織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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姉川・岐阜の合戦 前

十二月二十二日、夕刻。

 三方ヶ原にて松平勢を完膚なきまでに叩き潰した武田信玄率いる二万五千の本隊は、まるで無人の野を駆けるがごとき電撃的な速度で三河を横断し、尾張へ入り、美濃方面へと進撃した。

 

 軽装の騎馬隊を率いて本隊よりもさらに先行する信玄の姿は、凄烈な風そのものだった。

 その進軍速度は軍記物語に語られる神速をはるかに凌ぎ、兵たちは恐怖すら感じるほどであった。

 

 尾張と美濃の国境を流れる木曾川――その南岸に聳える戦略上の要地・犬山城。

 本来は織田方の拠点であったが、すでに別働隊を率いる山本勘助が謀略を駆使してこれを落城させていた。

 日の出のごとき光を受けてきらめく川面、その先に岐阜城がある。木曾川を渡れば、美濃へ至り、織田信奈との決戦は避けられぬ。

 

 犬山城を拠点とするか、それとも勘助の別働隊と合流して三万の大軍を二手に分け、空き家同然となっている尾張をじわじわと侵食するか。

 諸将の間では意見が割れた。

 だが、当の信玄の腹は最初から決まっていた。

 

 ――戦うために、ここまで来たのだ。

 

 犬山城本丸の広間。

 そこに現れた武田信玄の姿を目にした山本勘助は、思わず隻眼を見開いた。

 

「……これは」

 

 勘助の目に映ったのは、もはや「人の器」を超えた存在だった。

 信玄の面差しには、威厳と自信が漲っている。

 かつては父・信虎に怯え、あるいは己の野心に怯えて常に獰猛さで身を覆っていた少女――勝千代。

 その面影はなお残っているのに、今や彼女は完全に「武田信玄」として完成していた。

 

「御屋形さま!? この勘助が驚かされるほどに、立派に成長しておられまする……! 勘助がいないあいだに、いったいなにが!?」

 

 思わず声を上げる勘助。

 その声音は歓喜と驚愕が入り混じったものだった。

 

「ふん。惚れ直したか、勘助?」

 

 信玄はにやりと笑みを浮かべる。

 それは猛虎の笑みではなく、余裕と風格を持つ女傑の笑みだった。

 

「あいや、それがしは――諏訪の巫女の血を引く勝頼さまを一途に崇め奉る男。月のものが来る大人のおなごにはまったく興味がござらん」

 

 大真面目に、しかし耳障りなほどにとうとうと並べ立てる勘助の言葉。

 

 信玄は思わず吹き出した。

「ははっ、相変わらず気色悪い親父だな、お前は」

 

「御意。されど、それがし、この面相ゆえに“ちょうがい”…あいや、生涯独身を貫いておりまする。御屋形さまをわが娘のように想うておりますゆえ、惚れるなどめっちょうも……あいや、滅相もないことでございます」

 

 噛みまくる勘助に、信玄は突っ込みたい衝動をこらえた。

 ――それでは幼い四郎はお前にとって何なんだ。

 

 だがそれよりも、今伝えるべきことがあった。

 

「聞け勘助。あたしは、天命に勝ったぞ!」

 

 その声音には、かつての焦燥も恐怖も微塵もなかった。

 父を追放して以来、勝千代は常に猛虎の如き表情で周囲を威圧し続けねばならなかった。

 勇猛果敢に見せるその姿は、恐怖心と罪悪感を覆い隠す仮面でもあった。

 

 家臣団を城にたとえる名将ぶりも、かつては「再び自分も甲斐を追われるのではないか」という因果応報への恐怖から生まれたものだった。

 しかし今の信玄には、そのような迷いは、みじんもなかった。

 

 犬山城本丸の広間に、沈黙が満ちる。

 火鉢にくべられた炭がぱちりと鳴り、かすかな火の粉が舞う。

 信玄はその静寂を破るように、揺るぎない声で告げた。

 

「あたしはこの一戦に勝利し、天下を盗る。勘助、ここまで来られたのもお前のおかげだ」

 

 その言葉を耳にした瞬間、勘助の心臓が大きく跳ねた。

 胸を突き上げる衝撃は、長年夢に見てきた光景が、今ここで現実となったゆえだった。

 

「お……お……!」

 

 言葉が詰まる。隻眼が大きく見開かれる。

 勘助はまぶしいものを仰ぎ見るかのように信玄を凝視した。

 その視線の先にいたのは、間違いなく「古今無双の名将・武田信玄」。

 

「それがしが御屋形さまと邂逅した時、この方こそはいずれと心に描いた姿……よもや、我が生きているうちにここまで成長を遂げられるとは──!」

 

 震える声でそう言うと、勘助は自然と畳の上に額をすりつけて平伏していた。

 隻眼の縁から、熱い涙が静かにこぼれ落ちる。

 

「父君を追放されるという暗い過去の傷……情け深き御屋形さまは、生涯その痛みを抱え続けるであろうと、勘助は密かに胸を痛めておりました。それが……!」

 

 嗚咽混じりの言葉を遮るように、信玄は笑った。

 

「お前が父を追放せよと、あたしをけしかけたのではないか。浪人のお前がその奇怪な面相であたしの前に現れ、『娘よ。お前に天下を盗らせてやろう』と法螺を吹き散らかしたあの夜……あの驚きは、今でも忘れん。正直、狂人かと思ったぞ」

 

 その声音にはかすかな懐かしさと、若干のからかいが混じっていた。

 

「狂人にございます」

 

 勘助は平伏したまま、力強く答えた。

 その声は畳に吸い込まれ、広間の隅々まで響く。

 

「一介の素浪人にすぎぬこの勘助。『われこそは天下を盗る大軍師なり』と吹聴して諸国をさまよいましたが、どこに行っても狂人扱い。仕官など夢のまた夢でございました」

 

 彼は唇を噛み、歯の間から血が滲んだ。

 

「お前は面妖な人相風体の持ち主。幼女趣味などという嗜好も、胡散臭さに輪をかけていた」

 

 信玄は鼻を鳴らす。

 

「だが――その隻眼だけは妙に美しく輝いていた。狂人だとしても、あたしに害意を持ってはいないと、そう思って雇い入れてみた」

 

 そこまで言って、信玄はわずかに身を乗り出した。

 

「勘助。お前、自分を天下一の軍師と自負していたのなら、なぜ、父から廃嫡されかけたあたしに賭けたのだ? 甲斐など山国の一姫に過ぎん。あたしの美貌など、お前には猫に小判。無意味なものに映っていたはず」

 

 挑むような視線に、勘助は隻眼を伏せ、深く息を吐いた。

 そして、決して語るまいと思っていた真実を、今こそ打ち明ける覚悟を決めた。

 

「失礼過ぎるゆえ、口にはせぬと誓っておりました。……ですが、この時を迎えた今、御屋形さまにこそ申し上げねばなりませぬ」

 

 平伏したまま、勘助の声は震えていたが、その奥に燃える信念は決して揺らがなかった。

 

「……似ていたのでございます」

 

 勘助の声は低く、震えていた。

 

「あたしと、お前がか? ははっ」

 

 信玄は豪胆に笑ったが、その紅の瞳の奥がわずかに揺れた。

 

「天下を盗れる大器でありながら、理不尽にも父君に疎んじられていた御屋形さまと――この醜い容貌ゆえに軍師として取り立てられなんだ自分自身が、よく似ていると。……そう思ったのでございます。万死に値する非礼、なにとぞお許しくだされ」

 

 勘助は額を畳にこすりつけ、言葉を絞り出した。

 

「甲斐源氏の嫡流にして絶世の美貌を誇る御屋形さまと、この醜く、身分卑しいそれがしが似ているなどと。しかし、外見は比べることすらはばかられるほどに正反対でありながら――なぜか、似ていると。そう、確信してしまったのでございます」

 

「続けろ、勘助」

 

 静かな声が、命じるように響いた。

 

「甲斐は京より遠く、海すら持たぬ山国。天の時も地の利もなく……ゆえに、聡明すぎる御屋形さまは、はじめから天下争奪などあきらめておられた。だからこそ父君からの廃嫡という仕打ちにも甘んじようとされていた。……かほど大きな才を持ちながら、己の未来をあきらめてしまわれていたのです」

 

 勘助の隻眼から、ぽろりと涙がこぼれた。

 

「それでも、いや、それゆえに。勘助は御屋形さまを天下へ――甲斐の向こう側に広がる、広い世界へと連れだして差し上げたいと。……そう思ったのでございます。狂うたのでございましょう」

 

 広間に一瞬、重い沈黙が落ちた。

 火鉢の火が揺らめき、二人の影を長く映す。

 

「まったく……主君使いの荒い奴だ」

 

 信玄は鼻を詰まらせたようなくぐもった声で、吐き捨てるように言った。だがその声音には、不思議な温もりが滲んでいた。

 

「勘助」

 

「はっ」

 

「あたしは……お前の理想の武田信玄になりおおせたか。なることができたか」

 

 問いかける声は低く、しかし揺るぎなかった。

 

「御意」

 

 勘助は涙を拭おうともせず、深く頭を垂れた。

 

「それがしの思惑をはるかに超えて、大きくなられました。もはやそれがしが御屋形さまに教えることは、なにもござらぬ」

 

「聞け、勘助」

 

 信玄はゆっくりと立ち上がり、障子を開け放った。

 冬の冷たい風が広間を吹き抜け、木曾川の流れが目に映る。

 その奔流は、果てなく続く未来のようだった。

 

「あたしは――『天命を動かす者』たちに、会った」

 

「なんと!?」

 

 勘助が思わず顔を上げる。隻眼に驚愕の光が宿った。

 

「そして教えられたのだ。天命とは、すでに定められたものではないと。……天命とは、この木曾川の流れと同じ。とどまることなく、常に形を変えて進み続けるものだ」

 

 信玄の声は、堂々と広間に響いた。

 

「勘助。未来は自らの手で摑み取るもの。過去の罪は未来で償えばよい。父を追放した過去に怯えることに、意味などない」

 

 「これより天下を盗り、瀬田に武田の旗を掲げるのだ」

 

 信玄の声音は低く、しかし雷鳴のごとく轟いた。

 

 「織田信奈が傀儡として担ぎ上げている今川幕府に代わり――この甲斐源氏の嫡流たる武田信玄が、自ら幕府を開く」

 

 その言葉は、天命の宣告に等しかった。

 

 「織田信奈と天城刃さえ倒せば、日ノ本の平定に三年もかからぬ。この信玄にとって、真に手強い敵は上杉謙信ただ一人だ。だが、あやつもまた武田幕府が天下を鎮撫すれば、逆らうまい。あれは己の欲得よりも筋目、正義に殉じる男。天下泰平の理が立てば、必ず矛を収めよう」

 

 瞳を閉じて未来を描く信玄の横顔に、勘助はただ打たれたように震えていた。

 

 「その上で……京・近江を流浪しておられるであろう父上を、お迎えする」

 

 ――父を追放した少女が、ついに父を迎える未来を口にした。

 あまりにも大きすぎる言葉に、勘助の胸は激しく揺さぶられた。

 

 「とほうもなく大きくなられました……御屋形さま……!」

 

 勘助は震える声で絞り出したが、顔を上げることができなかった。背中が痙攣するように震え、額は畳に深く沈み込んでいた。

 

 「明日の一戦を――武田信玄としての総仕上げとしたい。軍師・山本勘助。必勝の策を出せ!」

 

 凜とした命令。

 しかし勘助は、うつむいたまま呟いた。

 

 「いや……川中島で上杉謙信に『啄木鳥』を破られたそれがしに、策など……」

 

 「よせ」

 

 信玄の一喝が広間に響く。

 

 「どうせ頭の中では策が出来上がっているのであろう? それが軍師という生き物の業だ。……お前が主君使いが荒いように、あたしも家臣を酷使するたちでな」

 

 その言葉に、勘助はゆっくりと顔をあげた。

 涙は乾き、隻眼は冷徹非情な軍師のそれへと戻っていた。

 

 「……『美濃の蝮』……いや、『岐阜の蝮』を討ち取る必勝の策。実はすでに勘助の頭の中にて完成しておりました」

 

 声は低く、だが確信に満ちていた。

 

 「ほう……また『啄木鳥』でいくのか? 木曾川を渡り、平野に陣を張り、別働隊を蝮の背後に差し向ける――」

 

 「御意にて、御意にあらず」

 

 勘助の口元に、闇の笑みが浮かんだ。

 

 「こたびの策は『啄木鳥・改』とでも申しましょう。川中島での敗戦を逆手に取り、戦上手な蝮の裏の裏をかく。さらには、蝮の泣き所を突く……ふっ、ふっ、ふふふっ」

 

 笑いが広間を這い、家臣たちの背筋に冷たいものを走らせた。

 

 「人が違ったような黒い笑みを浮かべおって。さしずめお前は戦の鬼だな」

 

 「さよう。御屋形さまを京へお連れするまでは、この勘助――鬼と化しまする」

 

 「……明日の戦が終われば、人に戻れ。妻でも娶るがいい。これは命令だぞ、勘助」

 

 唐突な命令に、勘助の隻眼がぎょろりと揺れた。

 

 「そ、それがし、妻などは、あいや……!」

 

 「ずざざざっ」と畳を滑るように広間の隅へ平伏したまま逃げようとして、見事に足をもつれさせて転がる勘助。

 

 その不格好な姿に、信玄は思わず噴き出した。

 

 「勘助。どうした、お前らしくもない。……酔っているのか?」

 

 「ち、近頃どうも……不意に頭がふらつくことがありましてな。歳でござりましょうな……」

 

 その言葉に、広間の空気が一瞬だけ和らいだ。

 

 

 

 

 

 

 十二月二十二日、夜。

 岐阜城は、かがり火を幾重にも焚き、山肌に赤々と炎を映していた。

 迫る武田の大軍を前に、守りは鉄壁を思わせるほど固められていたが、その堅牢さの裏には、誰もが戦を前にした張り詰めた不安を隠していた。

 

 その城門を、四騎の影が早馬で駆け抜けていった。

 相良良晴、天城刃、滝川一益、そして黄金の甲冑を纏ったジョバンナ。

 四人は信濃・三方ヶ原からの急報を携え、矢継ぎ早に馬を乗り継ぎ、やっとの思いで帰還してきたのである。

 

 彼らが導かれたのは本丸ではなく、山頂にある小さな草庵だった。

 かつて刃と良晴が鬼門の裏道を這い上がり、織田信奈が落としたこの岐阜城。

 だが城主である斎藤道三は、城の華美な殿舎ではなく、この草庵をこよなく愛していた。

 「天守」などという新奇な塔をそのうち築くつもりだと信奈は語っていたが、道三は山上の静寂を好み、毎夜のように茶の湯にふけっているという。

 

 ――そして、草庵の障子が静かに開かれた。

 

 良晴は、現れた道三の姿を見て、思わず息を呑んだ。

 つい先日まで、あの魔王のような迫力を放っていた老人が、今は見る影もなく痩せ細っていたからだ。

 頬はこけ、目の下には深い影が落ち、白髪はさらに増していた。

 

「爺さん……真冬に戦なんぞするから、風邪でもひいたんじゃねえのか? 顔色が悪いぜ?」

 

 良晴は、思わず口をついた。

 その声音には、珍しく心配の色が滲んでいた。

 

「なに、寄る年波には勝てぬということじゃ。……こほ、こほっ」

 

 咳を噛み殺しながらも、道三は笑った。

 だがその笑みには、かつての猛々しい毒気はなかった。

 老い――あるいは病が、彼の身体を確実に蝕んでいることを、四人は悟った。

 

 それでも道三は、ゆっくりと席に着くと、茶器を手に取り、湯を注いだ。

 草庵には、松の薪が燃える香りと、茶の湯が立ちのぼる静謐な音が満ちていた。

 外は戦の前夜のざわめきであるというのに、この小さな茶室だけは、まるで別世界のようだった。

 

「せっかく早馬を飛ばしてきてくれたところ悪いが――報告する必要はない。遠江での出来事は、すべて知っておる」

 

 茶碗を四人に差し出しながら、道三は笑った。

 

「織田家は追い詰められたのう」

 道三は茶碗を口に運び、湯気越しに四人を見やった。

「唯一の同盟国である三河の松平は脱落。武田信玄は電撃的な速度で犬山城に入り、この岐阜城をうかがっておる。今夜にでも合戦となるやもしれぬのう」

 

「まだ負けたわけじゃねえぜ、爺さん!」

 良晴が身を乗り出す。

「武田方の水軍は九鬼海賊衆が食い止めてる。補給線が絶たれたら武田は長期戦に持ち込めないはずだ。それに、刃が武田軍右翼を止めてたおかげで、一益ちゃんの手勢はほぼ無傷で残ってる。まもなくここ岐阜城に到着するはずだ!」

 

「……長期戦になどならぬ」

 道三の声音は低く、しかし鋭かった。

「武田信玄は北国の上杉謙信が雪で動けぬうちに上洛してしまう算段。今夜か、明日の早い時間のうちに、姉川あたりで信奈どのと浅井朝倉との決戦が行われるであろう。同時に武田本隊が岐阜城へ攻め寄せる。多勢に無勢。一益どのの援軍くらいでは、焼け石に水じゃ」

 

「この姫がわざわざ援軍を連れてきてやったというのに、愚痴っぽいお爺ちゃんじゃの」

 一益は膨れっ面でくすくす笑い、刃の胸元に寄りかかった。

 

「姉川なら大丈夫だ!」

 良晴が胸をどん、と叩く。

「ここだけの話、『姉川の合戦』の勝敗を俺は知ってるんだぜ。いいか爺さん。たしかに尾張兵は涙が出るほど弱い。そりゃもう、ありえないくらいに弱い。まともに浅井朝倉と正面からぶつかったら勝てっこねえ。しかしだな、『姉川の合戦』では徳川……おっと、松平軍がいい働きをするんだ! そのおかげで信奈は逆転勝利できるってわけさ! 問題は信玄のほうだ」

 

 ドウサンどのは、と歴戦の勇者のような顔つきでうなずく良晴の横で――。

 みたらし団子をもくもくと頰張るジョバンナ。

 そして、道三と刃、一益の三人が、同時に「?」と首を傾げていた。

 

「良晴どの、なにを言うておる。松平どのは姉川には合流できぬぞ。今頃は浜松城に残存兵を集めて青息吐息のはずじゃ」

 

「良晴、松平軍は三方ヶ原で壊滅したばかりだぞ。援軍どころか、立て直しもままならぬはずだ」

 

「そうじゃ、サル」

 一益はにやりと口角を上げ、刃の膝の上で指を組んだ。

「あれほどボロボロになってしもうた元康にさらに姉川への援軍を要請するなんて、鬼でも言えぬぞ? たぬき娘が絶望して浜名湖に身投げしてしまうではないか。そちは意外と冷酷な男なのじゃな。鬼よりも非道な男じゃな♪」

 

「いやいや、俺が知ってる歴史では……って、ああああっ!?」

 良晴は目をひん剥き、髪をかきむしった。

「そうだった! 三方ヶ原でボコボコにされた元康が姉川へ行けるはずがねええええ! この世界と俺が知ってる歴史とは微妙に違ってるんだった! ってことは、ってことは……やべえ! やべえよ!」

 

 ぶはっ!

 重大な錯誤に気づいた良晴は、お茶を盛大に噴き出した。

 

「……騎士の顔に、唾まみれの茶を吹きかけるとは」

 黄金の甲冑を濡らされたジョバンナが、眉を吊り上げる。

「やはりお前は失礼な男だ! 殺す」

 

「待て待て! 簡単に剣を抜くんじゃねえ! 今はそれどころじゃないんだ!」

 慌てて両手を振り回す良晴。

 だがその心中は、今までにないほど冷や汗でびっしょりだった。

 

 ――そう。良晴がこれまで比較的落ち着いていられたのは、「なんだかんだ言っても浅井朝倉と姉川で戦えば織田が勝つから」という歴史ゲー仕込みの未来を信じ込んでいたからだった。

 だが、その勝因は「徳川(松平)の援軍の活躍」によるもの……。

 

「やべえええ! ふはっぶはっぶはああああ~っ!」

 

「……熱い……汚い……穢らわしい……ワタシはもうお嫁に行けない……やはり殺す」

 ジョバンナが甲冑の袖をぬぐいながら、黄金の剣をきらりと抜いた。

 

「待て待て待て! 爺さん! 元康抜きじゃあ、『姉川の合戦』には勝てない! 信奈が、信奈が負けちまう! ああでも目の前に信玄の大軍が攻めて来てる、爺さんだって援軍どころじゃねえ! も、ももももしかして、ののの信奈の運命はここここまで──!」

 

 良晴は畳の上をゴロゴロと転がり、頭を抱えて悶絶する。

 「俺が勝千代ちゃんに“暗殺に注意しろ”なんて一言を漏らしていなければ……今頃信玄は種子島で撃たれて上洛を諦め……なんてことだああああ! まさか俺が、俺の軽口が歴史を狂わせて信奈を死地に追い込んだってのか!?」

 

 ゴロゴロゴロゴロ……。

 狭い草庵の畳の上を転げ回る姿は、まるで奇怪な妖怪のようだった。

 

「サルがとうとう壊れてしもうたの」

 一益は茶碗をくいっと傾け、くすくすと目を細めて笑った。

 

 道三は深く息を吐き、やや憐れむように良晴を見下ろした。

「気に病むことはない。戦に明け暮れてきた信玄は影武者を抱えておる。そなたが暗殺の可能性を示唆しようがすまいが、乱波などにはあの名将は殺せぬわい。多少、成り行きが変わったくらいのことじゃ」

 

「爺さんにそう言ってもらえるのはありがてぇが、しかし……」

 

「じゃが」

 道三は茶碗を置き、痩せた指先で卓を軽く叩いた。

「武田信玄は、そなたたちと出会ったことによって、いよいよ強くなってしもうたかもしれぬのう。あれはあれで、致命的な欠損を抱えておった娘じゃが……」

 

「ど、どういうことだ?」

 良晴が這いずるようににじり寄る。

 

「その話は後にしよう。まずは軍の話じゃ」

 道三は目を細め、一益を見やった。

「一益どのには、この蝮につきおうてもらおう。援軍は二千ほどかの」

 

「気は進まぬが、今さら伊勢へ逃げても信玄はいずれ追ってくるからのう。くすくす」

 一益は肩をすくめながらも、どこか楽しげに答えた。

 

「伊勢方面軍は海賊衆が主力と聞くが、陸での主力は鉄砲隊かな?」 と道三が問う。

 

「うむ。甲賀の衆は近江国友の鉄砲鍛冶の連中とも親しい。鉄砲を使わせれば、この姫は明智光秀なんぞには負けぬぞ。あんなでこっぱちのきんかん娘にはの」

 

「この蝮、頼りにしておるぞ」

 道三が愉快そうに笑えば、

 

「くす♪ もっと姫を褒めるのじゃ、お爺ちゃん」

 一益は得意満面で刃の膝に揺られて笑った。

 

 道三はひとつ咳をしてから、ことさらに厳しい口調で続けた。

「しからば人物評をひとつ。滝川一益どのは、たとえて言うなら百発の的のうち七十発を当てて鼻高々に自慢するお方。だが十兵衛光秀は、百発のうち九十九発を命中させるも、一発を外したことをいつまでも悔しがって気に病む武将じゃ」

 

「ぶーぶー。姫をぜんぜん褒めてないではないか!」

 

「いや、褒めておる。兵法では仕事も戦も七分の勝ちを以て理想とする。百の勝ちを求めることじたいが危険……こほっ、こほ……」

 

「……お爺ちゃん。だいじょうぶなのかの?」

 一益が心配そうに眉を寄せる。

 

道三は痩せた肩を震わせつつも、瞳だけはぎらりと冴えていた。

「……十兵衛光秀はワシの自慢の愛弟子じゃ。だが、百のうち一の過ちを自ら責め、苛むあの生真面目さだけが心配なのじゃ。特に刃どのに惹かれ始めてからは顕著じゃろう。刃どのは全てを当然のように百でこなす。隣に立つなら当然完璧でなければならぬ──と考えておるに違いない」

 

「……」

 刃はわずかに目を細め、だが黙って聞いていた。

 

「一益どののように適当なところもあるおおらかな人となりであればよいのじゃが。あの性格ではいずれ、天下統一の仕事そのものが重荷にならぬとも限らぬ」

 

「やっぱり褒められてないのじゃが!」

 一益は頬をふくらませてぷいっと横を向いたが、すぐに「えへん、姫はおおらかなのじゃ」と胸を張り、刃の肩にぐりぐりと頭を押しつけた。

 

「ふふん。あのきんかん娘も、姫のように広い海で暮らせば、少しは器がでかくなるかものう」

 一益はすっかりご機嫌を取り戻し、得意満面である。

 

「……じゃが、今は十兵衛を心配している余裕はないのう」

 道三は改めて声を低くし、刃と良晴を見据えた。

 

「天城刃どの、相良良晴どの。心してワシの言葉を聞かれよ」

 

 その声音は、咳に弱る老体のものではなかった。

 

「こほ、こほ……刃どの、良晴どの。ワシは肺の病でな。曲直瀬ベルショールに診てもろうたところ、いつお迎えが来てもおかしくないという。新年を迎えることは……もはやできぬじゃろう」

 

 刃は目を細め、無言で道三を見つめた。

 良晴も一益も、言葉を失った。

 たしかに急に痩せ細ってはいたが、まさか本当に──。

 

 みたらし団子を頬張っていたジョバンナが、ぽとりと串を皿に落とした。

 やがて彼女は膝を正し、日本式の正座で道三に向き直った。その異国の騎士が、死を前にした老人に礼を尽くす姿は、草庵の空気をいっそう厳粛なものに変えた。

 

「人はみな、いずれ必ず土へと還る。悲しむことではない」

 道三はかすれた声で続ける。

「ワシの寿命は、本来ならばすでに長良川で息子・義龍と戦ったあの時に尽きておったわ……。相良良晴どの、そなたも心のどこかで知っておったことであろう?」

 

「爺さん……」

 良晴の喉が詰まる。

 

 道三は咳をこらえながら、茶碗をそっと置いた。

「刃どの、良晴どの。そなたらのおかげで、ワシは良き夢を見られた。この岐阜の城下町にたいまつで描かれた“蝮”の絵……民が笑いながら蝮を掲げる光景を、この老いぼれに見せてくれた。見ることができぬはずの夢を、見ることができた……もう、じゅうぶんじゃ」

 

 茶の湯の湯気がふわりと立ちのぼり、月明かりと交わって薄い霞となる。

 痩せ衰えた「蝮」は、それでもなお眼光鋭く、未来を射抜くようなまなざしで三人を見つめていた。

 

「ワシは一益どのとともに、必ずや武田信玄の侵攻を阻んで時を稼いでみせる。そなたらにはこれより姉川へと向かってもらいたい。わがままを言って済まぬが、岐阜を動けぬワシの代わりに、今いちど信奈どのを救っていただきたい。信奈どのは、ワシの夢そのもの。ここで潰えてほしくはない」

 

 道三の言葉は、月明かりに透かされた吐息のように淡々としていた。

 

 良晴は拳を握りしめ、大きくうなずいた。

「爺さん、任せとけ! 絶対に信奈を死なせやしねえ!」

 

刃は返事こそしなかったが、纏う空気が肯定を示していた。

 

 一益もまた、道三の判断が最適であることを悟っていた。だが、理性がそう理解しても、心は叫んでいた。

 

 刃を姉川へ行かせる──。

 それは、刃が信奈の懐刀に戻ることを意味する。

 

 刃との主従関係はあくまで一時の仮初にすぎない。織田信奈の元へ戻るまで。その条件のもとで刃は一益に従ってくれたのだ。

 

(はっしーが姫の元を離れ、のぶなちゃんの元へ帰ることなど、分かっておったではないか……。なのに、なのに、姫は……!)

 

 三日。

 たった三日間。

 

 されど、その三日は一益にとって、何よりも長く、何よりも甘く、夢のような時間であった。

 

 移動は全て刃に任せ、食事も寝床も、気がつけば刃の膝の上。

 

怖ろしいほどに冷徹な剣士が、自分のことを抱き寄せ、庇い、甘えることを許してくれた。その膝のぬくもりに、海のように揺蕩いながら過ごした三日。

 

 今だって、刃の膝の上に凭れかかり、幼子のように目を細めている。

 だが──。

 

 そんな時間は、もう終わってしまうのだ。

 

 一益の胸の奥に、焼けるような痛みが走った。

 夢から覚めたくない。だが夢である以上、必ず終わりは訪れる。

 

 

「なにか……」

なにか信奈に言い残したことはねえのか、爺さん。

そう言おうとしたのに、声にならなかった。

 

腸の底から、止めようとしても否応なしにせり上がってくる嗚咽が、喉を締めつけた。

胸をかきむしられるような痛みに、言葉が崩れてしまった。

 

「姿をくらましたわが不肖の息子、義龍には……言いたいことが山ほどあるのだがな」

道三は静かに微笑した。その笑みは、これまでに見せた冷酷な蝮の顔ではなかった。

「信奈どのに伝えるべきことは、はて、あまり浮かばぬ。ただ一つ……岐阜への援軍は絶対に無用。必ず姉川で浅井朝倉を討ち取れと伝えてくれ。もしも長良川の時のように情に流されて援軍を出せば、せっかく摑みかけた天下を掌中から取り落とすことになる」

 

道三の瞳は、月光を映しながら真っ直ぐに光った。

「援軍をよこせば──問答無用で親子の縁を切ると、そう伝えていただきたい」

 

 良晴は首を振り、歯を食いしばった。

わかった、と言いたいのに、悲鳴のようなか細い声しか出せなかった。

涙が頬を伝い、声が震える。

 

「刃どの」

道三は今度は刃を見やった。

「わが愛弟子の十兵衛をくれぐれもよろしくな。あれはあれで手がかかる娘じゃが……そなたがついていてくれれば安心じゃ」

破顔一笑。かすれた声でありながら、その笑みは師が最愛の弟子に託す信頼そのものだった。

 

 刃は深くうなずき、言葉を返す代わりに紅い瞳で静かに誓いを示す。

 

「……刃、行こうぜ。信奈の元へ」

良晴が決意を込めて言ったその瞬間。

 

 一益の細い指先が、震えるように刃の袖をつかんでいた。

 それは掴むというより、縋る。まるで小舟が荒波に呑まれるのを恐れて必死にしがみつくような、幼い力だった。

 声にならない。けれど、その小さな震えははっきりと告げていた。

 ――「行かないで」。

 

 刃はしばし無言で彼女を見下ろしていた。

 紅い瞳に宿る光は、戦場で幾万を斬り捨てた冷徹な輝きではない。

 ただ、静かな慈しみだった。彼女の幼さも、甘えも、恐れも、すべてを包み込んで抱きしめるような。

 

「……良晴、先に行け」

低く、静かな声。

 

「刃!?」

驚きの声をあげる良晴。

 

「刃どの! 何を言っておるのだ!」

道三の声にも焦りが滲んでいた。

 

 刃は答えず、代わりに一益の身体をすっと抱き上げた。

 軽い。まるで羽のように。だが、彼女の小さな両腕は必死に刃の首へと回されている。

 甘えでも駄々でもなく、切実な願い。

 

「行かぬわけではない」

刃は静かに言い放った。

「早朝には岐阜を出る。それまでに、しておくべきことがある」

 

 その言葉は拒絶ではなく、約束のように響いた。

 刃はそう言い残し、草庵の戸を押し開ける。

 冬の夜気が流れ込み、冷たい風がふたりの髪を揺らした。

 

 紅い瞳の剣士と、その腕に抱かれる小さな姫武将。

 その背中を、良晴も、道三も、ジョバンナも黙って見送るしかなかった。

 

 

 草庵を出た刃は、腕に一益を抱いたまま、岐阜城の石段をゆっくりと上っていた。

 冬の夜風は鋭く冷たい。吐く息は白く煙り、すぐに闇に呑まれていく。

 けれど刃の胸に抱かれている小さな身体は、不思議なほどに温かかった。冷え込む夜気の中で、まるで刃の心臓に火を灯すかのように。

 

「……はっしー」

 胸元に顔を埋めたまま、小さな声がか細く吸い込まれていく。

 

「どうした」

 刃が視線を落とすと、一益の頬は夜の闇よりも赤く染まっていた。

 

「姫のこと……嫌いに、なったかの?」

 

 刃の歩みが一瞬止まる。

「何故そう思う」

 

「……この三日間、姫は……ずっと、わがままばかり言っておった。歩くのも、食べるのも、寝るのも、みんなはっしーに甘えて……膝の上から降りようとせなんだ。今も、こうして……」

 声が震え、言葉が尻すぼみになっていく。

「のぶなちゃんの元に帰るまで……それが条件じゃったのに。姫は……はっしーを縛りつけておっただけじゃ。鬱陶しいと思っておらぬか……?」

 

 その声音には、普段の小悪魔的な軽さは微塵もなかった。

 ただ、怖れていた。

 “甘えすぎた自分が、嫌われてしまうのではないか”と。

 “もう二度とこの腕に抱かれることはできないのではないか”と。

 

 刃の胸元にしがみつく小さな手は、震えながらも必死に掴もうとしていた。

 まるで今この瞬間でも、紅い瞳の剣士が自分を振りほどいて信奈のもとへ駆け去ってしまうのではないかと、そう怯えているかのように。

 

──

 

「俺はこの三日間──お前を鬱陶しいと思ったことは一度もない」

 

 その言葉に、一益の肩がびくりと震えた。

 胸元に隠していた顔が、恐る恐る、そろそろと刃を仰ぎ見る。

 

「……ほんとう、かの……?」

 

 冬の夜風が二人の間を抜け、銀の髪を揺らす。

 その下で、紅い瞳はただ静かに一益を映していた。

 そこには苛立ちも、拒絶も──欠片すらなかった。

 

「ああ。お前が幸せそうに笑ってくれれば、それでよかったからな」

 

 ぽつりと落ちた言葉は、刃にとっては何気ないものだった。

 だが、一益の胸を突き破るには十分すぎた。

 

「……はっ、はっしー……」

 

 小さな声が震え、次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出す。

 刃の胸元に顔を埋め、しがみつく腕に力がこもる。

 

「うっ……ひぐっ……姫は……姫は、ずっと怖かったのじゃ……。のぶなちゃんに……はっしーを、取られてしまうのが……! 姫のことなど、うるさいと嫌われて……離れていってしまうのが……!」

 

 泣きじゃくる声は幼子のように弱々しく、普段の小悪魔的な一益の姿はそこにはなかった。

 ただ、恋を知ってしまった少女が、どうしようもない嫉妬と不安に苛まれているだけだった。

 

 刃はその涙を拭おうとはしなかった。

 ただ黙って、強く、優しく抱きしめる。

 その紅い瞳には冷徹な死神の光はなく、ただひとりの少女を受け止める静かな温もりだけがあった。

 

 岐阜城の石段を登る二人の姿は、冬の月に照らされながら、まるで夢幻のように凍える夜気の中に浮かんでいた。

 

 

十二月二十三日 早朝。

 冬の夜が明け、東の空が白みはじめるころ。

 

 刃はまだ、泣き疲れて眠り込んだ一益を腕に抱いていた。

 小さな身体はすっかり丸まって、子猫のように刃の胸に寄り添っている。

 泣き腫らしたまぶたはうっすら赤く、頬には乾いた涙の跡がまだ残っていた。

 それでもその寝顔は、恐怖と不安からようやく解き放たれた少女のものだった。無邪気で、どこか幼く、ひどく愛おしい。

 

「行くのじゃな、刃どの」

 背後から低く、しかしはっきりとした声。

 

 振り向けば、蝮・斎藤道三が杖をついて立っていた。

 痩せこけた身体に冬の冷気をまとう姿は老いを隠せないが、その眼光はなお鋭く、戦国の梟雄の威を失ってはいなかった。

 

「道三か……そうだな。俺はもう行く」

 刃は一度、腕の中の一益を見やり、その寝顔を確かめるように目を細めた。

「一益と岐阜を頼んだぞ」

 

「ふむ」

 道三はわずかに口元をゆるめた。

「一益どのを泣かせるとは……天下一の女たらしも、罪深き男よのう」

 

 冗談めかした言葉。だがその声音には、どこか優しい響きがあった。

 

「……任せよ」

 道三はゆっくりと歩み寄り、震える手で一益の髪をなでた。

「わしはたとえ命尽きようとも、この岐阜と一益どのを死守しよう。武田信玄の牙を、この老いさらばえた蝮が噛み砕いてやるわ」

 

「感謝する」

 刃は深く一礼し、眠る一益をそっと道三の腕に預けた。

 

 その瞬間、小さな指先が名残惜しげに刃の袖を探り、弱々しくきゅっと握りしめた。

 夢の中でさえ、離れまいとするかのように。

 

 刃の胸に痛みが走る。だが、振り返ることはしなかった。

 

「行け、刃どの」

 道三の声が背を押す。

「信奈どのを救え。そなたにしかできぬ」

 

 刃は無言でうなずくと、踵を返した。

 冬の暁を裂くように、銀の髪が翻る。

 その背を、一益の小さな寝息と、道三の鋭い眼光が見送っていた。

 

 

 

 

 

 

十二月二十三日 刃が岐阜を出る一刻前

冬の夜明け前の冷気を裂き、良晴の馬が姉川本陣へと駆け込んだ。

 

だが実際に手綱を握っていたのは良晴ではなく、少年宣教師オルガンティノだった。

「ぜひフロイスさまに合流したいのです」と自ら願い出た彼は、イタリア貴族の出であり、馬術の腕は見事なものだった。良晴も多少は乗りこなせるようになっていたが、今回は一刻を争う。刃がいない今、わずかな遅れすら命取りになる――そう思えば、ためらう余地はなかった。

 

姉川は北近江を流れる中規模の川。その向こうには浅井長政の小谷城がそびえ、そこに越前の朝倉義景が全軍で加勢していた。

織田信奈にとって、もはや攻める余裕などなかった。姉川を防衛線とし、この川を死守することこそが唯一の選択肢だったのだ。

 

そして本陣。

南蛮甲冑に身を包んだ信奈が、指揮座に腰を下ろしていた。

その姿は勇ましい。だが、その目は真っ赤に充血していた。

 

――眠っていない。

良晴は直感した。

いや、正確には「刃を伊勢へ送り出してから」一睡もしていないのだろう。

 

浅井長政の裏切り。

弟・信澄の帰参に潜む傷心。

意外にも全軍を動員してきた朝倉義景の猛攻。

三方ヶ原で戦国最強の武田信玄に粉砕された松平元康。

そして岐阜で孤軍奮闘しようとしている斎藤道三。

 

常人なら心を折られるに十分な重圧を、信奈はただ一人で背負っていた。

その細い肩で。

――刃の不在を噛み締めながら。

 

「ずいぶん時間がかかったじゃないの、サル!」

怒気をはらんだ声が飛ぶ。

けれど、その奥に潜むのは焦燥と渇望だった。

 

「いけしゃあしゃあとわたしのもとに戻ってきたということは――刃が左近を動かしたってことでいいのよね?」

 

 相変わらず、開口一番、憎まれ口を叩いてくる信奈。

 だがその声音の奥には、刃の消息を気にしてならない焦燥が滲んでいた。

 

 信奈の隣には、虎皮の帽子を被った犬千代がただ一人、無言で仕えていた。

 すでに武田信玄が三方ヶ原で松平元康を粉砕し、その本軍が岐阜城を脅かしているのは周知の事実。

 浅井・朝倉の大軍が夜明けとともに姉川を渡るのは必至の情勢で、戦端はすぐそこに迫っていた。

 

 柴田勝家、丹羽長秀、松永久秀らはすでにそれぞれの陣に布陣を済ませ、兵たちは緊張に息を呑んでいる。

 冷たい冬の川霧が立ちこめる姉川の南岸に、織田軍本陣だけが不気味な静けさを保っていた。

 

「えーと……信奈? こんな切羽詰まった時になんだが、十兵衛ちゃんは?」

 場違いなような問いを口にする良晴。

 

「ああ」

 信奈は眉一つ動かさず答えた。

「刃を追放してからすぐに、十兵衛の件はあの子の早とちりだったと判明したわ。まさか刃のほうが被害者だったなんてね」

 

「ちょっと調べれば分かることだっただろ!?」

「うるさいわね!」

 信奈が一喝する。だがその頬には、寝不足の影が濃く刻まれていた。

 

「左近の件はどうなったの?」

苛立つ声で信奈が問い詰める。

 

 良晴は息をつき、言葉を選んだ。

「……まあ、もう知ってるだろうけど、一応報告してやらあ。滝川一益ちゃんの手下の海賊どもが、武田水軍の西進を阻んでくれてる。一益ちゃん自身は陸兵を率いて岐阜の道三に加勢中だ」

 

「さすが刃ね。帰参を渋っていた左近を、たった数日で動かすなんて」

 信奈の声音は冷ややかでありながら、どこか誇らしげでもあった。

 だがすぐに、視線が鋭く突き刺さる。

 

「ところで――刃はどこにいるのかしら?」

 南蛮甲冑の面頬の奥、赤く充血した瞳が細められる。

 その問いは、軍勢の進退を問うよりも切実で、熱を帯びていた。

 

「伊勢に左遷した刃を追っかけてったあんたが、こうして戻って来たんだもの。……当然、連れてきてるんでしょう?」

 

 良晴は、ひゅっと喉を鳴らした。

「あー、その、刃も最初は俺と来るつもりだったんだが、一益ちゃんが離れたくないって刃の袖を掴んでさ。そんで、仕方なくちょっと遅れて……」

 

「は?」

 信奈の声が、一瞬で氷の刃のように鋭くなる。

 

「え、えっとな! ほら、一益ちゃんってさ、結構寂しがり屋だったぽくて、この三日間四六時中、刃にべったりだったらしくてな。寝るのも刃の膝の上とか、移動中もお姫様抱っこされてて……」

 

「つまり……」

 信奈の頬がぴくぴくと震え、目が吊り上がる。

「……あの超鈍感女たらしは、この数日で左近を落としたってわけね。まったく、何人落とせば気が済むのかしら?」

 

 呆れながらため息をつく信奈。

 隣で犬千代がぽつりと口を開いた。

 

「……刃だから、仕方ない」

 

「犬千代、貴女は苛つかないの?」

 信奈が苛立ちを隠さず問いかける。

 

「……苛つく」

 犬千代はほんの一瞬だけ視線を落とし、しかしすぐに顔を上げた。

「でも、刃は犬千代のことも……しっかり愛してくれてる。犬千代は、ただ…ずっと…そばにいられれば、それでいい」

 

小さな声に、信奈の胸がちくりと痛んだ。まるで、自分が望みすぎだと言われたような気がした。

 

「お、おい! 喧嘩すんなよ!?」

 良晴が慌てて両手を振る。

「刃が女たらしなのは、今に始まったことじゃないだろ? 恋人が四人もいるのに、まだ惚れてる女の子が七人もいるんだからな!」

 

「……それもそうね」

 信奈は小さく鼻を鳴らした。

「苛つくけど、いちいち目くじら立ててたら本気で愛想を尽かされちゃうかもだし」

 

 ようやく少しだけ空気が和らぐ。が、次の瞬間――。

 

「ところでサル」

 信奈が顎をしゃくった。

「隣の河童はなに? どこで捕獲してきたの? さっきから気になっていたのよね」

 

信奈は好奇心まんまんで、良晴の隣に頭を下げていたオルガンティノの宣教師帽子に、ぱっと手を伸ばした。

 

「オーウ? なななな何をなさるのですか、ノブナさま!?」

 

「なにこのお皿、なかなか外れないわね! 頭にくっついてるのかしら?」

 

「待てよ信奈! こいつは河童じゃねぇよ! 宣教師のオルガンティノだ! フロイスちゃんの後輩だっつーんで、わざわざ来てもらったんだ! つーか早馬を飛ばしてもらったんだぞ!」

 

「はあ、宣教師ぃ? どこから連れて来たのよ。この忙しい時に」

 良晴に邪魔された信奈は、つまらなそうに舌打ちして床几に座り直した。

 

「ちっ。頭の皿を取り上げたら干からびるのかどうか試してみたかったのに。干からびちゃったら、煮込もうと思ったのに」

 

「どどどどど、どきどきどき……ヨ、ヨシハルさん! ううう噂どおり、ノブナさまはおそろしいお方です。ぼぼぼ、ボクを煮込みたいだなんて!」

 

「気にするなオルガンティノ。信奈はこういうねじくれた奴なんだ。悪気はねえ。ただの悪癖だ」

 

「おおお女の子にあまり接近されると、ボクはこう、罪悪感でいっぱいになって心が苦しくなって、はあはあはあ……。あああ、早く教会にこもって懺悔しなければなりません」

 

「罪悪感を感じなければならないほど、信奈は巨乳じゃないから安心しろ!」

 

「サル、わたしの胸が小さいですってぇ!?」

 信奈の目が吊り上がる。今にも刀を抜きそうな勢いだったが、すんでのところで机を指さした。

「とにかく! ふざけてる暇はないわ。戦況を説明する!」

 

 その一言で、場の空気がきりりと張り詰めた。

 

 犬千代がすっと机の上に地図を広げる。

「……姉川の北岸に、敵兵がひしめいている」

 

 良晴とオルガンティノの視線が地図に釘付けになる。墨で描かれた川と山々の輪郭の上に、朱の印がびっしりと並んでいた。

 

「浅井長政の軍一万五千が東側に。そして、朝倉義景の軍二万が西側に展開しているわ」

 信奈の声は落ち着いていたが、その瞳は怒りと緊張で鋭く燃えていた。

「対するわたしの軍は南岸に二万。兵数だけ見れば互角どころか劣勢。だからこそ、十三段の深い縦陣を敷き、まず浅井の突撃を呑み込む。敵を姉川へ押し返し、川を渡らせないことで時間を稼ぐつもりなの」

 

「──十三段?」

 良晴が身を乗り出す。

「縦に長く延ばして守るのはいいが、朝倉の二万が押し寄せてきたら横を突かれて一気に崩れるぞ! 正直、この兵数じゃ足りない」

 

「ふん。刃とあんたの軍団はそのまま手つかずで残してあるわ。前から数えて三段目の陣が刃とサルの軍団よ」

 

「俺が知っている『姉川の合戦』とは、かなり違う事態になっているな。 『織田信長公の野望』の姉川イベントでは、織田軍のほうが数の上で勝っていたはずだったのに……」

 

良晴は奥歯を噛みしめる。

そう。あのゲームの姉川イベントでは、浅井長政軍と衝突した織田軍はさんざんにやられてしまうが、徳川家康(松平元康)の援軍が朝倉勢を総崩れに追い込み、逆転勝利するはずだった。

 

脳裏に、三方ヶ原の惨状がよぎる。血に塗れた敗残兵、討ち死にした名だたる将、青ざめた元康の顔。

 三方ヶ原で木っ端微塵に敗北したばかりの松平軍に、援軍を期待するのは無謀にもほどがあった。

 

「これじゃ……織田軍は兵力に勝る浅井・朝倉を同時に相手取るしかねえ……!」

胸の奥に冷たい汗が流れるのを感じながら、良晴は信奈を睨む。

 

「待てよ信奈。まさか朝倉義景自身が出陣しているのか?」

 

「ええ」

信奈は鼻で笑い、背筋をぴんと伸ばした。

「この戦に完勝して、わたしを捕らえて一乗谷へ連れて帰るつもりらしいわ。あちこちでそう言いふらしているらしいの。──イヤだわ、さぶいぼが立ってきちゃった」

 

 その声音には侮蔑が混じっていたが、細い腕の皮膚にうっすら浮かんだ粟立ちが、彼女の緊張を隠し切れていなかった。

 

「ちくしょう……その分、朝倉勢が多いんだな」

良晴は唾を吐き捨てるように言った。

「お前が変質者好みする中途半端な“顔だけ美少女”なのが原因だな、これは」

 

「冗談は顔だけにしてちょうだい」

信奈がきりっと眉を吊り上げ、鋭い視線を突き刺す。

 

 良晴は一瞬ひるんだが、すぐに頭を振って問い詰める。

「それにしても、どうして野戦なんかに持ち込んだんだ? 互いに正面衝突するしかない平地での野戦じゃ、兵の数が勝敗を決めちまうのは常識だろ! 籠城して時間を稼ぐのが常道だ。刃もいねえんだぞ! ここで無理をすれば──」

 

 言葉の続きは、喉の奥で潰えた。

 信奈の瞳が、じれるように細められていたからだ。

 まるで「黙って見ていなさい」とでも言うかのように。

 強気な光の奥に、焦燥と覚悟が渦巻いている。

 

 良晴はぞくりと背筋を震わせた。

 

「それでサル、岐阜の戦況は? 蝮からなにかことづてをもってきたんじゃないの?」

 

「……あ、ああ。もってきたが……」

 

 良晴の声がわずかに震えた。信奈はその様子に気づくこともなく、身を乗り出す。

「岐阜へ援軍を割く準備はできているわ。刃とあんたの軍団を岐阜戦線に投入すれば、だいぶマシになるでしょ。半兵衛もいるしね。それに刃もこっちに向かって来てるはず。刃さえ合流すればこっちはなんとかなるから……」

 

 その瞳は、期待と希望の光で燃えていた。

 だが良晴は、断腸の思いで「待て」と制止した。

 

 信奈の動きが止まる。まるで心臓を掴まれたかのように。

 

 良晴は深く息を吸い込み、重く、重く吐き出した。

「……爺さんからの言葉だ。よく聞けよ、信奈」

 

 茶室の空気が一瞬で張りつめる。

「ひとつ──岐阜への援軍は絶対に無用。必ず姉川で浅井朝倉を討ち取れ」

「ふたつ──長良川の時のように情に流されて援軍を出せば、せっかく摑みかけた天下を掌中から取り落とす」

「みっつ──援軍をよこせば、問答無用で親子の縁を切る」

 

 その瞬間、信奈の頬が怒りに染まった。

「……なんですって?」

 

 細い肩がわなわなと震える。

 怒りとも、悲しみともつかぬ感情に、彼女の胸が波打っているのがわかった。

 

 良晴は思わず拳を握りしめた。

(言えねえ……! 今ここで“斎藤道三はもう長くねえ”なんて口にしたら……!)

 

 信奈の心は、すでに限界ぎりぎりで張り詰めている。

 刃という心の拠り所も、今は傍にいない。

 そんな時に、あの蝮が病に蝕まれ、いつ死んでもおかしくないと知れば──。

 

 闘志を燃やして最後まで戦い抜こうとしている信奈の心を、粉々に砕きかねない。

 

(そうだ。ここで俺が黙っていれば信奈は知るよしもねえこと。そもそも、半兵衛ちゃんや金ヶ崎のしんがりをやり通した腕自慢の野郎どもを擁する刃と俺の軍団を姉川の戦線から引き抜いて今から岐阜へ行かせるなんて、完全に自殺行為だぜ!

ただでさえ兵力が足りてねえ、刃もいつ合流できるか分からねえんだ!そんなことをすれば信奈自身が滅びちまう!野戦を選んだのも、はやく蝮に援軍を出したい一心からだ。信奈は蝮を心配しすぎて、焦りすぎて、目の前の戦に集中できてねえんだ。籠城していれば、越前の朝倉義景はいずれ雪を気にして撤退せざるを得なくなるというのに。なのに、野戦なら半日もあれば片がつくからって──浅井朝倉連合軍がとんでもねぇ強敵だということを忘れている。だったらここは黙り抜いて、この俺が信奈に恨まれればいい)

 

良晴は、覚悟した。このあと、死ぬまで信奈に恨まれ続けることになろうとも。

こんな自分を信じて、先に行けと言った親友のためにも、ここで信奈を討ち死にさせるわけには、いかなかった。

 

「……良晴。顔色が真っ青。だいじょうぶ?」

犬千代が心配そうに覗き込んできた。彼女の大きな瞳は、戦場を前にしてもなお澄んでいて、その分だけ良晴の胸を痛ませた。

 

「お、おう。ちょっと疲れてるだけだ、犬千代」

言い訳めいた言葉を吐くと、犬千代はなおも不安そうに視線をそらさなかった。

 

そのやり取りを見ていた信奈が、じろりと疑念の光を宿した目を良晴に向けた。

「……なんだか態度が妙ね。わたしに、なにか隠してない?」

 

その追及を振り切る間もなく――。

 

天地を揺るがす鬨の声が、大地を震わせた。

まるで姉川そのものが怒り狂い、地鳴りを上げて吠えているかのように。

 

背中に矢を刺したまま物見の兵が本陣へ飛び込み、血の気の失せた顔で叫んだ。

「太陽が……昇りはじめました! 日の光を浴びた浅井・朝倉連合軍、いっせいに姉川を渡って襲いかかってきました!」

 

信奈の目が鋭く光る。

「デアルカ……! 姉川で手間取っている場合じゃないわ。すぐに終わらせるのよ! 十三段の陣の奥まで敵を誘い込んで、一気に逆襲するの!」

 

その声は震えていなかった。疲労と不眠で赤く充血した目をしていながらも、織田信奈は堂々と前を見据えていた。

 

「……良晴。はやく自分の陣へ。みんな、良晴の帰りを待っている」

犬千代が真剣な表情で促す。

 

「わかった、犬千代!」

良晴は勢いよく頷くと、振り返ってオルガンティノに声を張り上げた。

「オルガンティノ! 戦に巻き込んじまって悪いが、馬を飛ばしてくれ!」

 

宣教師の少年は十字を切り、固くうなずいた。

「了解です。主よ……この戦がどうか終わりますように。無辜の命が、ひとつでも多く救われますように」

 

その祈りの言葉と同時に、姉川の空に朝日が差し込む。

矢の雨が火線のように飛び交い、鬨の声が咆哮となって大地を震わせた。

 

──こうして、世に名高き「姉川の合戦」が幕を開けたのである。

 

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