トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
――そもそもの始まりは、あの一言だった。
「お姉ちゃんっ! 裏山の奥に秘密基地つくるから!」
その宣言を受け取ったトネリコの脳内で、カラスが三羽ほど一斉に鳴き叫んだような気がした。
「……秘密基地……ですか?」
問い返しながらも、すでに彼女の視線は物干し竿の洗濯物→今干したばかりの白シャツ→泥だらけ確定の裏山という風に、冷静かつ絶望的に情報を接続していた。
トネリコが茶を一口啜る間に、アルトリアがとんでもないことを言い放った。
「裏山に秘密基地つくるから、お姉ちゃんはスコップ係ね!」
「…………」
一瞬、風鈴の音が止んだような気がした。
「……アルトリア。今、わたしの役割が“スコップ係”と聞こえましたが、幻聴ではありませんか?」
「うん! だからさ、スコップもってきて! あとタオルと軍手とおやつもよろしく!」
幻聴どころか現実だった。しかも要求が増えている。
「……それは、“基地建設”というより“作業員募集”では……」
トネリコは静かに立ち上がり、心の中で何か大事なものを一枚、棚にしまった。
この家では、アルトリアの発言が法であり、反論はだいたい無意味だったからだ。
「うん! 木の間に板張って、こう、隠れ家っぽくするの!」
両手をぶんぶん振り回しながら夢を語るアルトリア。ちなみに右手にはスコップ、左手には割とガチな登山リュック。
「それって……一時間で帰るとか、そういう遊びではないのですね?」
「最低でも三時間! おやつは五百円以内!」
「遠足ですか!?」
ひとまず、洗濯物の取り込みは後回しになった。
裏山というのは、実際にはそこまで標高があるわけではない。ただ、道があるようでないのが厄介だった。草の背丈は高く、道の両側からトゲ付きの植物がチクチクと服をひっかけてくる。
「ちょ、ちょっと待ってください、アルトリア、今わたしのスカートが……」
草むらにしゃがみこんで裾をほどくトネリコの背に、アルトリアの声が遠ざかっていく。
「えー? お姉ちゃん、遅いよー! はやくしないと、秘密基地の場所、ウサギに取られちゃうよ!」
誰ですかそのウサギは。なぜ彼らに先を越される前提なのですか。
そんな心のツッコミを飲み込みつつ、トネリコは立ち上がり、小さくため息を吐いた。
「――はぁ。もう……付き合いきれません」
そう言いながらも、彼女の足はまた草をかきわけて進み始める。靴の中に入った小石がごりごりと足裏を刺激しながら。
「……え?」
視界の先、道が――ない。
いや、正確には、今まであったはずの“草のかき分けた痕”が、完全に消失している。
「……アルトリアさん?」
風に吹かれたのは、遠くから聞こえるカラスの声と、葉のこすれる音だけ。
「……アルトリア……?」
耳を澄ます。
何も聞こえない。
代わりに、己の心臓の音が大きくなっていくのが、いやにリアルだった。
「……まさか、とは思いますが」
急いで来た道を引き返そうとするが、踏み跡らしきものは不自然に途中で終わっている。
「…………」
まばらな木々の間から、光がちらちらと差し込む。でもそれが、帰る方向を示してくれるわけじゃない。
少しだけ、トネリコの背筋を汗が伝った。
「――迷いましたね、これは」
無駄に冷静な自分の声が、虚しく響いた。
その後、どこからか聞こえてきた猿のような鳴き声と、木を叩く音におびえながら、
トネリコはスカートの裾を片手で押さえつつ、本気でルート検索アプリを起動しようとスマホを取り出して圏外に絶望するという洗礼を受けることになる。
圏外表示のスマホを握りしめ、トネリコはしばらくその画面を見つめたまま、現実を受け止める時間をとった。いや、正確には、受け止めたくない時間だった。
「……いえ、大丈夫です。迷ったと言っても、所詮は裏山。近所の小学生でも入るような……」
と、言いかけて――彼女の脳内に、さっきアルトリアが言い放った言葉がリフレインする。
『最低でも三時間!』
「……小学生の入域範囲、余裕で超えてましたね……」
もう一度ため息。
そしてその場にしゃがみこみ、無意識に草をちぎっては丸めて指で転がす。まったく意味のない行動に、何となく精神のバランスを保とうとするあたり、自分でも健気だと思う。
「……とりあえず、方角だけでも……」
顔を上げ、木々の隙間から差す光を頼りに、日差しの角度で方角を読もうとする。
……が、トネリコは方位磁針を信用しておらず、太陽の角度など判別できない文化系だった。
「駄目ですね」
即断即結。
次の手段として、思いつく限りの「遭難したときにとるべき行動ベスト3」を心の中で唱えてみた。
① 大声で助けを呼ぶ → アルトリアにイジられそうなので却下
② 高いところに登ってみる → スカートなので却下
③ じっとして救助を待つ → 誰も探していない可能性を考えて恐怖で却下
「……全部、ダメではありませんか」
再び丸めた草を、ぽいと投げる。
小さな虫が飛び立ち、足元にいたアリが驚いたように逃げた。…それを見て、少しだけ罪悪感。
「……はあ。アルトリア、どこへ行ったんですか……」
小さくつぶやいても返事はない。代わりに、再び聞こえてきたのは、あの妙な「ギィィ……」という不気味な鳴き声。
「……猿じゃないですね。あれ、もしや……イノシシ……?」
冷や汗が、肩甲骨のあたりをつーっと下りていった。
だが、それでもトネリコは気丈だった。誰もいないのをいいことに、小声で感情の発露を試みる。
「……ああもう……やっぱり来るんじゃなかった……!」
地団駄は踏まない。品位を保つためだ。
でも心の中では三回踏んだ。
そのまま静かに立ち上がり、葉っぱを払う。スカートの端に引っかかったイガの実がチクチクと刺さり、軽く飛び跳ねた。
「い、痛っ!? ……だれです、こんな罠みたいな実を落としたのは!」
その声に反応したかのように、またどこからか「ギィィィ……」と。
「……すみません! 怒ってませんので! 悪意はなかったんです、ほんとです!」
思わず謝罪するトネリコ。相手が誰かわからないのに、丁寧に敬語を使うあたり、育ちの良さがにじみ出る。
数分後。
トネリコは手頃な切り株を見つけ、そこに腰をおろしていた。
特に進展はない。が、何もしないことで、少なくとも疲れが増えないという進歩はある。
木漏れ日が頬に当たり、うっすらと汗がにじんでいた。
「……アルトリアは……今どこで、何をしているのか……」
たぶん、どこかで元気にしているのだろう。たぶん、野生の生き物と遊んでいる。もしかしたら、ウサギと共同で基地を建て始めている可能性すらある。
「……あの子なら……有り得ますね」
溜め息とともに、ふと空を見上げると、青い空がまぶしく広がっていた。
夏ではない、でもどこか暑苦しくて、妙に静かな空気。
裏山という小さな世界の中で、トネリコはぽつんと取り残されていた。
――それでも、彼女は座ったまま、小さく笑った。
「……もう。ほんと、振り回されっぱなしですね、わたし……」
そして再び、立ち上がる。
「……まあ、いいです。アルトリアを探しにいきましょう。
万が一、あの子が木から降りられなくなって泣いていたら心配です……」
そう呟いて、トネリコは草を踏みしめた。
行き先は不明。でも、一歩だけ前へ。
……そして、その一歩目で足を滑らせ、見事に尻もちをつくのは、もう少し後のことである。
「……ああ、痛たた……っ」
尻もちをついたトネリコは、草の上に転がったまま空を見上げた。
頭上では、一匹のセミがびくっと動いたのを見て、彼女はつい敬語で謝ってしまう。
「……お騒がせしました。飛ぶならどうぞ……」
どこまでも律儀である。本人も「この性格、損してるのでは」と思うことはあるが、変えられないのがまた悩みだった。
そんなこんなで、再び立ち上がったその時だった。
――ガサガサッ!
茂みの向こうから音がした。
トネリコは一瞬、身構える。
「…………ッ!」
脳裏に過ぎるのは、さっきの得体の知れない鳴き声。まさか本当に野生の猿かイノシシが……?
と、思った次の瞬間。
「――あ、お姉ちゃーん!」
藪の向こうから飛び出してきたのは、汗だくでスコップを抱えたアルトリアだった。
「アルトリア……!!」
トネリコは本気で泣きそうになった。
だが、ここで泣いたら負けだと本能で理解していた。だからギリギリまで理性で踏みとどまる。
「もう……どこに行ってたんですか……!」
「えへへ~。リスについてったら道がね、無くなってね? で、ちょっとだけ木に登ったら、今度は下りられなくなっちゃって。そしたらリスがすっごい冷たい目で見てくるんだよ! “は? 自力で帰れよ”みたいな!」
「……それは……まあ……リスさんも、忙しいのでしょうね……」
ついリスの肩を持ってしまう自分に軽く自己嫌悪しながらも、アルトリアの無事が何よりだった。
「……でも、アルトリア。ケガはありませんか? どこかぶつけたり、木の枝で擦りむいたりとか……」
その声だけは、どこまでもやさしかった。
――そう、トネリコはアルトリアには、結局のところとても甘いのだった。
「んー、大丈夫大丈夫! ちょっとだけクモの巣に顔突っ込んだけど、精神的なダメージだけ!」
「それは……災難でしたね……」
内心「わたしも似たようなものです」と思いながらも、やっぱりトネリコの声は優しかった。
「でも……アルトリア、わたし、道に迷っていたのですよ」
「えー? お姉ちゃんが? まさか!」
「……ええ、本気でまさかでした」
スカートの裾を払いながら、自虐をひとつ挟む。
アルトリアは笑いながら、トネリコの手を取った。
「じゃ、今度はわたしが案内してあげるからさ! ほら、秘密の抜け道、見つけたんだよ。リスが教えてくれた!」
「リスと……意思疎通が……?」
「気のせいかも! でもたぶんこっち!」
そう言って茂みをかき分けて進むアルトリア。その背を、トネリコはしばし見つめる。
「……やれやれ。本当に……いつも予想の斜め上をいきますね、あなたは……」
だが、その目は優しい。とても。
「――でもまあ、もう少しくらいなら付き合ってあげます。スコップ係として……」
そう言いながら、彼女は草を踏みしめる。
まっすぐではないけれど、アルトリアの後を追う足取りは、さっきよりもずっと軽やかだった。
アルトリアの「抜け道」という案内を信じ、トネリコはその小さな背中を頼りに歩き出した。
──五分後。
そこにあったのは、見事な行き止まりだった。
「……アルトリア。これは……」
「うーん……なんでだろう? さっきは通れたんだけどなあ……。もしかして、木が成長した?」
「五分で木が成長するのなら、気候変動どころの騒ぎではありませんね……」
トネリコはそっと額に手を当て、深く、深く呼吸した。こういうときは、怒ってはいけない。怒るとアルトリアがしょんぼりする。
しょんぼりしたアルトリアを見ると、自分が胸を痛めることになる。
結果、怒るだけ損なのだ。
「まあ……初めからスムーズにいくとは思っていませんでしたので」
「さすが、お姉ちゃん! 包容力、まるで仏!」
「……あなたが信徒なら、仏様も試練を与えざるを得ないでしょうね……」
この状況下でなければ、もっと優しい言葉もかけられたかもしれないが、靴の中に土が入り、スカートの裾が蜘蛛の糸にまみれている今、仏の顔も三度目に入っていた。
――そして、三度目。
アルトリアは唐突に、草の茂みの向こうを指さした。
「見て見てお姉ちゃん! ほら! なんかこう、道っぽくない?」
「……“道っぽい”は、“道”ではないのですよ」
「でも、あっちに行ったら、絶対なにかある気がするの!」
「何か、の内訳が“さらなる迷子”だったらどう責任をとるおつもりで……」
しかし、もう遅い。アルトリアはすでに駆け出していた。
その背中を、トネリコは追う。
スコップを引きずる音が、ちゃりちゃりと草むらに響く。アルトリアの笑い声が、木々の間に吸い込まれていく。
――そしてまた、姿が見えなくなる。
「……また、ですか……」
ため息ももはや定型文。だが、それでもトネリコは歩みを止めなかった。
なぜなら――それが、アルトリアだからだ。
「……いいでしょう。せめて、彼女がまた“木の妖精さんに案内された”とか言い出す前に……」
まっすぐには行けない道を、トネリコは真面目に、でもどこかあきらめ混じりに進んでいく。
だが、次に彼女を迎えたのは――
「……え? 池……?」
気づけば、視界の先にはぽっかりと水たまり、いや、予想外に深そうな“池”が出現していた。
「どうして裏山に池があるんですか。聞いてませんが……?」
誰にともなく抗議しつつ、トネリコは池の縁にそっとしゃがんで水面を覗き込む。
――その瞬間。
バシャッ。
水面に何かが跳ねた。
「……!!?」
驚いて飛びのくトネリコ。
「ま、まさか……カエル……!?」
いや、冷静になって考えれば、カエルなど山にいて当たり前だ。
だが、心が疲れているときには、その“当たり前”がとてつもない脅威に見えるものなのだ。
「……べ、別に……カエルごときで動揺など……っ」
ぷるぷると震える声で反論しながら、トネリコはすごすごと池から距離を取る。
そしてふと思う。
「……あの子は、今、どこにいるのでしょうか」
またひとり、置いてけぼり。
でも、それでも、アルトリアのことを責める気にはならなかった。
「……はあ。本当に、目が離せない子です」
その言葉は、心底呆れたようでいて、どこまでもやさしかった。
そう、トネリコにとってアルトリアは――どんなに振り回されようと、大切な“妹”なのだから。
たとえ、それが迷子のままの裏山でも。
たとえ、今いる場所が“さっき見た場所と似ているだけの、完全なる別の場所”だとしても。
彼女の心の中には、確かに一つ、決まった方角があった。
それは、アルトリアのいる方角だった。
いつも読んでくださりありがとうございます!
「裏山に秘密基地を作るから!」
この一言から始まった物語は、気がつけば迷子とスカートとスコップと……リスとの対話にまで発展しました。
また彼女たちの小さな冒険が始まります
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