トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
トネリコは、風にたなびく自分の髪を手で押さえながら、あらためて足元のビニール袋を見つめた。
「……問題は、この“ポイント”がどのくらいあるのか、ですね」
つまりこの裏山には、アルトリアによって“救助用物資”がいくつか埋められている可能性があるということだ。
なにこの緻密なバックアップ体制。遭難を前提にした小学生の遠足か。
「本気で言ってたんですね……“最低三時間”って……」
思い返せば、アルトリアのあの目は真剣だった。
目標を定めた子犬のようなキラキラした瞳。
“遊び”と“遠征”の区別があやふやな天真爛漫。もはやちょっとした災害。
――そして、ここで新たな発見があった。
草むらの陰に、空き缶。
「これは……“麦茶”の缶……?」
しかも、缶の飲み口にはしっかりとラップがかけられ、輪ゴムで止められていた。
「なぜか、やたらと丁寧……」
アルトリアが自分用に残したのか、はたまた誰かと“共有”するつもりだったのか。
だが、ひとつ確かなのは――
「……常温、ですね」
涼やかそうな見た目に反して、温もりは全力でトネリコの体温と同化していた。
それでも口に含めば、少しだけ安心する。
「……ぬるい……けど、落ち着きます……」
そのときだった。
――ザッ。
右手の方、ほんの数メートル先の茂みが不自然に揺れた。
「……っ!」
とっさに缶をしまい、スカートの泥を気にする余裕もなく身を低くする。
緊張と同時に、脳裏に過ったのは“猿”の可能性。
(いえ、冷静に。野生動物ならこちらに気づいて逃げていくはず。むしろ――)
逆に、気づかれずに近づいているのかもしれない。
心拍が跳ねる。
そして。
「……って、あれ? これ……」
揺れた草の先から現れたのは――
人間用のプラスチック製スリッパ。
ピンク色。しかも、**“来客用”**と書かれている。
「どうしてこんな場所に……」
そして、スリッパの隣には、明らかに“人が敷いた”とわかるビニールシート。
小さな板の上に、空き缶と割り箸、食べ終わったカップ麺の容器、手作りらしき梅干しおにぎりのラップ。
――生活感、ありすぎる。
「……これは、つまり」
裏山に、だれかが秘密の休憩所を作っていた。
トネリコは思わず、小声で呟く。
「……まさか……アルトリア……ここまで……?」
否、これは明らかに子供の仕業ではない。
ラップのたたみ方が年季入りすぎている。
割り箸も端がきれいに揃えて置かれている。
「……地域のお年寄りが、“こっそり一人お昼を食べにくる場所”……でしょうか?」
トネリコの脳内で、何人かの近所の顔が浮かんでは消えた。
しかし、もう一つの事実に気づいてしまう。
「つまりわたし、今、不法侵入の可能性が……?」
顔を青ざめさせながらも、トネリコは静かにその場を後にした。
これ以上、知らない人の生活圏に踏み込んではならない。
泥だらけの足で来客スリッパを踏むような真似は、道徳的にも不正解だ。
……そうして彼女は再び、風の向くほうへ歩き出す。
足元は、今度はやや斜面になっていた。
まだ、帰れそうにはない。
でも、背負った袋の中には麦茶と救援グッズ、
そして、なによりアルトリアからのメッセージがある。
トネリコは、小さく微笑んだ。
「……まったく、仕方のない子ですね」
「……これは本格的に、迷いましたね」
トネリコは、リュックを背負い直しながら、ため息をひとつ。
前も後ろも、同じような木と草ばかりで、どこに進んでも同じ景色に見える。
そのとき、**ポロロン♪**と電子音が鳴った。
「……今の音、なんですか?」
びっくりして辺りを見渡すけど、誰もいない。
音の出どころは――なんと、自分のリュックの中。
「え、わたし、何か拾ってきましたか……?」
ごそごそとポケットを探ると、そこから出てきたのは、しゃべる目覚まし時計。
アルトリアが勝手に入れたらしい。
ピッと鳴ったあと、元気いっぱいな声が響いた。
「お姉ちゃん! 三時だよ! おやつの時間だよ! チョコも入ってるよ!」
「……いや、それどころじゃないんですけど……!」
でも、言われた通りリュックを探すと――
ほんとうにチョコレートが入っていた。しかも、保冷パックつきで丁寧に。
「……あの子、変に気がまわるところありますよね……」
チョコを一口。甘さが、ちょっとだけ心にしみる。
でも、安心するのはまだ早かった。
「さて、どうしましょう。……どっちに行けばいいんですか、これ」
目の前には、二つの道。
一つは、赤いビニールひもが木に巻かれている道。
もう一つは、動物が通ったような細い獣道。
「赤いひも……前にアルトリアと使ったやつ? だったらこっちが安全……?」
でも、もう一つの道からは、ボエエエッという妙な鳴き声。
「いやです! 絶対こっちは通りません!!」
目をそらすように、トネリコは赤いひもの道へ一歩踏み出す。
が、その一歩で、足元から「グシャッ」と音がした。
「……えっ。いま、なに踏みました、わたし……?」
チョコを食べた元気は、またすぐに霧散していく。
そして、また少しだけ、裏山の中へと、彼女は静かに進んでいった。
赤いひもの道を進みながら、トネリコは心の中で何度も唱えていた。
(右、左、赤いひも、音のしないほう……赤いひも、音のしないほう……)
完全に呪文である。しかも無意味な。
それでも、こうでもしなければ心が折れてしまいそうだったのだ。
「なんで……なんでこんなに裏山って広いんですか……」
誰も答えてくれない。
だが、代わりに返ってきたのは、足元に落ちていた――片方だけの靴下。
「………………えっ?」
明らかに使用済みである。やや小さめの子ども用、黄色と白のボーダー柄。
草に絡まりながら、風にくるりと回ったその姿に、トネリコはかすかに震えた。
「ま、まさか、ここで誰か……靴下だけ残して……!?」
思わず後ずさる。
そして小声で問う。
「……誘拐……じゃないですよね? 狸……? でも狸が靴下は脱がせないのでは……?」
ぐるぐる思考を巡らせているうちに、背後から突然、風が吹きつけた。
と、そのとき。
「おかえりなさい」
――聞こえた。確かに、はっきりと。
「……だ、誰ですかぁ!!?」
パニック状態のトネリコは、思わずリュックの中からスコップを引っ張り出して構える。
たった今まで地面を耕すだけだった道具が、いきなり護身用になった瞬間である。
が、周囲には誰もいない。
木々が揺れ、草がざわつくばかり。
目覚まし時計は沈黙している。靴下もしゃべらない。
風だけが、からかうように頬を撫でていった。
「……わたし、もうだめかもしれません」
誰にともなく、つぶやく。
でも、泣かない。泣かないのがトネリコの美徳である。
たとえ靴下と「おかえりなさい」に精神を削られても、彼女は前を向く。
「……とりあえず、赤いひもを、また探しましょう。赤いひも……」
再び呪文のように唱えながら、一歩ずつ歩き出す。
足元の落ち葉が、ふっくらとした音を立てた。
そのとき、リュックの奥で――チョコの包み紙が、かさっと動いた。
「……食べかけ、だった……」
そんな小さなショックにすら、今の彼女は耐えるのである。
どこかで、アルトリアが笑っている気がした。
トネリコは、手にしたスコップを静かにリュックへ戻し、もう一度深呼吸をした。
「……赤いひも……赤いひも……赤いひもがすべてを導いてくれる……」
信仰心に近いものを抱きつつ、再び歩き始めた彼女の足元には、まるで“さあどうぞ”と言わんばかりに落ち葉がフカフカと敷かれている。
が、その数分後。
「…………ありませんけど、赤いひも……?」
木という木をじろじろと見て回るが、赤いどころか緑でも黄色でも、何も巻かれていない。
「おかしいですね……確かにこっちだったはずなのに……」
さっきから五回目のセリフだった。
汗をぬぐおうとポケットを探るも、ハンカチは麦茶をくるんでいた布と一緒にどこかへ行ってしまったらしい。
「……これはもう、“遭難”といっていいのでは……?」
だが、そこで気づく。
斜面の先に、木の根元にくくられた赤いひも――ではなく、
「……靴ひも?」
しかも、それにぶら下がるようにして、まるで狙って配置したかのような、ちいさな板切れ。
板には、油性ペンでこう書かれていた。
「がんばれ おねえちゃん! ゴールは ちょっとさき!」
トネリコはそれをしばし見つめたのち、そっと目を閉じた。
「……アルトリア……あなた、まさか最初からこれを想定して……?」
あまりにも用意が良すぎる。 こんな演出、どこのリアル宝探しだろう。
しかも、“ちょっとさき”と書かれているが、具体的な距離の記載はない。
「どれくらいが“ちょっと”なんですか……何メートルですか……」
誰にも答えてもらえないまま、トネリコは板を見送り、また坂を登る。
赤いひももない。動物の声も遠ざかった。
代わりに、ひとつの“音”が耳に届いた。
「……これは、水音?」
斜面の先、木々の切れ間からわずかに聞こえる“チョロチョロ”という流れ。
川ではない。もっと細い。おそらくは湧き水のような。
「……もしかして、ここに……水場が?」
水を辿れば人の手が入っている可能性もある。それに、冷たい水が飲めれば気力も戻るかもしれない。
そう思いながら、ゆっくりと坂を下っていく。
先ほどとは逆方向、赤いひもからは外れたルート。
けれど――
「これは……!」
彼女の目に飛び込んできたのは、なんと――
ブルーシート製の“ベンチ”。
そしてそのそばには、木で囲われた小さな“足湯”のようなスペースが。
「……嘘でしょう、誰ですか……誰がここを整備したんですか……」
間違いない。これはもう裏山ではない。
“裏の別荘地”である。
地元のお年寄りが手入れしているのか、それとも山を愛する誰かの仕業なのか。
確かなのは、トネリコがまた別の“生活圏”に足を踏み入れたことだった。
「さすがにこれ以上は……怒られます……」
だがそのとき、またリュックが“ぴこぴこ”と震えた。
中から、録音メッセージが流れる。
「お姉ちゃんがちゃんとおやつ食べたら、ヒントの場所を教えるねー!」
「……誰が、いつ、こんな仕組みを……!」
どうやらこれは、アルトリアによる“裏山お宝探しシステム”らしい。
過剰なまでの遊び心。トネリコが手にしていたのは、たかが麦茶ではなかった。
「……ふふ、そういうことなら……こちらも本気を出しましょうか」
スカートの裾を払って、彼女は再び歩き出す。
背筋は伸びていた。
どこにいるのかは分からない。でも、アルトリアの笑顔が“この先にある”と、なぜか信じられた。
赤いひもを探して、トネリコは慎重に歩を進めていた。
まるで命綱のように、あの細いビニールの結び目だけが、彼女の理性を地面に繋ぎ止めてくれているような気がしてならない。
(右、左、ひも、ひも、赤い……)
すっかり口癖になった呪文を唱えながら、落ち葉を踏む。すると、ふと足元に――
「……これは、さっきの靴下の……もう片方……ですか?」
黄色と白のボーダー。今度は、枝に引っかかって風にゆらゆら揺れていた。
「……ここは、靴下の巣ですか……?」
ひとりツッコミも板についてきた。
それでも足を止めることはしない。今立ち止まったら、心が先に脱落してしまいそうだった。
そのとき、突然、ポケットの中でブルブルと何かが震えた。
「わっ……!」
慌てて手を突っ込むと、それは小さな音声メモ用のレコーダーだった。 画面には「アルトリアの録音その1」と表示されている。
――まさか。
恐る恐る再生ボタンを押すと、陽気な声が飛び出した。
「お姉ちゃん、今ごろ迷ってるでしょー?」
「……………っ」
あまりにも予想通りのセリフに、トネリコは頭を抱えそうになる。
「でも大丈夫! 赤いひもをたどって、次のポイントに行くと、お楽しみが待ってるよー!」
「……宝探し気分なんでしょうけど、当事者の身にもなってください……!」
ぐったりと頭を垂れながらも、次の“ポイント”があるという情報には心が惹かれる。
それは、帰る希望というより、むしろ“この試練が無意味ではない”という確証に近い。
そしてまた、歩く。
ひもは木の根に絡まり、次の木へと続いている。
小さな赤い目印が、まるでアルトリアの笑顔のように、気まぐれに導いてくれる。
やがて。
木々の合間から、ぽっかりと開けた空間が見えた。
――そして、そこには。
「……ハンモック、ですか?」
幹と幹の間に、見事なまでにしっかり張られた布。
そして、近くの木にはラミネート加工された札が釘で留められていた。
《がんばったお姉ちゃんへ! しばらくおやすみしてね♪》
下には小さなテーブル。その上には、クッキーと、冷えてはいないが密閉されたペットボトルの麦茶。
「………………」
あまりの出来すぎた展開に、トネリコは一瞬、現実を疑った。
「……こんなに、準備してたんですね、あなた……」
麦茶のペットボトルには、小さく「ファイト!」のシールまで貼ってある。
彼女はそっと腰を下ろし、クッキーを一枚、口に運んだ。
甘さと、風の涼しさと、赤いひもの頼もしさ。
そして――
「……ふふ。少し、楽しくなってきました」
空には、葉のすき間から光が降りている。
ここが裏山の真ん中だなんて、思えないほど穏やかな時間だった。
彼女は少しだけ、ハンモックに身を委ねて、目を細めた。
次の行き先は、赤いひもがまた教えてくれる。
そのときまで――ほんの少しだけ、休憩しよう。
クッキーを最後の一枚までゆっくりと噛みしめ、トネリコはそっと手を合わせた。
「……ごちそうさまでした。アルトリア様、ありがとうございます。とても……おいしかったです」
なぜか敬語になったのは、感謝のあまり脳内で妹を“上司”として扱っていたからである。
麦茶のラベルには、またしても元気なシールが貼ってある。「お姉ちゃんだいすき!」の文字に、少し胸が熱くなった。
(あの子……こういうところだけ、手がかかるほどに手が込んでますね)
ふわりとハンモックから立ち上がると、背中がぱんと音を立てて伸びた。
「よし――わたし、帰ります!!」
まるで大会の選手宣言のように、裏山の空へと宣言する。
ここで、頭の中で自然と“本日の振り返り会”が始まる。
「まず――出発時点からして、トネリコの敗北でした」
お茶を一口すする間にスコップ係に任命され、
気がつけば裏山へ片道切符。
「そして次に、草に絡まりスカートの裾を奪われそうになり……」
「お姉ちゃーん!」の声に釣られて道を見失い、
「赤いひも」と「謎の靴下」と「麦茶」でなんとか生存。
「最後に、謎の“おかえりなさい”ボイスで寿命が三年縮みました」
誰ですか本当に。あの時のスコップ、いまだに泥ついてますよ。
それでも。
アルトリアが仕込んだ“あたたかすぎる罠”の数々が、今では全部、背中を押してくれている。
「……こんなにも準備して、こんなにもわたしのことを考えてくれていたなら――」
「絶対、無事に帰って、文句のひとつやふたつ言わなくてはなりませんね!」
完全に“お姉ちゃんモード”が発動した。
トネリコの中で、迷子スイッチが切れて、保護者スイッチがオンになった音がした。
「アルトリア、覚悟なさい……! 帰ったらまず、お説教ですからね……!」
もちろん、麦茶のお礼を言ってから。
そのあと、ぎゅっと抱きしめてから。
それから、ちょっとだけ、一緒にクッキーを焼いて――
(……あれ、なんだか、普通に楽しいんですけど)
赤いひもを握りしめて、一歩を踏み出す。
その歩幅は、さっきまでのふらついた足取りと違い、芯のある、まっすぐなものだった。
「よろしい、ならば帰還です!」
トネリコの目に、やる気の火が宿った。
背負ったリュックには、スコップと麦茶と、チョコの残り。
そして何より――妹の愛情が、しっかり詰まっている。
帰り道は、きっとそんなに遠くない。
なぜなら、アルトリアがきっと、どこかで待っているのだから。