ホロ=モダンエイジス - 真夏日、陽炎は揺らめき - 作:テラ・ぺた・エクサ
“彼女”の目は明らかにハアトのものではなかった。よくフィクションで言われるような「目線の運び方や表情に違いが……」とかそういう話ではない。もっと物的な証拠というか、よく見ると瞳の色が少し緑みのある鮮やかなターコイズブルーから濁りのない透き通るようなスカイブルーへと変わっている。気がする。
単に角度の問題に過ぎないのかも知れないが、ともかくまつりにはそう見えた。
「“初めまして”、私は赤井はあと。……対面は初めてよね? ショートカットのあなたの寝顔じゃない顔は初めて見たもの。色の『赤』に井戸の『井』、「はあと」の部分はひらがな表記で大丈夫。まぁ、下の名前はあまり聞く感じの名前じゃないとは思うけど、ひとまずよろしくお願いできるかしら」
普段との温度差という意味でも明らかに別人だ、それこそ風邪でも引きかねないくらい。話を聞いていた者は皆一様にそんなことを思った。考えてみれば、今までハアトの口から正しい表記についての説明を聞いたことはなかったし、そもそも一人称がはあちゃまではなく“私”である時点で、今まで見てきたハアトとは明らかに異なる。気がする。
「は、はあちゃま……?」
まつりはもちろん、スバルもあまりの変わりようにただただ愕然としていた。部隊長ですら眉をひそめている。一方のはあとの方はというと、スバルの反応に少し意外そうな顔だ。
「“ハアチャマ”、はあちゃまか……ふふ、面白いあだ名ね。気に入っちゃった」
「え、あ、えーと……はあと……ちゃん」
「ん? あれ、待って、何で?」
そのあまりにも“今まで見てきたハアト”と異なる反応は、その場でスバルに呼び名を改めさせるには十分すぎるほどの威力だった。なお、その威力について本人に自覚は全くないらしい。
「なんでこんな……どうなってるの……?」
まつりは思わず自らの正気を疑いたくなる。これはどう考えても……。
「さっきまでと明らかに異なる性格に周囲と食い違っている記憶……驚いた、アタシもそこいらの人よりは見たことあると思うけど、ここまでわかりやすい“症例”もそうないわね。解離性同一症、平たく言えば多重人格ってヤツ」
クイズの答えを当てるみたいにあっけらかんと、アメリアはそう言い切った。
「ちょっと待ってよ、そんなのいきなり過ぎない……?」
今日何度目になるのか、まつりは
「……“いきなり”? どういうことかしら?」
「だってこの子と付き合うようになって何週間か経つけど、こんなこと初めてだよ⁉︎」
「……なるほど」
対するアメリアはまつりの主張を落ち着き払いながら聞いていた。私立探偵を名乗るだけあって、こういった場面に対する胆力はさすがと言える。まさに安楽椅子で静かに構え、事件解決のため数多の情報に耳を傾ける刑事のような風格といったところだろうか。
「はあとちゃん? もしくはハアチャマと、この街で一番長く接してきたのは誰かしら?」
「多分スバル……あたしだと思う」
「いつもと今日、違うことって何かある? 何でもいいわ。例えばこの子の様子が何かおかしかったとか、もっと何でもないこと、今日食べたものの中に普段食べないものがあったとかでもいい。『切り替わる』きっかけなんて人それぞれだしね」
アメリアは幾分か低く、鋭くなった声で静かに尋ねる。さっきまでの物腰柔らかで無邪気そうな雰囲気は微塵も感じられない。警察官であるお父さんみたいに私立探偵にも仕事モードとかやっぱあるのかな、などとまつりはアメリアの変化に驚くのと同時にそんなことを思った。そして、そんなまつりをはじめとする状況に置いてけぼりにされた者たちを蚊帳の外にして二人の会話は続く。
「そういうのは特に思い当たらないかなぁ……初めてスーパーに行ったことはたぶん関係ないだろうし、カレーはこないだも食べてたハズだし」
「スーパーマーケット? そこで何か見てない?」
淡々としたその質疑応答に自分が加っていないのはまつりにとって違和感もあったが、
「いや、初めて見たっていうタイと睨めっこしてたくらいで……まつりちゃんは気づいた?」
「んー……ごめん、まつりも思いつかない」
とはいえ会話のバトンが急に回ってきても、まつり自身に答えられることは結局何もなかった。
「だよねぇ……強いていうなら、今日はいつもより夜更かししてるくらい?」
「いつもはもっと早くに寝てるってことかしら。そうなるときっかけは不眠、あるいは時間……? ……どっちにしても、そう断定するには証拠がなさすぎる。今日はお開きにして、明日もう一度見てみるしかないわね」
「うー、何でこう次から次に……」
ふと、チャイムの音。まつりがボソッと愚痴をこぼしたところで、あまりに唐突に甲高い音が来客を告げる。
とはいえ時計を見て確認するまでもなく、今はもう日付けも跨いだ真夜中だ。人が訪ねてくる事自体まず無い時間で、それでも誰か来るならそれは間違いなく非常事態ということでもある。大空家は水を打ったような静寂に包まれた。
「……うぇっ、だ、……誰……?」
「私が出よう、お前たちは玄関から見えない位置まで下がっていろ」
スバルの不安げな声に、部屋の中にいる人間で唯一の男手である部隊長がスッと立ち上がると、玄関から伸びる廊下へとのしのしと歩いていく。確かにいま部屋の中にいる人間で、身長や人相から一番外見に威圧感があるのは間違いなく彼だろう。日本の治安がどうだとか論じようにもまつりは海外に行ったことはないが、これくらいの用心に越したことはないのは間違いない。
一方、部屋の隅ではスバルがはあとや
廊下の奥で、部隊長が玄関のドアを躊躇なく開ける音が響き、部屋中に緊張が走る。
そして、それ以上は何も聞こえなかった。
「……えっ?」
「ぶ、部たぃ……」
「ダメ、声は出さないで」
困惑の声をあげそうになるまつりとスバルを、今度はアメリアが小声で遮った。その囁きは相変わらず質疑応答中の少し低いトーンのままだったが、今のそれにはさっきまでの鋭い声ですら比べ物にならないほどの緊迫感に満ちている。廊下からは依然として何も聞こえてこない。廊下はちょうど部屋の隅からだと見えず、また人が倒れ込むような音も聞こえなかった。まるでさっきまであったハズの部隊長の気配が丸々消失したようにも感じられる。果たして彼はまだそこにいるのか、そもそも“いた”のか? そんな錯覚。
極限まで押し殺した小声で、アメリアは状況を背後の少女たちに説明する。
「十中八九、マクイーン……部隊長はやられてるわね。物音は厳禁よ」
「やられた?」
「いまの彼は騒いで周囲を巻き込んだ方が安全だもの。少なくとも廊下で無言になる必要なんてない。向こうが侵入者である以上はね」
「あのオッサン……」
スバルが何か言いたそうに頭を抱え込んだ。いつものツッコミを叫びそうにでもなったのだろうか。
「いい? 部屋の中に人がいる気配を悟られないよう……あっ」
アメリアが何かに反応するとともに聞こえてきたのは、中身の詰まったスプレー缶のようなものが部屋の奥の床に投げつけられる音。そして缶から大量の煙が噴き出す音も聞こえる。催涙スプレーの類だろうか、なんにせよ住民であるスバルの心配事はそこではなかった。鈍いとも甲高いともつかない重く硬い音が鳴ったが、ともあれフローリングは無傷とはいかないだろう。
「ちょ、床! ……あ」
反射的にスバルが声を上げて顔面蒼白になるのが見えた。そのままアメリアの方向に『やってしまった』と言わんばかりの泣きそうな顔を向ける。まつりの角度からはスバルの横顔しか見えなかったが、幼馴染のその顔を見た途端に体が飛び出していた。
「WAIT‼︎(待ちなさい!)」
先ほどまでとは打って変わって大きな声で制止するアメリアの声も無視して、まつりは撃ち出される弾丸のように床材を蹴る。煙を吸わないよう袖口で鼻と口を覆い、そして投げ込まれたその缶を引っ掴んで廊下の向こうの玄関へとまっすぐに投げつけた。放られた先、玄関の扉は完全には閉まっていない。その隙間には、ドアノブを掴んでいると思しき腕の影をアパートの廊下の常夜灯の光がくっきり映し出している。缶は宙に弧を描いてその腕へと……当たらずに、玄関にぶつかって派手な音を立てた。
「ごめ、ちょっと煙吸っ……ぐッけほっ、けほ」
三人の元へと急いで退散しつつまつりは咳き込む。いかにも体が重そうだ。それを見たアメリアが鋭く指示を飛ばす。
「みんなも口元に布をあてて煙を吸わないように、なるべく布は水で濡らして! あと換気扇はある?」
「そこのヒモ……いま回した!」
緊迫した指示にスバルは弾かれたように従った。回転し出したファンの隙間から部屋の外へと煙が吐き出され始める。しかし彼女の不安は拭いきれないようだ。
「でもどーすんの⁉︎ さっきのヤツ、まつりちゃんが投げても投げ返されるだけじゃん! 奥に隠れるのもスバルが台無しに……しちゃったし……」
「別に気に病むことないわ、それよりもっと大きな音を立てて! まつりは横になってなさい、いまの煙は強力な……」
「音を立てる? え、待ってどういう……」
目が回るような早い展開にはあとは戸惑っているようだった。どうやらリアクションもいつものハアトの時とはかなりの差があるらしい。
「騒いで助けを呼ぶの! アパート中を叩き起こして‼︎」
「あぱー……? と、とにかく騒げばいいのね? まかせて!」
アパートなる初めて聞く単語のことはさておいて、ハアトはアメリアから真意を聞きだすと台所へ矢のような勢いで直行する。そして数日前とは違う鍋とお玉を引っ掴むと二つをガンガンと打ちつけ始めた。これが並の少女の
「あら……随分思い切りがいいのね」
「言ってる場合かよ! あれスバルのなのに‼︎」
当然鍋の本来の持ち主であるスバルからすればたまったものではない。当たり前だが、一人暮らしの女子高生にとって調理器具は安くはないのだから。
ただ、その時ばかりは様子が違った。
打ち付けられ続けるお玉により、鍋は頭痛でも引き起こしそうなくらいの不快な音を奏でる。……“奏で続け”ている。ハアトの強化ガラスを砕けるほどの怪力が振るわれているにも関わらず、鍋自体も変形することもなく。ガンガンガン、といっこうに変わる気配のない打撃音を吐き出していた。
「あれ……?」
「……こんなところまで、はあちゃまじゃなくなったの……?」
まつりもスバルも、まさかハアトの腕力が足りないということに驚く日が来ようとは思ってもみなかった。とはいえ今はそれどころではないのは明白だ。鍋を打ち鳴らしながらも不安げにこちらをうかがうはあとに、まつりは息も絶え絶えにうなずいてみせる。
「そ、その調子、はあとちゃん……! まつりたちも……騒ごう!」
「あーもう、訳わかんねェ! こうなりゃヤケだ‼︎」
スバルが気合の入った声を張り上げると、あまりの音量に台所中の皿がカタカタと身震いするような音を立てた。この大空スバルという少女には、鳥の声を聞き取る以外にも才能が多くある。例えば普段はセーブこそしているが、生まれついて大きかったゆえに本人のコンプレックスでもあったズバ抜けた声量である。それが部活動でさらに鍛えられ、今では試合中も声だけで相手を気圧せるほどの音量を誇るようになっていた。そんな彼女が、本気の怒号を絞り出せばどうなるか。
「っスー……起゛き゛ろ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
雷が間近に落ちたような、そんな轟音が辺りの空気を震わせる。もはやアパートの建材まで震えているような心地がした。そして、天井の向こうでは何かが床に落ちる衝突音。それもそうだ、こんな時間に突如聞こえてきたのがこの大音量の絶叫である。
『お、おい! な、なんだ今の⁉︎』
『こんな時間に誰⁉︎ 何があったの⁉︎』
アパート内の各部屋やら周囲の民家から何から異常を察した住人たちの困惑した声が聞こえてきた。当然ドアが勢いよく開く音も次々と響き、そして廊下のただならぬ様子に悲鳴が上がり始める。
「いやマズいって、調子に乗って叫んじゃったけど隣の人とか巻き込んで良いの?」
「大丈夫よスバル、さっきも言ったとおり今の侵入者はあいつらだもの。それとこれも言ってたとおり、ヤツらはどこかの機動隊とかそんなんじゃなくて表向きは一般企業の“私兵”にすぎない。さっきのガスもだけど、フツーの企業が武装した兵士なんて持ってたらフツー警察沙汰になるでしょ? つまりヤツらは存在を知られちゃいけないの、だから本来は騒ぎも起こしちゃいけない。つまり! 周りにまで騒ぎを広げさせて誰かに通報させればチェックメイト‼︎」
「んな他人任せな……こういうときは逆に誰も通報しないとか聞いたことあるけど……」
「でもスバル、玄関の外……けっこう、困ってるみたい……?」
少し体調を持ち直してきたまつりが、はあとの肩を借りて立ち上がりつつ玄関の向こうを指差す。
アパートの廊下では特殊部隊の隊員たちが揉めているようだった。どうにもこうにも、誰も彼もが慌てて話がまとまらないらしい。特殊部隊員が慌てふためく様は見ていて滑稽ではあったが、やはりその手の訓練をみっちり受けたはずの彼らがこうも簡単にパニックになるとは到底思えない。ということは本当にハアトには精神を掻き乱させる何かあるのかもしれない……が、だとすれば普段のアカイハアトと今の赤井はあとの違いは何なのか……?
「よかった、“廊下に特殊部隊がいる”って状況が効いたのかしらね。通報してる声が壁越しに聞こえ始めたわ。みんなパニック状態みたいだけど……通報先のオペレーターもそれくらい慣れてるでしょ。にしても、アタシとスバルとハアチャマの三人で騒げば何とかなるかもとは思ったけど、まさか一人で何とかしちゃうとはね……」
アメリアは嘆息しつつ笑っている。いやいや笑うにはまだ早いだろう、とまつりは口を尖らせた、ところで。
閃光。
稲光でもまだ足りないようなあまりに強烈すぎる光が辺りを包む。もはや空気そのものが光っているような、そんな感覚。まつりは視界の全てが白くなり目を開けなくなった。まぶしい、前が見えない。立っていられないほどのめまいに襲ってくる。
思わず目を瞑ったまつりの耳元で、ふと聞き慣れた声が聞こえた。
「巻き込んでごめん、まつりちゃん。目を開けて?」
そらの声だ。
うっすら目を開けると、あれだけ白一色だった目の前の光景が元に戻っている。少々散らかっている以外はいつも通りのスバルの部屋の光景。ただ、いつの間にか目の前にいるそらとイオフィ、それとなぜか自分達以外が棒立ちで呆然とみんな少し上を見上げている(ように見える)という点では不気味なことこの上なかったが。
「何コレ……スバルとはあとちゃん、あとアメちゃん……えーと、そこの、金髪の女の人も大丈夫なの?」
まつりはやっと頭の中のモヤが晴れてきたような感覚に浸りつつ、そういえばそらは初めて会うアメリアについてフォローを入れる。
「大丈夫! 三人とも起こしますね」
そんなまつりに反応してか、こちらはこちらで会うのは二回目のイオフィが口を挟んだ。さすがに自分にはそらに対してのような砕けた態度は取れないようで、何となくこの少女からは利発そうな雰囲気を感じる。いや、それよりもだ。『起こす』ということは、この状況はイオフィが引き起こしているということだろうか?
「自己紹介は三人を起こしてからにします……はい、もう大丈夫!」
イオフィがそう言う頃には、三人とも意識がハッキリして目のピントも正しく機能している感じに戻っていた。とはいえ、先ほどのまつりと同じくさっき意識があった瞬間からの突然の周囲の変化にギョッとしているようだが。
三人が落ち着くのを待ってイオフィは口を開く。
「遅くなりました、私はインドネシアからの……あーイヤ、これは“もう意味無い”か。そら姉さんのお友達のアイラニ・イオフィフティーンです、イオフィって呼んでね。それとここからが本題なんだけど……私たちは人間じゃありません」
「…………は?」
突然の告白に、困惑とも呆れともつかない疑問符がスバルの口を突いて出る。対するイオフィはというと冷静に言葉を返した。
「まずこんな状況を引き起こせる時点で、少なくとも二人が『普通の人間』じゃないことは分かって欲しいの」
「そ、それは分かるけど、そんなアニメみたいな……待って、私“たち”?」
「ごめんね、まつりちゃん。大学生っていうのも嘘なんだ。私は両親から生まれた“人間”じゃない、人工の……人とは別の生命体なの」
そらは静かに謝る。さっきまで優しい光をたたえていたハズの彼女の目が、急にガラスっぽい無機物的な何かに変わったようにまつりには見えた。