神奈川県は鎌倉にある工場のオフィス。
「そういや、課長は応募しなかったんスか?」
「なんの話だ?」
「ほら、今日ニュースになってたじゃないスか」
そう口にしながら、会社支給の端末でWEBニュースを開いてみせる若手社員。
課長と呼ばれた男は、その画面を覗き込んでから少し唸る。
「早期希望退職、課長の歳だと対象スよね」
「そりゃそうだが……」
もちろん。打診のメールは来ていた。
50代も後半が見えてきて、出世レースも概ね結果が見えてきた頃合い。
妻は子育ても終わったとばかりにのんびり余暇を楽しむモード、愛娘は自分で学費を稼いでくる始末。
自分でいうのもなんだが、コツコツ積み上げた資産も十二分にある。
「まあ、応募しても良かったといえば良かったんだが」
「が?」
興味津々とばかりにコチラの顔を覗き込んでくる若手。
残業する気概は買ってやるとして、そのモチベは仕事か残業代か――――後者なら後で苦労するぞと心配しつつ、男は口を開く。
「いや。やっぱり応募するんだったかな。お前のせいで破滅するヒシミーを見たいか見たくないかと言えば見たい」
「えぇー!? オレが
「おう帝大卒、頭の良さはピカイチだな」
そんな生産性のない雑談で気を紛らわせたところで、明日が期日の試験報告書に向き合おうとしたその時。私用端末の着信音。
「……ちょっと外すぞ」
「ういっス」
チラと画面に珍しい名前が映っているのをみて、そそくさと席を立つ男に若手はさしたる興味も見せずに見送る。
人気のない廊下に出てから、受話ボタンをタップ。
「クー?」
『ねえお父さん、私ね。お父さんと同じ会社に入ってもいいと思ってたんだ』
仕事相手とは違い、名乗りも前口上もなく本題に入ってくる娘。
けれど今回は、少しばかり調子が違った。
「なにかあったのか?」
『うん。なんていうか、いろいろあった』
「そうか」
『なんも聞かないの?』
「いろいろあったんだろ。いまそう聞いた」
答えになっていない答えを返した男は沈黙した端末の向こう、通信回線の先にいる娘の言葉を待つ。
『……折角トレセンに入れたからさ、まあいい感じにオープンウマ娘になって、そんで大学行って普通に就職して。それでまあ、普通な感じで結婚とかしたりして? そう思ってたんだけれどさ』
そして、再び口を開いた娘の口は予想よりも滑らか。
この電話が相談ではなく決意表明なのだろうと察するに余りある娘の態度に、男は少しだけ口角を吊り上げる。
「クーは、普通になりたかったのか?」
『んー……たぶん?』
「そうか」
娘の口にする「普通」とは、きっと統計上の中央値などではないのだろう。
そしてきっと、彼女はその「普通」がいかに危ういバランスの上に成り立っていて、どれほど尊いかを学んでいる最中なのだろう。
『それでね、お父さん』
私ね、なろうと思うんだ。
「そうか」
『……あの、反対とか。しないの?』
反対しても止まらないだろ――――なんて、そんな意地悪を娘には言わないが。
「周りを頼れよ、クー」
『え?』
「何かを『やる』と決めたなら、周りを徹底的に頼れ」
誰かに言われたからやる訳ではないのなら。
これから、自分で道を作っていくのだから。
『まあうん。私、ひとりじゃなんも出来ないから。それはそうするつもり』
「なら大丈夫だ。クーの好きにしなさい」
『うん……あの、さっそく頼っていい?』
「なんだ?」
『そのぉ……なんていうか、お母さんは
「説得すればいいんだな? こんど一杯奢れよ?」
『えっ!?』
「冗談だ」
『んもー!』
それから最後に感謝の言葉を繰り出して、娘からの通話は切られる。
オフィスに戻った男を見て、若手社員は一言。
「課長、なんか良いことあったスか?」
「いや。どっちかっていうと寂しいことかな」
「失礼します」
生徒会室より重厚な雰囲気のある部屋。
おっきな机の隣を挟むようにして学園旗と日本国旗。
「歓迎ッ! 今日はどういった用件かな、ヒシミラクル!」
そして『歓迎ッ!』って達筆な感じで書かれた扇子を掲げるのが理事長先生。
……私たちよりちんちくりんだから、私とかロンは「やよいちゃん」とか呼んでるけれど。もちろんご本人を前にしてそんな呼び方は許されないわけで。
「こんにちは。栗東寮所属のヒシミラクルです、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
かたっくるしー挨拶文。トレーナーさんと面接対策で練習したお辞儀の角度。
どうやら並々ならぬ用件と察したらしい理事長先生は、扇子を閉じてソファを指し示す。
「いえ。短い用件ですので、このままで」
それを私は、断る。
この「お話」が、相談ではなく決定事項を伝える場だと示すために。
…………って、いうけど。
本当に伝わってるかなぁ、これ?
我らが生徒会長さん(ファインちゃん同室のエアグルーヴ副会長の伝手)に色々教えてはもらったけれど、これで伝わっているとは思えないっていうか……。
「――――拝聴。きみの考えを、聞かせてくれ」
あっ、伝わってるっぽいね。ニコニコ笑顔が消えて真剣な表情。
ていうか、真剣な理事長先生ってもしかしなくても怖い? 会長も真剣な顔をするっちゃするけれど眼の奥が優しそうっていうか、あ根はいい人なんだな~って感じの顔するんだけれども。
いやまあ。だからって逃げたりはないけどね。
これから先のことを考えたら、これくらいはね?
「私、トレーナー補になります」
いわゆるトレーナー見習い。指導師の元で2年間の実地経験を積んで、トレーナー試験の資格受験を得るための身分。
「ブーケさん、カレンブーケドール選手が有マ記念に出るためには現地で監督してくれるトレーナーが必要です」
けれどチーム〈クエーサー〉の有資格者は2人だけ。
トレーナーさんは入院中で、トレーナー補のブーケさんは走る本人だから監督不可能。
だったら、誰かがやるしかない。
「疑問。カレンブーケドールの出走に際しては、他のトレーナーとスポット契約を結べばいいのではないか?」
「そりゃあ、
だって、ブーケさんの目的はトレーナーさんと一緒に走ることなんだ。
それを叶えられないんなら、ブーケさんが走る意味はない。
……それに、もしもブーケさんが他のトレーナーとスポット契約を結ぶのなら。
一時とはいえ、トレーナーさんが用意したブーケさんの「移籍向け資料」が誰かの手に渡ることになる。ブーケさんはそれを嫌がると思うんだ。
「だったら、ルールの範囲内でブーケさんが〈クエーサー〉のウマ娘として走れる道。つまり同じチームの
これが今の私に出来ること。
――――本当は、2年間のカリキュラムを短縮してトレーナー学校を卒業したり、
「勉強が出来るって訳でもないし、奇跡や常識外れのことが出来るわけでもない。そんな等身大の私には、トレーナー補としてブーケさんを支えてあげるのが精一杯っていうか」
「早計。きみがトレーナー補になれば、きみ自身が有マ記念に出走できなくなるのだぞ?」
「あー、それはそうですけれど……」
まあ。だから何? って感じではあるんだよね。
「別にいいんじゃないですかね? 別に私、なんのために走ってる~とかはないですし」
「投票ッ!」
「おぉっ?!」
バッ! と扇子を開いた理事長。
補足するように秘書のたづなさんが口を開く。
「ヒシミラクルさん。既に有マ記念に向けたファン投票は始まっています。そしてこれは内々にして頂きたいのですが……来週の中間発表で、ヒシミラクルさんは投票1位となることがほぼ確実視されているんです」
「あー…………」
まあ、そうだよね。
なんか私、クロノちゃんにバトンを引き継いだとはいえ最強格らしいし。
うん。ていうかなんでいつの間に最強ってことになってるんだろうね? いうほどG1勝ってないよ?
「でも。これは決めたことなんで」
だって。
みんな走る目的があって走っている。
アイちゃんは
そしてブーケさんはトレーナーさんのため。
〈クエーサー〉のメンバーだけじゃない。
レースに出る皆が、誰もが、強い思いと夢を持って走っている。
「誰かがやらなくちゃいけないんです」
そんな強い思いで走ってるみんなに、誰かのために力を貸してあげてなんて言えないよ。
「それに、私はもう。いっぱい力を貸してもらったんで」
だから私は、その想いを返してあげたい。
やっぱ借りっぱなしっていうか、借りパクは性に合わないっていうか。
「だから、すみません。私は有マ記念には出ません」
沈黙。
う、き、きまずい…………。
小心者な凡走ウマ娘、クラスでは毎日すみっこぐらしだったヒシミラクルには辛すぎる重圧ですってぇ……。
でも、それでも。
私はもう、あの頃の気弱な自分じゃないよ。
そりゃまあ。今でもビビっちゃうことはあるけれどさ。
てか現在進行形でビビってるけれどさ。
「私は前に進むって、決めたんで」
「確認。ヒシミラクル、予定通り帝農工には進学するんだな?」
「はい。だって推薦枠って学園と大学の契約でもあるんですよね? それにブーケさんもそうでしたけれど、トレーナー補って他の仕事と掛け持ちしてもいいっぽいですし」
そう。我ながらスゴいこと言ってるとは思うんよね~。
大学生とトレーナー補の掛け持ち? それホントに出来るの? ってさ。普通なら突っ込んじゃうところだと思うよ。うんうん。
ただまあ、意外と掛け持ちの条件は揃ってるんだよね。
「大学の授業が平日にあるのに対して
それにトレセンと帝農工は同じ府中市にある。
まあやってみればなんとかなるんじゃないなかって。
「甘いですかね?」
理事長先生は瞑目。
帽子の上に乗っかった猫ちゃんが大きなあくび。
「……トレーナー補は、トレーナーの補佐とはいえウマ娘の競走人生を預かる仕事だ」
知ってる。
レースに出られたから、私の人生は大きく変わった。
「きみにそれを成し遂げる覚悟はあるのか?」
覚悟、ね。
本当は、そんなの持ちたくないけど。
私は普通にゆるーく、普通に成功して普通に暮らしていきたいだけなんだけれども。
「やる、しかないんだと思います」
だって。私の知っているオトナたちは。
『きみが走りたいと願うなら。手を貸そうじゃないか』
『誰かが悲しんだりしたら、責任を取らなくちゃいけない』
「取りますよ、責任。いまは無理ですけれど」
私は、まだ
トレーナー補はあくまでトレーナーの代行だから。
今はまだ、なんにもできないけれど。
誰かに手を貸してもらって、それでどうにか進むことしか出来ないけれど。
「いつか、なります。――――