トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
「……その瓶、倒さないように気をつけてくださいね。せっかく捕まえた“ぽちゃん”が逃げてしまいますから」
「はいっ、了解です! わたし、絶対に守る。この瓶だけは、何があっても……!」
ぴしっと正座しながら言うアルトリアの目は、まるで歴戦の番人であるかのように輝いていた。両手のひらで瓶を大事そうに包み込み、どことなく神聖な儀式の最中のようでもある。
「……ねえ、お姉ちゃん。これって、わたしの声も入っちゃってると思う?」
「それは……」
トネリコは少し考えてから、口元にうっすら笑みを浮かべた。
「ええ、きっと“ぽちゃん”の隣に、あなたの叫び声が並んでいるでしょうね。瓶の中で、ずいぶん騒がしく共存しているかと」
「共存!? それじゃあまるで“音の相部屋”じゃない! 静寂に敬意を……!」
「自分の声が一番うるさかったことには、目をつぶるのですね」
そのやりとりの最中にも、縁側の向こうで風が通り、柱の影を揺らしていった。夏の音が、家の中にそっと染み込んでくる。
「ところで……」
アルトリアが急に、瓶を頭の上に掲げて、しげしげと見つめる。
「この中に、もし妖精がいたら……名前つけてあげたほうがいいと思わない?」
「なぜ瓶の妖精に名付けようとするのですか……」
「だって、“ぽちゃん”ってあだ名みたいだし、本名はちゃんと別にあるかも!」
「……それを言い出すと、私たちの家の中が、名前だらけになりますよ」
トネリコは冷えた麦茶をひと口飲んで、ゆっくりとグラスを置いた。
その音すらも、どこか特別な響きに聞こえる気がする。
「……では、仮にその“妖精さん”に名前をつけるとしたら?」
「うーん……“ぽちぇりん”とかどうかな!」
「急に擬音と妖精っぽさの中間みたいな響きですね」
「でしょ? この瓶は“ぽちぇりんのすみか”!」
「正式名称まで……。棚に置くとき、要注意ですね」
「お姉ちゃん、今の発言は“名前呼び捨て禁止条例”に違反してます」
「そんな条例、知りません」
ひとしきり笑ったあと、ふたりはまた、畳の上にごろんと転がった。
天井を見上げると、さっきよりも少しだけ、光が傾いている気がする。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「はい?」
「ぽちぇりんの声って、聞こえると思う?」
トネリコはふと、横目でアルトリアの顔を見た。
真剣だ。本気で聞いている。
「……それは、その瓶を持ってる人にしか聞こえないんだと思います」
「え?」
「あなたが感じた音、あなたがつけた名前。その全部が、あなたとその瓶だけのものですから」
「……じゃあ、“ぽちぇりん”はわたしの……友だち?」
「ふふ。そうかもしれませんね」
その言葉に、アルトリアの表情がぱっと明るくなる。
瓶を大事そうに抱え込み、ふにゃりと笑った。
「よーし。ぽちぇりんには、毎日声かけることにする!」
「朝の挨拶も、おやすみも、ですか?」
「うん! あと、“瓶磨き”の時間もつくる」
「……私はその間、麦茶係に徹することにします」
廊下の向こうで、どこかの柱がきしんだ。
ふたりは声を止めて、そっと耳を澄ます。
――ぽたん。
音が、またひとつ。
今度は……まるで、瓶の中から響いたかのような。
アルトリアは、きゅっと瓶を抱きしめた。
「……今の、聞こえた?」
「……ええ。確かに」
ふたりは、音の出どころを探すでもなく、ただ黙って、微笑み合う。
その静けさのなかに、言葉にならない何かがゆっくりと満ちていった。
でも、そのまま終わるわけがない。
「――あっ!」
突如、アルトリアが跳ね起きる。
「忘れてた! 次の瓶、用意しなきゃ! “ぽたん”は“ぽちゃん”とは別個体かもしれない!」
「また名前を……!」
「名前は正義! 音に失礼のないようにっ!」
「麦茶の氷、溶けてきてますよ……!」
こうして、瓶の精霊と音の命名ごっこは、まだまだ続いていく。
――音があるかぎり、瓶は増え続ける。
「わたしの台所に音の住民票を作らないでください」
そう言いながらも、トネリコはすっかり諦めの表情で麦茶をひと口。
冷えていない。けれど、それどころではなかった。
なにせ今、妹が――
「ふふふ……これで、“しもだん”と“かべぞい”の両妖精が登録完了。アルトリア町役場、開庁ですっ!」
妖精の名簿とされるメモ帳に、まるで自治体の住民台帳でも作るように、アルトリアはひらがなを並べていく。
しかも星シール付き。
「お姉ちゃん、こういうのってカテゴリ分け必要だよね?」
「必要……ですか?」
「うん。たとえば“ぽちゃん属”の中でも、“しもだん科”と“かべぞい科”みたいな感じで!」
「急に生物学的な進化を……」
「最終的には図鑑になる予定だから」
「音の妖精図鑑……あなた、最終的に何ページ作る気ですか」
「できるだけ多く!」
「その熱意、宿題にも分けてください」
アルトリアは瓶を両手に持ったまま、得意げに胸を張った。
「だって、音ってさ、消えちゃうじゃん。だからこうして、名前と場所を残してあげたいの。忘れられないように」
その言葉に、トネリコの手がふと止まる。
一瞬だけ、ふたりの間に風が吹いた。風鈴が、からんと音を立てる。
「……そうですね。消えないように、か」
「うん」
「でも、瓶の中に棲むって、あなたの想像の中だけですよ?」
「ちがうよ?」
アルトリアは瓶をゆっくりと回して、光にかざした。
「この中に、ちゃんといるんだよ。妖精が」
その声はふざけているようで、でもほんの少し、まじめで。
トネリコはつい、言葉を返すタイミングを逸した。
「ねえ、お姉ちゃん。もし妖精がお願いを聞いてくれるなら、なに頼む?」
「妖精に、ですか?」
「うん。わたしはね……麦茶が減らない呪文がいいな!」
「まずはあなたの消費量を見直しましょう」
また笑い声がこぼれる。だけど瓶の中には、静かなまま。
そこに本当に“誰か”がいるかどうかは分からない。けれど、確かに、音があったことは残っている。
「……じゃあ、わたしは」
「え?」
「毎日、違う音が聞こえるようにって、お願いしましょうか」
「……わっ、それ、いいな」
「でも、それだと瓶が無限に増えていく気がします」
「大丈夫! ちゃんと棚買うから!」
「……麦茶のスペースも残しておいてくださいね」
ぽこん。
まるで会話に応じるように、また家のどこかから音がした。
今度は、どこだ?
ふたりが顔を見合わせ、同時に口を開いた。
「今のは――ぽちゃん・にかい!?(仮)」
もう、静かな午後は、すっかり妖精たちの役所と化していた。
そして、名前のついた音がひとつ、またひとつ。
「今のは――ぽちゃん・にかい!?(仮)」
ふたりの声がぴったり重なって、家中に響く。
風鈴がその上から「それ採用」とでも言いたげに、からん、とひとつ鳴った。
「……お姉ちゃん、これはもう正式登録してもいいよね?」
「いいえ、“にかい”というのはあくまで仮称です。
まずは発生源を確認してから――」
ぽちゃん。
「……採用です」
「やったぁ!」
アルトリアはラベルセットを引き出しから取り出し、すでに貼る気満々。
「ぽちゃん・にかい、星ラベルの青! “響き系おちつき型”と判断しました!」
「分類の根拠はどこに……?」
「気分です!」
「安定の感性分類ですね……」
瓶を両手で抱えて立ち上がると、アルトリアは本気の顔になった。
「よし……今から二階の妖精に、友好の挨拶をしてくる!」
「えっ、行くんですか?」
「うん! 瓶持って!」
「……瓶、外交用なんですね」
トネリコは軽く目を伏せたあと、麦茶をもう一口。
うっすらぬるいその味が、今日の進行具合をそっと教えてくれる。
階段をばたばたと駆け上がる足音。
「妖精さ〜ん、アルトリアですよ〜! “ぽちゃん・にかい”さん、ご在宅ですか〜!」
「呼び鈴じゃなくて瓶を鳴らしてどうするんですか!」
「あ、でもなんか……空気、ちょっと違う!」
「それは多分、熱がこもってるだけです」
「いや、これは妖精の気配! 感じるよ! すごく!」
「窓開けてください、それでだいぶ解決します」
そのやりとりをしながら、二階の床をぺたぺた歩き回る音がする。
トネリコはゆっくりと扇風機のスイッチを入れて、首を横に振った。
(あの子……今日はずっと、音と話してる)
瓶に耳をあてて何かを信じて、ラベルに名前をつけて。
誰もいないはずの場所に手を振って、そこにちゃんと「誰かがいる」って思える。
トネリコの手元の瓶に、そっと指を添える。
「見えなくても、いると思えば――心が少し、騒がしくなります」
そのとき。
ドン!
階上から聞こえる謎の音。
「お姉ちゃーん!! “ぽちゃん・にかい”じゃなくて、たぶん“ぽこぽこ・たんすおく”の気配だよ!!」
「名前長くなってますよ!」
「足元からの振動系妖精です!! たんすがぽこぽこ言ってるのです!!」
「それ、ただの木のきしみでは……」
「今、決めた!!」
ふたりの声が家の中を上下に交差していく。
木造の家が、今日もまた、音と名前と想像で満ちていく。
階下には麦茶と瓶。
階上には名前を待つ妖精がいるかもしれない。
そしてふたりのやりとりが、この家の屋根を超えて、どこまでも響いていく気がした――
……そのとき。
ごとん。
台所の奥、物置の方から――
今度は、確かに、ひとつ棚が揺れるような音が。
「…………今のは」
「“ぽこん・しろいはこ”の気配……!!」
「アルトリア!? いつ降りてきたんですか!?」
「新種ですお姉ちゃん! 保存の準備を!」
「いえ、とりあえず冷蔵庫の麦茶を補充しましょう! 妖精は後でいいです!!」
家中がバタバタしているのに、
どういうわけか、今日の風鈴はずっと上機嫌だった。
その夜、家の中はすっかり静まり返っていた。
……のはずだった。
「……お姉ちゃーん……!」
耳元に忍び寄る声で、トネリコは目を開ける。
時計の針は、夜更けをまわっていた。
「なにかあったんですか……?」
「しーっ。声ひそめて!」
アルトリアはパジャマのまま、手に瓶とメモ帳と、そして――方眼ノート。
「さっき、“ふわーん”って聞こえたの。だから新しい名前、登録しなきゃって……」
「夜中にですか……」
「これは“夜のやわらか属”だと思う!」
「……柔らかそうですね」
トネリコは、眠気に負けそうな頭でそれだけ返すと、そっと枕に顔を戻す。が。
「それでね、それでね、お姉ちゃん」
「……まだあるんですか」
「せっかくだから、地図作ろうと思うの」
「……地図?」
「うん。音の、ね」
そう言って、アルトリアはノートの見開きをパッと開く。
家の間取り図らしきものが描かれていて、ところどころに小さなシールや丸い印が並んでいた。
「これが“ぽちゃん”でしょ、こっちが“しもだん”で、ここが“かべぞい”の登録地!」
「思った以上に正確で、ちょっと悔しいです」
「音の地図があれば、きっと迷子にならないと思うんだ。知らない音にも、帰る場所ができるから」
その言葉に、トネリコはふとまぶたを開け直した。
「……それは、素敵ですね」
「でしょ?」
「でも今夜は、あなたも“ねむけ属”に分類される時間ですよ」
「えっ、わたし? じゃあ“まぶた・とろん科”? “ふらふら・あくび型”? “うとうと・布団親和型”!?」
「どれでもいいので、布団に戻りましょうね」
「はーい……」
そう言いつつ、アルトリアは最後にノートの角にひとつ、星の印を描き加えた。
その横には、小さな文字で、
> 「ふわーん:音源不明・ひとりでに響く・分類未定」
と記されていた。
「お姉ちゃん」
「はい?」
「わたし、この家に聞こえる音、ぜんぶ覚えたいんだ」
「……それは、なんのために?」
「うーん……なんとなく? でも、名前があると、消えない気がするんだよね。音も、気持ちも」
トネリコは、返事の代わりに笑った。
そして手を伸ばして、妹の頭をぽんとひとつ、撫でた。
「じゃあ……寝る前に、今日の締めを聞きましょうか」
「うん!」
アルトリアは小さく咳払いをして、瓶を胸に抱きしめると、まるで朝礼の司会者のように言った。
「本日確認された音は、ぽちゃん属2個体、しろいはこ属1個体、ふたおと型1個体、しゅるしゅる型1件、ふわーん属1件で、合計……5件!」
「ごくろうさまです」
「以上、音の住人たちの一日でした! おやすみなさーい!」
布団にダイブしたその背中を見届けながら、トネリコは再びまぶたを閉じる。
眠りの向こうで、まだ名もない音が、どこかでそっと息をしているような気がした。
そしてその夜、廊下のどこかで――
「……ぺと、って言った?」
アルトリアの声が、布団の中でひそやかに響いた。
「明日、“ぺと・しきもの”って登録しよ……」
布団の中でノートを取り出そうとする音がもぞもぞと鳴る。
「ちょっと、寝ながら書く気ですか?」
「うん……夢の中でも業務継続……アルトリア町役場は24時間営業だから……」
「ブラック企業ですね」
「ホワイトです! 制服がパジャマなので!」
そのまま寝言のように、アルトリアの口元がにへらと笑う。
まぶたはもう、とろんと落ちかけていた。
「……“ぺと・しきもの”……触ると冷たくて、たぶん……麦茶の亡霊……」
「あなたの足音で麦茶が反撃した可能性もありますよ」
「“ぶしゅー・こぼれ”とか……登録しなきゃ……」
「やめてください、それは事故です」
アルトリアはそのまま、瓶を抱えたまま寝息を立て始めた。
トネリコはそっとその髪をかき上げて、布団の端を引き寄せた。
「……明日は、新しい棚を探さないといけませんね」
麦茶と瓶と、名もなき音と。
アルトリア町役場の仕事は、明日もたぶん、休みがない――。