夏の来な処で君を語る   作:裃 左右

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第9話 くなどのかみ

 静かに、湊の声がした。

 

「本当に思い出してしまったね、隼人くん」

 

 振り返るのが怖かった。でも、振り返らなければならない。

 湊はそこに立っていた。その姿は、以前にも増して儚く、まるで陽炎のように揺らいでいる。色素の薄い髪は、光を透かして、白い輝きを放っていた。

 

「湊……お前、お前、なんで……! 俺、俺、お前のことを見捨ててっ!」

 

 嗚咽が、胸の奥から込み上げてくる。

 なにも言葉にならない。

 

「いいんだ、隼人くん。キミは悪くないよ」

 

 湊はゆっくりと近づいてきて、俺の前にそっとしゃがみ込んだ。その手が、震える俺の肩に優しく触れる。

 驚くほど、冷たい手だった。

 

「この石祠はね、(くなど)の神様の祠なんだ。悪いものが村に来ないように、道を塞ぐ神様だけど……同時に、(さかい)を司る神様でもあるんだよ」

 

 湊のどこか輪郭がぼんやりと揺らいで見える。まるで、この世の者ではないかのように。

 

「境を司る?」

「そう。僕が今までいたのは、その岐の神(くなどのかみ)の領域だったんだ」

 

 湊の声は、まるで遠い昔の物語を語るかのように、淡々としていた。

 

「あの時、僕たちの『離れたくない』っていう強い願いは、神様の力と繋がってしまった。それで神様は、僕たちの願いを、神様なりのやり方で叶えようとしてくれたんだ」

「神様なりの、やり方……?」

「そう。僕を、この境界に留め置くことでね。キミがいつか、この場所に戻ってくるまで……ずっと、ここでキミを待つことができるように。帰って来たキミと、ずっと一緒に過ごせるように」

 

 信じられない話だった。でも、目の前の湊の持つ不思議な存在感が、真実を物語っている。

 互いの瞳が合えば、そこには底知れない深淵が宿る。決して、俺を映し出したりはしない。

 

「じゃあ、お前はずっと……ここで……?」

「うーん。同じような子たちの魂や、神様もいたからね。本当の意味で一人ではなかったよ。……でも、寂しかったな」

「なのに、俺はっ! お前のことを忘れて、今まで……」

「ううん、キミがいつか思い出してくれるって、信じてたから」

 

 湊は、ふっと微笑んだ。幻想に満ちていて、あまりにも美しかった。

 

「でもね、隼人。キミが記憶を失ったのは……僕が、そう願ったからなんだ」

「え……?」

「神様はね。僕たちが『永久に』離れないように。隔離された世界で、永遠に共にいられるように。そうしようとしていたんだよ」

 

 だが、湊は、俺までもが閉じ込められることは望まなかった。

 

「隼人くんの記憶を失くしたのは、僕が望んだことだったんだ」

 

 湊の声が、悲痛に響く。

 

「キミがこの出来事を忘れている限り、キミの願いは神に届かない。認知されることもない。そうすれば、隼人くんは、この石祠へと来ることはないはずだから」

 

 俺が記憶を失くしている間は、神の力は及ばなければ、こちら側へ引き込まれることはない。そういうことなのだろう。

 代わりに、神の領域に囚われている間に、湊はもはや肉体を失い、人ならざるものとなっていた。

 

「僕は……会いたかったけど、会いたくなかった」

 

 湊が、透明な雫を瞳に溜めて、絞り出すように言った。

 

「思い出してほしいけど、思い出してほしくなかった」

 

 風が吹き荒れる。木々がざわめき、祠から霧が立ち込め、その姿をさらに曖昧にする。

 

「一緒にいたいけど、来てほしくなかった」

 

 矛盾した言葉の羅列。しかし、それは、湊の深い愛情と、背負ってきた永い苦悩。

 

「僕の方こそ、ごめんなさい。……キミに忘れたままでいて欲しくないって、思っちゃった自分もいたんだ。だから、姿を現さずにはいられなかった。記憶も完全には封じられなかった。わざわざ呼び起こすような真似まで」

「そんなこと、どうだっていいっ!」

 

 俺は、湊の顔を、その細い体を、震える手でそっと包み込むように抱きしめた。凍えるような冷たさ。けれど、その奥に、確かに湊の存在を感じた。

 

「俺だって会いたかった! 思い出してよかった! ……忘れたままじゃいたくなかった」

 

 この冷たさこそが、彼が長い間一人で耐え忍んできた、寂しさと絶望の証なのだと、俺は悟ったから。

 囁かれた湊の声は、か細く、風に消え入りそうだった。

 

「――そんなこと、ここで言ったらだめだよ」

 

 その瞬間、俺は理解した。

 俺が記憶を取り戻し、この禁則地を踏んだことで、何かが再び動き出そうとしている。

 そしてそれは、湊にとって、決して良いことではないのだと。

 

 夕暮れの森に、いっそう冷たい風が吹き抜けた。

 蝉の声は、もう聞こえない。

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