それは畑の夕日が少し傾きかけたころだった。
私が長靴の泥を小川でざぶざぶと洗い落としていたそのとき。
「エアハルト嬢、少しお時間、いただけますか」
その声に振り向くと、案の定、ジークフリード・キルヒアイス上級大将が立っていた。
いつものように落ち着いた声。
けれど、その手元に抱えた紙袋がなんとも不器用で。
包装紙が少しよれていて、きっと彼が自分で包んだんだろうと思うと、なんだか急に胸があたたかくなった。
「……なにそれ、またあのキモいやつの続編?」
「いえ。今回は私からです」
そのひと言に、思わず笑ってしまった。
だって、まさかこの人が――――そういうことをするとは、あまり思っていなかったから。
いつもどこか「副官然」としていて、そつなく距離をとる人だったのに。
「アンネローゼにじゃなく、わたしに?」
「たまたま、です」
彼はほんのわずかに視線を伏せながら、紙袋を差し出した。
「肌に合うかわかりませんが……乾燥がつらいと話されていたのを思い出しまして。ラベンダーの香りの保湿ミストです。サンプルも入っていましたので、お肌に合えば……」
その瞬間、胸が詰まった。
好きそうだからじゃなくて、乾燥がつらいって言ってたから――――。
そこに、わたしが見られていたという事実と、気に留められていたという驚きと、それがまったく押しつけがましくないということの三重奏。
こういう優しさはちょっと反則だ。
だって、どう返せばいいかわからなくなる。
「……ありがとうございます」
言葉が口からこぼれたとき、それは胸の奥から真っすぐ出てきた。
わたしの声ってこんなに穏やかだったかな。
少しだけ自分で驚いた。
「あいつより、ずっと素敵な贈り物ですね」
皮肉というより本音に近い。
彼は少し照れたように笑って、視線を逸らした。
「……貴女が自分のために頑張っているの、わかってるつもりです。だから、それが……ほんの少しでも味方になればいいなと思って」
その言葉がふわっと胸に入ってきて、じんわりと沁みていった。
まるで夕方の風のように。なにも強くないのに、やけにちゃんと届く風。
誰かが、理解しようとしてくれている。それだけで人は前を向けることがある。
たとえ泥だらけでも、もうちょっと頑張れる。
「ラベンダー、わたし好きです。……今日、つけてみますね」
そう言ったとき、わたしはたぶん誰にも見せたことのない顔をしていた。
あのキモいやつにも、アンネローゼにも、たぶん見せたことのない。
ほっとしたような、なんか気が抜けたような、でもちゃんと、ありがとうが入った顔。
「……あ、それと、これも……」
おずおずと、もうひとつ。
今度はラッピングもされていない白い箱。
「え、まさかまだあるの……?」
彼はリュックの奥からそれを取り出しながら耳まで赤くなっていた。
「……その……調べていたら、こういうのも使ってる方が多いと知りまして……脇、肘、膝、あと……乳首とか、えっと……デリケートゾーンにも……使えるらしいです。美白クリームとのことでした。あ、1本だとすぐなくなるってあったので……5本セットで……」
なんて言うか、その真面目さがすごかった。
わたしが困るとか恥ずかしいとか、まったく意図に入ってないんだろうな。
だって彼、本気で役に立つかもしれないと思って買ったんだ。
……いや、そりゃびっくりはしたけど。
「……ねぇ」
わたしはふっと声のトーンを落とした。
その音に彼の身体がわずかに硬直したのがわかる。
「もしかして、わたしの……全部に、ちゃんと向き合おうとしてる?」
問いかけというより確認。
思ってもいなかったことを口に出してしまったのは、たぶん、その空気がやさしかったから。
キルヒアイスは少しだけ沈黙してから、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。そうかもしれません」
逃げなかった。誤魔化さなかった。
すごいな、と思った。
怖くないのかなってちょっと思った。
……わたしなんかに、ちゃんと向き合おうとしてくれてることが。
「……ありがとうございます。ちょっと、びっくりしたけど」
わたしは笑った。なんだか力が抜けて、ちょっと肩の荷が降りた気がした。
「全部使うとは限らないけど、気持ちは、ちゃんと受け取りました。優しいんですね、キルヒアイス提督」
そう言いながら指先で箱をなぞった。
ありがとうって、声に出すのがちょっと照れくさかったから。
スープが煮立ち始める頃、わたしは匙を置いてちょっとだけ息を吐いた。
「ねぇ、アンネローゼ」
「はい?」
「……ちょっと、聞いてもらってもいい?」
彼女はいつものように、ふんわりと笑ってうなずいた。
薪のはぜる音が、ぱちぱちと間をつなぐ。
「今日、畑の帰りにさ……また来たの、あの人」
「ジーク?」
さらりと名前で呼ぶその声音が、なんとなくやさしくて、そしてちょっとだけ含みがあった。
「そう。でね、紙袋持っててさ……何かと思ったら」
わたしはスープをひと混ぜしてから、わざとらしく間をとった。
「ラベンダーの香りの、保湿ミストだったの」
「……まあ」
「乾燥がつらいって言ったの、覚えてたんだって」
アンネローゼはほんの少しだけ目を細めて、それから「それは素敵な気づきね」と、やさしく言った。
たぶん彼女の中ではそれでもう、9割方OK判定だったんだと思う。
でも、わたしには本題が残っていた。
「でね、それだけなら、まあ、ありがたいで済んだんだけど……そのあともう一個」
アンネローゼは、「ええ」と、続きを促す。
「……美白クリーム。脇とか肘とか……あと……乳首とか、デリケートゾーン用の」
自分で言いながら顔から火が出そうだった。
いや、出てたと思う。
薪より熱かったかもしれない。
「しかも5本セット。多めに買ったんだってさ。使うかわかんないのに」
沈黙。
火の音だけがぱちぱちと続く。
アンネローゼは少しだけ目を伏せ、それから――噴き出した。
「ごめんなさい……ふふ、でも……」
「笑うなーっ! こっちは真剣に悩んでるのに!」
「だって……それは……その……彼、すごく真面目なんでしょうね」
「真面目とかじゃなくて、なんていうか……全力で来られて、困るのよ!」
スープがぐらぐら煮立っていた。わたしの心と同じくらい。
「わたし、なに? 脇とか乳首とか……国家機密なの? 向き合う対象なの?」
「……ユリア」
アンネローゼが、珍しくまっすぐこちらを見た。
「でも、それ……あなたの全部に寄り添いたいってことじゃないのかしら」
「……そう聞こえたよ。わたしにも、そう……聞こえた。だからこそ……余計、どうしていいかわかんなくなるのよ」
彼が逃げずに「はい」と答えたことが、なにより効いた。
そういう人、帝国にいなかった。ラインハルトですら、答えはいつも勝手に出していた。
「……アンネローゼ。わたし、どうしたらいいと思う?」
そう問いかけたわたしに、彼女はやさしく笑った。
「贈り物って気持ちがすべてじゃなくて、何を選んだかにも、すごく心が出るよね。ジークが選んだのは……ラベンダーと美白クリーム。つまり彼は、香りとあなたの皮膚を考えてくれた」
「うわ、エロい解釈しないで……!」
「違うよ?」
彼女はくすりと笑って、それから言った。
「たぶん彼は、あなたの心に触れる場所を、すごく慎重に探してる。それが肌であれ、香りであれ、記憶であれ。……優しいってそういうことだと」
――心に触れる場所。
言われてわたしははっとした。
たしかにそうだった。
彼の言葉も、態度も、贈り物も――わたしを変えようとはしていなかった。
ただ、触れてくれる場所を見つけようとしていた。
「……困ったなあ」
「どうして?」
「そんなに優しくされると……好きになっちゃいそうじゃない」
ふと、こぼした。
そしたらアンネローゼは、なんとも静かな顔でそっと言った。
「それでもいいじゃない。……あなたの心が自由に動けるなら」
その言葉は、スープよりも火よりも、やさしくあたたかかった。
スープをよそって、粗末なパンを裂いて、それからわたしはパンの耳をくるくる指先で丸めながら、ぽつりとつぶやいた。
「……これ、あれだよね。完全にあんたの弟よりイケメンなアピールだよね?」
アンネローゼはパンをちぎる手を止め、少しだけ眉をあげて笑った。
「まあ……確かに、わたしの知っているジークとしては、相当がんばった贈り物ね」
「うん。あの人、だって……ラベンダーだよ? 保湿ミストだよ? 脇とか乳首とか用のクリームだよ? 何、その指先から丁寧な距離のつめかた……!」
自分で言っていて、なんかもう妙に悔しくなった。
「ラインハルトだったら絶対、似合うだろうとか、これを使えば美しいとか、おまえにはそれがふさわしいとか、何かしら主観の塊じゃん」
「ええ、そうね。弟は……自分の美意識で世界を統べるところがあるから」
「だからさ、これってもう真逆のアピールだと思うんだよね。あなたを見てましたっていう。あと、あなたの肌が乾燥してることに気づいてましたって……え、こっちのほうがイケメンじゃない?」
パンのかけらをスープに浸しながら、半分ツッコミ、半分本音。
そしてもう半分くらい、ちょっと認めたくないとこもある。
「……そうね。ジークの贈り物は自分のためではなく、あなたのために選ばれたもの、という感じがするよね」
「そう! そこ! 自己満の香水じゃなく、あくまでわたしのカサカサに向き合ってる。あんたの弟は、たぶんわたしに天体になれとか言ってくるけど、キルヒアイスはしもやけ対策してねって寄ってくるの。……なにそれ、地味に心が動くじゃん……!」
そう言いながらわたしは、椅子に背を預けてため息をついた。
「なんかさあ……ずるいよね。静かに優しいやつってさ……最終的に全部もってくじゃん。読者人気とかも」
アンネローゼはくすくすと笑った。
でもその目は、ちょっとだけ昔を懐かしむようだった。
「弟の美しさは、太陽みたいなもの。どこまでも明るく、どこまでも熱い。でも、ジークは……月のような人。見ようとしないと見えないけれど。ちゃんと見れば、こんなに静かでやさしい光を放っている」
「……ああもう、なんか、好きになっちゃいそうで困るわ……」
わたしは顔を伏せて、パンのかけらをもそもそと食べた。
その苦みは、焦げていたせいだけじゃなかったと思う。
「でも……あれ、たぶん本気だったよね。使ってくれじゃなくて、向き合いたいって言ってたもん。あんな顔で」
「ええ。ジークはいつも、本気のときほど声が静かになりますから」
アンネローゼが静かにうなずいた。
「……どうしよう」
「何がですか?」
「あんたの弟よりイケメンに、なびきそう」
言ったあと、わたしは自分で噴き出してしまった。
笑いながら、でも胸の奥のどこかが、ちょっとだけ苦しくなっていた。
それはたぶん、もう誰かに守られたいわけじゃなくて、いっしょに居てくれる人を、わたし自身が選んでいいという自由に、ほんの少し手が届きそうだったからかもしれない。
報告は、宇宙艦隊総参謀長パウル・フォン・オーベルシュタイン中将からだった。
農村の監視記録の中に映像が含まれていたという。
「……それで?」
「キルヒアイス提督が、件のエアハルト嬢に、何らかの包みを渡していたようです」
オーベルシュタインの声には、相変わらず温度も悪意もなかった。
だからこそその中立性が、今はやけに腹立たしかった。
「卿の仕事はキルヒアイスの監視も入っているのか」
嫌味を言いながらラインハルトはタブレットを受け取った。
そこには農作業帰りのユリアと、どこか所在なげなキルヒアイスが映っていた。
――渡している。
紙袋を控えめな角度で。
彼女は受け取って笑った。
……あんな顔、見たことがない。
くすんだ午後の光の中、ラインハルトは思った。
あのユリアが笑っていた。
誰にも媚びず、誰にも縋らず、世界に対して皮肉しか返さなかったあの女が――キルヒアイスには、笑った。
手にしたのは、ラベンダーの保湿ミスト。
そして、もうひとつ。
白い箱――後の報告で判明した、美白クリーム5本セット。
……意味がわからなかった。
なぜだ。
なぜ、キルヒアイスがそんなものを?
なぜ、ユリアがそれを受け取る?
言葉が喉で絡まりそうになりながら、ラインハルトは映像を止めた。
思考が乱れる。
視界がじんわりと色を失っていくようだった。
これは、何だ。
ただの贈り物か?
いや――塩とは違う。
これは……これは受け取られた贈り物だ。
ユリア・フォン・エアハルトに肯定された何かだ。
掌の中に灼けるような感情が湧き上がる。
――ジェラシー。
それは少年のようにみっともなく、幼児のように独占的で、支配者のように暴力的だった。
「……キルヒアイスは、何を考えている」
ぽつりと、吐く。
忠臣のはずだ。
俺の右腕であるべき人間が――なぜ俺に塩を投げた女の肌の乾燥を心配している?
なんだそれは。
そんな些細なことをお前は気にするのか。
あの女の肘の荒れを、脇の黒ずみを、美白を、貴様が整えてどうする。
「……なんだその役割は。俺にくれ」
誰にも聞かせられない声で、ラインハルトは言った。
見栄えのする服を着せることなら、いくらでもできた。
貴金属を贈ることも、土地を与えることも、情報も権力も金も――いくらでもくれてやるつもりだった。
だけど。
乾燥していたとか、肌に合うか心配だったとか、好きそうだからじゃなく、話を覚えていたからとか――――
それはずるい。
それは――そういうのは、愛じゃないか。
そう思ったとき、ラインハルトの胸にわずかに痛みが走った。
違う。認めるものか。
キルヒアイスは俺の友であり、鏡のような存在であるべきだ。
それなのに――なぜあの女に、あのラベンダーの香りを先に届ける?
俺の名を冠した艦隊が宇宙を震わせているその間に、お前は、乳首のケアに気を回していたというのか……?
「くそ……」
ひとり呟いた。
誰にも聞かせられない敗北。
ある日、それは唐突に届いた。
農村の郵便小屋に、軍の特急便で運ばれた、重厚すぎる梱包。
「なにこれ……生もの?」
開けてみると精密機器のような外装の中に鎮座していたのは――――
電動シェーバー。しかも5枚刃。
……意味がわからない。
でも送り状の名前を見て、すべてが凍りついた。
送り主:ローエングラム元帥府。
しかも直筆でラインハルト・フォン・ローエングラム。
「…………」
開封の間すら、気持ちが追いつかない。
なにこれ。
キルヒアイスはラベンダーのミスト。ラインハルトは……これ?
機械式の、本気のやつ。
刃が7方向に独立して動く高性能モデル。
完全防水。脇にも、脚にも、VIOゾーンにも対応と堂々としたカタログ。
「……は?」
手紙もついていた。きっちりした皇帝筆跡。
開いてみる。
エアハルト嬢
先日は、部下より不用意な贈り物があったこと、元帥としても少々行き過ぎに見受けられました。
よって小官よりも改めて、実用的かつ衛生的な品を送らせていただきます。
体毛の処理は、ともすれば健康や心的衛生にも関わるとされます。
ご不要であれば処分なさってかまいません。
なお替刃は、年間分を封入してあります。
あなたの肌が可能な限り快適でありますように。
ローエングラム陣営は、常に貴嬢の健康と秩序を願っております。
敬具
帝国軍元帥 ラインハルト・フォン・ローエングラム
読み終わったわたしは、何も言えなかった。
なんか、こう……勝負を挑まれた気がした。違う意味で。
「……これはもう、戦争だよね」
スイッチを入れると、シェーバーは静かに唸った。
まるで、どこかの帝国元帥が不器用に愛を語った音のようだった。
「……で、届いたのが、これよ」
「……まあ」
「正直、キルヒアイスはラベンダー。ラインハルトはシェーバー。どっちが女心に刺さるか、あんたわかるでしょ?」
「……ええ。でも、ラインハルトの真面目に間違えるところ、私は嫌いでは無いわ」
「うん、わかる。わかるけど、それはあんたが姉だからで。それはそれとして……」
「ええ」
「…………毛、剃れってことだよね」
「はい」
自分が毛深いと思われてる。死にたくなった。
「つら……」
私はゆっくり水を一口飲んでから、もうひとつ、声を落とした。
「あとさ……デリケートゾーンの形を気にする子、多いけど――見た目より扱いやすさ重視した方が楽だと思うのよ。剃ってる方が手入れしやすいし、清潔にしやすい。私はそっち派」
アンネローゼも頷く。
「私も。というか、形って正直どうしようもないし、気にし出すと沼にハマるわ。それより保湿とケア用品かな。乾燥するとすぐ痒くなるし」
「だよね無香料のオイル、マジで正義!」
そこには互いを尊重しあえる安心感があった。
誇張でも羞恥でもなく、ただ真っ直ぐに自分の身体と向き合う会話。
「戦うって、こういうことだよね」
私がぽつりと漏らすと、テーブルの向こうでアンネローゼに微笑みが広がった。
勝負は、一夜のロマンスの中だけで起きているんじゃない。
日々の選択、日々のケア、そして日々の自分を守る知恵が、勝ち抜く力になる。
夜。
風呂上がり。
部屋の窓はカーテンで塞ぎ、扉も鍵をかけている。
何をしているのかって? ……あの電動シェーバーだよ。
よりによって、あいつから送られてきたやつ。
「体毛の処理は衛生的に重要」とか、よくもまあ、真顔で書けたもんだ。
でも替刃まで付いてる本気仕様。
無視できるわけがなかった。
「……はぁ……」
まず服を脱ぐ。
次に小さな丸鏡を手に取る。
金属製のやつ。これしかない。
ハサミは要らない。日頃の手入れをしてるから、ボサボサではない。
シェーバーのスイッチを入れる。
低くて静かな駆動音。おそろしくプロ仕様。
なんか、戦闘機の整備とかってこういう音がしそう。
鏡を膝の間に立てて、そっと覗き込む。
「…………」
ああもう、ほんと、何やってんの私。
ラインハルトから贈られたシェーバーで、自分のアソコを剃る日が来るなんて、誰が想像したよ。
いやだって、試さないと気が済まないでしょ?
ここまで来たら、もう、学術調査みたいなもんよ。
そっと刃を当てる。
チリチリとした音。
鏡に、すこしずつ整っていく肌が映る。
……思ったより悪くないじゃん。
むしろすごい。滑らかで剃り残しも少ない。
なんかもう、任務完遂って感じ。
「……ぐぬぬ……くやしいけど……」
タオルで拭き取った後、思わず口に出た。
……くやしいけど、いい道具だった。
まさか敵陣営から届いた剃刀に、ここまで満足するとは。
しかも剃ったあとの保湿ミスト。
キルヒアイスからのやつ。ラベンダーの香り。
ぴったり。完璧。なんなの、これ。
「……私の股間で、帝国が融和してるじゃん……ってなんでやねん!!」
剃られた肌にそっと霧を吹きかけながら、なんかもう、意味のわからない敗北感に包まれていた。
朝の食卓。
パンとスープ。
庭では鶏がコケコッコーと鳴いている。
こののどかな風景に、あの剃刀事件が割り込んできたこと自体、ほんとに理不尽だった。
「……アンネローゼ」
「はい?」
「……あいつ、キライ」
唐突な宣言に彼女は目を瞬いた。
でも慌てずに、やさしく笑った。
「……あいつとは?」
「……あんたの弟に決まってるじゃん……」
パンをちぎりながら、わたしはむすっと唇を尖らせた。
「よりによって、電動シェーバーだよ? しかも健康のためとか言ってさ……替刃年間分つきで、送りつけてくるなんてさ……! どんな感情で受け取れってのよ!」
彼女はスープを一匙すくって静かに答えた。
「……使ってみたのね?」
「…………」
ごくり。
沈黙。
まさかのカマかけ成功に動揺してスプーンを握り直した。
「べ、べつに……ちょっと、好奇心っていうか、学術的な検証っていうか……」
「はいはい」
アンネローゼの微笑みがやさしいけど容赦ない。
「で、どうでした?」
「……ツルッツル」
「ふふっ」
「ムカつく……あいつほんと、ムカつく……なんでわたし、ちゃんと満足してんのよ……!」
湯気の立つスープを前に、わたしは顔を覆った。
毛を剃っただけなのに、なんでこんなに心がざわつくの。
満たされたのは肌だけ。心は全然納得してないのに。
「ねえ、アンネローゼ。もし仮に……あいつが本気でわたしに何かしようとしてるとしたらさ、それって……毛を剃らせる方向で来るの正気?」
「……そうね。少なくともロマンティックとは言いがたいかな?」
ロマンティックどころか、ヤバいわ。
「そう! そこよ! 何がローエングラム陣営は貴嬢の衛生を願っておりますよ! 大艦隊動かす男が私のVラインに関心持つな!」
「でも……それはつまりあなたを自分の領土だと思ってるのかもしれないわね」
さらりとしたその一言に、わたしは固まった。
「……領土……っていうか、植民地感ない?」
「そうとも言えるかな。でもあの子は……たぶん、女性の愛し方を知らないの。だからきっと何を与えればいいのかを、今は必死に模索しているだけなのよ」
姉の理解がすごい。でも毛なのか。
「……毛を?」
「そう。毛を」
「……ムカつくけど……ちゃんと剃れたのが余計に腹立つんだよな……」
パンをかじりながら、わたしは頭を抱えた。
朝の洗濯。
軒下に吊るしたブラウスが風に揺れていた。
水切りしたラベンダーの香りが、ふわっと広がる。
――あの贈り物の続きなんてあるはずがない。
そう信じたかった。
でも。
「……ねえ、アンネローゼ」
「はい?」
わたしは洗濯バサミを止める手をそっと緩めて、少し声を潜めた。
「この流れってさ……この先、まさか……ラブグッズとか送ってきたりしないよね?」
アンネローゼは、一瞬ぽかんとした顔をして――
すぐに、ぷっと噴き出した。
「……まあ……弟のことだから、衛生と健康の延長であれば……可能性は、ゼロとは言い切れないかもしれないけどね」
「嘘でしょ!? それ、普通否定するところじゃない!?」
「でも……彼なりに、あなたの生活の質を考えてだから」
「いやいやいや、生活の質って! 股間から幸福度を上げる政策やめて!?」
わたしは洗濯カゴを抱えて、その場にへたり込んだ。
心なしか、ブラウスが羞恥でピンク色に見える。
「ほんとにもう……このまま行くと、次は振動調節可能な癒し機器とか、人体にやさしい潤滑ジェルとか……こちらも完全防水ですって、ドヤ顔で送りつけてくるんじゃないの……?」
「可能性としては……なくもないのかな。ラインハルトは必要だと思えばためらわない子だから」
「正気? えっ、ねえ、あの弟さん、正気なの? 本当に?」
アンネローゼは微笑んで、首をすくめた。
「……愛とは時に盲目的で、過保護で、方向性を見失いがちなものだから」
「いや、言い換えないで? あれ、愛にすら届いてない気がするの。毛と肌と体調ばっかりで……なんかこう、心にはまだ一切触れてないっていうか……!」
「それが、ラインハルトなりの心かもしれ無いわ」
「嘘でしょ……! そんな心ある!? 毛根から入ってくる愛とか初めてなんだけど!?」
自分の頭皮でも心配してろよ。あのエロガキ。
わたしは思わず頭を抱えた。
この先、ポストを開けるのが本気で怖い。
まさか言葉にできないR-18なものとか届かないよね……?
ねえ、ほんとに届かないよね……?
お願いだから、帝国の品格ってやつ、思い出して……!
この作品、R-15だから!