雨が降り続ける街に住む、一人の女性の話。

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第1話

 雨が降っている。とは言っても、この街、通称〝レイニーシティ〟はこれが日常茶飯事だ。一年のうち八カ月くらいは雨が降っていると言ってもいい。だからなのかは分からないが、この街は地上に限って言えば土地代も家賃も驚くほどに安い。それも、他の街とは違って高層階になるほど安くなる。最上階なんて他の街の一階よりも安いのではなかろうか。泥棒に入ろうとして足を滑らせて転落する人も何人かいるとか。

 

 この雨の影響は凄まじく、出張などで一時的に泊まるだけでも嫌な顔をする人が大半で、旅行に来る人はもっと少なく、定住なんて考える人は一握りだ。そして、私と彼はそんな変わり者の一人だった。理由は比較的合理的なもので、単に家賃の低さに惹かれたのである。

 

 私達はまだ若くて、収入があるわけでもない。安いというのはそれだけで魅力になるのだ。

 

 大学で出会って、そのまま付き合った恋人。特別なドラマなんて無くて、ただなし崩し的に出会って付き合っているだけだった。それで私達は幸せだった。卒業して就職して、新居の相談をするその時すらも楽しかった。

 

 だが、彼は死んでしまった。

 

 死因は急性白血病。病気になってから一カ月で、彼はあっという間に亡くなった。

 

 あんまりだと思った。この世に邪神や悪神がいるとしたら、この出来事を以てその証明となるだろう。

 

 レイニーシティは交通事故の発生件数が他の街よりも多い。理由は様々で視界不良や滑面。いずれにせよ雨に起因するものだ。だから、交通事故だというなら、まだ納得できたのだ。家賃という悪魔に誘われて、深く考えずにこの雨の街に引っ越した自分達の浅慮が招いた事だと。

 

 もしくは寒さによる肺炎なら、同じような理由で納得できたのかもしれない。でも、彼の死因はいずれにも該当しなかった。彼に憑りついた病魔と言う死神のデスサイズは、理不尽に彼の首を()ねたのだ。

 

 遠雷が耳をつんざく。

 

 窓辺に腰掛けて外を眺める私を咎めるように鳴った雷は、それ以降何も答えない。今日は休日で、そういう日は何処に出かけるでもなく、部屋の窓から雨を眺めている。彼が亡くなった後、私は仕事という仕事を、残業という残業を片端から受け入れた。その頃はすぐにでも引っ越してしまいたかったけれど、そんな資金は無かった。

 

 だから他のことで気を紛らわせた。激務が私を救ってくれたのだ。仕事でミスをして叱責されている時ですら、気が紛れて救われた。そんな毎日を送っていた私は昇進して、給料も上がった。でも、私の傷心は治らなかった。

 

 今はすぐにでも引っ越せる程度の資金はある。でも、不思議とこの街から離れる気にはならなかった。毎日降る雨が、私の涙に同情してくれているような気がしたから。ダブルベッドが、二人分の歯ブラシが、彼と付き合う前は決して読まなかった本がある部屋で、雨の旋律に身を任せて過ごすのが嫌いではなかった。

 

 ほろ苦いコーヒーも、少し甘いブランデーも、ほんの少し煙草の匂いがする彼の唇ほどは私を癒してくれない。それと同等に癒してくれるのが雨なのだ。

 

 ぱら、ぱら、ぱら。

 

 窓ガラスを叩きつけるその音が、振動が心地よい。アスファルトを蹴るその水は大地と天を循環して降り注ぐ、彼の魂もまた、そのように循環しているのだろうか。

 

 彼のことで覚えている事はたくさんある。

 

例えば食事。彼はいつも、とても美しく食事をした。魚の身をとても綺麗に骨から剥がし、肉を切り分ける指先は淀みなく、スパゲティを食べる時はソースを一滴も飛ばすことなく、見惚れてしまうくらいに上品に口に運んだ。

 

 全体的に美しい人だった。アルビノで、あらゆる色素が抜け落ちたその容姿はまるで天使か雪の妖精のようで、それもレイニーシティに住むことを決めた一因だ。大半の人が嫌う雨は、彼にとっては日光を遮る加護だった。大学時代は学校以外にほとんど外に出かけなくて、基本的に彼の部屋で過ごす事が多かった。恐ろしく整頓された彼の部屋を見て、雑という言葉を絵に描いたような私の部屋を思い出して恥ずかしかったのを覚えている。

 

 今でも彼に教えられた方法で部屋は片付いたままにしているけれど、彼は褒めてくれるだろうか。

 

「The balance distinguishes not between gold and lead.」

 

 彼が読んでいた本に登場した言葉だ。天秤は金も鉛も区別しない。天秤が見るのは質量だけで、金と鉛の価値の違いは測らない。元々は人間の平等を説くためのことわざだけれど、今は、あんなに愛しかった彼にも平等に死が訪れるという神託に聞こえた。

 

「Dust to dust. Ash to ash」

 

 聖書の言葉。創世記でアダムが楽園から追放された時に神から投げつけられた言葉。塵は塵に、土は土に。彼は確かに知識はたくさんあったけど、それは死に値するほどの物なのだろうか。

 

「Eternity is in love with the productions of time.」

 

 永遠は時間の生成に夢中だ。

 

 これも彼の本に書いてあった言葉。彼は永遠という言葉に対しては否定的だった。何事にもいつかは終わりが来る。きっとそれは真理なのだろう。恋人の前でそれを言うのは、少しデリカシーに欠けている気がするけれど。

 

 流石に急性白血病を予測していたとは思えないけれど、自分の命に終わりが来ることはなんとなく予見していたのかもしれない。

 

『気付いた時には全てが終わりを告げて、この雨が僕を笑うのだろう』

 

 引っ越した時に彼が呟いた言葉。その時は何とも思わなかったけれど、いや、せめて私を思い出す、くらいは言って欲しいと思ったけれど、きっと笑われているのは私の方だ。永遠というのが時間の上位概念で、時間の母であるなら、私を笑っているのは永遠だ。

 

 時間の生成に夢中だというのなら、今すぐ彼に時間を与えて欲しい。神の如き永遠ならば、それも可能だろう。

 

「はあ……」

 

 私は溜息を吐いて、外に出ることにした。雨粒が床に映る階段を降りて、プライベート用の靴を履いて、傘をさして道を歩く。彼とよくデートをしたブックカフェに向かって足を進める。

 

「Think in the morning. Act in a noon. Eat in the evening. Sleep in the night.」

 

 朝には考えよ。昼に行え。夕刻に食せ。夜には眠れ。

 

 雨の音に共鳴するようで、妙に心地が良い。これも本の内容で、彼が警句のように言っていた事だ。当時の私は人間関係や学業でいっぱいいっぱいだったけれど、彼は仕方の無いようなものを見る目でこの言葉を教えてくれた。私はそれにも反発してしまったけれど、それでも彼は私を抱きしめて一緒に眠ってくれた。

 

「…………」

 

 分かってはいる。そろそろ前向きにならないといけないことは。それでも、彼の記憶が私の頭で反響して離れない。だから、私は外に出て、傘の中で雨音に囲まれる事で忘れようとしてる。

 

 …………。

 

 言い訳だ。彼を忘れられない事が問題なんじゃない。現に、今も彼との思い出の場所に向かおうとしている。この現状は私が望んだものだ。私が彼を喪った悲しみに浸る事を選んで、彼を喪った傷が癒えないように立ち振る舞っている。

 

 足に跳ねる水を見て、それから一人分の空白が開いた傘を見る。

 

 周りが思っているほど、私は完璧じゃない。

 

 彼が死んでから、私は逃避するように仕事に没頭して、周囲からは八面六臂、完璧超人だなんて言われていたけれど、私は仕事を言い訳にして逃げていただけだ。彼の死に向き合う事が、もっと言えば彼を忘れることが怖かったのかもしれない。

 

 私はそんな弱い人間だ。葬式でも涙を流さなかった私を強いという人もいたけれど、ただ悲しすぎて涙が出てこなかっただけなのだ。

 

 でも、どうすればいいのだろうか。前を向かなければいけない事は分かってる。でも、彼を忘れてしまう事が怖い。

 

 そして私は立ち止まってしまった。比喩的にも、現実にも。

 

 ブックカフェに向かう足が、動かない。アスファルトの上の雨に濡れた足が動かないのは、寒さのせいではなかった。まるで吹き抜ける階段を、底知れぬ闇を覗き込むような不安が私を包む。数年間、思いを()して私なりに必死に関係を築いてきた。それを、今から捨てなければならない。

 

「嫌……」

 

 私の口から自然と言葉が零れる。それだけは死んでも嫌だった。雨の中で目を見開いて、私は必死に思う。壊れてしまいそうな思考を強引にかき集め、ひとかけらでも光を得ようとする。だが、光とはすなわち火だ。火は水に、雨にかき消されてしまう。

 

「There is no remedy for love but to love more.」

 

 しかし、その答えもまた、雨が教えてくれた。傘で反響する雨音は、まるで言の葉のようだ。

 

 愛に対する治療法は、より愛する以外にない。

 

 たしか、米国の詩人の言葉だった。彼ほど本を読み込んでいない私は、それがどの本の言葉なのかは分からないけれど、それでもその言葉が私の寄る辺だった。

 

いっそ彼を、徹底的に愛してしまおう。彼との思い出の場所を全て回って、彼の好きな食べ物を食べて、そして、彼の好きな本を好きなだけ読む。きっと、私がすべきことは仕事ではなく、こういう事だったのだ。

 

「Each moment, now storm!」

 

 彼から聞いた詩の一節を少しだけアレンジして、私は前よりも少しだけ速く、足を進めた。

 


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