織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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タイトル考えるの難しい


死神  ー揺らぐ刃ー

刃が出奔して、一週間が過ぎた。

 ざあ、と風が梢を揺らす。

 山間の庵に、風が刺すような冷たさを連れてくる。

 粗末な板戸の隙間から、ひゅう、と細い風が忍び込み、囲炉裏の火をかすかに揺らした。

 刃は、その火の傍らに静かに正座していた。

 着古した袴の裾には煤が染みつき、旅装のまま一日を終えた疲れが背にのしかかる。

 手にするのは、木の枝を削っただけの簡素な箸。

 粘りのない山菜粥を、一口、また一口と、無言で運ぶ。

 口に入れても、味はほとんど分からなかった。

 

「……味がしないな」

 

 誰に向けるでもなく、ぽつりと呟く。

 だがその声には、確かに“誰か”がまだここにいるかのような、淡い期待が滲んでいた。

 

 庵の隅――壁際には、包みが一つ置かれている。

 犬千代に渡すはずだった、もう一着の小袖の反物。

 あの日、うこぎ長屋に置いてきたはずが、気づけば自らの荷に紛れていた。

 

 きっと未練が、手を伸ばさせたのだ。

 

「……似合うと思ったんだがな」

 

 今はもう、渡す宛のない贈り物。

 誰に聞かせるでもなく、また呟いた。

 

 ふと――

 脳裏に浮かんだのは、信奈の泣きそうな横顔だった。

 嗚咽を押し殺すように肩を震わせ、目を潤ませて叫んだあの瞬間が、まざまざと蘇る。

 

 出奔が正しかったのか。

 その問いに、今も刃は答えを持たない。

 

 だが一つだけ確信している。

 主君に自分の過ちを斬らせることなど、決してあってはならなかった。

 あの手は、血に染めてはならなかった。 

信奈を守るために、自分が消えるしかなかったのだ。

 信勝の矛先が、これ以上あの光を曇らせぬように――。

 

昼は畑を耕し、木を伐り、薪を束ねて売って日銭を得る。

 金に困るたび、他の大名に仕えれば楽だという声が脳裏をよぎるが――

 刃は、自分の剣は信奈や犬千代、良晴達守るべき者のためだけにあると決めていた。

 

 信奈以外に仕える気は、これっぽっちもなかった。

 戦場に立って命を売るような生き方も、選ばなかった。

 

 夜になると、刃は囲炉裏の灰を整え、庵の外に出る。

 静かな森の縁で、手製の木剣を握り、黙々と型を振る。

 鋭く、静かに、空を斬るような動き――

 誰にも見せることのない、誓いの舞だった。

 

 名を隠し、剣を封じ、ただの百姓として息を潜めて生きる。

 それが、天城刃の今だった。

 

 けれど――

 

(……いつか、必ず。姫様のもとへ)

 

 胸の奥に灯された願いは、風にも寒さにも揺らぐことはない。

 ただ、静かに。

 刃はその日が来るまで、己を磨き続けていた。 

 

そして――

 

 出奔から一月が過ぎたある日。

 山の麓、静かな村の市で、刃はいつものように束ねた薪を売っていた。村人たちの声にはどこかざわついた不安が混じっていた。

 

「兄ちゃん、聞いたかい。斎藤の国が荒れてるってよ」

 

 通りすがりの中年男の言葉に、薪を手渡していた刃の耳がぴくりと反応した。

 

「斎藤……?」

 

「おうよ、美濃の話さ。あの斎藤道三の息子――義龍って奴が、親父に謀反を起こしたってな。

 稲葉山城を追い出した上に、今は長良川で軍勢をぶつけ合ってるとか……いやはや、親子で戦さとは世も末だな」

 

 まるで他人事のような口ぶりで笑う男に、刃はうなずきながらも、その言葉に内心で息を呑んだ。

 

(……道三が、追われた?)

 

 心臓の奥に、冷たい石を落とされたような感覚。

 木漏れ日の下に立っているはずなのに、刃の全身から血の気が引いていくのがわかった。

 

(まずいな……姫様は身内への思いやりが強いお方だ。

 父君として慕っていた道三が窮地にあると知れば――必ず援軍を送ろうとする)

 

 その優しさが、今は恐ろしいほど危ういものに思えた。

 

(けれど今は、今川義元が動こうとしている。尾張の守りを手薄にすれば、たちまち喉元を裂かれる。

 ……姫様が、美濃に向かえば――)

 

 そこまで考えた瞬間、刃の背筋を雷が貫いたかのような恐怖が襲った。

 

(――最悪、姫様が死ぬ)

 

 その想像に、刃の喉がひゅっと詰まり、立ちくらみを起こしかけた。

 

 血の気が引いた頬に、冷たい風が吹き抜ける。それはまるで刃を責めるかのように鋭かった。

 

(……行かねば。道三ではない。姫様のために、今、俺が動く時だ)

 

 迷いはなかった。いや、もう迷っている時間などなかった。

 誰が何と言おうと、刃の剣はただ一人の主君――織田信奈のためにある。

 あの光を、暗闇に呑ませはしない。

 

「ありがとな、おっちゃん」

 

 男の呼びかけに、短くそう答えて刃は薪を地面に置いた。

 代金も受け取らず、そのまま踵を返す。

 

 すれ違いざま、男が驚いたように声をかけた。

 

「お、おい兄ちゃん、銭を――!」

 

 だがその声は、もう刃の背には届いていなかった。

 風を切るように、山道を駆け上がる刃の瞳は――もう、ひとつの未来しか見ていなかった。

 

(必ず、間に合ってみせる。姫様……)

 

 一方そのころ――

 お家騒動が終結し、織田家がようやく一つにまとまり始めた今。

 

 信奈が真っ先に命じたのは、「天城刃の行方を探せ」という指令だった。

 彼女はあくまで平然を装っていたが、その裏では城下に密偵を走らせ、あらゆる伝手を辿って足取りを追わせていた。

 

 そんなある日。

 

「……ほんとうなの?」

 

 信奈が問いかけた相手は、報告を携えて戻ってきた相良良晴だった。

 彼は珍しく真剣な顔で頷いた。

 

「ああ。間違いない。美濃じゃ斎藤道三と義龍が親子で戦争を始めた。今は長良川で真っ向勝負だ。

 でもな信奈……援軍は、出すな。

 美濃に兵を送れば、尾張ががら空きになる。今川義元がいつ動き出してもおかしくねえ状況だ」

 

「ええ。分かってるわよ」

 信奈は腕を組み、揺らぐことなく言い切った。

 

「駿河の今川義元は、すでに尾張の隙を狙っている。こんな時に、美濃に兵を出すなんて愚の骨頂。

 出すわけないじゃない、このわたしが」

 

「──えええっ!? 出さないのかっ?」

 思わず大声を上げる良晴。

 

 信奈は、何のことはないという顔で肩をすくめる。

 

「あんたが“出すな”って言ったんじゃない。

 わたしは徹頭徹尾、合理主義者なのよ。損得で考えれば誰にだって分かるわ。

 美濃の国主じゃなくなった“蝮”には、もはや利用価値がない。……このまま、見捨てましょう」

 

 けろりとしたその一言に、良晴は言葉を失った。

 

(お、おい……マジかよ。こいつ、冷たすぎるんじゃねえか……?)

 

「六、サル。聞きなさい」

 

 信奈がくるりと背を向け、机の引き出しから一枚の巻紙を取り出した。

 見覚えのあるそれは、道三が信奈に残したあの文――「美濃譲り状」だった。

 

「“蝮”が死んでも、これさえあれば美濃を攻める大義名分が残る。

 だから焦る必要はないわ」

 

「……もしかして、“美濃はやっぱり譲らないよ〜ん”とか書いてあったらどうするんだよ、あのエロ爺さん」

 

「ただの事務的な書状でしょ。気にするだけ無駄よ」

 

「え、えっと……あたし、漢字が苦手で何が書いてあるかよくわかりませーん……! うああああ! バカだ! あたしはバカだったああああ!

 でもサルもどうせ読めないから、同類だし気にしない!」

 

「残念だったな、勝家。俺は……読める」

 

「うああああああっ!? うそっ!? あたしの知能、サル以下だったのっ!?」

 

 左右から交差する漫才のような応酬のなか――

 信奈は黙ったまま、譲り状を広げていた。

 

 そして――

 

 その肩が、じわじわと小刻みに震えはじめた。

 

「……信奈?」

 

乱世の梟雄。美濃の蝮――斎藤道三。

 

若き日は僧であったとも言われ、のちに京で油売りとして名を上げた男。

商いで得た財をもとに美濃に入り込み、侍となってからは、次々と主君を追い落とし、

悪辣のかぎりを尽くして出世を続けた。

やがて一介の油売りから、ついには美濃一国の主――国主の座にまで上り詰めた、大悪人。

 

敵からも、家臣からも「蝮」と呼ばれ、忌み嫌われ、恐れられてきた男だった。

 

だが――

 

その道三が遺した譲り状の文面は、まるで別人が筆を取ったかのようだった。

 

『「信奈どののことを、実の娘のように愛おしく思っておる。

わしの生涯は、もはや天下統一の夢の途中で朽ち果てようとしているが……

信奈どのに出会えて、己の夢にまだ続きがあったのだと知った。

国盗りに賭けたこの人生が、徒労ではなかったと思える。

これほどの幸福が他にあるだろうか」

 

「許されるのなら、わしが半生をかけて丹精し築き上げた美濃の国を、信奈どのに進呈したい。

そなたに、わしの軍略と政略のすべてを授け、天下統一の夢を陰から支えていけたなら――

そのような余生を、静かに過ごしてみたいとさえ思ったのだ」

 

「だが、十中八九、美濃には異変が起こるであろう。

その時は――この年老いた道三のことなど、すべて忘れよ。

援軍など決して出してはならぬ。

感情に流されれば、そなたも滅びる。

天下を志す者として、己の手で、美濃を切り取るのだ」

 

「この道三の娘を名乗るのであれば――

天下の夢を継ぐ者であると自負するのであれば――

そなたは冷徹でなければならぬ」

 

「ただ、わが愛娘の帰蝶を妹としていつくしんでいただければそれだけでよい」

 

「わしは老いた。そして、人は皆、いずれ死ぬ。別れは必ず訪れる。

だがな……

わしは潰えかけていた夢の続きを、そなたに見た。

誰にも志を理解されぬまま、ただの悪人として終わるはずだったわしの魂は、

今、ようやく――救われたのだ」

 

「これで、よい。

わしは――冥府へと参る」』

 

 信奈が、震える手で譲り状を読み終えた――その瞬間だった。

 

小姓が駆けつけてきて、

「美濃より、斎藤家の姫が落ち延びて参られました」と口早に告げた。

 

乳母らしき老女が、信奈の足下に伏して一礼する。

「約束の妹をお送りする、重ねて援軍は無用、と道三よりことづてを預かって参りました」  

 

 その言葉を聞いた瞬間、信奈の肩がビクリと震えた。

 

 譲り状に綴られた魂の遺言。

 その直後に届けられた、最後の贈り物。

 

 仮面が――崩れ落ちた。

 

 織田の魔王、織田信奈は、一瞬でただの少女へと戻っていた。

 

 嗚咽にも満たない、かすれた悲鳴が彼女の喉から漏れた。

 その場に崩れ落ちる寸前、身体の奥底から湧き上がる慟哭を必死にこらえながら、震える声で叫ぶ。

 

「は、刃……っ、は……いない。ぜ、ぜ、ぜん……っ、ぜんぐんっ……ぜんぐんでっ……!」

 

 真っ先に刃の名を呼びかけていた。無意識のうちに、彼を頼ろうとしていた。だが、刃はいない。――だったら、自分が行くしかない。

 だったら、この軍すべてを動かしてでも、美濃へ駆けつけるしかない!

 

 そんな焦燥と衝動に突き動かされるように、信奈は声を張り上げかけた。

 

「全軍で……っ、美濃へっ……!」

 

 その瞬間だった。

 

「──御免っ!」

 

 勝家が、躊躇なく信奈の脇腹に拳を叩き込んでいた。

 

 華奢な体は衝撃に耐えきれず、信奈はそのまま力なく気を失い、勝家の腕の中に崩れ落ちた。

 

「勝家っ!? なにしてんだよっ!」

 

 良晴が思わず叫び、勝家に詰め寄る。

 

「サル……道三の言葉、忘れたのか? 援軍を出せば尾張が落ちる。今川義元がすぐそこにいるんだよっ!」

 

「だからってっ……だからって、信奈を殴って気絶させて、目が覚めたら『もう道三は死にました』って報告するつもりかよっ!?」

 

「……そうだよっ! 他にどうすればいいっていうのさ!?」

 

「軍団なんて要らねえ! 少数精鋭でいい! 決死隊を出して、道三を救う!」

 

「……それも考えた。でも、あたしは尾張を動けない……! 今川を見張るのが、あたしの役目なんだよ! 他に誰が率いて成功するっていうのさっ!?」

 

「……確かに。お前が抜けたら、織田軍は烏合の衆だ……だからこそだよ」

 

 良晴が一歩前に出て、拳を握りしめた。

 

「だったら俺が行く! 俺が、決死隊を率いて美濃へ行く!」

 

「な……何を言ってるんだ、お前……!?」

 

「俺が死んでも、織田家には何の影響もねぇ。武功もなければ、名もない。だけど――」

 

 その目には、決して揺らがない強い意志が宿っていた。

 

「これは俺のわがままだ。信奈のために、道三のために、俺が行きたいんだよ」

 

 勝家が絶句した。

 思わず、信奈の代わりに怒鳴りつけるつもりだったが、言葉が出なかった。

 

「……お前、そこまでの覚悟がある奴だったんだな」

 

「勝家、信奈が目を覚ましたら伝えてくれ。

 “サルは、天下一の美少女を探すと言って出奔しました”ってな」

 

 そして良晴は、一人の名もなき決死隊を組織する。

五右衛門と五右衛門が率いている川賊集団、「川並衆」の男たちを連れ相良良晴は、美濃――長良川の戦場へと向かっていった。

 

 

 

 

 刃が長良川の川岸にたどり着いたとき――

 眼前に広がっていたのは、血と火と怒号に満ちた地獄絵図だった。

 

 浅瀬のあちこちでは、すでに斎藤義龍軍と道三軍の激しい白兵戦が繰り広げられている。

 しかし、兵力差は歴然だった。道三の軍勢はすでに瓦解寸前、本陣をかろうじて守るわずかな手勢が孤立し、押し寄せる義龍軍に包囲されつつある。

 

 「……間に合った、――!」

 

 刃は腰の刀に手をかけ、鞘走りの音とともに一閃。

 次の瞬間、躊躇なく戦場へと駆け出した。

 

泥濘んだ浅瀬を蹴り、怒号の渦中へ飛び込んでいく。

 狙いはただ一つ――

 斎藤道三の本陣を死守し、彼をこの修羅場から救い出すこと。

 

刃の赤色の瞳に、火の粉を浴びたような激情が宿る。

 腰の刀に手をかける。鞘走り――鋼の擦れる鋭い音が、怒号と悲鳴の混じる戦場に小さな雷鳴のように響いた。

 

 ――その刹那。

 

 刃の体は矢のように前へと放たれた。

 泥濘んだ浅瀬を力強く蹴り、水飛沫を巻き上げながら、修羅と化した戦場へと疾駆する。

 

 「邪魔だ」

 

 最前線の義龍軍の兵が一人、刃の突進を察知して槍を構える――が、遅い。

 一閃。銀の軌跡が閃き、槍の穂先もろとも兵士の胸元が真横に断たれる。

 

 兵の絶命と同時に、刃は回転するように身を翻し、二人目の斬撃を紙一重で避けた。

 そのまま肘を叩き込み、甲冑越しに鳩尾を打ち砕く。苦鳴を上げる敵兵の顔面に膝蹴りを叩き込んで沈黙させると、三人目の首を水平に払った。

 

 ――血風が、弧を描いて舞った。

 

 「うるさい」

 

 叫びとともに突っ込んできた斧兵の勢いを利用し、刃は一歩踏み込み、半身でかわしながらその脇腹に掌底を叩き込む。

 気の通った一撃――発勁。

 骨が内側から弾ける音とともに敵兵が膝から崩れ落ちた。

 

 そこから先は、まさに修羅の連続だった。

 

 右から飛び込んできた敵兵の槍を手で受け流しながら足払いをかけ、倒れたところに刀を突き立てる。

 左から斬りかかってきた太刀を後ろに反らして避け、その腕ごと斬り落とす。

 背後に回った敵の気配を察知し、身体を捻って逆袈裟に斬り裂く。

 

 刃は止まらない。一息も、半歩も、迷いも挟まず、戦場を駆ける。

 押し寄せる敵を、まるで奔流を裂く岩のように押し返していく。

 

 その姿は――まるで戦場を駆ける死神。

 何人斬ったか分からない。気づけば、刃が通った後には屍の山が築かれ、血で川面さえ赤く染まっていた。

 

 白い頭巾で顔を覆ったその姿は不気味なほど静かで、

 戦場にあるはずの「人間らしさ」を一切感じさせなかった。

 

恐怖は、確実に戦場を侵食していた。

 浅瀬を中心に、一つの異変が義龍軍を包み込みつつある。

 

 斬っても、斬っても止まらない――

 一振りの刃が、まるで意志を持つかのように敵味方の間を駆け抜けている。

 義龍軍の兵たちは、誰もその影を止められない。

 

 そしてついに、その報せは本陣の斎藤義龍のもとへと届いた。

 血と汗にまみれた伝令が、息も絶え絶えに駆け込む。

 

 「よ、よ、義龍様っ……っ、大変ですっ……! し……死神がっ……!」

 

 「……は?」

 

 「浅瀬に……っ、白い頭巾を被った何者かが突入し、我が兵を……我が兵を、次々とっ……!」

 

 「どこの兵か!? 誰が率いている!?」

 

 「わ、分かりません! ただの一人です! しかし、何人で囲もうと斬られ、討ち取られ……もう、五十、いや、六十は……っ!」

 

 義龍の表情が一瞬凍りついた。

 白い頭巾。赤い瞳。たった一人。

 それだけで、味方の一角が崩れかけているというのか。

 

 「たった一人の雑兵に、百騎単位でやられているとでも言うのか……!?」

 声が怒りに震える。だが、それは恐怖の裏返しでもあった。

 

 「まことです! 兵たちが恐慌状態に陥り始めております! 『死神』と……そう口々に……!」

 

 義龍は舌打ちし、拳を固めた。

 「死神」――名も知れぬ一兵が、兵たちの心を折りつつある。

 長良川の水面が紅く染まり、味方の兵の死体が浮かび始めていた。

 

 「……くだらん。所詮は一人だ。所詮は……!」

 

 そう呟いたが、胸の奥に棘のような予感が刺さった。

 これは、ただの兵ではない――

 何かが、何か決定的に“違う”者が戦場に現れた。

 

 義龍の中で、見えぬ影がひたひたと忍び寄っていた。

 

 ただ、唯一動いているのは――赤い瞳。

 まるで線のように、火のように、鋭く戦場を走り抜けていく。

 敵兵たちが悲鳴を上げ始める。

 

 「な、なんだあいつは……っ!」

 「……死神だ……っ!」

 「道三の配下に、あんな奴いたか!?」

 

 動揺が義龍軍の一角に走る。

 だが刃は、彼らの声に耳を貸さない。

 

 ただ一つ――

 信奈のためにこの戦場の中心にいる男、斎藤道三を救うために。

 

 「退け、道を開けろ」

 

 血と泥にまみれた戦場で、その声だけは清冽だった。

 まっすぐに。あまりにまっすぐに。

 

それは人の形をした“戦場の天災”だった。

白い頭巾、赤い瞳、そして血をまとった銀の刃。

その姿が、濁流のように戦場を蹂躙していた。

斎藤義龍の命を受け、道三の本陣を包囲していた中隊――三百名の精鋭が、その異変に気づいたのは、最前列の兵たちが“音もなく”崩れ落ちたときだった。

 

「な、何が……!?」

 

返り血すら飛ばない静寂。

だが、確かに人が斬られた音がした。骨と肉が分かたれ、甲冑が裂ける鈍く重い音。

それを皮切りに、戦場が“割れた”。

 

刃が突っ込む。

 

その剣は、もはや武器ではない。

“意志”そのものであった。

 

一撃で五人。

横薙ぎの一振りが兵の首を串刺しのように刈り取り、後方の兵まで血飛沫が届く。

 

二撃で十人。

踏み込んでの斬撃は、まるで斧のように敵の胴体を真っ二つに断ち割り、吹き飛ばされた肉塊が味方の列を乱す。

 

そして、刃が使う朧月流の秘奥義――

 

月哭(げっこく)

 

一振りで、五つの斬撃が枝分かれし、視界に映った敵をまとめて殲滅。

もはやそれは“剣術”ではない。

災厄の領域だった。

 

「ひ、ひいいいッ!!」

 

恐慌。

兵たちが陣形を保てぬまま退く。だが、背を向けた瞬間が命取り。

 

刃はその背中に音もなく迫り、咆哮のような踏み込みと共に刀を振り下ろす。

五人まとめて、背骨ごと切断。肉塊が泥に叩きつけられる。

 

次いで、弓兵隊が一斉に矢を放つ。

 

「射てぇッ! 一斉射――ッ!!」

 

だが――刃はそれすらも見切っていた。

周囲の死体を蹴り上げて矢を受け止め、自らはすでに動いている。

矢の雨を掻い潜りながら、すでに十間先の弓兵隊に肉薄していた。

 

「うわああああっ――!!」

 

「まて、こっちにくるな――ぎゃああああ!!」

 

弓兵たちがなす術もなく惨殺されていく。

腹を断ち割られ、片腕を落とされ、のたうち回る兵たち。

だが、刃は容赦しない。

苦悶に顔を歪める兵の首を、ためらいなく断ち切り、そのまま次の兵へと向かう。

 

――わずか数分で、弓兵一隊、五十名が壊滅した。

 

「ば、馬鹿な……! 五十人が……一人に……!!」

 

部隊の士気が、目に見えて崩れていく。

それでも尚、部隊長は第二陣、第三陣の投入を命じる。

 

「いいか! 一人だ! 一人に怯むな! 取り囲んで叩けッ!」

 

命を受け、別方向から二百人の包囲隊が動き出す。

馬上の騎馬武者、長槍兵、薙刀隊――ついに刃を取り囲んだ。

 

「囲めっ!! 抜け道を作るな!!」

 

四方から殺到する兵。

刃はその中心に立つ。

だが、その赤い瞳には、恐怖も、怒りも、迷いもなかった。

 

――ただ、静かに刀を構える。

 

次の瞬間――

 

斬撃、突き、投擲、騎馬突撃。

数の暴力が刃を飲み込む。

 

が――

 

「ぐぅああああああっ!!」

 

「こ、腰が……腕が……ひぎぃっ――!!」

 

倒れるのは、なぜか囲んだはずの兵たち。

刃の周囲に“風”が生まれていた。

 

一振りごとに、五人、十人が倒れ、突撃してきた騎馬武者さえも、鞍ごと馬上から斬り落とされる。

落ちた武者の首が刃の踏み込みで粉砕され、鮮血が三間四方に散った。

 

「な、なんで……あいつに届かねぇ……!」

「斬ってるはずなのに……逆にこっちが……っ!」

 

恐怖が、次第に戦意を蝕んでいく。

 

兵士たちは、もはや戦っていない。

“死から逃げる”だけだった。

 

だが、刃は止まらない。

 

ただ、命を断ち切るためだけに、進み続ける。

 

 

三百――壊滅。

 

静まり返る戦場の中心に、立っているのはただ一人。

 

白い頭巾は返り血で紅く染まり、銀の刃からは血が滴る。

 

残骸と屍が累々と積み重なり、川の水は赤黒く濁り、音を失った。

 

その“光景”が、道三本陣の背を凍らせる。

 

「……に、二百五十……い、いや……三百……!? そんな、ばかな……!」

 

「も、もう敵兵がいない……」

 

「一人に……三百が……」

 

目の前の現実を、誰も信じられなかった。

 

だが、それは夢でも幻でもなかった。

 

天城刃――“死神”は、確かにこの戦場に実在した。

 

最初に“異変”に気づいたのは、長良川のほとり――すでに兵のほとんどを失った本陣にて、床几の上に静かに腰を下ろしていた、斎藤道三その人だった。

 

本隊は、もはや総崩れ。

 

かろうじて本陣へと逃げ帰ってきた者たちも、すでに五百を割っている。

その兵らも、次の波に呑まれれば終わるだろう。

逃げ場はなく、援軍も来ぬ。

ここで、すべてが潰える。

 

だが、道三の眼差しに“退く”という選択はなかった。

 

「信奈には、援軍無用と伝えてある。……娘に、美濃を託す覚悟も、とっくに済ませた」

 

その瞳に宿るのは、父としての情ではなく、戦国の梟雄としての“死に場所”を見定めた男の覚悟だった。

信奈は今、尾張の地で、東の巨獣・今川義元と対峙している。

美濃のために兵を割かせてはならぬ。

それが、父としての最後の務めであると、己に言い聞かせていた。

 

――しかし。

 

「……何故じゃ。これは……何じゃ、この匂いは……?」

 

道三は、鼻先をしわがれた手でぬぐった。

 

風に混じる血の匂いが、あまりに濃い。

それも、ただの戦場の鉄臭さではない。

まるで、一つの村が“瞬時に”屠られたかのような――異様な、獣じみた鉄と泥の臭気。

 

遠く離れた敵陣の方角から、風がそれを運んでくる。

 

そして、それに混じって聞こえてくるのは――

 

「ぎゃあああああああああッ!!」

「や、やめッ……! ひ、人じゃねえッ、アレは人じゃねええええッ!!」

 

悲鳴。怒号。絶叫。

押し寄せてくるはずの義龍軍から、断続的に上がる断末魔。

 

「……これは――誰かが、斬り込んだな」

 

道三は、ゆるやかに、しかし確かに立ち上がった。

老いに支配された体を引きずるようにして、川面の方角を見やる。

 

その眼差しには、武人としての勘が宿っていた。

 

一人、二人の戦功ではない。

“何か”が、戦場の流れそのものを狂わせている。

まるで、死がその者の通り道に集い、血がその歩みに従って積もっていくかのように。

 

「……信奈どのか? いや、違うな……。今のあの子にあれ程の戦力を援軍に出す余裕は無いはず」

 

道三の瞳が細められる。

風の向こう、血と土埃の帳の奥に、一筋の“紅”が揺れていた。

 

――白銀の外套。

――顔を包む頭巾。

――紅玉のごとき双眸。

 

すべてを斬り捨てながら、ただ黙々と――義龍軍の進撃路を塞ぎ、一歩たりとも通さぬように戦う影。

 

「……何者じゃ、おぬしは」

 

道三は、静かに問いかける。

 

「誰の命を受けた者でもあるまい……だが、明らかに“信念”を帯びておる。己の命を賭けるに足る、何かを」

 

その者の刃は、まるで風のようだった。

数百の敵を前にしても怯まず、迷わず、ただ静かに、そして迅く。

 

その立ち姿に道三は、幾度も死線を越えてきた老将として、ある種の畏敬を覚えざるを得なかった。

 

「……おぬしは誰じゃ。誰のために命を賭けに来た?」

 

戦のただ中、義龍の軍を六百以上も斬り捨てながら、その者は今――道三の本陣の前に、孤影のごとく佇んでいた。

 

本陣を護るかのように、無言で剣を構えるその背を、道三はしばし見つめ続けていた。

 

 

「伝令ーっ! 伝令ぇーっ!!」

 

 義龍の本陣に、また一人、血まみれの兵が馬を駆って駆け込んできた。

 顔面は泥と返り血にまみれ、肩からは矢が突き刺さったまま。だが、彼はそれすら意に介さず、声を振り絞った。

 

 「報告っ……! 〇〇殿が率いていた二百の部隊……! 全滅しました!!」

 

 「なに……っ!?」

 

 義龍が椅子から立ち上がる。参謀たちの顔色が変わった。

 

 「なぜだ!? 相手はたった一人ではなかったのかっ!?」

 

 「信じがたいことですが……! 例の“死神”が突入し、瞬く間に隊形を崩壊させたと……! 全員が勇敢に戦うも、次々と斬られ……!」

 

 義龍が拳を握りしめる。歯ぎしりの音が、沈黙の本陣に響いた。

 

 そこへ、さらに別の伝令が駆け込んでくる。

 

 「伝令ーっ! 道三本陣近くの部隊から、急報! 救援要請です!」

 

 「またか……何があったっ!」

 

 「道三本陣の包囲を固めていた一帯で……既に〇〇殿率いる三百名が討たれたとのこと! “赤い頭巾の剣士”によるものと……!」

 

 「なっ……三百人だと……!?」

 

 義龍はその場で、激しく床を踏み鳴らした。

 敵の正体がいまだ掴めぬまま、被害だけが膨れ上がっていく。

 兵たちの間ではすでにその名が囁かれていた――

 

 『死神』

 

 何人で挑もうと、すべてを斬り捨てる異形の剣士。

 その影が義龍軍全体に広がるほどに、士気は音を立てて崩れ始めていた。

 

「……っ、報告ーッ!!」

 

 義龍の本陣に、三人目の伝令が息を切らしながら膝をつく。全身は矢の飛散と爆風で煤け、片腕には血が滲んでいた。

 

 「な、なんだ今度はっ……!」

 

 苛立ちを隠そうともしない義龍が、怒声を飛ばす。

 

 「……道三の本陣前まで、わが隊は押し上げたものの……!」

 

 「押し上げたものの、何だっ!?」

 

 「死神が……死神が居座っております!!」

 

 ――その言葉を聞いた瞬間、周囲の武将たちの背筋が凍りついた。

 

 「そ、そんな馬鹿な……さっき三百人は討たれたと報告が……!」

 

 「はい、それでも……奴はそこに立っております! たった一人で、道三本陣の前に、ただ立っているだけなのに……!」

 

 「討ち取れんのか!?」

 

 「斬りかかれば斬られる、囲めば貫かれる……あの男の周囲には、誰一人近づけません……!」

 

 戦場の流れが変わりつつあった。

 兵たちが呪いのように囁く――「死神」

 その異名は風となって義龍軍の隅々にまで浸透していた。

 

 義龍は奥歯を噛みしめ、拳を握り、言葉を吐き捨てるように吼えた。

 

 「……ふざけるなぁ……! たかが一人の剣士に、我が軍が止められているというのかっ!!弓はどうした! 近づくのが無理なら――遠くから殺せ! 遠間からでも構わん、あの白い悪鬼を射抜けぇッ!」

 

 義龍の怒声が、震えるような音で戦場に響いた。

 

 だが、返ってきた伝令の声は震えていた。

 

 「む、無理です! 弓矢は全て……全て弾き飛ばされるか、し、信じられないことに――跳ね返してきます!」

 

 「なに……!?」

 

 義龍が顔を引きつらせる。だが、戦場ではすでに異変は現実になっていた。

 

 再び放たれた一斉射――

 

 シュバババッと風を裂いて放たれた矢が、次の瞬間――

 

 「ッ……ぐあああああッ!!」

 

 悲鳴とともに、自軍の前衛が数名、胸や喉を射貫かれて崩れ落ちる。

 

 矢が返ってきたのだ。

 白い外套を纏う剣士――刃が、その手にした刀で跳ね返した矢が、正確無比に放った者へと突き返された。

 

 まるで――“狙って返している”かのように。

 

 「……ば、化け物め……っ!」

 

 誰かが震える声でつぶやく。

 

 刃の姿は、まるで人の形を借りた死そのものだった。

 泥と血に染まった浅瀬に立ち、赤い瞳を淡々と光らせながら、敵兵の間を音もなく、刃のようにすり抜けていく。

 

 あらゆる攻撃が通じない。

 遠距離も封じられ、近距離は言うに及ばず。

 一人の剣士が、数百の兵を止めている――それが、現実だった。

 

 義龍は唇を噛み締めた。

 冷や汗が、背筋をつたう。

 

 「……誰か、誰かあの怪物を止められる者はおらんのか……!」

 

 「ご命令を……撤退命令を……!」と進言する参謀に、義龍は無言で睨みつけた。

 

 しかし、現実は無情だった。

 血で真っ赤にそまった頭巾を被り、白銀の外套を風に翻し、赤い瞳を輝かせたその剣士――刃は、身体中傷だらけで血を流しながらも道三の本陣の前に不動のまま立ち尽くし、まるで死神の門番のように、誰一人近づけさせていなかった。

 

 

 

 

「間一髪で間に合ったッ!」

 

 筏の上から浅瀬を見渡し、良晴は思わずガッツポーズを突き上げた。背後の濃霧が視界を閉ざし、義龍軍の目をかいくぐるには絶好のタイミングだった。

 

 「霧がこれほど濃くなければ、潜入は難しかったでござるなぁ。どうやら相良氏にはツキがありまちゅじょ。しかし、いささか血の匂いがこしゅぎるでごじゃる」

 

 「出たっ! 親分の舌足らずが!」

 

 「たまらねえやぁ!」

 

 「おいら、これだけでご飯三杯いけるぜ!」

 

 「だからお前ら、静かにしろっ! 本陣の裏に筏をつけてくれっ!」

 

 五右衛門率いる川並衆の手練れたちが、静かに筏を岸へと寄せた。良晴は五右衛門とともに浅瀬に飛び降りると、そのまま一気に本陣を目指して駆け出す。

 

 「たどん」を次々に投げ込む五右衛門の手際は見事だった。濃霧に加えて煙幕、煙幕、また煙幕――視界は一瞬にしてゼロに近づき、混乱の極みに達した。

 

 その混濁を縫って、良晴と五右衛門は道三の本陣奥へ突入。

 

 「うわっ!」

 

 途中で足を取られた良晴が、盛大に転倒。泥にまみれながらも「ま、待ってくれ……!」と半ば這うようにして五右衛門の背に追いつく。

 

 そして、ついに。

 

 床几に腰をかけたまま、静かに周囲を見渡していた道三の眼前にたどり着いた。

 

 「斎藤道三。黙って尾張へ来ていただくでござる!」

 

 「坊主……やはり、お前が来たか」

 

道三の本陣の中で良晴と道三による舌戦を開始した。

 

 

 

どれだけ斬っただろうか――。

今なお、斎藤道三の本陣を守る“死神”こと刃は、敵兵を斬り伏せながら、どこか遠くを見ていた。

 

覚えているだけでも、すでに五百を超えている。

突き立てた刃が骨を裂き、肉を割り、悲鳴が泥に吸い込まれて消えていく。

 

「……姫様のためだ」と、そう自分に言い聞かせてきた。

だが、これは本当に“姫様のため”なのか?

 

姫様に向かって、胸を張って言えるのか――「貴女のために五百人以上の敵兵を斬りました」と?

そんなことを伝えて、果たしてあの人は笑ってくれるのか?

その瞳に浮かぶのは、軽蔑か、畏怖か、それとも……化け物を見るような冷たい視線かもしれない。

何故かは分からない。

だが、それだけは――嫌だ、と思った。

姫様にだけは、そんな目で見られたくない。

心の奥底から、そう感じている自分に気づいたとき、刃は一瞬、手にした刀の重みが変わったような気がした。

 

道三の本陣に、良晴が到着していることには気づいていた。

あの男の気配は、刃にとっては風の音のように馴染んでいた。

――アイツなら、もっと“うまくやれた”んじゃないか?

もっと血を流さずに、もっと誰かを救えるやり方があったんじゃないか?

 

刃は気づいてしまった。

この時代に来てから、姫様に仕えることが、自分の“居場所”になっていたのだと。

姫様と過ごす日々。犬千代や良晴、ねねたちと笑い合う時間。

そこに、自分の小さな“幸せ”があったのだと。

 

また、手の中の刀が重くなった気がした。

自分の手は、もう“何色”に染まってしまったのだろう。

いや――染まり過ぎて、もはや“色”など分からなくなっていた。

 

視界から、少しずつ“色”が失われていく。

赤も、青も、緑も、すべてが白と黒の濃淡へと落ちていく。

まるで心が凍りついていくように。

 

それでも、身体は止まらない。

呼吸をするように、足を動かし、刀を振るい続ける。

誰かの悲鳴も、断末魔も、ただの“風景”になっていた。

 

――刃は今も、斬っている。

斬り続けている。

 

それが誰のためなのか――自分でも、もう分からないまま。

 

 

 

 

良晴は道三の説得に成功し、道三を乗せた筏を先頭に川並衆の筏が戦場を離脱しはじめた。

 濃霧とたどんの煙が、まだ戦場の視界を濁らせている。その中を、数十の筏が静かに川面を滑る。

 

 殿を務める筏には、良晴と五右衛門が乗っていた。

 

ここで良晴は初めて弓を手にした。追撃してくる義龍軍の小舟を威嚇するために矢を射るのだ。

 

 「矢を……引くのか、俺が……!」

 

 震える手で矢をつがえ、引き絞ろうとしたその瞬間――。

 

 「……ッ!?」

 

 霧の中から、何かが飛んだ。

 それは風の音すら切り裂く鋭さで、霧を裂いて飛来した。

 

 シュッ、シュバッ!

 次の瞬間、義龍軍の兵士たちが、小舟の上で次々と倒れていく。

 

 「う、うわああッ! なんだ、何が……!」

 

 「横だ! 霧の中に何かいるッ!」

 

 霧から、矢ではない“殺意”が放たれていた。

 それは手裏剣や苦無。まさしく忍びの暗器。

 しかも、尋常な技ではない。狙いは急所ばかり。即死級の精度で、追手をことごとく屠っていく。

 

 「な、なんだよ、あれ……!」

 

 良晴は弓を構えたまま、ただ呆然とその光景を見ていた。

 追撃してきた義龍軍の小舟は、たった数十秒で霧の中に沈んだ。

 静寂が戻る。川面を渡る風だけが、冷たく肌を撫でていた。

 

 「助けられた……のか……?」

 

 良晴の問いに、五右衛門は黙って頷いた。

 だが、誰がやったのか、それはわからない。

 忍び――いや、もっと得体の知れない“何か”が、あの森の奥に潜んでいる。

 

 

 

 

 

 斬り伏せた敵兵が、最後の呻きとともに地に伏す。

 血の臭いと泥の匂いが、霧に溶けてゆく。

 

 その瞬間――刃の耳が微かに“ざわめき”を捉えた。

 

 ……気配が、遠ざかっていく。

 

 道三の本陣から、人の気配がひとつ、またひとつと。

 波紋のように、戦場から離れていく――確かに、逃れている。

 

 良晴が、やり遂げたのだ。

 あの馬鹿が、まっすぐな目で斎藤道三を説き伏せたのだろう。

 

 刃は、倒れ伏す敵兵の死骸を無言で踏み越えながら、霧の奥へと歩を進めた。

 もうこの場所を守る理由は、どこにもない。

 ならば、次にやるべきことは――逃がすこと。

 

 追手を断つ。それだけが、今の“自分”にできること。

 

 森の中を、音もなく滑るように進みながら、刃は目を閉じた。

 視界の“色”は、もうとうに消えている。

 だが、耳と、足裏に伝わる地鳴り。空気の乱れと風向き。

 “音”だけは、未だはっきりと聞こえていた。

 

 霧の向こう――

 川を下る小舟に乗り込み、追撃を仕掛けようとしている義龍兵たちの気配があった。

 その数、十数、道三の筏に追いつこうとしている。

 

 (……愚か者どもが)

 

 刃は森の枝に静かに身を落とし、懐から苦無と手裏剣を取り出す。

 血に濡れた指先に、冷たい鉄の感触が心地よかった。

 

 次の瞬間――

 

 シュバッ! シュッ! ピシュウ!

 

 音すら切り裂く鋭さで、手裏剣と苦無が宙を裂いた。

 霧を貫き、小舟の上にいた義龍兵たちの喉、こめかみ、胸元――急所だけを正確に穿つ。

 

 「ぐ、は……!?」

 「がッ……!?」

 

 声にもならない呻きが漏れ、追撃の一団はあっけなく沈黙した。

 何が起きたかも分からぬまま、命を絶たれ、舟の上にはただ死体だけが残された。

 

 刃は、その光景を冷静に見届けた。

 何の感慨も浮かばない。ただ、確認するだけだった。

 

 (……これで、逃げ切れる)

 

 風が、霧をわずかに裂いた。

 川面に浮かぶ筏の群れが、静かに遠ざかっていくのが見える。

 その先頭には、道三を乗せた舟。そして最後尾、しんがりには――良晴の姿。

 

 彼の顔は遠くてよく見えない。だが、無事であることだけは分かった。

 

 胸に浮かんだのは、ほっとした安堵か、それとも――虚しさか。

 

 (……俺は、これでいい)

 

 そう思った。思い込んだ。思い込むしかなかった。

 

 この姿を、姫様に見せたくない。

 この手で斬った数を、良晴に数えてほしくない。

 ねねや犬千代の笑顔の中に、自分はもう、居てはならない気がした。

 

 だから、刃は何も言わず――その場から姿を消した。

 白い霧に、溶けるように。音もなく、誰の視線にも映らぬように。

 

 “死神”は、再び霧の向こうへと消えた。

 

刃をハーレムにするか

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