男らしさのない一般社会人男性がTS転移したら、学生時代に親友だった不良と再会した話 作:Sfon
セレナという先輩リンキシアに導かれ、怜はこの世界での「女の子としての暮らし」に触れ始めるが、その柔らかな時間の裏には、過去と現在を揺さぶる記憶や対話が潜んでいた。セレナが抱える秘密、獅音との再会の真意、そして「レイ=アサギリ」としてどう生きるか――。
揺れ動く自意識と他者の期待のあいだで、怜が選ぼうとする一歩は、「自分で在ること」の意味を静かに問いかける。
部屋の扉を閉め、鍵をかけた怜は、静かにため息をついた。
窓際のカーテンがふわりと揺れている。外の灯りがぼんやりと部屋の中に差し込んでいて、壁の影がやけに長い。
歓迎会が終わって、獅音と少しだけ言葉を交わして、それから戻ってきた自分の部屋。誰もいない空間は思ったより広く、そして、ひどく静かで、寂しげだった。服屋や下着屋の試着室で一人になった時とは違う、本当の一人きり。部屋の中に響くのは、自分の身じろぎする音と、吐息だけ。
(……とりあえず、着替えなきゃ)
いつまでも外行きの服を着ているわけにもいかない。怜はそっと、着ていたワンピースに手をかけた。ふわりと肩から落とすと、軽く滑らかな布地が足元に落ちていく。下着姿になると、肌寒さと心許なさが一気に押し寄せた。
胸元の締め付けが苦しくて、ブラも抜き取る。ついさっきまで自分が着けていたから、ほんのり暖かい。それが妙に生々しくて、あまり視線の届かない、部屋の片隅にそっと置いた。
(部屋着……これか)
クローゼットから手に取ったのは、今日の昼間に買った、淡い藤色のセットアップ。柔らかなコットン生地でできていて、ふわふわとした質感のトップスと、膝丈のズボン。着るだけでほっとできるような、やさしい肌触り。
着るのは簡単で、あっという間に着替え終わった。ドレッサーの前に立ち、鏡の中の自分を眺めると、シンプルながら可愛らしい部屋着を着た女の子の姿。少し厚手の生地のおかげか、ブラをしなくても胸の形があまり透けていない。
リボンやフリルで飾られた服は、女の子のかわいらしさを引き立てていた。部屋着だというのに、それでもかわいらしさを求める。女の子はやはり、『どう見せたいか』をずっと考えているのだろう。
(セレナさんのおすすめで買ったけど、これ、着心地いいな。胸元の締め付けもなくて楽だし)
この姿になってから、着替えたら鏡で自分の姿を見るのが、半ば習慣になった。それはきっと、今の自分の姿を自分の意識に刻み込むため。ふとした瞬間に、男の頃の気分に戻ってしまうのを、出来るだけなくすための、儀式のようなものだ。
それが、今に限っては逆効果だった。静かな部屋に一人きり。他人の視線が届かない、自分だけの空間。誰にも邪魔されない環境で自分の身体を見つめるのは、これが初めて。
そう意識した途端、自分の身体の輪郭を強く感じるようになった。胸元の布がそっと触れるだけで、思わず意識してしまう。リラックスできる服装のはずなのに、呼吸が整わない。
(これ、自分の身体、なんだよな)
可愛らしい見た目になったけれど、中身はまだ男のまま。異性の身体への興味は、人並みに持ち合わせている。今まではそれを、周囲からの視線が上書きすることで抑えられていただけ。
誰からも非難される筋合いはない。だって、これは自分の身体なのだから。好きにしていい。怜の頭の中で、正当化が進んでいく。
(風呂入った時、ちゃんと触れなかったし……。こういうのは、勉強だから。避けてると、いつか困るはず)
存在しない誰かに言い訳をしてから、そっと、胸元に手を這わせてみる。
「んっ……なんか、思ってたのと違う……」
下着屋さんでも、自分の胸に触れる機会があった。ブラの中に胸をきちんと収めるための作業。その時は、胸が膨らんでいる違和感と、それを触られる不思議な感触くらいだった。
しかし、今はどうしてか、触れるだけでぞくりとした感触。服の上から指先でなでると、胸の奥から甘い震えが湧き上がる。直接的な快感は無いのに、肩がピクリと踊る。
そうして触れていると、ふと視界に、ドレッサーの鏡が映りこんだ。その奥には、自分の胸を触り、顔を上気させている自分がいる。
(ちょっと……いや、すごくえっちじゃないか?)
可愛い女の子が、目をとろんとさせて、紅く染まった顔で自分の身体をまさぐっていた。怜の手は、お腹を伝い、腰へ。体に力が入らなくなっていく。
静かな部屋の中に、荒い息が響く。照明が自分を照らしているのが、自分を客観視させて、恥ずかしい。
怜は部屋の照明を消し、カーテンをしっかり閉めて、ベッドの上、仰向けに寝転んだ。見た目よりずっと広く感じたのは、自分の体が小さくなったから。両手を広げてもベッドの端に届かない。
「ふぅ……はーっ……」
部屋の中には、怜の吐息だけが響いた。胸元からは、鼓動が伝わってくる。普段は意識しない、『生きている』実感。両脚を閉じてみれば、腰から足先にかけての体の感触。
視界が真っ暗闇に埋め尽くされたからか、自分の身体の輪郭が、妙に強く感じ取れる。胸元の布がそっと触れるだけで、思わず意識してしまう。
(柔らかい。肌、敏感な気がする)
肌触りのいい部屋着の感触が心地いい。滑らかなシーツの感触も気持ちいい。背筋に、ゾクリとしたものが走った。
「んっ……」
自然と喉から漏れた声が色っぽい。頬をくすぐる髪の感触。ドクンドクンと高鳴る胸の鼓動。雰囲気に流され、怜は手を進めた。
──◇──◇──◇──
最初は、胸の中から溢れ出すものを受け止めるだけで精一杯だった。気持ちいいよりも先に、寂しさが募った。
誰かに触れて欲しい。人の暖かさを感じたい。なのに、ここには自分一人だけ。セレナの部屋に押し掛けるのは心苦しく、獅音の部屋に行くのは少し怖かった。だから、頼れるのは自分の手だけ。
自分の手で体中を触った。布団の中に潜り込み、自分の体温で温まった手を、全身に擦り付けた。それで、少しでも寂しさがまぎれると思った。
(セレナさん……獅音くん……)
いつの間にか、二人に触ってもらうことを想像していた。明確にどちらというわけでは無い。安心できる人に体を触ってもらいたいという、ぼんやりした欲求が生まれていた。
触るほどに、少しずつ、自分の身体のつくりが分かってくる。触れたら痛いところ、何も感じないところ、気持ちいいところ。恐る恐る動かしていた指先が、意志を持って動くようになる。
徐々に生まれてきた快感が、寂しさを上書きしていく。
布団の中から響く音。枕に押し付けた自分の口から漏れ出る声。それをどこか遠くで聞きながら、怜は体を何度も震わせた。
──◇──◇──◇──
一時間ほど経っただろうか。後始末をしながら、怜はふと、どこか俯瞰視点にいる、もう一人の自分を感じていた。
(何やってんだろ、僕……)
羞恥心と、ちょっとした安心感と、返ってきた寂しさ。どこか遠くで誰かと繋がっていたような、誰かに触れてもらったような、不思議な感覚が胸の奥に残っていた。
手のひらも、下着も、べっとりと濡れていた。自分の身体から出たものとはいえ、気持ちが収まった今となっては、ただ汚く感じた。
(女の子って、こんなに汚れちゃうのか。夢中で、全然気にしてなかった……)
幸運だったのは、布団やシーツに汚れが及んでいなかったこと。怜は体のけだるさを感じながら、ベッドから這い出た。足の間が濡れていて気持ち悪い。怜はとりあえずショートパンツと下着を脱ぎ、クローゼットからタオルを手に取った。
(本当はシャワーも浴びたいけど……しょうがない)
キッチンでタオルを濡らし、服を全部脱いで、汗を拭う。その手つきは、浴場で体を洗った時よりもずいぶん慣れていた。
(こんな慣れ方、誰にも言えないな)
そう思いながら、タオルで体を拭く手を止め、怜はふと立ち尽くした。どうして、自分の身体を触るのが、こんなに後ろめたいんだろう。
男としてなら、当たり前のようにやってきたこと。誰にも言えないのは、それが女の子の体で、そして『今の自分』でやってしまったから。身体の変化も、感じ方の違いも、受け入れていないようで、もうすでに受け入れているのかもしれない。
(僕、もう……こんな風に感じる身体なんだ)
そっと、足の間に手を差し伸べた。一度汚れを拭った指先にこびり付く、行為の痕。肌の敏感さも、指先の熱も、自分のものになりつつある。何かを手放すような、でも少し安堵するような。そんな気持ちが、胸の奥に広がっていた。
最後に汚れたところもキレイにして、タオルを水で洗った。キッチンの排水溝に汚れた水が流れていくのが、どこか気恥ずかしかった。
新しい下着と寝巻きを着て、ホッと一息ついた。同じデザインだが、今度は淡いピンク。意図があったわけではなく、ただ残っていた着替えの中から適当に選んだ。
(はぁ……寝よう)
疲れからか、スッキリしたからか、怜はすぐに夢の世界へと旅立った。
──◇──◇──◇──
小さな机に向かう、子供の頃の自分。それをどこからか、俯瞰して見ていた。手にした鉛筆が折れて、ノートにうまく書けない字が並ぶ。
向かいの大人が言った。
「よくやったわね。やっぱり、あなたはできる子なんだから」
親だろうか。顔は塗りつぶされていて、誰なのか分からない。褒められていたのか、責められていたのか。それも分からない。
(これは……夢……)
場面が切り替わる。ゲームセンターの中にいる自分を、また俯瞰して眺めていた。高校時代だろうか。獅音が笑いながら、目の前の自分に向かってくる。
「お、来たか。お前、真面目そうだけど意外とやる気あんじゃん?」
その声が嬉しくて、目の前の自分は何も言わずに頷いた。
(これ、初めて獅音くんと遊びに行った時だ)
ファストフード店、カラオケ、夜のコンビニ。いろんな風景の中で、獅音の背中を追いかけ続けた記憶。隣にいてくれるだけで、怖いものがなかった。
しかし、夢はいつまでも幸せなものじゃなかった。
大学の卒業式。記念写真を撮る集団の中で、怜の姿だけがぼんやりと霞んでいく。誰も気づかない。誰も声をかけてこない。まるで、怜だけが忘れ去られていくように。
目の前にいた獅音が、遠ざかっていく。追いかければ追いかけるほど、獅音の歩く速度が速くなる。届かない。呼びかけても、もう振り返ってくれない。
『獅音くん……どこ行くの……待って……!』
目の前の自分の声が聞こえてくる。
(やめて……こんな夢、見たくない。幸せなままで居たい)
しかし、夢は無情にも続く。次に聞こえてきたのは、パチパチと蛍光灯が明滅する音。
事務室のような場所。けれど、窓も時計もない。ただ白くて、冷たい明かりが一面に満ちている。怜はスーツを着て、机に向かっていた。背中を丸め、書類をめくる手は震えている。
誰も声をかけてこない。誰もこちらを見ていない。けれど、机の上の書類は、いつの間にか倍に増えていた。
「朝霧くん、君ならできるよね?」
声だけが響く。顔の見えない上司。黒いスーツの塊が周囲に浮かび、増えて、押し寄せてくる。褒められ、期待され、次の瞬間には見捨てられる。あの頃、毎日見ていた、変わらない風景。
『もっと頑張らなきゃ……嫌われたくない……役に立たないと……』
次第に周囲の音が遠ざかる。
視界が白い光で塗りつぶされていく。
最後の最後に、心の底から、目の前の怜が願った。
『……獅音くん、助けて!』
──◇──◇──◇──
目が覚めた。
あたりはまだ暗かった。起きたばかりだというのに、息が荒い。薄っぺらい下着が、汗で肌に張り付いている。心臓がバクバクとうるさく、耳元で響いている。
(せっかく、着替えたのに)
怜はぎゅっと毛布を抱きしめ、目を閉じた。
(人恋しい……誰かに、そばにいてほしい……)
浮かんできたのは、獅音の顔だった。歓迎会のあと、獅音の部屋でかわした言葉。以前より少しだけ柔らかくなった彼の笑み。
(でも……)
同時に見えた、無意識に、何かを試すようなあの視線。誰かの役に立つ自分にしか価値がないと、思わせるような言葉。
胸の奥がざわつく。率直に、『怖い』と思った。
(獅音くんは、そんな人じゃないはずなのに……)
きっと、慣れない世界に放り込まれて、僕がこの世界に連れてきたと知って、戸惑っているだけ。僕が誠意を見せて、獅音くんの力になれば、いつも通りの関係性に戻れるはず。怜はそう信じた。
(でも……今の獅音くんは、怖いよ……)
誰か助けて。でも、獅音には頼れない。怜は布団を抱きしめ、そう祈った。眠る前にしたこと。あれをすれば心の寂しさが落ち着くかと思ったが、それでもだめだった。
いくらしても満たされない。寒気が収まらない。段々思考がおぼつかなくなり、ふと、思い出した。
ベッドから起き上がる。今の怜には、もう一人、頼ってもいいと思える人がいた。
──◇──◇──◇──
濡れたタオルで手を拭い、顔を拭いて、廊下に出た。向かう先は、すぐ隣の部屋。扉を控えめにノックすると、中から優しげな返事が返ってきた。
「はーい、ちょっと待ってね」
やがて、少しだけ扉が開いた。ドアチェーン越しに覗く、セレナの顔。
「こんばんは。その……」
深く考えずに来たものの、どう理由を説明すればいいか思いつかない。それでも、セレナは深く聞かずにドアチェーンを外し、怜を中に迎え入れた。
「とりあえず、中に入る?」
「……お邪魔します」
セレナの部屋は、相変わらず落ち着いていた。女の子らしさの裏に、どこか大人っぽさが潜んでいる。まだ寝ていなかったのだろう、ベッドは綺麗に整えられたまま。ドレッサーの上には開かれた本と、湯気の浮かぶ紅茶入りのマグカップが置かれていた。
「すみません、急に……」
「ううん、大丈夫だよ。来るかなって思ってたし」
「……セレナさんは、なんでもお見通しなんですね」
「なんでもじゃないよ。この世界に急に呼び出されて、見た目も性別も変わっちゃった初日の夜なんだから。すぐ寝付けるなら、カウンセラーなんて職業、この世にないと思うよ」
セレナの優しい声が、怜の心を落ち着かせる。それだけで、ここに来て良かったと思った。
セレナはベッドの布団をめくり、腰掛けられるスペースを作って座った。その隣をポンポンと手で叩き、怜を呼び寄せる。それに吸い込まれるようにして、怜はセレナの隣に座った。
セレナは何も喋らない。怜が口を開くのを、じっと待っていた。しかし突き放しているわけではなく、膝の上で拳を握っている怜の手を、そっと包んだ。
怜と同じ、細くしなやかなセレナの手。温かくて、優しくて、詰まりそうだった息がどんどん楽になる。
「……夢を、見たんです。必死に働いて、獅音くんがいなくて寂しいまま、自分がどこかに消える夢を」
ポツリと呟くように、怜が切り出した。
「獅音くんは、僕の全ての支えだったんです。でも、さっき……獅音くんの部屋でちょっと話したら、全然違う人みたいで。僕のことを、見てくれなくなっちゃったみたいな感じで。……僕、どうすればいいのかな、って」
セレナは怜の独白を、正面から受け止めた。決して急がず、怜が落ち着いた頃合いを見計らって、問いかける。
「これから話すことは、私に話さなくていい。自分の心の中だけで考えてくれればいいからね」
そう前置きをして、セレナは続けた。
「レイは、シオンに自分のことをどう見せたい?」
またそれか、と怜は思った。セレナは同じことしか言わない。もっと、『大丈夫だよ』とか、『大変だったね』とか、慰めて欲しいのに。少しだけ、残念だった。
でも、言われた通りに考えてみる。
(獅音くんに、自分をどう見せたいか――)
男の頃と同じように、それが最初に考えたこと。でもそれはつまり、オドオドして自信のない男として見せたい、ということ。
(それはちょっと、違うかも)
怜は、自分を低く見せたいわけじゃない。むしろ、価値を感じて欲しい。必要だと思って欲しい。でも、今の自分は――外側に張り付いた、仮初の価値がありすぎる。それこそ、獅音のプライドを潰しかねないほどに。
『祈り手』として崇められた村での出来事。セレナから告げられた、『巫女』としての存在価値。一方で、獅音はきっと、この世界から求められていない。ただ、怜が望んだから一緒に呼ばれただけの存在。
可能なら、すべて脱ぎ去って、獅音の隣に居たかった。余計なものは捨てて、今の自分だけを見て欲しかった。でも、それはきっと無理に違いない。獅音の記憶には、今の自分の姿と『祈り手』の出来事、金色の住民証が結びついているはず。
(なら、やっぱり、獅音くんの駒になるのがいい)
自分から動けば、獅音のメンツを潰してしまう。怜の中で、一つの答えが決まった。
「……セレナさん、ありがとうございました」
「ううん。いいんだよ。困ったらいつでもおいで」
セレナの、何でも受け入れてくれるような表情。どんな決断をしたとしても、尊重してくれそうな、でも間違っているときには叱ってくれるような、海のような人。そっと手を握ってもらっただけなのに、まるで抱きしめられたような温かさがあった。
怜はセレナに深くお辞儀をしてから、自分の部屋に帰った。ベッドに入り眼を閉じると、程なくして意識が宙に浮かんだ。