トネリコとアルトリアの田舎日和   作:イモ

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トネリコ、フタを閉じると蒸気が立つ

湯気に包まれた浴室内。アルトリアが背中を丸めて、バスチェアに座り込んだ。泡立てたボディタオルを握りしめながら、どこか遠くを見つめている。

 

 

 

 「お姉ちゃん、文明ってさ……どこまでが許されると思う?」

 

 

 

 「風呂場にロケットを持ち込んだ時点で、境界線はとうに越えています」

 

 

 

 トネリコは、シャワーの温度を確かめつつ、泡のついたシャンプーボトルをきゅっと握った。蓋が少しだけ開いていて、今にも“文明の逆流”が始まりそうだった。

 

 

 

 (どうしてこの子は、風呂場すら実験施設に変えてしまうのか……)

 

 

 

 洗面器の中では、ぬるま湯が波紋を描きながら揺れている。まるで「落ち着いて」「深呼吸を」と語りかけてくるようだったが、横のアルトリアは泡の山を築いて何かを彫刻し始めていた。

 

 

 

 「見て、お姉ちゃん。“泡の文明塔”!」

 

 

 

 「その文明、耐水性がゼロです」

 

 

 

 「うわぁっ、ちょっと崩れた! でもまだ再建できる!」

 

 

 

 「崩壊しても諦めない姿勢だけは評価します」

 

 

 

 (問題は、何を目指しているのかが謎な点ですが……)

 

 

 

 そのうち、アルトリアがバスボールを取り出した。どこかで見覚えのある、紫と緑のマーブル模様。以前、炭酸ガスが想像以上に暴れて排水口を一瞬だけ“火山口”にした、あの因縁の入浴剤だ。

 

 

 

 「今日はこれを使って、“水面下の実験”を――」

 

 

 

 「待ってください。それは、文明の封印指定にしたはずです」

 

 

 

 「ええっ!? でも、香りは好きなんだよ……ラベンダーと、……なんかこう……科学?」

 

 

 

 「“科学の香り”という時点で、わたしは不安です」

 

 

 

 すでに湯船の中に沈めかけていた手を、トネリコがそっと止める。アルトリアの肩が、しゅんと落ちる。

 

 

 

 (これは……代替案が必要ですね)

 

 

 

 「……代わりに、ミントの入浴剤があります。水中で爆発しませんし、香りも“安心感”寄りです」

 

 

 

 「……それって、文明?」

 

 

 

 「たぶん、“調和型文明”です」

 

 

 

 「じゃあそれで!」

 

 

 

 すっかりテンションを立て直し、アルトリアは今度こそ泡と湯の中で足をパタパタとさせ始めた。その姿は、まるで“実験よりも入浴を楽しむ”という文明の進化系だった。

 

 

 

 トネリコも、ようやく背を浴槽に預ける。静かな湯音と、少しのミントの香り。熱すぎず、ぬるすぎず――絶妙に「ちょうどいい」と思える空気。

 

 

 

 (……ようやく、文明にも平穏が訪れましたか)

 

 

 

 が――。

 

 

 

 「お姉ちゃん、お風呂ってさ、“水中でのロケット設計”とかできると思う?」

 

 

 

 「……ミントの香り、もうちょっと強めのものにしてきます」

 

アルトリアは、湯の中でバスボールの残骸を手のひらにのせながら、真剣な顔でうんうんと頷いていた。

 

 「……この泡の粒子の感じ、てのひら三号の“水中スラスター”に使えるかもしれない」

 

 「その発言、十割がた風呂でしか成立しない単語ですね」

 

 トネリコは、湯船の端に肘をつきながら、静かに天井を見上げた。見慣れた浴室の天井には、水滴がぽつぽつと浮かび、まるで「本日の試練:終了」の合図を出しているかのようだった。

 

 しかし――隣にいる“文明の柱(熱血派)”は、まだ終わらせる気配がない。

 

 「お姉ちゃん、次の三号機は、水中から垂直にジャンプするギミックにして――それで、飛び出す瞬間に風を受けて、空中でひと回転! どう思う?」

 

 「言っていることは完全に魔法ですが、熱意だけは受け取りました」

 

 アルトリアは、湯の中で両手を組み合わせたり離したりして、空中回転の軌道をイメージしているらしい。その姿は、どこか遊泳するクラゲにも似ていた。

 

 「そして着地地点には、タオルの滑走路! そこにスムーズに着水して、エンディングへ!」

 

 「文明、着地まで計算済み。……なのに、たいていその“計算”が現場で裏切られるのが世の常ですね」

 

 ふぅ、とトネリコは長い息をついた。湯気の中に、諦めと少しばかりの親しみが混ざる。

 

 「でもさ、ちょっと思わない? こうやって、お風呂に入りながらでも作戦会議できるのって、大人っぽいよね!」

 

 「あなたの中で“大人”の定義が、わたしの十倍くらい柔軟で助かります」

 

 それでも、湯に浸かりながら語り合うこの時間は――悪くなかった。

 

 お互いにびしょぬれで、思考回路は完全にゆるゆる。それでも、なぜか気持ちはどこかすっきりしていた。

 

 「ね、お姉ちゃん」

 

 「なんでしょう」

 

 「次は……“てのひら三号・宇宙編”にしようと思ってるんだけど」

 

 「風呂上がりの水分補給と、宇宙開発のステップを同列に語らないでください」

 

 そう言いながらも、トネリコはゆっくりと浴槽の縁に手をつき、立ち上がった。

 

 明日は――また、何かが起きる。

 

 それでもきっと、ふたりでなら受け止められる。

 

 いや、もしくは避けきれず直撃するだろうけれど……それでもまあ、なんとかなる。

 

 (文明の柱、今夜も倒れず)

 

 そんなことを思いながら、ふたりは湯気の向こうに消えていった。

 

浴室のドアがキィ、と音を立てて開いたとき、トネリコはまず最初に「違和感」を覚えた。

 

 

 

 視界に飛び込んできたのは――床に敷き詰められた複数のバスタオル。そして、その中央に座しているアルトリア。

 

 

 

 「……あなた、それ、なにをしている最中ですか」

 

 

 

 「発射場の最終調整です!」

 

 

 

 即答。

 

 

 

 その表情はやけに誇らしげで、自分で敷いたタオルに囲まれたその様子は、もはや“文明の座敷童”である。

 

 

 

 「お姉ちゃん、このバスタオルの厚みと繊維の反発力が、空中ジャンプ時のブーストになるかもしれないって気づいたんだ!」

 

 

 

 「そのひらめきの原理を、わたしにも三歳児にもわかるように説明してください」

 

 

 

 アルトリアは手にした空のペットボトルを軽く振ってみせた。

 

 

 

 「つまりね? この下にバスタオルがあると、発射の衝撃が和らぐから“跳ね返り力”が活かせるの!」

 

 

 

 「それ、ただの反動の無効化では……?」

 

 

 

 トネリコは眉間を揉みながら、もう使った記憶のあるバスタオルが3枚も犠牲になっていることを確認した。悲しみよりも先に、“もったいない精神”が騒ぎ始める。

 

 

 

 「……ちなみに、これは“てのひら三号”ですか?」

 

 

 

 「うん! 三号は軽量化に成功してるんだよ。中に炭酸、八分目!」

 

 

 

 「余白が不穏です。暴発の未来しか見えません」

 

 

 

 アルトリアは、飛ばす準備を整えたペットボトルにゴム手袋をかぶせると、床に跪いた。

 

 

 

 「では! 発射準備開始! 今回のコンセプトは“やさしさと跳ね返り”!」

 

 

 

 「やさしさ要素、どこですか?」

 

 

 

 ゴム手袋の空気をぎゅうぎゅうに詰めるその手つきに、一切の“やさしさ”は存在しなかった。あるのは荒ぶる好奇心と暴走するDIY精神のみ。

 

 

 

 「カウント開始! さんっ、にーっ――」

 

 

 

 「アルトリア、一度だけ冷静になってください。今その方向、洗面所の鏡です」

 

 

 

 「えっ、あぶなっ!」

 

 

 

 ギリギリで進路修正しようとしたその瞬間――ゴム手袋が、“ぷしゅっ”という間の抜けた音を立てて脱走した。

 

 

 

 「て、てのひら三号ー!? お姉ちゃん、キャッチィ!」

 

 

 

 「無理です! いま完全に予測不能軌道です!!」

 

 

 

 ペットボトルは、バスタオルの摩擦で跳ね、洗面ボウルをかすめ、トネリコの足元をかすめ、そして――

 

 

 

 「――あっ、あそこ!」

 

 

 

 ふたり同時に指を差した先。

 

 

 

 天井近くの換気扇のフードに、しっかり刺さるように突き刺さっていた。

 

 

 

 「文明……空をも制す……?」

 

 

 

 「違います。“文明、予期せぬ角度から裏切られる”です」

 

 

 

 風呂場の静けさに、ふたりの心拍だけがぽかぽかと響いていた。

 

 

 

 そして次の瞬間――

 

 

 

 「お姉ちゃん……次は風の流れも計算に入れようと思うんだけど」

 

 

 

 「そろそろ“天候と気圧”まで考慮しそうですね、あなた……」

 

 

 

 それでも、ふたりは笑っていた。

 

 

 

 タオルはびしょ濡れ、ロケットは換気扇に挟まり、文明はあやうい足場の上。

 

 

 

 でも。

 

 

 

 (この時間は、悪くないかもしれません)

 

 

 

 そんなことを思いながら、トネリコは――洗濯機の容量を心配していた。

 

翌朝、トネリコは目を覚ますなり、まず“換気扇の悲劇”を思い出した。

 

 

 (……あれ、ちゃんと取れてましたっけ)

 

 

 

 枕元で小さくうなずくと、ふわりと布団をめくり上げて、そっと立ち上がる。隣を見ると、すでにアルトリアの姿はない。

 

 

 

 

(……嫌な予感がします)

 

 

 

 

 洗面所を覗くと――いた。全力でいた。今朝もペットボトルを前に、何やら細工をしている妹の背中。

 

 

 

 「お姉ちゃん、おはようーっ!」

 

 

 「おはようございます……何を作っている最中ですか、“てのひら四号”ですか?」

 

 

 

 「ちがうよ。今回は《てのひら・カイト型》!」

 

 

 

 

 

 トネリコは小さく目を細めた。

 

 

 

 

 「凧ですか。しかも、洗面所で作るものではないと思いますが……?」

 

 

 

 「大丈夫! 今日は天気がいいし、朝食前にちょっとだけテスト飛行しようと思って!」

 

 

 

 

 「ちょっとだけ、という言葉に対する信用は、昨日の換気扇で完全に失われてます」

 

 

 

 

 しかし、アルトリアの目は輝いていた。“何かを飛ばす”ということに、どうしてこうも夢中になれるのか――。

 

 

 

 

 「見て見て! しっぽはティッシュで作ったんだよ!」

 

 

 

 

 「それは“空中分解フラグ”という名の尻尾にしか見えません……」

 

 

 

 

 とはいえ、すでに準備は整っている。凧に仕立てられたペットボトルの底に、ストローで風穴を空けたうえ、羽のような切れ端がセロテープでぺたりと貼り付けられていた。

 

 

 

 

 「これで、空を滑るように――ふわぁっと!」

 

 

 

 

 「滑る以前に落下しそうですが……」

 

 

 

 「でも、お姉ちゃん、滑空ってロマンあるよね!」

 

 

 

 

 「文明に“ロマン”を求めるのは、まだ早いと思います」

 

 

 

 

 

 ふたりの間に、静かで不穏な朝の空気が漂う。

 

 (せめて、台所に行く前に“なにかが飛ばない”よう祈るべきでしょうか……)

 

 

 

 

 タオルと朝食の準備が控えている現実が、もうすぐ“てのひら・カイト型”の軌道に巻き込まれるのだろうと、トネリコは小さくため息をついた。

 

 そして、アルトリアは言った。

 

 

 

 

 「じゃあ、飛ばしてくるねっ!」

 

 

 

 その足取りは軽やかで、風を味方にできる未来しか見えていないようだった。

 

その後の静けさは、まるで“嵐の前の洗濯物たたみタイム”だった。

 

 トネリコが台所に戻ると、まだ朝食の準備は途中のまま。けれど、炊飯器のタイマーはちょうど切れていて、ふんわりとした湯気が蓋の隙間から漏れ出していた。

 

 (……さて、白米は成功。問題は副菜です)

 

 

 

 

 

 冷蔵庫の扉を開け、昨夜の残り物を確認。小皿に分けた煮物と、きゅうりの浅漬けがそのまま置いてある。

 

 (この流れで、焼き魚など加えられれば理想ですが……)

 

 

 

 

 考えながら取り出そうとした瞬間――どこかで、“ごそっ”と布のこすれる音がした。

 

 

 

 「……また妙な音が……」

 

 

 

 

 

 警戒しつつ振り返ると、そこには……洗濯カゴ。いや、正確には“洗濯カゴと一体化しつつあるアルトリア”だった。

 

 

 

 

 「お姉ちゃん! すっごい発見! 洗濯カゴって、宇宙船のコクピットっぽくない!?」

 

 

 

 

 「“ぽさ”だけで使途を変えないでください。洗濯物の居場所が消えます」

 

 

 

 

 「でも、でもね! ここにちょっとひざ掛けを掛けて、ランチョンマットを計器パネルに見立てると――」

 

 

 

 

 「その発想力を、どうにか皿洗いのほうに活かせませんか」

 

 

 

 

 アルトリアはぴょんと洗濯カゴから飛び出すと、今度はそのカゴを抱えて風呂場へ直行し始めた。

 

 

 

 「“てのひら・ドッキングベース計画”、始動っ!」

 

 

 

 

 

 「洗濯機とドッキングさせないでください、絶対に回さないでください……!」

 

 

 

 トネリコは冷蔵庫の前で呆れ顔のまま立ち尽くす。いつか“我が家の電化製品保全リスト”という書類を作成するべきかもしれない。しかも項目一番上に「アルトリア接近禁止区域」と明記して。

 

 

 

 

 (まったく……宇宙に憧れる文明って、地に足ついていませんよね)

 

 そう思いながら、ふと台所の片隅を見ると――そこには、朝食用に切ろうと思っていたトマトが。

 

 

 

 ……そして、その横に置かれていたのは――

 

 

 

 

 「……紙皿? なぜここに?」

 

 

 

 

 

 紙皿には、“惑星風の模様”が色鉛筆でぐるぐる描かれていた。しかも裏には「てのひら宇宙局:食料搭載テスト中」とマジックで書かれている。

 

 

 

 

 

 「……つまり、トマトが惑星扱い、ということでしょうか」

 

 

 

 

 そしてまた、風呂場のほうから。

 

 

 

 

 

 「お姉ちゃん! 今ね、洗濯機の蓋がちょっと斜めってて、それが“シャトル発進角”にベストな気がするの!」

 

 

 

 

 

 「いけません! 家庭用白物家電を、地球の重力から解放してはいけません!」

 

 

 

 

 叫びながら、トネリコは炊飯器の保温スイッチを切った。

 

 (このあと、無事に朝ごはんを食べられるかどうかすら……宇宙規模で不透明ですね)

 

 アルトリアが風呂場に洗濯カゴを持ち込んでから、およそ五分。

 

 トネリコは静かに炊き立てのごはんを茶碗によそいながら、耳をそばだてていた。いつ、どこで、なにが爆発音に変わってもおかしくないのが“文明の探求”だからだ。

 

 

 

 

 

 (しかし、妙に静かですね……)

 

 

 

 

 

 むしろそれが不安だった。

 

 

 

 

 

 

 心配になって浴室をのぞくと、アルトリアは床にしゃがみ込んで何かを真剣な目つきで見つめていた。洗濯カゴの中には、たたまれたバスタオルとトマトの乗った紙皿が……?

 

 

 

 

 「……これが、今朝の“食料搭載テスト”ですか」

 

 

 

 

 

 「あっ、お姉ちゃん! 見て見て! このトマト、なんか惑星っぽくない!? しかもこの皿、カゴに入れると“重力感”あるんだよ!」

 

 

 

 

 「……重力感は気のせいです。トマトに物理法則を背負わせないでください」

 

 

 

 

 アルトリアは嬉しそうに皿を抱え、まるでNASAの研究員かのような手つきで洗濯カゴにセットしていた。

 

 

 

 「今ね、宇宙食の耐震テストをしてたの。これ、洗濯機の揺れでも崩れなかったら“正式採用”できるかなって!」

 

 

 

 

 

 「……あなたまさか、本当に洗濯機を回そうとしていました?」

 

 

 

 

 「回してないよ!? まだ! ていうか、“耐震性”は洗濯機じゃなくて、冷蔵庫の棚でテストすればいいんじゃない?」

 

 

 

 

 その発想の転換には、トネリコも一瞬だけ感心した。

 

 

 

 

(……やろうとしてることは滅茶苦茶でも、発想そのものは案外まっとうなのかもしれません)

 

 

 

 

 

 「でも、冷蔵庫に入れるにはラップがいるよね。あ、わたしが前に巻けなかったやつ!」

 

 

 

 

 

 「“文明のリベンジ”ですね。よろしいでしょう、今度はわたしが手伝います」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふたりは揃って洗面所を出て、再びキッチンへと戻ってきた。

 

 トネリコが引き出しからラップを取り出すと、アルトリアはきゅっと口を結んで気合いを入れた。

 

 「今回は、指で押さえながら引っ張る! 斜めにいかないように、ちょっとずつ!」

 

 「……そうです。落ち着いて、力まず、無理に真っ直ぐを狙わず、むしろ“丸く収める”心で」

 

 「そのアドバイス、哲学書に載ってそう」

 

 ふたりはラップの箱を挟み込みながら、慎重に端を引き出す。前回のように“自動巻き戻しスパイラル”にならぬよう、目と手をフル稼働させる必要があった。

 

 (この姿……まさに姉妹による“人力オートメーション”)

 

 「……お姉ちゃん、わたし気づいたよ。文明って、道具の便利さじゃなくて、“あきらめずに挑戦しつづける心”なんだね」

 

 「はい。あなたのような人がそれを言うと、妙に重みがあります」

 

 アルトリアが持つ皿に、少しずつ、丁寧にラップがかかっていく。

 

 すでに気配は漂い始めていた――勝利の、予感のようなものが。

 

「よし、ラップ貼り完了まであと3センチ……!」

 

 トネリコの指先は、まるで名人の弓道のごとく繊細に動いていた。一方、アルトリアは“ラップ支え係”という重要任務を任され、舌をぺろりと出して全集中している。

 

 「このままっ、このまま真っすぐ進めば……!」

 

 まるで敵陣を突破する騎士団のように、ふたりの指が冷えたトマトの周囲を制圧していく。ツヤツヤの果実は、ラップの透明な膜によってすでに半ば包囲済み。

 

 「ねぇお姉ちゃん、これさ、なんか……トマトが宇宙船みたいに見えてきた!」

 

 「安心してください。わたしには最初から、“無事に帰還できない船”にしか見えていません」

 

 それでも作業は続く。アルトリアは鼻息を荒くしながら、左手で皿を固定し、右手の指先でラップの端を小刻みに調整していた。

 

 「おっ……落ち着け、文明……! ここで気を抜いたら、また“無限折り返しゾーン”に突入しちゃう……!」

 

 そう、過去の敗北――第6話「ラップに敗北」が、ふたりの記憶に重くのしかかっていた。あのときは、ラップが指に巻きついて離れなくなり、最終的に“ミイラごっこ”に発展したという前科付きである。

 

 「ぴしっと、ぴしっと決めてください。いまこそ“リベンジ”です」

 

 「わかった……でも、あれっ!? わたしの指、静電気で吸われてる? ……いや、違う、これ、皿の汁?」

 

 「汁!? ちょっ、角度変えて、今、そっち傾けないで!」

 

 わずかに傾いた皿から、トマトのエキスがじわぁっとラップの裏に回り込み、気泡を閉じ込めながら広がっていく。

 

 「ぬわーっ! 透明なのに曇ってくー!」

 

 

 

 

「これが“情報の透明性”ってやつですかね……」

 

 だが、ふたりの手は止まらない。なぜなら、ここで止めたら、また“文明の崩壊”が始まるからだ。

 

 

 「でも、お姉ちゃん。これさ、いまの状況って、ラップ界で言うと“前線突破”してない?」

 

 「どちらかと言えば、“物資不足の中で布陣を立て直す撤退戦”に見えます」

 

 「じゃあ、撤退しながら包囲する感じでいこう!」

 

 

 

 

 

 意味はわからないが、気合いは伝わった。

 

 そして、ふたりの手元には、もはやトマトではなく――“使命感そのもの”が乗っているかのようだった。

 

 

ラップを片手に、トネリコは小さく息を吐いた。今度こそ――今度こそピタッと貼る。そう決めて、器の前に立つ。

 

 

 

 「お姉ちゃん、あたし、後ろから風よけするから!」

 

 

 

 

 アルトリアが両手を広げて構える。よくわからないが、勢いだけはある。隙間風の入るキッチンで、これは意外とありがたい。

 

 ラップの端を引き出して、片方の手でしっかり押さえる。今度は慌てず、慎重に。角を意識しながら、少しずつ器に沿わせていく。

 

 ……しかし、空気が入る。ピタッとならない。少しでも気を抜けば、ふわっと浮く。イライラというより、ため息が漏れそうになる。

 

 

 

 

 

「……静電気、今日も元気ですね……」

 

 

 

 

 

 ぼそっとつぶやくと、背後のアルトリアが、「がんばれ静電気!」と真逆の応援を飛ばしてきた。

 

 

 

 

 「応援する側、完全に間違ってますから」

 

 

 

 

 

 再度、持ち直して挑戦。角から丁寧に……指で撫でるように密着させる。今度こそ。今度こそ。

 

 が、ラップは器の縁をスルッと滑って、ぺろんと戻る。トネリコの手には、むなしい透明の端だけが残った。

 

 「……わたし、器と相性悪いんでしょうか」

 

 「ううん、ラップが気分屋なだけだよ! きっと!」

 

 フォローになっていない励ましに、トネリコは軽くまばたきしてから、深くうなずいた。

 

 

 

 「……では次は、“気分”に寄り添ってみます」

 

 

 

 

 再チャレンジ。今度は押さえる手を変え、器の角度も調整。少し体をかがめて、目線を器と同じ高さに揃える。

 

 

 

 (ここ……ちょっとだけ、空気が入りやすい)

 

 

 

 

 原因を見つけた気がした。慎重に、端から再び密着させていく。横ではアルトリアが、なぜか足踏みしながら応援を続けている。

 

 

 

 「さぁ……ラスト、いけるか……!」

 

 

 

 

 

緊張が高まるその瞬間――。

 

 

 「……あっ」

 

 

 またしても、わずかに引っかかった指先が、端を浮かせた。

 

 次の瞬間、ピンッと張っていたはずのラップが、器の縁から跳ね上がるように剥がれて――

 

 

ラップが、まるで「自由ってすばらしい!」とでも叫びたいかのように空中を舞った。

 

 ピラッ、パシャッ。

 

 そして、まさかの冷蔵庫の取っ手にぺたんと貼りつく。

 

 

 

 

 

 「……ちょっとだけ、誇らしげな位置に着地しましたね」

 

 

 

 

 トネリコは目を細めながら、ラップの端がまるで勝者のマントのようにはためく様子を見つめる。

 

 

 「お姉ちゃん、いまの見た!? あの曲線! あたし、感動したよ! なんか、こう……自由意志を感じた!」

 

 

 「感じなくていいです。あれはただの静電気と空気の流れの産物です」

 

 

 

 

 とは言いつつ、トネリコもほんの少しだけ感動してしまったのが悔しい。なんなんだ、あの美しい軌道。

 

 だが、現実に戻る。

 

 ラップはまだ、器の上にはいない。

 

 

 「……では、もう一度。今度は、両手で包み込むようにしてみましょう」

 

 

 

 

 気合いを入れ直すトネリコ。背後ではアルトリアがいつの間にかスマホを取り出し、なぜかタイムラプス撮影の準備をしていた。

 

 

 

「なにを記録しようとしてるんですか」

 

 

 

 

 

「ラップとお姉ちゃんの感動の再会……!」

 

 

 

 

 感動してるのはアルトリアだけだ。

 

 ともあれ、今度こそ。ラップをそっと引き出し、指先でふんわりと広げながら、器へ近づける。

 

 ……そのとき。

 

 バサァンッ!

 

 ラップの箱が、重みに耐えかねてシンクの中へダイブした。

 

 

 

「うわあっ!? ちょ、ラップが自爆した!!」

 

 

 

トネリコの手からすべてが抜け落ち、ラップの本体はくるくると転がりながら洗剤のボトルと激突し、その勢いでシンク内がラップまみれになった。

 

 

「……お姉ちゃん、それもう完全に“文明の崩壊”だよ」

 

 

 

「崩壊はやめてください。“ラップの独立戦争”くらいにしておきましょう」

 

 

 

 シンクの奥で、ラップが小さくパリパリと音を立てていた。

 

 

 

 

「さて。ここからどう立て直すかが、“文明の柱”の見せどころですね」

 

 

 

 

 そう。ここで諦めてはならない。わたしたちはまだ、この器を包んでいない。

 

 静かに再度手を伸ばすトネリコ。その横で、アルトリアがふと真顔になる。

 

 

 「……お姉ちゃん、もしかして今、文明ってラップじゃなくて“鍋のフタ”だったのでは?」

 

 

 

 

 「……今、それを言いますか」

 

 

 

 トネリコの指先が、静かに鍋のフタに触れる。ほんのり温かさが残るその金属の質感に、彼女は思わずまばたきをひとつした。

 

 

 

 (……たしかに、この重み。密閉感。そして、この絶妙な“収まり”。)

 

 

 

 今朝から繰り広げられたラップとの熾烈な攻防戦。その末に、ようやく辿り着いた“文明の答え”がこれなのかもしれない。

 

 

 

 「……敗北、ですか?」

 

 

 

 ぽつりと呟いた言葉に、隣のアルトリアがぴくりと反応した。

 

 

 

 「違うよお姉ちゃん、これはね――“進化”なんだよっ!」

 

 

 

 「“進化”というには、あまりにも素材が……レトロですが」

 

 

 

 「でもさ、結果的にピッタリだったんでしょ? しかも、洗いやすいし、エコだし……文明的じゃない?」

 

 

 

 

 「それを今言うなら……朝のラップ4回戦は何だったのですか」

 

 

 

 

 トネリコは鍋のフタをそっと器にかぶせる。かちり、と何の苦労もなく収まる音が響いた瞬間、彼女は深く肩を落とした。

 

 

 

 (……完敗ですね。あの巻き癖、静電気、指先の摩擦、すべての“敵”がいなかった)

 

 

 

 

 「しかも、目立たないから冷蔵庫の中でも邪魔にならないでしょ!」

 

 

 

 

 「……本当に、最初からこれでよかったのでは?」

 

 

 

 

 「文明って、試行錯誤の積み重ねでできてるんだよ」

 

 

 

 

 「……“ラップ3枚の犠牲”が積み重ね、ですか」

 

 

 

 

 タオルを持ち上げ、軽く冷蔵庫を拭くトネリコの手が、どこかしおれていた。いや、力強さを取り戻すには、まだ気持ちの整理が追いついていないのだろう。

 

 

 

 「お姉ちゃん……」

 

 

 

 「はい」

 

 

 

 「もしかして今、“ラップ”に謝ったほうがいいと思ってる?」

 

 

 

 「思ってません。けれど、少しだけ弔いたい気持ちにはなっています」

 

 

 

 “文明の敗戦記録”として、そっとくるんで捨てられたラップの端――あれが、今日一番の“努力の痕”だったのかもしれない。

 

 

 

 「でもね、わたしひとつ思いついちゃった!」

 

 

 

 

 「また嫌な予感しかしませんが、なんでしょう」

 

 

 

 「お弁当箱にも……このフタ、乗るんじゃないかなって!」

 

 

 

 

 「……やめてください、それは“文明の逆走”です」

 

 

 

 

 それでも、心なしかトネリコの表情が少し緩む。

 

 

 

 (もう、何が正解でも間違いでもなくなってきた気がしますね)

 

 

 

 フタは、ぴったりはまっている。今だけは、それでよかった。

 

 

 

 ――ただ、ふたりとも知らなかった。

 

 

 

 その鍋のフタの下で、ほんのわずかに湯気が籠もっていることを。

 

 

 

 そして、それが数時間後、“文明の予期せぬ蒸気事件”を呼ぶことに――なるかもしれない。

 

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