キモいあいつと私   作:キューブケーキ

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第2話

 帝国歴四八八年九月二十六日。

 夜明け前、エアハルト家の屋敷に急報が届いた。

 ラインハルト・フォン・ローエングラム──あの金髪の野心家が、皇帝の後継者として正式に名乗りを上げたという。

 帝都の空気は一変した。

 朝靄すら、なにかの序章のようにざわめいていた。

 私は報告書を見たあと、無意識に口に出していた。

「あいつ、やりやがった」

 声が震えていた。怒りでも驚きでもなく、なんというか、確信の現実化にぶち当たった感覚だった。

(やっぱりな。やると思ってたよ、ずっと前から思ってたよ。あの目つき、完全に簒奪者だったもん)

 しかも、周囲は拍手喝采らしい。

 旧貴族たちの一部はすでに手のひらを返し、新体制への忠誠を表明しはじめているという。

「逆賊め……いや、歴史を塗り替える王子気取りのヤバいシスコンめ!」

 私は椅子を蹴るようにして立ち上がり、書斎を出た。

 今、私がしなければならないことは一つだけ。

 アンネローゼを守ること。

 あの弟から。いや、あの思想をまとったシスコン兵器から。

 彼女は、まだ屋敷にいたはず。

 でも、こんな事態になれば姉を傍に置こうとするに決まっている。

 皇帝の姉として新秩序の象徴に仕立て上げようとするに決まっている。

(やばいやばい、絶対逃げないと。アンネローゼ、今すぐスーツケース詰めて。パスポートとかいらん。あの目が見えたら、それが亡命の合図だから)

 私は急いで手紙をしたためた。

 例の件、発動します。荷物は最小限で。弟を信じないで。愛しても信じちゃダメ。

 ──サインの代わりに、星印を三つつけた。それが合図だ。

(あいつ、絶対「アンネローゼだけは支配しない」って思ってる。でも、そう思ってる時点でもう支配だからな?)

 怒りもあった。

 でも、それ以上に、本能的なヤバさの警報が鳴っていた。

 私は、ずっと前から知っていた。

 あの男が、キモいを超えた領域に行くタイプの人間だってことを。

 ――だから、守らなきゃいけない。

 アンネローゼを。

 私たちの友情を。

 それと、たぶん……帝国が持っていた最後の優しさを。

 

 

 

 

 アンネローゼからの返事は、いつもの花押ではなかった。

 その代わりに、手紙の端に小さな星印がひとつだけ――

 了解のサインだった。

(よし、来た……これで逃げられる。まだ間に合う)

 夜の帝都は不自然に静かだった。

 反対派の動きは封じられ、街の壁にはローエングラム新政権を讃える標語が貼られはじめている。

 その様子をリニアカーの窓から眺めながら、私は思った。

(本当に帝国の夜明けなんだな。でも、あいつの作った夜明けは……まぶしすぎて、目が潰れるわ)

 アンネローゼとの逃走計画は、実にシンプルだ。

 翌夜、帝都西端の離宮で私的晩餐会が行われる。

 そこに私とアンネローゼが揃って出席する。

 裏門から脱出、準備しておいた船で非公式に脱出。

 完璧。私にしては完璧すぎてちょっと不安。

(……いや、むしろ完璧すぎるのが怖い。あいつ、気づいてるんじゃ……)

 宇宙艦隊と帝国軍を牛耳ると最高司令官。刃物をヤバいやつに与えてはいけないと思った。

 思考がそこまで辿り着いた時だった。

 リニアカーが一度、わずかに揺れた。

 誰かが道の真ん中で止まっている。

 窓から覗くと──

 金髪の男が、そこに立っていた。

 まるで、あらかじめ「この場所、この時間」を知っていたかのように。

 まるで、私の未来の逃げ道を読み切ったかのように。

(うそでしょ……)

 ラインハルト・フォン・ローエングラム。

 その目は夜を切り裂くように鋭く、それでいて、どこか哀しげな光を湛えていた。

 リニアカーが止まり、扉が開く。

 彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。

 一歩ずつ、逃げ場を塞ぐように。

(やっぱキモいって。だから怖いって。なんでそうなるの……)

 私は震えそうになる手を、手袋の中でぎゅっと握りしめた。

 そして自分に言い聞かせた。

(いいか、私はあんたからアンネローゼを連れ出す。それが私の役目。あんたが正義を名乗っても、帝国になっても──)

「私は、あの人の友達だから」

 リニアカーの中、心だけがどこかで叫んでいた。

 

 

 

 

 金色の獣がリニアカーの窓をノックした。

 ノックは一度だけ。なのに心臓は三回跳ねた気がした。

 扉が開き彼が乗り込んできた。

 何の遠慮もなく。まるで、そこが自分の席かのように。

(うわ、図々しい。っていうか会話がある前提で乗ってくるの、マジキモい。やっぱこの人、地球が自分を中心に回ってると思ってる)

「おひさしぶりですね、エアハルト嬢」

 ラインハルト・フォン・ローエングラム。

 もう少将ではなく、帝国を揺るがす中心点となった男。

 その目は疑っている。確認している。

 ──でも私は、あえて何も知らない顔を選んだ。

「まあ、元帥閣下。光栄です。お声をかけていただけるとは」

 声色は涼やか、目線は正面、心は超警戒。

(なんであんたがここにいるのかなんて、聞くわけがない。聞いた瞬間、あ、やっぱ知ってるんだねってなるから)

「今夜、どちらまで?」

「ご招待いただいた離宮へ。晩餐会にてアンネローゼ様にお会いできるのを楽しみにしております」

(そう、招待されたから行くだけ。決して連れ出すためではない。今の私は無垢な貴族令嬢。ちょっと能天気でもむしろ自然)

「何か特別なご予定でも?」

「まあ……晩餐の後はきっと音楽などもあるでしょうし。舞曲などもお好きですか?」

(話題を軽く振っておく。特に何も考えてませんけど? 感を全身に出す。これ重要)

 彼は、笑わなかった。

 けれど、目の奥がわずかに揺れた。

 本当に何も知らないのか? と問うように。

 その問いかけに、私は目線を少しだけ外して窓の外の流れる街を見ながら、ぽつりと呟いた。

「……帝都は、少し騒がしいようですね」

「ええ。大きな変化の時代ですから」

(何も知らないフリ成功。でもやっぱこいつ、目が怖い。国ごと壊して再構築するやつの目してる)

「それでは、また後ほど離宮で」

 ラインハルトはそう言って、リニアカーから降りた。

 その背中が遠ざかるのを確認したあと、私は小さく呟いた。

「──気づいてないフリ、って疲れるんだよね……ほんと」

 

 

 

 

 晩餐会の離宮は普段よりも静かだった。

 花は咲きすぎず、音楽は控えめで、貴族たちの会話もどこか抑制されている。

 ──そう、何かが起こることを皆が知っている空気。

 アンネローゼは予告通り姿を見せた。

 柔らかな水色のドレス。

 目を合わせた瞬間、彼女は微かにうなずいた。

 それで十分だった。

(OK。逃げるよ、今夜。あんたがいなきゃ、帝国の夜明けなんか知ったこっちゃない)

 計画は順調だった。

 裏口にはリニアカー。外には変装用のマント。

 侍女たちにも口止め済み。

 音を立てずに移動し、そっと門を開け──

 そこで、いた。

 月明かりの下、白と金の軍服。

 あの何もかも知ってますフェイスで、ラインハルト・フォン・ローエングラムが立っていた。

 さすがに心の声が出そうになった。

(え、ちょっと待って、なんで!? なんであんたここにいるの!? GPSでもつけてんの!?)

 アンネローゼがわずかに立ち止まる。

 私が前に出る。もうこうなったら正面突破しかない。

「道を空けてください」

 静かに言った。声が震えなかったことが自分でも信じられなかった。

 ラインハルトは目を細めた。

 その声は穏やかだった。

「姉上をどこへ?」

「どこでもいい。帝国じゃなければ。──あんたの理想に飲まれずに済むなら、砂漠でも廃墟でも構わない」

 ラインハルトのまなざしが一瞬だけアンネローゼへ向けられた。

 その目は誰よりも優しく、誰よりも支配的だった。

(……だから、それがダメなんだって。無自覚に世界を囲い込む目なんだって。優しさで殺すタイプ)

 私ははっきりと言った。

「彼女はあんたのシンボルじゃない。あんたの物語の飾りじゃない。彼女は私の友達なの。守るって決めたの。勝手に利用させない」

 風が吹いた。

 ラインハルトの髪が揺れ、彼の口がゆっくり開いた。

「そうですか。……ならばお二人とも、お好きにどうぞ」

 ──通した。

(通すんかい!!)

 一瞬の間に全身の力が抜けた。

 足が勝手に前へ出る。アンネローゼと手をつないで夜の道を歩く。

 ラインハルトは微笑んですらいた。

(でも……なんであんな顔するの。まるで、自分が敗北したみたいな……)

 背後で門が閉じる音がした。

 それは、たぶんあいつが姉を手放した音だった。

 

 

 

 

 何もないというのは、恐ろしくて安心する。

 馬の背に揺られて何日も。道なき山道を抜け、ようやくたどり着いた先──

 それが私が用意しておいた何もない場所だった。

 帝都から遠く離れた、帝国地図の端っこ。

 唯一の交通手段は、馬か、徒歩。

 住民票? もちろんない。

 唯一あるのは、古びた小屋と手つかずの畑。

(畑? いや、草原だったよね? これから畑になる予定ってことで合ってるよね?)

 アンネローゼはそんな私の心のツッコミをよそに、そっとマントを脱ぎ、土を一瞥して微笑んだ。

「……こういうの、ずっと夢だったかもしれない」

 その笑顔が嘘じゃないと分かった瞬間、逃げてよかったと本気で思った。

 それから、私たちの生活は始まった。

 朝は早い。

 陽が昇るより前に起きて、畑に水をまく。

 鍬を握る。鍬が重い。

 草を取る。草が生えてくる。終わらない。

(あのキモい弟が知ったら農業改革計画とか立てそうだから内緒にしとこう……)

 昼は簡単な食事。

 基本はスープとパン。たまに卵がある。

 贅沢はなし。贅沢は、いいっこなし。

 食べられたら、それでいい。味はあったらラッキー。

 夜は星を見る。

 会話は静か。

 それでも、ふたりでいるから寂しくはない。

(この生活、貴族でも帝国でもなくて、ただの人間としての時間って感じ)

 アンネローゼは、花を植えるのが好きらしい。

 私はジャガイモを選んだ。

 理由? 収穫量が多いから。腹の足しになれば十分。

 ある晩、焚き火を囲んでふたり、

 虫の音を聞きながらぼんやりしていたときアンネローゼがぽつりと言った。

「ユリア、ありがとう。本当に、あのままだったら……」

 私は何も答えず、鍋の中の煮込みをかき混ぜた。

 でも、内心では思っていた。

(あの弟に見せてやりたいわ、この泥まみれの生活を。……いや、絶対管理計画とか言い出すから見せない)

 帝国がどうなっているかは、わからない。

 でも、ここではジャガイモが少しずつ芽を出し、アンネローゼの花が音もなく咲いている。

 それで今は十分だった。

 アンネローゼは少しだけ泣いた。

 焚き火の火が小さく揺れて、湯気の向こうに彼女の横顔が滲んでいた。

 私は黙っていた。

 励ましの言葉も、慰めも、今はどれも雑音になる気がしたから。

 でも彼女が「ごめんね」と呟いた瞬間、私はそっと、鍋の蓋を閉じて言った。

「……ええんやで」

 変なイントネーションになったのは、わざとだ。

 重くなりすぎる空気を、少しでも崩したかった。

 彼女は少し笑って、でもまた目を伏せた。

 そしてぽつりと呟いた。

「私……ラインハルトのこと、ずっと守ってあげたいと思ってたの。あの子は、あのままじゃ壊れるって。でも……気がついたら、私のほうが逃げたくなってて……」

 私は薪をひとつ火にくべて、炎を見ながら言った。

「……だってあいつ、完全にシスコンこじらせてたもん」

 アンネローゼがちょっと肩を揺らした。笑ったのか、泣いたのか、たぶんその両方。

「……近親相姦とか、絶対にそんな……」

 私は、はっきり言った。

「迫られる前に逃げて正解でしょ。こっちの勝ちだよ。あの帝国の顔面金獅子に自分の人生食われる前に出てこられたんだから」

 それは冷たくも聞こえたかもしれない。

 でも本心だった。

 私は、彼を理解しようとは思わない。

 彼の理想や痛みや孤独にも、踏み込まない。

 ただ、私の大切な人があんなヤバい目に遭わされるのはまっぴらごめん──それだけだった。

 アンネローゼは、火を見つめながら言った。

「私、あの子のことを愛してるわ。でも……ユリアと一緒にいると、呼吸ができるの」

 私はそっと薪を足した。

「じゃあ、ここにいなよ。ここはあいつの正義が届かないとこだよ。あんたの人生は、あんたのもんだし──なんなら、土に還ってもいい場所だからさ」

 星がひとつ流れた。

(願い事? もう叶ってる。私は、あの人を救ってあげた。……多分)

 

 

 

 

 朝は畑、昼も畑、夕方は鍬の手入れ。

 そんな日々を過ごすうち、私はついに悟った。

「ジャガイモは、裏切らない」

 成長は地味だが確実。口数は少ないが栄養価は高い。

 文句も言わず、土の中で勝手に育つ。

 ──男だったら結婚してた。

(いやほんと、男社会におけるジャガイモのような人材がどれほど貴重か……。でも現実はだいたい腐りかけたカボチャ)

 アンネローゼは花壇で小さな花を育てている。

 私たちは静かに、自分の生活を作っていた。

 ──そう、見られていないと信じていた頃までは。

 

 

 

 ある日の午後、物音に気づいた。

 屋敷の裏。獣の足音ではない。もっと軽い、人間の足取り。

 私は鍬を置いて物陰からじっと目を凝らす。

 ──そして、見つけた。

 木陰に潜むひとりの男。偽装網とか偽装材料で隠蔽、掩蔽、偽装、欺瞞してる訳じゃない。

 だけど帝国軍制式の軍靴。肩の動き。姿勢。間違いない、訓練された観察要員。

(あー……やっぱ来てた。来てたわー……あのキモい金髪絶対「監視くらいは許される」とか思ってたわー)

 私はあえて気づかないふりをして畑に戻り、心の中でメモを取る。

 靴は音が消せない。監視員はジャガイモを見ても無表情。あの弟、私たちの暮らしを全部「情報」として処理してる可能性あるな。

 その夜、アンネローゼにそれとなく伝えた。

「庭の向こうに……たぶんあの人の目がある。気にしなくていいけど、知っといて」

 彼女は一瞬黙って、それから小さく言った。

「……そう。やっぱり、あの子、何も諦めてなかったんだね」

 そして、それきり話題にはしなかった。

 けれど翌日から彼女の花壇は少しだけ奥に移され、私のジャガイモにはより深く土が盛られていた。

(見られてるなら、見せてやるさ。これが自由に暮らすってことだって。ただし近づいてきたら鍬で叩くけどな)

 

 

 

 封筒は、帝都から届いた。

 差出人はなし。けれど、分かっていた。

 この紙の質、この香り、封蝋の押し方──

 そして手紙の書き出しが、何よりそれを裏付けていた。

『ユリア・フォン・エアハルト嬢。お変わりなく過ごされていることを願っております──』

(──うわ。来た。フラグ、来た。)

 全文を読まずとも、何が書いてあるか察しがついた。

 そして、読めば読むほど背筋が冷えていく。

『あなたの知性と判断力、そして姉への変わらぬ友情に、私は深く敬意を抱いております。帝国に必要なのは力だけではない。温もりと冷静さを兼ね備えた人材です。──私はあなたに、未来を共に歩んでほしいと考えております』

 結論:プロポーズだった。

(おまえが言うな! 自分の姉を象徴にしておいて、今度は私を象徴にしようとしてるのおかしくない!?)

 手紙を読み終え、私は薪ストーブに火をくべた。

 すぐに燃やすつもりだった。でも、できなかった。

(……あああ、これ、捨てたら負けた気がする……でも取っといたら返事待ちっぽくなるし、やだ……)

 アンネローゼには何も言っていない。

 彼女も気づいているだろう。でも触れてこない。

 夜。焚き火のそばで、私は一人ごちた。

「……何考えてんの、ほんとに」

(恋愛って何? 愛ってどこから? ノーマルだけどピンときてない私に、国ごと背負ってる男が求婚って、恋愛ゲーム間違えてない!?)

 でも、彼がなぜ手紙を寄越したのか──それだけは分かっていた。

「アンネローゼを返せ」と言えなかった代わりに、私を迎えようとしてる。

 それは支配じゃない。執着でもない。たぶん、

 ──一種の交渉。

 けれど私は、そっと返事の代わりに庭のジャガイモに水をやった。

(ああもう……ほんとやだ。男、ジャガイモしか信用できない。)

 返事は書かなかった。

 インクも使わなかった。封筒も用意しなかった。

 私が送ったのは──塩。

 自家製。山奥の湧き水を煮詰めて作った、ごく普通の、白い粒。

 丁寧に瓶詰めして、ラベルは無記名。送り主すら伏せた。

 でも届けば分かるはずだ。これが私の答えですと。

(これ以上にハッキリしたノーってある? わざわざ作って送ってるんだから、むしろ丁寧でしょ)

 山の小屋で、火に薪をくべながら言った。

「塩、送ったよ。ちょっとしょっぱいけど、私の気持ちってことで」

 アンネローゼは苦笑しながら紅茶を差し出した。

「……本気で塩だけ?」

「本気。だって口で言うとこじれるタイプなんだもん。あの人」

(ちゃんとノーを伝えた。ジャガイモとともに生きる、平和な未来を守るために。……そう、私は野菜を選んだ女だ)

 

 

 

 一方、帝都。

 ラインハルト・フォン・ローエングラムは、机の上の小瓶をじっと見つめていた。

 重厚な書簡ではない。密使ではない。

 ただひとつの塩の瓶。

 彼は何も言わなかった。

 だが、その横でキルヒアイスがそっと目を伏せた。

「ラインハルト様……これは」

「……分かっている。ユリア嬢らしい、返答だ」

 ラベルには何も書かれていない。

 それでも彼は瓶を手に取り、微かに笑った。

「伝わってきた。十分に」

 白い磁器の小皿に、瓶からすくったわずかな塩粒が載せられた。

 キルヒアイスが眉をひそめる横で、ラインハルトはそれをつまむ。

 そして静かに口元に運んだ。

 ぱらり、と舌に落ちる。

 味は──強すぎず、淡すぎず、透明なミネラルの輪郭がふわりと広がる。

 ラインハルトは目を細めた。

「……これは良い塩だ」

 料理長が恐縮しながら言う。

「ど、どうなさいますか、陛下。これは──その、エアハルト嬢の……」

「そのまま肉料理に使え。最高の肉に、最高の塩を」

 キルヒアイスが咳払いを一つ。

「……ラインハルト様。これは、断られたということでは?」

「そうだな」

 ラインハルトはあくまで静かに、まるで政務報告でも聞くように淡々と続けた。

「だが、塩を送るという選択肢を取るあたりが、彼女らしい。美しく、冷静で、感情に溺れず、それでいて──丁寧だ」

 しばしの沈黙。

「ユリア・フォン・エアハルト……やはり、あの女は惜しい」

(──まだ諦めてなかった)

 その夜、ラインハルトは塩をひとつまみ指先に乗せたまま誰にも言わず、それを見つめていた。

 それはただの塩。

 けれど彼にとっては拒絶であり、誠意であり、なおかつ可能性だった。

 

 

 

 アンネローゼ宛に、一通の手紙が届いた。

 封蝋は帝国宮廷のものだが、差出人は個人名――ジークフリード・キルヒアイス。

 彼は決して多くを語らない男だ。

 けれど、その手紙には珍しく感情が滲んでいた。

 

 

 

 

 アンネローゼ様へ

 

 突然のご連絡をお許しください。

 

 私は、ラインハルト様のご様子について、お伝えすべきことがあると考え筆を取りました。

 

 ──ラインハルト様は、ユリア・フォン・エアハルト嬢のことを観察されているご様子です。

 観察という表現を用いたのは、私自身が好意や執着と断定できないためです。

 ただ、それがラインハルト様の心の一部を占めていることは確かです。

 

 もし万が一にも、ラインハルト様が私情と政治を混同するような時が来たならば──

 

 どうか、止めていただけませんか。

 

 私には、それをなさることができません。

 

 敬具

 

 ジークフリード・キルヒアイス

 

 

 

 手紙を読み終えたアンネローゼは、ゆっくりと紅茶を置いた。

 静かに呟いた。

「……やっぱりね」

 ユリアはその横でジャガイモの皮を剥いていたが、思わず手を止めた。

「え、なに? それ、弟がノンフィクションで怖いお知らせ?」

 アンネローゼは微笑んで、手紙を渡す。

 ユリアは無言で読み、そして読み終えたあと──

 ため息のような、呟きのような一言をこぼした。

「……うっわ。あの人、良心ナビついてたんだ」

 ユリアは皮を剥きながら言った。

「で、これって……そろそろこっちにも動きますよって警告?」

 アンネローゼは静かにうなずいた。

「かもしれない。でも……私たちの塩の味、あの子は忘れてないんだと思うの」

「塩、気に入ったのか……」

(……惚れ直すな。ほんとにもう)

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