だが──どうか、あたしに真実を教えてほしい」

 

湯気の中で、良晴はぎくりと肩を震わせた。

「お、俺が知ってる歴史と、この世界の流れは……だんだん微妙に違ってきてる。だから、そこまではわからねーよ……」

 

「相良良晴」

勝千代はさらに一歩踏み込むように声を低めた。

「お前が知る歴史を教えてくれれば、それでいい。あたしの……天命を」

 

その瞳は、戦国最強と恐れられた「甲斐の虎」ではなく、一人の若き乙女のものだった。

 

「……っ」

良晴は唇を噛んだ。

言うべきか、黙るべきか──逡巡した。

 

未来を口にすれば、この女の命を縛ってしまうかもしれない。

だが、黙ればこの真摯な問いかけを裏切ることになる。

 

だが。

 勝千代が信じたとおりに、良晴は、ほんとうのことを打ち明けていた。

 

「『信玄病死説』はもう消えた」

 

 湯気の奥で、良晴の声がやけに低く響いた。普段の軽薄な口調ではない。

「──あとは、くれぐれも暗殺に注意しろ」

 

「暗殺……?」

 

 勝千代の眉がぴくりと動く。

 

「信奈は敵将を暗殺するようなせこい奴じゃない。あいつは真正面からぶつかって勝つことにこだわる女だ。けどな、織田家は今、絶体絶命なんだ。窮鼠、かえって猫を噛む──って言うだろ? 松永久秀あたりが独断で暗殺計画を実行しかねない」

 

「……なるほど」

 

「正直、刃がその筆頭格だ」

 

 その名が出た瞬間、勝千代の視線が、湯煙の奥に座す「天の白刃」へと鋭く突き刺さった。

 しかし刃は、ただ無表情に、膝の上にちょこんと座る一益の小さな身体を支え、紅い瞳でその頭を撫でているだけ。

 

 良晴はその光景を指差すようにして、力を込めて言った。

 

「信奈がそばにいない今、刃を制御するのは本来なら不可能なはず、だったんだがな」

 

 ──その言葉に、勝千代は息をのむ。

 

 良晴は一益を見る。

 無邪気に紅い瞳を見上げ、濡れた指先で刃の胸をつついて遊ぶ幼き姫。

 その笑顔を見つめる刃の眼差しは、氷のように冷たい殺気を秘めた剣豪のものではなく、ただただ柔らかく、守るべきものを抱く騎士のものだった。

 

「幸か不幸か──今の刃は一益ちゃんを主としている」

良晴は苦笑しつつも、確信を込めて続けた。

「一益ちゃんがああやってそばにいて、甘えてれば……あいつは下手なことはしない。あいつは主に、自分が大切にしてる奴らに危ない橋を渡らせることはない。もしこの場で戦闘になれば、あいつは片腕に一益ちゃんを抱えたまま戦う。絶対にな」

 

「……何故分かる?」

勝千代の問いは、震えていた。

 

「見てきたからだよ」

良晴の声は、熱を帯びる。

「美濃でも、京でも、金ヶ崎でも。あいつは信奈を、犬千代を、長秀さんを、半兵衛ちゃんを、五右衛門を、十兵衛ちゃんを──ありとあらゆる仲間を、刀とその身一つで守り抜いてきたんだ」

 

 湯気の中で、良晴の拳が小さく震えた。

 

「……とにかく! 暗殺には気をつけろよ!」

 

「おおお……はっしー、とうとうサルが武田信玄陣営に完全に寝返ってしもうた♪ のぶなちゃんとはおっぱいの大きさが違うからかの?」

 

「違うぜ一益ちゃん! 俺はな、信奈の忠実な家臣ではあるが、天下すべてのかわいい女の子の味方なんだっ! 武田信玄がこんなとびっきりの美人じゃなくて、むさくるしい男だったら絶対に教えていないと断言できるぜっ!」

 

「弁解になってないの。サルはやっぱりサルじゃな♪ そちの辞世の句はきっと『おっぱいに生き、おっぱいに散る』じゃな」

 

「そんな武士の風上にも置けない辞世あるかぁああっ!!!」

 

 一益はけらけらと小さく笑い、すぐにくるりと向きを変えると、湯気に包まれる刃の胸に飛び込むようにして両腕を回した。

 濡れた黒髪が刃の鎖骨に張りつき、幼い声が甘えるように響く。

 

「はっしー、サルがとめたせいで姫はのぼせそうじゃ。もう限界ぞえ。早くでるのじゃ♪」

 

 頬を紅潮させ、つややかな唇を尖らせて見上げるその表情は、甘えん坊の子供のようでいて、妙に小悪魔的でもある。

 

「了解した」

 

 刃はすぐにその意図を察した。

 一益が望む抱え方──ただ小脇に抱えるのではなく、胸の中に守られるかのような「姫抱き」。

 

 すべてを読んだかのように、刃は片腕をすべらせ、もう片方の腕でしっかりと支え、一益の小さな身体を水面からすくいあげる。

 

 

 その動作には武人らしい無駄のなさと、幼子を包み込む騎士のような優美さが同居していた。

 

 そして、わずかに顎を巡らせ、背後に残る勝千代へと声を投げた。

 

「武田信玄」

 

 低く、響く声。湯殿に漂う蒸気さえ凍りつかせる冷たさを帯びていた。

 

「正直、お前が生きようが死のうが、俺にとってはどうでもいい」

 

 勝千代の背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。

 だが続いた言葉は、思いがけぬ余韻を残した。

 

「──だが、そこの馬鹿がせっかく丁寧に教えてやったんだ。戦国の覇王を名乗るなら、こんなところで無様に死んでくれるな」

 

 刃の紅の双眸は一瞬、ぎらりと虎にも似た光を宿した。だが次の瞬間、冷酷な死神の仮面を閉ざすように表情を消し、ただ静かに告げた。

 

「では先に失礼する。……次は、戦場で会おう」

 

 湯煙を裂いて進む銀髪の背が、迷いも躊躇もなく遠ざかっていく。

 一益はその腕の中から「くすくす」と笑いながら、勝千代に小さな手を振った。

 

「刃! 俺を置いていくんじゃねぇぇぇ!!!」

 

 情けない絶叫を上げ、慌てふためきながら湯から飛び出していく良晴の姿。

 その声が湯殿にこだまする一方で、勝千代の胸の奥には、なぜかほんのりと温かさが残っていた。

 

 天の白刃の冷たい忠告と、この凡庸で愚かなサルの必死の騒ぎ──どちらも、確かに「死ぬな」と告げていたのだから。

 

 

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