冬が、深まる。
商店街を吹き抜ける風は、頬を切るほどに冷たい。
それでも寒さだけでなく、潮の匂いも、人々のざわめきも、家庭やレストランの料理の香りも、風は運んでいる。
温度が下がることでかえって軽やかになった粉雪は、降るというよりも、
雪のもたらす静寂の宵に、細い糸のような旋律が伸びていく。
道端に立ってギターをつま弾く青年の前に、少しだけ立ち止まり、意識を向ける者がいるようになってきた。
拍手を送らずとも、いっとき、耳をかたむける。
白い帆に風を受ける 大きな船のように
水平線に あなたが見える
白い帆に風を受ける もうひとつの船のように
港よりも必要なものを はじめて知った――
それは道行く人々の注意を引くための、戦いの方法なのかもしれない。会うことの叶わないパートナーに届けるための、愛の方法なのかもしれない。
どちらなのか、どちらでもよいのか。
商店街を行き交う人々の表情は、寒さに耐えるだけのものとは少しだけ違ってきていた。
そして歌が途切れたタイミングで、青年にそっと近づく。
「よかった。――あの人の歌、ね」
「……そうだよ」
少女から目をそらし、青年がつぶやく。
清霜はコートのポケットをさぐり、二本の缶コーヒーを取り出した。
雪空の下で、ほのかに湯気が立つほどの温かさ。
そして缶なら、紙カップと違って隻腕の彼女でもふたりぶんを持てる。
「待ってた? わたしじゃなくて、あったかいコーヒーを、でいいから」
「……」
「ハードル下げたんだから、待ってたって答えてくれてもいいのに。
――ま、あんまり関わらないほうがいいとは言われなくなっただけ、進歩かもだけど」
緊張をごまかすようにぷっとふくれてみせつつ、一本を青年に押し付けるように渡し、もう一本を自分で。
青年が開けてやろうとするより先に、片手で器用に缶のプルタブを開ける。
青年も自分のぶんを開け、温かな液体で喉を潤す。
「ありがとう」
素直に、彼が言う。清霜の頬に、かすかな赤みがさした。
「どういたしまして。自分のを買ったついでだから、気にしないで」
「だから缶なんだ」
「そ。ひょっとして、カップのほうが好きだった?」
「いや、温かければ、どちらでもありがたいよ。むかし飲んだ、すごく甘い黄色い缶のコーヒーは懐かしいけれど、このあたりにはないね」
たわいのない会話に、清霜の顔がほころび、白い吐息が散る。
それから、改めて真面目な表情になって、問いかける。
「――どう?」
「まだまだ、かな。でも、少なくとも殴られたことはない。前にも言ったように、それでいいのかどうか、だけれど」
「……」
「いや――それでいい、んだろう。彼は、正しかったと思うよ」
青年は苦笑した。
彼――少年が言ったのは、あなたの痛みで傷つく人がいると分からないんですか、という言葉。
傷つく人とは、すなわち、清霜のことだ。
この場にいない少年に、背を押されるように。清霜は思い切って、言った。
「あの、さ」
「なに?」
「聞いてほしいことがあるの」
「わたし、艦娘なんだ。あなたが歌っている戦争の、まんなかにいる。戦っているときには――考えては、いないと思う。黙ってて、ごめんなさい」
青年の表情は変わらないまま、なにかを言いかけたようだったが、清霜は思い切って言葉を続ける。
「けど、あなたが好き。……これからも、歌を聴きに来ていい?」
行き交う人々の姿もたまさかに途切れ、粉雪の舞う静寂が落ちる。
清霜の瞳を見つめ返し、青年はぽつりと言った。
「知ってたよ」
「――え?」
「君があのとき、僕を守ってくれたときから、分かってた。どちらも」
喜びと恥じらいと当惑とが、入り混じった感情で、清霜が真っ赤になる。
おずおずと、どうして、と問うと、青年はほろ苦く笑った。
「君の強さとまっすぐさなら、誰にだって分かるよ。彼も気付いたんだろう?」
「そう……かも」
「けれど」
静かに表情を引きしめ、青年は言葉を続ける。
「分かっていて、僕は君を傷つけていた。自分を傷つけて、君を傷つけて、それで、彼女への償いになると思っていた。傷つくことに、傷つけることに、救われていた。
……そんな僕に、好きと言ってもらう資格なんてない」
風が、ふたりの間を吹き過ぎた。そして、彼はつぶやく。
「――潮時、かな」
「そんなことない!」
涙をはらんだ清霜の声が、雪空に響いた。
残った片腕で、青年の胸元を掴む。
戦いを挑むように、愛を告げる。
「清霜は、傷ついたって沈まない! わたしが傷つくことであなたが救われるなら、いくらでも受け止める!
だから――だからもう少し、一緒にいようよ!
……お願い、だから。潮時なんて言わないで」
風の入る隙間は、もうふたりのあいだにはなかった。
清霜に詰められた距離を、青年も開けようとはしない。
うるんだ瞳を、痛むような、悼むようなまなざしで見つめる。
音もなく、白い
「……考えさせてくれ」
「いいよ」
ふんわりと、清霜は微笑んだ。
ゆっくりと手を放し、けれど、距離を離しはしない。
波立ちを努力して押さえつけた声で、はっきりと言う。
「でも、毎日歌と答えを聞きに来るからね。お客さんのひとりになるくらい、いいでしょ?
ちゃんと、コーヒーも持ってきてあげるから」
青年は、わずかに笑った。
「分かったよ。考えているあいだは、ここにいると約束する」
時ならぬ日が昇ったと、思うほどに。清霜の表情が明るくなった。
大きく、小さな胸を張る。
「のんびり考えてたら、戦争だって終わらせちゃうから。戦艦だから」
「そう、なるといいけれど。――ところで、コーヒーは?」
「……あ」
清霜が、あわててコートのポケットに手をつっこんだ。
投げ捨てなかっただけ偉い、かもしれないが、傾いた缶からは液体がこぼれ出し、布地を濡らしていた。
いつものダッフルコートではなく大人びたベージュのロングコートだけに、被害はいっそう目立つ。
情けなさそうに顔を上げた清霜は、青年と目を合わせ、どちらからともなく笑った。
「クリーニングは早いほうがいいと思うよ。また明日、かな」
「……うん。また、明日」
雪は、降りつづく。
少し滑る路面を、ためらいなく、確かな足取りで走り出す清霜。
彼女を見送って、ゆっくりと、青年はふたたびギターを手に取った。
ならば悼み続けよう
たとえ夜闇で見えなくても 君は隣にいる
ふたりで夜を進んで行こう
闇の向こうに なにかがあるから
闇の向こうに なにかがあるから――
商店街の片隅に、小さなバーがある。
板張りの壁と天井、同じく木製のカウンターとスツール。
ランプの暖かな灯りに照らし出される空間は、踏み込むだけでほのかなやすらぎをおぼえる。
ドアが、かすかに鳴った。
「ええと、ここ、は?」
とまどったような声は、少年のもの。
その後ろから、馴染みきった気配の
エスコートというわけか、扉を開けて押さえている少年はかいがいしいが、当惑するのも無理はない。
「私の行きつけのバーです。よい雰囲気でしょう?」
「確かに、大人って感じがしますけど……バーなんて、初めてです」
「でしょうね。ファミレスデートも素敵です。けれど、こういう場所を“武器”として覚えておくのも有益だと思いますよ」
年長者の風格をもって、朝日が微笑む。
清霜とファミレスに行ったあの日を、後悔してはいない。少年は彼女にそう答えたことを淡く追憶しつつ、まだぴんときてはいない。
小首をかしげ、朝日に問う。
「武器……ですか?」
「ええ。あるいは、戦場、かもしれませんが。恋と戦いが似ているなら、勝利のためには戦場を選び、武器を整えることが必要となります。
ですから――よい雰囲気は、武器となり、戦場となる」
「な、なるほど……」
「さっ、どうぞ」
朝日はカウンターの止まり木に腰を下ろし、少年を隣に招く。
高いスツールにいささか苦労して、少年はなんとかさまになる格好をした。
「私はギムレットで。彼には――モクテルで、けれど大人の男のためのものを」
「難しいことを言いますねえ」
朝日のオーダーを聞いて、
もっとも口調は余裕があり、少しも難しそうではない。朝日も、さらりと返す。
「あなたが朝日を見るよりは簡単でしょう?」
「いま見ていますって」
夜型なのか、女性は笑って応じつつ、手際よくカクテルを作り始める。
おずおずと、少年が声をかけた。
「あ、あの、俺は……」
「大丈夫ですよ。モクテルというのは、アルコールの入っていないカクテルのことですから。けれど大人のための――と、朝日さんは注文されたわけです。
光栄だと思いますよ、頼まれたわたしも、頼んでもらったあなたも」
気負いなく、さらりと微笑んで、彼女は流れるような手つきでふたつのグラスを滑らせる。
「あなたには、ギムレット」
「ありがとう」
朝日の前に置かれたのは、ステムの長いカクテルグラスに入った、少量の半透明な液体。
鮮やかに、朝日が微笑みを返す。
「そしてこちらが、ライム・トニック。モクテルですけど、大人の男性にふさわしいと思いますよ」
「あ、ありがとう……ございます」
「どうぞ」
氷の入った背の高いタンブラーグラスにたっぷりと注がれた、クリアな液体。
少年はおずおずと、グラスに手を伸ばす。
そして一口飲んで、なんとも言えないような顔をした。
苦く、甘いカクテル――いや、モクテル。
「これが、大人の味ですか」
「大人の人生には、苦くて甘いものもありますから」
朝日や、あるいは同じ商店街だからとはいえファミレスの女性マネージャーが、彼女に言いふらすとも思えない。
しかしすべてを直感しているような不思議な的確さをもって、彼女は言った。
グラスの氷が、静かに鳴った。
「レシピは無農薬のフレッシュ・ライムと、フィーバーツリー。今でもキナの木で苦みを出している“ほんもの”のトニック・ウォーターです。
ほんものなら、お酒が飲めるかどうかは、あまり関係ないものです」
「……そう、でしょうか」
もう一口、少年はライム・トニックを飲み下す。
冷たく、苦く、甘い液体が、喉を流れていく。
少しだけからかうように、朝日が口を挟む。
「キニーネというと、解熱剤ではなかったかしら」
「ええっ?」
「事実ですけど、心の熱にはかかわりませんよ。冷めるほうが幸せかどうかは、飲む人が決めることです」
「……」
風が、遠く鳴く。
ランプの灯りが、ゆらめいた気がした。
聞こえるはずのない歌声が、雪まじりの風に運ばれてきたように感じて、少年はつぶやく。
「……今日も、歌っているんでしょうか」
「ええ」
朝日の答えは短く、それでいて確かだった。
「けれど、いつまで?」
「歌い続けるのか、それとも、この地を去るのか。それは、彼が決めることです。
あるいはそこに、彼女が影響を与えるかもしれませんが」
少年は視線を落とした。
彼女、については、問うことも怖かった。
だがそれ以上に、問うべきではないと思った。手を引くことはしないと決めたから。
だから自分で決めてよい唯一のことを、古井戸に問う。
「俺は、どうすればいいんでしょう」
「清霜さんを想い続けるのか、それとも、まわりを見てみるのか。それは、あなたが決めることです」
あたりまえの、確かな答え。
問う前から、水面に映る顔は分かっていた。
少年は朝日の声を受け止めて、グラスの中の苦くて甘い液体と、氷とを見つめた。
バーの温度と、手のひらの温度で、少しだけ、氷が溶ける。
透明なグラスの表面を、水滴が流れる。
「……難しいですね」
「うらやんでいるのですよ。あなたを」
思いがけない言葉に、一瞬あっけにとられたような表情をする少年。
彼の視線をかわすように、朝日は大きくグラスをかたむけ、度数の高いカクテルをあおった。
「艦娘はどこから来て、どこへ行くのか。そもそも、戦いが終わるまで生き延びられるのか。
――こればかりは、私が決められることではありませんから、ね」
朝日は苦笑して、遠くを見た。
戦場の向こう、あるいは記憶の海の彼方。
戦場の明日とも、海の昨日とも言える、どこか遠くを。
遠い砲声が、彼女にだけは聞こえた。
窓の外の灯が、ひとつ消えた。
「
最後の言葉は、独り言のように静かに落ちた。少年も、黙って隣で座っている。
そこへ、すうっと、カクテルグラスが滑らされる。
「いつものを。あなたくらいですけど」
ギムレットと同じ脚の長いカクテルグラスだが、注がれた液体は奇妙に濁っている。
少年に向けて、女性が解説を加えた。
「ダーティ・マティーニ。ジンとドライ・ベルモットとオリーブが、マティーニのレシピですが、そこにオリーブの漬け汁を加えたカクテルです。塩気とオイル分があって、だいぶ癖の強い味ですね」
「海に近い井戸の水は、塩気を含むこともあります。そして古井戸は、少々濁っているかもしれません」
「汚いわけではないですけど……でも、やっぱり、あなたくらいですよ」
そもそもマティーニを知らない少年に、彼女たちの会話がすべて理解できたわけではなかった。けれど、本気で、言う。
「俺も、いつかは」
ふたりの女性は、微笑んだ。
「そうですか。おひとりでも、どなたかとでも。お待ちしています」
「そのときまでには――平和を。それが、私たちの責任でしょう」
ランプの灯が、温かく揺れた。窓の外では、静かに、雪が積もりはじめていた。