トネリコとアルトリアの田舎日和   作:イモ

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干して、戻って、見つけてしまった

 電気を落としたキッチンの中、トネリコはふぅと一息ついた。

 

 (……これでようやく、一日の家事が、すべて終わりました)

 

 ついでにアルトリアのテンションも、一時的に“省エネモード”に突入したらしく、彼女は台所用のタオルをマントのように羽織ったまま、ぺたんとその場に座り込んでいた。

 

 

 

 「ねえお姉ちゃん、今日わたし、100点満点で言うと……どれくらい?」

 

 

 

 「採点基準によりますね。文明レベルの向上度か、爆発回避率か、で評価が変わります」

 

 

 

 「うぅ……わたし的にはぜんぶ加点対象なんだけどなあ」

 

 

 

 「では、70点くらいで」

 

 

 

 「高い! やったー!」

 

 

 

 (……え、それで満足してしまうんですか)

 

 トネリコは苦笑を噛み殺しながら、タオルを洗濯カゴにぽいと投げ入れる。アルトリアのテンションが微妙に高止まりしているせいか、妙な静寂と熱気が部屋の隅に残っていた。

 

 

 

 「でも、ほんとに今日は、いろいろあったね……」

 

 

 

 「そうですね。遭難して、発見されて、爆発せずにカレーを食べて……」

 

 

 

 「“爆発せず”が最大の功績っていうの、どうなの?」

 

 

 

 「わたしたちにとっては大変重要な記録です」

 

 

 

 ふたりはそのまま、薄暗い廊下を並んで歩き出した。

 

 トネリコはゆっくりと照明のスイッチを手探りで探し、ぽちっとつけた瞬間――

 

 

 

 「……ぬおっ!? 足元なんか踏んだ!!」

 

 

 

 「それ、たぶん……昼間に脱いだ泥靴下の残骸ですね」

 

 

 

 「うあああああ!! なんでそんな罠が!!」

 

 

 

 「わたしもあの時点では、そこまで戻る体力がなかったんです……」

 

 

 

 靴下を器用につまんで捨てに行くアルトリアの背中を見ながら、トネリコは思う。

 

 

 

 (たしかに、今日は大変でしたが……)

 

 

 

 (なぜでしょう。あの裏山の中より、今のこの“泥靴下の戦場”のほうが落ち着きます)

 

 

 

 廊下の端、風が入る小窓のカーテンがふわりと揺れている。

 

 部屋の空気も、心なしか静かに、そしてゆるく、今日という一日を終える準備を始めているようだった。

泥靴下の処理を終えたアルトリアが、「完了っ!」と小さくガッツポーズを決める。その足元には、今度こそ障害物ゼロの廊下が広がっていた。

 

 

 

 「ふぅ……これでついに、ほんとうに“何もない”状態になったね」

 

 

 

 「“何もない”というのは、とても尊いことなのだと、今日という一日で学びました」

 

 

 

 そんな哲学的なことを呟きながら、トネリコはリビングのカーテンをゆっくり引いた。ほんのり涼しい夜風が、ガラス戸越しにさらりと吹き込んでくる。

 

 

 

 「もう……寝る準備、しましょうか」

 

 

 

 「異議なし! あとは歯みがきと、寝るだけ!」

 

 

 

 「その“だけ”が案外、長いんですけどね……」

 

 

 

 そう言いつつも、歯ブラシを手にしたトネリコは、洗面所へと足を運ぶ。鏡の前に立つと、自分の髪が微妙に“寝ぐせ予備軍”の状態になっているのを発見する。

 

 

 

 (……ああ、これ、明日まで放置すると大変なことになりますね)

 

 

 

 しぶしぶブラシを取り出し、ざっと整える。隣では、アルトリアが口をもごもごさせながら、「にゃーっ」と謎の音を発していた。泡だらけの顔で笑っている。

 

 

 

 (……この妹といると、疲れも残りますが、変な安心感もあるのですから、不思議です)

 

 

 

 歯を磨き終え、顔を洗い、タオルで手を拭いて、トネリコは静かにリビングの明かりを落とす。

 

 

 

 「じゃあ、おやすみなさい、アルトリア」

 

 

 

 「おやすみー! ……あ、あとで“秘密基地の改善計画”について相談が――」

 

 

 

 「それは明日以降です。いかなる場合も」

 

 

 

 そう言い切ると、トネリコはふわりと布団に身を沈めた。

布団に身を沈めたはずのトネリコだったが、完全に脱力するには至らなかった。背後でがさごそと音がする。

 

 

 

 「……アルトリア、何をしているのですか?」

 

 

 

 「えっ、これ? 寝る前の装備チェック!」

 

 

 

 「何の装備ですか。就寝前のあなたに求められるのは“静寂”です」

 

 

 

 その言葉にもめげず、アルトリアはマスコットがついた小さなポーチを開けては閉め、今度は枕の下を確認している。

 

 

 

 「大事なのはね、いざってときに“枕元に必要なものが揃ってる”ってことなんだよ!」

 

 

 

 「“いざ”がどういう状況を想定しているのか、非常に不安です」

 

 

 

 ぽふ、と何かが飛んできた。タオルケットの端だった。

 

 

 

 「こっち、ちゃんと掛けてないと風邪ひくよ!」

 

 

 

 「……ありがとうございます。妙に姉離れしない優しさですね」

 

 

 

 そう言いつつ、トネリコは布の感触を指先で確かめた。確かに、少しひんやりしていて、ちょうどよい。

 

 

 

 アルトリアの布団の上では、ぬいぐるみが並び替えられているらしい。しかも、どうやら配置に規則性がある。

 

 

 

 「この子がリーダーで、そのとなりが副官で――」

 

 

 

 「もはや就寝ではなく“配属式”ですね」

 

 

 

 「ほら、お姉ちゃんの分の守備隊も置いといたよ。枕の横!」

 

 

 

 「わたしに個別防衛線を張る予定はないのですが……」

 

 

 

 それでも、ふと顔を向けた先に、小さなウサギのぬいぐるみがちょこんと置かれているのを見ると、少しだけ、言葉を飲み込んだ。

 

 

 

 (……なんだか、もう……いいかもしれませんね)

 

 

 

 そうしてトネリコは、ようやく肩の力を抜いた。

 隣からは、まだ何かぶつぶつと言っている声が聞こえるが、その内容を聞き取る前に――呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

 

 目を閉じたまま、トネリコはゆっくりと呼吸を整える。布団の中は、思った以上に快適だった。体温に馴染んだタオルケットの重さが、ここまで安らぎをもたらすとは、遭難前には想像もしていなかった。

 

 (……あの泥と、木の根と、セミの鳴き声に囲まれていた数時間前と比べたら、まるで別世界ですね)

 

 そう考えるだけで、喉の奥にふっと笑いがこみ上げた。

 

 だが、その静寂は一瞬で破られる。

 

 

 

 「ねえお姉ちゃん、寝た?」

 

 

 

 アルトリアの声は、まるで“寝てるふりしてても許さないぞ”という圧のこもった囁きだった。

 

 

 

 「……まだです。というか、その声で完全に目が覚めました」

 

 

 

 「よし、それなら大丈夫!」

 

 

 

 「何が大丈夫なんですか」

 

 

 

 トネリコはそっとまぶたを開ける。視界の端に、布団から半身を起こしたアルトリアの姿が映った。

 

 

 

 「いやさ、こういう“夜のおしゃべりタイム”って大事でしょ? 今日一日いろいろあったし!」

 

 

 

 「たしかに……“語るほどの出来事”は山積みですね……」

 

 

 

 トネリコはゆるく寝返りを打ち、アルトリアのほうを向く。見慣れた天井が視界から消え、代わりに妹のにこにこ顔が広がった。どう見ても、眠気はゼロである。

(……この顔は、明らかに“寝る気がない人間”の顔ですね)

 

 トネリコは軽く息を吐くと、布団の端を指でつまんだ。自分まで目が冴えてきたのは気のせいではない。というより、隣の布団から発せられる“会話しようオーラ”のせいで、完全に目が覚めてしまった。

 

 

 

 「でねでね、今日わたし、ちょっと思ったんだけどさ!」

 

 

 

 「はい、もう少しだけ静かにお願いします……夜ですから」

 

 

 

 「ごめんごめん、ボリュームしぼる!」

 

 

 

 言うが早いか、アルトリアは枕元のタオルケットを口に当て、声をくぐもらせながら続けた。

 

 

 

 「お姉ちゃんって、寝る前の顔がちょっと“戦士の休息”って感じでかっこいいよね」

 

 

 

 「どうしてそう……毎晩のように“称号”を与えようとするんですか」

 

 

 

 「だって、カレーを食べて風呂に入って、アイスで満足して、布団で安らいでる今が、一番強そうじゃん?」

 

 

 

 「“強そう”の定義が、かなり独特ですね……」

 

 

 

 そんなやり取りをしながら、トネリコは片手でそっと額を押さえる。

 

 だが次の瞬間、タオルケットの向こうから、真剣な声音が漏れた。

 

 

 

 「ねえ、お姉ちゃん」

 

 

 

 「はい?」

 

 

 

 「……また、アイス買っとこうね」

 

 

 

 「……」

 

 

 

 トネリコは少しだけまばたきをして、口元にふっと笑みを浮かべる。

 

 

 

 「……そうですね。次は……もう少し、整理整頓された状態で冷凍庫に」

 

 

 

 「むしろパズルみたいに詰めるのが醍醐味でしょ!」

 

 

 

 「蓋が閉まらなくなった時点で“醍醐味”は終わりです」

 

 

 

 ふたりの布団の間に、小さな笑い声が重なった。天井を見上げるともなく見上げながら、トネリコはもう一度深く息を吐く。

 

 

 

 (……どうしてこの子は、寝る前にこうやって、ちゃんと笑わせてくれるんでしょう)

 

 

 

 心地よい疲労感に包まれながら、ゆっくりとまぶたが下りていく。

 

 アルトリアの声が、まだもう少しだけ続きそうな予感を抱きつつも――

 

 

 

 「……おやすみなさい、アルトリア」

 

 

 

 「ふふっ、おやすみ〜」

 

 

 

 その返事には、きっと“まだ寝ないけどね”という含みがある――気がしたが、トネリコはもう気にせず、目を閉じた。

 

次の日、洗面台の前で、トネリコは歯ブラシを持ったまま硬直していた。

 

 

 

 「……アルトリア。なぜ、歯ブラシが……三本あるのですか?」

 

 

 

 「へっ? え、普通じゃない?」

 

 

 

 「誰が“三本使うのが普通”などと言いましたか。わたしたちは、姉妹でふたりです」

 

 

 

 「いやその……一本は“非常用”!」

 

 

 

 「非常用の定義に“歯ブラシ”が加わったのはいつのことですか……」

 

 

 

 トネリコはそっと三本の歯ブラシを並べ、それぞれの使用感をチェックする。一本は新しすぎて未使用、一本は見慣れた自分用、そして……もう一本が、やけに「泡立ちがいい状態」でスタンバイしていた。

 

 

 

 「……ちなみに、“非常”が発生したのは、今朝何時ですか?」

 

 

 

 「ごめんなさい……チョコ食べたあとにちょっと……」

 

 

 

 「口の中に“夜のクッキーの名残”を感じて歯を磨いたのですね」

 

 

 

 「はい……」

 

 

 

 洗面台の鏡越しに見えたアルトリアの肩が、しょんぼりと沈む。

 

 

 

 (……まあ、口を清潔にする習慣が悪いとは言えませんが)

 

 

 

 「……次からは、自分の歯ブラシでお願いします」

 

 

 

 「うん……ごめんね、非常に反省してる……」

 

 

 

 「その語感で誤魔化すのをやめなさい」

 

 

 

 朝らしい光のなかで、トネリコは淡々と歯磨きの動作に戻った――が。

 

 

 

 「ところで、“非常用”の歯ブラシはどこから湧いたんですか? わたし、買った記憶がないのですが」

 

 

 

 「それはね……なんと……おまけでついてきた!」

 

 

 

 「おまけ……? あ、例のアイスセットの中に?」

 

 

 

 「そう! あの“ご当地アイス福袋”の! なぜか歯ブラシ三本セットも入ってた!」

 

 

 

 「どこの需要を狙っているんですか、その福袋は……」

 

 

 

 トネリコは呆れつつも、なぜか心のなかでは“次も買っておいていいかもしれませんね”と半分本気で思っていた。

歯を磨き終え、口をすすいだトネリコは、洗面所のタオルで口元を拭いた。

 

 すると、すぐ後ろでそわそわと動く気配。振り向けば、アルトリアがタオルを手にうろうろしている。

 

 

 

 「どうしました? 朝から妙に落ち着きがありませんが」

 

 

 

 「いやー……どっちが今日の着るやつか、わかんなくなっちゃって」

 

 

 

 「“今日の”……? 服の話ですか」

 

 

 

 トネリコが首をかしげながら脱衣カゴのほうを覗くと、確かに、よく似た色合いのTシャツが二枚。どちらも微妙にヨレていて、朝の判断力にはやさしくない。

 

 

 

 「これ、お姉ちゃんの? それともあたしの?」

 

 

 

 「……それは、お互いの記憶力が問われる案件ですね」

 

 

 

 しばらく二人でTシャツの襟や裾を吟味していたが、結局――

 

 

 

 「……私が今日はこちらを着ましょう。シワのつき方が“わたしのたたみ方”っぽいので」

 

 

 

 「ありがとー! じゃあもう一枚はあたしのね!」

 

 

 

 そう言って無邪気にシャツをかぶるアルトリアを見ながら、トネリコはなんとなく“家の中で色違い制服みたいなことになっている”事実に、微妙な気恥ずかしさを感じていた。

 

 

 

 それから数分後。

 

 トースターの「チーン」という音とともに、朝のパンが焼き上がった。

 

 

 

 「うわっ、いい匂い~!」

 

 

 

 アルトリアが手を伸ばしかけたそのとき。

 

 

 

 「待ってください。バター、塗ってませんよ」

 

 

 

 「だいじょーぶ! “カリカリのまま食べる派”!」

 

 

 

 「“カリカリ派”の名を語るには、ちょっとだけ覚悟が足りませんよ。あと喉が乾きます」

 

 

 

 トネリコは慣れた手つきでバターを塗りながら、コップに麦茶を注ぐ。その一連の動きのなめらかさに、横で見ていたアルトリアがぼそりと漏らした。

 

 

 

 「お姉ちゃんって、地味に“朝の家政スキル”高いよね……」

 

 

 

 「“地味に”の部分が余計です」

 

 

 

 だがその言葉に、トネリコはほんの少しだけ頬を緩めた。

 

 パンを皿に乗せ、麦茶を横に置いて、朝のテーブルが少しずつ形になっていく。

洗面所に足を踏み入れたアルトリアは、まず洗濯機の蓋を勢いよく開け――

 

 

 

 「……え、なんかちょっと怖いくらい無臭なんだけど?」

 

 

 

 「それは正常です。洗濯前ですから」

 

 

 

 トネリコは洗濯かごの中をのぞき込み、昨日の泥だらけセットが分別されているのを確認して、思わず感心した。

 

 

 

 「……これは、あなたが?」

 

 

 

 「うん! 昨日お風呂入る前に分けたの。えらいでしょ!」

 

 

 

 「……正直、あまり期待していなかったのですが……やればできるものですね」

 

 

 

 「ふっふーん。文明の柱、洗濯編!」

 

 

 

 高らかに宣言するアルトリアだったが、次の瞬間――

 

 

 

 「……で、どっちが柔軟剤?」

 

 

 

 「はい、没収です」

 

 

 

 トネリコはさっと手を伸ばし、明らかに“漂白剤”と書かれたボトルを回収した。

 

 

 

 「ちょっとー! 今、確認してから入れようと思ったのにー!」

 

 

 

 「“確認前に開ける動作”が早すぎるんです。間違いが確定してから反省されても、遅いのですよ」

 

 

 

 「ぬぅ……文明の柱に、初のヒビが……!」

 

 

 

 ぶつぶつ言いながらも、アルトリアはトネリコの指示通りに洗剤を計り、柔軟剤をセットし――そして最後、ボタンを押す役目だけはちゃっかり譲らなかった。

 

 

 

 「……押しますよ? いい? いきますよ?」

 

 

 

 「わたしが押しても結果は同じです」

 

 

 

 「いいの! これは儀式なんだから!」

 

 

 

 カチッ。

 

 

 

 静かに、洗濯機が水を吸い上げはじめる。ごぅ……という低い音が鳴り出すと、ふたりはそろってその場に立ち尽くした。

 

 

 

 「……なんかこう、始まったなって感じするね」

 

 

 

 「はい。日常の“第二ラウンド”が」

 

 

 

 「このあと干すのも手伝ってくれたら、文明の柱レベル5くらいにはなるかな?」

 

 

 

 「本日中の昇格は難しいかと」

 

 

 

 それでも、洗濯槽の中でまわる泡を見つめるアルトリアの横顔には、不思議と達成感が宿っていた。

 

 

 

 トネリコは、その姿に小さく息を吐いて、洗濯ピンチハンガーを手に取る。

洗濯機が唸りを上げて回っている間に、ベランダの準備が始まった。

 

 「まずはこれね! 最強の味方、ピンチハンガー!」

 

 アルトリアはピンチの列をバチバチ鳴らしながら掲げ、戦隊ヒーローのようにポーズを決めていた。

 

 「……干す前にテンションを上げる文化は、どこの家庭でも共通なのですか」

 

 トネリコはそっとベランダの引き戸を開ける。まだ日差しは柔らかく、物干し竿の上には、昨日使ったバスタオルの影が残っていた。

 

 「お姉ちゃん、タオルってどこから干すのが正解?」

 

 「端からで結構です。端から干して、端から乾きます」

 

 「なるほど、端の民……!」

 

 意味不明な称号に苦笑しつつ、トネリコは洗濯機の終了音を聞き取ると、すぐに中の衣類を抱えて戻ってきた。

 

 アルトリアはすでに構えていたピンチハンガーの中央を空けて、バスタオルを受け取る準備万端だ。

 

 「いくよっ、せーの!」

 

 「おっとっと……濡れたタオルを頭の上に投げるのはやめてください」

 

 「感覚でわかって! あたしの受け取りスピードならセーフだった!」

 

 「わたしの髪はアウトでした」

 

 拭き取る余裕もなく、次のアイテム――靴下の山――が目の前に差し出される。

 

 「これはもう、ハンガー界の神経衰弱だね! 左右揃えて……色は……あれ?」

 

 「色で混乱するのは、そもそも靴下の収納を適当にした過去の自分が原因では?」

 

 「未来に丸投げしてた過去のわたしが、今になって仕返ししてくるなんて……!」

 

 「因果応報です」

 

 ピンチハンガーの列がじわじわ埋まっていくなか、風がふっと吹き抜けて、濡れた衣類がぱたぱた揺れた。

 

 「……なんかさ、いいね。こういうの」

 

 「ええ。天気がよくて、風があって、洗濯物が揺れて……」

 

 「お姉ちゃんの髪も、ちょっとだけバスタオル臭だし」

 

 「それは、風情ではありません」

 

 笑いながら、最後のシャツを竿にかけ、ふたりは同時に手を離した。

 

 ベランダには、整然とは言い難いが、それなりに満足感のある洗濯物の列が並んだ。

 

 「ふふ……これで文明の柱レベル、4.8くらいかな?」

 

 「0.2は、濡らされたわたしの髪に免じて保留です」

 

 干し終えた最後の一枚が風に揺れた瞬間、トネリコは指先から力を抜いた。微かに濡れたバスタオルの端が、ふわりと顔に触れる。

 

 (……これで、ひとまず完了、ですね)

 

 見上げた空は、どこまでも淡くて高い。竿に並んだシャツとタオルが、風に合わせて音もなく揺れている様子は、どこか「やっと終わった」と告げているようだった。

 

 「お姉ちゃん、やったね。ピンチハンガー満員御礼!」

 

 アルトリアは達成感に満ちた声で言いながら、少しの誇らしさを隠しきれない表情でトネリコのほうを振り返った。

 

 「……それはよかったですが、あなたの袖が、また濡れているように見えます」

 

 「うん! お水と仲良しだから!」

 

 「それは誇ることではありません」

 

 でも、怒る気にはなれなかった。

 

 濡れた袖で、ちょっと得意げに立っているその姿が、妙に眩しくて。なんだか、見ているだけで――安心する。

 

 トネリコは静かにベランダの手すりに指をかけ、ほんの少し、風の温度を味わうように目を閉じた。

 

 (……静かですね)

 

 さっきまでの騒がしさが嘘のように、周囲はやけに落ち着いていた。風の音。どこかの家から聞こえる洗濯機の回転音。遠くで鳴く鳥の声。そうした音に包まれているうちに、ささやかな達成感がじんわりと胸に広がっていく。

 

 「じゃあ、戻ろっか。麦茶、まだ冷えてるよ」

 

 アルトリアの声が、そっとその静けさに橋をかけるように響いた。

 

 「ええ、戻りましょう。……とりあえず、タオルを一枚、借ります」

 

 「え? なんで?」

 

 「あなたの袖が、さっきよりもさらに“親水性”を増しているので」

 

 「やっぱり濡れてたかー!」

 

 そんな掛け合いを交わしながら、ふたりは並んでベランダから部屋の中へと足を踏み入れる。

 

 ひと仕事を終えたばかりの空気と、カーテンの隙間から差し込む光。それらすべてが、なぜかいつもより少しだけ柔らかく感じられた。

 

 そしてトネリコは、ふと視線をソファの上に向ける。

 

 「あれ……?」

 

 何気ない一言だったけれど、その声には小さな予感がこもっていた。

 

 気づかないふりをするには、あまりに存在感があった“それ”を見つけてしまったのだ。

 

 次の“ちょっとした事件”の気配が――すぐそこに、ちゃっかり鎮座していた。

 

 

 

 

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