帝国暦四八九年八月、銀河帝国正統政府のニュースを小耳に挟んだ。
「……ねえ、アンネローゼ。フェザーン経由で、同盟に亡命しようと思うんだけど」
朝食のパンを割きながら、私は言った。
数年前、皇帝陛下が御存命の頃にも帝国領内に侵攻し大敗したそうだけど、それでもまだ帝国に抵抗を続けているそうだから、ある程度の力はあると思う。
アンネローゼは蜂蜜を塗る手を止めた。
「……唐突ね。どうしたの?」
「いや……唐突でもないんだよ。むしろ、ソング送られた時点で、選択肢の一つとして浮上してた。下着の次に電気シェーバーって、距離感バグり過ぎてるよ」
(私の持ち物は、畑、小屋、鍬、塩、金髪の姉が親友、あとソング事件の被害者という肩書き。正直、帝国に残る理由ある?)
「政争に巻き込まれるの、ほんとダルいし。あの人の感情を装った支配に、付き合う義理もないし。フェザーンなら、とりあえず塩を送ったらソングが返ってくる文化はないでしょ?」
アンネローゼはしばらく黙って、それから言った。
「……でも亡命って、簡単なことじゃないのよ」
「うん。でも――畑持ってくには、わらに包めばいいし。家はここに置いてけばいい。ジャガイモは出発前に掘る。――準備完璧じゃん?」
私は畑に出て、ジャガイモをじっと見た。
(ジャガイモはいい。何も言わない。ソングも履かない。手紙も書かない。政治的意図も持たない)
「……やっぱ、次の人生はジャガイモに生まれたいわ」
私はつぶやいた。
アンネローゼも今の生活に染まっていた。
「フェザーンに亡命したら、そっちでも畑できるかな……」
「たぶん……肥料と水があれば、ね」
「そしたら、あのあの子にも一言送ってあげないと。ジャガイモは亡命しましたって」
アンネローゼは紅茶をすすり、そして微笑んで言った。
「その時は、また手紙に塩も添えましょうか」
「……今度は、唐辛子も混ぜとく」
朝、鍬を担いで畑に出ると、畝に立ててあったうちの表札が倒れていた。
風に飛ばされたのか、または例のヤギがいたずらしたのか。
拾い上げると、裏に薄く鉛筆で書かれたメモが残っていた。
徴兵通知配布、本日午後だと?
――ねえ待って。ジャガイモにだって収穫のタイミングってあるんだよ?
私は表札を抱きかかえ、ぐしゃっと顔を歪めた。誰かに見られたら「急に悟りを開いた僧侶のポーズ」にしか見えないだろう。いやもう、そういう境地だ。
朝食は、昨日の残りのスープと、固くなったパン。アンネローゼが蜂蜜を乗せながら「そろそろ保存食を増やしたほうがいいかしら」と呟いたのが、異様に現実的に響いた。
「……芋掘ってる間に徴兵来たらどうする?」
「鍬で応戦する?」
「それ、すっごい反逆罪の香りするけど……」
私はスープにひたしたパンを口に運びながら、うんざりと考える。
たぶん徴兵されるのはこの村の若者たち。
戦争が始まってから、年齢の下限がじりじりと下がってきてる。
昨日まで大根を干してた隣のミヒャエルも、もう制服を取りに街に行ったって言ってた。
――ジャガイモは、なにも言わない。徴兵もされないし文句も言わない。そういうところ、すごく好き。
なのに、今、あの子たちの命まで供出されようとしてるのだ。
なんかもう、帝国のためにとかじゃなくて、ストーカー皇帝の気まぐれ支配で人生崩されてるだけって気がしてくる。
午後、村に帝国軍がやってきた。と言っても兵士は三人。まさかの馬に乗っていた。
若い士官が、どこかで聞いたことのある名前を大声で呼んでいる。
「フランツ・アイゼン! ハンス・メラー! ……ユリア・フォン・エアハルト!」
……え、私?
「ちょっと来いってさ」
少年兵みたいな顔をした副官に手招きされて、私は渋々前に出る。
なんだろう。まさかの徴兵対象? 医療系事務と簿記なら資格をもってるけど、事務処理とかさせるのかな。
「閣下が、大変ご心配なさっております。ご無事をお祈りとのことです」
伝言って、それかい。いや、待て待て。
「それ……言いながらソング持ってないよね?」
「は?」
素の反応。これは無しか。
「いや、気にしないで」
この期に及んでご心配とか言ってくるって、正気かあの人。
送るものが下着、電気シェーバーと来て、今度は徴兵命令と来た。
メッセージ性がありすぎて泣ける。ある意味、直筆の恋文よりもストーカーの執念感じる。
アンネローゼは黙って、パンの耳を焼いていた。
彼女はただ、夜ごと紅茶にミントを入れる量が増えている。
私は鍬を壁に立てかけて、深く息を吐いた。
「アンネローゼ、逃げよっか。マジで」
彼女は少しだけ目を見開いた。
「フェザーン、よね」
「うん。もうね、塩で済む段階じゃないの。こっちが焼け野原になる前に、足があるうちに、畑抱えて逃げよ」
「畑は……抱えては無理よ」
「せめてジャガイモだけでも……連れて行きたいな」
私はそう言って、また畑を見た。
土の中にあるはずの芋が、今はやけに愛おしく思えた。
黙っていて、何も送ってこなくて、距離感をバグらせることもない。
ほんとに、次の人生はジャガイモに生まれたい。
夜明け前、村の空が焼けたように赤くなった。誰かが火を放ったわけじゃない。空が、戦争を映しているだけだった。
アンネローゼが水瓶を抱えて戻ってくる。
「……外、変な音がしてる。低くて、雷みたいな」
「戦艦の音でしょ。どうせまた解放って名目で、今度も叛徒、ううん、同盟軍がやって来たんだよ」
同盟軍はイゼルローン回廊を抑えてるから、時々、ちょっかいを出してくる。
でもこれはチャンスか?
私は雑に荷をまとめる。大事なものなんてない。
鍬も持てない。畑を担ぐわけにもいかない。
連れて行けるのは、ジャガイモと瓶詰め塩一つ。それから意地。
やがて、村の広場に大きな声が響いた。
帝国兵じゃない、もっと平坦で冴えない感じの声だった。
「――この村は、自由惑星同盟軍が制圧しました! 今後、皆さんの安全は我々が保証します!」
アンネローゼが小さく笑った。
「保証、ね」
「保証するんならさ、芋畑に入るとき靴脱いでって立て札立ててほしい」
武装した同盟軍の兵士が、ぞろぞろと村に入ってきた。
帝国軍はすでに撤退していたらしい。
無血制圧、だそうだ。
誰も撃たれなかった、って意味ではありがたいのかもしれないけど、撃たれない代わりに芋は踏み荒らされていた。
「どこが解放ですか、それ……」
私はため息混じりにそう呟いた。
アンネローゼは無言で布を顔に巻く。
正体がばれれば、彼女があれの姉だと気づかれる可能性もあるからだ。
私たちは群衆に紛れながら、村の検問を通過しようとした。
小さな広場で名簿係らしき男が、一人ひとりの名前と身分を尋ねていた。
私はアンネローゼの手を引いて列に並ぶ。
前に並んでいた男性が転んで、私は反射的に彼を支えようとして、後ろにいた人にぶつかった。
「あっ、すみません……!」
相手は、ひどく冴えない顔をしていた。
軍服は着ているが、どこか脱力したような雰囲気で、メモ帳を開いたまま私の方を見た。
丁度いい。
「あの……亡命したいんですけど」
その人は一瞬、きょとんとしていた。
「え……と、亡命ですか?」
「はい正式に。なるべく静かに、そしてできれば書類とか少なめでお願いしたいです」
男は周囲を見てから、私を少し脇に呼んだ。
「あなたは……どういう立場の方ですか」
「元貴族です。今は……芋農家? いえ、農村居候です」
私は一息ついて、できるだけ真剣な顔で言った。
「……キモい帝国のストーカーに言い寄られていまして」
男の口元が一瞬引きつった。
「政治的な迫害では、ない……?」
「いや、あの人、私的な感情で政治動かすんですよ。実際、塩送ったら下着が返ってきたこともありましたし。最近は電気シェーバーです。何それって感じですよね」
「ええ……まあ、そうですね……」
私はここでようやく、自分がどこかで見たような顔と話していることに気づいた。
――あ、これ。ニュースで見た。
――ヤン・ウェンリー中将だ。ていうか司令官じゃん、この人。
「……あの、無理そうなら他を当たりますけど」
「いえ、いいです。あの、なんと申しますか、亡命理由としては前例のない……いや、斬新です。はい。必要書類は少しありますが、こちらで手配しますので」
「ほんと助かります。あとでジャガイモ持ってきますね。ここの味は良いです」
ヤン中将は肩をすくめた。
「……お待ちしてます」
仮設の天幕に通されて、折りたたみ椅子に座った。
机の向こう側で、ヤン・ウェンリーが紅茶の紙カップを私の前に置く。
「……お口に合えばいいんですが」
「ありがとうございます。戦場のわりには香りがいいですね。農家としては乾燥庫の質が気になりますけど」
あ、貴族だって事忘れてた。
「ええ、そうですね……たしかこの香り、ティーバッグです」
彼は苦笑した。
私は紅茶をひと口すすいで、少し迷ったあと、ジャガイモを一個テーブルに置いた。
「……これは?」
「手土産です。亡命者の証ってことで」
そう言うと彼はまた口元をゆがめた。
笑ってるけどどこか面倒くさそうで、どこか慣れてる感じだった。
「いろんな人が亡命してきましたが、ジャガイモを置いた人は初めてです」
「光栄です。……で、本題なんですけど。私たち、ほんとに亡命させてもらって大丈夫ですか?」
「こちらとしては、拒む理由がありません。少なくとも今のところは。……でも、お尋ねしても?」
「どうぞ。あ、ただし泣かせる話ではないので、感動とか期待しないでください」
私はカップを持ち直して、話しはじめた。
「私、帝国では貴族の家に生まれました。でも家はもう無くて、財産も無くて、今は農村に居候してました。……で、ひとことで言うと、皇帝陛下にストーキングされてます」
「ストーキング……?」
「ええ。感情を装って、関心という名の支配をしてくる人です。……塩を送ったら下着が返ってきて、下着を突っ返したら電気シェーバーが送られてきました。完全に距離感のバグってるやつです」
聴いてる方の理解が及ばないだろうとは思う。
「……」
「たぶん本人は愛とか言って正当化してるんですよ。相手の自由を奪ってでも、近くに置きたいっていうタイプ。……でも、それって愛じゃなくて、帝国なんですよ」
私は少し言い過ぎたかな、と思った。でも彼は黙ったまま、カップの紅茶をかすかに揺らしていた。
「正直なところ、私は政治亡命ってより、情緒的亡命です。……あの人の感情から逃げたい。それが私の亡命理由です」
しばらく沈黙があって、ヤン・ウェンリーは深くため息をついた。
「……いや、なんというか。すごく共感します」
「え?」
「僕も、似たようなもので。上から期待という名の爆弾を投げられて、政略に巻き込まれて……気づいたら将官でした」
「うわ、それもある種のストーキングじゃないですか」
「そう、まさに。……貴族じゃないけど、貴族の幻想をなすりつけられてる感、あります」
私はジャガイモをもう一個取り出して、彼に差し出した。
「じゃあ……あなたにも。共感の芋」
彼はそれを両手で受け取って、静かに頷いた。
「亡命手続き、急ぎます。……塩も、唐辛子も、お持ちですか?」
分かってるじゃん。この人。
「両方あります。あと畑の設計図もあります」
「心強いですね。では、ようこそ、自由惑星同盟へ」
彼の目には少しだけ疲れと、少しだけ救いがあった。
――なんだろう。思ってたより悪くない。
亡命先が、ジャガイモを受け取ってくれる人でよかった。
一方で難民移送船のなかは、ちょっとした密室ミュージアムだった。
汗、焦燥、混ざる保存食の匂い。そして、「いつ帰れるのか」「いや帰らなくていいのか」と、うっすらと空中に浮かぶ人生相談。もはや宗教施設と変わらない。
――私たちは、神ではなく芋を信じて生きる者である。
仮の住処は、イゼルローン回廊の同盟側出口にある辺境惑星――正式名称は覚えていないけど、私的には仮ジャガイモ特区に命名。
仮設の住居には天井があり、水は出る。キッチンもあった。二人の一つのベッドもあった。
でも暖房は石油缶に火を入れてつくるタイプだった。文明国でこれって、どうなの。
「……思ったより、解放って素朴なのね」とアンネローゼ。
「芋の保管庫がない時点で、私たちにとっては未開地よ」
それでもとアンネローゼは紅茶を淹れる。
持ち出してきた純銀の小さなティーポットが、異様な存在感を放っている。
周囲の難民たちがざわざわと遠巻きに見てくるけど、彼女は視線などものともせず、静かにティーバッグを上下に振っていた。
私は壁際にしゃがみこんで、手持ちの芋の傷み具合を確認していた。
輸送中にひとつ潰れていた。仲間を守るために犠牲になる芋の勇気に、ちょっと泣きそうになった。
――ほんと、戦場に向いてるのは人じゃなくて芋だよ。
「ところで……あの司令官、優しかったね」とアンネローゼが言った。
「ああ、ヤン提督? 冴えないけど芋の味は分かるタイプ。芋判定士としては合格」
「あなた、それ本気で言ってるの?」
アンネローゼがこいつまじかと言う目をして来た。なんだよ。何かあった?
「うん。少なくとも塩に下着を返すタイプではない」
アンネローゼがくすっと笑って、湯気立つ紅茶を差し出してくれる。
「それにしても、ラインハルトとジークはどうするかしらね……」
私は紅茶を受け取り、ゆっくり口に運ぶ。
「……たぶん、塩に唐辛子混ぜて送り返したあたりで、察すると思う」
「それでも、追ってくるんじゃない?」
怖いこと言った。
「うん……でも、来るときはさ。ソングじゃなくて、ちゃんと文章にしてほしいよね。たとえば――亡命しても好きですとかさ」
「それ、ちょっとロマンチック」
なんでやねん。
「いやだよ! 一番めんどくさいタイプじゃん!」
紅茶がぬるくなっていく。
時間は流れているけれど、私たちはようやく止まった感じがした。
――塩と紅茶と、芋と笑い、そして友情がここにはある。
ここにあの国にはなかった安らぎが、少しだけある。
亡命という言葉には、もっとこう――鉄条網とか、銃声とか、サーチライトとか、ド派手な亡命劇がついてくるものだと思っていた。
でも現実は役所の待合室だった。
「番号札、四八七番の方。面接室三へどうぞ」
私は芋袋を引きずりながら立ち上がった。
アンネローゼは同行しない。
「顔が割れてるから」と言って、仮設住居の隅で紅茶のティーポットを磨いている。
面接室はプレハブで、内装も極めて事務的だった。
机を挟んで、いかにも疲れた公務員という感じの男が書類をめくっていた。
「……では、エアハルトさん。亡命理由は、個人的理由および農業的自由の確保……でよろしいですか?」
「はい。あと、対皇帝的感情被害も追加で」
「……対皇帝的、感情被害?」
きょとんとされた。
「はい。塩を送ったら下着で返されたとか、言葉ではなく物品で感情を押し付けてくるタイプの、ストーカー皇帝です」
担当官は明らかに困った顔をした。
書類の余白に要面談と大きく赤字で書き込みながら、眼鏡をはずした。
「その……政治的迫害ということで統一することはできませんか? こちらとしても処理がしやすいのですが……」
「政治もされましたが、それ以上に感情です。あと、農地への過干渉も問題です。あの子は芋を掘るべきじゃないとか言われて、畑にまで干渉された日には、もうね……」
そこに扉がノックされた。
ヤン・ウェンリーが紅茶の紙コップを二つ持って立っていた。
「お邪魔してもいいですか」
「ど、どうぞ提督! あの、こちらの案件、少々難航しておりまして……」
ヤンは一礼して入り、私の前に紅茶を置いた。
「少し話を聞きました。……この方、ジャガイモ栽培のエキスパートです。塩の選別にも長けているらしく、戦闘糧食の食材調達の上でも、地場生産計画に協力できるかと」
私は思わず吹き出した。
「ちょ、そんな肩書き、今つくったでしょ」
「まあ、使えるなら使いましょう。亡命理由が恋愛被害と芋の自由というのは、書類的にかなり厳しいんですよ。……ですが、農業外交顧問(仮)として、当面は庇護できると思います」
ヤンの提案を了承して、私は両手で紅茶を受け取った。
「……感謝します。では、お礼に今度、塩じゃなくてサツマイモを渡しますね」
感謝の心を込めて育てる。
「助かります。……僕、甘いの好きで」
そう言って去っていったヤンの背中を見ながら、事務官が小声で呟いた。
「……亡命理由にサツマイモと書いても、いいんでしょうか」
「ええ。焼き芋の自由と書いておいてください。あと、感情圧政からの脱出も忘れずに」
ラインハルト・フォン・ローエングラムは、執務室で一枚の報告書を手にしていた。
叛徒の情報を入手し分析した報告書の表紙には、こう記されていた。
【亡命者情報:ユリア・フォン・エアハルト】
・動機:感情的圧政からの脱出/芋の自由な耕作環境を求めて
・現職:同盟仮政府付き農業外交顧問(仮)
・所持品:ジャガイモ複数、塩小瓶、唐辛子粉末
「……どういうことだ、これは」
ラインハルトの手がぴくりと震えた。
「姉上とユリアは、芋のために亡命したのか……?」
キルヒアイスは何も言わなかった。
ただ、黙って報告書の余白に貼られた赤い封蝋――唐辛子のスタンプを見つめていた。
――指について知らずに舐めたら辛いだろうなと。
朝、キッチンでパンを焼いていると、アンネローゼがいつもの紅茶ポットを手にやって来た。
その手に一枚の白い紙が握られていた。
「……回覧板が回ってきたわよ。少し物騒なやつ」
私は受け取って、何も言わずに読む。
【帝国政府発信】
元帝国臣民ユリア・フォン・エアハルト及びアンネローゼ・フォン・グリューネワルトの即時帰還を要請する。
合理的事情が存在しない限り、亡命は正式に国家背信と見做され、厳重に抗議される。
「……国家背信、ねぇ」
私は鼻で笑って紅茶をすする。
ちょっと濃かったけど、いい香りだった。
「合理的事情って。……パンがまずいとか、芋がないとかはダメなんだろうな」
「ストーカーが怖かったは?」
「たぶん一蹴される」
当の本人に言っても通じない。
「じゃあ、塩の価値観が合わなかったとか?」
あいつ、塩は褒めてくれてたよな。嘘はつきたくない。
「それだと、円満離婚の理由みたいでイヤだな」
私は紙を丸めて小さな缶に入れて火にくべた。
燃える様子を見てアンネローゼが微笑む。
「……返事、出すの?」
「出すよ。ジャガイモ農家には、言葉じゃなくて塩がある」
私は机の上に置かれた小瓶を手に取った。
中には淡いピンク色の塩が入っている。
ミネラルが豊富なせいで、少しだけ甘い香りがする。
そして棚の奥から、赤く光る小さな包みを取り出した。
唐辛子粉。フェザーンの商人から分けてもらった。刺激的で後に残る味だった。
「これで決めよう」
「内容は?」
「ジャガイモは亡命しました。塩は甘く、唐辛子は辛い。どちらを好むかは貴方次第ですって書く」
「……それ、詩人みたい」
「元・詩的な皇帝への、皮肉なポエム返し」
私は封筒に塩と唐辛子をほんの少し詰めて、短い手紙を添えた。
親愛なる皇帝陛下へ
貴方の支配下に、芋も、私も、似合いません。
塩は私の気持ち。唐辛子は将来のご縁の可能性です。
ご査収ください。
笑ったアンネローゼが、「じゃあ、私はティーバッグを一つ添えておくね」と紅茶を選び始めた。
それって、実の弟相手に毒入ってるよね。
その夜、報告を受けたラインハルトは、封筒を開けた瞬間、しばらく動かなかった。
塩と唐辛子。香り立つ紅茶のティーバッグ。
そして、ただ一言、筆跡だけは変わらない手紙。
芋の亡命は完了しました、とあった。
彼は黙って席を立ち、窓辺に立った。
「……彼女たちは、もう戻らないのか?」
キルヒアイスは横に立ち、静かに答えた。
「はい。……これは、塩対応どころではありません」
塩だけに。
辺境惑星コットンⅢ──名前からして柔らかそうだったが、現地はなかなかの硬派だった。
土は粘土質で水はけが悪く、肥料は高価で、ついでに言うと夜は宇宙船の音でうるさい。
でも、私はここが気に入っていた。
なぜなら、畑ができるからである。
しかも、誰にも「芋など育てるな」と言われない。
ラインハルトもいない。シェーバーも送られてこない。
「……この土、芋に向いてるとは言えないけど、性格は悪くないわね」
鍬を握りしめてそうつぶやくと、隣でスコップを持つアンネローゼが笑った。
「あなた、土の性格まで見るようになったのね」
「農とは哲学。あと、惑星占いとスピリチュアルも含む」
鍬を振るうと空が広かった。
夜になると、星がばかみたいに見える。
だから星屑の芋畑。何かの詩集みたいだけど、現実だった。
ユリア・フォン・エアハルト、肩書きは今や自治地区芋類作付顧問。
最初は仮だったはずの肩書きが、なぜか定着してしまった。
書類にも印刷され、地域会議でも「顧問、品種転換についてご意見を」と聞かれる始末。
「人間って、肩書きがあると、突然まじめになるよね」とアンネローゼは言う。
「うん。でも顧問って響きは悪くない。何かあっても責任取らなくていいし」
「あなた、それ公の場で言っちゃだめなやつ」
芋畑の隅には小さな掲示板があって、今日はそこに「児童支援ボランティア募集」の紙が貼られていた。
「……アンネローゼ、これどう?」
「読み聞かせ? いいわね。『銀河英雄伝』とか、『ソングと塩と唐辛子』って話、子供たちに読んであげたいわ」
「ソングはやめて。塩と唐辛子は教材にいいけど、ソングはトラウマです」
その日の午後、フェザーン商人を名乗る男がバイク便でやって来た。
「ジャガイモ外交官殿、書簡と物資のお届けです」
私は頭を抱えた。そんな名前で呼ばれるとは思っていなかった。
封筒にはシックな銀の封蝋。差出人は、フェザーン民間流通会議・代表理事代理。
「肩書き、長すぎじゃない?」
「ま、フェザーンですから」
中には商用便の招待状が入っていた。
今後、自由惑星同盟との農業交流を希望します。特に、ジャガイモと唐辛子において、非常に高い関心があります。
私は読みながら、ふっと笑った。
「……なんかもう、どこ行っても芋で扱われる人生 なんだなって」
「立派な生き様よ」とアンネローゼ。
「でもフェザーンかあ……あそこ、塩よりも胡椒が高そう」
「スパイス戦争、始まるかもね」
フェザーン商用便の招待状を読んだあと、私はしばらく畑の中で固まっていた。
隣で芋を引き抜いていたアンネローゼが、「何か変な虫でも出たの?」と聞いてきたが、違う。
「……フェザーンに来てください、だってさ」
「へえ、よかったじゃない。観光ついでに紅茶でも買ってきて」
「いや、行かないから」
私はまっすぐに言った。
「……あそこ、帝国の弁務官事務所あるし。フェザーンって名ばかり中立で、実質、権謀術数の見本市みたいな場所でしょ?」
「でも商人は塩が好きよ。きっと芋も」
「塩は売るものであって、政治に混ぜると体に悪いのよ。……だいたい、亡命者がふらっと行っていい場所じゃない。何かあったとき、スパイですって言われたら終わりよ
アンネローゼは口元を指で押さえてから、小さくうなずいた。
「たしかに、あの場所に安心はなさそうね」
「それに最近、同盟も雰囲気良くない。ニュース見た? 前線で負けたらしくて、ちょっとピリピリしてるのよ。帝国貴族の亡命者ってだけで疑われる可能性ある」
「じゃあ、丁重にお断りを?」
「うん。でも、それっぽく。丁寧に、穏便に。……今は畑の繁忙期なのでって感じで」
「それ、農業で政治かわす気満々ね」
「農業こそ究極の非政治よ。芋は、味方も敵もなく育つんだから」
私は招待状を封筒に戻し、机にあった便箋を取り出した。
拝啓、フェザーン代表理事代理様
ご丁重なるご招待、誠にありがたく拝受いたしました。
しかしながら現在、当地の畑が播種期に入り、多忙を極めております。
加えて自由惑星同盟側の指導のもと、慎重に滞在管理を行っている立場ゆえ、勝手な越境行動は差し控えるべきと存じます。
何卒、事情ご賢察のうえ、今後の交流に期待を寄せつつ、今回は辞退させていただきたく存じます。
末筆ながら、フェザーンの皆様にも芋の恵みがありますように。
敬具
「……ねえ、それに塩入れる?」
「唐辛子もちょっと混ぜとく」
「やりすぎでは?」
「友情のスパイスよ。あと、遠くから見てますって意味で」
そんな風に馬鹿話で笑ってられたけど、世界ってのは残酷にできていた。
「……まじかよ」
パンをかじる手が止まった。
「フェザーンから……来やがった」
あの男、ついに盤面をひっくり返したのだ。
中立、外交、交易の緩衝地帯だったはずのフェザーン。
その奥から銀河帝国軍がなだれ込んできた。
フェザーンに行かなかったのは大正解だった。だけど⋯⋯。
(イカサマどころか……)
私は思わず机を叩く。
「それ、反則じゃん! 盤外乱入だし、しかもここなら大丈夫って信じてた場所から……ッ!」
星図を広げてみる。
フェザーン、同盟、イゼルローン、全部が後ろから刺された位置になっていた。
安住の地だと思っていた同盟側辺境の芋畑は、明日、前線になるかもしれない場所に早変わりしていた。
「……これ、詰んでる?」
アンネローゼは紅茶のカップをそっと置いて、静かに言った。
「詰んではいないわ。あなたが芋を掘る限り、この土地は前線にはならない。……そう信じましょう」
「……芋が、最後の防衛線か」
「ええ。芋塁ね」
私は笑った。泣きそうなほど力なく。