新古典派経済学っぽい話から、マルクス経済学っぽい話へ   作:ヒルベルト

6 / 7
リバタニアリズムに弔鐘を

自由の守護者たちは言う。

人間の自由を護れ、と。

では、何が人間の自由を妨げるのか?

それは、人間の自由である。

 

だから、ある人間の自由を護るには、ある人間の自由を抑えねばならない。

人間が人間と共に生きて行く限り、完全な自由などというものはあり得ない。

それでも、自由の守護者たちは言う。

人間の自由を護れ、と。

それは無理な主張だと言わざるを得ない。

 

 

では、自由とは?

何かを選べる時、選択肢がある時、

人間には自由があると言える。

しかし人間が何かを選ぶ時、選択肢を前にする時、

同時に、何らかの問題に直面している。

選択肢があるということは、自由であるということは、

同時に問題に行く手を妨げられているということ…

…自由ではないと言うことでもあるのだ。

 

規制や規則は、確かに人間の自由を妨げる。

だが同時に、規制や規則は人間に選択肢を示し…

…人間に自由をもたらしてもいる。

 

自由の守護者たちにとって、

規制や規則は、自由に対する妨げに他ならない。

自由の守護者たちは、自由のために、

規制や規則を廃せよと主張する。

しかし、規制や規則を廃することは…

…同時に、そこに示された選択肢を廃することでもある。

…同時に、そこにもたらされた自由を廃することでもある。

 

 

誰かの自由を護るには、誰かの自由を抑えねばならない。

自由を妨げる規制や規則は、同時に自由をもたらしてもいる。

(だからそれを廃することは、自由を廃することでもある。)

 

すると、自由のために、自由を護るために何かをすることは…

…却って自由を損なうことでもある。

 

自由の守護者たちは、自由を護ると言いながら、実は自由を損ねているのだ。

 

 

顧みれば、人間は元々自由だ。

どうしようもなく、自由だ。

「人間は、自由の刑に処されている」と言う人も居た。

人間の目前に、どんな問題や障害があっても、

そこには必ず選択肢がある…自由がある。

 

だとすると、

人間が、自由のために為すことなど、何も無いのかもしれない。

人間が、自由のために出来ることなど、何も無いのかもしれない。

 

敢えて人間が自由のために為すことがあるとすれば、それは…

自由のためには何もしないこと、

自由のためではなく、今ここにある問題のために何かをすること。

…これだろう。

 

繰り返すが、自由のためと言って何かをすれば、

却って自由は損なわれてしまうのだ。

 

******************************************************************

 

自由の守護者たちは言う。

市場は最も効率的なシステムである、と。

それゆえ、市場は人間にとって最善のシステムである、と。

それゆえ、支配者などと言う存在は、本来人間には不要なのだ、と。

 

しかし、市場が最も効率的なシステムである、と言うことは、

市場が万能・全能のシステムであることを意味しない。

人間は、誰かの助けを、誰かの助力を求めて市場に出向くのであるが、

市場というシステムがどれだけ効率的であったとしても、

確実に助力を得られるかどうかはわからないし、

完全な助力を得られるかどうかもわからない。

市場を頼っても、必要な助力を得られなかったとしたら、

市場に出向いた人間は失望・絶望するしかない。

市場は、時として人間を失望・絶望させるシステムでもあるのだ。

 

その点を伏せて、市場を最善のシステムであると喧伝することは…。

 

 

確かに市場は、人間にとって絶対に必要なシステムだ。

しかしそれは、市場が人間にとって最善のシステムだから、ではない。

人間が、市場というシステムを拒否すれば…

…人間は互いに争い、奪い合うことによってしか生存出来なくなるからだ。

だから時には失望・絶望させられることがあったとしても、

市場は人間にとって絶対に必要なシステムなのだ。

 

Market is the worst system of business except for all others which have been tried.

 

 

自由の守護者たちは言う。

市場は最も効率的なシステムである、と。

では、その市場の効率は、何に依って測られるのか?

自由の守護者たちは、カネに依って、市場の効率を測ってきた。

 

市場に出向く人間は、

できるだけ多くの利得を…カネを得るために、互いに競い合う。

市場に於いて、多くの人間が、カネを得るために競い合う。

人間が競い合うことによって、市場は最も効率的なシステムとなる。

自由の守護者たちは、そう論じてきた。

 

しかし、市場でカネを得ると言うことは、

他の人間からカネを得ると言うことである。

それは、他の人間からカネを奪うことにも通じてしまう。

だから、市場に於いて人間がカネを得るために競い合うと言うことは…

…市場が、争い・奪い合いの場になってしまうことを意味する。

 

カネに依って市場の効率を測ること、

そして、人間が市場で、カネを得るために競い合うと仮定することは…

…市場が市場である意味を失わせてしまうのだ。

 

 

人間は、カネを得るために市場に出向くのではない。

人間は、他の人間から助力を得るために市場に出向くのだ。

市場は、争い・奪い合いの場などでは断じてない。

市場で人間がすることは、

注文することであり、譲歩することであり、引き受けることであり…

…断ることであり、他所をあたることであり、時には諦めることである。

注文を押し通すことではないし、

誰かからカネを奪い、掠め取ることなどでは断じてないのだ。

 

 

しかし自由の守護者たちは、

人間が、市場に於いてカネを得るために争うことによって、

市場は効率的なシステムになると説いている…。

 

これは、市場を争い・奪い合いの場に変える説に他ならない。

これは、市場を戦場に変える説に他ならない。

こうして自由の守護者たちは、人間を戦場に駆り立てて来た。

 

自由の守護者たちは、競い合うことで人間は進歩すると説く。

しかし、それは錯覚である。

競い合うこと、争うことそれ自体は人間を疲弊させるだけである。

人間を直接進歩させるものは、あくまでも試行錯誤なのである。

 

自由の守護者たちに従えば、

市場に於いて、人間はカネを求めて争い合うことになる。

では、いつまで争い合うことになるのか?

カネはもとより数値に過ぎない。

単なる数値に、上限や限度というものは無い。

一度カネを求め始めたら、どれだけカネを得ても、追求を止めることは出来なくなる。

人間は永遠に、カネのために生き、カネのために死んで行く存在と成り果てる。

 

 

人間は、自由の守護者たちから離れなければならない。

 

 

最後にもう一つ。

自由の守護者たちは、

市場こそが人間にとって最善のシステムであり、

市場さえあれば、支配者などと言う存在は不要だと主張する。

 

しかし、そもそも支配者という存在も社会の中で、市場の中で生じた存在である。

支配者は、レス・プーブリカ(公共のもの)を供する「売り手」であり…

…そのために民の助力を求める「買い手」でもある。

支配者もまた、市場の中の存在なのだ。

 

自由の守護者たちは、支配者を市場の外に置いているが…

…その主張は全く恣意的で、不自然かつ意味不明な主張だと断ぜざるを得ない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。