宮廷の天井は、星より高く、魂より遠い。
──などと、詩人ぶったことを考えてみても、この場の気まずさと退屈さは何も変わらない。
金糸をふんだんに織り込んだカーテン、吟味し尽くされた照明、無駄に広い床面積。
全てが帝国の栄光を表しているのだろうが、私にとってはただの見せびらかしだった。
金持ちの暇つぶしが、国家行事になるという地獄。
私はワイングラスの縁を指でなぞりながら、華やかな衣擦れの音を耳に流していた。
ピアノの音が踊りの拍子を支配するなか、令嬢たちは次々と舞踏会場の中央へと向かっていく。
「……あ、来たわよ。ローエングラム准将、いえ少将よ」
隣のローゼ・フォン・グリューンバッハがささやいた。
その声だけやけに湿っぽくて、熱っぽくて、私は一気に現実に引き戻された。
入ってきたのは、ひときわ目立つ男だった。
金色の髪、まるで気流を拒むようにふわりと浮いたまま肩に流れている。
浅い海を閉じ込めたような青い瞳、整った顔立ち──にもかかわらず、どこか妙に鋭い。
率直に言えば、キモい。
いや、美形なのはわかる。
人形のように整っている。
でも顔面偏差値の暴力がすぎるのだ。
どこか現実味がない。あと、たぶん絶対にナルシスト。
(鏡とか、1日2回くらいは微笑みながら眺めてそうだし、姉の話になると2時間は止まらなさそう。あれを正面から見つめて素敵とか言える人は、たぶん脳がアレなんだと思う)
そんな私の心の雑音など知る由もなく、周囲の令嬢たちは浮き足立ち始めた。
そわそわと化粧を直し、髪を撫で、ドレスの裾を整え始める。
グリューンバッハは肘で私の腕を小突いてくる。
「ユリア、挨拶しなきゃ。あなた紹介されたら、あの方の印象に残るかも」
(できれば印象どころか、記憶にも残りたくないのですが)
とは思いつつも、私は静かに立ち上がった。
キモい相手でも、エアハルト家の名を汚すわけにはいかないし、社交界の薔薇などという、誰がつけたのかわからない妙な二つ名がある限り、最低限の役割は果たさねばならない。
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、冷ややかに微笑んだ。
「ご令嬢、今宵の光を独占していらっしゃるようですね」
その声音は驚くほど落ち着いていた。
年齢よりもずっと上の貫禄と冷徹さを含んでいる。口調は丁寧だが、目は微塵も笑っていない。
(はい出ました。社交辞令に見せかけた自己演出。たぶん俺がそう言ったからそうなんだみたいな理屈)
「ご丁寧に。私はユリア・フォン・エアハルト。……あなたのご活躍、噂に聞いております」
金髪の小僧とか、ポークビッツとか。後、姉から色々。
「それは光栄です。ですが噂というのは、時に真実を歪めるものですから」
(その“真実”を修正するためにわざわざ自分で来たわけね。成り上がりって、やることが全力だなあ……)
そのときラインハルトの瞳が、ふと動いた。
舞踏会場の彼方、装飾花の影に隠れた古参貴族たちを一瞥し、無言で何かを計算するように瞬いた。
──その一瞬。
私は何故だかわからないが、喉がつまるような息苦しさを覚えた。
(……あの人、あれだけ偉そうな顔してるのに、たぶん誰も信用してない)
ほんの一秒、目が合った気がした。
けれどそこに私という存在は映っていなかった。
あの青い目は、誰かを見ていない。もっと遠く、もっと上。
空とか、宇宙とか、そんな途方もないものを睨みつけている。
(ねえ……あなた、どこまでいくつもりなの?)
舞踏会が終わってすぐ、私は脱力していた。
ドレスのコルセットは、たしかに完璧に仕立てられていたけれど、着ている人間の臓器には優しくない。
脚は棒のように腫れていたし、靴は中世の拷問具だと本気で思う。
何より、あのナルシスト将校との社交辞令ごっこが、精神的にとどめを刺してきた。
(……だれだよ、あれを帝国の光とか言ったの。むしろ直視できないから太陽だよ。目が焼ける)
部屋に戻ると、侍女たちが私の衣装を脱がせ始めた。
彼女たちは手際よく、かつ一切の言葉を交わさない。
それがありがたくて、同時にどこか物悲しいのは、私の心がどうかしてるのだろうか。
(でも喋られるよりはマシ。ラインハルト様、素敵でしたね〜とか言われたら、全員クビにしたかもしれない)
背中の留め金が外れたとき、ノックもなく母が入ってきた。
白銀の髪をねじ上げたまま、彼女は微笑すらせず、私の前に立った。
「ユリア。話があるの」
それだけ。
挨拶も前置きもない。冷蔵庫みたいな女だなと時々思う。
中は冷たくて、必要なものしか入っていない。
でも、彼女が本当に私に必要なものをくれたことは一度もない。
「エアハルト家として、政略上の縁談をまとめたわ。相手は、フォン・ブラウ家の次男。年齢は三十一、帝国軍准将。今のところ大きな醜聞はないけれど、二度の婚約解消歴があるのがやや難点ね」
私は聞いていないようで、ちゃんと聞いていた。
その内容も態度も、すべていつものことでしかなかった。
「お母様……二度って、結構、地雷だと思います」
「家のためよ。愛まであなたに求めていないわ」
いつだって母の言葉は正論で、ひどく冷たい。
私はゆっくりと椅子に座り、鏡に映った自分を見た。
化粧はまだ落ちきっていない。だけど目の奥がうすら笑っていた。
(ああ、また優雅に微笑む令嬢になってる。この顔、嫌い)
母はつとめて機械的に言った。
「あなたは、ゴールデンバウム王朝開闢以来の伝統ある我がエアハルトの名を守る義務があるの。わかっているわね」
(うん、わかってるよ。名前と、骨董と、ドレスのために生きるんだよね。私が)
私は微笑んだ。心のなかでは、すごく悪い言葉を呟きながら。
朝食の席で、父が新聞を折りながら言った。
「……ローエングラム少将、またやったらしいな。後方勤務の将校を一斉に左遷させたそうだ」
パンの代わりに苦虫でも噛んだような顔をして父は続ける。
「帝国軍の伝統を何だと思っているのかね。小僧一人が、どこまで勝手に……」
(伝統って言葉、だいたい使われるときは誰かの居場所を守る呪文なんだよな……。まあ、父の愚痴はだいたい若い者への文句で構成されているので、今日も元気そうで何より)
私はスープを一口すすりながら、新聞の見出しに目をやった。
「宇宙艦隊の人員整理」──どこかの御用記者が書いたのだろう、ずいぶんと中立ぶった文体だった。
ラインハルト・フォン・ローエングラム。
昨日、あの舞踏会であった金髪の自己主張が、今や粛清まがいの人事を行っているという。
(あー……やっぱりあの目つきは伊達じゃなかったんだ。人の人生、まとめて何人分かぐらい背負ってそうな目だったもんな)
思い出して、少しだけため息をつく。
別に彼が可哀想だとか、そういうことではない。むしろ私は彼が失脚すればいいと思っていた。
成り上がりの若僧が、旧家の序列を乱すのが気に食わない──とか、そういう高慢な動機ではない。
単に、あの手の輝きすぎた人間を見ると、こっちの色があせるからだ。
(でも、実際問題……あの人がいなくなったら、帝国はいつもの老いぼれた軍隊に戻るだけなんだよね)
パンに手を伸ばしながら、ふと思った。
あの人は、たぶん心底孤独だ。
自分の才覚に酔っているふりをしながら、誰のことも信用していない。
それは、どこか自分と似ている──ような気がした。
「ご令嬢、お手紙が届いております」
侍女が差し出したのは、極めて簡素な封筒だった。差出人の印はない。
けれどその筆跡は知っていた。国務尚書の下で情報を担当してる伯父の私信だ。
中には一枚の紙切れ。そこには一文だけ。
『ローエングラム派の動きを知りたい。お前の目は信用できる』
つまり貴族の娘の皮をかぶって社交界を歩いている私を、密偵として使いたいということだ。
私は紙を折り、静かにテーブルの下にしまった。
パンを食べながら、ふと窓の外に目をやる。
陽光の差し込む庭園、刈り揃えられた芝 どこもかしこも整っていて、何ひとつ乱れていない。まるで私自身のようだ。
(そうだな……かごの鳥って、ただ閉じ込められてるんじゃなくて、中からも眺められてるんだよね)
その日、私はふたつの決意をする。
ひとつは、婚約話を断る口実を探すこと。
もうひとつは、あの獅子の檻を外から静かに覗いてみること。
軍人たちの社交サロンというのは、だいたいが酒、制服、無駄に響く笑い声の三点セットでできている。
帝国暦四八五年のその日、私は伯父の指示でちょっとした観察のために招かれた席にいた。
もちろん表向きは伯父の代理でエアハルト家を代表するということになっているが、実際はラインハルト・ウォッチングが目的だった。
(……できれば観察とかじゃなくて、接近禁止距離の安全地帯から見たかったんだけどな)
しかし帝国の神は、今日も容赦なかった。
ライオンが来たのだ、サロンに。
金髪の整った顔の、気まずいほどのオーラをまとった獅子が。
「ああ、ローエングラム少将!」
誰かが声を上げ、空気が一気に緊張する。
見たくないと思っていても、ああいう人は目に入ってしまう。まるで意識が勝手に引き寄せられるように。
(うわ、ほんとに来た。っていうか、何で私の方見た?)
その瞬間だった。
彼の視線が真っ直ぐに私を捉えた。
そして会釈もなく歩いてきた。軍人の癖に礼儀も足取りも優雅すぎてムカつく。
「エアハルト嬢。ご機嫌いかがですか?」
目の前でまたしても完璧な発声。
この人、きっと寝言でも帝国の未来”とか言ってると思う。
私は、とっさに口を開いた。
そして──
「うわ、キモ……」
やってしまった。
一瞬、彼の目がわずかに見開かれた。
周囲の空気がフリーズする。ワインを注いでいた侍者の手が、ちょっとだけ震えていた。
私も驚いていた。
心の声が、そのまま口から出てしまった。
(あああああ、私の馬鹿。いくらなんでも面と向かってキモいは無い。死刑レベル。さすがに今のはヤバい……!)
けれど、ラインハルトは笑った。
あの目が笑わないことで有名な彼が、ほんの少しだけ──
本当に、ほんのすこしだけ、口の端を上げて笑った。
「率直なご意見、感謝します」
(うわ、あの笑い方、怖……え、なんで怒らないの? あとなんでちょっと嬉しそう?)
私は焦りすぎて、礼儀の代わりにグラスを持ち上げ無言で一礼した。
ラインハルトは、そのまま何事もなかったかのように他の軍人へと歩いていった。
背筋は真っ直ぐ、目線は遠く。
まるで自分が世界の中心で回転してると本気で信じているかのような歩き方だった。
(でも……ちょっと、あの時の笑い方、ズルい)
自室に戻って、ドレスを脱ぎ捨てるや否や、私はベッドに倒れこんだ。
天井を見上げると、昼の光がレースのカーテンを透かして揺れている。
世の中は今日も平和だ。私のメンタルを除いては。
(なんで、あんなこと言ったんだろう、うわ、キモ……って。あれ、口に出す予定なかったよね、私)
思い返すだけで、腹の底がジリジリする。
そりゃあ、私の内心なんて毒しかないし、皮肉屋で斜に構えてる自覚もある。
でもそれは心のなかでのつぶやきであって、リアル発声する予定ではなかった。
(……あの人、怒ってなかったな。むしろ、笑ってた。何? あれ、受けたの?)
ラインハルト・フォン・ローエングラム。
帝国が誇る、若き少将。輝かしい戦績、美貌、カリスマ。
そして何より、あのいちいち濃すぎる存在感。
(いや、ほんとにキモいって思ったんだよ。別に顔とかじゃなくて、全体的な情報量が多すぎて疲れるんだよ。あと、目が常に宇宙見てて怖いんだよ)
でも、正直に言うと──
(ちょっとだけ、話してて楽だった)
みんな、私の顔色をうかがう。
エアハルト家の令嬢という肩書きで、私を撫でる。持ち上げる。媚びる。
でも、彼は違った。私のことを誰でもない一個人として捉えていた気がする。
(まあ、捉えた結果キモいって言われたんだけど)
枕に顔をうずめたまま、ため息をつく。
婚約話は進んでいるらしい。
「皇帝陛下のお耳にも入り、好意的とのこと」とか、母は昨日言っていた。
エアハルト家の名のために、私は誰かの妻になる。愛とか希望とか、そういうのはついてこない。
でも今、ふと思う。
あのラインハルトって人も、たぶん誰の妻も要らないし、たぶん妻も彼を要らない。
(それって、少しだけ──羨ましいな)
私は窓辺に立った。
庭には薔薇が咲いている。母が手入れさせている花だ。美しい。でもどの花にも茎に支柱がついてる。
(私は、ああいう形を整えられた花なのかも)
その夜、伯父から再び手紙が届いた。
次回の舞踏会で、ローエングラム少将が改革案を上級貴族に非公式で説明するという。
ユリアに出席要請があった。
私はペンを手に取った。
手紙の末尾に、ただ一言だけ書き添える。
『了解。毒を吐く準備、しておきます』
再び彼と顔を合わせることになったのは、もっとずっと先のことだと思っていた。
けれど運命というのはたいてい私の予定表を無視してくる。
場所は皇帝陛下御前の私的晩餐会。
要するに、偉い人たちだけが呼ばれるちょっと重いパーティーである。
私はエアハルト家の代表という建前で出席していた。
しかし心の中では「もう早く帰って寝たい」で満たされていた。
そして彼が現れた。
ラインハルト・フォン・ローエングラム、またの名を情報量の暴力。
彼は陛下の席に近づいて、恭しく一礼した。
──その時だった。
彼の目が、ヤバかった。
(……え、何その目……怖……いや、怖すぎない?)
それは臣下が君主を見る目じゃなかった。
祈りでも忠誠でもない。むしろその逆。
(あれは──獲物を見る目。もっと言えば、簒奪者。……そう、帝位を取れるって分かってる奴の目)
私は震えそうになる指先を、そっとドレスのひだに埋めた。
あんな目で皇帝を見た人間、過去にいただろうか?
そして恐ろしいことに──皇帝陛下は気づいていない、あるいは気づいていて放置しているようにすら見えた。
(いやいやいや、気づいて? さすがに気づいて? もう目が完全に次の王位継承者モードだったよ?)
会の終盤、今度は彼の姉──アンネローゼ嬢が現れた。
そして彼の視線が、彼女に向いた瞬間。
私は本能的に感じた。
あ、これもヤバい。
(……ああ、これは……絶対シスコンだ。いや、普通に姉思いなのはわかる。美人だし育ちも良さそうだし。でも、そういうレベルじゃないのよ。目つきが姉は俺の宗教みたいな感じ)
姉が軽く微笑むたびに、彼の顔の筋肉がちょっとずつ緩む。
あれだけピリついていたのに、目元が一気に安堵に変わるのが、もはや笑えるほど極端だった。
(この人、戦場でも姉の写真とか持ち歩いてそう。しかも、誰にも見せずにそっと布で包んでそう)
姉弟の会話が聞こえない距離で交わされるたびに、私は心のなかで何度も突っ込んでいた。
(いやこれ……もし姉が誰かと結婚したら、絶対その相手、事故に遭うやつじゃん……)
そんなくだらない想像をしていたら、ふとラインハルトがこっちを見た。
目が合った。
今度は笑わなかった。
でも──少しだけ、目元が緩んだ気がした。
(……あれ、いまの、なんだ?)
何あいつ、キモい。
と、私は帰りの馬車の中で三回くらい呟いた。声に出して。
「何あいつ、キモい……っていうか、なんなんあれ。いやキモいわ、無理」
もう言葉がどんどん雑になっていくのが分かるけど、しょうがない。今日のあれは本当にヤバかった。
皇帝を見てたあの目。
姉を見てたあの目。
そして、最後にこっちをチラ見したあの目。
(何あいつ、全部支配か感情しかないんだけど……人間ってあんなに顔で喋れるの?)
私が知ってる貴族の男たちは、みんな顔に退屈と責任と家の重みが刻まれてる。
でもあいつは違った。野心と情熱と感情の塊。正直、引いた。惹かれたとかじゃなく、引いた。
でも……でもね。
ああいう人、目が離せなくなるのも事実で──
(って、何考えてんの!? 違うでしょ、私はあいつの監視役なんだから!)
馬車の窓に映る自分の顔が、頬を赤くしていたのに気づいて、慌てて視線を逸らす。
馬車が揺れるたび、何かが胸の奥で引っかかる。
(ほんと、何あいつ……キモいのに……なんか……気になるのが、もっとキモい)
アンネローゼ・フォン・グリューネワルトとは、表向きには「友人」、実際には「数少ない本音で話せる相手」だった。
彼女の屋敷に招かれると、私はつい気が緩んでしまう。
どれだけ優雅でも、アンネローゼの紅茶はちょっと濃いのがご愛敬だった。
(まあ、あの弟と一緒に暮らしてたら、味覚も防御力も強くなるよね……)
彼女は静かに微笑みながら、お茶を注ぎながら訊ねた。
「ユリア……弟のことで、何か?」
私はスプーンを置いた。
このタイミングで言わなければ、一生言えない気がした。
だから言った。
「おたくの弟さん、ちょっとキモいですよ」
言った、言ったぞ私。
アンネローゼの指先が、ほんのわずかに止まるのが見えた。
でも彼女は笑った。
「あら……そう思う人、少なくないでしょうね」
意外と、あっさり受け止められたことに驚きつつ私は続けた。
「いや、顔がどうとかじゃないんです。むしろ顔は整いすぎてて、もう逆にありがたみが薄いレベルで……」
「ええ、わかります」
「目とか、怖くないですか? 皇帝陛下を見下ろす未来が見えてる人の目ですあれ」
「……あの子、昔からああだったの」
「それと、姉を見る目もヤバい。あれ絶対、拝んでますよね? 神棚に姉の写真とか置いてますよね?」
「ふふ、そうかしら。でも、私には優しいわよ?」
「それが一番ヤバいです」
二人で顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。
(こんなふうに笑える相手が、あのラインハルトの姉だっていうのが、またややこしいんだけど)
紅茶の香りが、いつもより少し柔らかく感じた。
そして私は、気づいていた。
「キモい」と思いながら、私はもうあの人の話を、自分の話みたいにしている。
それが、ちょっとだけ──怖かった。
あれから数日後。
またしても想定外の展開は、だいたいあの姉弟経由でやってくる。
私がいつものように読書していると、執事がやってきて告げた。
「ローエングラム少将がお見えです。お話があると」
──来た。ついに来やがった。
通された応接室で、金髪の人型情報過多が、やけに静かな顔で待っていた。
彼は無駄に立ち姿がきまっていて、それがまたムカつく。
「ユリア・フォン・エアハルト嬢。姉から、あなたが私のことをキモいと評したと聞きました」
……アンネローゼ! ばらしたな、あの人はあの人で大概すぎる……!
だが今さら動揺したところでどうにもならない。
私はため息をひとつ、きれいに吐いた。
そして毅然と立ち上がって言った。
「事実です。訂正する気はありません」
ラインハルトの眉がほんの少しだけ動いた。
でも怒らない。
彼は怒らない種類の危険な人間だ。
むしろ計算を始めた顔をしている。
だから私は畳みかけた。
「あなたのことを、嫌っているわけじゃありません。ただ──危険すぎると思っているだけです」
彼の目が微かに鋭くなった。
でも私はやめない。
「あなたの目つき、簒奪者みたいなんですよ。誰かに与えられるのを待ってるんじゃなくて、奪って当然と思ってる目。そういう人間を、私は信じられません。そしてあなたが時折見せる社会全体への憎しみも。そういうものを無自覚で撒き散らす人は、もっとも恐ろしいです」
ラインハルトは何も言わなかった。
彼はただ、こちらを見ていた。真っ直ぐに。何も遮らず何も隠さず。
そして私は最後にこう言った。
「アンネローゼは私の友人です。とても大切な人。だから、もしあなたが自分の野望のために彼女を傷つけるようなことがあれば──」
私はゆっくり、冷静に、でもはっきりと告げた。
「私はアンネローゼを連れて逃げます。あなたから。帝国から」
空気が少しだけ張りつめた。
でもそれは恐怖ではなく、覚悟の気配だった。
ラインハルトはしばらく沈黙し、そしてようやくわずかに笑った。
「あなたは、面白い人ですね」
(うわ、やっぱキモい……)
昼下がりの書斎。窓の外にはやけに優しい光が差していた。
こんな平和な日も帝国のどこかでは陰謀が動いていて、そしてそのほとんどにローエングラム少将の影がある。
(……まったく、あのキモい成り上がり、どんだけ頑張ってんの)
紅茶を一口飲み、深いため息をついたその時──
ノックの音。訪ねてきたのはアンネローゼだった。
彼女はいつも通りの穏やかな微笑みをたたえながら、「少し話せる?」と聞いてきた。
私たちはソファに並んで座り、無言のまま数秒を共有した。
そして私は言った。
「ねえ……やっぱり、あんたの弟、キモくてヤバいよ」
アンネローゼは、一瞬だけ目を瞬かせた。でもすぐに、ふっと微笑む。
「うん、そうかもしれないわね」
受け止めてくれる。それが彼女の強さだ。
でも私は続けた。今度は少し真面目な声で。
「冗談じゃないの。ほんとにヤバい。あの人、時々、帝国の天井を見てるの。普通の人は見ない、もっと先の、もっと怖い場所。あの目の奥には、たぶん怒りとか寂しさとか、悲しみとか、そういうのが全部ごちゃ混ぜになってて──でも、だからこそ何をするか分からない危うさがあるの」
アンネローゼは少し俯いた。
でも否定しなかった。それが答えだった。
私はそっと彼女の手に触れた。
細くてしなやかで、それでも今まで彼女が耐えてきた重みが皮膚越しに伝わってくる。
「だから、もしこの先──本当に危なくなったら」
私は真っすぐ彼女を見た。
「一緒に逃げよう。どこへでも。帝国の外でも、辺境でも、他国でも。あんたとなら、どこへでも行く」
アンネローゼは微笑んだ。とても優しく、少しだけ悲しげに。
「ありがとう、ユリア……でもあの子がそうなる前に止めたいの。私は、そう願ってるの」
私は小さくうなずいた。
(止められたらいいけど……でも、もしダメだったら──そのときは、私があんたを連れ出す。絶対に)
それは誓いだった。
友情の、そして一人の女としての、覚悟だった。