それは、男の遺体を喰った日の翌日の夜だった。スラムはどこも同じように汚く、臭く、危険で、昨日までと何ひとつ変わらない姿でグラトナの周りにあった。
だが、グラトナの内側は違った。あの身を焦がすような飢えが薄れていた。寒さと空腹で引きずる様にして歩いていた足が軽かった。霞んでいた遠くがよく見えた。水の中にいるみたいにぼやけて聞こえていた喧騒がよく聞こえた。鈍くなっていた感覚がその働きを取り戻しつつあった。そして、何よりも――頭が働いた。
空腹に押しつぶされていた思考が、ようやく顔を出し始めていたのだ。
彼女は、生まれて初めて、自分が生きる世界を本当の意味で知った。
グラトナが生きるこの国は、国土の三割に満たないほどの街と、五割と少しを占める貧困層、残りがさらに貧しい者が生きるスラムでできていた。そしてその街とスラムの境界には鉄条網が並び、ギャングの見張りが睨みを利かせていた。
スラムに生きる者達は、まともな思考が出来る者ならその境界線を絶対に越えない。越えれば最後、必ず殺されるからだ。グラトナ自身も、そうやって殺される人間を片手では足りない程度には見たことがあった。
けれどグラトナは、その事実を知っていてなお、ゆっくりと鉄条網の隙間をくぐり始めた。
見張りがいなかったわけではない。しかし、彼女の小柄さは雪の影に紛れることができた。
そして――グラトナは初めてスラムの外へ出た。
外は、スラムのような死と腐臭の気配がなかった。あったのは、白い雪の匂い。薪の煙の匂い。遠くから微かに匂う香ばしい良い匂い。
それらがグラトナの肺を満たした。
「……しらないにおい」
生まれて初めて、自分の世界がスラムだけでないと知った。
その時、背後から声がした。
「おい! こんなところで何して――」
ギャングだ。見張りの一人に気づかれてしまったらしい。普通なら怯える。震えて逃げる。叫ぶ。殺さないでと命乞いをする。
だが、グラトナは違った。恐怖よりも何よりも、――おいしかったやつだ。それが最初に来た。
ギャングの男が近づき、怒鳴りながらグラトナに向かって手を伸ばす。
グラトナは一瞬で飛びつき、喉元に噛みついた。噛みついた箇所に特に理由はない。なぜだか、そうした方がいい気がしたからだ。
男の悲鳴が寒空に響き渡る。逃れようと暴れる男の拳を避けて大きく後ろに飛びずさる。そのままグラトナは男に背を向けて走り出した。走りながら、そのときようやく気づいた。“怖くない”。怖くて、恐ろしくて仕方なかったギャングに、ひとひらの恐怖すら湧かなかった。ギャングの男に背を向けて逃げているのに、胸が熱くて、足は羽が生えたみたいに軽くて。
グラトナは生まれて初めて、“生きるため”以外の行動をとった。そのことを理解したその瞬間、雪の街の風景が一気に開けて見えた。
「……なにしてもいい……どこ行ってもいい……だれのものでも……ない」
それは、昨日初めて知った“満腹”と同じぐらいに甘い感覚だった。
グラトナは走った。街を抜けてなお走り続け、海辺の崖で立ち止まり、深呼吸をした。冷たい空気が薄い胸を広げ、視界が切り替わる。自分を捕まえに来る大人もいない。叫ぶ子どももいない。奪い合う音も、喧噪も、ない。ただ静かに、風が吹いているだけ。その静けさの中で彼女は確信した。
「……わたし……じゆうだ」
スラムでは“死ぬ側”だった。いつだって奪われる側で、消える側で、喰われる側。グラトナはまごうことなく弱者の側にいた。
でも今は――誰も彼女から奪わない。誰にも脅かされない。
自分がスラムを抜け出し、スラムからも街からも離れたここに立っている。それは初めて知る“自由”だった。
グラトナはまたふらりと歩き出した。知らない、けれどお腹が音をたてるような匂い。人の匂い。海の匂い。そして、遠く、人でも、ネズミでもないまだ知らない生き物の匂い。それらがすべて、彼女を誘っているようだった。
「たべたら……もっと、つよくなれる?」
少女の呟きは、小さく、波間に吸い込まれて消えていった。しかし確かに少女の心に変化をもたらした。やがてその足は、街へと帰っていく。
最後に――彼女は海を見る。輝く太陽の光を反射してキラキラと輝くそれは果てしない広さで。
「……すごい」
グラトナは初めて世界を「きれいだ」と思った。そして心の奥に、静かな衝動が生まれる。
「たべたい……しらないもの……いっぱい……」
グラトナはその先に思いを馳せる。
「せかいの……ぜんぶ……」
ぐぎゅる、とお腹が音をたてた。