トネリコとアルトリアの田舎日和   作:イモ

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キッチン奮闘は大変です

 

トネリコは、ぬかるんだ服の裾をそっと摘まみながら、脱衣所の前で一度深呼吸した。

 

 

 

 

 

 

 

 (今のわたしは、たぶん地球でいちばん泥と仲良しです)

 

 

 

 

 

 

 

 靴下を脱ぐと、中から小石と何かの種が二粒ほど転がり出た。なんだか知らないが、「生き延びた証」っぽくて少しだけ誇らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 鏡に映った自分を見て、思わずつぶやく。

 

 

 

 

 

 

 

 「お風呂場の排水溝が詰まらないといいのですが……」

 

 

 

 

 

 

 

 風呂場からは、すでにお湯の張られた音。アルトリアが“気を利かせて”セットしてくれたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 (……爆発していなければ、それでいいです)

 

 

 

 

 

 

 

 そっと湯船に足を入れた瞬間、ぬるめの湯が、まるで「おかえり」と言ってくれるかのように包み込んでくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 「……ああ、これ、もう……お風呂というより聖域ですね……」

 

 

 

 

 

 

 

 首まで沈み、湯気を吸い込むたび、裏山で擦れた心と身体が、じわじわとほどけていく。

 

 

 

 

 

 

 

 視線を下げると、湯の中でスネに泥がまだふわふわと舞っている。

 

 

 

 

 

 

 

 (わたしって、こんなに土壌と融合できる人間だったんですね)

 

 

 

 

 

 

 

 身体をこすり、髪を洗い、ようやく「人間」に戻っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 「……セミの抜け殻つけてた妹と、泥だらけの姉。今日の我が家はどうなっているんですか……」

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、その呟きには、もう苦笑しか混じっていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 湯から上がると、洗面所には、ふわふわのバスタオルと――なぜか、冷えた麦茶のグラスがちょこんと置かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 「……こういうところだけ、ほんとうに完璧なんですよね」

 

 

 

 

 

 

 

 ごくごく、と麦茶を飲み干し、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると――

 

 

 

 

 

 

 

 「できたよーっ! 爆発しない! たぶん!」

 

 

 

 

 

 

 

 勢いよく蓋を開けるアルトリアと、カレーの香りが部屋中にひろがった。

 

 

 

 

 

 

 

 鍋の中には、煮崩れの少ないじゃがいも、ちゃんと形のあるニンジン、そして……多分、肉。

 

 

 

 

 

 

 

 「前回と比べて……これは奇跡の進歩ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 「いま、ちょっと失礼なこと言ったよね!?」

 

 

 

 

 

 

 

 ツッコミを受け流しつつ、トネリコは静かにスプーンを手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 「では……いただきます」

 

 

 

 

 

 

 

 ひと口、またひと口。

 

 

 

 火の通り加減も、ルーのとろみも悪くない。

 

 

 

 

 

 

 

 「……ちゃんと、カレーですね」

 

 

 

 

 

 

 

 「やったーっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 アルトリアは、ぱちぱちと自分で拍手している。

 

スプーンがカレーをすくうたびに、ふたりの前にほんのりと湯気が立ちのぼる。

 

 

 

 湯気に混じって、じゃがいもの甘い香りと、ルーのスパイスの香ばしさが鼻をくすぐり、トネリコの疲労困憊だった脳にも、ようやく「満たされる時間」が流れはじめた。

 

 

 

 

 

 

 

 ふと見ると、アルトリアはごはんの山にスプーンで「くるり」とルーの川を作っては、満足そうに眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 (……いつも思いますけど、あの子の食べ方、ちょっと童話の世界に出てきそうですね)

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことを考えながら、トネリコは静かに一口を口に運ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 そのたびに、やわらかく煮えたニンジンの甘みが広がり、次に控えめなスパイスが舌にピリッと走る。

 

 

 

 

 

 

 

 「……ふぅ」

 

 

 

 

 

 

 

 思わず息が漏れる。安心と一緒に、お風呂でほどけきらなかった“疲労のかけら”が、少しずつほどけていくのがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 隣では、アルトリアがごく自然に、福神漬けをトネリコの皿にそっと分けていた。どうやら、トネリコが「ちょっとだけ好き」なのを覚えていたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 「……ありがとう、アルトリア」

 

 

 

 

 

 

 

 言うと、アルトリアは照れたように頭をかいて、別にー、とか言いながら自分のカレーに追い福神漬けをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 その様子がどこかくすぐったくて、トネリコは口元を少し緩めた。

 

 

 

 

 

 

 

 ふたりの食事は、にぎやかというほどではないけれど、時折「ぽろっ」とした独り言や、短いリアクションで満たされていく。

 

 

 

 

 

 

 

 カレーが進むにつれて、トネリコの手元のスプーンの動きも徐々に軽くなり、アルトリアもあきらかにテンションが上がっているのがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 「ふふ、今日は……」

 

 

 

 

 

 

 

 そう言いかけて、トネリコはすぐに続きを飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 “今日は大変だった”なんて言う必要はない。

 

 

 

 いまはもう、こうして家で、アルトリアとふたり、テーブルをはさんでごはんを食べている。

 

 

 

 それが、なによりのごほうびだと思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 スプーンが最後のひと口をすくう。

 

 

 

 カレーの皿が、ふたりともきれいに空になったころ。

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコは麦茶を一口飲み、深く、息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の外では、ひぐらしの声が遠く響いていた。

 

 空になったお皿を見つめて、トネリコはふぅと小さく息を吐いた。

 

 

 

 「……ごちそうさまでした。まさか、本当に爆発しないとは思いませんでした」

 

 

 

 

 

 

 

 食卓の向かい側では、アルトリアが自信満々の顔で胸を張っている。

 

 

 

 

 

 

 

 「だから言ったじゃん! 今日のわたしは違うって! 今日のカレーはね、“文明の知恵”の味なんだよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 「“ちゃんとしたルーを使った”だけですよね?」

 

 

 

 

 

 

 

 「うん!」

 

 

 

 

 

 

 

 即答。

 

 

 

 でも、その“うん!”の中に、どこか得意げな達成感がにじんでいて、トネリコは苦笑しながらお茶をもう一口。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな平和な空気を壊すのは、だいたいいつも同じ人物である。

 

 

 

 

 

 

 

 「じゃあ次はー……お風呂上がりの、あれですね!」

 

 

 

 

 

 

 

 「……“あれ”?」

 

 

 

 

 

 

 

 「ほら、お風呂上がりと言えば――!」

 

 

 

 

 

 

 

 そう言って冷凍庫を勢いよく開けたアルトリアが取り出したのは――

 

 

 

 アイスが三種類入りすぎて自立しない“ぎゅうぎゅう詰め”の箱だった。

 

 

 

 

 

 

 

 「これ、どれにする? バニラ? チョコミント? それとも抹茶? いやー今日のために冷やしておいたんだよね~」

 

冷凍庫の扉が、ぎぃぃと気合いの音を立てて開かれると同時に、キラキラと冷気とともに現れたアイスたちの山――。

 

 

 

 トネリコは、その“ぎゅうぎゅう詰め”のパッケージ群に、ひと呼吸おいてから呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 「……選択肢があるのは、ありがたいことですが……」

 

 

 

 

 

 

 

 「そうそう、こういうのは“迷ってる時間も含めておいしい”ってやつだよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 「わたしは“早く食べたいのに決まらないストレス味”を感じつつあります」

 

 

 

 

 

 

 

 アルトリアが両手いっぱいに取り出したアイスのうち、スティックタイプのバニラがぽとりと床に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 「うわっ!? ちょ、床はまずい! 救出!」

 

 

 

 

 

 

 

 「ま、待ってください、タオルタオル……!」

 

 

 

 

 

 

 

 二人で慌てて拾い上げ、落としたバニラは――とりあえず“冷蔵庫行きの再教育枠”に。

 

 

 

 

 

 

 

 「……わたし、抹茶で」

 

 

 

 

 

 

 

 「はいっ、賢明な判断!」

 

 

 

 

 

 

 

 そう言って渡されたのは、つるんとした丸形カップ。冷気が指先に心地よく、トネリコは無言で小さく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 一方アルトリアは、チョコミントを引き抜くと、

 

 

 

 

 

 

 

 「今日の私は、さわやかチョコミン党!」

 

 

 

 

 

 

 

 「選挙では落選しそうなスローガンですね」

 

 

 

 

 

 

 

 そんなやり取りのまま、二人はソファにどっかと腰を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 スプーンをすくう音、ぱきっと蓋を割る音、冷たい空気のなかで、その時間だけがやけに丁寧に流れる。

 

 

 

 冷たい抹茶アイスをひとすくい。

 

 トネリコは口元にスプーンを運びながら、そっと目を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

 (……裏山の泥まみれから、ようやくここまでたどり着いたんですね、わたし)

 

 

 

 

 

 

 

 隣では、チョコミントを頬張ったアルトリアが「スースーする〜」と涼しげな声をあげている。

 

 それを聞いたトネリコは、小さく肩をすくめて呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 「あなたは……まるで、遭難していなかったみたいですね」

 

 

 

 

 

 

 

 「え? だって遭難してたのお姉ちゃんだけじゃん!」

 

 

 

 

 

 

 

 「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 冷蔵庫から麦茶を追加で取りに行くか一瞬悩んだが、椅子から立つ気力がなかったので却下。

 

 

 

 

 

 

 

 「でもね、お姉ちゃん。ほんとはちょっと焦ってたんだよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 「ちょっと、ですか」

 

 

 

 

 

 

 

 「だってさー、あれは予想外だったんだもん。“お姉ちゃんは方向感覚がすごい”って、わたし信じてたのに!」

 

 

 

 

 

 

 

 「初耳です」

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコは、アイスのふたを指先でくるくる回しながら、しばらく考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 「……でも、わたしも、ひとつだけわかったことがありました」

 

 

 

 

 

 

 

 「えっ、なになに?」

 

 

 

 

 

 

 

 「“秘密基地の建設計画は、事前申請と安全確認を要する”ということです」

 

 

 

 

 

 

 

 「……えー、そこぉ?」

 

 

 

 

 

 

 

 アルトリアがぷぅと頬を膨らませる。

 

 

 

 

 

 

 

 「もっとさ、“家族って大事だな”とか、“助け合いの尊さ”とか、そっち系じゃないの?」

 

 

 

 

 

 

 

 「もちろん、そういったこともありますが……それは次回のレポートにてまとめます」

 

 

 

 

 

 

 

 「次回って何!?」

 

 

 

 

 

 

 

 不満げに言いながらも、アルトリアはチョコミントをぺろりと完食した。

 

 スプーンを置くと、トネリコの肩にもたれかかる。

 

 

 

 

 

 

 

 「……でもさ、お姉ちゃんが帰ってきたとき、ちょっと泣きそうだったのはホントだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 「はいはい」

 

 

 

 

 

 

 

 「だからさ、次はちゃんと、二人一緒に秘密基地行こうね」

 

 

 

 

 

 

 

 「“基地”というより“家庭菜園”くらいの規模にしてくれるなら……」

 

 

 

 

 

 

 

 「却下!」

 

 

 

 

 

 

 

 「即答……」

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコは空になった抹茶アイスのカップを見つめながら、スプーンを置いた。

 

 

 

 (……冷たいアイスが、ここまで疲労回復に効くとは思いませんでした)

 

 

 

 肩にかけられたタオルの端で額の汗を拭い、ふぅ、とひとつため息を吐く。

 

 

 

 アイスの満足感がじんわり広がる中、ソファの隣でごろんと寝転がっていたアルトリアが、ぴょこっと手を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 「お姉ちゃん、今日ってさ、あたしすごくがんばったと思うんだけど?」

 

 

 

 

 

 

 

 「……はい?」

 

 

 

 

 

 

 

 「ほら、お昼にカレー作ったし。なんといっても、火の管理! あと、鍋の中身が空を飛ばなかった!」

 

 

 

 

 

 

 

 「目標が……やけに低空飛行ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 「低くても、飛べたことが大事なんだよ! あたし、もう主婦力レベル3くらいあると思う!」

 

 

 

 

 

 

 

 「それ、スコップ爆破事件の時点でマイナスに振り切れていた気がするのですが……」

 

 

 

 

 

 

 

 アルトリアはふてくされた顔で枕をもぞもぞしていたが、次の瞬間、ぱっと顔を上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 「じゃあ次は、麦茶の補充と、食器の片付けでポイント稼ぐ!」

 

 

 

 

 

 

 

 「ポイント制なんですか、我が家は……」

 

 

 

 

 

 

 

 とはいえ、アイスのカップやスプーンをきちんと重ねて持ち上げる姿に、ほんの少しだけ“主婦力レベル”を見出せなくもない。

 

 

 

 トネリコはそっとその背中を見送りつつ、ぽつりとつぶやく。

 

 

 

 

 

 

 

 「……そうですね。がんばってください、“文明の柱”さん」

 

 

 

 

 

 

 

 キッチンから「それ言うなら“未来の柱”とかにしてー!」という声が返ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 麦茶のボトルが冷蔵庫から出される音、水道の音、アルトリアが何かしら水滴を床にまき散らす音……いろいろな音が立て続けに響く。

 

「……あれ? お茶パックって、どこだっけー?」

 

 

 

 冷蔵庫の扉を開けたまま、アルトリアの声が間の抜けたトーンで響く。

 

 

 

 

 

 

 

 「戸棚の右側の引き出しです。“お茶”って書いた箱に入れてありますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 「んんー、箱はあるけど、これ“ほうじ茶”じゃない?」

 

 

 

 

 

 

 

 「その下に“麦茶”のがあります」

 

 

 

 

 

 

 

 「……あったーっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 テンション高く見つけたわりに、アルトリアは次の瞬間、お茶パックの束を勢いよく取り出しすぎて、数枚ほど床に散乱させた。

 

 

 

 

 

 

 

 「あーっ、まって! ちがう、今のは重力のいたずら!」

 

 

 

 

 

 

 

 「重力に謝ってください」

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコはソファから立ち上がりかけて……また座り直す。

 

 

 

 

 

 

 

 (……いや、今立ったらきっと、スカートの裾で何かを引きずります)

 

 

 

 

 

 

 

 疲れた足をそっとソファに投げ出し、結局“見守り係”を続行することにした。

 

 

 

 

 

 

 

 一方のアルトリアは、散らばったお茶パックを片手でかき集めつつ、もう片方の手でポットに水を注ぐという無謀な作業に挑戦していた。

 

 

 

 

 

 

 

 「やば、ちょっとこぼしたかも……いや、まだいける!」

 

 

 

 

 

 

 

 「タオルを……いや、先に床です。床が優先です!」

 

 

 

 

 

 

 

 「床の神よ、どうかお許しを〜っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 「信仰心で解決しようとしないでください」

 

 

 

 

 

 

 

 バタバタと騒がしい割に、なんとか麦茶の補充は終わったらしく、キッチンのほうから「ふぅ〜」と一息つく音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 そして数秒後、アルトリアが両手で麦茶のボトルを掲げながら戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 「やりましたっ! これにて、麦茶ミッション・コンプリート!」

 

 

 

 

 

 

 

 「それは……ごく一部だけを見ると、確かに達成感ある構図ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 「“文明の柱”の本領発揮だね!」

 

 

 

 

 

 

 

 「柱がぐらぐらしているように見えるのは、気のせいでしょうか……」

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコは手を伸ばし、差し出された麦茶を一口。ちょうどよい冷たさに、眉が少し緩んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 「……ありがとう。文明の柱さん」

 

 

 

 

 

 

 

 「ふふん♪ おかわりもありますよーっ」

 

 

 

 

 

 

 

 そんな調子で、ソファの周りはすっかり“遭難後の安息地”になっていた。

 

 

 

 カレーとアイスで満たされた胃に、麦茶が静かに染み込んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 (……今日が、どれほどぐちゃぐちゃで、どれほど騒がしかったか)

 

 

 

 

 

 

 

 (だけど今のこの瞬間だけは――妙に、静かで、落ち着いていて)

 

 

 

 

 

 

 

 (……だから、まあ)

 

 

 

 

 

 

 

 (結果オーライ、なんでしょうね)

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことを思いながら、トネリコはそっと、麦茶のグラスをもう一口傾けた。

 

麦茶のグラスを空にして、トネリコは静かにソファに身を沈めた。体中の力がじんわり抜けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 (……これでようやく、今日という日が終わる……)

 

 

 

 

 

 

 

 そう思った矢先。

 

 

 

 

 

 

 

 「じゃあ、ついでに食器も洗っちゃおっか!」

 

 

 

 

 

 

 

 ――元気な声が、台所から響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 「えっ? “ついでに”って……」

 

 

 

 

 

 

 

 「ふふふ、わたしに任せたまえっ! さっきのカレー鍋もね、今回は焦げてないから簡単だし!」

 

 

 

 

 

 

 

 「フラグにしか聞こえませんが……」

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコは座ったまま、耳だけをキッチンに向けていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 シャッ、シャッ……という水音に続いて、

 

 

 

 カラン!

 

 

 

 

 

 

 

 「うわっ!? まってまって!? スポンジが逃げた!?」

 

 

 

 

 

 

 

 「逃げません。あなたの握力の問題です」

 

 

 

 

 

 

 

 「ぬ、ぬるっとしてたんだってばー!」

 

 

 

 

 

 

 

 水道の音は止まったが、なんとなく床が濡れている気配がある。

 

 

 

 数秒後、「まいっか!」という極めて危うい思想が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 (……まいっか、じゃないです)

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコは立ち上がろうとしたものの、ソファに沈んだ身体があまりに快適だったせいで、結局また倒れ込むように座り直した。

 

 

 

 

 

 

 

 「お姉ちゃーん、食器拭くのだけ手伝って〜!」

 

 

 

 

 

 

 

 「そう来ると思いました……」

 

 

 

 

 

 

 

 渋々立ち上がったトネリコは、タオルを手にキッチンへと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 そこで目にしたのは――

 

 

 

 シンクの半分だけ綺麗に片づけられ、もう半分が“未処理ゾーン”として戦場のように残されているという、極めて中途半端な現場だった。

 

 

 

 

 

 

 

 「アルトリア……これは……」

 

 

 

 

 

 

 

 「作業の、合間!」

 

 

 

 

 

 

 

 「それを“作業中”と言い張る勇気に感服します」

 

 

 

 

 

 

 

 とはいえ、鍋もちゃんと洗えていたし、シンク下のゴミ箱にルーの空き箱がちゃんと捨てられていたあたり、前回の惨劇とは雲泥の差だった。

 

 

 

 

 

 

 

 「……確かに、今回は“文明寄り”ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 「文明の柱の名にかけて!」

 

 

 

 

 

 

 

 「今のあなた、せいぜい“文明のつっかえ棒”くらいですが」

 

 

 

 

 

 

 

 そう言いつつ、トネリコは濡れたスプーンを拭きながら、ふと肩の力を抜いた。

 

 

 

 お皿を拭いて並べて、鍋の水気を切って、コンロのまわりを布巾でぬぐって――

 

 

 

 

 

 

 

 (ああ、こういう時間が、やっぱり好きなんだな、わたし)

 

 

 

 

 

 

 

 隣では、アルトリアが台所用のタオルをマントのように肩にかけて、「任務完了!」とポーズを取っている。

 

任務完了ポーズのまま静止していたアルトリアは、ふと真顔になったかと思うと――

 

 

 

 

 

 

 

 「お姉ちゃん、次の任務……あるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 「聞きたくない予感がすでに全身を走っています」

 

 

 

 

 

 

 

 トネリコはそっと布巾を置いた。心の中に、かすかな“逃げてもいいのでは”という囁きが生まれかけたが、姉としての理性が辛うじて勝った。

 

 

 

 

 

 

 

 「ほら、洗ったスプーンの数、ちょっと足りなくない? あれ、お昼の分……たぶん、リビングテーブルの下!」

 

 

 

 

 

 

 

 「それは“任務”ではなく、単なる拾い忘れです」

 

 

 

 

 

 

 

 とは言いつつ、トネリコは足取り重くリビングに戻る。

 

 

 

 テーブルの下にしゃがみこむと、やはり一本、カレーの痕跡が残るスプーンが転がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 (……これが、“文明の犠牲者”ですね)

 

 

 

 

 

 

 

 スプーンを拾いながら、ついでに落ちたアイスの木の棒や、包装フィルムの切れ端も回収しておく。

 

 

 

 

 

 

 

 (まったく……この家では、油断していると“発掘”作業になりますね)

 

 

 

 

 

 

 

 洗面台に戻ると、アルトリアはなぜか水滴だらけの前掛けを握りしめ、どや顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 「ね、すごいでしょ? ちゃんとエプロンしてたから、全然濡れてない!」

 

 

 

 

 

 

 

 「あなたのシャツの袖、湿ってますけど」

 

 

 

 

 

 

 

 「……そっちは、勢いがよすぎた水道のせいだからノーカン!」

 

 

 

 

 

 

 

 その言い訳にも慣れてきた自分が、少しだけ心配になるトネリコ。

 

 

 

シンクに戻しながら、トネリコはそっと溜め息をついた。

 

 

 

 (……やれやれ、任務はいつも予告なく増えますね)

 

 

 

 

 

 

 

 そんな姉の心労などどこ吹く風で、アルトリアは水道の前で新しい“任務モード”に入っていた。今度は、排水口のゴミ受けに目をつけたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 「ふっふっふ……文明の柱たるもの、こういう細かいところも手を抜かないのである!」

 

 

 

 

 

 

 

 「柱というより……掃除当番の意地、という感じですが」

 

 

 

 

 

 

 

 アルトリアは排水口のフタをぱかっと外し、「うひゃっ!」と小声で悲鳴を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 「なんか……アイスのスプーンとか、小さいゴミが詰まってる……!」

 

 

 

 

 

 

 

 「アイスのゴミは……さっき床で回収したはずですが?」

 

 

 

 

 

 

 

 「たぶん、前の前の分!」

 

 

 

 

 

 

 

 「……“文化遺産”ですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 それでも文句も言わずに手袋をはめてゴミを取り出す姿に、トネリコはほんのわずか感心した。ほんの、わずか。

 

 

 

 

 

 

 

 その頃には、さっきまで騒がしかったキッチンにも、静かな音だけが残っていた。

 

 

 

 水がちょろちょろと流れる音、布巾が食器をなでる音、そして――なぜか時々聞こえるアルトリアの「ふんふんふ〜ん♪」という鼻歌。

 

 

 

 

 

 

 

 「……そのメロディは、もしかして“どーなん、どーなん、遭難だった〜”の続きですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 「うんっ! “けどお姉ちゃんが帰ってきた〜 だから今夜は〜”……」

 

 

 

 

 

 

 

 「そこから“爆発しないカレー〜♪”に繋がるんですよね」

 

 

 

 

 

 

 

 「さすが姉妹! 息ぴったり!」

 

 

 

 

 

 

 

 「やけに限定的なテーマソングですね……」

 

 

 

 

 

 

 

 笑いながら、最後のお皿を拭き終える。作業がひと段落つくと、キッチン全体がどこかすっきりとした雰囲気に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 「……ふう。ようやく、今日の“後処理戦”も終結、ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 「戦果:勝利! 被害:軽微! 残存体力:中の下!」

 

 

 

 

 

 

 

 「“文明の柱”が語るには、やや現実的すぎるデータです」

 

 

 

 

 

 

 

 そんなふうに冗談を言い合いながら、ふたりはキッチンの灯りをぽつりと落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 いつのまにか空気は、ほんのすこしだけ、夜の静けさを帯びていた。

 

 

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