トネリコとアルトリアの田舎日和   作:イモ

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トネリコの眠れぬ夜の、姉妹防衛線

夏の暑さが、じわじわと背中を押してくる頃合いだった。

昼下がりの縁側には、ほんのりとした陽の匂いと、風鈴の涼やかな音色が満ちていた。

トネリコは薄桃色の浴衣姿で座布団に腰を下ろし、静かに本をめくっていた。

ページをめくるたびに、指先を撫でる紙の感触と、耳元で揺れる鈴の音が心地よく混ざる。

 

「……やっぱり、こういう時間が、一番落ち着く」

 

そう小さく呟いたその時だった。

 

――ぎゃあああっ! 出たーっ! 出たーっ!

 

静けさを切り裂くような絶叫が、家中に響き渡る。

そのトーンは、虫一匹に対するものとしては明らかに過剰だった。

 

「……またですか」

 

読んでいた本を伏せ、トネリコはひとつ、深いため息をついた。

その音には、もはや慣れっこになった諦めと、ほんの少しの呆れと、あと麦茶がぬるくなってきた不満も混じっていた。

畳を蹴るように駆けてくる足音。勢いよく開かれる障子戸。

そこに現れたのは、半泣きの顔で突進してくるアルトリアだった。

 

「お、お姉ちゃんっ、ヘルプミーっ!」

 

「何が出たんです?」

 

「蚊! いや、蚊よりでかい! でも蚊! しかも羽音が低くて不気味っ!」

 

形容が混乱している時点で既に不安要素しかなかった。

 

トネリコは静かに立ち上がった。

襟元を直しながら、すっと背筋を伸ばす。

その所作には迷いがなく、どこか頼もしさすら漂う。

妹が見るその姿は、もはや“駆虫の女王”。

 

「……例の、窓際の部屋ですね?」

 

「う、うん……あそこ、最近開けっぱなしだったから……」

 

小さく縮こまるアルトリアの声が、情けなさと後悔と、若干の他人事感を滲ませていた。

 

「アルトリア」

 

「……はい」

 

「網戸を閉めるように言ったはずですよ?」

 

「ぐっ……そ、それは……いや、閉めたつもりでは……記憶上は……」

 

トネリコはほんの一拍だけ無言の圧を残してから、蚊取り線香の缶を手に取った。

金属の蓋を開ける指先は、なぜか使命感にあふれていた。

この家の防衛は、常に彼女に委ねられているのである。

 

炎天下でもなお淡々と、役目を果たす決意に満ちたその背中。

妹の目には、その姿が――まるで“田舎の戦士”のように映っていた。

主な戦場:六畳間。敵性生物:ぶーん系。

 

数分後。

部屋にこもっていた湿った空気は、開け放たれた窓から少しずつ流れ出ていた。

畳には、焚かれたばかりの蚊取り線香の煙がゆらりと漂い、どこか懐かしい匂いを残している。

トネリコは表情を引きつらせながらも、蚊取り線香を手に取る。

手のひらにはじっとりと汗が滲んでいたが、妹のためと、意を決して部屋に足を踏み入れる。

 

この家における“勇者の条件”は、冷静さと殺虫力である――。

「……き、緊張しますね。……い、いざ」

 

ぷぅん……と羽音が耳元をかすめた瞬間、わずかに身をすくませながらも――

 

「……やむを得ません。これも、姉の務めです……!」

 

恐怖を飲み込んで一撃。

まるで修羅場をくぐった兵士のように、トネリコは静かに新聞紙を振り抜いた。

ぱしん、という音とともに、空気が一瞬だけ引き締まる。

 

「さ、さすが我が家の守護者……お姉ちゃん、かっこよすぎ……」

 

アルトリアはその場にへたり込み、肩で息をしながら縁側の柱に頭を預けた。

その顔には汗と驚愕と尊敬がないまぜになっていて、どこか怪談を聞いた後の子どもみたいだ。

 

「ねえ、お姉ちゃん。なんで虫って、こっちばっか来るのかなぁ?」

 

「それは……あなたの体温が高いから、でしょうね」

 

「体温が……高い?」

 

「ええ。虫は、温かい血を好む傾向がありますから」

 

まるで理科の教科書から抜け出したような説明だった。

トネリコはそのまま、再び読んでいた文庫本をぱらりと開いた。

その一連の動作に一切の無駄がなく、蚊にモテる妹の苦悩など、もう既に“終章”である。

 

「ちなみに、私のほうにはあまり来ません」

 

「うう、ズルい! あたしばっか刺されるの理不尽だよぉ……!」

 

ぶーっと頬を膨らませるアルトリアの前に、蚊取り線香の台がそっと寄せられた。

それは言葉より雄弁な、姉からの無言のメッセージ。

 

「そう思うなら、虫除け対策を怠らないことです」

 

ひんやりした口調が、なぜか説得力を持って染み渡る。

少し厳しくて、でも芯のあるやさしさ。それがトネリコだった。

 

「……ね、お姉ちゃん」

 

「はい?」

 

「ずっと、こうしていてくれる?」

 

トネリコは本のページをめくる手を止め、ちらりと妹を見やる。

その目元にうっすらとした笑み――というより、ちょっと困ったような諦めが浮かぶ。

 

「虫退治係として、ですか?」

 

「違うよ、そういうことじゃなくて……えっと……」

 

言いかけて、目をそらす。

でもその頬は、夕暮れより少し早めに桜色になっていた。

 

「夏って、なんかいいね」

 

「……そうですね」

 

蝉の声が遠くで響いている。

風に揺れる風鈴の音。香る蚊取り線香の煙。

そして、縁側に並ぶ姉妹の影が、ぐーっと、なぜか縦にも横にも伸びていた。

 

(蚊のせいで距離感近すぎた……)

 

そう思いながらも、誰もどけようとはしなかった。

トネリコが麦茶を汲みに台所へ立ち、ひんやりしたグラスを手に戻ってくると――

座布団の上から、アルトリアの姿が忽然と消えていた。

 

「あら……?」

 

残されていたのは、ふんわりと漂う蚊取り線香の煙と――妙にズレた灰皿の跡。

不器用に火を入れ直したらしき痕跡が、妹の残した“現場”として静かに存在感を放っていた。

 

「アルトリア……?」

 

そっと足音を忍ばせて廊下を進むと、奥の部屋から微かにガサゴソとした物音。

襖を開けると――そこには、妙に真剣な顔つきで蚊帳を広げているアルトリアの姿があった。

 

「……何をしているのですか?」

 

「準備だよ! 夜の決戦に向けて!」

 

まるで戦場を前にした司令官のごとく、布団の四隅に戦力が配置されている。

扇風機、虫除けスプレー、蚊取り線香の予備――ついでに冷却シートまで完備。

そこはすでに、ただの寝室ではなく“前線基地”だった。

 

「これでもう、蚊に負けることはない……!」

 

そんな決意を込めたセリフを背負って立つその姿は、どこか満身創痍の将軍のようでもあった。

 

「まるで戦争ですね。蚊相手の」

 

「そうだよ! あたしはもう刺されない! だってたぶん、あたしが甘い匂いするの、スイカ食べすぎたせいなんだよ……!」

 

「……いえ、性格の甘さではなく、体質の問題でしょう」

 

「それを言わないでよ!!」

 

思わず笑みがこぼれたトネリコは、手にしていた麦茶のグラスをそっと妹に差し出した。

 

「どうぞ。“出陣”前の給水タイムです」

 

「サンキュー、我が軍の大本営っ!」

 

ピシッと敬礼する妹に、トネリコの表情が少しだけ緩む。

 

「でも、そんなに完璧にしてしまっては……」

 

「……え? まさか?」

 

「蚊の標的が私に集中するだけでは?」

 

「ちょっとぉぉ!? それって蚊がフルオートで姉上にロックオンってこと!? まずいまずい!」

 

「ですので、今夜は“交代制”にしましょう。あなたが先に寝て、私が起きて見張り番。二時間経ったら交代です」

 

「そんな深夜シフトみたいなルール、家庭内に導入されるのおかしくない!?」

 

「当然です」

 

トネリコは鞄から小さなノートを取り出し、“夜間当番表”という見出しを真顔で書き始めた。

 

「姉妹間での協力こそ、蚊に対する最強の防御策なのですから」

 

「うぅ、論破されてるのに納得したくないこの気持ち……」

 

どこか釈然としない様子で、しかし頷くしかない妹だった。

 

……と、そのとき。

 どこからか「カサ……カサ……」という、乾いた音が響いた。

 

「……今の、なに? なに今の!? “歩いてる系”の音なんですけど!?」

 

アルトリアが麦茶のグラスを握ったまま、ピタリと動きを止めた。トネリコも、手を止めて耳をすます。風の音ではない。虫の羽音でもない。だが、確かに這う音だ。

 

「お姉ちゃん……今、廊下から聞こえなかった?」

 

無言のまま、トネリコは蚊帳をくぐって外へ出る。背筋をまっすぐに伸ばしながらも、指先はわずかに震えていた。

廊下の隅に目を向けると――いた。

 

「っ……これは……!」

 

額に汗がにじむ。喉の奥がごくりと鳴る。虫が苦手なトネリコにとって、それはまさに悪夢のような光景だった。心臓が早鐘のように鳴り、手足の先まで冷たくなる。

 

「ムカデ……!? やっば!? あれレベル違うんだけど!? ドラゴン級でしょあれ!!」

 

蚊帳の中から顔を覗かせたアルトリアが、顔面蒼白で呟いた。さっきまでの陽気さは消え、瞳には恐怖だけが浮かんでいる。

 

「お姉ちゃん! どうする!? このバトル、さすがにボス戦じゃない!?」

 

「……だ、だいじょうぶ……私が……た、対処、します……っ」

 

声は震えていた。視線はムカデに定まらず、それでも妹を守るために、トネリコは覚悟を決める。

 

そっと距離を詰めるが、ムカデは気配を察知したのかするりと方向を変え、畳の隙間に逃げようとする。

 

「逃げられるわけには……っ!」

 

勇気を振り絞り、トネリコは一閃。しかしわずかに届かない。

 

「アルトリア、前から回り込んで!」

 

「む、無理無理! あたしあれ絶対むりぃぃ! この世の終わりのビジュアルしてるもん!!」

 

「お、お願い……一瞬でいい、声で牽制を……っ!」

 

「ええええ!? よ、よしっ……叫ぶからね!? 叫ぶよ!? ……うわああああああああ!!」

 

全力の絶叫。

 

驚いたムカデが一瞬、進路を誤る。その刹那、トネリコは目をぎゅっと閉じて、全身の力を込めて新聞紙を振り下ろした。

 

乾いた音が、部屋に響く。

 

ピクリと動きを止めるムカデ。

 

「……戦果、追加確認。第二の敵も、排除完了です……た、たぶん……」

 

ゆっくりと立ち上がるトネリコ。膝が少し笑っていたが、それでもやり遂げた安堵が全身に広がっていく。緊張から解放されたその姿に、アルトリアは思わず駆け寄る。

 

「……っ、お姉ちゃん……!」

 

妹の顔には、恐怖と安堵、そして心からの尊敬の笑みが浮かんでいた。

 

「やっぱり……お姉ちゃん、虫界のラスボス級だよ……!」

 

「……ふふ、私はただの、虫が来ると叫びたくなる系の田舎姉ですよ……」

言いながらも、ほんの少しだけ頬が火照っていた。

 

「じゃあ、交代制じゃなくて……今夜は、一緒に寝ようか」

 

ぽつりと呟いたアルトリアの声は、どこか安堵に満ちていた。

 

「そのほうが、怖くないし……っていうか、すぐ隣で“戦力”待機してほしいし……」

 

「……いいですね。並んで寝るなんて、まさに有事対応ですね」

 

並んで蚊帳に入るふたり。

その夜、部屋には優しい寝息と、わずかに煙る蚊取り線香の香りが漂っていた。

外ではまた、どこからともなく虫の声。

 

その夜。

 

蚊帳の中、アルトリアはいつもよりも早く、すぅ、と息を吐いて眠りについた。

 

まだ少しだけ汗がにじむ夜。だが、蚊帳の内側は不思議と安心感に包まれていた。焚かれた線香の香りが、ほんのりと空気を和らげる。

 

――守られている。

 

眠りに落ちる直前、彼女の意識はそんな感覚に包まれていた。

 

静かな夜だった。

 

読書灯の橙色の明かりが、トネリコの横顔を柔らかく照らしている。

 

ページをめくる音だけが、小さな空間に優しく響いていた。

 

見張り当番のトネリコは、背筋を伸ばしつつ文庫本を片手に時おり、ふと視線を蚊帳の外へ向ける。

 

「……今のところ、敵影なし。防衛ラインは健在……」

 

小さく、呟くように。だがその声には、どこか頼もしさがあった。

 

風鈴の音が、どこか遠くで鳴っていた。夏の終わりを予感させる涼やかな風が、ほんのわずかに縁の隙間を撫でる。

 

時が過ぎる。ページが一冊を終えたころ。

 

トネリコは静かに立ち上がり、蚊帳の端をそっと開けた。中で眠る妹の寝息が、かすかに聞こえてくる。

 

「……アルトリア、交代の時間です」

 

声は優しく、それでいてきっちりとした響きを持っていた。

 

「……んにゃ……」

 

アルトリアが、むにゃむにゃと寝返りを打つ。

 

「起きてください。あなたの番です」

 

「むー……あと五分……いや、夢で見張りやっとくから……」

 

布団をぎゅっと抱きしめて、顔を埋める妹に、トネリコはやれやれと微笑んだ。

 

「三分なら譲歩しましょう。交渉は成立したとみなします」

 

「けちぃ……交代制の鬼……」

 

それでも、アルトリアはのろのろと体を起こす。髪が少しだけ乱れていて、眠たげな瞳が、どこか子供のようだった。

 

そんな妹の頭に、トネリコは静かに手を添え、毛布を整える。何も言わずとも、その手はとても優しかった。

 

ようやく自分の番が終わったと、トネリコは布団に身を横たえる。身体の芯に残る熱が、冷たさに吸われていく感覚が心地よかった。

 

「お姉ちゃんってさ、ほんとに蚊に刺されないよね……タフネスの極み……」

 

アルトリアが、ぼんやりとした声で言った。

 

「……鈍感なだけかもしれません。蚊からも“こいつ感知できない”って思われてる可能性もあります」

 

蚊に刺される痛みにすら、気づかない。そう言うトネリコの声には、わずかに照れたような響きがあった。

 

「……でも、そういうとこ、ちょっとだけヒーローっぽいなって思う」

 

ぽつりと、アルトリアは言った。

 

トネリコはその言葉に返さなかった。ただ、ゆっくりと目を閉じた。

 

けれどその頬には、どこか微かに、嬉しさが滲んでいた。

 

 

翌朝。

 

「お姉ちゃーん! 聞いて聞いて! あたし刺されてなかった! 史上最高の快眠! 作戦大☆成☆功っ!」

 

寝間着姿のまま、アルトリアが勢いよく台所に飛び込んできた。顔は満面の笑みで、目尻がくしゃっとしている。よほど嬉しかったのだろう。

 

「それは……何よりです。夜の見張り係としても報われました」

 

トネリコは味噌汁をよそいながら、穏やかに目元を細めた。朝日が差し込む台所で、白い湯気がふわりと立ち上る。味噌と出汁の香りが、ほのかに心を緩める。

 

「でもやっぱりさ、お姉ちゃんが隣にいると、無敵って感じするんだよね。蚊も逃げてく気がするっていうか……いや、事実逃げてるよあれは!」

 

そう言って、アルトリアはぽすんと椅子に座り込んだ。どこか眠たげな声と、満足げな表情。

 

「……それは、お互い様……だと思っておきます。たぶん」

 

トネリコは少し照れたように答えた。ふと視線が交差して、ふたりはほんの短い沈黙を共有した。

 

そんな、静かで温かな朝。

 

窓の外には、まだ微かに線香の香りが残っている。芝生の上には朝露が光り、陽を受けて小さな宝石のように輝いていた。

 

――夏の小さな戦争は、姉妹の勝利に終わったようだった。

 

その日の午前中は、ふたりで家の掃除をすることになった。

 

箒の音が畳を擦るたび、細かな埃がゆらりと舞い上がる。障子の桟を雑巾で拭くアルトリアの額には、すでにうっすらと汗が滲んでいた。

 

縁側の戸を開け放つと、稲の匂いを乗せた風がさわさわと流れ込んでくる。夏の田舎がそこにあった。

 

「やっぱり、お姉ちゃんって几帳面だよね。ほこりセンサーでも内蔵してんの?」

 

雑巾をすすぎながら、アルトリアがふと漏らす。声には、どこか尊敬と呆れが混じっていた。

 

「いえ。ただ単に……ほこりと和解できない体質なだけです」

 

素っ気なく返しながらも、トネリコの口調にはわずかに照れがにじんでいた。

 

「それ、几帳面って言うの! あたしなんて、“ほこり? 生き物じゃないしセーフ”って思ってるし」

 

そう言いつつも、アルトリアは器用な手つきでガラス戸を磨いていた。最初は不器用だったあの子も、少しずつ手際がよくなってきている。

 

「……あなたも、上達してますよ。今日のあなた、雑巾に愛されてます。多分、前世で雑巾だったんでしょう」

 

ぽつりと、トネリコが言った。

 

「えっ、ほんと!? って、え? えぇ? 前世で雑巾!?」

 

驚きすぎて、アルトリアの手が止まる。

 

「ううん、たぶん高級雑巾。絹混じりの。きっと、縁側専門で使われていたような……」

 

「え、なんで急にそんな雑巾経歴が!? ちょっと、なにその過去持ちみたいな!」

 

「そりゃもう、今日のあなたの拭き方……動きに迷いがない。雑巾の扱いが手に馴染んでる。これはもう、業です。職人の域」

 

「いやいやいや! そんな称号いらないよ!? なんかこう、もっとこう……輝くやつがよかった! “掃除の妖精”とかさあ!」

 

「妖精……? いえ、今日のあなたは“畳に寄り添う系の地霊”という印象です」

 

「どんどん話がマニアックになってく~!!」

 

ぶんぶんと雑巾を振り回すアルトリア。その姿が妙に板についてきたのを見て、トネリコは口元を指で隠しながら、くすくすと笑った。

 

掃除が一段落した頃。

 

トネリコは冷蔵庫から冷えたスイカを取り出し、てきぱきと包丁を入れる。赤く熟した果肉が、夏のご褒美のように覗いていた。

 

「はい、どうぞ。カットスイカの女神よりお届けです」

 

「やったぁ! さすが姉上、世界一スイカの似合う人っ!」

 

庭に面した縁側で、ふたり並んで腰を下ろす。スイカをかじると、甘い果汁が一気に口の中に広がった。

 

シャリッという音と、くすくすと笑う声。汗がにじむ午前中の風景に、どこか涼しさが戻ってくる。

 

「うまっ……! これぞ、夏の正義ぃ〜!」

 

「……ですね。“夏の果実、即・正義”です」

 

ほんの少し、トネリコの声が弾んでいた。

 

風がまた、稲の香りを運んできた。

 

「……今日も、暑くなりそうですね。麦茶製造機、フル稼働決定です」

 

縁側に腰を下ろしながら、トネリコが空を仰ぐ。まだ午前の陽射しだというのに、じわりと汗ばむ気配が肌に張りつくようだった。

 

「でもさ、なんか……夏が終わる匂い、しない? いや、気のせいじゃなくて、鼻が察知してる」

 

アルトリアはスイカの種をぷっと庭へ飛ばし、青空を見上げて目を細めた。柔らかな風が頬を撫で、湿り気の中にほんのりと涼しさを感じる。

 

「風が、ちょっと冷たくなった気がする。なんか、扇風機の“弱”くらい」

 

「ええ。日が暮れるのも、少しずつ早くなってきましたから。……それに、セミが気の抜けた声出してきてます」

 

トネリコの声は静かで、どこか名残惜しさがにじんでいた。

 

そんな他愛のない会話が、妙に心地よかった。

 

ふたりのそばで風鈴がちりんと鳴る。昼下がりの光は庭をやわらかく包み、青空の向こうでは入道雲が気まぐれに形を変えていた。

 

「……ねえ、お姉ちゃん」

 

「はい。どうしました、スイカの種が喉に詰まりました?」

 

「違うわ! えっと……来年の夏も、またこうして過ごせるのかな」

 

アルトリアの声は、ほんの少しだけ不安を帯びていた。季節の終わりに感じる、言葉にしづらい寂しさのようなもの。

 

唐突な問いかけに、トネリコはふっと微笑む。そして、迷いなく言葉を返した。

 

「もちろんです。来年も、再来年も。その次の夏も、スイカ冷やして待ってます」

 

「そっか……うん、そうだよね! その時は、スイカの種飛ばし大会もやろ!」

 

アルトリアはぱっと表情を明るくし、種を吐き出して満面の笑みを浮かべる。その無邪気な笑顔を見て、トネリコの胸の奥が、ふっと温かくなる。

 

夏の終わりは少しだけ切なくて、だけどその分、今このひとときが何よりも愛おしかった。

 

遠くで蝉が鳴き、空の端では入道雲がゆっくりと姿を変えていく。季節は巡っていくけれど、姉妹の時間は変わらず、縁側の上にやさしく流れていた。

 

午後になって、空には薄く雲が広がっていた。

 

青さはまだ残っているけれど、その輪郭はどこか柔らかく霞んでいて、夏の終わりが近いことを知らせていた。

 

「……お姉ちゃん。今日って、風強くなるかな?」

 

「天気予報では、夕方にちょっとゴネるかもしれないそうです」

 

トネリコの返事を聞いたアルトリアは、小さくうなずきながら庭先を見やる。干されたシーツが風に揺れ、まるで誰かの手招きのようにひらひらと舞っていた。

 

「そっか……じゃあ、早めに取り込んじゃおう。洗濯物が旅立つ前に!」

 

そう言って立ち上がると、アルトリアはいつになく手際よく洗濯ばさみに手をかけた。

 

「昔はさ、取り込むのも全力でサボってたのにね。自分でもびっくりだよー」

 

「成長ですね、怠け姫から洗濯侍への進化です」

 

「えへへ……やだ、なんかカッコいい気がしてきた!」

 

トネリコはその背中に目を細める。無邪気で、ちょっと騒がしくて、けれど時折見せるこうした“変化”が、何よりも嬉しかった。

 

「じゃあ、あたしはタオル係ね! お姉ちゃんはピンチ外し職人、よろしくっ!」

 

「了解しました。プロの手並み、見せてあげます」

 

ふたりでリズムよく洗濯物を畳んでいく。陽射しをいっぱいに吸い込んだ布地は、夏の匂いがして、どこか懐かしくさえ感じられた。

 

最後の一枚を取り終える頃には、風が心なしか涼しくなっていて、ほんのり秋の気配が混じっていた。

 

「……あたし、夏ってちょっと苦手だったんだよね。暑いし、蚊は出るし、宿題は終わらないし」

 

アルトリアがぽつりとこぼす。けれど、その横顔には確かな穏やかさがあった。

 

「でも、今年はさ……楽しかったかも。お姉ちゃんと、こうして過ごせて。虫さえいなければ完璧だったけど」

 

トネリコは、すぐには答えなかった。

 

けれど、ゆるやかに微笑むだけで、それがすべての返事になると知っていた。

 

沈黙すら、やさしく満たされていく。

 

日が傾き始め、縁側に吊るされた風鈴が、ちりん、と寂しげに鳴る。

 

それでも――

 

この日々がふたりにとって、かけがえのない記憶となることだけは、確かなことだった。

 

縁側のそばに置かれたスイカの皮には、ふたりの笑い声の名残がまだ残っていた。

 

「……じゃあさ、明日はどこ行こっか?」

 

ふいに、アルトリアが声を弾ませる。

 

「え? また虫がいない場所の作戦会議ですか?」

 

「せっかくだし、どっか行こうよ! 夏休み、あとちょっとしかないんだもん! バテる前に勝負しかけようよ!」

 

トネリコは少し驚いたように目を瞬かせて、それから静かに微笑んだ。

 

「……そうですね。明日は、少し早起きしましょうか。気合い入れて、朝から遠足準備です」

 

夏の終わりを惜しむように、姉妹の時間はまたひとつ、新しい一日へと続いていく。

 

――そしてその翌朝、ふたりを待っていたのは、小さな冒険と、意外な出会いだった。

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