夜の工廠は、凍てつくほどに静かだった。
少年はかじかむ指を吐息であたためながら、練習用の模擬艤装に向き合う。
ほんのわずかな狂いでさえ、艤装を壊してしまうかもしれない。
本物ならば、それは艦娘の――清霜の死につながる。
少年は痛いほどに緊張し、息を詰めたまま手を動かしていた。
「そんなに固く締めると、あとで折れますよ」
背後から、柔らかな声がした。
「機械も、人も、同じです。……若いあなたに、そんなトルクをかけたつもりはないのですが」
少年が振り返ると、朝日が立っていた。
早朝から深夜まで、たとえそれが
少年は息を呑み、深く頭を下げる。
「……すみません、勝手なことをして」
「自分で考えて、成長しようとしてくれることは、嬉しく思います」
「考える……ですか」
知らずか、それとも知ってなのか、あの青年と同じ言葉を口にした朝日。
彼女の視線は、海の水深を測る
塩水にも侵されない金属が、とすん、と胸の底に届く。
「ええ。――伺っても? なにがあなたを考えさせ、そして、追い詰めているのか」
測鉛は、水深を測ると同時に、海底の土砂を採取する機能も果たす。水底になにがわだかまっているのか、と。
「ぜんぶ……お見通しじゃ、ないんですか」
少年は目を逸らした。
だが、測鉛が、くいと引かれる。
「少しは、理解していると思いますよ。けれどそれは、想像にすぎません。思い込みも誤解も、希望的観測もあるかもしれません。
それに――言葉にしてみることで、見通せる風景もあります」
「俺の気持ちなんて、人に見せられるような綺麗なものじゃあ――」
「いえ。あなたが、ですよ。あなたが、見通せるようになる」
包み込むようなほのかな笑みを、朝日が浮かべる。
彼女は工廠の片隅から、工員たちの酒盛りの際や機材の一時的な保護に使われる、使い込まれたござを取りだし、冷たい床を覆った。
音もなく横座りに腰を下ろし、ほたほたと、少年を手招く。
大型艦の航跡に吸い寄せられるボートのように、否も応もなく、少年は朝日の横に膝を抱えて座りこんだ。
「私のことは、古井戸かなにかだと思ってください。知恵のない返事しかしませんが、声を吸い込むだけならできますし、ひょっとしたら、あなたの顔くらいは映せるかもしれません」
「……はい」
「綺麗な月が映るとは、思いますが」
励ますような最後の言葉は、聞こえなかったふりをするしかなくて、少年は小さく息をついた。
工廠の天井、揺れる水銀灯を見上げながら、心から音を押し出す。
朝日は音のない子守唄を歌う母のように目を閉じて、かたわらに座している。
「清霜さんと、食事に行った帰り道。――もう、ずっと昔のことのように思えますけど。商店街で、あの人に会いました。歌う人です」
「私の想像が合っていれば、戦う以外の道はないのかと歌う人、ですね。鎮守府ではむろん、あまり賛同者はいないようですけれど」
「ええ、その人です」
事前に自ら言ったとおり、朝日の返しは定義を明確にする淡々とした言葉だけ。
だが、それでも、少年の声はかすれた。あの日の記憶を、思い返すだけで。
「街の人に、殴られてました。あんな歌を歌う人なんて、朝日さんの言うとおり、嫌われて当然です。なのに――」
「……ひとつだけ。私は、あまり賛同者はいないようだ、と申しました。嫌われて当然かどうかは、判断しておりません」
短い間だけ、朝日が目を開くのが、顔を向けなくてさえ分かった。朝日の瞳に映っているであろう自らの姿の醜さに、目をつぶりたくなる。
けれど、言葉を止めることはできなかった。
「朝日さんはそう言うかもしれませんけど、俺は、嫌われて当然だと思います。こんなときに、戦う人を否定する歌なんて、戦っている人を傷つけるだけです。
なのに……なのに清霜さんは、そいつをかばった」
「戦う清霜さんが――と、言いたいのですね。あなたは」
「――はい。そして、歌を聞きたいって。
俺は耐えられなくなって、清霜さんの手を引きました。彼には恋人がいたって言いました。……そして恋人が死んだと、伝えました。
清霜さんは傷ついて、泣きそうでした。最低です、俺は」
「なぜ、最低だと思うのですか? 彼女を、守ろうとしたのでしょう」
朝日の声は、温度のない
光を恐れる夜の生き物のように、目を細め、うつむいて、少年はまだ眠っている景色を見つめざるをえなかった。
「守ろうとして、傷つけてしまったからです。いや」
「……」
「……本当は、守るためでさえ、なかったからです」
自分の呼吸の音が、ひどく大きく聞こえた。
「清霜さんに、あの人を見てほしくなかった。あの歌を聞いてほしくなかった」
「あなたは、清霜さんに、そう望んだのですね」
「恋人を亡くしたのに戦うなと歌うのは、おかしいと思いますけど、人の勝手かもしれません。嫌う人はいるだろうし、俺だったら無視します。それで十分です。
でも、清霜さんを連れていくとしたら、それは……」
言葉に詰まる。見えてきた景色を、気持ちを、口にすることはできなかった。
朝日は黙って彼に寄り添い、やがて、ふわりと空気をゆるめる。
「彼女を連れていかなければ、まあ、よい、と」
微笑の気配を
彼女が最初に言ったとおり、少年が口にした以上の新たな意味など、なにひとつこじつけられてはいない。
深い井戸の水面には、ただ、覗きこむ者の顔が映じているだけ。
だが、いや、だからこそ、水面の景色は少年にとって痛烈だった。
青年の歌を好きだった、父母の記憶。
艦娘の、そして工員たちの、戦いへの敬意。
しかし、黎明に冴える霜光のような清霜の笑顔は、思い出も尊敬も淡い色にする。
苦い喜びと、甘い痛みを覚えながら、少年は答える。
「……はい」
目をぎゅっとつぶると、ぽたりと、温かい涙がこぼれ落ちた。拭うこともできず、ただふるえる。
「嫌なんです。清霜さんが、あの人を見るのが」
涙とともに流れ出る望みを、朝日は否定しない。泣くなとも言わない。
温かい指と布地がそっと触れ、涙を拭う。
それでもまた涙が頬を濡らしても、静かな呼吸で、同じことを続けてくれる。
そして、そっと一言。
「……清霜さんも、泣いていましたよ」
びくりと、少年は背をこわばらせた。
「俺のせいです。やっぱり、俺は」
「あなたのせいではないと、私は思っています」
「え――」
少年は目を開けた。
濡れて歪んだ視界に、ぼんやりと朝日の姿が揺らぐ。
「彼女は他人の痛みによって安らぐことなど、できない人です。……普段ならば。
あなたに手を引かれたことでも、恋人がいたと知らされたことでもなく、彼が愛した人の死を知って――ほんの一瞬でも見えた自分の心にこそ、きっと涙したのでしょう」
何が見えたのか、井戸の底を覗きこんだ少年には分かっていた。
あの人を見てほしくないと望む自分の醜い表情が、見えたのだと。
清霜の場合には、“あの人”が死者であると知った一瞬の安堵と、永遠の罪悪感も、またあったのだろうと。
たまりかねて袖で目をこすると、赤い唇の端にかすかな笑みを乗せた朝日がいた。
「恋人がいた、まででとどめていたなら、彼女は気づかなかったのかもしれませんね。自分の弱さにも、あなたの隠し事にも。
そのほうが幸いだったのかもしれない。そして彼を諦め、あなたを見てくれたかもしれない。――フェアなやり方ですこと」
「そう……でしょうか」
「――All is fair... in love and war」
朝日の笑みが、ほんの少しだけ深く、赤くなる。
「艦としての私は、まだ日本が自国で戦艦を建造できなかった時代の、英国の生まれなのです。英語の言い回しです――どんなやり方も
朝日の声は、おもざしは、優しくない。
だが、残酷でもない。
温度のない光から目をそむけて首を振りたいのに、体は少しも動かない。
「恋と戦争では、すべてが許される。あなたも、清霜さんも、その両方のなかにいるのでしょう」
「でも……でも俺はもう、清霜さんに正直に伝えてしまって、傷つけて――」
「ああ、そうでしたね」
少しも表情を動かさずに、朝日が受ける。そして少しも悩まずに、言葉を返す。
「なら、彼に清霜さんが艦娘だと告げてしまえばいいのです。彼女は“戦う”少女だと。
考えようと歌う彼にとって、最前線に立つ彼女がどう映るか――鏡写しでしょうね。あなたの瞳が彼を映したときと」
「そ、そんなことをしたら――」
少年の声がつかえる。
自分があのとき彼に向けた目を、彼が清霜に向ける。
それは恐ろしく冷たく、しかし甘美な想像。
だが、
「そんなことをしたら、清霜さんが、傷ついて……」
受け入れたがる自分自身をやっとの思いで押さえつけ、抗議の言葉を押し出す。
朝日は一瞬だけ身体を斜めにし、彼の言葉をあっさりと受け流すと、抑揚のない声で続ける。
「だからそのあと、あなたが清霜さんを支えればいい。戦う少女が戦わない青年に惹かれる、いまの不自然な状態より、よほど彼女のためではありませんか。そしてまさに、あなたの望んだ未来図でもある」
「っ……」
少年は言葉を失った。
痛いほどの沈黙のなかで、波の音がかすかに響く。
工廠の時計の針が、一分を刻む音さえ聞こえる。
そして、自分の心の音が、聞こえた。
「……自分で、帰れるから」
「――?」
「そう、清霜さんは言いました」
朝日の深い瞳を、見つめ返す。
「あの人を見てほしくはなかった。でも、俺が引きずって行くのも、間違っていた。そもそも、連れて行かれる人じゃないから。そんな清霜さんを、俺は――好きに、なったから」
朝日の瞳の奥で、なにかが
「あの人を見るとしても?」
「……はい」
少年は、目をそらさない。
長い、沈黙。
やがて、先に視線を外したのは朝日だった。
ふっとため息のような吐息をこぼし――どこか少女のような傷つきやすさの薫る表情で、工廠の天井を見上げる。
少年はいまさらのようにうろたえ、こちらも天井を見つめることになった。
「――安心、しました」
「安心……ですか?」
「ええ」
朝日は視線を戻し、微笑した。それは先ほどまでの温度のない笑みと似ていて、だが少しだけ違うもの。
「正しくあることは、ときに痛みを伴います。艦としての私の水雷長は、戻らなかった部下を探すため、沈みゆく船に駆け戻り、そして自らもついに戻りませんでした。でも、これは戦争ではない、のですよね」
たもとを押さえ、むしろ自分に言い聞かせるように、朝日はつぶやいた。
まだ彼女が若い戦艦であった時代の、遠い記憶。
戦艦〈朝日〉から旅順港閉塞作戦に赴いた広瀬中佐の行いは、少年も工廠の男たちから聞いたことがあった。
「……」
「あなたは生きる。清霜さんも、きっと。――試すようなことをして、すみません」
深く、頭を下げる朝日。
少年はなかばうろたえ、だが、なかばは腑に落ちたようにも感じていた。
朝日が持ちかけるには、あまりに残酷なディールではあったから。
そうさせた自分の隙を、あらためて思う。
「試されたのは、俺の弱さですから。でも、詫びるくらいなら教えてください、本当はどうすれば」
「どうしたいですか? あなたには、もう分かっていると思います」
朝日は再び、古井戸という艤装を纏ったように見えた。
いや、それは艤装であるとともに、本質でもある。
波立たない瞳に映るのは、覗きこむ者の顔、覗きこむ者の望み。
少年にも、自らの顔が見えた。
「清霜さんを引きずるんじゃなくて、俺の気持ちを伝える――そう、したいです」
きつく拳を握りしめ、そう言うと――朝日はやはり、静かに応じた。
「では、そうなさいな。ひとこと私から付け加えるならば、兵は拙速なるを聞くもいまだ巧みの久しきを見ず、と」
「……戦いじゃないんでしょう?」
「性分ですから。あなたも、私に詫びるくらいなら方法をと問うあたり、なかなかしたたかになったのではないですか」
お互いに、苦笑する。
「すみませんね、年寄りの長話につきあわせて」
ぱむと手を打つ朝日。
「朝日が夜更かしをさせましたでは、矛盾もよいところです。さあ、もうお眠りなさい、子供は」
「……子供、ですか」
「ええ。よく景色の見えるようになった子です」
むくれてみせても、朝日には柔らかく受け止められる。
夜空に向かう少年の背に、独り言のような朝日の言葉が当たった。
「……ねえ、もし清霜さんがあの人に恋をしたとしても、あなたの思いまで消えるわけではありません。消す必要もありません。
艦娘は沈んでも記録に残る。けれど、人の恋は、記憶の中にしか残らない。
――だからこそ、恋のほうが、時に強いのです」
「そんなこと――」
「あの日、ふたりで食事に行かなければよかったと思いますか? 帰り道で、あの人に会うと分かっていたならば」
少年は立ち止まり、うつむく。
このときだけは、井戸ではなく、自分の胸の奥の暗い場所を見つめた。
水鏡に映る冷たく冴えた月ではなく、水面よりさらに深い、温かく濁った場所を。
けれどそこに、後悔はなかった。
「――いいえ」
「……そういうことです。よい夜を」
「……」
「こんな名前ですが――夜は、嫌いではないのです。人には夜が必要です。眠りの時間も、夜戦の機会も、暗い一瞬の永遠でさえも、ね」
少々、煙に巻かれたような気がした。かつての艦隊決戦における煙幕のように。
けれどその煙たさに、少しだけ大人の承認を感じた。
せいいっぱい背伸びして、顔だけを振り向けて、言葉を返す。
「ありがとうございました。また明日教えてください。――作業を」
「もちろんです。おやすみなさい」
温かな笑みを含んだ声に送られて、少年は歩いていった。