トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
地図の上に、ふたりの小さな指がそっと重なった。
「この道を通って、ここを回ったら……ふふ、これで、今日の探検ルートは完成ですね」
トネリコが微笑むと、アルトリアは胸を張って、えっへんと誇らしげに頷いた。
「完璧だよ、お姉ちゃん! この地図があれば、もうどこに行っても迷子にならないね!」
「元から迷うような広さではないのですが……まあ、仮にそうだとしても、これで完璧です」
苦笑まじりに肩をすくめる姉の言葉に、アルトリアはふくれっ面を浮かべた。
「ちょっと! これは立派な冒険なんだからね。大事なのは気持ちなんだよ、気持ち!」
「はいはい、気持ちですね」
口ではそう言いながらも、トネリコは出来上がった地図をもう一度見つめる。曲がり角、木の影、猫の通り道。小さな庭のくせに、描かれたそれはずいぶん広く見えた。
きっとそれは、ふたりの目で見た「世界」だったのだ。
「……それでは、そろそろ行きましょうか。少し風も出てきましたし」
「うんっ!」
くるりと振り返ったアルトリアは、肩に引っかけたリュックの中から、ひょいと何かを取り出した。
「じゃーん! 探検の道具セット!」
「……ただのドングリと葉っぱではありませんか」
「ちがうよっ! これはね、“知恵の実”と“風のマント”なの! 物語の小道具になるんだから!」
勢いよく言い張る妹に、トネリコはもう一度苦笑しながら、そのドングリをそっと手に取った。
「……確かに。物語では、こんな小さなものが大きな奇跡を起こすこともありますからね」
「でしょでしょ!」
そんなやり取りをしながら、ふたりは並んで歩き出す。
林の中は、昼間でもどこか薄暗く、枝のあいだから差し込む光が地面にまだら模様を描いていた。
アルトリアはポシェットから懐中電灯を取り出して、わざとらしく「ぴぴーっ」と音を立てて点検する。どこか探検隊の隊長のような仕草に、トネリコは思わずくすりと笑った。
「それほど暗くはないですよ。まだ昼間ですし」
「いいの。雰囲気が大事なの」
足元を踏みしめながら、二人は林の奥へと進んでいく。鳥のさえずりも遠のいていき、代わりに静かな葉擦れの音が耳に心地よく届いてくる。空気は冷んやりとしていて、まるで別の時間に足を踏み入れたようだった。
。
「……あ、見て見てお姉ちゃん。あの木の根元、ちょっと変な色のきのこ!」
「……本当ですね。これは……蛍光黄緑……いえ、もしかするとただの苔?」
「ちがうよっ! きのこっぽいよ、ほら、傘がある!」
アルトリアはしゃがみ込み、懐中電灯で地面を照らした。そこには、小さな黄緑色の傘を持つきのこが、ひっそりと群れていた。日陰のなかで、ほんのりと、ほんとうにかすかに――けれど、たしかに光って見えた。
「……これは、発光性の菌類かもしれません。自然界にもごくまれに、こうした種類があると聞いたことがあります」
「やったぁっ! やっぱり本当にあったんだ、光るきのこ! じゃあここは、正式に“光るきのこの森”に認定!」
勢いよく立ち上がったアルトリアが、手帳を取り出して何やら書き込む。どうやら、自分なりの探検日誌らしい。
「……これだけで物語が書けそうですね。小人たちがこのきのこを灯りにして暮らす森……夜になると、彼らの村がぽつぽつ光って……」
「お姉ちゃんも想像してる?」
「少しだけ。あなたに付き合っていたら、否応なく想像力が鍛えられるので」
ふたりは笑い合いながら、しばしその場に座り込んだ。湿った土の感触と、風の匂い。どこか遠くで、枝が揺れる微かな音がした。
「ねぇ、お姉ちゃん。さっきのきのこが光ってるのって、誰かが忘れた灯りだったりして……」
「誰か?」
「うん、昔この森に住んでた、物語を忘れた妖精とか。そういう人の心の灯りが、きのこになって残ったの」
「……それは、少し切なくて、でも温かいお話ですね」
「でしょ? じゃあ、また続きを書かなくちゃ」
アルトリアは手帳をぱたんと閉じ、立ち上がると、きのこの近くにそっと丸を描くように地面に枝で印をつけた。
「ここが舞台。ぜったい忘れないように、印!」
「では、勇者さま。そろそろ進みますよ」
「はいっ、賢き女王さま!」
枝が揺れ、きのこの光がほんの少しまた瞬いた。今度は、アルトリアの後ろを歩くトネリコが、そっと振り返り、その場所に目を落とす。
「……心の灯り、ですか」
小さく呟いてから、彼女はその場を後にした。
切り株の上で一息ついたあとも、アルトリアの瞳は輝きを失わなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。あっちに道、続いてるよ……ほら、小さな獣道。たぶん、動物の通り道かも」
彼女が指差す先には、確かに踏みならされたような痕が、木の根と草の隙間を縫うように続いていた。
「地図には載っていませんでしたが……だからこそ、興味をそそられますね」
トネリコは立ち上がり、草を払って頬にかかる髪を後ろに撫でた。足元に転がる枝を慎重に避けながら、アルトリアが先に立って歩き出す。
「冒険って、こういう寄り道から本番になるんだよ」
「……それは、物語的には正解でも、現実には想定外が多すぎます」
そう言いながらも、トネリコの声に疲れの色はなかった。むしろ楽しげに、木の幹を指でなぞり、葉の間から漏れる光に目を細める。
踏み跡を辿ると、やがて苔むした石垣のようなものが現れた。木々に隠れるようにひっそりと積まれたその石は、どう見ても人工のものだった。
「わ、遺跡みたい……!」
「……これは、昔の畑か段々か、あるいは防風壁の跡でしょうか。ですが」
「ですが?」
「この古さ。風化具合。この場所だけ異様に静かで……妙に、印象的です」
トネリコが言い終える前に、アルトリアはもうその石垣をよじ登っていた。小柄な体を器用に動かし、息をきらせて頂上に立つ。
「お姉ちゃん! 見て、こっち、すごい!」
その声に導かれ、トネリコも慎重に後を追う。
石垣の先に広がっていたのは、小さな盆地のようなくぼ地だった。空がぽっかりと開け、木々の合間から光が差し込むその場所には、ぽつんと一本の巨木がそびえていた。
「……あれが、“森の中心”?」
アルトリアの言葉に、トネリコは黙って頷いた。どこか神聖な気配すらあるその巨木は、幹に何本もの蔦をまとい、地面には小さな花が散っている。
「ここ……物語の中にしかないって、思ってた」
「いえ、もしかすると、“物語の中だからこそ”ある場所なのかもしれませんよ」
トネリコはそう言って、ふと周囲に目をやる。葉の影が揺れ、どこかで鳥が飛び立つ音がした。風が吹き抜けるその一瞬、空気がまるでページをめくるように感じられた。
「ここ、名前つけようか。うーんと……“隠された物語の庭”!」
「……それはもう、“最終ダンジョン”の響きですね」
「じゃあ次は、地図にここの入口を描かないと!」
言いながら、アルトリアは座り込んでポシェットから色鉛筆を取り出す。膝の上に手帳を広げ、さっそく新たな地図の追記にとりかかった。
その横顔は真剣そのもので、口元は少しだけほころんでいた。
時間が過ぎるのも忘れて、ふたりは木陰でしばらく地図を描いた。枝の影が地面に揺れ、鳥のさえずりと風の音が重なる。
「……お姉ちゃん、今日は、いっぱい発見があったね」
「はい。“光るきのこ”に、“秘密のトンネル”、そして……“物語の庭”」
「まだ、帰りたくないなぁ……もう少しだけ、探してみない?」
その声に、トネリコはわずかに迷った、けれど
「では、もう少しだけ。何か見つけたら、その時こそ帰路につきましょう」
「やった!」
アルトリアは勢いよく立ち上がり、地図を掲げる。
その先には、まだ誰も知らない道がある。もしかすると、ほんとうに“何か”が待っているかもしれない。あるいは、何もないかもしれない。でも、ふたりでなら、そのどちらでも構わなかった。
“探す”ことそのものが、もう十分に宝物だったから。
影がゆっくりと伸びていく。
ふたりの足音は、木々のざわめきに溶けながら、まだ見ぬ森の奥へと向かっていく――。
物語は、終わらない。
「よーしっ、次はあっちの木の下、探検ターイム!」
アルトリアは飛び跳ねるように先頭を進む。ひらりとスカートの裾が揺れ、ポシェットが体の横でぽこぽこと跳ねる音がした。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、見て! キノコ! しかもなんか……ちょっと光ってない?」
「……いえ、それは湿気で表面が光沢を帯びているだけかと」
「ううん、違うってば。これはきっと、“光るきのこ界の王様”だよ!」
トネリコが目を細めて観察する横で、アルトリアは地面にしゃがみ込み、落ち葉の中から顔を出したその“それ”にわくわくした目を向けていた。
「これ、お話の中に出そう。名前は……“ルミナ・ルーチェ”! 月の雫から生まれた、夜にしか見えないきのこ!」
「ふふ、名前の付け方が詩的ですね」
「えへへ、今思いついたの。わたし、やっぱり物語考えるの、好きだなぁ」
そう呟いた彼女の頬は、さっきよりもほんのり赤く染まっていた。トネリコはその横顔をそっと見つめながら、地図の端に“ルミナ・ルーチェ発見地点”と記した。
「……行きましょうか。まだ、この奥に何かある気がします」
「うん!」
ふたりはまた歩き出す。小枝を踏む音、葉が肩に触れる感触、どこかで羽ばたいた鳥の気配――すべてが小さな冒険の証だった。
やがて、背の高いシダが生い茂る地帯にさしかかる。
「なんか、ジャングルっぽいね……お姉ちゃん、こういうときはこうするんだよっ」
アルトリアは落ちていた小枝を拾うと、シャッと音を立てて草をかきわけながら前へ進む。
「見て! 勇者アーサーの“切り拓く枝”!」
「はしたない真似は……と、思いましたが……なるほど、これは便利ですね」
トネリコも控えめに別の枝を手に取り、草をかきわけながら慎重に進む。
「お姉ちゃんが、ちょっとだけかっこいい……!」
「たった“ちょっとだけ”ですか」
軽口を交わしながらも、ふたりの呼吸はだんだんと合ってくる。気づけば、互いに顔を見なくても、どちらがどこにいるか分かるような感覚が生まれていた。
そして、シダを抜けた先――
「……うわぁ」
ふたり同時に、声が漏れた。
そこには、小さな水たまりのような泉があった。まるで鏡のように澄んだ水面は、林の木々を逆さに映し、空までもがその中に溶け込んでいる。
「……きれい」
アルトリアが、ぽつりと呟いた。
「お姉ちゃん、ここ、絶対地図に描こう」
「“鏡の泉”……とでも名付けておきましょうか」
ふたりは泉の縁に並んで腰を下ろす。しばらくのあいだ、風の音と、水面に落ちる葉の音だけが響いた。
「ねぇ……私たちだけで、こんな場所を見つけられるなんて、すごくない?」
「……ええ。物語ではなく、現実で見つけられたのですから」
アルトリアはふふっと笑って、空を見上げた。
その先に何があるのかは、まだ誰にも分からない。でも、ふたりで進む限り、その先にはいつだって何かが待っている。
次はどんな発見があるだろう。
そう思うだけで、心が躍った。
トネリコは静かに立ち上がると、アルトリアに手を差し伸べる。
「……もうひとつ、見つけましょう。何か、特別なものを」
「うんっ!」
その手を取ったアルトリアは、もう一度だけ水面を振り返り――そして、駆け出す。
姉も、それに続いた。
木々の奥で、また何かが待っている。
ふたりの冒険は、まだ、終わらない。
木々の間を抜ける風が、ふたりの髪を優しく撫でていく。
アルトリアの笑い声が、林の奥にまで伸びていった。走る足音、息を切らす声、それを追いかけるトネリコの控えめな足取り。その対比すら、今は心地よいリズムだった。
「お姉ちゃん、次はね、“しゃべるきのこ”を探すの!」
「それはまた、急に幻想寄りな……」
「いいのっ。見つからなかったら、いることにしちゃえばいいの」
アルトリアの言葉に、トネリコは微笑んだ。子どものような無邪気さ。けれどそれは、ただの思いつきではない。この林を、ただの林で終わらせたくないという、彼女なりの願いのようにも思えた。
「では、しゃべるきのこに出会ったら、まずは丁寧に挨拶しましょう。無礼な態度は禁物ですよ?」
「うん。『こんにちは、私は勇者アーサー! あなたの話、聞かせてください!』って言うんだー」
その声が、本当に何かを呼び寄せてしまいそうなほど、空に響いていく。
落ち葉がさくさくと鳴る。細い枝をかき分け、草の匂いを吸い込むたび、胸の奥が少しだけ高鳴る。探検ごっこ。物語の延長。でも、それだけじゃない。
何かを、ふたりで見つけられるということ。
知らなかった場所に、足を踏み入れるということ。
それはもう、「ただの遊び」ではなく、ふたりだけの確かな冒険になっていた。
「お姉ちゃん、ちょっと来て!」
前方の木陰で、アルトリアが手招きしている。彼女の指さす先
「……これは……」
倒木の根元に、小さな窪み。その中に、まるでランプのようなかたちをした白いきのこが、静かに並んでいた。光ってはいない。けれど、空気が違った。少し、ひんやりと、柔らかくなるような感覚。
「ここ、なんか……秘密の場所っぽい……」
「……そうですね。誰かが物語のために隠しておいた、舞台裏のような」
ふたりは、息を潜めるようにしてその場所に座り込む。言葉が途切れる。風が葉を揺らす音だけが、時間の代わりに流れていた。
しばらくして、アルトリアがぽつりと呟く。
「……お姉ちゃん」
「はい?」
「わたしね、いつか、この地図の続きを描きたいなって思ってたの」
「……続きを?」
「うん。この森の奥の、もっとずっと先の場所。きのこが街になってるとか、お話を話す泉があるとか。そういうの、見つけたくて……でもね、ひとりだと、ちょっと怖くて」
その声は、どこか不安げで。でも、決して後ろ向きではなかった。
トネリコは、そっと彼女の肩に手を添える。
「あなたが望むなら。わたしは、何度でも付き合いますよ。物語の先でも、そのもっと先でも」
「……ほんとに?」
「ええ」
アルトリアの顔が、ぱっと明るくなる。
「じゃあっ、今日の地図には、“ここはまだ秘密の入口”って書く!」
「そうですね。“未来の冒険へつながる道”……とでも付記しておきましょう」
小さな声で笑い合いながら、ふたりはまた立ち上がる。
次にどこへ行くのかは、決まっていない。
でも、今なら分かる。
どこへでも行ける。
その気持ちさえあれば、木漏れ日すら地図になる。
物語の幕は、まだ上がったばかりだ。