織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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山県昌景の口調が変かもしれませんが、ご容赦ください


三方ヶ原の合戦

武田信玄は今、床几の上に腰を下ろしていた。

深夜。

 

二俣城を取り囲む陣の外縁は、篝火の炎に照らされてゆらゆらと揺れ、そのさらに向こう、漆黒の堀を隔てて、ひと筋の笛の音が響いていた。

涼やかに、細く、しかし胸の奥に染み入るように響く旋律。

まるで夜空に浮かぶ月が、人知れず奏でているかのような神秘を帯びていた。

 

──猫一匹、ここまで潜入できるはずはない。

それほどまでに鉄壁の包囲を敷いたはずだった。

 

だが、あの隠し湯に忍び寄ったのは猫ではなく、人だった。

しかもただの人ではない。織田の「天城刃」と「相良良晴」──。

 

(暗殺に注意しろ)

 

思い出すのは、良晴の真剣な眼差し。

普段は愚かしい冗談ばかりを飛ばしていた少年が、一瞬だけ、己の未来を憐れむかのように目を伏せた。その痛ましい視線を、信玄は見逃さなかった。

 

(……あたしは、天命を告げられたのだ。

 上洛戦の途上で凶弾に倒れる。それが、この身に課せられた運命……)

 

握る軍扇の骨が、みしり、と音を立てる。

 

思えば、ここまで徹底的に織田を追い込み、退路を塞ぎ、二重三重の包囲で絡めとったのは、他ならぬ自分自身だ。

選択肢を削ぎ落とし、窮鼠に牙を剥かせるところまで追い詰めたのは、この信玄の軍略。

 

ならば──。

窮鼠が取るべき最後の手立てはただひとつ。

 

(暗殺……)

 

織田信奈は、おそらく己の手を汚すまい。

だが、あの陣営には松永久秀のように暗殺を好む奸物がいる。

あるいは、織田のためなら自らを泥に沈めることを厭わぬ家臣がいるかもしれぬ。

 

「天下布武」──。

その四字を旗印に掲げ、理想と執念で突き進む信奈。

あたしのように天下を「最強決定戦の優勝賞品」程度にしか考えていない者とは、根本から異なる執念がある。

 

(……恐ろしい女だ。だが、まことに恐ろしいのは、あたし自身かもしれぬな)

 

自嘲の笑みが漏れた。

 

「勘助……」

 

名を呟く。

今この場に軍師・山本勘助がいてくれれば。

策を授け、迷いを払い、暗闇に潜む刃の影を暴いてくれただろう。

 

だが勘助は今、東美濃にいる。

斎藤道三の前衛と激突し、織田と斎藤を分断するために駆けているはずだった。

 

静寂の中、笛の音がさらに澄んで響く。

 

(……臆病者よ)

 

笛の音の合間から、あの父の歪んだ笑い声が響いたように思えた。

勝頼を偏愛し、己を疎んだ父。その幻影はいつも、信玄=勝千代の心を苛んできた。

 

(あたしはいちど、父に叛いた。ならば次は──天命に叛く)

 

胸の奥がざわつく。

胸騒ぎは嵐のように激しく、鼓動を乱す。

恐怖を否定しようとするほどに、逆に恐怖は増幅していく。

 

逃げるな。

直視せよ。

 

迫り来る死を──。

やがて、この胸を撃ち抜くであろう冷たい鉛玉を。

 

(恐怖に囚われず、天命を超克する。その時こそ、あたしは真に「武田信玄」となる。勘助が理想とした最強の将、天下人としての資格を持つ者へ……父の幻影にも怯えぬ者へと)

 

今はもう、逃げも隠れもせぬ。

あの愚直な猿と、冷酷な白刃。あの二人が、あたしに“試練”を与えてくれたのだ。

ならば受けて立つしかない。

 

──闇の中。

 

篝火の光が遠のき、笛の音さえかすむ。

耳に届くのは、己の荒い息遣いだけ。

 

その刹那。

 

ぞくり、と背筋を氷でなぞられたような感覚に襲われた。

圧倒的な──殺意。

 

燃えるような憎悪ではない。

冷たい怨嗟でもない。

 

それはただ、悪意なき純粋な「殺すための意志」。

一切の私情も感情も排した、無機質な“刃”。

 

(……甲賀者か)

 

本陣のすぐ外。

もう、こんなにも近くまで──忍び寄ってきている。

 

真田忍群の主力を勘助につけてしまったのは、やはり痛恨の失策だった。

だが、後悔はない。

 

(この天命を、己ひとりで乗り越える。それこそが……)

 

脳裏に、あの銀髪の剣豪の気配がよぎった。

隠し湯で一瞬だけ感じた、天城刃の殺気。

 

──あれは別格だった。

 

今漂う殺意とは質が違う。

刃のそれは、もはや抗うことすら無駄と悟らせる、圧倒的で研ぎ澄まされた「漆黒」、絶対的な死の気配だった。

 

それに比べれば、今近づいてくる刺客の殺気は生々しく、まだ人の域を出ぬ。

だが──だからこそ現実的だ。

 

この一瞬。

武田信玄がはかない幻影にすぎぬ存在であったのか、それとも天下に君臨する真の巨星であったのか──。

 

すべては、この刹那で決まる。

 

泰然自若。

あたしは決して怯まぬ。

 

暗殺者の銃弾などに屈するはずがない。

あの織田信奈でさえ、雲母坂で鉛の弾を躱してみせたではないか。

ならば、武田信玄であるあたしが、天命ごときに阻まれる道理などない!

 

(動かざること、山の如く──)

 

勘助が夜な夜な、軍議のあとにダミ声で唱えた「孫子」の一節が、脳裏に甦る。

その声が、胸奥の震えを抑え、血を熱くする。

 

次の瞬間。

 

音を裂く破裂音。

夜の闇を切り裂き、死の使者が一直線に迫る。

 

(徐かなること、林の如く──)

 

視界が異様に冴えわたる。

放たれた鉛玉が空を穿つ軌跡、その銀色の閃きを克明に認識できる。

胸を撃ち抜こうと迫るそれは、もはや「見える」。

 

(疾きこと、風の如く──!)

 

信玄の腕が風と化した。

鉄の軍配が閃き、

ガチイイインッ!!!!

 

火花を散らし、弾丸は弾かれ、夜空に虚しく消えた。

 

床几を蹴り、信玄は立ち上がる。

叫ぶ必要はなかった。

その姿そのものが、「天命を克服した覇王」の証明であったからだ。

 

(侵掠すること、火の如し──!!)

 

武者の叫びが胸に轟く。

腰の大太刀を一閃に抜き放つと、信玄は虎のように跳躍した。

 

刹那、篝火を越え、影を裂き、銃弾の飛来した方角へと舞い降りる。

 

──そこには、一人の虚無僧。

 

深編笠をかぶり、尺八を膝に置いたまま、あぐらをかいて座るその姿は、異様に静かだった。

逃げるでもなく、隠れるでもなく。

 

「……弾丸を見切るとはな」

 

低く、嗄れた声が響く。

 

「さすがは『甲斐の虎』武田信玄。……どうやら俺の負けのようだ」

 

その声音には悔恨も、弁明もない。

ただ、死を受け入れる達観の色だけが漂っていた。

 

この忍び、逃げ隠れするつもりも、言い訳するつもりもないらしい──。

それを悟った瞬間、信玄の胸を占めていた重苦しいものがすっと抜け落ちた。

 

(……生き延びた)

 

その実感が、全身を震わせた。

つい先ほどまで己を苛み続けていた父・信虎の幻影も、噓のように掻き消えている。

 

もはや恐怖はない。

恐怖を直視し、乗り越えたからだ。

 

武田信玄は、この瞬間に至って、完全な存在となった。

暗殺者の凶弾に斃れるという宿命を自らの手で斬り裂いた、その瞬間に。

 

「よくぞ、我が陣中深くまで忍び入り、この武田信玄を狙撃した。──名を聞いておいてやろう」

 

軍配を大太刀に持ち替え、顎を高々とあげる。

声には一片の乱れもない。

胸の奥底から泉のように湧きあがる力が、全身をみなぎらせていた。

 

(……武田信玄は、完成した)

 

その思いだけが、心臓を高鳴らせていた。

 

虚無僧姿の男──善住坊は、あぐらをかいたまま動かない。

笠の下からのぞく口元に、暗い笑みを浮かべて。

 

「……名を名乗る必要はねえ。俺は敗者だ。弾丸よりも素早く動ける者が、この世に織田の化け物以外にもいるとはな……」

 

その声には悔恨も怯えもなかった。

むしろすべてを出し尽くし、敗北を潔しとする者の静けさ。

 

「俺はすでに織田信奈に敗れた男だ。今の俺は犬にすぎねえ。名など不要だ。

……だが、武田信玄。あんたさえ消せば、この戦国の世は終わると思った。あんたという覇王を斬れば、乱世そのものに幕を引けると思ったんだ」

 

彼の声は、静かに夜気に溶ける。

二俣を包囲する数万の兵が眠る戦野に、ひとりの敗者とひとりの覇王の対話だけが響いていた。

 

「どうやら……また天下の行方が、わからなくなっちまったな」

 

善住坊が、口端を歪めて嗤った。

その笑みは、悔しさと同時にどこか清々しくさえあった。

 

「おや……この俺としたことが。乱世に幕引きをしようなどと考えていたとはな。……お笑い種だ」

 

篝火の揺らめきが、信玄の眼差しを鋭く照らし出す。

 

「いいぜ。殺りな」

虚無僧笠の下から、善住坊の口元がにやりと歪んだ。

「……あんたは正真正銘の化け物だった。俺ごときが殺せる相手じゃねえ。まさしく戦国大名どもが震え上がる最強の武田信玄だ」

 

「違うな」

武田信玄──いや勝千代は、冷ややかに言い放った。

その双眸には、もはや一切の揺らぎはない。

 

「あたしに天命を乗り越える機会を与えてくれたのは、あたし自身の剣でも、あんたの銃弾でもない。

──天の白刃・天城刃。そして、相良良晴という凡庸な少年だ。

あの少年があたしの“未来”を告げてくれなければ、今宵この場に倒れていたのはあたしのほうだった。

武田信玄は、この時この瞬間にはじめて正真正銘の、ほんものとなったのさ」

 

「……相良良晴」

 

その名を耳にした刹那。

善住坊の表情が強張り、笠の下で血の気が引いていった。

「……織田に仕える、あのガキが……? なぜ、武田信玄を救うような真似を……? まさか、まさか……」

 

ひきつった笑みが漏れる。

それはすぐに哄笑へと変わり、やがて声が震え、涙がにじみはじめた。

 

「──そうか。そういうことだったのか!」

 

彼は笑いながら、泣いていた。

「……相良良晴。『寺で歴史は書き換えられるもんじゃねえ』と、あの時てめえが吐いた妙なセリフ……俺はずっと嘲笑っていた。だが違ったんだな……!

あれはただの知ったかぶりじゃなかった……!

てめえは本気で言ってやがったんだ。

 

『暗殺者には歴史は変えさせねえ』──そう、そう言いたかったんだろ?

 

歴史を弄ぶのは俺のような闇の者ではなく、光の下で未来を信じて足掻く馬鹿者だけ。

『暗殺者には歴史は変えられない。……俺が変えさせない』──そう言っていたんだ、あのガキは!」

 

声はしだいに嗄れ、咽び泣きに変わる。

「なんてこった……! 身の程知らずの青臭いガキの戯言に、俺は……俺の執念は、打ち砕かれたってわけかよ!

武田信玄を救うなんぞ、織田家の家臣としては狂気の沙汰。

だが俺は、そのどうしようもねえ青臭さの前に敗れた。

 

──“暗殺者の凶弾なんかに、この国の歴史を狂わされてたまるか”。

その馬鹿げた一念に……俺は、完膚なきまでに敗れ去ったんだ……!」

 

善住坊は虚空に向かって嗤い、そして嗚咽した。

 

「最後に……聞かせてくれ」

善住坊の声は、もう嗄れ果てていた。

「……あの信奈狂いの死神が。天城刃が、なんであんたを助けるような真似をした? 相良良晴が……あんたのどこを惜しんだんだろうな……?

ここで凶弾に倒れなければ、あんたは織田軍を討ち滅ぼすだろう。奴らにとっては災厄そのもののはずだ。それなのに……なぜだ」

 

憑き物が落ちたようだった。

先ほどまで鬼気迫る殺意を全身に纏っていた暗殺者の姿は、もうどこにもない。

長い慟哭の果てに、善住坊の顔からは歪んだ凶相が消え、ただ疲れ切った一人の男の貌が残っていた。

 

信玄は、その姿をしばらく無言で見下ろした。

そして、ふと口端を吊り上げ、冗談めかした声で答えた。

 

「さあな。天城刃の心根は、あたしにも計りかねる。だが──相良良晴は違う。あいつは単純だ。

……あたしのおっぱいが、柴田勝家よりでかいって喜んでたから、おっぱいを惜しんだんじゃないか?」

 

善住坊の瞳が丸くなった。

刹那──ぷっ、と嗤い、次いで嗚咽にも似た笑い声が洩れた。

 

「……納得だ。ガキは……ガキだぜ」

自嘲の響きを帯びた笑みの奥に、ほんのわずかな温もりがあった。

「だが……ああいう真っ直ぐな馬鹿は……嫌いじゃねえ。なるほど、あんたが好きだと言うのも……わかる気がする」

 

信玄は軽く顎を上げ、静かに頷いた。

「そうだな。あたしは好きだな。ああいうのは」

 

二人の間に、奇妙な共鳴が生まれていた。

敵味方という枠を超え、ただ同じ時代を生きた人間同士として。

 

善住坊は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。

「……もう、話すことはなにもねえよ」

その声音には、恐怖も憎悪もなかった。

あるのは、死を受け入れた者の潔さ。

 

「殺れ。武田信玄」

 

信玄は、無言のまま。

善住坊の首筋へと、刀を振り下ろしていた。

 

 

 

 

 

十二月二十一日・明け方──

 

 水の手を断たれ、干上がった二俣城は、ついに開城した。

 冬の朝霧の中、虚ろな顔をした城兵たちが次々と武器を捨て、縄を打たれて引き立てられていく。

 兵糧も水も尽き、もはや抵抗の気力は残っていなかった。

 

 浜松城からは、松平元康が玉砕覚悟で後詰めを出していた。だが──。

 数に勝る武田軍はその動きをすべて読み、徹底して阻んだ。

 二俣城へと合流させることを許さぬまま、じわじわと囲い込み、やがて兵士たちの士気は完全に潰えたのだった。

 

後詰めを断念し、浜松城へと戻った元康は、たぬ耳とたぬ尻尾を「ふるふる」と震わせながら軍議を開いていた。

 すでにその瞳には覇気はなく、恐怖と焦燥しかなかった。

 

「昨夜……二俣城を囲む武田の陣中から、鉄砲の音が響きました~。なにか事件があったようですが……」

 元康はかすれ声で報告し、ふるふると震える指で机を掴む。

「……ですが、肝心の武田信玄は今朝から陣頭に立ち、元気まんまん、勇気百倍!という感じで……。む、む、むりです~! もう勝てません~!」

 

 脇に控えていた服部半蔵が、深々と頭を垂れた。

「わが軍は追い詰められております。……万が一の可能性に賭けて、わざと見逃しましたが……桶狭間で天城刃に賭けた時のような奇跡は、今回は起こりませんでした。申し訳ございません」

 

「み、見逃した? 半蔵? な、なにをですか~?」

 元康が震える声で問い返す。

 

 半蔵の答えは、軍議の場に重く落ちた。

「……杉谷善住坊。甲賀の忍びであり、鉄砲の名手です。かつて織田信奈を狙撃した男……奴が今回、織田方に雇われ、種子島を用いて信玄の暗殺を画策しておりました。だが──すんでのところで失敗したもよう」

 

 軍議の間が、ざわり、と凍りついた。

「な、なんと……! あの悪名高き狙撃手が、こちらの味方に……!?」

「それを、見逃しただと……!?」

 

 驚愕と非難の入り混じった視線が半蔵に突き刺さる。

だが、半蔵は微動だにしない。

 

「……今回は、賭ける対象を誤りました。やはり博打というものは、そう何度も勝てるものではないと痛感した次第です」

 

 無表情のまま淡々と告げるその声音は、かえって諸将の心胆を寒からしめた。

 

「は、はううう……。もう、松平家は……おしまいです~~……!」

 元康は頭を抱え、尻尾を垂らし、歯を小刻みに打ち鳴らしはじめた。

 

「かちかちかちかち、かちかちかちかち」

 それは震えるたぬ耳の主から洩れる、歯の鳴動の音。

血の気が多い松平の諸将も、怯えきっている元康に特攻せよ!とは言いだせない。

 

 「二俣城が落ち、すでに遠江の大部分は武田方に制されました」

「武田信玄が率いる上洛軍本隊の兵数は二万五千!」

「お味方は、滝川どのの援軍を入れても一万足らず!」

「このまま浜松城に籠もる以外に、お家を守る術はありませんぞ!」

 

 三河譜代の将たちは血相を変えて口々に叫んでいた。

 だが次の瞬間には、別の意見が飛び出す。

 

「いっそ浜松城を捨てて、本国三河の岡崎城まで撤退するという手もありますぞ」

「三河なら、美濃の斎藤道三どのに近くなる。合流して武田の進撃を防げばよい」

「そうじゃ、この遠江はもともと松平の領土ではない! 捨てても惜しくはない!」

 

「しかし戦いもせず三河へ撤退などすれば、武田軍はいよいよ勢いづくぞ! もともと奴らは最強の軍団だというのに、さらに士気をあげてどうする!」

 

 議論は収拾がつかなくなり、遂には荒唐無稽な策まで飛び出した。

 

「雪乞いじゃ! 天竜川の神さまにお祈りして雪を降らせようぞ! 騎馬隊は雪に弱いはず!」

「いや、逆に突然真夏日が来ることを祈願して、越後の雪を融かすのだ! さすれば上杉謙信が武田に背後から襲いかかってくれるかもしれぬ!」

 

 場内はどよめきと嘆息の嵐。もはや冷静な判断など消えていた。

 

その喧騒をよそに、かたわらで味噌田楽を「もぐもぐもぐもぐ」と頰張り続けているのは南蛮騎士ジョバンナである。

 

「……奇跡にすがるようでは、この防衛戦、敗れることになるぞ」

 

 きりりと眉を吊り上げて三河衆を一喝する。

 しかしその口からは、次の瞬間には大根の味噌田楽が覗いていた。

 目の前の卓には、すでに何十枚もの皿が積み重なっている。

 

「南蛮の騎士どの! 味噌田楽ばかり食っていないで、なにか策を出してくれぬか!」

「そうとも! 九鬼海賊衆の働きには感謝しておるが、あなたはずっと食ってばかりではないか!」

 

 諸将が半ば怒鳴ると、ジョバンナは胸を張り、真顔で答えた。

 

「ワタシは今、タキガワカズマスどのの指揮下にある。彼女に命じられぬかぎり、勝手に出陣してはならぬと誓いを立てているのだ」

「……それでも少しは食べるのを控えられよ」

「戦がはじまる前に栄養を補給しておく。明日なき防衛戦を行う際の騎士のたしなみだ。──もぐもぐもぐもぐ」

 

「く、くそお! 織田信奈め! なんでこんな大食らいの南蛮人を援軍として寄越したのだ! これでは兵糧がどんどん減っていくではないか! なんのための同盟じゃあ!」

 

 三河衆は地団駄を踏み、頭を抱えるしかなかった。

 

「そ、そうです! 刃さんとサル晴さんは? お戻りになっておられませんか~?」

 震える声で元康が叫んだ。

 

「アマギハヤテとサガラヨシハルはタキガワカズマスどのと武田の陣へ出かけたきり、まだ戻っていない」

「……逃げたのではないか?」

「そうだ。われら松平家を見限って、すでに脱兎のごとく落ち延びたに違いない!」

 

 動揺した声があちこちから上がる。諸将は血走った目で互いを睨み合い、軍議の場は一気に不信と怯懦の色に染まっていった。

 

 しかし──。

 

「おい。ワタシが認めた侍を、アマギハヤテを侮辱するのは許さぬぞ」

 

 異国訛りの強い凛とした声が響いた。

 大根を串ごと噛み砕き、味噌をぬぐった指先で机を叩いたのは、ジョバンナであった。

 その双眸は燃えるように鋭く、味噌田楽を積み上げた皿の山に囲まれながらも、不思議な説得力を放っていた。

 

「みんな。疑心暗鬼になってはいけません! サル晴さんたちは……逃げたりしないです~!」

 

 元康もまた、震える声を張りあげて必死に将兵をなだめた。

 だが尻尾は「ふるふる」と揺れ、耳は「ぴくぴく」と裏切るように震えている。

 

 その瞬間。

 

「そうとも──俺は帰ってきたぜ!!」

 

 威勢のいい叫びとともに、軍議の扉が勢いよく開け放たれた。

 飛び込んできたのは相良良晴。背後には銀髪の剣豪・天城刃、そしてその腕に抱かれてご満悦な幼き姫・滝川一益の姿。

 

「悪い! 行きは一益ちゃんのおかげでうまく潜り込めたんだが、帰り道でちょっと手間取っちまった!」

「……お前が気配を消せないからだがな」

 

 刃は冷ややかに言い放つ。

 

「ほほう。みんな顔色が真っ青で、頰もこけておるではないか。ふふふ、この大一番でも落ち着いているのは──ジョバンナちゃんだけじゃな。くすくす」

 一益は小さな手で口元を隠しながら、にやりと笑う。

 

「ワタシは伊達にマルタ島防衛戦を戦い抜いてきたわけではない。聖ヨハネの騎士は、窮地に追い詰められた時にこそ力を発揮するものだ。──もぐもぐもぐもぐ」

 

 凛々しく言い切ったその直後に、味噌田楽をまたもや口いっぱいに頰張るジョバンナ。

 騎士の矜持と食欲の暴走、その落差に三河衆は頭を抱え、誰もツッコむ元気すらなかった。

 

「おいおい。そんなに食ったら太るぜ、ジョバンナちゃん」

「戦闘で体力を消費するから、問題ない」

 

 騎士の返答はさらりとしていたが、手元の皿はすでに二十を超えて積み上がり、串の山はちょっとした武器庫のようだった。

 

 その横で、元康が怯えた顔のまま、良晴と刃、一益にこれまでの経緯をかいつまんで告げる。

「げ、げえっ……なんだって? 勝千代ちゃんを暗殺しようとした? 誰がっ!?」

 

「勝千代ちゃん? 誰ですか、それ~?」

首を傾げる元康に、良晴はあっけらかんと答えた。

 

「ああ。武田信玄の本名だ。隠し湯で会った時にな、なにか将来のことを悩んでる雰囲気だったんで、つい『暗殺に注意しろ』って教えちまった……」

 

 ──その瞬間。

 

「「「「「裏切り者だぎゃあああああああ!!!!!」」」」」

 

 怒号が轟いた。

 ばごんっ! と机が揺れる。

 三河の荒武者たちが一斉に立ち上がり、良晴を袋だたきにした。拳、蹴り、肘、さらには味噌田楽の串までが飛んでくる。

 

「うげっ、や、やめろって! せめてまずは言葉で罵ってくれよ! おい、刀の鞘で殴るな! それは戦場用の槍だろ、危ないってのぉおお!!!」

 良晴は湯気を散らすように必死に逃げ回るが、四方八方から殴打され、みるみる髪がぐしゃぐしゃになっていった。

 

「おバカさんじゃの、サルは♪」

 小さな両手で口を押さえ、くすくす笑う一益。

 まるで見世物小屋の芸人でも見るような無邪気さだった。

 

「いったい誰が武田信玄暗殺なんて真似を?」

良晴が問いかけると、元康が両手を合わせ、たぬ耳を震わせながら答えた。

 

「サル晴さん……杉谷善住坊さんという忍びです~」

 

 その名が出た瞬間。

 場の空気が、一瞬にして凍りついた。

 

 刃の背後から、氷刃のような殺気が滲み出る。

 湯気のように揺らめく気配は、軍議の場にいた誰もが肌で感じ取れるほど鋭利だった。

 

「はっしー……殺気が漏れておるぞえ……」

 一益が小さな声で震えながら、刃の胸元に顔を埋める。

 

「ッ!……すまない」

 その一言で、殺気はすぐに鎮火した。

 刃は一益の頭に手を置き、ゆっくりと撫でる。だが、紅の双眸にはなおも消えぬ暗い炎が燃えていた。

 

「武田信玄が生きているなら、暗殺は失敗……当然、杉谷善住坊はすでに始末されている。……ちっ」

 鋭く舌打ちを鳴らし、唇を歪める。

「俺が殺したかったが、仕方ないか」

 

 その冷徹な言葉に、三河武士たちの背筋が凍る。

 だが良晴だけは、真っ赤な顔で吠えた。

 

「じゃあ、俺が勝千代ちゃんにあんなことを言わなければ、今頃は……! でもやっぱり、暗殺なんかで名将・武田信玄を散らせるのは間違ってらあ! 正々堂々と戦って勝たなくちゃ、天下万民の信頼なんぞ得られねえぜ!!!」

 

「勝てるわけねーぎゃああああ!!!」

 三河武士たちが怒号を上げ、いっせいに良晴へ蹴りを繰り出す。

 ばこっ! どごっ! ずしゃっ! 湯桶まで飛んできて、良晴は散々な目に遭う。

 

「ぐえっ! おま、待て! 俺は勇気出して正論言ってんだぞ!? なんで袋叩き確定コースなんだよおお!!」

 床を転げ回る良晴の情けない姿に、一益は「おバカさんじゃの♪」とくすくす笑っていた。

 

 やがて元康が震える声で尋ねる。

「サル晴さん……つまり、武田信玄は本来、近い未来に暗殺される予定だったんですか~? だとすれば……歴史はもう変わってしまって……?」

 

「いや元康。信玄には“病死説”や“暗殺説”があったってだけの話だ。だが本物の勝千代ちゃんは、健康そのものでぷりぷりぴちぴち、病死なんてありえねえよ。だいたい、善住坊に殺られるようなタマじゃねえさ」

 

「では……戦うしかないんですね~?」

 元康のたぬ耳がぶるぶる震える。

 

「それも待ってくれ元康。正直、松平軍が勝てる気がしねえ……」

 

「この小僧! 戦前の景気づけに首をはねて、たぬきさまにお奉りするみゃああ!!!」

 三河武士たちがさらに怒り狂い、良晴へ槍や刀を突きつける。

 

「くすくす。戦う前に味方がみんな敵になってしもうとる。どうするのじゃ、サル」

刃の胸に甘えながら、一益がにやりと笑う。

 

「サガラヨシハル、見直したぞ!」

ジョバンナが両腕を組み、堂々と良晴の前に立った。

「見た目は青いが、騎士道精神にあふれた男だったのだな!」

 

「騎士道……? いやいや、俺はただおっぱいに正直なだけで──」

「やかましい!」

ばしっ、と三河武士たちに再び小突かれ、良晴はあえなく沈黙する。

 

その間に、元康がじっと良晴を見つめてきた。

たぬ耳がふるふると震え、声も掠れていた。

 

「サル晴さんが知っている未来では……このあと、どうなるのです~?」

 

良晴は額を押さえた。

(言えねぇ……三方ヶ原で元康が大敗する、なんて正直に言ったら士気が完全に崩壊する……)

 

「……う、うん。まあ、その……あれだ。兵力を見りゃ、予測するまでもねえってことだ」

しどろもどろに言う。

「野戦になったら、騎馬隊を持つ武田軍が圧倒的に有利だ。……察してくれ」

 

「……そうですか」

元康は長い沈黙の後、ふっと息を吐いた。

「わかりました。武田信玄に敗れるのが、私の天命ということですね」

 

そう呟くと、小姓を呼びつけた。

「すぐに南蛮具足を持ってきてください」

床几から立ち上がるその姿は震えていたが、瞳には奇妙な光が宿っていた。

 

「武田信玄さんも……本来なら暗殺者の凶弾に倒れるはずだった天命を、自らの力で打ち破ったのでしょう~」

元康は刃と良晴、一益を見渡し、胸に手を置いた。

「ならば、私たちだって命を賭ければきっとがんばれるはずです~! 人間は天の意志だけで生かされているのではない。自分の意志によって未来を切り拓ける! サル晴さんを見ていると、つくづくそう思うんです~」

 

その言葉に、場の空気が少し変わった。

三河武士たちの視線も、ほんのわずかだが恐怖から奮起へと傾きかける。

 

「武田信玄は浜松城めがけて直進してくるでしょう。ならば堂々と正面から迎え撃ちます!」

元康がそう宣言しかけた、その瞬間。

 

ばしゃあっ、と早馬の蹄音が軍議の間に轟いた。

物見の兵が駆け込み、息も絶え絶えに報告する。

 

「二俣城を発った武田信玄軍二万五千、天竜川を越え……突如として進路を西へ! 三方ヶ原の台地を、真っ直ぐに西進しております!」

 

「なに……!?」

軍議の場が一斉にざわめいた。

 

「我らを完全に無視したというのか」

「松平など相手にするまでもないということだろう」

「なんとも口惜しい……!」

「だが、これでわれらの姫は救われる」

「本来これは織田と武田の戦。われらは巻き込まれただけ。降参しても咎められはすまい」

 

三河武士たちの表情には、悔しさと安堵が入り混じっていた。

安堵の声が多いのは当然だった。松平家は織田家の家臣ではなく、対等の同盟者にすぎない。ここまで強敵に抗して生き残っただけで、すでに「よくやった」と言うべき状況なのだ。

 

だが──。

 

この時、松平元康の胸の奥で、何かがぷつりと切れた。

「隠忍自重」「辛抱」「坂道を重荷を背負って歩くのが人生です~」といったマゾめいた口癖を繰り返してきた、あの泣き虫でおっとりな“たぬき娘”が。

 

豹変した。

 

「……ふざけないでください!」

 

ばんっ、と床几を蹴り飛ばして立ち上がる。

たぬ耳が逆立ち、瞳は涙で潤んでいるのに、炎のような決意を燃やしていた。

 

「今すぐ全軍で突撃です! 武田軍が三方ヶ原の台地を下り始めたところを、背後から急襲します~! 今なら間に合います!」

 

場が凍りついた。

 

「ま、待てよ元康! これはきっと勝千代ちゃんの罠──」

良晴が慌てて制したが、元康は耳を貸さない。

 

「なにが勝千代ちゃんですか~!」

涙混じりに叫ぶ。

「武田信玄は“天命”に打ち克ったんです! 吉姉さまだって、何度も何度も苦境を乗り越えてきたじゃないですか! 私だって、私だって……!」

声が震えていた。怒りと屈辱と、そして必死の虚勢で。

 

「それともサル晴さんは! 吉姉さまにはできても、この松平元康には無理だと仰るんですか!」

 

「気持ちはわかるけど落ち着け!」

良晴も声を荒らげる。

「相手は今川義元や浅井久政とは違う! あの武田信玄なんだぞ! ここは焦らず策を──俺だってサル知恵くらいは出すから!」

 

「このまま武田軍をただ通すものですか!」

元康の嗚咽混じりの声が、軍議の場を震わせた。

「浜松城に隠れていたら、私は一生物笑いです~! “徳川家康”という格好いい名前に改名することだって、できやしません!」

 

「だからその名前は腹黒そうでイメージ悪いって!」

良晴の必死のツッコミも、もう届かない。

 

「もうサル晴さんには頼みません!」

元康の両目から涙がぽろぽろと零れる。

「私は、誰がなんと言おうとも出撃します~!!」

 

親指の爪をがぶがぶと噛みながら、子どものように泣き、必死に見栄を張るその姿に、三河武士たちは胸を打たれた。

「姫……!」

「やはり我らは出撃すべきだ!」

ざわめきが広がり、軍議の空気が変わっていく。

 

──その様子を、刃は黙然と眺めていた。

 

「はっしー、止めんでよいのかの? この戦は」

一益が小声で囁く。

 

「……一益」

刃の紅い瞳が静かに光る。

「才ある者が成長するのに、必要なのは何だと思う?」

 

「……敗北、かの?」

 

「確かに敗北も大事だ」

刃は頷き、膝に抱えた一益の頭を撫でる。

「勝つだけでは、人は決して伸びない。だがな──一番必要なのは、“挫折”だ」

 

低く、断固とした声。

 

「特に、元康のような才ある者は。勝つことも負けることも必要だが、それ以上に、心を折られ、なお立ち上がることを知る必要がある」

 

紅い瞳にかすかな憐憫と期待が宿っていた。

 

「姫様も、元康も、光秀も……大器ほど、早く挫折を知るべきだ。そうでなければ、真に強くはなれない」

 

 

 

 

 

「おい半蔵! 止めてくれよ! だいたい結果は見えてるだろ、お前だって!」

良晴が必死に叫んだ。

 

「……相良良晴」

半蔵の面は、微動だにしない。

「うちの姫は日頃はたぬきのように温厚だが、追い詰められると“あの癖”が出る。いったん爪を嚙みはじめたら、もういっさい聞く耳を持たれぬ」

 

「へえ……意外と強情なんだな……」

良晴が絶句する。

 

「日頃、隠忍自重をされておられるぶん、いったんキレたら、なかなか元に戻らぬのだ」

 

「なるほど……キレキャラか」

 

それが最後の助言だった。

服部半蔵ですら、もう元康を止めることはできなかった。

 

──賽は投げられた。

 

「いやじゃの~、土埃の舞う台地で戦うとお肌が乾燥してしまうの~」

と、相変わらず場違いに呑気な一益をのぞき、すべての武将たちが「おう!」と立ち上がった。

顔には死地に赴く覚悟の色が濃く浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

冬の乾いた風が、草木をざわめかせる。

見渡すかぎりの丘陵地帯──三方ヶ原。

 

ここを抜ければ、武田軍は一気に三河へ。

その先には織田信奈の本拠、美濃が待っている。

 

二万五千の大軍を率いた武田信玄は、目と鼻の先の浜松城を無視し、まるで“存在しないもの”のように扱って堂々と三方ヶ原を進軍した。

 

元康は奥歯を噛みしめた。

「無視……された……」

 

遠江北部はすでに武田の支配下。

さらに、本国・三河北部の国人衆までも次々に武田に降った。

信玄の武威に屈したのだ。

 

このまま無傷で三方ヶ原を突破されれば、山本勘助率いる別働隊と合流して美濃を制圧するのは時間の問題。

その時、斎藤道三の防衛線も破られ、織田信奈は討たれる。

 

──織田が滅べば、松平家もまた滅ぶ。

 

そう。ここで戦わず逃げ延びても、結末は同じなのだ。

 

元康の胸の奥には、ひとつの固い決意があった。

 

「……降伏は、しない」

 

たとえ滅びが待っていようと、従属はしない。

 

かつて今川義元に従った屈辱の年月。

いつも先陣を命じられ、家臣たちを無理に血の海へ送り込んだ。

その悔しさを、もう二度と味わいたくはなかった。

 

松平元康は、旗本勢の先頭に立ち、天竜川の風を切るように駆けていた。

その声は嗄れ、血がにじむほどに唇を嚙みしめながらも、なおも高らかに響いた。

 

「このまま座していては、吉姉さまは持ちこたえられません~!

武田信玄は、この私が特攻してくるとは思ってないはず~!

奴らが坂を下りきる前に、背後から叩きます~!」

 

鎧の隙間から荒い息が白く漏れ、たぬ耳は逆立ち、震えながらも誇りを宿していた。

 

「吉姉さまは『桶狭間の合戦』でご自分の運命を切り拓かれました~!

私だって……私だって、この手で未来を切り拓いてみせます~!」

 

「やべえ……! やべえぞっ!」

 

相良良晴は、慣れない馬を必死に御しながら、土煙を巻き上げて軍の最後尾を駆けていた。

盗んできた武田馬は気性が荒く、何度も暴れ、鞍の上で体が跳ね上がる。

だが振り落とされるわけにはいかなかった。

 

前方、元康の姿はすでに見えない。

軍列はばらけ、ただ遠く、鬨の声と武田の太鼓の音が風に乗って響いてくるだけだった。

 

(「三方ヶ原の合戦」──!

これは徳川家康、いや松平元康の唯一の大敗にして、戦国史に残る大惨敗の戦だ!)

 

歴史を知る者としての直感が、全身を冷や汗で濡らす。

だが足は止められない。

 

「くそっ……刃も助ける気がなさそうだし、俺が動かなきゃ元康が死んじまう!」

 

胸の奥で、あの信玄の眼差しがよみがえる。

湯殿で、自分の言葉に揺れ動いたあの強き姫大名の姿。

 

(俺が『暗殺に注意しろ』なんて口走らなければ……いや、言っちまったんだ。

あんな表情を見せられて黙っていられるかよ!)

 

歯を食いしばり、良晴はがむしゃらに手綱を握りしめる。

心臓は破裂しそうなほどに打ち鳴り、呼吸は乱れ、眼前は霞んでいく。

 

(だが……! ここで元康を散らせはしねえ!

俺は落ちてくる実をぜんぶ拾わなければ気がすまねえ、厚かましい性格なんだよ!)

 

 

 

 

 

「あ、あ、あ……」

元康の喉がひゅうひゅうと震えた。

 

目の前の光景は、もはや人智を越えていた。

数刻前まで悠然と西へ進んでいたはずの武田軍が、巨大な生き物のようにうねり、尾から頭へと見事な連携で一八〇度の反転を果たしたのだ。

 

無数の軍旗が風にひるがえる。

「風林火山」の大旗が天を突き、あたりを覆う緊張感が一瞬で戦場の空気を変えていた。

 

松平兵たちは絶句した。

「う、嘘だろ……あんな大軍が、あんな短時間で……!」

「まるで百足じゃ……」

「どうなってやがる!」

 

足軽たちの顔から血の気が引き、鎧の下で膝が笑っていた。

誰一人口を閉ざそうとしても、震えは止まらない。

 

その姿は、まさに怪物。

 

西進の「長蛇の陣」から一転、東を向く「魚鱗の陣」へと変形した武田軍は、巨大な鱗を持つ龍のように丘陵に鎮座していた。

 

左翼を固めるのは、不死身の鬼美濃・馬場信房と内藤昌豊。

右翼には「逃げ弾正」高坂昌信、そして赤備えの山県昌景。

その中央には、諏訪法性の兜を戴き、軍配を握る武田信玄。

 

二万五千の視線が、一斉にこちらを射抜いた。

討つべき首はただ一つ──松平元康。

 

「お、おびき寄せられた……!?」

元康の唇が震える。

 

浜松を素通りして西進するそぶりは、すべて餌。

追撃に出た自分こそが罠に嵌められたのだ。

 

すでに、戦略では敗れていた。

しかも、地の利は完全に敵にある。

奇襲を仕掛けたはずの松平軍が、逆に坂の下から見上げる形に追い込まれていた。

 

(こ、ここで逆落としをかけられたら……!)

元康の脳裏には、松平軍が瞬時に蹴散らされる光景が浮かぶ。

恐怖で呼吸が詰まりそうになる。

 

「かかか、鶴翼の陣にっ!」

元康は必死に声を張り上げた。

 

鶴翼の陣──V字に広がり敵を受け止める守備陣形。

しかし、間に合うはずもなかった。

 

武田軍はすでに完全な布陣を整え、赤備えの馬蹄が丘の縁でいまにも火花を散らしそうに蠢いていた。

 

松平軍の動きは遅く、稚拙で、あまりにも未熟。

崩壊の未来が、誰の目にも明らかだった。

 

「松平元康は、いるか」

 

地鳴りのような太鼓が一瞬止んだかと思うと、真紅に染まった武田騎馬隊の中央が左右に割れた。

そこから、漆黒の巨馬にまたがる一騎の影が進み出る。

 

風を切り裂くように。

周囲の空気すら重く沈む。

 

その馬は、明らかに日本馬ではなかった。

高く引き締まった足、隆々とした首筋、燃えるような瞳。

アラブ種。

武田が南蛮貿易を通じて甲斐で育成した、諸国の軍馬を凌駕する巨体の馬であった。

 

そして、その背にいるのは──。

艶やかな黒髪をなびかせ、甲冑に身を包み、鷹のごとき双眸を輝かせる若き姫武将。

その顔に、恐れも迷いも一片としてない。

 

武田信玄。

 

その名を聞くだけで諸国の戦国大名が怯える存在。

その本人が、今、眼前にいた。

 

巨馬にまたがるその姿は、まるで戦の神が人の形を取ったかのよう。

矢も弾丸も、その覇気を恐れ、軌道を逸らしていく。

 

元康の親衛隊が放った矢の雨は、ことごとく信玄の周囲の空を裂いて逸れた。

鉄砲の弾も同じ。

甲冑に当たるより前に、不可視の壁に弾かれたかのように、土にめり込んでいった。

 

「な、なぜだ……!」

親衛隊の兵士たちは、弦を震わせながら絶望の呻きを漏らす。

 

だが、馬上の信玄は悠然と腕を組み、不敵に笑っていた。

その微笑に、兵たちは矢を番えることすら忘れ、背筋を凍らせた。

 

元康の眼前に、その巨馬が迫った。

鼻息が荒く、蹄が地を叩くたびに、大地が震える。

 

「……あ、あ、あ……あ、あなたが……」

震えながら、それでも元康はかろうじて声を絞り出す。

 

「そうだ」

低く、鋭く、しかし艶やかな声が響いた。

 

「──あたしが、武田信玄だ」

 

傲然と告げられたその言葉は、宣告であり、裁きだった。

三河衆の心臓を一斉に締め上げるような覇気が、戦場を覆う。

 

元康の親衛隊が再び矢を番えようとした瞬間、

「討ち取れ!」と叫んだその声ごと、信玄の眼光に射すくめられて動きを止めた。

 

「三河のたぬき娘」

信玄の声は、全軍に響き渡るほどに大きく、そして冷酷だった。

 

「もう、わかっただろう。お前ごときに、我が進軍を止めることなどできぬ」

 

巨馬の背の上から、圧倒的な威容で見下ろす。

 

「今ここであたしに降伏するか──」

 

ふるふる……と、元康は涙目でたぬ耳を横に振った。

 

「ならば、織田信奈とともに散る覚悟か」

 

 信玄の声は、烈風のように鋭く元康の心臓を貫いた。

 その声音には、ただの脅しではない確信と余裕が宿っている。甲斐の虎と呼ばれる所以を、たとえ小袖姿に身を包んでいようとも隠しきれぬほどに。

 

「……わ、私は」

 

 唇が震え、言葉は続かない。胸の奥で渦巻く恐怖と羞恥が、喉を塞ぐ。

 

「松平元康。今のお前など、織田信奈の下手な模倣者にすぎない」

 

 その一言は、刀よりも鋭かった。

 元康は、息を詰まらせる。

 織田信奈を意識し続けてきた自分。彼女に追いつきたい、追い越したい――その一心で策を練ってきたはずだった。だが、信玄の目には、ただの劣化した模倣に映っているのだ。

 

「勝てぬとわかっていてただがむしゃらに突撃してくるのは、単なる蛮勇だ。織田信奈が桶狭間で勝利したのは偶然でも奇跡でもない。あれは相良良晴が情報を掴み、天城刃がそれを支えたからこそできた勝利、情報戦の上での勝利だった」

 

 信奈の勝利の真因を、敵であるはずの信玄が正確に語る。

 皮肉にも、その言葉の端々は事実だった。

 自分には良晴のような慧眼の腹心も、刃のように戦場を翻す剣士もいない。

 

「三方ヶ原を突っ切って三河へ入るだろうというお前の予想は、情報をつかんで導き出した分析の結果ではない。お前自身の個人的な願望にすぎない。織田信奈と対等の位置にまで上り詰めたいという、お前自身の淡い夢が──判断力を鈍らせ、松平全軍の壊滅を招いた」

 

 その瞬間、元康の脳裏に浮かぶのは――壊乱する三河兵の姿。

 家臣たちが必死に自分を守り、次々と馬蹄に踏み潰されていった光景。

 「殿をお守りせよ!」と叫びながら、命を落としていった兵たちの声。

 それらが、耳を塞いでもこだまする。

 

「……っ」

 

 堪えきれず、頬を涙が伝う。眼鏡は曇り、視界が滲んだ。

 

「松平元康よ。お前は、織田家とならば対等な同盟関係を結んでいられると思っているのか?」

 

 信玄の声は低く、冷ややかだ。

 

「無理だな。今のお前の立場は、今川義元に仕えていた時とまったく同じだ。強者にすり寄り、阿諛追従で生きながらえているにすぎん」

 

 今川義元――かつての主君の影が胸を刺す。

 自分は今川の庇護を失い、ようやく独立大名として立ったはずだった。

 だが、その実態は信玄の言う通り、信奈の陰に隠れて生き延びているだけなのか。

 

「お前の選択肢は、潔く今ここであたしに降伏するか、あるいは織田信奈の家臣になるか、だけだ」

 

 左右に逃げ道はない。

 どちらを選んでも、大名としての松平家の独立は潰える。

 

「戦国の世に大名として独立して誇り高く生きるということと、巨大勢力に庇護されて安寧に生きるということは、決して両立できない。お前は、その両方を同時にやろうとしている」

 

 信玄の眼差しが鋭く迫る。

 その瞳の奥に映る自分は、まるで幼子のように震えている。

 

「夢はあるのか? この戦国時代の日ノ本をこのように変えたいという、志はあるのか? 借り物ではない、お前自身の志が? そこが、お前がたぬきと呼ばれるゆえんだ」

 

 胸を裂く言葉だった。

 織田信奈の天下布武に心を奪われ、追いかけるばかりで――自分自身の志を語ったことがあっただろうか。

 

「姫! これはただの挑発です、聞いてはなりません!」

 

そんな家臣たちの声も、もう、元康には届かなかった。

 「姫、退かれませ!」「ここで討たれては松平の血筋が絶える!」――必死の叫びが、遠い波音のようにかすれて消える。

 

「……う……うわあああああ!」

 

 絶叫とともに、元康は采配を振り下ろした。

 その震える手の動きは、もはや将としての指揮ではない。恐怖と絶望に追い詰められ、錯乱する少女の必死の身振りにすぎなかった。

 

 ――直後。

 

 天地を揺るがす轟音が戦場を覆い尽くす。

 武田騎馬隊。鉄蹄が地を叩き、土煙が空を覆い、地響きが全身を貫く。まるで山脈そのものが動き出したかのような怒濤の突進だった。

 

「う、うわぁぁっ!」

「た、耐えきれぬ!」

 

 松平軍が張った「鶴翼の陣」は、突進の衝撃を受けた瞬間に――木っ端微塵に砕け散った。

 両翼を広げたはずの鶴は、片羽をもぎ取られ、次の瞬間もう片方もへし折られる。飛翔するどころか、もがきながら墜落する無残な姿へと変わっていた。

 

「崩れた!」

 

 良晴の目にも、ありありと見えていた。

 味方が、兵が、陣形が、無力に潰されていく光景。

 戦など成立していない。対等に刃を交えるどころか、武田軍の圧倒的な質量に叩き潰され、轢き殺されるだけの一方的な虐殺だ。

 

 いや、元康が采配を振り下ろさず、ただ反転して逃げたとしても――結果は同じだっただろう。

 むしろ、一歩前へと進んで迎え撃った分だけ、まだ幾人かの忠臣が討ち死にを免れたかもしれぬ。それほどに一瞬で、戦は終わった。

 

「成瀬正義どの、討ち死に!」

「本多肥前守さま、討ち死に!」

「鳥居四郎左衛門さま、討ち死にぃ!」

 

 次々と叫ばれる討ち死にの報。

 三河の名だたる将たちが、武田騎馬隊の突進を前に立ちはだかることも叶わず、土煙に呑まれていった。

 

「もう駄目だぎゃあ~!」

「武田軍は強すぎるぎゃ~!」

 

 兵たちの心は、もはや粉々に砕かれていた。

 槍を捨て、盾を投げ捨て、我先にと逃げ惑う。

 総崩れとなった三河兵たちが、押し合いへし合いしながら浜松城への帰路を殺到するさまは――もはや軍ではなく、群れを失った獣の群衆だった。

 

「これじゃあ元康がどこにいるのか見つけられねえ!」

 

 良晴は必死に馬の手綱を引き締めながら、血相を変えた。

 押し寄せる敗残兵の奔流に呑み込まれ、視界の先には主の姿も見えない。

 

「これが……戦国最強、武田騎馬隊……!? 圧倒的すぎる!」

 

 馬の嘶きが耳をつんざく。

 良晴の馬も、血と土煙と恐怖に呑まれ、怯えて立ち上がりかける。

 

「相良良晴! 味方は総崩れ。武田騎馬隊の突進を受けて討ち取られた者、手傷を負った者は数えきれない!」

 

 砂塵と血の匂いが鼻腔を刺す。四方からは喚声と金属同士がこすれる不協和音が立ち上がり、地面は踏みにじられて振動している。そんな戦場の只中、鍬を担いだ老いの農夫――と見紛う半蔵が、敗残兵の頭をぽん、ぽんと飛び越えながら良晴へ近づいてきた。

 

「ええっ? お前、半蔵か? なにその変装?」

 

 良晴が驚声を上げると、半蔵は苦笑にも似た短い含みを吐いた。通常の半蔵ならば笑みなど見せないが、今は変装の必要に駆られれば誰でもそうする。だが、その目は真剣そのものだ。追撃は一秒だって容赦しない。

 

「武田騎馬隊の追撃はおそろしく速く、厳しい。変装せねばろくに道も進めぬのだ」と珍しく服部半蔵が弱音を吐いた。

 

「松平軍は壊滅した! もはやわれら忍びがどうこうできる段階ではない!今こそ貴様の知恵と天城刃の武力が必要だ!」

 

 半蔵の声は低く、しかし薬の効いた鉄のように重い。良晴の胸を締め上げる言葉だ。視界の端では、馬の断末魔、鎧の破れる音、誰かの叫びが重なり合う。良晴は鞍に縋る手を強く握り、周囲を見渡した。

 

「刃は一益ちゃんと一緒にいるから、どこにいるのか分からねぇ!それより、元康は無事なのかっ?」

 

 言葉に震えが混じる。普段の軽口が喉に詰まった。

 

「ご無事だが、ここで死ぬる、死ぬると爪を嚙みながら武田騎馬隊のただ中へ突進しようと暴れ続けておられる。だが、なんとしても生きて浜松城にお帰りいただく!」

 

 半蔵の口調には妙な安心感がある――それは忍びの蓄えた情報と、緻密な退路の読みがあるからだ。しかし、今は時間がない。良晴は馬の首をさらに引き寄せた。

 

「あの元康が……」

 

「武田信玄はおそるべき知将。いきなり姫の心を攻撃してきたのだ──金ヶ崎に続いて悪いが、貴様らにしんがりを任せたい。俺は姫を殴り倒してでも浜松城へ生きてお連れする」

 

 半蔵は言い切る。そこにあるのは策士の冷徹さと、主を守る者の慈愛が混ざった声だ。

 

「……任せろと言いたいところだが、さすがに一人じゃあ」

 

 良晴が顔をしかめる。だが、そのとき、林の影から小さな笑い声が漏れた。

 

「しんがりに使える兵力ならここにいるぞえ。くすくす」

 

 林から、一益がひょこりと顔を出す。刃の腕に姫抱きされ、甘えている――そう見えるが、目は遊んでなどいない。正確な意思を宿した小さな瞳が、今は深い決意で固められている。

 

「負け戦になることは分かっていたが、予想以上にこっ酷くやられたな」

 

次いで、南の空色を仰ぐように、黄金の南蛮鎧が木立の間からきらりと光った。全身を金に包んだジョバンナだ。重厚な鎧の音が葉擦れよりも低く、どっしりとした存在感を放つ。

 

「負け戦こそが騎士の生きる世界。サガラヨシハル、ワタシも騎士道精神を貫いてみせる」

 

 ジョバンナの声が野営の空気を切った。いつもよりも大きく、跳ねるような誓いだ。

 

「一益ちゃん! てっきり刃とジョバンナちゃんを連れて隠れているのかと思ってたぜ!」

 

 良晴はほっとしたように叫び、ふっと笑いを戻そうとするが、それはすぐに引き締まる。彼は戦場という現実を再認識したのだ。

 

「サルは、ほんとにおバカじゃな。誰かがしんがりの戦力を残しておかなくては、ほんとうに全滅してしまうではないか」

 

「たしかに、誰も元康を止められなかった時点でこうなることは目に見えていたな……」

良晴が低く呟いた。

 

丘の上から、薄く光る種子島の列が姿を現した。数えると――およそ二千の兵。滝川一益隊だ。旗指物が風になびき、銃身が斜光を受けて冷たく光る。

 

「虎の子の滝川鉄砲隊を連れてきてあげたから、安心していいぞえ。あちこちに潜んで武田軍の追撃速度を鈍らせてみせるのじゃ。この貸しは高くつくぞ、くすくす」

 

 一益の声は眠そうで、そのくすくすが戦場の張り詰めた空気を一瞬だけ柔らかくした。

 

「ありがとう、一益ちゃん! これだけ援軍がいれば元康を救えるかもしれねえ!」

 

 良晴は顔を上げ、丘の上に広がる援軍の姿を見た。その頭の中は一瞬だけ光が差したように明るくなるが、それはすぐに戦場の現実に引き戻される。武田騎馬隊の蹄の音は遠ざかっていない。迫る波はまだ高い。

 

「おお~」と、眠そうな声で一益の家臣たちが種子島を掲げる。だがその数百丁が放つ火の列は、明智光秀鉄砲隊のそれとは色合いが違う。火薬の火花は同じでも、精度と訓練の差が明白だ。

 

「精鋭の明智光秀鉄砲隊に比べると、なんかぱっとしねー連中だな」

良晴が苦笑交じりに呟く。

 

「半分は甲賀者じゃが半分は伊勢で雇った足軽じゃからな、陸ではあまり力が出ないのじゃ」

 

「そうか。やっぱり滝川軍は織田家内では二軍格か」

「失礼な奴じゃな。サルから撃ち殺しちゃおうかの」

 

 一益のからかいに、良晴の顔が引き攣る。

 

「今のはっしーは、姫の懐刀じゃぞ?今なら織田家内最強は、のぶなちゃんではなく姫じゃぞ♪」

 

 一益の言葉は遊び半分だが、真実の一片を含んでいた。天城刃は織田軍内でも別格の存在であり、彼が今、一益の懐刀としている事実は戦力の重心を変えている。刃がいる限り、一益の軍は織田家内最強なのだ。

 

「相良良晴! 武田騎馬隊が迫ってきた! 姫もおられる!」

農民に化けた半蔵が木々の間から叫ぶ。半蔵の声は短く鋭く、的確だ。

 

良晴は、駆ける馬の上で泣きそうな顔をしていた。砂と泥が頬に張り付く中で、彼はどうにか元康の隣へ並走する。

 

「刃と一益ちゃん、俺がしんがりをやる、急いで浜松城へ入れ! 絶対に後ろを振り返るな! お前が討ち取られたらなにもかもおしまいだ!」

 

 言葉はいつもの軽口の調子を保とうとするが、震えが隠せない。良晴自身も知っていた。もし元康がこのまま討ち取られれば、松平家のみならず信奈にも影響が出てしまう。

 

「う、う、う……私……私、吉姉さまのただの模倣者だと……自分自身の夢も持たないおべっか使いだと……そうやって強者にへつらってたぬきのように小ずるく世渡りするつもりだろうと、そんなふうに言われて、頭がかっとなって……」

 

 元康の声は断続的に震える。言葉は自責と羞恥、そしてどこかで芽生えた狂気のような覚悟を混ぜていた。良晴はその言葉を聞きながら、胸が締めつけられるのを感じた。主を励ますべきなのに、彼自身は自分の無力さに苛まれていた。

 

「そんな臓腑を抉るような台詞を? 勝千代ちゃんって温泉ではおしとやかだったのに、戦になると鬼だな……」

 

 良晴の冷やかし混じりの呟きは、彼自身への言い訳でもあった。だが心底では、彼は気づいていた。素の勝千代と戦場の鬼は別物だと。自分が甘かったのだと。

 

「気にするな元康。そんなのお前を怒らせようとして煽ってきた言葉にすぎねえぜ? 簡単に手玉に取られるなよ、元康らしくもねえ」

 

 良晴は無理やり明るく笑おうとした。だが声は少し震えていた。

 

「だって……だって、ぜんぶほんとうの……ほんとうのことだったんです!」

 

 元康は涙で曇った眼鏡を拭うこともできず、ただ叫ぶように声を漏らした。

 

「私……私は、吉姉さまのような天才じゃないですし……武田信玄さんのように強くもなくて……吉姉さまの真似をするなんて最初から無理だったんです。私がこんな駄目な娘だったせいで、多くの家臣を死なせてしまいました! ううっ……」

 

 嗚咽に混じる声が途切れ途切れに響く。頬を伝う涙は止まらず、泥と血煙に濡れた戦場でいっそう痛々しい。

 ――ああもう、眼鏡っ娘の涙なんて、見ちゃいられねえ。胸が張り裂けそうになる。

 

 良晴が手を伸ばして慰めようとした時、冷たい声が割り込んだ。

 

「なんだ、よく分かってるじゃないか」

 

 刃だった。腕に一益を姫抱きしたまま、紅い瞳を細めて言い放つ。

 

「お前に姫様の真似事など不可能だ」

 

「刃!! 泣いてる女の子にそんな言い方ないだろ!!」

 

 良晴が怒鳴る。だが刃は一切視線を逸らさず、淡々と続ける。

 

「事実だ。良晴、お前も知っての通り今回の戦、やる前から結果など分かりきっていた。兵もだが、何より王の質が違う。怒りと焦りで冷静さを欠いた未熟者と、歴戦の覇王。どちらが勝つかなど一目瞭然だ」

 

「刃!! お前!!」

 

 良晴の叫びは空気を震わせた。だが刃はそれすら無視し、そっと手を伸ばした。

 大きな手が、泣きじゃくる元康の頭をやさしく撫でる。紅い瞳の光は厳しいままだが、その仕草には不思議な温かさがあった。

 

「焦る必要などない」

 

 刃の声は淡々としている。だが、戦場の騒音の中でも不思議と鮮明に届いた。

 

「才ある者にも個人差はある。姫様のように生まれながらの天才もいれば、半兵衛や梵天丸のように幼くして才能を開花させる者もいる。お前の場合は才の開花に時間がかかるだけだ」

 

 刃の言葉は容赦なく、しかし不思議な説得力があった。

 

「今日の挫折を糧とし、成長に繋げろ。伸びるも腐るも後はお前次第だ。俺は良晴と違って、未来のお前がどうなるかなど知らんからな」

 

 その一言に、元康ははっと息を呑んだ。

 良晴は未来を語る。けれど刃は語らない。目の前の彼女を見て、未来を託すだけだ。

 

「……刃、さん」

 

 元康の声は、震えていたが、先ほどとは違う色を帯びていた。自分の弱さを認めた後に、初めて差し出された救いのように。

 

 良晴は横で拳を握りしめながら、ふっと息を吐いた。

 (ほんとコイツは……冷たいようで、結局誰よりも優しいじゃねえか)

 

「もしも私が今日という日を生き延びれば、吉姉さまのお役に立てるんでしょうか? 刃さん。サル晴さん。私はあまり頭がよくないので、この国をこうしたい、みたいな明確な夢は持てないんです。吉姉さまの夢が、私の夢。吉姉さまを信じてついていくことが私の役割。それでは駄目なんでしょうか?」

 

 元康の声は震えている。眼鏡の縁に伝う涙が、泥に混じって黒く光った。遠くで銃声が断続的に鳴る。風は焼けた草のにおいを運び、血の匂いと混ざり合って鼻を突く。そんな最悪の現場でも、彼女の問いは純粋で――真摯だった。

 

「さあな」

 

 刃は肩をすくめた。動作はやけにそっけないが、その肩の動きが言葉よりはるかに雄弁だった。冷たい瞳がほんの一瞬だけ和らぐ。それを見た良晴が、口を開く。

 

「それでいいと思うぜ。この俺だってそうだ。役割ってのは人それぞれだろ? それを、どいつもこいつも自分が自分がと天下を狙ってるからいつまでも戦が終わらないんだ。たとえ独立した大名であっても自ら率先して天下人の信奈にお仕えするという姿勢をお前が示せば、恥を捨てただのなんだのと言う奴もいるだろうけど、それで戦国の世は収束へ向かうだろ!」

 

 良晴は声を張った。いつもの軽薄な調子に、今は熱が混ざっている。陽炎のように揺れる戦場の空の下、彼の言葉は思いの丈そのままに元康へ届いた。馬の息づかい、兵の慌ただしい足音、遠くで砕ける甲冑の音。それらを背景に、良晴の声だけがはっきりしていた。

 

「ああ、そうか〜。そうですよね。そんな道があったんですね〜」

 

 元康が、ぽろぽろと涙をこぼしながら笑みを浮かべる。照れくさそうに俯き、指先で眼鏡を押し直す仕草が、どこか幼い。泥だらけの顔が、少しだけ晴れる。

 

 良晴はその様子を見て、少しだけ肩の力を抜いたように息をつく。だがすぐに顔を引き締め、続ける。

 

「元康。お前が死んだら、信奈が海の向こうへ討って出る時に国内を治められる奴がいなくなっちまう。金ヶ崎でも言っただろ? お前にはこの国を平和に統治する才能がある。今はなくても、いつか成長してそれだけの能力を身につける。武田信玄だって最初からあんな完璧武将だったわけじゃねえんだ。内政能力をあげるには、あいつの真似をすりゃいい。ちなみに信奈の焼き討ち手法は絶対に真似すんな。時間はかかるが、お前ならできる。だから今は辛くても、生きろ。いいな元康」

 

 良晴の言葉には、彼なりの実感がこもっている。歴史の教科書を引き合いに出すのではなく、彼自身が見て学んだこと、感じたことを率直に伝えている。元康はその言葉を一語一語噛みしめるように聞いた。風が彼女の髪を揺らし、土埃が頬に張り付く。だがその目が、確かに強くなっていくのが分かった。

 

「その未来は、刃さんとサル晴さんが教わってきた歴史なのですか?」

 

 元康の問いは、震えるけれどどこか希望を求める響きがあった。良晴は前を向き、馬の耳越しに空を見上げる。

 

「いいや、違う。俺たち全員で手に入れる未来だ。まだこの国の誰もが──世界の誰もが見たことのない未来だ」

 

 良晴の声は確信に満ちていた。

 

 その言葉が風に溶けるや否や、元康はまるで何かが胸の奥で吹っ切れたかのように、浜松城へ向かって一直線に駆け出した。馬もまるで意志を理解したかのように蹄を蹴り上げ、土煙が後ろへと渦を巻く。

 

「いい答えだな、良晴。ならば、俺はあれを止めに行くとしよう。ジョバンナ、一益を守れ。いいな?」

 

刃は視線を巨大な蹄の波が翻る方角へ移した。紅い瞳は冷たい火のように細まり、静かに命じる。

 

「任せろ」

 

 ジョバンナの返事を聞いた刃は、一益をゆっくりとジョバンナの腕へと預ける。その動作は一瞬にして終わり、刃の身体はまるで霞が晴れるように、周囲の影に溶け込む。

 

「はっしー?姫を置いて、どこに行く気じゃ?」

 

 一益が小さな声で不安げに問う。しかし刃は振り返らず、淡々と答えた。

 

「武田軍右翼、あれをお前の軍で止めるのは無理だ。左翼は任せた」

 

 言い終わると同時に、刃は疾走しすっと消えた。残ったのは、刃が最後に残した冷ややかな決意だけだ。馬場に残る空気が一瞬だけ凍るように静まり、次の瞬間には再び戦の鼓動が跳ね上がった。

 

 ジョバンナは一益を膝にしっかりと抱え直し、周囲の滝川隊に向けて大きな声を張る。彼女の黄金鎧が日差しを反射してぎらりと光った。

 

「聖ヨハネの騎士、ジョバンナ・ロルテス。松平方に加勢する。カズマスはワタシが守る!」

 

 その宣言に、滝川兵たちの目が一斉に向いた。豪胆な声は士気を押し上げる。ジョバンナは短く顎を引き、鋭く次の指示を出す。

 

「みんな、分散して、種子島で敵軍を阻むのじゃ。十倍の伏兵がいると見せかけよ。明智光秀だけが鉄砲の達人ではないことを天下に知らしめるのじゃ!」

 

一益の声が飛ぶ。

 その瞬間、彼女の軍勢は霧のように散開し、森の影に潜み、丘陵に身を伏せてゲリラ戦を仕掛けた。

 乾いた火縄の音が途切れ途切れに鳴り響き、あちこちで小さな火線が立ち上がる。どこから狙撃されるか分からぬ恐怖は、確実に武田軍左翼の進撃速度を奪っていった。

 

 

 

 一方──。

 

 武田軍右翼は、松平元康の首めがけてなおも凄まじい勢いで追撃を続けていた。

 血に濡れた蹄が土を掻き、砂塵が竜巻のように舞う。

 

「元康は降伏を拒否したわ。あの姫は潔く死ぬ覚悟よ。浜松城まで元康を追うのよ──元康を討ち取ってしまえば、三河遠江のすべては御屋形さまのもの。天下は、目の前だわ」

 

 烈火の如き声を張るのは、武田四天王の中でも最強と謳われる猛将。

 「飯富の赤備え」改め「武田の赤備え」──山県昌景である。

 

 戦場を染め上げる真紅の騎馬隊。

 日輪のように鮮烈な朱色の甲冑が、濛々たる土煙の中でもひときわ目立っていた。

 その先頭を駆ける昌景は、まるで子供のように小柄な姫武将だった。

 

 彼女は、武田旧四天王の一人・飯富兵部虎昌の実妹。

 兵部は槍の名手として知られたが、同じく小柄でやせっぽちの姫武将であった。

 小さな体格は戦場においては致命的。大柄な男武者たちに侮られぬため、兵部はあえて自らの鎧兜を真紅に染め上げたという。

 

 戦場で真紅の甲冑を身に纏う――それは敵陣の目標になる自殺行為。

 心配した諸将が揃って諫めたとき、兵部はそっけなく笑い飛ばした。

 

「どうせ戦場で全身、敵味方の血に染まるんだ。最初から赤く染めておけば、手間が省けるだろう?」

 

 その豪胆さは瞬く間に兵の心を掴み、やがて彼女の部下たちもこぞって鎧を赤く染めた。

 こうして「飯富の赤備え」は誕生し、戦国最強の騎馬隊として恐れられるに至ったのである。

 

だが、その誇り高き「赤備え」の創始者である飯富兵部虎昌は、悲運の中で散った。

 主君・武田信玄の実弟であり、飯富兵部の幼なじみでもあった武田太郎義信が、駿河侵攻に猛然と異を唱えたのだ。

 「同盟相手である今川に刃を向けるなど不義理、武田家の名を汚す行為」と憤慨した義信は、信玄に反旗を翻した。

 

 飯富兵部は、義信に寄り添う守り役として生涯を捧げてきた。幼少の頃から剣を教え、寝起きを共にし、実の姉と弟のように仲の良い二人であった。

 しかし、家臣である以上、彼女には越えられぬ身分の壁があった。太郎義信は今川家から正室を迎えていたが、心から娶りたかったのは飯富兵部だったのだとも伝わる。

 互いに胸の内を明かすことはなかった。戦国の常として、主従の義と家の名が、二人を断ち切った。

 

 義信の謀反が発覚したとき、兵部は短く言い残した。

 「守り役としてけじめをつける」

 

 そして自ら陰腹を切り、主君筋である義信に切腹を促した。二人は最後には刺し違え、来世での再会を約して死んだ――と人々は語り伝える。

 

 この時、兵部の妹であった山県昌景は、選択を迫られた。

 尊敬し憧れてきた姉を守るか、敬愛する主君・信玄に従うか。

 兵部自身が「私を謀反人として御屋形様に差し出せ。これ以上、武田家を割ってはならない」と言い残したため、昌景は狂おしいほどの葛藤の末、泣きながら信玄に密告した。

 それが、姉を死へと追いやる引き金になった。

 

 「出世のために姉を売った女」――。

 周囲から浴びせられた罵声は、昌景の心を何度も抉った。

 だが、信玄は彼女に山県家の名跡を継がせた。

 「飯富」という姓はもはや謀反人の汚名を背負った家名。昌景を守るため、そして「赤備え」を絶やさぬための采配だった。

 昌景はその信玄の心遣いを深く胸に刻み込んだ。

 

 それでも彼女にただひとつ、どうしても捨てられないものがあった。

 それは亡き姉が命を賭して育て上げた、戦国最強の騎馬隊――「赤備え」。

 朱に燃えるその鎧の群れは、姉そのものであり、義信との約束であり、血にまみれた誇りそのものだった。

 

 小柄で童顔の少女である昌景が、巨大な軍馬に跨り、真紅の鎧に身を包む姿は異様ですらあった。だが戦場でその姿を見た者は一様に震え上がった。

 燃え立つ炎の如く突進する「赤備え」に、立ち向かえる武将はそう多くはない。敵味方を問わず、「山県昌景こそ武田最強」と囁かれるようになったのも当然だった。

 

 この上洛作戦においても、昌景は信玄本隊と別に行動し、北三河を単独で席巻するという離れ業をやってのけた。

 その疾風の如き機動力と突進力は圧倒的であり、合流した武田本軍と共に二俣城を囲み、この三方ヶ原で今、松平元康の首をめがけて炎のような進撃を続けていたのだった。

 大地は震え、山県昌景の赤備えが撒き散らす砂塵はまるで血煙のように空を覆う。

 数百、数千の真紅の甲冑が、怒涛の奔流となって浜松へと殺到するさまは、まさしく戦国最強の騎馬隊そのものだった。

 

「皆の者。天下まで、あと少しだわ」

 

しかしその山県昌景の進撃を防ごうとする者が、いた。 

 

「それは困るな」

 

 低く冷たい声が、戦場の騒音を切り裂くように響いた。

 その声を聞いた者は、一瞬、背筋を凍らせた。

 

 直後。

 

 赤い線――否、閃光が目の前を横切った。

 何が起きたのか理解するよりも早く、武田騎馬隊の先鋒の首が、宙を舞っていた。

 馬上の武者は声を上げる暇もなく、断ち切られた命が地へと転がり落ちる。

 鮮血が赤備えの朱に混じり、さらに濃い紅となって飛び散った。

 

 最強を誇った赤備えが、はじめてその進軍速度を緩めた。

 轟々と響いていた蹄の音が、わずかに乱れる。

 赤備えの兵たちは、誰もが目を見開いた。

 

 そこに立っていたのは――。

 

 銀の髪に、紅い瞳。

 白刃のごとき冷気をまとった男が、赤備えの前に立ちふさがっていた。

 衣は風に翻り、血を浴びてもなお銀光を失わない髪が月光のように輝く。

 

 その存在感は、まるで戦場に舞い降りた死神。

 剣速は雷鳴のごとく速く、目で追えぬ。

 ただ「斬られた」という結果だけが残り、原因は見えない。

 

 赤備えの将兵がざわめいた。

 恐怖と驚愕、そして戦慄が波紋のように広がる。

 

「銀の髪に、紅い瞳……そして今の剣速……」

 

 山県昌景は、馬上から細めた目でその姿を見据えた。

 その声音には、驚きと戦慄、そして抑えがたい昂揚が混ざっていた。

 

「……貴方が、噂に聞く“天の白刃”……天城刃なのね」

 

「ああ。そう言うお前は?」

 

 低い声で問う刃に、童顔の小柄な姫武将は馬上から堂々と応じた。

 

「武田四天王が一人、山県昌景。噂に聞く“天の白刃”、相手に不足はないわ」

 

 その手に握られているのは、鉄扇。

 ただの舞扇ではない。幾重にも鋼を仕込み、刃を鈍く覆い隠した必殺の武器だ。

 小柄な体格の彼女が大柄な武者を相手にするために辿り着いた、飯富兵部ゆずりの戦場の知恵。

 

「そうこなくてはな」

 

 刃もまた、一歩前へ進み出て、刀を静かに抜き放つ。

 鞘から滑り出た白刃は、戦場の光を受けて眩しく輝き、砂塵を裂く音すら立てる。

 風がその瞬間、戦場全体の喧騒をかき消したかのように止んだ。

 

 ――武田最強と、織田最強。

 二人の最強が、ついに三方ヶ原の地で相まみえる。

 

 周囲の兵たちは息を呑んだ。

 普段ならば一騎打ちなど、数多の兵に埋もれて誰も気に留めぬ。だが今は違う。

 真紅の騎馬隊の兵士ですら蹄を止め、砂に爪を立てながら、二人の動向を凝視していた。

 まるでこの一戦の勝敗こそが、戦全体の趨勢を決する――そんな直感が全員を支配していた。

 

 砂埃の中、沈黙が落ちた。

 耳鳴りがするほどの静寂。

 刹那、戦場全体が静まり返ったかのように感じられる。

 

 そして次の瞬間――。

 

「はぁっ!」

 

 昌景が馬腹を蹴り、閃光のごとく飛び出した。

 鉄扇が唸りを上げて振るわれ、真紅の残光を空に描き出す。

 炎そのもののように閃く扇撃。小柄な体格からは想像もできぬ、鋭く重い一撃だった。

 

「ふっ!」

 

 刃もまた、無駄のない踏み込みで間合いを詰め、刀を横一文字に閃かせた。

 紅と銀――互いの色が空気を裂いて交錯する。

 

 刹那。

 

 耳を裂く衝撃音が炸裂した。

 火花が大きく飛び散り、鉄と鉄がぶつかり合う余波が周囲の兵の頬を熱く焼いた。

 轟音は大地にまで響き渡り、まるで稲妻が戦場に落ちたかのようだった。

 

 武田の赤備えと、織田の死神。

 血と炎と死に彩られた三方ヶ原で、戦国の二つの最強が――ついに激突したのだった。

 

閃光のような一合が終わった瞬間、二人の姿は砂塵に紛れた。

 視界は曇り、形は消える――だが、音だけは消えなかった。

 

 ガンッ、ガンッ、ガガンッ――!

 鉄と鉄が噛み合う衝撃音が連続して鼓膜を震わせ、胸郭を突き破るほどの振動が兵たちの心臓を打ち鳴らした。

 

 昌景は小柄な体を鞭のようにしならせ、馬上から鉄扇を縦横無尽に繰り出す。

 重く打ち払えば、まるで巨槍の一撃。

 斜めに滑らせれば、鋭い短刀の突き。

 弧を描くたびに扇面に仕込まれた鋼板が閃き、空を裂く赤い残光が散る。

 

 ヒュンッ――ゴッ!

 ひと振りは風を切り、もうひと振りは刀身をはじき飛ばす。

 次の瞬間にはまた角度を変え、常識外れの速度で襲い掛かる。

 

「なるほど……小柄だからこそ、振りが速い。面白い」

 

 刃は口角をわずかに上げ、紅い瞳を細めていた。

 紅と銀が交錯する度に彼の剣筋は鋭さを増していくが、昌景の鉄扇はそれをさらに上回る速さで間合いを乱す。

 

 まるで舞を舞うかのように。

 馬上の昌景は身体ごと旋回し、扇の軌跡は読みにくい弧を描く。

 刀や槍とは違う、奇怪な間合い。左から振ったかと思えば右から突き上げ、引いたかと思えば一瞬で詰め寄る。

 予測が難しい。熟練の剣士ですら、視線を追った時にはもう軌跡は消えている。

 

 ――シュッ。

 

 赤い閃光が走り、刃の頬を浅く斬り裂いた。

 熱い感触と共に鮮血が飛び、銀髪を一筋染める。

 

「っ……!」

 周囲の兵士たちが息を呑む。

 

「ほう?」

 

 刃は軽く目を細め、頬から流れる血を指で拭った。

 指先に赤が映える。だが、その表情は苦悶ではなく――むしろ楽しげだった。

 

「一対一で傷を負ったのは……久方ぶりだな」

 

 静かに呟くその声に、兵たちの背筋が総毛立つ。

 死神と恐れられる男が、初めて戦場で血を流し、それを喜んでいる。

 その異様な光景に、空気が一層張り詰めた。

 

 昌景の瞳がぎらりと光る。童顔に似合わぬ猛禽の眼光。

 鉄扇を翻し、再び馬腹を蹴る。

 

「ならば次は――その首をもらうわ!」

 

 真紅の残光が再び舞い上がり、銀の閃光と交錯する。

 戦場の中心で、炎と白刃が渦を巻き、周囲の兵たちは誰一人として瞬きを許されなかった。

 

「やってみるといい。出来たら、だかな」

 

 挑発するでもなく、淡々と告げる声。

 だがその声音には、剣士としての揺るぎない自信と、血の匂いを喜ぶかのような危うい色が混じっていた。

 

 ――カチリ。

 

 刃が一歩踏み込んだ瞬間、空気の密度が変わった。

 彼の剣速が、わずかに――しかし決定的に速くなった。

 

 ギィィンッ!

 

 昌景の鉄扇が防いだ刹那、全身に衝撃が走る。

 これまで均衡していた力が、急に傾いた。

 剣が斬りつける音は、先ほどまで「ガンッ」だったのに、今は「ズバァッ」と空気ごと切り裂く鋭音に変わっている。

 

 刃の紅い瞳が細まり、狙い澄ました視線が昌景の胸元を突き抜ける。

 その目は「ここを突けば殺せる」と幾重にも計算しているのがわかる。

 

「くっ……!」

 

 昌景は馬の首を操り、すれ違いざまに鉄扇を振る。

 だが、その扇が空を切る前に、刃の刀はすでに三手先を読んで振り抜かれていた。

 

 カンッ! ギィンッ!

 

 鉄扇と刀が幾度も激突する。

 火花が滝のように飛び散り、周囲の兵士たちの頬や鎧を焦がす。

 耳を裂く金属音が連続し、鼓膜が破れそうな圧力を伴う。

 

 赤備えの兵士たちは蹄を止めたまま硬直した。

 これほどの速さで武器が交錯する光景を、誰一人として目で追えていなかったからだ。

 ただ、結果だけが残る。

 昌景の鉄扇が弾き飛ばされ、刃の銀光が胴をかすめる。

 あるいは逆に、刃の頬から新たな血が飛び散る。

 

「ふふ……!」

 

 昌景が笑った。童顔に似合わぬ猛禽の笑み。

 彼女は恐怖を押し殺すどころか、その恐怖すら楽しみに変えていた。

 

「なるほど……これが“天の白刃”。速い……! でも、この速さなら、私もまだ喰らいつける!」

 

昌景の童顔が猛禽の眼差しに変わり、鉄扇の赤い残光が砂塵を切り裂く。

 刃は冷徹な瞳で軌跡を読み切り、銀の刀身でそれを正面から受け止める。

 

 真紅と銀が、砂塵の中で絶え間なく火花を散らし続けた。

 互いの武器が交わるたびに空気は震え、鼓膜を打ち破るほどの衝撃音が響き渡る。

 見守る兵たちは息を詰め、一瞬たりとも視線を逸らせない。

 

「小柄な体を生かした武器と戦法。それを十分に扱う才、そして才に奢ることなく、なお研ぎ澄ませた鍛錬の跡……見事だ」

 

 刃の低い声は淡々としているが、その内に確かな敬意が含まれていた。

 その言葉に、昌景は一瞬、目を細める。

 

「才を持ち努力を怠らない、実に好感が持てる」

 

 炎のような突進を繰り返しながら、刃の言葉が耳に焼き付く。

 戦場で相手を褒めるなど常軌を逸しているはずなのに――なぜか胸の奥に熱が灯る。

 

「天城刃、貴方はなんで鎧で阻まれている胴しか狙わないの?」

 

 思わず問う。

 鉄扇を翻しながらも、その問いの裏には微かな苛立ちと、なにか別の感情が滲んでいた。

 

「女の顔に傷をつける趣味はない」

 

 短い答え。

 だが、その一言が昌景の心臓を直撃した。

 

「……っ!」

 

 ドクン、と心臓が大きく跳ねる。

 それは戦の緊張によるものか、それとも――。

 頬が紅潮するのを、自分でも抑えられなかった。

 

 砂塵が頬に貼り付く感触。流れる汗の熱。

 だが、その赤みの正体は確かに戦場の熱だけではない。

 

「な、なにを……!」

 

 昌景は必死に気丈を装い、声を張り上げる。

 しかしその声音にわずかな乱れが生じたのを、赤備えの兵たちは見逃さなかった。

 

 真紅の騎馬兵たちの中には、主将の頬に浮かんだ紅潮を目にして、小さく息を呑む者もいた。

 戦場で炎のように猛り、鬼神のごとく敵をなぎ払う彼女が、今はまるで少女のように顔を赤らめている――。

 誰がそんな光景を想像できただろうか。

 

ざわ……ざわ……。

 赤備えの兵たちの胸に、これまで味わったことのない動揺が走る。

 普段なら敵を斬るたびに雄叫びを上げるはずの兵たちが、今は声を失い、ただ二人のやり取りに耳を澄ませていた。

 

「何を動揺している?」

 

 刃が無表情に問いかける。

 その声音は、まるで風が吹き抜けるかのように淡々としていて、本人には何の悪気もなかった。

 

「――っ!」

 昌景は鉄扇を振るいながらも、心臓がまたひとつ大きく跳ねるのを自覚していた。

 童顔が灼けるように熱い。頬の紅潮は隠せない。

 

「あ、貴方が変なことを言うから!」

 

 言い返した声は、いつもの猛将の咆哮ではなく、まるで拗ねる少女のように甲高く揺れていた。

 その場にいた誰もが耳を疑った。

 

「俺が?」

 

 刃は小さく首を傾げ、紅い瞳を瞬かせた。

 本当に心当たりがないのだ。

 彼にとっては「女の顔に傷をつける趣味はない」という言葉も、ただの事実であり信条でしかなかった。

 

 だが昌景には、それが直撃した。

 戦場で、死闘の最中で、相手が自分を「女」として見ていると突き付けられたのだ。

 その衝撃は、鉄扇を握る手の震えにまで現れていた。

 

 赤備えの兵たちは互いに目を見合わせ、小さくざわめきを広げる。

 ――あの昌景様が、顔を赤らめている?

 ――しかも相手は敵の“天の白刃”だと?

 

 戦場の空気は、恐怖と緊張の只中でありながら、どこか奇妙な色を帯びていった。

 兵たちの心を揺さぶるのは、敵の剣よりも主将の頬の朱だった。

 

「な、なによ……! 私をからかって勝てると思ってるの!?」

 

 昌景が怒声を上げ、恥ずかしさをごまかすように鉄扇を振るった。

 真紅の残光が烈火のように燃え上がり、刃へと襲いかかる。

 

 だが刃は、一歩も引かない。

 無表情のまま紅い瞳を細め、ただ静かに刀を構え直した。

 

「俺はからかってなどいない。ただ事実を言ったまでだ」

 

 その無邪気すぎる一言が、さらに昌景の胸をかき乱す。

 羞恥と怒りが入り混じり、鉄扇の軌道がさらに苛烈さを増していく。昌景は気づいていないが、明らかに刃と打ち合い始めてから速くなっている。

 

「戦闘の最中にも成長するか、いい、実にいい。もっと見せてくれ、お前の輝きを」

 

 刃の声は低く、感情を抑えた調子だった。

 だがその言葉には確かに、敵を認める武人の眼差しと――本人に自覚のない色香が滲んでいた。

 

 昌景の鼓動が、戦場の轟音よりも大きく響いて感じられる。

 胸を突き上げるような早鐘。

 鉄扇を握る手が汗に濡れ、指先が微かに震えた。

 

 だが、刃の声色の熱とは裏腹に、その剣速はさらに冷徹に加速する。

 

 ギィィィンッ!

 

 火花が弾け飛び、砂塵を突き破る閃光が疾駆した。

 まるで稲妻が連続して落ちるような斬撃――一呼吸の間に三度、銀光が走る。

 

「なっ――!?」

 

 昌景は一撃目を弾き飛ばし、二撃目を必死に受け止める。

 馬上の小柄な体を限界までひねり、三撃目に反応しようとした。

 だが、速い。

 あまりにも速すぎる。視覚が追いつかない。

 

 ――間に合わない。

 

 紅い瞳が迫り、銀の刃が鎧を裂き裂帛の音を立てた。

 その瞬間、昌景は死を覚悟し、ぎゅっと瞳を閉じる。

 

 しかし。

 いつまで経っても、痛みはやって来なかった。

 

「……え?」

 

 気づけば、刃の刀は鎧を斬り裂いたところで軌道をずらし、肌に届かぬ寸前で止まっていた。

 それは絶対的な速さと、寸分違わぬ精密さがあってこそ成せる離れ業。

 見守る兵士たちは誰もが理解した。

 

 ――天城刃は、殺せたのに殺さなかった。

 

 静まり返る戦場。

 赤備えの猛将・山県昌景が、初めて「生かされた」のである。

 

「なんで、斬らなかったの」

 

 昌景の声は、戦場の喧噪にかき消されるほどか細かった。

 だが、その震えは怒りではなく――戸惑いと、どこか甘さを含んでいた。

 

「理由が必要か?」

 刃は刀を軽く振り払って砂埃を散らすと、紅い瞳を細めた。

「強いて言うなら、そうだな。……殺すのが惜しい。それだけだ」

 

 ぞくり、と昌景の背を戦慄が駆け抜ける。

 

「今の三連撃、勝家や光秀でも一撃防ぐのがやっとだ。それをお前は二撃防ぎ、三撃目にも反応してみせた。これからが楽しみだ」

 

 武人としての純粋な評価。

 だが、その声音は冷たさを帯びず、むしろ甘やかすような柔らかさを含んでいた。

 昌景の胸が、再び大きく鳴った。

 

 その時――。

 

 ドドドド……と地を揺るがす馬蹄の音が背後から迫った。

 赤備えの増援か、あるいは信玄からの使者か。

 

「む……どうやらお前の迎えが来たようだな」

 

 刃は肩をすくめ、背後を振り返りもせずに刀を鞘へ納めた。

 カチリと鳴る音が、戦場全体を締めくくる鐘の音のように響く。

 

「此度はここまでにしよう。まだやってもいいが……そろそろ戻らねば俺が怒られる」

 

 そう言って紅い瞳を昌景に向ける。その瞳には、冷徹さも残酷さもなかった。

 

「死ぬなよ? 山県昌景。次会う時を楽しみにしている」

 

 刃は微笑んだ。

 その笑みに冷たさはなく、ただただ美しかった。

 

 昌景の鼓動が止まったかのように感じられる。

 顔に流れる熱は、戦場の炎なのか、それとも。

 

銀の背が砂塵に消えてゆく。

 残されたのは、斬られたはずなのに生かされた命と、胸を焦がす一つの問いだった。

 

「……なぜ……?」

 

 昌景は鉄扇を握りしめ、赤くなった頬を覆い隠すように俯いた。

 答えは出ない。

 だが、確かに一つの影が心に残った。

 

 

 

 

 武田軍は、浜松城への進軍を途中で中止した。

 潰走する松平軍を蹴散らし、勝利はすでに手中にあったにもかかわらず、武田信玄はあえて城を囲まなかった。

 

 滝川軍のゲリラ活動による撹乱、そしてなにより――あの山県昌景を相手に、一歩も引かず、むしろ圧倒してみせた天城刃の存在。

 「浜松城攻めは手こずる」

 信玄がそう判断したのだろうと、武田軍の諸将は囁き合った。

 

 だが、彼女の胸中には別の意図があった。

 

 信玄は己の天秤にかけていたのだ。

 三河の松平を完全に叩き潰すか、それとも――もっと大きな獲物を狙うか。

 答えは後者だった。

 

 信玄は再び軍勢を反転させると、悠然とまっすぐ三河を突き抜け、美濃へと進軍させた。

 そこは織田信奈の本拠地、岐阜城を擁する国。

 すでに斎藤道三が岐阜を守り、山本勘助の別働隊と前哨戦を繰り広げていた。

 信玄にとって狙うべきは、織田の中枢そのもの――信奈であった。

 

 一方、松平元康はかろうじて命を拾った。

 だがその代償はあまりにも大きい。

 

 武田騎馬隊と正面から激突した松平軍は、死傷者多数。

 名のある武将の多くが還らぬ者となり、三河武士団の骨幹は無残に削がれた。

 浜松城へ逃げ延びた兵たちも疲弊し、馬も武具も損じ、再び打って出る余力など残されてはいなかった。

 

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