風が降りはじめた粉雪を舞い踊らせ、音もなく吹き過ぎる季節。残照の残る時間でも、空気は肌を刺すほどに冷たい。
だが鎮守府の工廠は、月日も時刻も関係なく暑く、そして騒がしい。
その喧噪さえも突き破るように、ひときわ元気な声が響く。
「戦艦
「おう、今日も無事でなによりだ!」
工廠の男たちも、陽気に答える。
いつもの光景。
だが――清霜の表情には、ほんの少しだけ、無理をしているような硬さがまとわりついていた。
きょうは損傷のない艤装を、手早く所定の場所に置いていく。
朝日が、工廠のリーダーが、それぞれの作業を進めながらちらりと意識だけを向ける。
清霜と、少年に。
その少年は、
「――大丈夫ですか?」
ためらいがちに、清霜に純白のタオルを差し出す。
かすかに、清霜の表情が湿る。怯えによるこわばりでも、当惑によるひきつれでもなく、ただ、ほんの少しの涙の気配。
誰よりも間近で彼女の顔を見る少年は、きつく唇を噛みしめた。だがそれでも、正面から言葉を続ける。
「この前は……すみませんでした。無理に、手を引いたりして」
真摯な少年の言葉に、清霜は淡く、とても淡く微笑んだ。
体温で溶けて水になってしまいそうな、透明な霜のあわい。
ふるふると、彼女はかぶりを振り、少年の手からタオルを受け取る。
「ううん、わたしこそ」
きょうはさしたる汚れがないから、かもしれないが、やわらかな布で顔を拭いはしない。
だが、立ち去りもしない。
清霜と少年は、向かい合う。
「――怖かったんです。清霜さんが、遠くに行ってしまいそうで」
「そんなの、だいじょうぶだよ。いつだってちゃんと帰ってくるでしょ、戦艦だもの」
「遠く、って、そういうことじゃないです。あの人のところ」
強がって胸を張る清霜に、少年は正面からぶつかる。
少女は沈黙した。
そして、その沈黙した表情がなによりも雄弁だった。
自分の割り込む余地はないと、未来をはっきりと悟って、それでも少年は言う。
「清霜さんのことが、好きです。俺とつきあってくれませんか」
清霜は目を見ひらいた。
気付いてはいたはずだ。
しかし、同時に、考えないようにもしていた。
鼓動の音さえ聞こえるような静寂が、落ちる。
清霜は目を伏せかけ、深く息を吸って、思い切ったようにふたたび視線を合わせる。
「ありがとう。でも――わたしには好きな人がいるの。ごめんなさい」
突きつけられた未来に――少年は、笑ってみせる。
「ふられちゃいましたね。覚悟は、してました」
「……」
「いいんです。これでいいんだと、思ってます、ほんとうに」
「ひどいことを言ってるって、自分でもわかるけど……これからも友達でいてほしいの。みんなのことが大切だから。みんなのおかげで、わたしは戦えるから。帰ってくるって、約束するから」
どこまでも真摯に、清霜は言った。
「もちろん、俺も同じです。ふられたからって艤装を壊したりしませんよ」
「わあ、こわい」
かすかな揺らぎをはらんだ声で、それでもふたりは笑う。
だが、声は気配だけを残して薄れ、消え、少年の肩が小刻みにふるえる。
ひとつきりの澄んだ瞳を見つめていた視線は手がかりを失い、さまよった末に、所在なく工廠の床に落ちる。
車輪のあとも艤装が落ちた傷跡もありながら、日々よく磨かれている、柔らかな光沢のある床。
「ごめんなさい――じゃ、なくて」
清霜は、泣きそうにうつむいた少年の手に、そっと触れた。
つなぐのでも、はねのけるのでもなく、ただ温かく触れる。
「――ありがとう」
それだけ言って、指を離す。
工廠の喧騒と油の香りが、ふたりの間にある空気を染め変える。
同じくらい泣きそうで、しかし芯のある、清霜の声が鳴る。
「顔、上げて?」
「……はい」
かろうじて、という感じで顔を上げた少年に向けて、清霜は姿勢を正し、一部の隙もない敬礼をした。
まだ軍人でも軍属でもない少年は、敬礼されたことがない。
もちろん、敬礼したことも。
それは戦場に立つ者たちの、相互の承認。
はじめての敬礼が、憧れた少女から送られる。
「艤装の整備、よろしくお願いします」
凛とした声が、響く。
少年は一瞬うろたえ、そして、はじめての敬礼を返す。
「――はい!」
朝日は、戻ってきた少年の顔を見た。
彼と清霜の会話は聞いていない。
工員たち――と、明石――が近づかないように、それとなく遠くを
だが、昨日聞いた少年の言葉と、今日の表情を見れば、答えはおのずと分かる。
慕情が実らなかったことも、それでも、絶望とは異なるなにかがあることも。
少年には声をかけず、水面を滑るような静かな足取りで、工廠のリーダーのもとに近づく。
ふたこと、みこと、ささやくと、リーダーは深く息を吐いて、うなずいた。
痛ましさと誇らしさが、ないまぜになったような表情で。
「まだ早い――ってことも、ないですかね。あの顔なら」
「後方という戦場に立つ決意を示したと思いますよ。保護しようとするだけでなく、決意に答えてあげるのも、大人の仕事でしょう」
そう言って朝日は、つと視線を動かす。どことなく上の空で、少年のほうを見やっている明石のほうへ。
「明石さん、彼の指導を頼めますか?」
「……」
「明石さん?」
「ふえっ? あ、ええ、はい!」
ようやく我に返ったように、明石が裏返った声で返事をする。
いつになくふわついている彼女に、リーダーはややいぶかしげな顔をしたが、朝日はあえてかまわずに柔らかに続ける。
「ク号以外で、ですよ」
「ク号? カ号じゃなくてですか?」
朝日がかくかくしかじかと説明すると、リーダーは大笑いした。
「そいつは傑作ですな。――ま、そんな妙なブツに頼らなくても、正面からぶつかっちまったみたいですが」
「ええ――傷ついて、それでも立っている。そのはずです」
「そう、みたいですね。私は工作艦ですから、艤装は修理できるんですよ。でも、艦娘のであっても、身体を治療するのは難しい。
ましてやですね……ああ、いや、余計なことでした。忘れてください」
ぱたぱたと、顔の前で手を振る明石。
「大丈夫ですよ。いまは、修理する必要はありません。だれも、どこも、ね」
朝日は優しく、自分より少し背の高い明石の背に手を載せた。
明石は徹夜明けのようにがっくりと肩を落とし、それでも、不思議と明るく言う。
「……ううう、お見通しってところですか?」
「私は歳を
ふわりと、微笑みが広がった。
冬の落日は、早い。
すっかり暗くなった空に、星は見えない。
だが商店街の灯りは、清霜を穏やかに照らす。
ダッフルコートとニット帽、マフラーを纏い、白い息を吐きながら、少女は早足に歩いていた。
その隻眼が、すっと細められる。
青年がいるはずの場所に、ひとりの男性――いや、少年の姿が見えた。
座りこんでいる青年と、なにか言葉を交わしている。
喧嘩をしているような様子ではないが、清霜は小走りにかれらのもとへと向かった。
「――あ、来たんですね」
少年が、振り返る。清霜に告白した、少年。
つまり目の前の青年は恋敵と言えることになるが、相手に向ける目に敵意はなく、清霜がやってきたことにも気まずさは覚えていないようだった。
「なに、してるの?」
けれど少しだけ不安げに、清霜は問いかける。
少年は、まっすぐに答えた。
「この人に言っていたんです。自分を傷つけるような真似は、やめてくださいって」
「それは――」
清霜は、思わず胸を押さえた。
痛い思いをしたいように見えてしまう、と青年に言ったこと、そして彼も自分も、見えるではなく事実そうなのだと理解していたことが、苦しい鮮やかさをもって思い出される。
彼女が言えなかった言葉を、いま、少年がはっきりと告げている。
だが、青年は路上に腰を下ろしたまま、ゆるやかに首を振った。
「どういうことだい?」
「そうやって座って、とぼけていることがですよ。
あなたは大人でしょう? あなたの痛みで傷つく人がいるって、分からないんですか」
「……じゃあ、どうしろと」
敢然と言う少年に、はじめて、途方に暮れたような表情を青年が見せた。
清霜にも、答えはない。
ただ隣に座ることしか、あのときはできなかった。
いまは座ることも、少年を止めることもできず、次の言葉を待つ。
少年は立ったまま、きっぱりと言った。
「正面から頼むんですよ。歌わせてくれって」
「頼む?」
「店の軒先で歌うなら、そのお店に許可を取ればいいんです。そうすれば、文句を言われたり絡まれたりしたって、店の人が割って入ってくれるじゃないですか」
「そんなこと……」
「お店の人ひとり説得できないで、みんなに伝えられるわけがないでしょう。……伝わったじゃないですか。この人には」
清霜を示し、悔しげに、だがきっぱりと、少年は言う。
ひとつ、深く息をついて――青年は、年下の“男”に頭を下げた。
「……ありがとう」
「お礼なんかいりません。あなたのために考えたわけじゃないですし」
少年は、少しだけ
その視線が、清霜と一瞬だけ、交わる。
涙を浮かべかけた清霜には、少年は素直に笑ってみせた。
青年が、もう一言つぶやく。
「君は、強いね」
「強くなんかありませんよ。ただ、大切な人が傷つくことから目をそらして、逃げるのは嫌だから」
「――それを強いと言うんだよ。たぶん、ね」
「……」
自分の内側を見つめるような、青年の遠い声。
「ねえ」
無理をして。それでも自然に。清霜は、明るく割り込んだ。
「だったら、あのファミレスに頼もうよ。遅くまで開いてるし、明るいし、お客さんだってたくさん出入りするでしょ。
――わたしがおごるから、さ」
「食べに行くわけじゃないと思いますけど……」
少年は苦笑して、それでも、いぶかしげな青年を見やって少しだけ得意げに胸を張る。
青年の知らない清霜を、彼は知っているのだと言うように。
いつかと同じ道、同じ暖かな店の灯り。
あの夜と違うのは、向かうのが三人で、少年が先頭に立っていること。
背後にふたりが並んでついてきているのを知って、背筋を伸ばして大股に歩く。
「あの」
「――あら」
自動ドアが開くと、レジにいたのはいつかの女性だった。緑のヘアバンドが、目にやさしい。
彼女は少年を認め、その背後の清霜を認め――そして清霜と青年が並んでいるのを見て、笑みが中途で終わる。
問いかけるような視線が、少年に向けられる。
だが彼は、無言で肯定してみせた。覚悟のうえだと言うように。
そして青年が、歌わせてほしいという依頼を切り出す。
「戦うな、という歌を?」
よく見れば『マネージャー』という役職の書かれたネームプレートをつけた女性は、感情の伺えない声で問うた。
こくりと、清霜が喉を鳴らす。
女性の視線を真っ向から受け止め、青年は静かに答える。
「そうじゃない。ただ、考えてほしい。ほかに道はないのかと。それだけだ。その問いかけをする機会を、もらいたい」
「店の外、ウチの敷地で、よね?」
「そうだ」
深く、頭を下げる。
女性はおとがいに指を当て、斜め上に視線を向けて、変わらない平板な声で言葉を紡いだ。
「そうねえ――ひとつ、条件があるわ」
「条件……?」
「売り上げに、ちゃんと貢献してちょうだい」
「――は?」
真顔の科白に、青年もさすがにあっけにとられた。
「三名様、ご案内~」
軽やかな、日常の言葉。
真っ先に反応できたのは、清霜だった。
緊張がほどけたように笑い、肘で少年をつつく。
「ほら、やっぱり食べることになったじゃない」
「そ、それはそうですけど……これを予想してたわけじゃないですよね」
ホールスタッフに案内を引き継ぎかけていた女性は、そんな様子を見て、青年にひとことつけくわえる。
いささか
「あなたは外で歌う、でもいいけど?」
「い、いや……売り上げに貢献しろと言われたんだ。食べていくよ。――明日からも、邪魔にならないようにする」
「邪魔っていっても、店の邪魔は、懸念してないけどねえ……」
小さく、彼女はため息をついた。
「まあ、彼に感謝するのね」
「……」
そんな言葉に送られて、三人でテーブルにつく。
四人掛けのボックス席。
清霜と少年が隣り合って腰かけ、青年に向かい合う。
話は弾まなかった。ほとんど、注文した料理を口にするだけの時間。
ときおりナイフとフォークが食器に触れる音が、静寂を破るだけ。
けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
視線だけが、幾度か交わる。
「今度は、わたしのおごりって、言ったでしょ」
そして清霜が、財布を手にして立ち上がる。
「こんな形になっちゃって、ごめんなさい――でも、ありがとう」
「いえ。あなたが自分を貫けないとしたら、そのほうが俺には辛いですから」
はっきりと、少年は言った。清霜がまばたきをする。
眩しいようなその視線を受けて、少年はくしゃりと笑い、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「……なんて、かっこいいように言ってますけど。本当は、逆をしようと調べたんです」
「逆?」
「歌えないようにできないか、って」
もう
だが、痛みをかばうように穏やかに、青年は笑った。
「それは、怖いね」
「だから、ある人に“恋と戦争では、すべてが許される”って言われたときは、どきっとしましたよ」
氷水の入ったコップを両手で包み込み、古井戸の底を覗き込むように視線を落として、少年は言葉を切った。
水面の揺れが静まり、体温でじんわりと氷が溶けていく。
青年も、清霜も、同じ場所を見ていた。
「でも……俺にはできなかった。それだけです」
「……ありがとう」
青年は、頭を下げた。
少年の後悔も、嫉妬も、コップの中の氷のようにゆっくりと溶けていく。
溶けきってはいないから、中からなにが顔を出すのかは、まだ分からない。
捨てきれない想いか、両親との記憶か、傷跡から伸びる新たな翼か。
また、雪が降りはじめていた。
白い粒が、ガラス越しにほたほたと舞い落ちる。
それでも店の中は、温かかった。
ひとつの決着、そして……次回最終話の予定です。