一時間の、戦艦   作:白水つかさ

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第三話 それだけ、だから

 冬のはじまりを告げる雪は、まだ淡く、しかし重い。

 白い風花(かざはな)はアーケードのない商店街の路地に降り、そして透明に消えていく。

 空はとうに暗く、道行く人々は肩をすぼめて足早に歩き過ぎる。

 

 そんな街に、かすかな歌声が流れる。

 

 

雪がどれだけ白くても 流れ出る赤を隠せはしない

海がどれだけ広くても 流れ出る赤を薄めはしない

立ち止まろう 道を探そう

ただひとつの航路しか ありえないと教えられても――

 

 

 雪のもたらす静寂の宵に、細い糸のような旋律が伸びていく。

 道端に腰を下ろしてギターをつま弾く青年の前に、アリアドネの糸を辿ったかのように、小さな人影が立つ。

 吐息が白く曇り、消える。

 

「――今日も、来たんだ」

「……うん」

 

 青年が顔を上げ、なかば諦めたように薄く頬を歪めた。

 清霜(きよしも)は膝を折り、湯気を立てるコンビニのコーヒーを差し出す。

 チープで苦い、だが温かい飲み物。

 青年はひとつ息をつき、カップを受け取った。

 

「ありがとう、とは、言うけれど。あまり僕に関わらないほうがいい」

「やだよ。わたしが好き――で、やってることなんだから、止めないで」

 

 冗談めかそうと、真剣な努力をして、清霜はぷっとふくれてみせた。それから真顔になって、もうひとことを続ける。

 

「――立って、歌えばいいのに」

 

 それは無意味な言葉。

 清霜は青年が座り込んでいる理由を理解しているし、青年は清霜が理解しているということを理解しているはずだ。

 まるで当然のように、青年はただ沈黙した。

 

「また絡まれたら、逃げ遅れるじゃない。……痛い思いをしたいみたいに見えちゃうよ」

 

 だから清霜がそう続けても、ただ消える。

 見えるのではなく事実そうなのだと、確認しているに過ぎないから。

 

 雪が青年の黒い髪に、清霜の白い頬に触れ、冷たく溶ける。

 今度は清霜が、ひとつ息をついた。

 

「……よいしょ、っと」

 

 わざと声を出して、青年のかたわらに並んで座る。

 ウールのダッフルコートは水を容易には通さないが、路面の冷たさはしみとおる。

 ぶるっと、子犬のように身体をふるわせたあとで、清霜は空を見上げた。

 

「ねえ」

 

 横は向けないまま、ふるえる声で問いかける。

 

「ふたりで歌ってたの? 戦争の前は」

「……誰に聞いた?」

「――誰でもいいじゃない。有名だったんでしょ、ふたり」

「まあ、ね」

 

 こくりと、青年がコーヒーを口にした。

 湯気に触れた雪は、地に落ちさえせず消える。

 

「……楽しかった?」

 

 恋人だったの、とは聞けない、代わりの問い。

 傷だらけのギターを()でる、青年の血の気の引いた指先は、振り向かなくても見えた。

 聞こえなかったか、無視されたかと思うほどの沈黙のあとで、小さな声がした。

 

「どうかな。喧嘩してばかりだったよ。音楽のことでも、生きかたのことでも、ぶつかってばかりだった。いつも彼女が正しいんだから、まったく嫌になったね」

 

 青年の声は言葉とは裏腹の温度をもっていて、清霜の胸が、きりりと痛む。

 

「こんな雪の日だった。例によってつまらないことで怒鳴り合って、彼女は僕をひっぱたいて出て行った」

「空襲の……とき、だよね」

「――いや」

 

 青年が、振り向く気配がした。

 まるで沈む艦の引き起こす大渦に吸い寄せられ、もろともに水底に消える傷ついた水兵のように、否も応もなく、清霜も青年に向き直る。

 (くら)くどこまでも深い黒の瞳から、視線を逸らせない。

 

「空襲なんてなかった。怒って出て行った彼女は、ご自慢のスポーツカーで高速道路をぶっ飛ばしながら、僕に電話をかけてきたのさ。

 仲直りしようと思ったのか、もうひとこと文句を言ってやろうと思ったのか、今となっては分かりようもないけれど」

「……」

「……いや、本当はどちらだったのかは分かってる。最初の、そして最後になってしまったひと声を、電話ごしに聞いた僕には。でも――」

 

 青年は目を閉じ、そっと首を振った。

 

 そのときようやく、清霜は自分が息を止めていたことを知った。

 ひゅっと喉が鳴るほど、大きく空気を吸い込む。

 目を開き、清霜から視線をそらして前を向き、青年は言う。

 

「どちらだったとしても、意味なんてもうない。電話は切れた。

 ――事故だよ。雪の日に百何十キロで高速を飛ばしながら電話をすれば、ハンドル操作はおろそかになってしまう……それだけの、単純な事実。即死、だったってさ」

 

「……深海棲艦のせい、じゃ、ないの?」

「そう、深海棲艦のせいなんかじゃない。彼女のせい――あるいは、僕のせい、だ。

 そもそもの喧嘩の原因だって、戦時下の歌がどうあるべきとかじゃなく、もう思い出せもしないようなくだらないことだった」

「そんな……」

 

「でもニュースでは、戦争の犠牲になったって報じられた。彼女の残した歌も、戦争の応援歌だって言われた。

 確かに、戦時下でなければ、彼女もそんなにぴりぴりしなかったのかもしれない。確かに、彼女の歌詞は、戦う人を応援しようと書いていたものだったのかもしれない。

 ……だけど、ね」

 

 まだ温かいコーヒーの紙カップを握る、青年の手は、かすかにふるえていた。

 清霜は思わず右手を伸ばし――届かずに、ただそっと袖に触れる。

 袖の布地を細い指でつまみ、雪を落とすふりでひとつ、ふたつと引くと、青年がかすかに笑った。

 

「コーヒーがこぼれるよ」

 

 清霜は答えられない。口を開けば、悲鳴か泣き声になってしまいそうだった。

 黙ったまま、動きを止め、指を離す。

 右手は力なく、冷たい地面に触れた。

 

「それで――怖くなった。悲しくなった。ひとりで、歌わずにはいられなくなった」

「……」

「もちろん、僕はひとりで歌う男じゃなく、“ふたり”のうちのひとりだったから、彼女の死について発言を求められた。彼らの期待に添う発言を」

「っ――」

 

「けど、拒否した。嘘を書いたら声明を出すって怒鳴った。

 そのうち政府の人間も記者も来なくなって、代わりに番組のオファーもライブの機会もなくなった。

 あとは、君が見ているとおりさ」

 

 青年は、大きくコーヒーを(あお)った。

 空になったカップを投げ捨てそうにして、中途で止める。

 うつむいて視線を合わせられない清霜は、落ちる雪と同じように揺れる言葉を、涙の代わりにぽつりとひとつ、こぼす。

 

「戦うのは……間違ってると思う?」

「分からない。分からないから、考えないといけないと思った。ただ流されていくんじゃなくて」

「そう――なんだ」

 

 人の流れは乏しいながらも途切れないが、ちらりとふたりに視線を向ける者はいても、誰も足を止めない。

 むろんいま、立ち止まらせるための歌は響いていないにしても。

 ふたりの吐息だけが、白く散る。

 

「こんな強い流れのなかで、無茶を言っているとは、自分でも思うけれどね」

 

 自嘲気味に、青年が言う。

 清霜は、強くかぶりを振る。

 少しだけ意外そうに、青年が言葉を継いだ。

 

「――あのとき、どうして僕を責めなかったんだい。その傷が深海棲艦のせいだとすれば、彼らや、あの男の子のように、君だって(いきどお)っても当然だったと思うけれど」

「……わたしも、考えたから、かな。どうして、って」

 

 すっかり冷たくなってしまった指で、空の袖を握る。

 

「君の傷は――」

「深海棲艦のせい。でも、それ以上は聞かないで、お願いだから」

 

 少女の声はかすれ、ふるえていた。

 気づかわしげな青年の言葉が、耳元で穏やかな波のように鳴る。

 

「……ごめん、辛いことを思い出させてしまったかな」

「思い出すからなんかじゃ、ない。辛いのは」

 

 涙声で言う。

 腕を組もうとして思いきれず、ただ、ぶつかるように身を寄せる。

 分厚い布地越しにでも、彼の体温を感じる。

 頬を寄せる。

 青年が驚いたように息を呑むのが、横を向かなくても分かる。

 

「こうしてたら、あなたを痛めつけようとしたらわたしが巻き添えになっちゃうでしょ。だから、誰もなにもしてこない。――それだけ」

 

 自分でも、嘘だと分かっていた。

 守りたいのは彼ではなく、自分の脆い心だった。

 彼が嘘だと分かっていることも、(わか)った。

 けれどもう、止まれなかった。

 

「それだけ、だから。だからいまのうちに歌って」

 

 指を絡めるように、彼のカップを奪う。青年が手にするのは、ギターだけ。

 

「――あの人の、歌を」

 

 青年は、少しためらい――ギターを抱え直し、ゆっくりと歌い始めた。

 いつもとは違う旋律、いつもとは違う言葉が、商店街の冷たい道をそっと揺らす。

 

 

風に吹かれ 進んで行く

白い帆に風を受ける 大きな船のように

水平線に あなたが見える

白い帆に風を受ける もうひとつの船のように

港よりも必要なものを はじめて知った――

 

 

 帰らない過去を歌う青年の声も、指も、かすかにふるえていた。

 歌は血に濡れた祈りのように響き、清らかな呪いのようにさえ響いた。

 

 

傷を数えても 夜は明けない

だから灯りなんていらない

君が隣にいれば 僕は恐れない

ふたりで夜を進んで行こう

闇の向こうに なにかがあるから――

 

 

 清霜は顔を上げることができなかった。

 彼の歌は、自分に向けられたものではない、それは分かっていた。

 自分が彼女の歌を、記憶を、求めたのだから。

 

 頬が濡れるのは、自分が涙を流しているからなのか、ただ肌に触れた雪が溶けただけなのか、それとも頬を寄せている彼の、涙なのか。

 分からなくて、でもそれでよかった。

 温かくて、そして冷たいということだけは、解っていた。

 

 それでも。街を行き交う人々は、誰も足を止めない。

 その夜、雪は降り止まなかった。

 

 

ふたりで夜を進んで行こう

闇の向こうに なにかがあるから――

 

 




傷つくと分かっていても知らずにはいられない、理解したい、そんなことってありますよね、ということなのでしょうか。先が分からない……。
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