キモいあいつと私   作:キューブケーキ

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第3話

 春もトラブルも、いつも唐突に来る。

 この山の空気に混ざる霜の気配が、ふと抜け落ちたその朝。私は、たしかに春が来たと理解した。

 でもそれは詩情ではなく、腰の鈍痛によってである。

 どうも、土というのは人を老けさせる。

 ガチで腰が痛いんだわ。

 畑には芽吹きかけたジャガイモ。

 花壇には、アンネローゼが丹精こめて植えたビオラが揺れている。

 並んだそれらを見て私はよく思う。

 私たち二人の趣味はほんとに極端だ。

 彼女はビオラを愛し、私は芋を信仰している。

 美しさと栄養価、そのどちらが重要か。これは人間の哲学であり昼食のメニューでもある。

「ユリア、今日のスープにはハーブを使ってみるつもりよ」

 そう言って彼女は小さな花壇に屈み、ローズマリーを摘んでいる。

 ハーブ腹の足しになるかはともかく、私はその背中を見ながらジャガイモの芽に黙って水をやる。

 植物と違って、言葉を交わすのが苦手な私たちにとってこういう沈黙は居心地がいい。

 それにしてもジャガイモは裏切らない。

 水と日照とたまに話しかければ、ほとんど文句も言わずに育ってくれる。

 たぶん、男よりずっと頼れる。

 帝国?

 ああ、そんなものもあったね。という気分だった。

 あそこは今ごろ、改革がどうのこうのと騒がしいらしいが、私たちはこの田舎で第二の人生を始めてから新聞というものを一切購読していない。

 というか配達が来ない。古典的名曲の吉幾三ではないがド田舎だから。

 たまに山鳥の代わりに飛んでくるのは、帝国製の靴音だ。

 今朝もまたいた。

 茂みの奥にちらついた黒い影。

 こっちが見ないふりをすれば、向こうも黙って草の陰でじっとしている。

 無言の監視。帝国流の挨拶かもしれない。

(……あー。やっぱり来てたかー。塩送ったのにー。なんであの人、こっちのノーをこうも丁寧に無視できるんだろう)

 私はため息をひとつだけついて、鍬を置いた。

 腰を伸ばすと、天頂にまだ薄い雲がかかっていた。

 春の空はすべてを黙って見下ろしている。

 花は咲く。芋は育つ。

 そして帝国はしつこい。

 ストーカーかよマジで。訴えるぞ。

 

 

 

 

 午後になって少し風が出た。

 春というのは、暖かさと冷たさの境界をぐらつかせる季節だ。

 だから、うっかりすると気分も揺らいでしまう。

 そんな時間帯だった。

 足音が近づいてきた。

 私は反射的に鍬を立て、土の中へと刃先を突き刺した。

 畑を守る姿勢。もはやこれは本能である。

 泥だらけの長靴姿のまま、私は敷地の奥に視線をやった。

 来たのは──赤毛の男だった。

(……おい)

 ジークフリード・キルヒアイス。

 帝国軍の上級大将閣下。宇宙艦隊副司令官で、ラインハルト・フォン・ローエングラムの影みたいな人。

 そのお偉いさんの姿を見た瞬間、私の脳内では非常ベルが鳴りっぱなしだった。

(え、ちょっと待って? マジで来たの? ていうか、お前も?)

 彼はまるで友人の家を訪ねるような気安さで敷地内を歩いてきた。

 私は素早く鍬の泥を払って、玄関の前に立った。

「……ようこそ。観光ですか?」

 それが限界の社交辞令だった。

 本心はこうだ。

 ――ストーカーかよ。マジで訴えるぞ。そう思った。

「いえ。ご様子を少し……伺えればと」

 キルヒアイスの口調は、あいかわらず丁寧すぎるほど丁寧だった。

 だけど目が笑ってない。あれは観察者の目だ。

 私はほぼ無表情で言った。

「畑なら、ジャガイモがいい感じです。あなたに見せるために育ててるわけじゃないけど」

「承知しています。あの……これは、お渡ししても?」

 そう言って彼が差し出したのは、封筒だった。

 分厚くもなく軽い。

 ナンジャラホイ。

 それでも、私は指先がわずかに冷えるのを感じた。

 受け取ったとたん、封蝋を見て息を吐いた。

 ――例の金獅子のやつだ。

(あー……はいはいはい。来た来た。絶対あいつだ)

「お伝えしたいのは、それだけです」

 そう言って、キルヒアイスは軽く会釈した。

 礼儀正しい。完璧に無駄のない動き。

 でも私の中の警報は消えなかった。

(あの人も同類だったんだな。やっぱり。ロイヤルストーカー支援課の人材だわ)

 私は封筒を持ったまま、少しだけ空を見上げた。

 雲は切れて春の陽が差している。

 ふと庭を見ると、アンネローゼが花壇の前でしゃがんでいた。

 何も聞かず、何も言わず、ただ一輪のビオラに水をやっていた。

 封筒の中には、きっとまた塩気の強い何かが書かれているに違いない。

 私は黙って部屋に入り、封を切ろうとした……が、足がふと止まる。

 まだ玄関先に赤毛の人影が見えていた。

 彼は少しだけ、こちらを見ていた。

 まるで何かを待っているように。

 私は小さく息をついた。

(……はあ。ほんと、気の毒ってやつよね。あんなキモいシスコンストーカー野郎のお使いで、山まで来て、ろくに茶も出されずに追い返されるって)

 だから私は声をかけた。

「……あの、とりあえずお茶飲んでいきます?」

 その声は、自分でも驚くくらい柔らかかった。

「キモいシスコンストーカー野郎のお使いでお疲れになったでしょうし。疲労回復には、ジャガイモ入りのスープが最適です」

 キルヒアイスの目が、一瞬だけ揺れた。お茶と言いつつスープだしな。

 けれど彼はゆっくりと頭を下げた。

「……では、少しだけ」

 私は扉を開け、さすがにスープではなくお茶の用意をした。

 紅茶の葉を計量しながら心のなかで呟いた。

(あーあ……また、ややこしいのが始まりそうな予感しかしない)

 でも手はちゃんとポットを温めていた。

 

 

 

 

 お茶はちゃんと出した。

 礼儀は大事だ。

 キモい成り上がりストーカー野郎の副官にも、一応人権はある。

 キルヒアイスは、私の用意した紅茶を一口飲んで、控えめに「おいしいですね」と言った。

 その表情は極めて誠実で、たぶん本当にそう思っていた。

(……いや、あんた、なんでそんな真面目な顔してるの。帝国軍宇宙艦隊副司令官の上級大将閣下が、ここまで来てただの配達ですみたいなテンション、逆に怖いんだけど)

 私は向かいの椅子に座り、テーブルの上に封を切られていない手紙を置いた。

 置いただけで、別に開く気はなかった。

「中身、見なくても分かってそうですね」

 そう口に出したとき、彼の睫毛がほんの少しだけ震えた気がした。

 でも彼は否定しなかった。

「……そうかもしれません」

 ほら、やっぱり。

「きっと、お元気ですかのあとに、帝国の改革は順調ですって書いてあって、そのあと君の意見を聞きたいって続いてる。で、締めにいつかまた話ができればとかいう、めちゃくちゃ警戒心を逆なでしてくる一文がついてるんでしょう」

「……私は、内容までは拝見しておりません」

「まあ、そりゃそうですよね。いくらあなたでも、さすがに個人の手紙を検閲したらやりすぎだし。でもまあ、たぶん予想は当たってると思う」

 キルヒアイスは黙って紅茶を口にした。

 沈黙が部屋の中に少しだけ深く降りた。

 外では、アンネローゼが花壇に水をやっている音だけがしていた。

 シャーッという静かな水音が、この部屋のどんな言葉より雄弁だった。

 私は封筒を指先でくるりと回して、ふっと笑った。

「……ねえ。私、たまに思うんですよ。あの人、私に何を期待してるんですかね。賢さ? 忠誠? あるいは、ただの正気?」

 キルヒアイスは答えなかった。

 彼にしても、それは分かっていないのかもしれない。

 私はようやく封筒の角を折り、ナイフで切り取った。

 けれど、手紙はまだ中にある。

 今、取り出せば終わってしまう気がして、そのままにした。

(……うん、やっぱ中身見なくてもわかるやつ。たぶん、塩の味が忘れられないとか、そんなの書いてある)

 それは嫌味でも皮肉でもなく、半分は本当にそうだと思った。

「手紙は預かっておきます。返事は……気が向いたら」

「はい」

 彼はそれ以上、何も求めなかった。

 紅茶の湯気がわずかに揺れて、窓の外で雀が一羽、飛び立っていった。

 そう言えばデパ地下で、雀の串焼き売ってたなと思い出した。

 私は立ち上がり、戸棚から麻袋をひとつ持ってきた。

 中には、昨日掘ったばかりのジャガイモが数個。

「お土産に芋、あげます」

 キルヒアイスは、わずかに目を見開いた。

 その表情が意外と可笑しくて私は続けた。

「貴方の苦労に免じたわたしの気持ちです。……あのキモい金髪ナルシストの伝言ゲームに付き合って、山道まで来たわけですから。これくらいは、ね。感謝の形」

 彼は何か言いかけて、結局言葉にしなかった。

 その代わり、深々と頭を下げる。

「ありがたくいただきます」

「煮るなり焼くなり……まあ、潰してスープにでもしてください」

 私は軽く手を振ってそういった。

 赤毛の副官を見ながら、ぽつりと心のなかでつぶやく。

(……さあて、これでまた芋の在庫が一つ減ったわ)

 けれど、それが妙に気分よく思えたのは、たぶん今朝の腰の鈍痛が、少しだけやわらいでいたからだ。

「……ちょっと待っていて下さいね」

 そう言って、私はキルヒアイスを席に残した。

 彼は何も問わずに小さくうなずいた。

 紅茶の香りがまだ微かに漂っていた。

 出がらしのティーポットが、窓辺の光にかすかに透けている。

 その風景がやけに静かだったせいで、逆に胸がざわついた。

(いやいや、こんな風に待ってくださいとか言って引き止めてると、まるでこっちが話したがってるみたいじゃん。違うからね? 純粋にこっちの人間関係の整理だからね?)

 私は廊下を抜けて、裏庭のほうへ出た。

 アンネローゼは花壇に膝をつき、小さな白い花の根元を指で崩していた。

 指先が土で汚れているのに、それが少しも汚れて見えないのは、あの人が育ちのいい孤独をまとっているからだと思う。

「……ごめん、アンネローゼ。ちょっといい?」

 彼女は振り返り、私の顔を見ると、すぐに立ち上がった。

 言葉はなかったけれど、何かを察したようなそんなまなざし。

 私は少しだけ声を落として言った。

「キルヒアイスが来てるの。あいつの伝言。……だけじゃない気がして」

 アンネローゼは頷いた。

 それだけで、彼女が何かを覚悟しているのがわかった。

(……そうなんだよね。私がどうこう言うまでもなく、あの人はいつだって──どこかであの弟を背負ってる)

 手を拭くのも忘れて、彼女はそのまま屋内へ向かった。

 その背中を見送りながら私は内心でぼそりと呟いた。

(何かあるなら今のうち。言葉は火種にも水にもなる。……めんどくさいけど、焚きつける前に確認しとこ)

 そして玄関へ戻ると、キルヒアイスはじっと席に座ったままだった。

 まるでここが自分のいるべき場所であるかのように。

 その姿に、私は再び思ってしまう。

(ほんとにもう……この人たち、全員待つのが自然みたいな顔するのずるい)

 私は玄関口で少し立ち止まって、アンネローゼがキルヒアイスと対面するのを見ていた。

 二人はほとんど言葉を交わさない。

 むしろ交わさないことそのものが、かつての時間の重さを物語っていた。

 私はというと──正直、ちょっと息が詰まっていた。

(いやいや、ちょっと待てって。これ、ほんとにただの伝言か? 違うでしょ。何かの圧力だよね? 軟らかく包んでるけど中身は国家の黒い指だよね?)

 この頃の帝国は、表面こそ整っているけれど中身はわりとヤバい。

 例えるなら、金箔を貼った石斧みたいなもんである。

 綺麗で整ってるけど、ぶっ叩かれたら死ぬ。

 異端者は捕まったら死刑。

 拒否したら殺す。

 妨害したら殺す。

 ――そういう、わかりやすくも問答無用な中世ルールが、息を潜めて現代の帝国中に流れている。

 あまり理不尽は言わないだろうが、それでも。

(怖すぎる。ほんと、黙って芋でも煮てた方が平和)

 そのくせ、何かあったらあなたの理性を信じてるみたいな顔で近づいてくるのだ。

 ラインハルトも、キルヒアイスも、きっとそう。

(いや、信じてるって何。責任押しつけの前置きだよね、それ)

 私はため息をひとつついて、紅茶のカップを片付けた。

 茶葉の残り香がかすかに湿っていた。

 空気は澄んでいる。標高の高い山の春。花の匂いは静かで風は優しく、どこにも濁りがない。

 ――それなのに疲れる。

 息を吸うたび胸が重たくなるような、そんな妙な感覚。

 体じゃなくて、気配が疲れるのだ。

 キルヒアイスは何も強くは言わない。

 あの人は言葉の棘で脅すタイプじゃない。

 むしろ真っ直ぐで、傷つけないように歩く人だ。

 だけど、それが逆にしんどい。

(ああ……これ、優しい圧だ。優しさに圧が混ざるとほんと始末に負えない)

 空気は確かに澄んでいる。

 けれどその中に、帝国が混ざっていた。

 あの人たちは空気にまで国家の影を連れてくる。

 こっちは芋と花で地味に生活してるだけなのに、呼吸するたびに体制が鼻から入ってくる感じ。

 しかも無臭だから質が悪い。

 私は台所に戻り、湯を沸かしながらぼやいた。

(この静けさが一番こわいよ。何も言わないのに全部が動いてる空気。帝国って、ほんと中世のくせに気配だけは現代的なんだから)

 ポットの蒸気が曇った窓をうっすらと濡らした。

 私はそれを指でなぞって、ため息とともに消した。

 

 

 

 

 

 アンネローゼは静かだった。

 あの人はいつだって静かだ。

 音を立てない歩き方、邪魔にならない気配、言葉の選び方、そして――

 弟について語るときの、あの目の沈黙。

「ご無沙汰しております」

 キルヒアイスは、ほんの少しだけ頭を下げた。

 その仕草もまた、過不足がなかった。

 まるで会釈の中にすべての感情を折り畳んでいるかのようだった。

 アンネローゼはわずかに微笑んだ。

 けれどその笑みは、どこか遠くの記憶を見ているようだった。

「ジーク、あなたの赤い髪……変わらないわね。少しも」

「変わるわけがありません」

 それだけで一つの時代が通り過ぎたような気がした。

 私は少し離れた場所で、紅茶のカップを拭いていた。

 耳をすませば全部聞こえる距離。

 だけど、口をはさむには少しだけ遠い距離。

(……なんか、こういうのずるいんだよね。美しい過去と義務と忠誠が全部混ざった再会劇)

 キルヒアイスは封筒ではなく、言葉のかたちで何かを届けに来たのだろう。

「……あの子は、変わったわ。変わってないように見えて少しずつ」

 アンネローゼの声は、細い糸のように揺れていた。

「私はまだ信じていいのか分からない。でも目があの頃とは違うの。ほんの少しだけ」

 キルヒアイスは俯いたまま答えた。

「ええ。あの方は……きっと今も、アンネローゼ様を中心に世界を組み立てていらっしゃる。でもその重心が、少しだけ、ぐらつき始めているようにも見えるのです」

 その言葉を聞いたアンネローゼは、ほんの少しだけ息を吐いた。

 私は台所の窓越しに庭の方を見た。

 ジャガイモの芽がやたらと元気に伸びていた。

(重心ぐらついても世界は回るのかもしれないけどね。誰かの根っこが地中にあれば)

 アンネローゼはゆっくりとキルヒアイスに言った。

「……伝えてくれる? 私は無事です。でも無事って言葉は、距離を含んでいるの。今の私は、あの子のそばにいない。それをちゃんと分かっていてほしい」

「……はい。必ず」

 そのとき私はようやく紅茶のカップを置いた。

「さて、劇場は終わりですか? 台詞がすごく静かだったので寝るかと思いました」

 そう言ったら、キルヒアイスが少しだけ笑った。

 アンネローゼも肩を揺らした。

 たぶんそれでいいのだと思った。

 手紙はまだ封を切っていなかった。

 机の上で、まるで自律神経でもあるかのように沈黙していた。

 けれど、私にはもう分かっていた。

 中身を読まなくても、だいたいのことは想像できる。

 いや、想像というより予測。もっと言えば、回避本能。

「そろそろ戻ってきてくれないか」

「君の意見を聞きたい」

「私には、君のような冷静さが必要だ」

 そういう、あの人の距離のある口説き文句が並んでいるに決まっている。

 私は、ようやくそれに対して自分なりの言葉を見つけた気がした。

(地球を中心に全ての天体が回ってるような意識の世界は、もう終わったのよ。あの人の金色の自己重力圏も、もう私には効かない)

 それは怒りでも否定でもない。

 たぶんただの自立。

(常識的に考えて、宇宙に中心なんて無いんだから。真理としては、各自が自分の重力を持っていれば、それで良い。私は私の宇宙で回る。あんたの宇宙には行かない)

 そう思ったとき、私はふっと楽になった。

 重力から解放されるというのは、某宇宙世紀のニュータイプの様に宇宙(そら)を飛ぶのではなくて、土に根を張ることなのかもしれない。

 私は立ち上がり手紙を手に取る。

 読みはしない。ただその紙の重さを手のひらで確かめて、庭に出て、畑のすみの柔らかい土を少しだけ掘った。

 そこへ封筒をそのまま埋める。

 土をかぶせて軽く手でならす。

 ――それでおしまい。

 私は立ち上がりながら、心のなかでぼそっと言った。

(宇宙に中心はない。……ただし、芋畑には重心がいる。今日の作業、私がいないと終わらないんだから)

 土の中で手紙が眠る。

 それは、たぶん一通の未読メッセージとして永久保存された。

 

 

 

 

 昼下がりの空は限りなく透明だった。

 音は少なく、風だけが穏やかに葉を揺らしていた。

 その日の午後、私とアンネローゼは裏庭の木陰に敷いた布の上に並んで横になっていた。

 鍬も水やりも午前中に終えて、午後は何もしない。何も話さない。

 それがここの贅沢だった。

 手と手が自然に伸び、そっと指を絡めた。

 恋人でもなく、姉妹でもない。

 でもどちらでもあるような、そういう距離。

「……眠くなるわね」

 アンネローゼがまぶたを閉じたまま呟いた。

 私も目をつむりながら、ぽつりと返す。

「うん。世界が何も期待してこない昼間って、最高」

「戦争も陰謀も……ラインハルトの手紙も、来ない午後ね」

「来ないでほしいけどね、できれば永遠に」

 風が頬をなでる。

 土の匂い、微かな花の香り、隣から伝わる体温──すべてが優しい。

 その優しさのなかで、私はぽつりと呟いた。

「毎日、朝は来るでしょ。惑星は自転して、公転して、宇宙はひとつの秩序で回ってる。……ちゃんと当たり前に、静かに」

「ええ」

「でも――ヤバいのは、あなたの弟だと思う」

 アンネローゼの肩が少しだけ震えた。

 笑ったのか、泣いたのか、たぶんその中間。

「……そうかもしれないわね」

「いや、わりと確信を持って言ってる。重力場に自我と野望を混ぜてくる人間、たぶんあの人くらいだよ。あれ、もう準・天体災害」

「ふふ……でも、ユリアもよ。あの子が手を伸ばしたとき、引き抜かれずに済んだのは、あなたの声が地面のほうにあったからだと思ってる」

「声っていうか、塩だからね私。乾いてて、しょっぱくて、必要だけど摂りすぎると死ぬやつ」

 アンネローゼが、そっと握ってきた指先に力を込めた。

 私もそれに応えるように、手のひらを返した。

 空は静かだった。

 世界は秩序どおりにまわっている。

 ――その秩序の外に、弟という名の変数を抱えた彼女と、塩で距離を測った私が、今こうして眠れる場所を得た。

 それだけで今日はいいと思えた。

 

 

 

 きっかけは洗濯の失敗だった。

 干していた布が風に飛ばされ、川に落ちて、どんぶらことそのまま流れていった。

 犠牲となったのは、私のわりと気に入っていた地球時代から続く老舗の下着だ。

 アンネローゼは申し訳なさそうに言った。

「……ごめんなさい。ちゃんと洗濯ばさみで留めておくべきだったわ」

 私は鍬を突き刺しながら言った。

「ううん、いいよ。私たちの友情が深まっただけだから。でもちょっとパンツが足りないから買いに行こうか、ね?」

 というわけで、街へ出かけることになった。

 山を下り、ロバの背に揺られて半日。

 久しぶりに人が多い場所に出た。

 多いといっても八人くらいだったけど。

「じゃあ、今日は下着買って、あと米とオイルと……それから人目につかないように気配を消す訓練」

「訓練?」

「田舎とはいえ帝国よ。金髪の小僧の姉と、それを守る辺境伯の娘が下着屋でウロウロしてたら目立つに決まってるでしょ。というわけで普通の女子ごっこを開始します」

 下着屋に入ると、見慣れない色とレースに二人して立ち尽くした。

 実家で着ていたのは、どれも下着というよりも衣装の一部だった。

 今目の前にあるのは、生活感と弾力にあふれた――

(なんか、勝手に喋ってきそうなパンツあるんだけど!?)

「ユリア、これなんてどうかしら……シンプルだけど、肌触りが……」

「うん、見た目より丈夫さ重視でいこう。あと、誰かに脱がされても恥ずかしくない程度のやつ」

「え……誰かに?」

「いや、脱がされないけど、なんか、万が一のね。こう、事故とかで……いや、脱がされないけど!!」

(何言ってんの私。ノーマルだけど恋愛脳じゃないって言ったじゃん。どこで混乱してんの)

「可愛いだけの下着って、正直、実用性ゼロなんだよね」

 そう言いながら、私は見本をぱらぱらとめくっていく。

 レースの多いやつ、リボンがやたら主張してるやつ、やたらT字になってるやつ──見た目は華やかだけど、こっちは日常が戦場だ。

「わかる! レースがごちゃごちゃしてるとナプキンずれるし、座ったときにレースの段差が当たって違和感すごいよね」

 と即答したのは、アンネローゼ。

 彼女は生理中でも庭仕事や山道を歩くことがあるから、動きやすさと吸収力の両立が何より大事だと言う。

「私は逆にタンポン派だから、ショーツのフィット感が最優先。クロッチ部分が浮いてるやつとか……論外です」

 そう語るのは店員。無駄のない声と視線に、プロの気配が宿る。

「おりものシートを毎日使ってる人は、生地と縫い目の位置もチェックすべきなんですよ。速乾性と肌ざわりの両立。あと、クロッチ幅と深さ」

 下着コーナーなのに、空気は妙に引き締まっていた。

 誰も茶化さない。誰も笑わない。

「ほんとそれ。あと、おりものの量が多い人は、乾きやすい裏地じゃないと蒸れて肌荒れするから、肌着感覚で買うと危ないよね」

 私はそう言いながら、展示棚から一枚をそっと手に取った。

 下着選びは他人のためじゃない。自分の体と今日を戦うため。

「勝負下着なんて言葉あるけどさ。本当に勝ちに行くなら、まずは自分の周期と気分と、体調をわかってる下着選ぶことだと思う」

 私がそう言うと、アンネローゼも、店員も、ほかの客もうなずいた。

「見せるためじゃなくて、戦うために着るんだよね」

「うん。見えないけど、ちゃんと味方でいてくれる下着が、いちばん信頼できる」

 その空気には、静かな熱があった。

 かわいいだけじゃない。かっこいいだけでもない。

 ただ自分らしくあるために──私たちは、今日も本気だった。

「正直……出費エグくない?」

 私がそうこぼした瞬間、店内の全員が「それな!」と一斉にうなずいた。

「下着に月いくら使ってる?」

 そう聞かれて誰も即答できない。

「上下セットだけじゃ終わんないんだよ。見せブラ、チューブトップ、無地のシームレス、ナプキン対応型……その日その時で全部違うし」

「しかも使い回せない色ってあるじゃん。ラベンダーのブラ、好きだけど白シャツ透けるから無理」

「わかる〜。かわいさと実用性の間で悩んで、結局両方買うが最適解になる地獄」

 ため息の合唱がやわらかく響く。

 誰かがタブレットを取り出して、ドラッグストアのアプリを開いた。

「見て。先週だけでコスメ3点、計八七〇〇帝国マルク」

「わかるわー。リキッドファンデ、クッションファンデ、マットとツヤどっちか選べなくて、結局両方買うやつな」

「リップ系、1本じゃ足りない問題もあるよね。場面で使い分けたいのに、男って1本で済むって顔してる」

 私はふっと笑った。

「男って、冬でも夏でも同じボディソープで顔も洗うじゃん。あれで肌荒れないの奇跡だと思う」

「ほんそれ。あいつら全部いけるとか言って、風呂場に物1本しかないの信じられない」

「そりゃ化粧品代もないよね。肌も下着も意識せず、基本Tシャツで済むんだもん……うらやましい」

「『女って金かかる』って文句言う男に限って、『女の子って大変だよね』の一言もないんだよ。うちの弟もそう」

 アンネローゼまでそういった。

「そうそう、すっぴんの方が可愛いよって言うくせに、すっぴんで行くとなんか今日疲れてる? って言うやつ!」

 爆笑と憤慨の混ざったエネルギーが、店内を満たした。

 けれど、その怒りはどこか優しく、まるで連帯のようにあたたかかった。

「……でもまあ、私たちって、誰かのためだけじゃなくて、自分のためにやってるんだよね」

 私がぽつりとこぼすと、空気が少しやわらいだ。

「うん。自分がこれを選んだって気持ち、やっぱ大事」

「誰に何言われても、鏡の前でよしって思える方が強い」

「だから、文句言いながらも化粧品買っちゃうんだよねぇ……」

 また笑いが広がる。

 財布の中身は軽くなっても、心の芯はちゃんと重たい。

 それが今の私たちの正しさだった。

 打ち解けて仲良くなった店員さんは、最後にそっと値引きしてくれた。

 最終的に選んだのは、私がコットン100%、地味めな小花模様、洗いやすさ重視。

 アンネローゼは、レース少々、淡いベージュ、落ち着いた品格。

 ――まるで性格がそのまま布に出たような選び方だった。

 帰り道、ふたりでロバに揺られながら。

「ユリア……こうして街に出て買い物をするの、なんだか楽しかったわ」

「うん。うちの畑にはパンツが生えないからね……」

 もちろん小洒落たジョークだ。

(次はブラが消えたら、帝国のど真ん中まで行く羽目になるんじゃないかしら……やめてくれよ、あの金髪が待ってる気がするから) 

 楽しかったおでかけの翌朝。郵便配達の少年が小箱を持ってきた。

 何かな。嫌な予感がする。

 封筒ではない。木製の小さなケース。

 差出人は記されていないが、押印されていたのは――――皇帝印。

(いやいやいや、もうその印、気軽に使わないで。うちジャガイモ農家だから)

 箱を開けた瞬間、ふたりとも言葉を失った。

 中に入っていたのは、アンネローゼと私に、それぞれ2枚のTバック(ソング)だった。

 マジでなんでやねん。

 ひとつは黒。ひとつは純白。

 丁寧に折りたたまれ、香り袋まで添えられている。

 昨日の私たちの買い物を観られていたという事だけど、――どんな皇帝のお召し物だよ。

 アンネローゼが沈黙を破った。

「……これ、ラインハルトからよね」

「……うん。うちの畑にTバック咲いた記憶はないし、私も帝都にそんな趣味の知人いないし、他に考えられない」

 考える。これはネタなのか。嫌味なのか。嫌がらせなのか。セクハラなのか。ガチなのか。

 後者が一番怖い。

(というか、この国の皇帝は、自家製塩をもらってソングを返すの!?!? 政略とは? 婚姻とは? 正気とは!?)

 私はソングを箸でつまみ上げるようにして、言った。

「……これ、どういう意味だと思う?」

「塩かな……本気で気に入ってるってこと、塩が美味しかったってことじゃないかしら」

 姉がそう言うなら、そうなんだと理解するしかない。

「じゃあ普通にもっと塩ちょうだいって言えよ!!!」

(いやもう意味が分からない。送ってくる側の意図が分からない。これはラブレターじゃなくて通報対象)

 しばらく沈黙。

 そして、私は静かに箱を閉じた。

 恋人でも家族でもない相手から送られて来た下着を履くのは違うと思う。

「畑のカカシに履かせよう」

 アンネローゼは、ふっと笑って言った。

「……でも、ちょっと可愛いかも」

 カカシ履かせる事か、それとも自分で履くって意味か。

「おいおい、まさかそっちに目覚めてないよね? これは断固として危険物だからね?」

 その夜、焚き火のそばに吊るされた黒と白のソングが、風にひらひらと揺れていた。 

(こうしてうちは今日も平和です。――――帝国の変態皇帝を除いては)

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