トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
日が少し傾いて、風が乾き始めたころ。
麦茶を飲み干したグラスが、縁側に三つ並んでいた。
一つはトネリコ用、もう一つはアルトリア用。最後のひとつは、途中まで麦茶が入ったまま、少しぬるくなっている。
「お姉ちゃん。あの麦茶、飲んでもいい?」
「あなたが忘れたまま、三十分ほど放置されていたものですね」
「う、うん……でも、こう……今なら、熟成された旨みがあるかなって」
「それは麦茶において期待すべき要素ではないと思いますよ」
アルトリアは口をとがらせて、慎重にグラスを持ち上げた。
指先で縁をつまんで、ごく小さく一口。
「…………ぬるい!」
「でしょうね」
「ぬるいけど……これはこれで……」
「おいしいんですか?」
「いや、ちがうの。これは……『たたかいのあとの味』!」
「まるで麦茶が何かを成し遂げたかのような言い方ですけど」
「麦茶は戦ったんだよ。夏の暑さと、私の渇きと、すだれの陰謀と」
「すだれに陰謀を持たせるのはやめてください。飛んできたのは風のせいです」
トネリコは畳の上で座り直し、濡れたコースターを軽く拭く。
アルトリアの隣では、先ほどまで脱ぎ捨てられていたエプロンが丸められていた。
「ところでお姉ちゃん。今日って、なにか予定あったっけ?」
「……ないですね」
「じゃあ、特別なイベントもなし?」
「ないですよ。あなたが勝手に“呪われたすだれ事件”と名付けたこと以外は、何も」
「じゃあこのまま、昼寝してもいい?」
「もちろん。いつもより多めに寝ても構いませんよ」
「お姉ちゃんも?」
「はい。麦茶を冷やすには、少し時間がかかりますし」
アルトリアはふわぁと大きなあくびをして、トネリコの隣にぺたんと座り込む。
「今日さ、なんか特に何もしてないけど、すごく楽しい」
「……わかります。何もなかったことが、少しだけごちそうみたいに感じますね」
「うんうん。麦茶のおかわりが、きょうのハイライトだったくらい」
「その認識で、何も問題ありません」
風鈴が、ようやく鳴った。
ふたりとも顔を上げた。
すう、と通り抜けた風が、縁側のすだれを揺らす。さっきまでの戦いの名残を感じさせない、穏やかな揺れだった。
「……すだれも反省してるのかもね」
「次に飛んできたら許しませんけどね」
「じゃあ、麦茶でも飲ませてあげよっか」
「すだれに?」
「“心を冷やして”ってことで」
「……その発想はなかったです」
ふたりはくすりと笑って、ゆっくりとごろんと寝転がる。
すだれの向こうに、少しだけ見える空があった。
白い雲が、麦茶色の空気の中で、なにかの形をつくっては崩していく。
「お姉ちゃん、次の麦茶が冷えたら起こしてね」
「起きてくれるなら、ですけどね」
「……大丈夫。夢の中でも、麦茶の音がしたら、起きるから」
そんなのんきなことを言って、アルトリアは静かに目を閉じた。
トネリコもそれに倣って、静かに目を閉じた。
風がまたひとすじ、家の中を吹き抜けていった。
静かな時間だった。
それはまるで、麦茶のなかに浮かんでいる氷のような――触れればすぐに溶けてしまいそうな、儚くて、やさしい間。
……だったはずなのに。
「うわあっ! 寝すぎたあああ!!」
「……ああ、起きましたか。おはようございます」
アルトリアの叫び声で、縁側の静寂はあえなく終了した。
「お姉ちゃん、なんで起こしてくれなかったのっ!?」
「ええ、あれほど“麦茶が冷えたら起こして”と言っておいて、グラスに氷を入れた瞬間、ぐるんっと寝返りを打たれまして……」
「記憶にございませんっ!」
「“あと五時間……”と寝言でおっしゃってましたよ」
「じ、自分がそんな大物みたいな寝言を……!?」
「寝言としては大物でしたね。麦茶はすっかり冷えきりましたよ」
アルトリアはがばっと立ち上がる。
「よし、それなら今すぐ飲まねば……!」
「まずは顔を洗ってください。目が据わってます」
「麦茶は命……! 顔より先に水分……!」
「顔の水分も忘れないでください……!」
麦茶をめぐるせめぎ合いが再び幕を開けた。
どうして我が家の麦茶は、こうも話題の中心になり続けるのだろうか、とトネリコは少しだけ遠い目になる。
台所に向かってぺたぺた走るアルトリアの足音を背に、トネリコは立ち上がり、そっと縁側を見やる。
さっきまで心地よく吹いていた風は、少し止まっている。
風鈴も鳴らない。ただ、干したタオルがゆらりと揺れていた。
その動きをぼんやり眺めていると――背後から、氷の鳴る音がひとつ。
「お姉ちゃん、はい。目覚めの一杯!」
「……ありがとうございます」
「さっき怒ってたけど、今のわたしは“氷の音で覚醒する女”だから!」
「肩書きの迷走がすごいですね」
ふたりは縁側に並んで座り直す。
トネリコが一口。アルトリアが一口。麦茶の温度が、ようやく今日のふたりにちょうどいい。
「……ふー。生き返るー……」
「お昼寝からの帰還にしては大げさですね」
「だって、寝る前に“ぷはあ”って言えなかったから。今、取り返してるところ!」
「なるほど。時間差ぷはあ、ですか」
「お姉ちゃんも、やってみる?」
「遠慮します。わたしには麦茶の“すん”くらいが合ってますので」
「すん……?」
「飲んだあと、すっ……て静かに息を吸う、あの感じです」
「……あ、それ、好き。麦茶“すん派”……ありだな」
「やはり分類するんですね……」
麦茶を挟んで交わされる、このどうでもいいような、でも妙に本気なやりとり。
トネリコは笑って、もうひとくち。
アルトリアはすでに、飲み干したグラスを逆さにして名残惜しそうに見つめていた。
「……やっぱり、寝起き麦茶は最強だな」
「ならば、もう一杯いかがです?」
「えっ、いいの!? おかわりしていいの!?」
「冷えてますから。今日の分、飲み切ってしまいましょう」
「やったああああっ!」
「……声が大きいです」
「すみませんっ! 麦茶がうれしすぎて……!」
トネリコが再び立ち上がり、台所へ向かう。
後ろから聞こえてくる足音がついてくると思ったら――
「……ついてこなくても、コップはひとつしか持てませんよ」
「大丈夫。おかわりは、ついてく過程もたのしいから!」
「……そのセリフ、ちょっと詩人っぽくて悔しいです」
グラスを手に、ふたりで歩く台所の廊下。
畳のきしむ音と、麦茶の入った瓶のわずかな揺れ。
その日の午後は、なにかが少しだけおかしかった。
風は吹いているのに、風鈴は鳴らない。
蚊取り線香の香りは弱く、すだれは機嫌よく揺れている。
でも、冷蔵庫の扉を開けた瞬間、世界が音を失った。
「…………あれっ?」
アルトリアが覗きこんだ冷蔵庫の中に、
いつもの――“あれ”が、なかった。
「……麦茶、ない」
「はい?」
トネリコがふり返ると、妹が凍りついたような顔で、瓶を掲げていた。
中身は――
ない。
「ま、ま、まさか……」
「……はい。最後の一杯、あなたがさきほど飲み干したものでした」
「え、でも……あれ、“飲み干していいよ”って言ってたじゃん……!」
「言いましたよ。ええ、わたしが冷やしておいた分を、あなたが飲むのは構いませんと」
「じゃあ……このあと冷やされる麦茶は……」
「……もう、ないです」
静寂。
風鈴が鳴らない理由が、ようやくわかった気がした。
「……麦茶が、絶滅した……」
「麦茶の絶滅って初めて聞きました」
「お姉ちゃん、いま、麦茶の出現から今日に至るまでの系譜をさかのぼって、麦茶の文明を心の中で見送ってる……?」
「してません。単純に、買い置きが切れていたことを悔いています」
「なんてことだ……! わたしたちは、麦茶のなき時代に投げ出された……!」
「飲み物が麦茶しかないわけではないんですけれど」
「だって! 冷水だと“すん”がないじゃん! ぷはあもないじゃん!」
「……“感情の余韻が薄い”とは思いますね、冷水は」
アルトリアは冷蔵庫を閉めて、がっくり肩を落とす。
まるで夏休みの終わりを目撃したかのようなテンションだった。
「じゃあ……あれか……。つまり、今日という日は……麦茶の、終わりの日……?」
「……いえ、終わりではなく、“一時的な空白”です。今から煮出せば、二時間後には飲めます」
「遠いっ!!」
「冷えるのを我慢できるなら、三十分後でも……」
「遠いぃぃぃっ!!」
アルトリアが床にごろんと倒れ込む。
肩に乗っていた“麦茶期待感”が一気に吹き飛んだような勢いだった。
「……せめて、幻でもいいから、麦茶の味を思い出せたらな……」
「幻の麦茶って、なんか昭和の小説みたいですね」
「お姉ちゃん……あれだよ、“幻の麦茶に会いに行く旅”……!」
「もうなんでもいいですね、あなたが楽しければ」
「麦茶の亡霊に導かれながら、旅の途中で、冷水と出会って心を通わせて……」
「その旅のラストが“伊藤園”とかになりそうなのでやめましょうか」
トネリコは、床に倒れた妹の背中を見つめて、そっと口を開いた。
「では、作りましょうか。麦茶」
「ほんとっ!?」
「麦茶亡き時代を嘆くより、未来の麦茶のために、いまできることをしましょう」
「お姉ちゃん、それ、めっちゃカッコいい!」
「今だけ、麦茶調合士ということにしておいてください」
「調合士……! かっこいい……! わたし助手やる!!」
「では、茶葉の場所を思い出すところからお願いします」
「え、どこだっけ?」
「……さっそく助手の資質が危ぶまれてますよ」
ふたりはキッチンへ向かう。
冷蔵庫の横の棚を開けたり閉めたりしながら、
「袋だった? 箱だった?」「ひも付きだった? ついてなかった?」と喧々囂々の末――
「あった! あったよーっ!」
「それ、煮出し専用のほうじゃありませんか……?」
「えっ」
次の麦茶までは、まだ少しかかりそうだった。
台所のテーブルの上に、麦茶パックの袋がどん、と置かれた。
その隣に、なぜか意気込んだ顔のアルトリアが立っている。
「麦茶……発見。目標、確認……!」
「まるで訓練中の兵士みたいな口調ですね」
「いえ、麦茶調合士の助手としての心構えです!」
「……なら、せめて声量は控えめにお願いします」
トネリコは鍋を取り出し、無造作に水を注ぎながらちらりと視線を横にやった。
その横では、アルトリアが麦茶パックを手にしてくるくると回しながら、何かを真剣に読んでいる。
「ええっと……“熱湯で煮出してから冷ましてください”って書いてある」
「そこは読むまでもなく、当然の手順です」
「わたし、助手だけど、読む係だから。重要な任務だから」
「では読む係として、鍋に入れる本数も確認してくれますか?」
「うん。……“水1リットルに対して1パック”ってある」
「今、鍋に2リットル入れましたので……?」
「えっ……えっ……!? 二本!? いきなりの数学……!」
「数字に動揺しないでください。落ち着いて、二本ですね?」
「二本!! 了解しました!!」
アルトリアがやたら誇らしげな顔で、パックを二本取り出し、そーっと鍋に沈める。
その手つきが、なぜか儀式のように慎重だった。
「ふふ……これが……麦茶の素……」
「言い方がいよいよ怪しいですね」
「なんかさ、煮出しって、魔法っぽいよね」
「はい?」
「だって、透明だったお湯が、だんだん色づいていくの。“茶色になれ~”って思いながら待つの、ちょっと楽しい」
「……たしかに、そういう感覚、ありますね」
「麦茶は魔法。で、お姉ちゃんは調合士!」
「そして、あなたは……?」
「うん……そうだなあ……“茶色を見守る係”!」
「ただの傍観者になってません?」
それでも、トネリコは笑いながら火を入れた。
鍋の下で、炎がぽっと灯る。その音が、昼間の静けさをほんの少しだけ塗り替えていく。
アルトリアは湯気が立ち始めた鍋を、じっと見つめていた。
真剣に。まるで、そこから本当に何かが生まれるのを待っているように。
「お姉ちゃん」
「はい?」
「麦茶って、どうしてこんなに落ち着くんだろうね」
「……理由、ですか?」
「うん。なんていうか、飲んだあとに“おいしい”より先に“安心”ってなる感じがして」
「……わかります。“落ち着く味”って言葉が似合う飲み物、他にはなかなかないですしね」
「麦茶って、夏のお守りなのかもね」
「……言葉選びが、ときどき詩人ですね」
「ふふん。助手ですから」
ふたりの間に、すこしだけ沈黙。
その間にも、鍋の中で色は少しずつ深まり、立ち上る湯気にかすかな麦の香りが混じり始めていた。
そして――
ふしゅっ、と音を立てて、沸騰の手前。
トネリコが鍋に蓋をして、火を止める。
「よし。あとは……」
「冷ますだけ!」
「はい。その間に、洗い物と……」
「麦茶の見守り!」
「まだ見守るつもりですか」
グラスを片付けるトネリコの横で、アルトリアはなぜかソファに座って正座していた。
正面には鍋。中には、これから冷やされる麦茶。
その姿は、ほとんど祭壇のようだった。
「……神様。どうか、いい麦茶になりますように……」
「何を祈っているんですか」
「こくまろな仕上がりを……」
「……麦茶に“こくまろ”って言葉、初めて聞きました」
ふたりは、そのまま静かに、麦茶が冷えるのを待った。
午後は、まだ長い。
次の一杯が冷えるまで――あと少し。