”今日のアルバイトはちょっと大変だったな”…天音は喧騒の人混みに紛れながら,心の中でため息をついた。
人は多くて暑い。
でも毒づくことなんて出来なくて,せめて早く家に帰ろうと思ってた。
あと,アルバイトでいやなことがあった。
天音のバイト先はライブカフェの厨房スタッフ。
接客をしたくない彼女の意志と,料理の腕を見込んだ店長さんは彼女を雇ってくれた。
だけど何事も例外は存在し,今日はその例外の日。
休日のライブカフェが繁盛しない訳なく,雨予報から晴れ予報に変わったせいで外に出るお客さんが増えての大渋滞。
厨房の天音も一時注文を聴きに行かないといけない位には混んでいたのだが…
『あれ見ない子じゃん,ちょっと俺の演奏聴いてってよ』
感じは…多分良い人なのだろう。
明るい茶髪の,どこにでもいる大学生。
ギターを背負っている事がカッコいい事だと思っている系の人間で,きっと声をかけたのだって普段は厨房にいて初めて見たからだろう。
別にそれだけなら”苦手”で済んだのだろう。
けれど,彼は天音のパーソナルスペースへと侵入すると…胸から心臓の音が聴こえ始めた。
ただ注文を聴くだけなのに…周りの人達が出来ている簡単な事なのに,天音にはそれが途方もない事のように感じた。
そして決定的だったのは
『ってか名前は?』
「——っ」
今思い出しても,恐怖が身体を駆け巡る。
ただ名前を聴かれただけ,それなのに
男と言うだけで,何かが壊れる音がする。
——怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
ただその感情だけが天音を縛り付けた
『ち…ちと…』
『なんて?』
男の眼が,きっと悪意はない筈なのに怪訝そうに変わるのを見て恐怖は増大した。
声が震え,身体も震え,眼には涙が溜まり始めてしまう。
だがライブカフェという在る意味解放出来る場所にいる未熟な男がそれに気がつくには,いささか無理というもの。
一瞬にして無限の時間の中で,金縛りのように動けなくなった天音を助けるように別のスタッフが駆け付けた。
『あ,千歳さん。料理長呼んでるから行ってあげて。あとお客様,店内でナンパはご遠慮ください』
『え,いや名前聴いただけだし』
『この繁盛ぶり見て名前を聞く時間がおありと思いますか?』
そう言うと男性はバツが悪そうに眼を反らした。
スタッフは軽く天音の背中をポンポンとさすり,厨房へと押した。
『ごめんね,来てくれてありがと』
そう言われたけれど,お礼なんて言われる資格がないと自分で思ってしまっている。
自分が聞けた注文なんて3グループだけ,このスタッフや他のスタッフに同じ時間があれば5グループは注文を取れたのにと。
その謝罪はきっと心からの物,だけどそれを受け取る事が天音にはとてつもなく怖かった。
『ごめん…なさい』
そして,”ありがとう”に”ありがとう”と返せない自分を,歯がゆく感じた。
愛想笑いすら出来ない,本当に自分なんて厨房にずっと引っ込むべき存在だと思えてならなかった。
結局,その後は機械的に料理を作るだけだった。
スタッフから何かを言われたかもしれないけれど,それを聴く余裕は天音になかったのだ。
「千歳さんお疲れ様,帰ってゆっくり休んでね」
そうして,早く逃げたいという願いが通じたのか,天音が次に自意識を取り戻したのはバイトが終わった時だった。
小さく頭を下げ,逃げるようにライブカフェを出た。
向かうのは最寄り駅。
晩御飯は昨日作り置きしといた肉じゃががあるし,なにか必要な物がある訳じゃない。
ただ早く,この喧騒から逃れたかった。
——その筈だったのに
「聴いてください,——」
知らない曲だった
彼らのオリジナル曲だったかもしれない。
そのなんの変哲もない,故にシンプルなコードで出来ている曲に天音の足は止まった。
横に顔を向けると,さっきのとは違う茶髪のアコギを持っている男と黒髪のボーカルであろう人が路上ライブをしていた所だった。
知らない人の前で,知らない曲を演奏する彼ら。
レベルが高いわけではない。
演奏技術は気持ちが先乗りしてしまっている。
けれどボーカルの人との息はそれなりにピッタリで,きっと場数をこなしてきたのが分かる。
ああ,それからもう1つ。
自分がなぜ足を止めてしまったのか。
男の人が怖いのはある。
早く帰りたいと思ったのも事実。
それでも,不意に聴いたメロディが…10年前のものと一瞬似ていたからだろう。
懐かしきヨーロッパ文化が溶け込んだ街で営まれていた母のピアノ教室。
そこで歌った…母が作った歌。
一瞬聴くだけでは分からなかったけれど,それがきっと自分が立ち止まってしまった理由。
もちろんこの男達が演奏したものとは似ても似つかない。
たまたまメロディラインが一致した瞬間があっただけのもの。
それだけで天音の意識は彼等に引っ張られたのだ。
そうして,引っ込み思案,人見知り,愛想ないの3拍子が揃った自分では絶対にあり得ない路上ライブをしている彼らの事を天音はただ尊敬の念で
——すごいなぁ
そう,呟いた
路上ライブが終わって,心のどこかに黒いものを感じながら踵を返そうとして誰かにぶつかった。
さっきの曲に感じた何かに気を取られていたのかもしれない。
そんな自己分析よりも先に出たのは謝罪の言葉。
条件反射気味に言った
「ご,ごめんなさい!」
そうして天音が彼の眼を見ると,心臓が鷲掴みされてしまったように息苦しくなった。
光がない眼,なにも信じず,ただ現実だけを見るリアリスト。
そして,なにかがかけたら自分の父親と同じになってしまいそうな男の子。
無意識的に殴られる準備をする。
殴られるのだってコツがいる。
ショックを和らげるために受け身を取ったり,自分から身体を下がらせることでダメージが低くなる。
そんな本来15歳の少女にはいらない本能で,バカみたいなのだろう。
だけど天音にはそれが必要だった。
必要ないこの街に来ても,その残滓が消える事は無かったのだ。
「別に。あと周りの目がヤバいから謝るな。」
そう言われても,謝る以外の選択肢が天音にはなかった。
なんならより怖くなってしまっていた。
だから藪蛇なのに
「ごめんなさい」
ただ殴られないように,身体を丸めながら繰り返す。
知らない間に息は止まり,ただこの人に迷惑を詫びなければ――
「はぁ」
「っ」
ため息が聴こえた瞬間,天音の緊張はMAXになる…が,彼は天音を無視してすれ違い駅の中へと消えてしまった。
天音は震える指を見る。
”助かった”って思えた喜びよりも,”やってしまった”という罪悪感の方が強かった。
彼は別に自分に何もしなかった。
なのに,自分がただ怖いと思っただけで彼の言う通りに周囲に彼の悪印象を付けたと思ったのだ。
知らない人の目に「悪く映る」こと。
それを自分が引き起こしてしまったこと。
それが、どうしようもなく怖い。
——また、誰かに迷惑をかけた。
——また、自分が“ダメな子”だった。
過去から這い寄ってくるようなその声に突き動かされ、
天音は“人間”という存在そのものから逃げるように、走り出した。
これ以上,誰かに迷惑をかけないように。
そして駅の人混みが、なにかを隠してくれるような気がして。