トネリコとアルトリアの田舎日和   作:イモ

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トネリコさん、脱出するスコップと共に

トネリコは、全身泥まみれの状態で、ようやく「裏山登山口」と書かれた小さな木札の前に立っていた。

「……ふぅっ」

 

 深呼吸。ひとつ、またひとつ。

 

 トネリコは、リュックのベルトをきゅっと締め直し、周囲を見回した。

 風の通り道、葉の揺れる音、ふわりと舞う落ち葉。どこを見ても似たような光景ばかりだが、それでも彼女の目は、わずかな違和感を見逃さないようにと緊張感でいっぱいだった。

 

 「迷子では……ありません。これは“自主的探索”です」

 

 そう言い張りながら、片手でスコップを握りしめる。

 

 ついさっきまで「もうだめです」とスコップに語りかけていた人物と同一人物とは思えないが、それもこの裏山の魔力というやつだろう。迷う者に“自分との対話”を強制してくるタイプの空間である。

 

 

 

 「右……たぶん、こっちです」

 

 少し開けた場所に出て、トネリコは赤いビニールひもを目印に再出発する。ときどき見えるそれは、アルトリアが結んでいったもの。ひも自体は頼りないが、存在が心強い。

 

 「次に会ったら、ちゃんと褒めますからね……ちゃんと、怒ったあとで」

 

 

 

 数歩進むたびに、枝が足に絡まり、スカートが引っ張られる。

 虫が顔の周りを飛び、たまに変な音がする。さっきの「ボエェエッ」がトラウマになっており、すべてが敵に思える。

 

 「……いやです、絶対ヤギとかじゃありませんように」

 

 心の中で小さな神頼みをしながら、歩みを止めない。

 

 

 

 途中、小さな段差に足をとられ、ごすっと膝をぶつける。

 

 「――いてっ!? なにこれ、石!? こんなところに自己主張強めの岩が……っ!」

 

 よく見ると、地面から少しだけ顔を出した丸い石。まるで、「つまずいてこそ一人前」と言わんばかりの配置。

 

 「あなたも、アルトリアの仲間ですか……?」

 

 石にまで敵意を向けるあたり、若干疲労が見え始めている。

 

 

 

 それでも、数メートル先にあった“白い石の列”がまた彼女の心を支えた。

 

 「まだ……ルートは生きてる……」

 

 声に出して確認することで、自分を鼓舞する。

 

 

 

 ――そして。

 

 開けた場所に出た。そこには、小さな切り株がぽつんとあり、その上に置かれていたのは――

 

 

 

 おしぼり。

 

 

 

 しかも、ビニール袋に入って湿り気が保たれているという徹底ぶり。間違いない。アルトリア印である。

 

 

 

 「……まったく、こういうところだけ気が利くんですから」

 

 思わず顔がほころぶ。ほころびながら、しっかりおしぼりで顔と首を拭く。汗と泥の感触が取れていくのと同時に、心のモヤモヤも少し和らいでいく気がした。

 

 

 

 拭き終わったおしぼりをたたみながら、トネリコは呟いた。

 

 

 

 「……まだ、わたしのこと……ちゃんと考えてくれてるんですね」

 

 

 

 ちくりとした想いが胸の奥に広がる。

 彼女の足を、またひとつ前へと進めるのだった。

 

 

 

 けれど、次に出てきた道は、さらにえぐかった。

 

 「えっ、斜面? 今度は坂道? しかも、これ……ほぼ、崖では?」

 

 赤いひもが、斜め45度の方向に伸びていた。どう見ても、滑り落ちる未来しか見えない。

 

 

 

 「ええいっ……こうなったら……!」

 

 

 

 スカートをガバッとたくしあげ、片手で草を握りしめ、四つん這いになって斜面を登りはじめた。

 

 その姿は、もはや淑女ではなく“必死な野生児”。

 

 

 

 「帰ったらお風呂入って……アイス食べて……布団でごろごろしますから……!」

 

 ときおり滑りながらも、自分に報酬をぶら下げて登っていく。

 

 

 

 ――その先に、光が見えた。

 

 

 

 まだ確信はないけれど、空が少し明るい。もしかしたら、それは裏山の出口かもしれない。

 

 

 

 「あと、もうちょっと……!」

 

 

 

 爪の中に泥を詰めながら、トネリコは、ずるずる、ずりずりと進む。

 

 決して絵にはならない、でも――勇ましい。

 

 

 

 そうして、彼女は“光の向こう”へと、ようやく手を伸ばすのだった――

 

 光――それは、まさしく希望の象徴である。

 

 木々の間から差し込むその眩しさに、トネリコの目が細められる。

 

 

 

 「……ついに……」

 

 

 

 ずるずると泥だらけのスカートを引きずりながら、トネリコは斜面を登りきった。

 

 ほこりっぽい息を吐いて、すこし乱れた髪を手で押さえる。

 その先に見えたのは――確かに、見覚えのある山道。

 かすかに聞こえる車の音。風のにおいも、どこか人里の気配がする。

 

 

 

 「これは……! 帰れる! 文明の気配がする……!」

 

 

 

 感動が胸を満たす。

 

 まるで長い旅路の果てにたどり着いた英雄のように、トネリコはスコップを杖のように立て、まっすぐに立ち上がった。

 

 その姿、どこか堂々としている――ように見えたが。

 

 

 

 「――あっ」

 

 

 

 ズルン。

 

 

 

 突然、足元が崩れた。

 

 

 

 「え、えっ、えっ!? ま、まさかの滑落――!?」

 

 

 

 先ほどまで踏みしめていたと思っていた地面が、まるで紙のように薄く脆く、ベリベリッと音を立ててはがれていく。

 

 それは、なんと――

 

 

 

 **「よく見ると、迷彩柄のブルーシート」**だった。

 

 

 

 「だ、誰がこんなトラップ……って、ちょっと待ってこれ下、穴――」

 

 

 

 ドサアッ。

 

 

 

 ……落ちた。

 

 

 

 膝を抱えて丸まる姿勢で、トネリコは藪の中へ尻もちをついた。

 

 

 

 「…………いったぁぁ……」

 

 

 

 泥と枯れ葉のクッションがなければもっと大ダメージだっただろう。だが、精神的ダメージはそれなりに甚大である。

 

 

 

 「な、なんですかこれ……出口のフェイントってあります……?」

 

 

 

 ついに見つけた希望の光。それが“偽装された足場の罠”だなんて、もはや絵本でもそうそう見かけない展開である。

 

 

 

 「だれですか、こんな裏山にサバイバル用の訓練フィールドを設置したのは……」

 

 

 

 トネリコは、泥まみれの袖で顔をぬぐいながら立ち上がった。

 

 

 

 しかし、落ちた場所にも“仕掛け”はあった。

 

 

 

 「……あれは、ビニール……袋?」

 

 

 

 視界の隅に、黄色いビニール袋が見えた。そこには手書きでこう書かれていた。

 

 

 

 『がんばれ!もうちょっと!』

 

 

 

 「えっ、手書き!? マジックペン!? え、ちょ、え、まさか……アルトリア……ここまで予測して……?」

 

 

 

 背筋に寒気すら走る。

 

 ――彼女、ここまで考えていたとしたら、ただの天才では? むしろ予知能力者では?

 

 

 

 「……いや、考えるだけ無駄ですね」

 

 

 

 あきらめて袋を開けてみると、中にはタオルと水と、ラムネ菓子。そして乾いた靴下(サイズぴったり)まで。

 

 

 

 「補給物資が完璧すぎて、泣けてきます……」

 

 

 

 さっき拾った“片方の靴下”と、まさかのペアだった。

 

 

 

 「さっきの……布石だったんですか……? 嘘でしょ……?」

 

 

 

 もう、ツッコミが追いつかない。

 

 

 

 だが、靴下を履き直し、顔を拭き、水を飲んだトネリコは、なんだかんだでだいぶ復活していた。

 

 

 

 そして、改めて地面を見つめながら、こうつぶやいた。

 

 

 

 「……次にアルトリアに会ったら、まずは一言――“帰り道は普通の道にしてください”ですね」

 

 

 

 帰る道は、きっとまだ遠い。

 

 だが、ビニール袋の励ましと、ラムネの爽やかな甘さが、再びトネリコの足を前に進ませてくれた

 トネリコは、新しい靴下をしゃくっと履き替え、ラムネを口に放り込んだ。  しゅわっと広がる甘さが、荒れた心にじわじわ染みわたっていく。

 

 「……おいしい……けど、これって回復アイテムじゃないですか」

 

 まるでゲームの主人公のような展開に、内心ではツッコミを入れつつも、背筋はすっくと伸びていた。

 

 再びスコップを構える。手にしたそれはもはや道具ではない。意志の象徴、あるいはトネリコの“もう帰りたい”という強い念の表れである。

 

 「さて、次は……右ですね。たぶん。きっと……おそらく……」

 

 言いながらも、足取りはしっかりしていた。  途中、飛び出してきたバッタに悲鳴をあげながらも(「いやあああっ!?草が動いたと思ったら跳んだああああっ!!」)、彼女はめげなかった。

 

 しばらく進むと、木の幹に見覚えのある赤いビニールひもを発見。

 

 「よし、目印……! つながってる……!」

 

 その瞬間のトネリコの顔は、きっと映画の主人公が伏線を回収したときのような輝きに満ちていた。

 

 そしてまたしばらく歩いた先、今度は――

 

 「……ベンチ……?」

 

 木で組まれた簡易ベンチと、古びた看板があった。  看板には、かろうじて読める文字でこう書かれている。

 

 『←登山口 →迷子注意』

 

 「ようやく……地図が……!」

 

 歓喜のあまり、看板に抱きつきそうになるのをぐっとこらえて、トネリコはその横にあるベンチにどっかりと腰を下ろした。

 

 「……おしぼり、靴下、ラムネ……ここまでくると、これはもう“アルトリアトレイル”と名付けてもいいのでは……」

 

 汗をぬぐいながら、視線を登山口の矢印に合わせる。  そこから少し先、木々の間にほんのりと舗装された地面がのぞいていた。

 

 「――勝ちましたね」

 

 思わず口をついて出た言葉に、自分でも笑ってしまう。

 

 さあ、あとはその道を進めば、裏山からの生還である。  彼女はスコップを肩にかけ、再び立ち上がった。

 

 「帰ったら……まず、お風呂。そして、アイス。そして、アルトリアの説教です」

 

 順番が合っているかはさておき、目的がはっきりしているのはよい兆候だ。

 

 トネリコは最後にもう一度深呼吸をして、登山口の方向へ歩き出した。

 

 その背に、風が優しく吹いていた。

 

おそらく地元の誰かが打ち付けたのだろう。スプレーで書かれた「がんばって!」の落書きが、なぜか胸に沁みた。

 

 

 

 「……文明……やっと……」

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

 ――ドンッ!

 

 

 

 遠くで、何かが爆発したような音が響いた。

 

 

 

 「な、なんですか今の!?」

 

 

 

 鳥がばさばさと飛び立ち、風がざわめいた。直感的に、あの音の方向にアルトリアがいると感じる。

 

 いや、正確に言えば、“あの子がなんかやらかしたな”という確信だった。

 

 

 

 トネリコはスコップを持ち直し、疲労困憊の足を再び動かす。

 

 

 

 そして、開けた小さな広場に出た。

 

 

 

 そこにいたのは――

 

 木の板を組み合わせて即席の櫓(やぐら)を作り、その上で双眼鏡を覗いている、異様にやる気満々なアルトリアの姿だった。

 

 

 

 「お姉ちゃーんっ!! 遅いよーっ!!」

 

 

 

 手を振るアルトリアの背後で、焚き火の跡と、なぜか黒焦げの鍋。

 

 

 

 「……それは、何の残骸ですか?」

 

 

 

 「お昼作ってたの! でもちょっと爆発した!」

 

 

 

 ちょっと、というレベルではなかったと思う。

 

 

 

 「……わたし、遭難していたんですよ?」

 

 

 

 「え? お姉ちゃんが? うっそー。ちゃんとルート作ったのに?」

 

 

 

 「そのルートが……罠まみれだったんですよ……!」

 

 

 

 トネリコは倒れこむようにその場に座り、泥だらけのリュックを脱いだ。

 

 

 

 「ブルーシートの偽装崖に、猿かヤギかわからない鳴き声、靴下単品、そして“おかえりなさい”という声……」

 

 

 

 「わあ、すごいイベント制覇してる! 全ルート踏破じゃん!」

 

 

 

 「ゲームじゃありません!!」

 

 

 

 ついに悲鳴のような声が出た。

 

 

 

 アルトリアはぺたんと隣に座り、チョコを取り出して渡す。

 

 

 

 「でもさ、ちゃんと出てこれたじゃん。お姉ちゃん、えらい!」

 

 

 

 「……えらくなければ、おそらく生還していません……」

 

 

 

 トネリコはスコップをそっと地面に置き、ぽつりと呟いた。

 

 

 

 「……次からは、せめて二人で行きましょうね」

 

 

 

 「うんっ。でも今度は夜の探検にしよう! お星さまも見えるし、コウモリもいるかも!」

 

 

 

 「……それ、わたしは行かないという選択肢ありますか?」

 

 

 

 「ないよ!」

 

 

 

 即答だった。さすがは、この家の法王陛下である。

 

 

 

 それでも、トネリコの唇に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。

 

 

 

 「……もう……ほんとに、あなたって子は」

 

 

 

 夕方の光が、ふたりの泥と汗とチョコのにおいを、ほんの少し柔らかく包んでいた。

 

泥だらけのスコップをそっと置いたトネリコは、肩の力を抜いて座り込んだ。アルトリアは何やらリュックをガサゴソとあさっている。

 

 「はいっ、これ!」

 

 彼女が差し出してきたのは、濡れタオルと、アイスボックスから出てきたパウチゼリー。冷たい。

 

 「……こういうときだけ、用意周到ですね……」

 

 ぬるい麦茶とぬるいラムネで戦っていた人間には、もはやこれは神の遣い。悔しいが、ありがたく受け取る。

 

 「えへへー。お姉ちゃんのピンチ、想定済みだったから!」

 

 「……つまり、ピンチになる前提だったのですね?」

 

 「えーと……“たぶん迷うだろうな”って」

 

 悪びれもせずに言うアルトリアに、トネリコは思わずひたいを押さえた。

 

 「遭難を前提に遊びを設計するのは、やめてください……」

 

 「でも、楽しかったでしょ?」

 

 「楽しくないわけでは……ありませんが、全身泥と汗と、もはや何かの人生哲学をまとっています……」

 

 ふと視線を落とすと、自分のスカートの裾に、なぜか「セミの抜け殻」が一つ乗っていた。

 

 「…………あの、アルトリア。これ、いつの間に……?」

 

 「え!? なにそれ!? ラッキーアイテムじゃない!? やったね、お姉ちゃん!」

 

 「ラッキーの基準が迷子です」

 

 どこで道を踏み外したのか。いや、むしろ道なんて最初から存在していたのか。いろいろな問いが心を巡る中、トネリコはそっとセミを木の根元に返してやった。

 

 「……それで、火薬臭のするお鍋は、どんな料理だったんですか?」

 

 「あ、あれ? あれはね、“ロケットカレー”!」

 

 「爆発物の名前です」

 

 「だって、スパイスいっぱい入れたんだもん! 目がチカチカするくらい!」

 

 「味覚を破壊する気ですか……?」

 

 話を聞く限り、どうやらルーの代わりに激辛レトルトを三種ミックスしたうえ、焚き火に投入した結果、鍋が耐えきれなかったらしい。

 

 「でもさ、食べる前に爆発したから無事だよ!」

 

 「無事……ですか。どのあたりが……?」

 

 脳裏に、ブルーシートの罠と靴下単品がフラッシュバックする。あれらも「無事」の範疇なら、もう世界はおしまいだ。

 

 「じゃあ次はね、山小屋つくるの!」

 

 「話を聞いてください」

 

 アルトリアは、背中のリュックから小さなスケッチブックを取り出して見せてきた。

 

 表紙には、太字でこう書かれている。

 

 『裏山開拓計画 第一章:秘密基地→遭難体験→山小屋建設』

 

 「これ、まだ“第一章”なんですか……?」

 

 「うん! 第二章はね、“地下トンネル掘って温泉を掘り当てる”って書いてある!」

 

 「それはもはや犯罪です」

 

 こんな妹を持ってしまった姉の苦労に、風鈴の音だけがしみじみと同情してくれている気がした。

 

 だが、そんなトネリコの表情も、ふっと柔らかくなる。

 

 「……でもまあ、無事でよかったです」

 

 「お姉ちゃんも無事でよかったー! もうちょっと遅かったら、迎えに行くところだったよ?」

 

 「えっ、それは……どんな方法で?」

 

 「のろし!」

 

 「だから火は使わないでください!!」

 

 大声でツッコみながら、けれどトネリコの目元には、さりげなく笑みが浮かんでいた。

 

 やれやれ、もう二度と裏山には入らない――そう思いつつ、彼女はふと、空を見上げる。

 

 雲の切れ間から、やわらかな日差し。

 

 そこに、アルトリアの声。

 

 「ねえ、お姉ちゃん。今日の晩ごはん、なにがいい?」

 

 「……安全なやつでお願いします」

 

 「じゃあ、“爆発しないカレー”にしよう!」

 

 「その名称がすでに不穏なんですが……」

 

 ふたりの笑い声が、裏山の端にぽつりと建つ「がんばって!」の札の前を通り過ぎていった。

 

再会の地から家までの道のりは、わずか二十分。

 

 ――のはずだった。

 

 

 

 「ちょ、ちょっと待ってくださいアルトリア! わたし、もう足が上がらないのですが……!」

 

 

 

 「えー!? もうちょっとなのにー!」

 

 

 

 トネリコは全身の泥とスカートの重み、リュックのずっしりとした存在感に苦しみながら、坂道をふらふらと進んでいた。

 

 

 

 傍らでは、なぜか体力フルゲージのアルトリアが、登山歌っぽいものを口ずさんでいる。

 

 

 

 「♪ どーなん、どーなん、遭難だったー、でも麦茶とチョコがあったからー、いーのだー♪」

 

 

 

 「語呂が……悪すぎます……」

 

 

 

 「だいじょうぶ! ノリで押し切ればなんとかなるって誰かが言ってた!」

 

 

 

 「だれですかその無責任な誰かは……」

 

 

 

 そんなやり取りの途中、道端に一台の自販機が現れた。

 

 民家の隅にポツンと立つ、地域唯一の“文明の砦”。

 

 

 

 「うぅ……冷たい……冷たい飲み物……」

 

 

 

 吸い寄せられるようにトネリコは歩み寄り、財布を取り出す――その瞬間。

 

 

 

 シャリン!

 

 

 

 「アルトリア、今、わたしの財布から“何か”が落ちた気が……」

 

 

 

 「おおっ!? お姉ちゃん、これ五円玉! 運命の出会いだよ!」

 

 

 

 「違います、単なる落下です」

 

 

 

 疲れた心に、追い打ちのように響くアルトリアのポジティブ変換能力。  だが、どうにか飲み物を購入し、ひとくち含んだ瞬間――

 

 

 

 「…………ああ、生き返るとはこのことですね……」

 

 

 

 「でしょでしょ? このために全ルート踏破したんだよ!」

 

 

 

 「違います、全ルートは事故です」

 

 

 

 そんなこんなで歩き続けるうちに、ようやく坂を登りきり、見覚えのある古い木の門が視界に入った。

 

 ――ついに、帰宅。

 

 

 

 「ただいま……って、うわ、玄関で靴脱ぎたくない……」

 

 

 

 「ぜったい廊下に泥落ちるねこれ……お風呂直行ルートにしよっか?」

 

 

 

 「それが……最善ですね」

 

 

 

 泥まみれのスカート、ぬかるんだ靴下、手にはスコップと麦茶缶。

 “遭難セット完全版”を持ち帰ったトネリコの姿は、もはやコメディすら超えていた。

 

 

 

 「じゃあ先にわたしがお風呂洗ってくるね! あとで交代!」

 

 

 

 「お願いしま……す、って、ああっ、アルトリア! あなたの背中にまだセミの抜け殻が……!!」

 

 

 

 「えっ!? まじで!? ラッキーセミ!? まだついてたんだ!?」

 

 

 

 「幸運の意味をもう一度定義していただけますか……?」

 

 

 

 そう言いつつも、トネリコの声にはもう、あの裏山の孤独な緊張はなかった。

 

 

 

 疲れも、泥も、爆発鍋も――全部ひっくるめて、

 

 やっぱりこの妹と過ごす時間は、楽しいのだ。

 

 

 

 「……お風呂あがったら、ほんとに“爆発しないカレー”でお願いしますよ?」

 

 

 

 「まっかせてっ! 今度はちゃんとしたルー買ってあるから!」

 

 

 

 その“ちゃんとした”が何を意味するのか、少しだけ怖かったが――

 

 まあ、最悪麦茶とラムネがある。

 

 

 

 「……ふふ。じゃあ、先に泥を落としてきますね」

 

 

 

 玄関を抜けるトネリコの足取りは、少しだけ軽かった。

 

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