一時間の、戦艦   作:白水つかさ

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第五話 正面から頼むんですよ

 風が降りはじめた粉雪を舞い踊らせ、音もなく吹き過ぎる季節。残照の残る時間でも、空気は肌を刺すほどに冷たい。

 だが鎮守府の工廠は、月日も時刻も関係なく暑く、そして騒がしい。

 

 その喧噪さえも突き破るように、ひときわ元気な声が響く。

 

「戦艦清霜(きよしも)、ただいま帰還しましたっ!」

 

「おう、今日も無事でなによりだ!」

 

 工廠の男たちも、陽気に答える。

 いつもの光景。

 

 だが――清霜の表情には、ほんの少しだけ、無理をしているような硬さがまとわりついていた。

 きょうは損傷のない艤装を、手早く所定の場所に置いていく。

 朝日が、工廠のリーダーが、それぞれの作業を進めながらちらりと意識だけを向ける。

 清霜と、少年に。

 

 

 その少年は、

 

「――大丈夫ですか?」

 

 ためらいがちに、清霜に純白のタオルを差し出す。

 かすかに、清霜の表情が湿る。怯えによるこわばりでも、当惑によるひきつれでもなく、ただ、ほんの少しの涙の気配。

 誰よりも間近で彼女の顔を見る少年は、きつく唇を噛みしめた。だがそれでも、正面から言葉を続ける。

 

「この前は……すみませんでした。無理に、手を引いたりして」

 

 真摯な少年の言葉に、清霜は淡く、とても淡く微笑んだ。

 体温で溶けて水になってしまいそうな、透明な霜のあわい。

 ふるふると、彼女はかぶりを振り、少年の手からタオルを受け取る。

 

「ううん、わたしこそ」

 

 きょうはさしたる汚れがないから、かもしれないが、やわらかな布で顔を拭いはしない。

 だが、立ち去りもしない。

 清霜と少年は、向かい合う。

 

「――怖かったんです。清霜さんが、遠くに行ってしまいそうで」

「そんなの、だいじょうぶだよ。いつだってちゃんと帰ってくるでしょ、戦艦だもの」

「遠く、って、そういうことじゃないです。あの人のところ」

 

 強がって胸を張る清霜に、少年は正面からぶつかる。

 少女は沈黙した。

 そして、その沈黙した表情がなによりも雄弁だった。

 自分の割り込む余地はないと、未来をはっきりと悟って、それでも少年は言う。

 

「清霜さんのことが、好きです。俺とつきあってくれませんか」

 

 清霜は目を見ひらいた。

 

 気付いてはいたはずだ。

 しかし、同時に、考えないようにもしていた。

 鼓動の音さえ聞こえるような静寂が、落ちる。

 

 清霜は目を伏せかけ、深く息を吸って、思い切ったようにふたたび視線を合わせる。

 

「ありがとう。でも――わたしには好きな人がいるの。ごめんなさい」

 

 突きつけられた未来に――少年は、笑ってみせる。

 

「ふられちゃいましたね。覚悟は、してました」

「……」

「いいんです。これでいいんだと、思ってます、ほんとうに」

 

「ひどいことを言ってるって、自分でもわかるけど……これからも友達でいてほしいの。みんなのことが大切だから。みんなのおかげで、わたしは戦えるから。帰ってくるって、約束するから」

 

 どこまでも真摯に、清霜は言った。

 

「もちろん、俺も同じです。ふられたからって艤装を壊したりしませんよ」

「わあ、こわい」

 

 かすかな揺らぎをはらんだ声で、それでもふたりは笑う。

 だが、声は気配だけを残して薄れ、消え、少年の肩が小刻みにふるえる。

 ひとつきりの澄んだ瞳を見つめていた視線は手がかりを失い、さまよった末に、所在なく工廠の床に落ちる。

 車輪のあとも艤装が落ちた傷跡もありながら、日々よく磨かれている、柔らかな光沢のある床。

 

「ごめんなさい――じゃ、なくて」

 

 清霜は、泣きそうにうつむいた少年の手に、そっと触れた。

 つなぐのでも、はねのけるのでもなく、ただ温かく触れる。

 

「――ありがとう」

 

 それだけ言って、指を離す。

 工廠の喧騒と油の香りが、ふたりの間にある空気を染め変える。

 同じくらい泣きそうで、しかし芯のある、清霜の声が鳴る。

 

「顔、上げて?」

「……はい」

 

 かろうじて、という感じで顔を上げた少年に向けて、清霜は姿勢を正し、一部の隙もない敬礼をした。

 

 まだ軍人でも軍属でもない少年は、敬礼されたことがない。

 もちろん、敬礼したことも。

 それは戦場に立つ者たちの、相互の承認。

 

 はじめての敬礼が、憧れた少女から送られる。

 

「艤装の整備、よろしくお願いします」

 

 凛とした声が、響く。

 少年は一瞬うろたえ、そして、はじめての敬礼を返す。

 

「――はい!」

 

 

――――――――――

 

 

 朝日は、戻ってきた少年の顔を見た。

 

 彼と清霜の会話は聞いていない。

 工員たち――と、明石――が近づかないように、それとなく遠くを遊弋(ゆうよく)していただけだ。

 だが、昨日聞いた少年の言葉と、今日の表情を見れば、答えはおのずと分かる。

 慕情が実らなかったことも、それでも、絶望とは異なるなにかがあることも。

 

 少年には声をかけず、水面を滑るような静かな足取りで、工廠のリーダーのもとに近づく。

 ふたこと、みこと、ささやくと、リーダーは深く息を吐いて、うなずいた。

 痛ましさと誇らしさが、ないまぜになったような表情で。

 

「まだ早い――ってことも、ないですかね。あの顔なら」

「後方という戦場に立つ決意を示したと思いますよ。保護しようとするだけでなく、決意に答えてあげるのも、大人の仕事でしょう」

 

 そう言って朝日は、つと視線を動かす。どことなく上の空で、少年のほうを見やっている明石のほうへ。

 

「明石さん、彼の指導を頼めますか?」

「……」

「明石さん?」

「ふえっ? あ、ええ、はい!」

 

 ようやく我に返ったように、明石が裏返った声で返事をする。

 いつになくふわついている彼女に、リーダーはややいぶかしげな顔をしたが、朝日はあえてかまわずに柔らかに続ける。

 

「ク号以外で、ですよ」

「ク号? カ号じゃなくてですか?」

 

 朝日がかくかくしかじかと説明すると、リーダーは大笑いした。

 

「そいつは傑作ですな。――ま、そんな妙なブツに頼らなくても、正面からぶつかっちまったみたいですが」

「ええ――傷ついて、それでも立っている。そのはずです」

 

「そう、みたいですね。私は工作艦ですから、艤装は修理できるんですよ。でも、艦娘のであっても、身体を治療するのは難しい。

 ましてやですね……ああ、いや、余計なことでした。忘れてください」

 

 ぱたぱたと、顔の前で手を振る明石。

 

「大丈夫ですよ。いまは、修理する必要はありません。だれも、どこも、ね」

 

 朝日は優しく、自分より少し背の高い明石の背に手を載せた。

 明石は徹夜明けのようにがっくりと肩を落とし、それでも、不思議と明るく言う。

 

「……ううう、お見通しってところですか?」

「私は歳を()た工作艦ですから」

 

 ふわりと、微笑みが広がった。

 

 

――――――――――

 

 

 冬の落日は、早い。

 すっかり暗くなった空に、星は見えない。

 だが商店街の灯りは、清霜を穏やかに照らす。

 ダッフルコートとニット帽、マフラーを纏い、白い息を吐きながら、少女は早足に歩いていた。

 

 その隻眼が、すっと細められる。

 青年がいるはずの場所に、ひとりの男性――いや、少年の姿が見えた。

 座りこんでいる青年と、なにか言葉を交わしている。

 喧嘩をしているような様子ではないが、清霜は小走りにかれらのもとへと向かった。

 

「――あ、来たんですね」

 

 少年が、振り返る。清霜に告白した、少年。

 つまり目の前の青年は恋敵と言えることになるが、相手に向ける目に敵意はなく、清霜がやってきたことにも気まずさは覚えていないようだった。

 

「なに、してるの?」

 

 けれど少しだけ不安げに、清霜は問いかける。

 少年は、まっすぐに答えた。

 

「この人に言っていたんです。自分を傷つけるような真似は、やめてくださいって」

「それは――」

 

 清霜は、思わず胸を押さえた。

 痛い思いをしたいように見えてしまう、と青年に言ったこと、そして彼も自分も、見えるではなく事実そうなのだと理解していたことが、苦しい鮮やかさをもって思い出される。

 彼女が言えなかった言葉を、いま、少年がはっきりと告げている。

 

 だが、青年は路上に腰を下ろしたまま、ゆるやかに首を振った。

 

「どういうことだい?」

「そうやって座って、とぼけていることがですよ。

 あなたは大人でしょう? あなたの痛みで傷つく人がいるって、分からないんですか」

「……じゃあ、どうしろと」

 

 敢然と言う少年に、はじめて、途方に暮れたような表情を青年が見せた。

 清霜にも、答えはない。

 ただ隣に座ることしか、あのときはできなかった。

 いまは座ることも、少年を止めることもできず、次の言葉を待つ。

 少年は立ったまま、きっぱりと言った。

 

「正面から頼むんですよ。歌わせてくれって」

「頼む?」

「店の軒先で歌うなら、そのお店に許可を取ればいいんです。そうすれば、文句を言われたり絡まれたりしたって、店の人が割って入ってくれるじゃないですか」

 

「そんなこと……」

「お店の人ひとり説得できないで、みんなに伝えられるわけがないでしょう。……伝わったじゃないですか。この人には」

 

 清霜を示し、悔しげに、だがきっぱりと、少年は言う。

 ひとつ、深く息をついて――青年は、年下の“男”に頭を下げた。

 

「……ありがとう」

「お礼なんかいりません。あなたのために考えたわけじゃないですし」

 

 少年は、少しだけ()ねたような態度で、彼から目をそらす。

 その視線が、清霜と一瞬だけ、交わる。

 涙を浮かべかけた清霜には、少年は素直に笑ってみせた。

 青年が、もう一言つぶやく。

 

「君は、強いね」

「強くなんかありませんよ。ただ、大切な人が傷つくことから目をそらして、逃げるのは嫌だから」

「――それを強いと言うんだよ。たぶん、ね」

「……」

 

 自分の内側を見つめるような、青年の遠い声。

 

「ねえ」

 

 無理をして。それでも自然に。清霜は、明るく割り込んだ。

 

「だったら、あのファミレスに頼もうよ。遅くまで開いてるし、明るいし、お客さんだってたくさん出入りするでしょ。

 ――わたしがおごるから、さ」

「食べに行くわけじゃないと思いますけど……」

 

 少年は苦笑して、それでも、いぶかしげな青年を見やって少しだけ得意げに胸を張る。

 青年の知らない清霜を、彼は知っているのだと言うように。

 

 

 

 いつかと同じ道、同じ暖かな店の灯り。

 あの夜と違うのは、向かうのが三人で、少年が先頭に立っていること。

 背後にふたりが並んでついてきているのを知って、背筋を伸ばして大股に歩く。

 

「あの」

「――あら」

 

 自動ドアが開くと、レジにいたのはいつかの女性だった。緑のヘアバンドが、目にやさしい。

 彼女は少年を認め、その背後の清霜を認め――そして清霜と青年が並んでいるのを見て、笑みが中途で終わる。

 問いかけるような視線が、少年に向けられる。

 

 だが彼は、無言で肯定してみせた。覚悟のうえだと言うように。

 そして青年が、歌わせてほしいという依頼を切り出す。

 

「戦うな、という歌を?」

 

 よく見れば『マネージャー』という役職の書かれたネームプレートをつけた女性は、感情の伺えない声で問うた。

 こくりと、清霜が喉を鳴らす。

 女性の視線を真っ向から受け止め、青年は静かに答える。

 

「そうじゃない。ただ、考えてほしい。ほかに道はないのかと。それだけだ。その問いかけをする機会を、もらいたい」

「店の外、ウチの敷地で、よね?」

「そうだ」

 

 深く、頭を下げる。

 女性はおとがいに指を当て、斜め上に視線を向けて、変わらない平板な声で言葉を紡いだ。

 

「そうねえ――ひとつ、条件があるわ」

「条件……?」

「売り上げに、ちゃんと貢献してちょうだい」

「――は?」

 

 真顔の科白に、青年もさすがにあっけにとられた。

 

「三名様、ご案内~」

 

 軽やかな、日常の言葉。

 真っ先に反応できたのは、清霜だった。

 緊張がほどけたように笑い、肘で少年をつつく。

 

「ほら、やっぱり食べることになったじゃない」

「そ、それはそうですけど……これを予想してたわけじゃないですよね」

 

 ホールスタッフに案内を引き継ぎかけていた女性は、そんな様子を見て、青年にひとことつけくわえる。

 いささか剣呑(けんのん)に細められた目と、青年にしか聞こえない小声で。

 

「あなたは外で歌う、でもいいけど?」

「い、いや……売り上げに貢献しろと言われたんだ。食べていくよ。――明日からも、邪魔にならないようにする」

「邪魔っていっても、店の邪魔は、懸念してないけどねえ……」

 

 小さく、彼女はため息をついた。

 

「まあ、彼に感謝するのね」

「……」

 

 そんな言葉に送られて、三人でテーブルにつく。

 四人掛けのボックス席。

 清霜と少年が隣り合って腰かけ、青年に向かい合う。

 

 話は弾まなかった。ほとんど、注文した料理を口にするだけの時間。

 ときおりナイフとフォークが食器に触れる音が、静寂を破るだけ。

 けれど、不思議と居心地は悪くなかった。

 視線だけが、幾度か交わる。

 

「今度は、わたしのおごりって、言ったでしょ」

 

 そして清霜が、財布を手にして立ち上がる。

 

「こんな形になっちゃって、ごめんなさい――でも、ありがとう」

「いえ。あなたが自分を貫けないとしたら、そのほうが俺には辛いですから」

 

 はっきりと、少年は言った。清霜がまばたきをする。

 眩しいようなその視線を受けて、少年はくしゃりと笑い、恥ずかしそうに頭を掻いた。

 

「……なんて、かっこいいように言ってますけど。本当は、逆をしようと調べたんです」

「逆?」

「歌えないようにできないか、って」

 

 もう(かげ)りのない口調だが、清霜は小さく息を呑んだ。少年も苦笑いする。

 だが、痛みをかばうように穏やかに、青年は笑った。

 

「それは、怖いね」

「だから、ある人に“恋と戦争では、すべてが許される”って言われたときは、どきっとしましたよ」

 

 氷水の入ったコップを両手で包み込み、古井戸の底を覗き込むように視線を落として、少年は言葉を切った。

 水面の揺れが静まり、体温でじんわりと氷が溶けていく。

 青年も、清霜も、同じ場所を見ていた。

 

「でも……俺にはできなかった。それだけです」

「……ありがとう」

 

 青年は、頭を下げた。

 

 少年の後悔も、嫉妬も、コップの中の氷のようにゆっくりと溶けていく。

 溶けきってはいないから、中からなにが顔を出すのかは、まだ分からない。

 捨てきれない想いか、両親との記憶か、傷跡から伸びる新たな翼か。

 

 また、雪が降りはじめていた。

 白い粒が、ガラス越しにほたほたと舞い落ちる。

 それでも店の中は、温かかった。




ひとつの決着、そして……次回最終話の予定です。
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