トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
昼下がり、田舎の家の縁側で、アルトリアは仰向けになって空を見上げていた。顔の上に置かれたタオルが、風にふわりと揺れる。
「……お姉ちゃーん、麦茶がなくなりましたあ」
廊下の向こうから届くその声に、トネリコは手を止める。ちょうど風鈴がひとつ、かしゃりと揺れて音を立てた。
「あなた、さっきも飲んだばかりでしょう?」
「それは過去のこと。今は、今の渇きと戦っているのです!」
「麦茶を飲むだけで、まるで戦場みたいなことを言わないでください」
トネリコはエプロンの裾を直しながら台所へ戻る。冷蔵庫を開けると、中にはほんの少しだけ残った麦茶の瓶。それを見て、彼女は一瞬、困ったように眉を寄せた。
(この分だと、あの子ひとりで全部飲み干しそうですね……)
念のため、庭に干してあったすだれを取り込もうと縁側へ向かう――そのときだった。
「うわあっ!」
「……今の声はアルトリア!?」
慌てて駆けつけたトネリコが目にしたのは、風にあおられたすだれが、見事にアルトリアの顔面へダイブを決めた瞬間だった。
「す、すだれが空を飛んできた……!」
「ええ、それはあなたが物干し竿を半分しか結んでいなかったからです。昨日も言いましたよね?」
「空飛ぶ布が私に襲いかかるなんて、これはもう……呪われたすだれ事件!」
「違います、ただの不注意です」
そう言いながらも、トネリコは手を伸ばしてすだれを整える。ふたりの間に、一拍の沈黙が落ちる。
「……お姉ちゃん」
「はい?」
「麦茶、まだですか?」
「麦茶を言い訳にしないでください」
けれど、トネリコの口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。こうして今日もまた、日常という名の“事件”は、少しずつ形を変えて続いていく。
そしてその頃――台所の麦茶の瓶は、ひっそりと空になった。
「お姉ちゃーん、麦茶がまだ届いておりませーん!」
「……はいはい、今持っていきます」
ふたたび呼ばれて、トネリコは苦笑しながら台所へ戻る。すだれ騒動のせいか、妙に空気が静かになっていた。
瓶の中は、やっぱり空っぽ。
「仕方ありませんね……」
麦茶のパックを新しく取り出し、急冷ポットに注ぎ入れる。その手つきは慣れたものだったが、どこか気の抜けたような音が、湯の注がれる口からこぼれていた。
(あの子が大騒ぎしてるうちは、家の中もにぎやかでいいのですけれど……)
そう思いながら縁側へ戻ると、アルトリアは同じ場所で、今度はうつぶせになっていた。
「……なにしてるんですか?」
「虫の声を聞いてたの」
「まだ陽が高いですよ? そんなに鳴いてはいないはず……」
「ちがうの。ほら、畳の下。なにか鳴いてる」
――きしっ、きしっ。
確かに、微かに聞こえる。
それは畳の軋みかと思ったが、妙に規則正しい。耳を澄ませていると、どこかから別の音も重なる。
――ぴちゃ、ぴちゃ。
「……水の音?」
「でしょでしょ? なんかこのへん、床下に秘密基地とかあるんじゃない?」
「ありません」
即答しつつも、トネリコは縁側に正座して、耳を傾ける。すると確かに、風が吹きぬける音の裏で、何かがぽちゃん、ぽちゃんと小さく響いていた。
「地下の湧き水とか……?」
「だったら今日から麦茶冷やせるよ!」
「そういう発想になるのが、あなたらしいですね」
アルトリアは畳の上に寝転がり、顔だけをこちらに向ける。
「このおうちって、なんかいろんな音がするよね。ときどき不思議なやつ」
「古い家ですから、木も鳴きますし……風も入りやすいですし」
「でも、やだなって思ったこと、一回もないんだ。全部、お姉ちゃんと住んでる音だから」
ふと、トネリコの手が止まった。
アルトリアは何気なく言っただけかもしれない。だけど、その一言が妙に胸の奥に静かに響いた。
「……今の言葉は、瓶に詰めて保存しておきたいくらいですね」
「それいいね! 麦茶ができるまで、瓶とラベル持ってくる!」
「まだ瓶に詰めるつもりですか……」
そう言いながらも、トネリコの声にはどこか穏やかさがあった。
そして数分後。
麦茶はできあがり、冷たいグラスに注がれた。
ふたりで肩を並べて、縁側で一緒に飲む。
「うん、やっぱり冷たい麦茶は、さいこう」
「……ええ、そうですね。これは“縁側の麦茶の音”ということにしておきましょうか」
アルトリアはラベルに、ひらがなで書き込んだ。
「お姉ちゃんと 麦茶を飲む音」
そして、ふたりのまわりには、また今日だけの音がやさしく満ちていった。
アルトリアが走った。瓶を求めて、全力で。
トネリコはその後ろ姿を見送りながら、麦茶のグラスをひと口。
「……せめて走る前にコースターを敷いてください」
ぽつりと呟いたけれど、本人には届かない。
ぺたぺた、どたどた。勢いそのまま廊下を滑るように曲がって、戸棚の前でスライディング気味に止まった気配がする。
「よし、いたぞ瓶たち……! 君たちの出番だッ!」
なんのナレーションだろうとトネリコは思いながら、そっと麦茶をもう一口。冷たい。
「瓶が……ない? あれ? ラベルもない? おかしいな、昨日ちゃんと……」
戸棚の奥をごそごそ、引き出しをがらがら、紙の束をばさばさ。
家じゅうの音を鳴らして、アルトリアは今日も生きている。
「……こらえきれませんね」
笑いをこらえるのを諦めたトネリコは、冷蔵庫の製氷皿に視線を移しながら、次の麦茶の準備を始める。
すると、廊下の奥から絶叫。
「お姉ちゃんっっ! シール台紙がどこにもないのです!」
「“台紙”って……あの百円ショップで買った星柄の?」
「そうそう! あれがないと、“とくべつな音”の瓶が完成しない……!」
焦ったように駆け戻ってくる妹の足音は、音でわかる。玄関のマットを踏みしめて鳴る「ぎゅっ」という音まで、愛おしいほどに正確だ。
「わたしの“お姉ちゃんの声”の瓶が……空っぽのままになってしまうっ……!」
トネリコはゆっくりと蛇口を閉じ、タオルで手を拭きながら振り返った。
「では……今日の私は、あなたの中で“ラベルのない存在”なのですね」
「違うのっ、そんな意味じゃなくてっ……!」
全力で否定しながらアルトリアが詰め寄ってくる。タオルを振り回すその勢いに、台所の椅子が少しだけがたんと揺れた。
「……ああもう、わかりました。探しましょう、いっしょに」
「ほんとう!?」
「ええ。でもまずは麦茶を飲みきってから。そうでないと、また“渇きの呪い”と戦う羽目になりますから」
「お姉ちゃんって、ほんとに時々、詩人っぽいこと言うよね!」
「……その言い方は、ほめていますか?」
「もちろん。五割くらいは!」
残りの五割に何があるのかは、聞かないことにした。
トネリコが新しい麦茶を注ぐと、アルトリアは即座に正座して構えた。
その表情はまるで、重大な儀式に臨むかのような真剣さで。
「いただきます!」
「はい、召し上がれ。麦茶の神様に感謝を忘れずに」
「かんしゃします。まことに。ありがたやありがたやっ……!」
何の宗派だろうと疑問に思いつつ、トネリコも隣に腰を下ろした。
冷たい麦茶がふたたび喉を潤す。ほんの少し、ふたりの間に、さっきより静かな風が通った。
……そして。
「……ところでお姉ちゃん、さっきの音、まだ聞こえてるよ」
「え?」
「ぽちゃん、って……。今もね」
確かに。台所の奥の方から、また――
ぽちゃん
トネリコは眉をひそめた。さっきは、空耳だと思っていた。でもこれは、確かに。
「まさか、また……麦茶の瓶、割れてませんよね?」
「まさか……。でも、音は下のほうだよ?」
ふたりは視線を合わせ、ゆっくりと首を傾けた。
床の下――ぽちゃん。
廊下の端――ぽちゃん。
縁側のすみっこ――ぽちゃん。
「……これはもう、“別の事件”かもしれませんね」
「お姉ちゃん、いま“事件”って言った! わたし、瓶の準備してくる!」
「ですから、まずはラベルを探してくださいと言ったでしょう!」
またしても走り去る妹の後ろ姿に、トネリコは額を押さえる。
それでも口元は、笑っていた。
――ぽちゃん。
その音がまだ、家のどこかで響いているとは知らずに。
再び台所の隅に戻ってきたトネリコは、音を探るようにそっと足を止めた。
ぽちゃん。
まただ。さっきと同じ、けれどさっきより少しだけ近く感じる水音。
心なしか、空気がひんやりしている。冷蔵庫の扉が開いているわけでもないのに、耳の奥が静かになるような、独特の感覚。
視線を落とすと、床の板の継ぎ目。そのすぐ脇、壁との境のあたりに、ごく細く、けれどはっきりと濡れている筋が走っていた。
――水。
え? と声にならない声が喉の奥でくすぶる。
どこから?
「お姉ちゃーん、ラベル見つかったよーっ!」
廊下の向こうから、弾けるような声が響く。トネリコはびくりと肩を揺らした。
「少しは静かにしてくださ……」
言いかけたそのときだった。
ぽちゃん。
今度は、トネリコの真下――まるで床の裏から響いたような気がした。
「……え?」
思わず足を一歩引いた。板の軋みが、ひときわ大きく耳に残る。
その場にしゃがみこみ、もう一度、耳を床に近づける。
壁に手をついて、そっと顔を傾けてみると――
ぽちゃん。
静かな音。やわらかく、深い。
だけど、そこには恐怖も不安もなかった。ただ、不思議な気持ちだけが残る。
あたたかいはずの家の中に、見えない小さな“水たまり”があるみたいで、それが妙に愛おしくすら感じられた。
「お姉ちゃん? 床に耳くっつけて、なにしてるの……?」
後ろでアルトリアが、瓶を両手に持って立っていた。
「……音の正体、まだわかりません。でも、どうやら本当に“ここ”から出ているようです」
「えっ、ほんとに? えっ、待って、それって、うちの中に小さな池があるってこと?」
「まさか。そんな都合よく“瓶詰めしやすい池”があってたまりますか」
けれど、言いながらも、トネリコの声はどこか柔らかくなっていた。
「ふふっ……だったらわたし、池の番人になる。ちゃんと見張って、大事な音を守る!」
「池というより、たぶんただの結露か漏水だと思いますが」
「でも、今日のこの音は、“秘密の音”だと思うな。昼の間にしか聞こえないやつ。夏の家だけの、ひみつのやつ」
アルトリアはまるで宝物でも見つけたように、足元の床をそっと指差す。
その指先のほんのわずか先に、うっすらと小さな水の輪がひとつ、静かに光っていた。
「ね、お姉ちゃん。これも瓶に入れていいかな?」
言いながら、ラベルシールを取り出して、ペンを構える。
トネリコは少し悩むように目を細め、やがて頷いた。
「……では、“ぽちゃんの音”の瓶。条件つきで許可します」
「やった!」
「ただし、ふたつ、守ること」
「うん!」
「まず、ふたを閉めたあとは、二度と開けてはダメ。音は逃げます」
「はいっ!」
「そしてもうひとつ。今日聞いた“ぽちゃん”と、明日聞く“ぽちゃん”は、きっと違う音です。明日また聞こえたら、それも瓶に入れてあげてください」
「……あ、なんかわかる。音って、一回きりな感じするもんね」
「ええ。今日の音は、今日のあなたのためだけの音ですから」
アルトリアはうなずきながら、そっとラベルに文字を書く。
ぽちゃん(おひるのきおく)
ちょっとへたくそなひらがな。それでも、その字が瓶にぴたりと貼られた瞬間、小さな音が、心のどこかに沈んでいった気がした。
不思議と、満たされたような気持ちになる。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「麦茶はあとでいいですか?」
「うん。今はこの音を、しずかに聞きたい」
ふたりはそのまま、床に並んで座り込んだ。
外では風鈴が、もう一度、かしゃりと鳴った。
そして、ぽちゃん。
家のどこかで、小さな水音が、ふたりの間をそっとつなぎつづけていた。
「お姉ちゃーん! ラベル台紙、あったー!」
アルトリアが廊下の端から全力で叫びながら走ってくる。なぜか両手を頭上に掲げていて、まるで優勝トロフィーでも持っているようなテンションだ。
「……あったのは、百円ショップの星柄のですよね?」
「もちろん! 特別な音には特別な星が必要でしょ!」
「星柄に音の記憶保存能力があるとは知りませんでした」
「あるのです、たぶん。気持ちの問題です!」
トネリコは諦めたようにため息をひとつ。それを聞いても気にせず、アルトリアは目の前でどすんと正座した。
「さあ、例の“ぽちゃんの音”。今からそれを瓶詰めします!」
「……その瓶、洗ってありますか?」
「たぶん! たぶんは希望!」
「希望ではお腹もふくれませんし、音も保存できませんよ」
「じゃあ洗ってきますっ!」
びたーん!
立ち上がった勢いで瓶の底が畳に直撃。その音が意外に重厚だった。
「今の音も、ちょっと良かったな……“瓶ががんばる音”って感じ」
「わたしの心音が止まりそうでしたけれど」
「うんうん、それも含めて保存しておこう」
「勝手に私を収蔵品にしないでください」
それでも結局、トネリコは付き合ってあげる。麦茶の冷えを確認してから、ちょっと腰を浮かせて、再び床の方へ耳を傾けてみる。
ぽちゃん。
また、音がした。確かに下の方。前より少し、遠くなったような……?
「……お姉ちゃん、いまの聞いた?」
「ええ、確かに“ぽちゃん”と……」
「これは……もしかして、“移動型ぽちゃん”……!?」
「なにその敵キャラみたいな呼び方」
「ぽちゃんは今、家の中を旅してるんだよ、音の妖精みたいに……!」
「音の精霊が麦茶のそばを通るんですか?」
「通るよ! 音の巡礼路!」
「その理屈でいくと、私たちも“麦茶信仰の村人”みたいになりますよ」
アルトリアは瓶を両手で握りしめ、きゅっと目をつぶった。
「いま……瓶にお願いしてるの。“ぽちゃんの音、きちんと入ってください”って」
「それ、お願い先が瓶でいいんですか?」
「うん、だって、録音できないもん!」
「あなたの声のほうがうるさくて、ぽちゃん逃げてそうです」
そのとき、トネリコの耳がぴくりと反応する。
ぽちゃん。
……ごく近い。
今度は、床の間。ちょうどふたりの座っている位置のすぐ後ろ、畳の縁の奥――壁との隙間あたりで、確かに聞こえた。
ふたりは顔を見合わせる。
「……お姉ちゃん」
「……はい」
「今の、“捕獲チャンス”では?」
「ゲームみたいに言わないでください」
アルトリアはそろりと瓶を構えて、そろそろと瓶の口を畳に近づける。
息を止めて、瓶を静かに傾ける――
ぽちゃん。
その瞬間、瓶の中で何かが……もちろん何もない。音だけが、脳裏に染み込んでいく。
「よし……入ったっぽい!」
「“っぽい”ですか」
「よし、名前決めよう。“ぽちゃん・しもだん”にする!」
「えっ、名字あるんですかその音」
「うん、なんか下段から聞こえたから」
「そういう理由なら、さっきの“ぽちゃん・かべぞい”も登録されそうですね……」
「瓶、もう一本あるからいける!」
「わたしの台所に音の住民票を作らないでください」
気がつけば、麦茶はぬるくなりかけていた。
けれど、ふたりはまだ瓶を持ったまま、畳に顔を押し当てて、音の妖精の気配を探している。
瓶を耳に当てては「今しゃべったかも」と騒ぎ、畳を指で叩いて「返事がある!」と目を輝かせている。
トネリコはもう、麦茶のことを忘れかけていた。
でも、ちょっとだけ思う。
こういう日がいちばん、“音が多い日”なのかもしれない。
そして。
ぽちゃん。
また、どこかで聞こえた。今度は……天井?
「お姉ちゃん、音が、上に……!」
「次回、空飛ぶぽちゃん編、ですか?」
「準備します! ラベルも、ふせんも、クリップも!」
「せめて麦茶だけは先に飲んでください……!」
今日もまた、家中を巻き込んで、“ただの音”が騒がしく転がっていく――