トネリコとアルトリアの田舎日和   作:イモ

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またねを、もういちど

 「お姉ちゃーん! ちょ、ちょっと来てぇぇ!」

 

階下から響いてきた、ほとんど悲鳴のような声。  その切迫した響きに、トネリコは静かに本を閉じた。しおりを挟む手の動きはどこか慣れていて、そして少しだけ疲れている。

 

「……また何でしょう」

 つぶやきながら立ち上がる。こういう騒ぎは、もはや日常茶飯事だった。アルトリアにとっては人生最大の危機、けれどトネリコにとっては週に一度の“平常運転”。

 階段を下りると、やはりそこにいた。  両目をまんまるにして、なにかを抱きしめたまま立ち尽くすアルトリア。その腕に抱えられていたのは、一冊の絵本だった。

 表紙の角はすっかり擦れて、色も少しくすんでいる。それが、どれだけ手に取られ、読み込まれたかを物語っていた。

 

「この本……さっき、しゃべったの! ほんとに! 『ボクを返して』って! しかも、すっごい低い声で……もう、マジでホラーだからっ!」

 

 慌てふためきながらページをめくるたび、アルトリアの顔は微妙に引きつっていく。まるでまた声が聞こえてくるんじゃないかと怯えるように。

 

「……その本、図書館から借りたものですね」

 

「う、うん。そうだけど……こんな機能、あったっけ?」

 

トネリコはため息をひとつ、やや呆れ気味に眉を下げた。

 

「返却期限を過ぎると、自動で音声が再生される仕組みです。貸出カードにも注意書きがありましたが……」

 

「読んでない……だって文字ちっちゃいし……」

 

 しょんぼりしながら絵本を差し出すアルトリア。その指先には、名残惜しさがにじんでいた。

 トネリコはその本を静かに受け取り、表紙を撫でる。

 そこに描かれていたのは、赤いドレスをまとった小さな少女――ナーサリー・ライム。  大きな帽子にくるんとした巻き毛。空想の国を旅する“お話の住人”。  その瞳は、紙の上にありながら、どこか生きているようで……優しく、少しだけ寂しげだった。

 

「……これ、ずいぶん読みましたね」

 

「うん……ナーサリー・ライムっていう女の子が、いろんな物語を旅するお話でさ……。読むたびに少しずつ違って聞こえる気がして……なんか、不思議で、優しくて……つい、何度も……」

 

 

語るうちに、アルトリアの声はしだいに静かになり、けれど胸の奥からにじむ温もりがこもっていく。

 

「返したくない気持ちは……わかります。でも、絵本は皆のものです。次に読む子のために、ちゃんと戻してあげましょう」

 

「……うん、わかってる。けど……ちょっとだけ、名残惜しいな」

 

 アルトリアはそう言って、絵本の表紙にもう一度、そっと指をすべらせた。  まるで別れを告げるように、愛おしむように。

 トネリコはその姿を見つめながら、微笑を浮かべた。

 この絵本が、彼女の心に残る物語であったことが、ただ嬉しかった。

 

「……わかってるけど、なんか寂しい」

 

アルトリアの声は、絵本の厚みに隠れるように小さかった。視線は表紙に落ちたまま、指先がゆっくりと、少女の描かれたその表紙をなぞっていた。

トネリコは少しだけ考えてから、そっと言葉を差し出す。

 

「では――返す前に、もう一度、一緒に読みましょうか」

 

アルトリアははっと顔を上げ、目を丸くする。

 

「え、いいの? 最後に、もう一回だけ?」

 

「ええ。読み納めです。心を込めて、ね」

 

 縁側に腰を下ろし、まだ少し暖かさの残る午後の日差しを背に、二人は並んで絵本を開いた。草の香り、風鈴の音、そしてページをめくる小さな音が、穏やかな時間の背景を彩る。

 読み手はアルトリア。最初こそ緊張していたが、やがて言葉に抑揚が宿り、話に込められた温度が、ゆっくりと空気を変えていく。

 

「……そして、ナーサリー・ライムは、またひとつのお話をあとにして、つぎの扉を開きました」

 

 その声は、いつの間にかふるえるように優しく、慈しむように響いていた。

 トネリコは目を閉じ、ただ耳を澄ませていた。何度も読んできた物語だったはずなのに――今日は、違って聞こえる。アルトリアの声と感情が、文字の奥にあるものを伝えてくる気がした。

 

 やがて最後のページを閉じたとき、ふたりの間に、しばし沈黙が落ちた。

 アルトリアは表紙を見つめたまま、小さく息を吐く。

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

「はい?」

 

「ナーサリー・ライムってさ……最初は、どこに行けばいいかわかんない子だったじゃん。でも、物語の中でいろんな人と出会って……ちゃんと、“帰る場所”っていうのを見つけるんだよね」

 

「そうですね。たくさんの出会いと別れを重ねて……でもその全部が、彼女の“物語”だった」

 

 「……この絵本も、図書館に帰るのが、“ナーサリー・ライムの旅の終わり”なんだよね」

 トネリコは、やさしく微笑んだ。

 

「ええ。ページの間に詰まった記憶を胸にしまって、今ごろは、図書館の棚で一息ついているかもしれませんね」

 

 

 そして数時間後――

 ふたりは町の図書館を訪れていた。静かな館内の奥、児童書コーナーの一角。そこに、絵本を返すための返却ポストが設けられていた。

 アルトリアは少しだけ名残惜しそうに、しかししっかりとした手つきで絵本を差し出す。

 

「ありがとう、ナーサリー・ライム。またね」

 

 ポストに収まる音は、とても小さかったけれど、その音がふたりの胸にぽつりと何かを刻んだ。

 

 受付カウンターの女性が、笑顔でふたりを見送る。

 「その本、気に入ってもらえたみたいで嬉しいです。読み込まれた跡がとても素敵でしたよ」

 トネリコが軽く頭を下げ、アルトリアは照れくさそうに頬を掻いた。

 「えへへ……なんか、ちょっとだけ寂しい、かな」

 

「でも、きっとまた出会えますよ。ナーサリー・ライムは、旅の途中ですから」

 

「うん……また、違う物語で会えるかもね」

 

 図書館を出た夕暮れの道。

 ふたりの影が長く伸びて、寄り添うように並んでいた。

 

 「……ねえ、お姉ちゃん。今日は一緒に読んでくれて、ありがとう」

 

「どういたしまして。あなたがそうやって本を大切にしてくれると、私も嬉しいです」

 

「それでさ……また絵本、借りてもいい?」

 「もちろん。ただし、今回は返却期限も一緒に確認しましょうね」

 「はいっ!」

 

 空は茜色に染まり、風がほんの少しだけ秋の匂いを含んでいた。

 新しい絵本との出会いは、きっとすぐそこまで来ている。

 

「へへっ……また読めるかな」

 

返却を終えたばかりのアルトリアは、少し照れくさそうに笑って、足元の影をつま先でいじるように蹴った。どこか期待を含んだ声は、空になった手のひらと一緒に、風にさらわれていくようだった。

 トネリコはその横顔をちらりと見て、ふっと目を細める。

 

「同じ本はまた借りられますよ。でも……今度は、まだ見ぬ物語に出会ってみるのも、きっと悪くありません」

 

 

「うーん……」

 

 アルトリアは腕を組んで、ふんすと唸った。

 

「じゃあさ、お姉ちゃん的には、どんな絵本がおすすめ?」

 

 その問いかけは、信頼と甘えの入り混じったもので。無邪気さの中に、少しだけ新しい世界への興味がのぞいていた。

 

「そうですね……静かで優しいお話。でも、あなたが最後まで飽きずに読めるものとなると……なかなか難題ですね」

 

「むぅー! なんでそういうこと言うの! ちゃんと読めるし!」

 

「でしたら、証明していただきましょう。今度こそ、最後のページまできっちりと」

 

 ふたりは顔を見合わせ、まるで子どものように、くすくすと笑い合った。
 その笑い声は、夕暮れの道にやわらかく溶け込んでいく。まるで絵本のつづきのように、どこまでも穏やかに。

 

 ――帰宅後。

 アルトリアは勢いよく本棚の前に陣取り、両手で肩幅いっぱいに広げた本の海に挑んでいた。表紙を眺め、背表紙をなぞり、次々に取り出しては吟味を重ねる。

 

 

「『邪竜と聖女の外伝の冒険譚』! ……あっ、でもこれは前に途中で寝ちゃったやつだ……」

 

「そこは反省点として、今後に生かしてください」

 後ろから冷静なツッコミを入れるトネリコに、アルトリアは「うぐ……」と唸りながらも次の一冊を手に取る。

 

「じゃあこれ! 『ポストの中に住んでる小人のオベロン』……って、ちょっと地味かもだけど、面白そう?」

 

 

「タイトルだけで判断してはいけません。内容は幻想的で、構成にも緩急がありました。悪くない選択です」

 

「よしっ、それにするっ!」

 

 

嬉しそうに絵本を胸に抱きしめるアルトリア。その姿に、トネリコは小さく微笑みながら頷いた。

 

「では、今夜から新しい物語の始まりですね」

 

「うんっ!」

 

 

その夜。
 布団を並べて、ふたりは天井を見上げていた。電気は落とされ、部屋にはほんのりとした月明かりだけが差し込んでいる。静けさに包まれた空間には、虫の音が遠くから響いてくるばかりで、寝息もまだ混じらない。

 

「お姉ちゃん」


 

 隣から、ぽつりと声が落ちてくる。まだ眠るには早いような、けれど静かに胸の奥に残った想いを、そっと吐き出すような声だった。

 

 

「絵本ってさ、読むたびに、ちょっとずつ違って見えるのって、なんでだろう?」

 

 

トネリコは視線を動かさず、そっと息を吐いた。
 そして、少しだけ目を閉じてから、やわらかな声音で答える。

 

 

「読む側が変わっているからですよ。気分も、考え方も、心の状態も、日によって違うものですから。同じページでも、違う景色が見えることは……自然なことです」

 

「そっか……」
 

 

アルトリアの声が少しだけ遠くなる。
 でも、そのあとで、ほんのりと嬉しそうな熱を含んだ言葉が続いた。

 

 

「今日のナーサリー、なんかすっごく大事に思えたんだ。ずっと同じ話なのに、前より優しくて、あったかかった」

 

 

「それは、あなたが成長している証拠です」
 

 

 

トネリコの声は、ゆるやかに笑みを含んでいた。
 

 

 

「絵本が変わったのではなく、あなたの“目”が変わったのです。だからこそ、同じ物語が、新しく感じられるのですよ」

 

 

「……うん。なんか、それってすごいことだね」

 

 

アルトリアは、寝返りをうってそっとトネリコの方に身体を寄せた。暗がりの中、目は見えないけれど、彼女がふわりと笑った気配が伝わってくる。

 

 それから少しして。
 部屋の中はすっかり静まり返り、ただ優しい眠りが訪れるのを待つだけの時間。

 

 

「……お姉ちゃん」

 

 また、隣の布団から小さな声。先ほどよりも、もう少しだけ柔らかく、夢の輪郭を撫でるような口調だった。

 

 

「はい」

 

 

「ナーサリー・ライム、ちゃんと本棚に戻れたかな」

 

 

「ええ。きっと、お気に入りの場所に戻って、次の読者を待っているはずです」

 

 

「そっか……」


 その声は、どこか寂しげで、けれどあたたかさも滲んでいた。

 

 

「今度は、どんな子が読んでくれるのかな」

 

 

「あなたが心を込めて読んだ本なら、きっと誰かにとっても、大切な宝物になるでしょう」

 

 

隣の布団が小さく揺れる。目を閉じたまま、アルトリアがうんうんと頷いたのが、トネリコには手に取るようにわかった。

 

 

「……読んでてよかったな、あの絵本」

 

 

「そう思える物語と出会えたなら、それは幸せなことです」

 また少し、静けさが戻る。
 けれど今度は、それは決して虚しい間ではなかった。ふたりの呼吸が、同じリズムでゆっくりと流れていく。まるで絵本の続きが、心のなかにだけ書き足されていくように。

 

 本を読むように、ひとつずつ、丁寧に紡いでいくような時間だった。
 声の抑揚、ページの音、視線の交わり……すべてがゆっくりと流れ、まるで夜そのものが、一冊の物語になったような感覚に包まれる。

 たったふたりだけの、小さな世界。
 その中心にある布団の中で、淡い灯りが語られた言葉の余韻をやさしく照らしていた。

 

 

「じゃあ……次の本でも、また何か変われるかな」

 

アルトリアがぽつりと呟く。
 その声には、期待と少しの不安、そしてほんのりとした希望が混ざっていた。

 

 

「ええ!!」


 

 

トネリコの答えは、迷いなく、優しく。
 

 

 

「きっと……いい物語になりますよ」

 

 

夜に、小さな会話がそっと刻まれていく。
 

 

 

それはまるで、新しい物語が生まれていくような瞬間だった。

 アルトリアは、絵本の表紙にそっと指を這わせる。そこに描かれた小さな小人の妖精王の姿を、まるで旧友に再会するような眼差しで見つめていた。

 やがて、彼女は小さく息を吸い込み、ページを一枚めくる。

 

 その横で、トネリコは静かに、何も言わずに妹の手元を見つめていた。

 その姿は穏やかで、けれどどこか遠くを見つめるようなまなざし。過ぎ去った幼い日々の記憶を、胸の奥からそっと取り出すように。

 

 ページをめくる音が静かに止み、アルトリアがそっと絵本を伏せる。
 その動作は丁寧で、どこか名残惜しそうでもあった。

 

 

「……ふぅー。やっと全部、読めた」
 

 

 

彼女は小さな達成感を胸に、深く息を吐いた。

 

 

「えらいですね。ちゃんと最後まで」

 

トネリコの言葉は、どこか誇らしげで、けれども温かい。

 

 

「うん……でも、読んでる途中でちょっと泣きそうになった」

 


 アルトリアはぽつりと続けた。
 

 

「小人が、最後に一人きりになるとことか……胸がきゅーってなって、なんか……苦しくなって」

 

 

「それだけ物語の中に入り込めていたということです」

 

 


「それが……読書の醍醐味ですよ」

 

 言葉に込められた肯定は、アルトリアの心をそっと撫でた。
 彼女は布団の中で小さく身を縮めながら、それでもどこか安心したような顔をしている。

 

「……でもさ」


 

 

「きっとまた、誰かがポストを開けてくれるよね。小人が出てこれるように」

 

 

「ええ」
 

 

トネリコは微笑む。
 

 

 

「誰かのポストの中から、また新しい出会いが始まります。物語は、きっと何度でも続いていくものですから」

 

 その言葉に、アルトリアは両手をぎゅっと胸の前で組んだ。


 まるで祈るように、あるいは大切なものを抱きしめるように。

 

「そっか……」
 

 

「うん……じゃあ、ナーサリー・ライムにも、ポストの小人さんにも……ばいばいじゃなくて、またね、って言おうかな」

 

トネリコは頷いた。
 

 

 

「ふふ、いい言葉です。別れではなく、続きを願う“またね”。きっとふたりとも、喜びますよ」

 

 

 その瞬間、部屋の灯りが落ちる。
 カチリ、と小さな音を最後に、空間を覆うのは柔らかな暗闇だけになった。

 しんとした静けさ。


 

 でも、それは冷たい無音ではない。
 

 

物語を読み終えたあとに訪れる、余韻に満ちた静けさだった。

 

 そしてその中で。
 

どちらからともなく、ふたりの声が同時に漏れる。


まるで約束のように、ぴったりと重なるそのひとこと。

 

 

 

 

「  「 ――またね 」  」 

 

 

 

 

 それは、物語と向き合った姉妹が交わした、心からの別れの言葉だった。
 でも同時に、新しい物語を信じるための、一番やさしい“つづき”の合図でもあった

 

 

「……ねえ、お姉ちゃん」

 

「はい」

 

「次の本もさ、また一緒に読もうね」

 

「ええ。もちろんです」

 

「へへ……ありがと」

 

 最後の言葉は、すっかり眠気に引っ張られていた。布団の中で、アルトリアの寝息がしだいに整っていき、やがて規則正しく響き始める。

 その音を隣で聞きながら、トネリコはそっと目を閉じた。心の中に、ナーサリー・ライムの帽子と小人さん、空想の旅路が浮かんでは消えていく。

 ――次の物語も、きっときっと、あたたかい。


 


 本棚の前に正座したアルトリアは、なぜか神妙な顔つきをしていた。
 

床にきちんと座り込むその姿勢だけは真面目なのに、膝の上には絵本。

表紙を両手で握りしめたその顔には、どこか困惑と使命感が入り混じっていた。

 

「お姉ちゃん……ちょっと、相談があるの」

 

トネリコは読書の手を止めて顔を上げた。
 

 

姉としての経験から、だいたいこの時点で“まともな相談”でないことを察してしまうのが少し悲しい。

 

「……はい。なんでしょう」

 

アルトリアは真剣な顔で頷き、絵本を差し出した。
 

 

 

昨日借りた『ポストの中に住んでる小人の妖精王』――幻想的なタイトルが印象的な一冊だ。

 

 

「でね、この本の最初に『朝、手紙が届いた』って書いてあったの」

 

 

「ええ、導入としては普通です」

 

 

「でも次のページで、妖精王が『封筒に乗って旅をする』って書いてあって……あのね、これって……」

 

 

 

トネリコは、背筋に寒気のような予感を覚えた。

 

 

――来る。

 

 

「これってさ! 妖精王がさ! 手紙と一緒にポストに投函されたってことじゃない!?」

 

 

 

「……違います」

 

 即答するトネリコの声には、微妙な疲労と諦念がにじんでいた。

 

 

 「でもさ、もしそのまま郵便局まで流されたら、妖精王パニックじゃない!? 『住所が読めない! ああ! 雨が降ってるぅ!』みたいな!」

 

 

 「読み取り以前に、妄想が暴走してます」

 

 「しかも封筒だよ? 濡れたらふにゃふにゃになるし、風で飛ぶし、郵便受けに落ちたら……!」

 

 「幻想物語です。リアルさは求めなくていいんですよ……」

 

 「でもでも! このページ見て! これ、ポストじゃなくて、牛乳箱じゃない!? 絵の角度、どう見ても四角い!」

 

 「……タイトルを否定しないでください。作者の気持ちが迷子になります」

 

 

 トネリコはそっと眼鏡を外し、額を押さえる。こめかみがじんわりと熱い。
 もはや頭痛というより、微笑ましい疲労感。

 

「あなた……昨夜あれだけ、“成長した”とか言ってたのに」

 

 

 「読んでたらさ、気になっちゃって。もう想像が止まらなくて……」

 

 アルトリアは少し頬を赤らめて、照れ笑いを浮かべた。

 


 その顔はまるで、いたずらがバレた子どもみたいで――けれど、どこか誇らしげだった。

 

 「でもね、最後のシーン、妖精王が一人で夜の空を見上げてるところ……なんかすっごく、胸がきゅってしてさ」

 

 

 そう言って、絵本の最後のページをそっと開いた。
 そこには、ポストの縁に腰かけた小さな妖精王が、街灯の明かりに照らされながら、遥か遠くを見つめる挿絵が描かれていた。

 

 

「――読んでる途中で、ちょっと泣きそうになった」

 

 今度の声は、先ほどまでの騒がしさと違って、真っ直ぐでまっすぐで、少し震えていた。

 トネリコは静かに頷いた。

 

 

「……それは、あなたがちゃんと物語に触れた証ですよ。


  たとえ想像が脱線していても――その気持ちは、本当に大事なものです」

 

 

「へへ……ありがとう。変な妄想しちゃったけど、読めてよかった」

 

 

「ええ。読んだあとに何かが残るなら、それは“いい読書”です」

 

 

 

 アルトリアは嬉しそうに絵本を抱きしめ、ふんわりと頬を緩めた。


 

その様子はまるで、本と心で会話をしているみたいだった。

 ページの向こうにいた妖精王は、今ごろどこか別の誰かに読まれているかもしれない。
 

 

けれどこの子の中にも、確かに“あの旅の夜”が残っている――それが、何よりも尊いと、トネリコは思った。

 

 

 午後。


 

 

 

 雲ひとつない空の下、ふたりは庭に出て、竿から洗濯物を一枚ずつ丁寧に取り込んでいた。
 

風に揺れたタオルがふわりと顔に触れるたびに、アルトリアがくすぐったそうに笑う。

けれど、手は止まらないまま、口だけはいつまでも動き続けていた。

 

 

「ねえお姉ちゃん。この妖精王さ、夜になるとポストからこっそり出てきて、家の中に入ってきたりするんじゃない?」

 

 唐突に飛び出した妄想話に、トネリコは軽くため息をつく。


 それでも手を動かしながら、目はきちんと妹を見ている。

 

「また始まりましたか……」

 

 

「でね、冷蔵庫のドア開けてプリンを探したり、洗濯物の中に潜り込んでくすぐってきたりするの! ほら、ふわふわのタオルの中、絶対気持ちいいじゃん?」

 

 

 自分で想像して楽しくなったのか、アルトリアは取り込んだタオルを抱きしめて、くるくると回ってみせる。


 

 白いタオルの端が風になびいて、彼女の笑顔をやわらかく包んでいた。

 

 

「……それはもう、小人というより完全に妖精か精霊の類ですね。もしくは、夜な夜な台所をうろつく妖怪です」

 

 

「でもさ、そういうのいたら絶対楽しいと思うなー」

 

 

 トネリコは思わず笑ってしまいそうになるのを、喉の奥で抑えながら、タオルを畳んだ。

 


 アルトリアの空想はいつも突拍子もないのに、なぜだか心をくすぐる優しさがある。

 

 

「……物語の続きを自分で想像するのも、読書の大切な楽しみ方ですから」

 

 

 「でしょー! だからさ、次の本もそういうやつがいいな! 続きが気になって、ちょっとドキドキするような!」

 

 

 洗濯かごにタオルを入れながら、アルトリアはキラキラした目でこちらを振り返る。


 

 その無邪気な期待に満ちた視線に、トネリコは肩をすくめた。

 

「その前に、まだ今の本を読み終えていませんよね?」

 

 

「あと半分! でもね、お姉ちゃんと読んでると進むの早いんだよ」

 

 

得意げに指を立てて言うその声に、トネリコは少しだけ目を細める。

 

 

 「……読み終えたら、次はもう少し落ち着いた内容のものを選びましょう。あなたの心が、あまり波立たない程度のものを」

 

 

 「むぅ〜〜……そっか。じゃあ、お姉ちゃんが選んでよ」

 

 

風が少し強くなって、シャツの袖がはためく。
 

アルトリアはそれを追いかけるようにして駆けていきながら、振り返ってそう言った。

 

 

「ええ。今度は“ふたりで読む”つもりで、私も一冊、探しておきます」

 

「やったー! それ、めっちゃ楽しみ! じゃあ、今夜もまた一緒に読もうね!」

 

 

 アルトリアの声が空に抜けていく。

 


 トネリコは洗濯かごを手に、空を仰いだ。


 

 真っ白な雲のない午後、ふたりの時間は今日も穏やかに、けれど確かに流れていた。

 

夜。

 

窓の外には風の音もなく、虫の声すら遠慮しているかのような静けさがあった。


 薄明かりの中、並んだ布団の中にふたりの姿があった。

 

その夜は、トネリコが選んだ絵本を読む番だった。


 読み手はアルトリア。

 

彼女は布団に寝転びながら、表紙をそっと撫でるようにして開いた。

 

「……えっと、タイトルは……『星のゆりかご』……だって」

 

 最初は少し照れたような声だった。けれど、ページをめくるごとに、言葉はやさしく丸くなっていく。

 


 語尾に迷いがなくなり、間の取り方も自然になり、やがて彼女の声は、部屋の空気に溶けるような静けさへと変わっていった。

 

 絵本の中では、ちいさな星が、夜空のなかを旅していく。


 出会いと別れ、きらめきと影、光の波に揺られながら――
 そして、最後のページで、その星は眠るように空へ還っていく。

 

 

「……ここで、終わりだって」

 

 

アルトリアが本をそっと閉じたとき、その音がやけに深く響いた。
 それはページの終わりというより、ひとつの夢がゆっくり幕を閉じたような感覚だった。

 

「……お姉ちゃん」

 

 

読み終わった余韻の中、アルトリアはぽつりとつぶやく。


 その声は、眠気と少しの感動に包まれていた。

 

 

「なんか……眠くなってきた……」

 

 

「それが、絵本の力というものですよ」

 

 横になったまま微笑みを浮かべるトネリコの声も、少しだけ柔らかい。
 

それは妹の読む声を最後まで聞いた、静かな満足の響きだった。

 

 

「……読んでよかったな」

 

 

 アルトリアが呟くその言葉には、飾り気のない素直さがあった。
 トネリコは静かに頷く。

 

 

 「ええ、あなたが読んでくれたから、なおさらです。とても、いい選択でした」

 

 

 アルトリアはふうっと息を吐きながら、トネリコに背を向けた。
 

それは安心のしるし。心を許している誰かの存在があるからこそ、背を向けられる。

 

 

 「……明日も読んでいい?」

 

 

 小さな声が、布団の向こうから届く。

 

 

 「もちろんです。何度でも、何度だって」

 

 

 そう言って、トネリコは枕元の灯りに手を伸ばし、ぽつりと照明を落とす。
 真っ暗ではない、ほんのりと残る明るさのなかで、ふたりの呼吸だけが静かに重なっていく。

 

世界はもう、言葉を必要としていなかった。

 

ページを閉じた夜の向こう側――今度は、夢の中でふたりの物語が始まる番だった。

 

 

 

 

 

 

翌朝。

 

 

 

食卓の上には、湯気の立つ湯飲みがふたつ。


 まだ朝の光が完全に差し切らない薄曇りの窓の向こうで、鳥たちが控えめにさえずっている。

 トネリコは新聞を手にしていた。だが、その視線は紙面を貫き、その向こう――アルトリアの手元へと向いていた。

 湯飲みに口をつけることも忘れたかのように、妹はじっと絵本に見入っている。

 

 

「……ふむ。今日は珍しく、きちんとページを開いてますね」

 

 

 

 からかうでも、試すでもなく。
 ただ静かに、穏やかに、その事実を肯定するような声だった。

 

 

「えへへ、読んでるよ。昨日の続き」

 

 

 アルトリアは笑って頷くと、ページの2段目にそっと指を添えた。
 その指先はなぞるように、まるで文字の意味をなぞり、自分の中に染み込ませていくかのようだった。

 

 

 

 

読み進める間、彼女の表情はころころと変わる。


眉をひそめ、首を傾げ、「あっ」と小さく声を漏らす。

 

 そのひとつひとつが新鮮で、見ていて飽きなかった。


 読書は本来、個人の静かな営みのはずなのに。アルトリアが読んでいると、それ自体が小さな劇のようにも感じられる。

 

 

 

「……小人さんが、お手紙に“帰り道がない”って書いてる」

 

不意に、ぽつりと語る声が聞こえる。

 

 

「そこが、今回の物語の核になります」

 

 トネリコは湯飲みを手にしながら、ゆるく頷いた。
 

言葉にしない想いが、姉妹の間でひとつ、ふわりと交差した。

 

 

「そうなんだ……。じゃあ、ちゃんと最後まで読まないと」

 

 

 そう言ってページをめくる手には、小さな決意がにじんでいた。
 誰に強いられたわけでもなく、自分の意思で読み進めようとするその姿勢に、トネリコは静かに目を細めた。

 

* * *

 

 

しばらくの後。

 ページを閉じたアルトリアが、ぱたんと絵本を伏せて顔を上げた。

 その目には眠気もなければ、読み終えたあとの空虚さもなかった。
 あるのは、何かを得たあとの、穏やかで柔らかな光。

 

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

「はい?」

 

 

「今度、私も……物語を書いてみたいなって」

 

 声の中には、ほんの少しの照れと、たっぷりの期待が混じっていた。

 

 

「あなたが、ですか?」

 

 

 驚きはしたが、それは否定ではなかった。
 

むしろ、トネリコの目に宿ったのは、少しだけ誇らしげな輝きだった。

 

 

「うん。読んでばっかりじゃなくてさ、自分でも、小人の続きを作ってみたくなったの」

 

 

 アルトリアの声には、幼いながらも確かな意志が宿っていた。
 ページを読み切るということは、誰かが創った世界を最後まで辿るということ。
 

そこに心を重ねたとき、人はきっと「自分ならどうするか」と考える。
 その芽吹きが、今まさにここにあった。

 

 

「ふふ……それは素敵なことです。もちろん、手伝いますよ」

 

 

 

そう応えるトネリコの声は、どこまでも優しかった。

 

「やった!」

 

 

アルトリアはぱあっと顔を輝かせる。
 けれど次の瞬間――

 

「ただし、前回のような『冷蔵庫でプリンを探す妖精』のような展開は、避けてくださいね」

 

 「えええーっ!? 面白かったのに!」

 

 「……そこは相談しましょう。内容によっては、ファンタジーではなくコメディになりますから」

 

 「コメディもいいじゃん! 妖精王がプリン好きって、ちょっと可愛くない?」

 

「妖精王の威厳が崩れます」

 

 テーブルの向こうで、姉妹の笑い声が重なった。

 湯気がゆるく立ち上るその朝、食卓にはいつもより少しだけ多くの未来が乗っていた。
 

小さな物語の読者が、今度は書き手になろうとしている。
 

そのはじまりを、トネリコは何よりも嬉しく思っていた。

 

 

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