ひな祭りから逃げ出した一人の少女の行く末。

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雛は祀られ、陽菜は奉る。作:ねくしあ

 3月3日、桃の節句、あるいは雛祭り。

 

 毎年行われるこの行事を、今日の私は今すぐに終わらせたかった。

 

「陽菜、もう少しゆっくりお食べ」

「分かってるっ」

 

 お母さんが、柔和な笑顔を浮かべながら諭すように話しかけてきた。

 その声を聞いていると、全ての動きがゆっくりになってしまいそうになる。いつもは特に気にならないのに、今は妙にズレたように感じてしまう。それは、私の心が今にでも駆け出したがっていることの証左だった。

 

 ——雛祭りといえば、今は人形を飾って終わり、あるいはひなあられを食べて気分を味わうくらいだと思う。

 

 けれど、私の家はなぜか昔から格式張ったやり方をしているのだ。

 七段の舞台の最上段に男雛と女雛を、二段目以下には三人官女、五人囃子(ごにんばやし)随身(ずいじん)仕丁(しちょう)、嫁入り道具などを飾る。

 

 現代でここまでしっかりやる家庭は少ないのではないだろうか。しかも、今の私は高校2年生。そろそろ3年生になろうかという年頃だ。幼いならともかく、この規模のものを17年間やり続けるなど少し恐怖すら感じる。

 

 怖いといえば、怖い記憶もいくつかあった。よくある夜中に目が合う、なんてのは序の口で、時々腐っていたり、溶けていたりしていたのだ。その度に新品が用意されているのも怖かった。

 大事にしてくれているという思いは伝わってくるから、文句を言えるわけもない。

 

 それに加え、別に家は神道でも仏教でもない。クリスマスはちょっとパーティーするし、お正月はおせちを軽く食べたりするが、その程度。

 お母さんに理由を尋ねても、「女の子はか弱くて儚い。だから、しっかりやらないといけないのよ」と意味不明な言葉を言われてそれ以上の情報を引き出せはしない。お父さんはもっと情報が少なくて、その時の私は思わず溜息をついてしまったくらいだ。

 

「はむっ……」

 

 両親と私、そして妹。4人が箸を動かす音が静かな和室に響いている。

 

 ちらし寿司やハマグリのお吸い物は、普段食べる機会のないものだし、海鮮料理と考えれば美味しい。だが、今日ばかりは味わっている暇はない。

 

 何を隠そう、私はこの後、つい先日高校を卒業した、部活で仲の良かった先輩たちと出かけにいくのだ。

 

 都合上そこまで遠くにはいかないけれど、先輩たちと、同級生の友達と一緒に遊べるだなんて夢のような話。

 これを理由に雛祭りを断ろうとしたけど、いつにもなく強い表情——柔和な雰囲気が一変し、悲願を叶えてという意思を感じた——お母さんにダメと言われてしまった。ならば、と思って、今私は箸をかつてない速度で慎重に、繊細に、素早く動かしているのだ。

 

「ご、ごちそうさまでしたっ!」

「……しょうがない子ね。いってらっしゃい。忘れ物はない?」

「大丈夫!」

 

 忘れ物? あるはずがない。

 予定が決まってすぐに荷物を整理し、必要なものを選び取り、毎日寝る前に確認しておいたのだ。

 そして今日、その荷物は玄関に置いてある。服装も問題なし。髪型もしっかり決めて結ってある。

 

 靴をさっと履き、荷物を取り、鏡で少しチェック——よし、問題ない。

 

「いってきますっ!」

 

 集合場所は中学から同じだった先輩の家。ここから1キロメートルも離れていない場所だ。

 

 移動手段がバスと電車のため、徒歩で向かうことになるが問題はない。なにせ私には、中学・高校とテニスで5年間鍛えてきた脚がある。急な切り返しや土壇場の滑り込みはお手の物。

 見慣れた道を駆け抜けて、一心に目的地へと進んでいく。

 

 運よく信号は緑、まだまだ行けそうだ。

 

 住宅地に入り、右へ左へと道を曲がっていく。通行人に微笑ましげな視線で見られようと、散歩中の犬が追いかけてこようと、足を止めることはなかった。

 

 だが、再び大通りに出た瞬間にそれは現れた。

 

「ちぇっ、赤信号」

 

 流石に緑の信号が続くとは限らない。天は私の味方をしてくれたのかもしれないが、ここまでということなのだろう。仕方ない。

 

 そう思って足を止めた直後、私の目には不思議なものが飛び込んできた。

 

 ——横断歩道の真ん中に子どもがいる。

 

 その子どもは、白線の上で楽しげに笑っていた。飛び回ったりして、遊んでいるように見える。

 

 フィクションではよくある光景だ。

 何らかによって赤信号であると認識できず横断歩道の中へ行ってしまい、そのとき車が横から来て……という。そして、誰かが助けるために飛び込む。

 

 いやいや、きっと誰かが助けてくれるだろう。

 

 そんな考えが頭に浮かび、辺りを見回す。

 

「……誰もいない」

 

 どうして? どうして? どうして——疑問の言葉が止めどなく溢れてくる。しかし、それを抑え込む術も便利な言葉も私は知らない。

 

 かといって、ここで何もしない訳にはいかない。

 

 だから——私が、やらなきゃ。

 

 私は額に流れる汗を拭い、うるさいほどに脈打つ心臓の音に意識が呑まれそうになりながらも喉を震わせた。

 

「君っ、そこ危ないよ——!」

「ようがんに落ちちゃう!」

 

 一瞬、思考が止まった。何のことか全く分からなかった。

 けれど、白線の上で片足立ちしてバランスを取る姿を見て、男子小学生がよくやる白線の上を歩く遊びをしているのでは、という解釈に思い至った。

 

 その間に彼は向こう側へと一歩進み、距離が白線一つ分空いた。

 

「うわぁ、まぶしい!」

 

 子どもがそんな声を上げ、腕で目を覆った。それにつられてふと右を見れば、トラックがこちらに来ているのが見えた。

 場面が切り替わるように信号の色も変わったが、トラックは止まる気配がない。

 

 視界が明滅する。その原因がトラックの光なのか、自分の異常なのかを区別できるほど、私は冷静ではなかった。

 

「あぁ、もう!」

 

 気づけば、私の足は勝手に動いていた。

 緑信号が灯る横断歩道を駆け抜け、子どもを掴んで向こう側へと飛び込んだ。

 

 ——刹那、パンッという破裂音が聞こえる。

 

 あぁ……人生って、こんなに短いんだ。なのに、死ぬ前はこんなにも長い時間を感じるんだ。

 いってらっしゃいも、いってきますも、もう最後だったんだ。特別な日が、もっと特別で悲しい日になってしまうんだ。

 

 ——目を閉じていたから、きっと私は死んだのだろうと思った。感覚がないから分からないだけで、胴体がなくなっているんだろうと思った。

 

 ところが、永遠にも感じられた空中浮遊は、肘をどこかに打ち付けた痛みで終わることとなった。

 

「痛っ!」

「ぐふぅ……」

「あっ、大丈夫!?」

 

 思い切り抱きしめていたが故に、子どもは苦しげな表情をしていた。

 慌てて手を離すと、私の肩の向こうを見つめて呆然とし始める。

 

 振り返ってみると、横断歩道に後輪がかかっているトラックが止まっていた。

 

 私を殺していたはずのトラックが、そこにある。

 

「す、すみません! お怪我などは……」

 

 真っ青な顔でトラックから運転手が降りてきて、開口一番にそう言った。

 

「いえ、何も……強いて言えば肘を打ったくらいで」

「自分で言うのもなんですが、意識が朦朧としていたとはいえ確実に轢いてましたよ……!? 目の前でしたよ……!? はっ、救急車呼ばないと——うわ手が滑って携帯がっ」

 

 頭が回っていないのか、見るに耐えないような状態だった。

 なんだか哀れに感じられ、「大丈夫ですから何もしなくていいです」と告げて私はその場を辞した。目的もその時に思い出し、私は今起こった不思議な出来事に首を傾げながら再び走り出したのだった。

 

 ◇

 

 それからとっても楽しかった旅行を終え、夜の寂しさを抱きながら家に帰った。

 

 すると、玄関には怒ったような顔のお母さんが立っていた。

 少しばかり帰るのが遅くなってしまったかと、謝罪の言葉が喉元に迫り上がってきたタイミングで、お母さんが口を開いた。

 

「陽菜、無事だった?」

 

 次の瞬間、私は母に抱かれていた。

 子どもを助けたときのように、強い力で。

 

「な、なんでそんなこと聞くの……? 別に何もなかったって」

「大丈夫よ、お母さんは分かってるから。ほら。こっちに来て」

 

 手を引かれて向かったのは、生まれてから毎年見ていた七段の舞台があった。

 何もおかしなところはないと疑問を感じたとき、不意に一番上にあった

 女雛がなくなっている事に気づく。

 

「いい? お母さんがひな祭りを大事にするのはこのためだったの」

「ど、どういうこと?」

「ひな祭りの雛人形には、女の子の身代わりの意味があるの。いつものようにきちんとひな祭りをすれば、雛人形は形代(かたしろ)となって命を守ってくれる。だから陽菜が家を出て形代が破裂したとき、お母さんは心臓が止まりかけたのよ」

 

 知らなかった。そんなこと、今まで言ってくれなかった。

 ……あぁ、もしかしたら私が真面目に生きていなかったからなのかもしれない。ちゃんと話を聞いていれば知っていたのかもしれない。

 

 でも、この方が良かったのだろう。

 結果的に死なないとしても、決死の覚悟で挑んだ。それは尊い覚悟だと、私は心の底から思うから。

 

 


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