トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
トネリコは、しばし立ち尽くしていた。
――ラップ。
前回の戦いの記憶は、いまだ鮮明だ。あのときはたしか、ラップの巻き戻り、静電気、予期せぬ逆巻き現象、そして器に貼るつもりが自分の手に張り付いて転倒しかけるという一連の悲劇。
だが、今日は違う。何が違うのかは明言できないが、違う“気がする”。
「……やりましょう。リベンジです」
気合いを入れ直し、トネリコは引き出しから新しいロールを取り出す。外装は前回と同じく若干破れているが、中身に罪はない。
そのとき、後ろからアルトリアが覗き込んだ。
「ねえ、またラップ? お姉ちゃん、それ勝率いまどれくらい?」
「先月の統計では……約二割五分ですね」
「低っ!」
「ですが、研究を重ねてきました。今日の私は一味違います」
トネリコは静かに、ラップの端を探る。爪の先で端をそっと浮かせ、まっすぐに引き出す――予定だった。
「……どこですか、端」
数秒の沈黙。紙筒に見事に同化したラップの透明さが、静かに彼女の集中力を削っていく。
「お姉ちゃん……先に手袋つけたら?」
「いえ、これは“素手の儀”です。文明には儀式が必要なのです」
アルトリアは「へぇ~」と感心したように、しかし距離はとったままで見守っている。
ようやく端が見つかり、トネリコは慎重に、まるで蜘蛛の糸でも手繰るかのように、ラップを引いた。
ピシィッ。
「……っ。無音で切れました。見えませんが」
「音だけで状況がわかるって、逆に上級者感ある」
今度こそ、器に向けて貼る。ゆっくり、重力と静電気のせめぎあいを読みながら――
……ぴた。
貼れた。
貼れた(気がする)。
「よしっ、次は折り返し部分を……」
トネリコが四隅を丁寧に押さえていた、そのとき。
「ねえお姉ちゃん、その器って、冷蔵庫の下段のやつでしょ? 入るかなあ……」
「…………」
沈黙。
計算外。
静かに、トネリコはラップを張ったままの器を見つめ、冷蔵庫のサイズを頭の中でスキャンする。
「……アルトリアさん。ラップは、剥がしても文明でしょうか」
「文明は、修正を受け入れる心から始まるのです」
「文明、偉い……」
トネリコは腕まくりをした。ラップの箱は、既に戦闘態勢で台所の端に鎮座している。
(前回は……ラップの逆襲に敗北しましたからね)
トネリコの脳裏に、くるんと巻き戻ったラップの残像がよみがえる。思い出すだけで、手がむず痒くなるような敗北感。
「今日こそ、やりましょう。リベンジ戦です」
そうつぶやきながら、トネリコは慎重にラップを引き出した。
「まずは角度……それから、力加減……」
横で見ていたアルトリアが、まるで野球の解説者のように小声で実況している。
「いいぞ……今回は滑らかに引けてる……! 巻き戻りもない! お姉ちゃん、成長してる!」
「あなたは黙っていてください、集中力が削がれます」
ピシッとラップが張られ、まるで一枚の薄氷のように空中を漂う。その緊張感を両手で支えながら、トネリコはターゲットである小鉢へと静かにラップをかぶせた。
ピタッ……。
「……よし、いける……!」
だが、油断はできない。前回もここまでは順調だったのだ。トネリコは慎重に、四隅を器の縁に貼りつけていく。指先に全集中。息を止める。
「お姉ちゃん、その顔、さっきの目玉焼きより真剣かも」
「ラップは油断のすき間から滑り込んできますから」
「ラップに人格があるみたいな言い方!」
ようやく、最後の一角を押さえ、トネリコは大きく息を吐いた。
「……勝ちました」
「やったぁー! 文明の勝利だーっ!」
アルトリアが両手を突き上げて喜びを爆発させる横で、トネリコは感無量の表情でラップされた小鉢を見つめる。
(これで、あの“敗北の夜”とも決別です)
だが――
「お姉ちゃん、次は保存容器のフタがどれかわかんない事件、だね!」
「……予告編、やめてください」
ラップに勝利したその余韻も束の間、トネリコはふと横に置かれた保存容器の山に目をやった。
(……さて。次の“文明の試練”は、ここにありますね)
無地のタッパー、パステルカラーのフタ付きタイプ、なぜか柄だけ派手なやつ。引き出しから出てくるそれらの面々は、まるで“使われ待機中の兵士たち”のように整然として……いや、微妙に歪んでいた。
「お姉ちゃん! こっちのフタと合うやつあったよ!」
「それ、昨日見つけた時と違う容器ですよ」
「えっ……これって“おそろい兄弟”じゃなかったの……?」
「同じ素材でも、相性が合わなければ結ばれません」
「なんか重い!」
トネリコは真顔でひとつ、浅めの保存容器を手に取る。中に入れる予定なのは、夕飯の残りの煮物。特に汁気が多く、容器の密閉性は最重要項目だ。
(……過去の失敗、再現してはなりません)
そう。以前――フタの閉まりが甘かったせいで、冷蔵庫の中が“つゆだく事件”と化した苦い記憶がある。
アルトリアはその横で、やたら勢いよく容器を「パカパカ」鳴らしている。
「これは? こっちの方が深さあるし、ぎゅって入れたらおつゆも収まる気がする!」
「その発想が、悲劇を呼ぶのです。液体には、逃げ道が必要なんですよ」
「逃げ道って……保護観察中みたいじゃない?」
「まさにそんな感じです」
トネリコは一番信用している中サイズの保存容器を選び、ゆっくりと煮物をよそいはじめた。レンゲで一杯ずつ、慎重に。まるで何かの儀式のような沈黙の中――
「……お姉ちゃん、それ、計ってるの?」
「心で、です」
「なるほど、文明は心で支える……!」
「でもたまに失敗するので、やっぱり“蓋が合うかどうか”は物理で確認してください」
「なるほど、文明は物理と心のあいだ……!」
何を悟ったのか、アルトリアは容器のフタをカチッと音を立てて閉じ、勢いよく逆さに持ち上げた――
「わっ!? お姉ちゃん、あふれて……ない! 大丈夫だった!」
「せめて、確認してから天地返しを試してください」
「やったー! 文明の逆転劇、成功!」
「まだです。“冷蔵庫まで運ぶ”というラスボスが残っています」
ふたりは揃って、保存容器を手に台所をそろりそろりと移動する。歩くたびに、容器の中身がわずかに揺れる。
(まるで水面を乗せているような緊張感ですね……)
と、その時。
「お姉ちゃん……冷蔵庫の中、ちょっとだけ……詰まってるかも……」
「“ちょっと”という表現に油断してはいけません。これはもう、冷蔵庫という名のパズルです」
ふたりの文明、その行く先には――未だ知られざる冷蔵空間の冒険が待っているのだった。
トネリコが冷蔵庫の扉を開けた瞬間、静かだった台所に「もわっ」とした密閉空間の気配が広がった。
(……これは、“一歩も譲らぬ詰まり具合”ですね)
上段には瓶詰めのジャムたちが肩を並べ、中段にはタッパーの群れがぎゅうぎゅう詰め。そして下段には……なぜか横向きに倒れた麦茶のボトルと、逆さに置かれた納豆パック。
「文明の……最終ダンジョン感あるね」
「最終というより、“片付けをサボった中間地点”でしょうか」
アルトリアが、さっきの保存容器をそっと構えたまま、後ろでそわそわしている。
「ねえ、ここ、どこに置けばいいの?」
「それを今から、冷蔵庫と我々の協議によって決定します」
そう言いながら、トネリコは冷蔵庫の中身をひとつひとつ観察していく。牛乳は昨日開封済み、味噌のパックはちょっとだけ斜め、なぜかお菓子の空袋がクリップでとじて置いてある。
「……これは誰の仕業ですか」
「それは……数日前の私です」
「即時更生をおすすめします」
そして、肝心の空きスペースは――ほぼ、ない。
だが、トネリコは知っている。この冷蔵庫には、“気持ちでねじ込めばなんとかなるゾーン”という、人智の及ばぬ空白が存在することを。
「……まずは、このチーズの箱を縦にして、こっちの豆腐を少し手前に……」
「お姉ちゃん、まるで冷蔵庫にTetris(テトリス)してるみたいだね!」
「いえ、これは“文明の応急建築”です」
慎重に配置をずらしていく。指先がわずかに冷たい。だが、その冷気が今は集中力を研ぎ澄ませてくれる。
(ここに……あと数センチだけ、余裕ができれば)
背後では、保存容器を持ったアルトリアが片足立ちでぷるぷるしていた。
「お姉ちゃん、腕がぷるぷるなんだけど! 早くっ!」
「文明には、耐久力も求められます」
ついに――スペースが空いた。
……が、次の瞬間。
「お姉ちゃん、その上の段のヨーグルト、さっきちょっと傾いてたかも……」
「今、言いますか!?」
絶妙なバランスで立つチーズの箱、そしてヨーグルトのカップが、静かに……じわり、と。
(これは……氷の上の剣舞――もとい、“乳製品の乱”ですね)
だが、ここで引くわけにはいかない。トネリコは体の一部を冷蔵庫に差し入れながら、慎重に角度を調整し、仮置きのチーズを片手で支えつつ――
「アルトリア、配置位置に移動を!」
「イエッサー!」
妹の手がスッと伸び、保存容器が差し込まれ――
保存容器が慎重に配置されたその瞬間、冷蔵庫内の静寂が破られた。
カタ、コトン。
ヨーグルトのカップが、まるでそれを待っていたかのように身をよじり、小さく回転して――ずるり、と滑った。
「っ、お姉ちゃん! 来るっ」
「見えています、が、反応できるかどうかは別問題です」
トネリコは、体の半分を冷蔵庫に突っ込んだまま、残った半分であらゆるバランスを調整していた。利き手はチーズの箱を支え、肘は牛乳パックをかすめ、膝はドアポケットに固定された。
(……この状態で、どうやってヨーグルトをキャッチしろと)
それでも、文明の柱を名乗る姉として、妹の前でヨーグルト一個を取りこぼすわけにはいかない。
「……ッ!」
その場でトネリコは一か八か、首だけでタイミングを見計らい、ヨーグルトの落下点に左手の甲を滑り込ませた。
ぺちんっ。
なぜか、いい音がした。
ヨーグルトは、トネリコの手のひらからふわりと跳ねて、冷蔵庫の奥のタッパーの上に着地。
「……っ、た、生きてる!?」
「未開封なので、たぶん無事です。文明、耐えました」
アルトリアは拍手しながら片足でくるくると回っていた。手元の保存容器はすでに冷蔵庫の中で鎮座し、もはや彼女に任務はないらしい。
「お姉ちゃん、やっぱりすごいね……! あたし、文明の影武者になろうかな」
「ではまず、冷蔵庫の中で戦える体幹を鍛えるところからですね」
「それ、修行編がはじまっちゃうやつじゃん!」
無事に任務を果たし、トネリコは冷蔵庫の扉をそっと閉める。中からは、すべての物品が微妙な均衡を保ったまま、静かに整列していた。
(……少なくとも今は、“文明”が勝っている、はず)
そう思いながら背を伸ばしたその時、どこからともなくパキッという音が――
「……いま、冷蔵庫の中で何かが、変形音を立てましたね」
「気のせいだと思いたい……文明のために」
トネリコは目を閉じ、深呼吸した。次の戦いが、始まらないことを祈りながら。
ラップの芯が、くるくると虚空を巻いている。
まるで己が敗北の記憶を巻き戻すかのように、アルトリアの手元で紙管が音を立てていた。
「今日は負けない……絶対に負けない……!」
彼女の目は真剣だった。前回、指にまとわりついた静電気ラップに翻弄され、「お姉ちゃん、このラップ、なんか人格あるよ!」と涙目になったあの惨劇。それを経ての、リベンジである。
対して、トネリコは少し離れた場所で様子を見守っていた。既に食器は片付いており、冷蔵庫の中には明日の朝用の梅干しおにぎりが、ラップを待って待機中である。
「……さて、今回はどんな勝敗が記録されるんでしょうね」
アルトリアは鼻で息を吸った。構えた姿は、まさに道場主の風格。
慎重に、端を持ち上げる。
「まずは、まっすぐ……やさしく……焦らず……」
ピリッ、ピリピリッ。
音はいい。動きも悪くない。
問題はここから――!
ラップがピン、と張られた瞬間、それはふわりと静電気を纏って踊りだした。
「ちょっ、待って!? まってまって、こっちにくる!? 違う! おにぎりの方向! 方向音痴なの!?」
「……ラップに道案内が必要とは、新しい文明ですね」
見かねたトネリコが、そっと割り箸を取り出す。手伝うつもりではない。あくまで、ラップが空中で暴走したときに備えた、“緊急制圧道具”である。
「落ち着け……おにぎりは敵じゃない……むしろ、共に未来を築く仲間……っ!」
そんな謎の説得をしながら、アルトリアはラップをそっと降ろす。……しかし、今度は引っ張りすぎたラップが、容器を超えてテーブルにべろんと貼り付いた。
「わあぁ!? なぜ!? いま、完璧だったのに……!」
「……それが文明です。“あと一歩”を許さない厳しさも、含めて」
ぶつぶつ言いながら、アルトリアはもう一度ラップを引き直した。今度はちょっと短く、そして確実に。
ピタ……ピタ。
ふたつ目の容器は、無事に包まれた。彼女は、そっと拳を握った。
「やった……! 文明、前進……!」
「お疲れさまです。“リベンジ”の重みが伝わってきましたよ」
「……もう少しで、“文明の柱”から“文明のパティシエ”に進化できるかも」
「たしか、前は“文明のつっかえ棒”だった気がしますが」
笑い合いながら、ふたりはラップの芯を片づける。
ただの保存作業なのに、なぜだか勝利の余韻があった。
朝。
……なのだが、まだ朝食にも到達していない段階で、リビングでは既に“文明”が始まっていた。
「お姉ちゃん……あのさ……」
アルトリアは、両手でコロコロクリーナーを構えていた。
持ち手は低めの位置で固定され、貼りつけた新しい粘着シートがまだ未使用のまま光っている。
「昨日、夜のうちに……カーペットの上に、パンくずまいたりしてないよね……?」
「してません。というか、なんでその前提なんですか」
「だってほら、ここ……!」
指差された場所を見たトネリコは、思わず目を細めた。
日差しが斜めに差し込んだ毛足の長い絨毯の上――そこに浮かび上がっていたのは、謎のパンくず、糸くず、そしてどう見ても“白い毛玉”。
(……この家、猫いませんよね?)
「これは文明に対する挑戦だと思う!」
「挑戦というより、“沈黙の積年”という感じです」
とにかく、ふたりは作戦会議もそこそこに、行動に移った。
「よーし、じゃあ私がここから半分!」
「では、わたしはキッチン側の境界線から、進軍開始としましょうか」
アルトリアはコロコロの先端を“ふわふわの敵”へ向けて突き出した。
コロコロッ――。
手前の線から始まり、慎重に角度を変えつつ、丁寧に押していく。
「……この、もっふもふ感。敵なのに、ちょっと癒されるの、ズルい……!」
一方のトネリコは、毛足の谷間に入り込んだ糸くずを拾い上げていた。
「……どうして、洗濯ネットの切れ端がリビングに?」
「それは……たぶん……“過去の文明崩壊の名残”!」
「あまり考えたくありませんね、その時代……」
アルトリアのコロコロが、ふと動きを止めた。
「お姉ちゃん……なにこれ、ちょっと引っかかってる……」
見ると、コロコロの粘着シートが、毛足に絡まりすぎてうまく回転していない。
「うわぁ、ちょっと待って! これ、“文明が絨毯に飲まれてる”ってやつじゃない!?」
「冷静に。まだシート残ってます。慌ててはいけません」
粘着面をくるりと一周めくり、新たな清掃面を出すアルトリア。
だがそこでトネリコが、静かに止めに入った。
「その一枚を無駄にすると、次の敵が増えるだけです。“文明の知恵”とは、つまりコスト管理です」
「……文明って、思ったより経済的な概念だったんだね……」
姉妹はしばらく無言で、もくもくと“ふわふわの敵”と向き合った。
そしてその戦いは、まだ始まったばかりだった――。