一時間の、戦艦   作:白水つかさ

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第四話 オール・イズ・フェア

 夜の工廠は、凍てつくほどに静かだった。

 

 少年はかじかむ指を吐息であたためながら、練習用の模擬艤装に向き合う。

 ほんのわずかな狂いでさえ、艤装を壊してしまうかもしれない。

 本物ならば、それは艦娘の――清霜の死につながる。

 少年は痛いほどに緊張し、息を詰めたまま手を動かしていた。

 

「そんなに固く締めると、あとで折れますよ」

 

 背後から、柔らかな声がした。

 

「機械も、人も、同じです。……若いあなたに、そんなトルクをかけたつもりはないのですが」

 

 少年が振り返ると、朝日が立っていた。

 早朝から深夜まで、たとえそれが徹宵(てっしょう)警戒三日目の深夜であろうとも、少しも変わらない涼やかで落ち着いた表情。

 少年は息を呑み、深く頭を下げる。

 

「……すみません、勝手なことをして」

「自分で考えて、成長しようとしてくれることは、嬉しく思います」

「考える……ですか」

 

 知らずか、それとも知ってなのか、あの青年と同じ言葉を口にした朝日。

 彼女の視線は、海の水深を測る測鉛(そくえん)のようにまっすぐで、穏やかだった。

 塩水にも侵されない金属が、とすん、と胸の底に届く。

 

「ええ。――伺っても? なにがあなたを考えさせ、そして、追い詰めているのか」

 

 測鉛は、水深を測ると同時に、海底の土砂を採取する機能も果たす。水底になにがわだかまっているのか、と。

 

「ぜんぶ……お見通しじゃ、ないんですか」

 

 少年は目を逸らした。

 だが、測鉛が、くいと引かれる。

 

「少しは、理解していると思いますよ。けれどそれは、想像にすぎません。思い込みも誤解も、希望的観測もあるかもしれません。

 それに――言葉にしてみることで、見通せる風景もあります」

「俺の気持ちなんて、人に見せられるような綺麗なものじゃあ――」

「いえ。あなたが、ですよ。あなたが、見通せるようになる」

 

 包み込むようなほのかな笑みを、朝日が浮かべる。

 彼女は工廠の片隅から、工員たちの酒盛りの際や機材の一時的な保護に使われる、使い込まれたござを取りだし、冷たい床を覆った。

 音もなく横座りに腰を下ろし、ほたほたと、少年を手招く。

 大型艦の航跡に吸い寄せられるボートのように、否も応もなく、少年は朝日の横に膝を抱えて座りこんだ。

 

「私のことは、古井戸かなにかだと思ってください。知恵のない返事しかしませんが、声を吸い込むだけならできますし、ひょっとしたら、あなたの顔くらいは映せるかもしれません」

「……はい」

「綺麗な月が映るとは、思いますが」

 

 励ますような最後の言葉は、聞こえなかったふりをするしかなくて、少年は小さく息をついた。

 工廠の天井、揺れる水銀灯を見上げながら、心から音を押し出す。

 朝日は音のない子守唄を歌う母のように目を閉じて、かたわらに座している。

 

 

「清霜さんと、食事に行った帰り道。――もう、ずっと昔のことのように思えますけど。商店街で、あの人に会いました。歌う人です」

「私の想像が合っていれば、戦う以外の道はないのかと歌う人、ですね。鎮守府ではむろん、あまり賛同者はいないようですけれど」

「ええ、その人です」

 

 事前に自ら言ったとおり、朝日の返しは定義を明確にする淡々とした言葉だけ。

 だが、それでも、少年の声はかすれた。あの日の記憶を、思い返すだけで。

 

「街の人に、殴られてました。あんな歌を歌う人なんて、朝日さんの言うとおり、嫌われて当然です。なのに――」

「……ひとつだけ。私は、あまり賛同者はいないようだ、と申しました。嫌われて当然かどうかは、判断しておりません」

 

 短い間だけ、朝日が目を開くのが、顔を向けなくてさえ分かった。朝日の瞳に映っているであろう自らの姿の醜さに、目をつぶりたくなる。

 けれど、言葉を止めることはできなかった。

「朝日さんはそう言うかもしれませんけど、俺は、嫌われて当然だと思います。こんなときに、戦う人を否定する歌なんて、戦っている人を傷つけるだけです。

 なのに……なのに清霜さんは、そいつをかばった」

「戦う清霜さんが――と、言いたいのですね。あなたは」

 

「――はい。そして、歌を聞きたいって。

 俺は耐えられなくなって、清霜さんの手を引きました。彼には恋人がいたって言いました。……そして恋人が死んだと、伝えました。

 清霜さんは傷ついて、泣きそうでした。最低です、俺は」

「なぜ、最低だと思うのですか? 彼女を、守ろうとしたのでしょう」

 

 朝日の声は、温度のない曙光(しょこう)のように、静かに、ゆっくりと景色を照らしていく。

 光を恐れる夜の生き物のように、目を細め、うつむいて、少年はまだ眠っている景色を見つめざるをえなかった。

 

「守ろうとして、傷つけてしまったからです。いや」

「……」

「……本当は、守るためでさえ、なかったからです」

 

 自分の呼吸の音が、ひどく大きく聞こえた。

 

「清霜さんに、あの人を見てほしくなかった。あの歌を聞いてほしくなかった」

「あなたは、清霜さんに、そう望んだのですね」

 

「恋人を亡くしたのに戦うなと歌うのは、おかしいと思いますけど、人の勝手かもしれません。嫌う人はいるだろうし、俺だったら無視します。それで十分です。

 でも、清霜さんを連れていくとしたら、それは……」

 

 言葉に詰まる。見えてきた景色を、気持ちを、口にすることはできなかった。

 朝日は黙って彼に寄り添い、やがて、ふわりと空気をゆるめる。

 

「彼女を連れていかなければ、まあ、よい、と」

 

 微笑の気配を(まと)いつかせた、ただ彼の言葉を裏返しただけの、朝日の返し。

 

 彼女が最初に言ったとおり、少年が口にした以上の新たな意味など、なにひとつこじつけられてはいない。

 深い井戸の水面には、ただ、覗きこむ者の顔が映じているだけ。

 だが、いや、だからこそ、水面の景色は少年にとって痛烈だった。

 

 青年の歌を好きだった、父母の記憶。

 艦娘の、そして工員たちの、戦いへの敬意。

 しかし、黎明に冴える霜光のような清霜の笑顔は、思い出も尊敬も淡い色にする。

 苦い喜びと、甘い痛みを覚えながら、少年は答える。

 

「……はい」

 

 目をぎゅっとつぶると、ぽたりと、温かい涙がこぼれ落ちた。拭うこともできず、ただふるえる。

 

「嫌なんです。清霜さんが、あの人を見るのが」

 

 涙とともに流れ出る望みを、朝日は否定しない。泣くなとも言わない。

 温かい指と布地がそっと触れ、涙を拭う。

 それでもまた涙が頬を濡らしても、静かな呼吸で、同じことを続けてくれる。

 

 そして、そっと一言。

 

「……清霜さんも、泣いていましたよ」

 

 びくりと、少年は背をこわばらせた。

 

「俺のせいです。やっぱり、俺は」

「あなたのせいではないと、私は思っています」

「え――」

 

 少年は目を開けた。

 濡れて歪んだ視界に、ぼんやりと朝日の姿が揺らぐ。

 

「彼女は他人の痛みによって安らぐことなど、できない人です。……普段ならば。

 あなたに手を引かれたことでも、恋人がいたと知らされたことでもなく、彼が愛した人の死を知って――ほんの一瞬でも見えた自分の心にこそ、きっと涙したのでしょう」

 

 何が見えたのか、井戸の底を覗きこんだ少年には分かっていた。

 あの人を見てほしくないと望む自分の醜い表情が、見えたのだと。

 清霜の場合には、“あの人”が死者であると知った一瞬の安堵と、永遠の罪悪感も、またあったのだろうと。

 たまりかねて袖で目をこすると、赤い唇の端にかすかな笑みを乗せた朝日がいた。

 

「恋人がいた、まででとどめていたなら、彼女は気づかなかったのかもしれませんね。自分の弱さにも、あなたの隠し事にも。

 そのほうが幸いだったのかもしれない。そして彼を諦め、あなたを見てくれたかもしれない。――フェアなやり方ですこと」

「そう……でしょうか」

 

 

「――All is fair... in love and war」

 

 朝日の笑みが、ほんの少しだけ深く、赤くなる。

 

「艦としての私は、まだ日本が自国で戦艦を建造できなかった時代の、英国の生まれなのです。英語の言い回しです――どんなやり方も公正(フェア)である。恋と戦争では」

 

 朝日の声は、おもざしは、優しくない。

 だが、残酷でもない。

 温度のない光から目をそむけて首を振りたいのに、体は少しも動かない。

 

「恋と戦争では、すべてが許される。あなたも、清霜さんも、その両方のなかにいるのでしょう」

「でも……でも俺はもう、清霜さんに正直に伝えてしまって、傷つけて――」

「ああ、そうでしたね」

 

 少しも表情を動かさずに、朝日が受ける。そして少しも悩まずに、言葉を返す。

 

「なら、彼に清霜さんが艦娘だと告げてしまえばいいのです。彼女は“戦う”少女だと。

 考えようと歌う彼にとって、最前線に立つ彼女がどう映るか――鏡写しでしょうね。あなたの瞳が彼を映したときと」

「そ、そんなことをしたら――」

 

 少年の声がつかえる。

 自分があのとき彼に向けた目を、彼が清霜に向ける。

 それは恐ろしく冷たく、しかし甘美な想像。

 

 だが、

 

「そんなことをしたら、清霜さんが、傷ついて……」

 

 受け入れたがる自分自身をやっとの思いで押さえつけ、抗議の言葉を押し出す。

 朝日は一瞬だけ身体を斜めにし、彼の言葉をあっさりと受け流すと、抑揚のない声で続ける。

 

「だからそのあと、あなたが清霜さんを支えればいい。戦う少女が戦わない青年に惹かれる、いまの不自然な状態より、よほど彼女のためではありませんか。そしてまさに、あなたの望んだ未来図でもある」

「っ……」

 

 少年は言葉を失った。

 

 痛いほどの沈黙のなかで、波の音がかすかに響く。

 工廠の時計の針が、一分を刻む音さえ聞こえる。

 そして、自分の心の音が、聞こえた。

 

 

「……自分で、帰れるから」

「――?」

「そう、清霜さんは言いました」

 

 朝日の深い瞳を、見つめ返す。

 

「あの人を見てほしくはなかった。でも、俺が引きずって行くのも、間違っていた。そもそも、連れて行かれる人じゃないから。そんな清霜さんを、俺は――好きに、なったから」

 

 朝日の瞳の奥で、なにかが(ほど)けるように揺れた。

 

「あの人を見るとしても?」

「……はい」

 

 少年は、目をそらさない。

 長い、沈黙。

 

 やがて、先に視線を外したのは朝日だった。

 ふっとため息のような吐息をこぼし――どこか少女のような傷つきやすさの薫る表情で、工廠の天井を見上げる。

 少年はいまさらのようにうろたえ、こちらも天井を見つめることになった。

 

「――安心、しました」

「安心……ですか?」

「ええ」

 

 朝日は視線を戻し、微笑した。それは先ほどまでの温度のない笑みと似ていて、だが少しだけ違うもの。

 

「正しくあることは、ときに痛みを伴います。艦としての私の水雷長は、戻らなかった部下を探すため、沈みゆく船に駆け戻り、そして自らもついに戻りませんでした。でも、これは戦争ではない、のですよね」

 

 たもとを押さえ、むしろ自分に言い聞かせるように、朝日はつぶやいた。

 まだ彼女が若い戦艦であった時代の、遠い記憶。

 戦艦〈朝日〉から旅順港閉塞作戦に赴いた広瀬中佐の行いは、少年も工廠の男たちから聞いたことがあった。

 

「……」

「あなたは生きる。清霜さんも、きっと。――試すようなことをして、すみません」

 

 深く、頭を下げる朝日。

 少年はなかばうろたえ、だが、なかばは腑に落ちたようにも感じていた。

 朝日が持ちかけるには、あまりに残酷なディールではあったから。

 そうさせた自分の隙を、あらためて思う。

 

「試されたのは、俺の弱さですから。でも、詫びるくらいなら教えてください、本当はどうすれば」

「どうしたいですか? あなたには、もう分かっていると思います」

 

 朝日は再び、古井戸という艤装を纏ったように見えた。

 いや、それは艤装であるとともに、本質でもある。

 波立たない瞳に映るのは、覗きこむ者の顔、覗きこむ者の望み。

 少年にも、自らの顔が見えた。

 

「清霜さんを引きずるんじゃなくて、俺の気持ちを伝える――そう、したいです」

 

 きつく拳を握りしめ、そう言うと――朝日はやはり、静かに応じた。

 

「では、そうなさいな。ひとこと私から付け加えるならば、兵は拙速なるを聞くもいまだ巧みの久しきを見ず、と」

「……戦いじゃないんでしょう?」

「性分ですから。あなたも、私に詫びるくらいなら方法をと問うあたり、なかなかしたたかになったのではないですか」

 

 お互いに、苦笑する。

 

「すみませんね、年寄りの長話につきあわせて」

 

 ぱむと手を打つ朝日。

 

「朝日が夜更かしをさせましたでは、矛盾もよいところです。さあ、もうお眠りなさい、子供は」

「……子供、ですか」

「ええ。よく景色の見えるようになった子です」

 

 むくれてみせても、朝日には柔らかく受け止められる。

 夜空に向かう少年の背に、独り言のような朝日の言葉が当たった。

 

「……ねえ、もし清霜さんがあの人に恋をしたとしても、あなたの思いまで消えるわけではありません。消す必要もありません。

 艦娘は沈んでも記録に残る。けれど、人の恋は、記憶の中にしか残らない。

 ――だからこそ、恋のほうが、時に強いのです」

 

「そんなこと――」

「あの日、ふたりで食事に行かなければよかったと思いますか? 帰り道で、あの人に会うと分かっていたならば」

 

 少年は立ち止まり、うつむく。

 このときだけは、井戸ではなく、自分の胸の奥の暗い場所を見つめた。

 水鏡に映る冷たく冴えた月ではなく、水面よりさらに深い、温かく濁った場所を。

 けれどそこに、後悔はなかった。

 

「――いいえ」

「……そういうことです。よい夜を」

「……」

「こんな名前ですが――夜は、嫌いではないのです。人には夜が必要です。眠りの時間も、夜戦の機会も、暗い一瞬の永遠でさえも、ね」

 

 少々、煙に巻かれたような気がした。かつての艦隊決戦における煙幕のように。

 けれどその煙たさに、少しだけ大人の承認を感じた。

 

 せいいっぱい背伸びして、顔だけを振り向けて、言葉を返す。

 

「ありがとうございました。また明日教えてください。――作業を」

「もちろんです。おやすみなさい」

 

 温かな笑みを含んだ声に送られて、少年は歩いていった。

 

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