トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
「お姉ちゃーん! ちょ、ちょっと来てぇぇ!」
階下から響いてきた、ほとんど悲鳴のような声。 その切迫した響きに、トネリコは静かに本を閉じた。しおりを挟む手の動きはどこか慣れていて、そして少しだけ疲れている。
「……また何でしょう」
つぶやきながら立ち上がる。こういう騒ぎは、もはや日常茶飯事だった。アルトリアにとっては人生最大の危機、けれどトネリコにとっては週に一度の“平常運転”。
階段を下りると、やはりそこにいた。 両目をまんまるにして、なにかを抱きしめたまま立ち尽くすアルトリア。その腕に抱えられていたのは、一冊の絵本だった。
表紙の角はすっかり擦れて、色も少しくすんでいる。それが、どれだけ手に取られ、読み込まれたかを物語っていた。
「この本……さっき、しゃべったの! ほんとに! 『ボクを返して』って! しかも、すっごい低い声で……もう、マジでホラーだからっ!」
慌てふためきながらページをめくるたび、アルトリアの顔は微妙に引きつっていく。まるでまた声が聞こえてくるんじゃないかと怯えるように。
「……その本、図書館から借りたものですね」
「う、うん。そうだけど……こんな機能、あったっけ?」
トネリコはため息をひとつ、やや呆れ気味に眉を下げた。
「返却期限を過ぎると、自動で音声が再生される仕組みです。貸出カードにも注意書きがありましたが……」
「読んでない……だって文字ちっちゃいし……」
しょんぼりしながら絵本を差し出すアルトリア。その指先には、名残惜しさがにじんでいた。
トネリコはその本を静かに受け取り、表紙を撫でる。
そこに描かれていたのは、赤いドレスをまとった小さな少女――ナーサリー・ライム。 大きな帽子にくるんとした巻き毛。空想の国を旅する“お話の住人”。 その瞳は、紙の上にありながら、どこか生きているようで……優しく、少しだけ寂しげだった。
「……これ、ずいぶん読みましたね」
「うん……ナーサリー・ライムっていう女の子が、いろんな物語を旅するお話でさ……。読むたびに少しずつ違って聞こえる気がして……なんか、不思議で、優しくて……つい、何度も……」
語るうちに、アルトリアの声はしだいに静かになり、けれど胸の奥からにじむ温もりがこもっていく。
「返したくない気持ちは……わかります。でも、絵本は皆のものです。次に読む子のために、ちゃんと戻してあげましょう」
「……うん、わかってる。けど……ちょっとだけ、名残惜しいな」
アルトリアはそう言って、絵本の表紙にもう一度、そっと指をすべらせた。 まるで別れを告げるように、愛おしむように。
トネリコはその姿を見つめながら、微笑を浮かべた。
この絵本が、彼女の心に残る物語であったことが、ただ嬉しかった。
「……わかってるけど、なんか寂しい」
アルトリアの声は、絵本の厚みに隠れるように小さかった。視線は表紙に落ちたまま、指先がゆっくりと、少女の描かれたその表紙をなぞっていた。
トネリコは少しだけ考えてから、そっと言葉を差し出す。
「では――返す前に、もう一度、一緒に読みましょうか」
アルトリアははっと顔を上げ、目を丸くする。
「え、いいの? 最後に、もう一回だけ?」
「ええ。読み納めです。心を込めて、ね」
縁側に腰を下ろし、まだ少し暖かさの残る午後の日差しを背に、二人は並んで絵本を開いた。草の香り、風鈴の音、そしてページをめくる小さな音が、穏やかな時間の背景を彩る。
読み手はアルトリア。最初こそ緊張していたが、やがて言葉に抑揚が宿り、話に込められた温度が、ゆっくりと空気を変えていく。
「……そして、ナーサリー・ライムは、またひとつのお話をあとにして、つぎの扉を開きました」
その声は、いつの間にかふるえるように優しく、慈しむように響いていた。
トネリコは目を閉じ、ただ耳を澄ませていた。何度も読んできた物語だったはずなのに――今日は、違って聞こえる。アルトリアの声と感情が、文字の奥にあるものを伝えてくる気がした。
やがて最後のページを閉じたとき、ふたりの間に、しばし沈黙が落ちた。
アルトリアは表紙を見つめたまま、小さく息を吐く。
「ねえ、お姉ちゃん」
「はい?」
「ナーサリー・ライムってさ……最初は、どこに行けばいいかわかんない子だったじゃん。でも、物語の中でいろんな人と出会って……ちゃんと、“帰る場所”っていうのを見つけるんだよね」
「そうですね。たくさんの出会いと別れを重ねて……でもその全部が、彼女の“物語”だった」
「……この絵本も、図書館に帰るのが、“ナーサリー・ライムの旅の終わり”なんだよね」
トネリコは、やさしく微笑んだ。
「ええ。ページの間に詰まった記憶を胸にしまって、今ごろは、図書館の棚で一息ついているかもしれませんね」
そして数時間後――
ふたりは町の図書館を訪れていた。静かな館内の奥、児童書コーナーの一角。そこに、絵本を返すための返却ポストが設けられていた。
アルトリアは少しだけ名残惜しそうに、しかししっかりとした手つきで絵本を差し出す。
「ありがとう、ナーサリー・ライム。またね」
ポストに収まる音は、とても小さかったけれど、その音がふたりの胸にぽつりと何かを刻んだ。
受付カウンターの女性が、笑顔でふたりを見送る。
「その本、気に入ってもらえたみたいで嬉しいです。読み込まれた跡がとても素敵でしたよ」
トネリコが軽く頭を下げ、アルトリアは照れくさそうに頬を掻いた。
「えへへ……なんか、ちょっとだけ寂しい、かな」
「でも、きっとまた出会えますよ。ナーサリー・ライムは、旅の途中ですから」
「うん……また、違う物語で会えるかもね」
図書館を出た夕暮れの道。
ふたりの影が長く伸びて、寄り添うように並んでいた。
「……ねえ、お姉ちゃん。今日は一緒に読んでくれて、ありがとう」
「どういたしまして。あなたがそうやって本を大切にしてくれると、私も嬉しいです」
「それでさ……また絵本、借りてもいい?」
「もちろん。ただし、今回は返却期限も一緒に確認しましょうね」
「はいっ!」
空は茜色に染まり、風がほんの少しだけ秋の匂いを含んでいた。
新しい絵本との出会いは、きっとすぐそこまで来ている。
「へへっ……また読めるかな」
返却を終えたばかりのアルトリアは、少し照れくさそうに笑って、足元の影をつま先でいじるように蹴った。どこか期待を含んだ声は、空になった手のひらと一緒に、風にさらわれていくようだった。
トネリコはその横顔をちらりと見て、ふっと目を細める。
「同じ本はまた借りられますよ。でも……今度は、まだ見ぬ物語に出会ってみるのも、きっと悪くありません」
「うーん……」
アルトリアは腕を組んで、ふんすと唸った。
「じゃあさ、お姉ちゃん的には、どんな絵本がおすすめ?」
その問いかけは、信頼と甘えの入り混じったもので。無邪気さの中に、少しだけ新しい世界への興味がのぞいていた。
「そうですね……静かで優しいお話。でも、あなたが最後まで飽きずに読めるものとなると……なかなか難題ですね」
「むぅー! なんでそういうこと言うの! ちゃんと読めるし!」
「でしたら、証明していただきましょう。今度こそ、最後のページまできっちりと」
ふたりは顔を見合わせ、まるで子どものように、くすくすと笑い合った。 その笑い声は、夕暮れの道にやわらかく溶け込んでいく。まるで絵本のつづきのように、どこまでも穏やかに。
――帰宅後。
アルトリアは勢いよく本棚の前に陣取り、両手で肩幅いっぱいに広げた本の海に挑んでいた。表紙を眺め、背表紙をなぞり、次々に取り出しては吟味を重ねる。
「『邪竜と聖女の外伝の冒険譚』! ……あっ、でもこれは前に途中で寝ちゃったやつだ……」
「そこは反省点として、今後に生かしてください」
後ろから冷静なツッコミを入れるトネリコに、アルトリアは「うぐ……」と唸りながらも次の一冊を手に取る。
「じゃあこれ! 『ポストの中に住んでる小人のオベロン』……って、ちょっと地味かもだけど、面白そう?」
「タイトルだけで判断してはいけません。内容は幻想的で、構成にも緩急がありました。悪くない選択です」
「よしっ、それにするっ!」
嬉しそうに絵本を胸に抱きしめるアルトリア。その姿に、トネリコは小さく微笑みながら頷いた。
「では、今夜から新しい物語の始まりですね」
「うんっ!」
その夜。 布団を並べて、ふたりは天井を見上げていた。電気は落とされ、部屋にはほんのりとした月明かりだけが差し込んでいる。静けさに包まれた空間には、虫の音が遠くから響いてくるばかりで、寝息もまだ混じらない。
「お姉ちゃん」
隣から、ぽつりと声が落ちてくる。まだ眠るには早いような、けれど静かに胸の奥に残った想いを、そっと吐き出すような声だった。
「絵本ってさ、読むたびに、ちょっとずつ違って見えるのって、なんでだろう?」
トネリコは視線を動かさず、そっと息を吐いた。 そして、少しだけ目を閉じてから、やわらかな声音で答える。
「読む側が変わっているからですよ。気分も、考え方も、心の状態も、日によって違うものですから。同じページでも、違う景色が見えることは……自然なことです」
「そっか……」
アルトリアの声が少しだけ遠くなる。 でも、そのあとで、ほんのりと嬉しそうな熱を含んだ言葉が続いた。
「今日のナーサリー、なんかすっごく大事に思えたんだ。ずっと同じ話なのに、前より優しくて、あったかかった」
「それは、あなたが成長している証拠です」
トネリコの声は、ゆるやかに笑みを含んでいた。
「絵本が変わったのではなく、あなたの“目”が変わったのです。だからこそ、同じ物語が、新しく感じられるのですよ」
「……うん。なんか、それってすごいことだね」
アルトリアは、寝返りをうってそっとトネリコの方に身体を寄せた。暗がりの中、目は見えないけれど、彼女がふわりと笑った気配が伝わってくる。
それから少しして。 部屋の中はすっかり静まり返り、ただ優しい眠りが訪れるのを待つだけの時間。
「……お姉ちゃん」
また、隣の布団から小さな声。先ほどよりも、もう少しだけ柔らかく、夢の輪郭を撫でるような口調だった。
「はい」
「ナーサリー・ライム、ちゃんと本棚に戻れたかな」
「ええ。きっと、お気に入りの場所に戻って、次の読者を待っているはずです」
「そっか……」
その声は、どこか寂しげで、けれどあたたかさも滲んでいた。
「今度は、どんな子が読んでくれるのかな」
「あなたが心を込めて読んだ本なら、きっと誰かにとっても、大切な宝物になるでしょう」
隣の布団が小さく揺れる。目を閉じたまま、アルトリアがうんうんと頷いたのが、トネリコには手に取るようにわかった。
「……読んでてよかったな、あの絵本」
「そう思える物語と出会えたなら、それは幸せなことです」
また少し、静けさが戻る。 けれど今度は、それは決して虚しい間ではなかった。ふたりの呼吸が、同じリズムでゆっくりと流れていく。まるで絵本の続きが、心のなかにだけ書き足されていくように。
本を読むように、ひとつずつ、丁寧に紡いでいくような時間だった。 声の抑揚、ページの音、視線の交わり……すべてがゆっくりと流れ、まるで夜そのものが、一冊の物語になったような感覚に包まれる。
たったふたりだけの、小さな世界。 その中心にある布団の中で、淡い灯りが語られた言葉の余韻をやさしく照らしていた。
「じゃあ……次の本でも、また何か変われるかな」
アルトリアがぽつりと呟く。 その声には、期待と少しの不安、そしてほんのりとした希望が混ざっていた。
「ええ!!」
トネリコの答えは、迷いなく、優しく。
「きっと……いい物語になりますよ」
夜に、小さな会話がそっと刻まれていく。
それはまるで、新しい物語が生まれていくような瞬間だった。
アルトリアは、絵本の表紙にそっと指を這わせる。そこに描かれた小さな小人の妖精王の姿を、まるで旧友に再会するような眼差しで見つめていた。
やがて、彼女は小さく息を吸い込み、ページを一枚めくる。
その横で、トネリコは静かに、何も言わずに妹の手元を見つめていた。
その姿は穏やかで、けれどどこか遠くを見つめるようなまなざし。過ぎ去った幼い日々の記憶を、胸の奥からそっと取り出すように。
ページをめくる音が静かに止み、アルトリアがそっと絵本を伏せる。 その動作は丁寧で、どこか名残惜しそうでもあった。
「……ふぅー。やっと全部、読めた」
彼女は小さな達成感を胸に、深く息を吐いた。
「えらいですね。ちゃんと最後まで」
トネリコの言葉は、どこか誇らしげで、けれども温かい。
「うん……でも、読んでる途中でちょっと泣きそうになった」
アルトリアはぽつりと続けた。
「小人が、最後に一人きりになるとことか……胸がきゅーってなって、なんか……苦しくなって」
「それだけ物語の中に入り込めていたということです」
「それが……読書の醍醐味ですよ」
言葉に込められた肯定は、アルトリアの心をそっと撫でた。 彼女は布団の中で小さく身を縮めながら、それでもどこか安心したような顔をしている。
「……でもさ」
「きっとまた、誰かがポストを開けてくれるよね。小人が出てこれるように」
「ええ」
トネリコは微笑む。
「誰かのポストの中から、また新しい出会いが始まります。物語は、きっと何度でも続いていくものですから」
その言葉に、アルトリアは両手をぎゅっと胸の前で組んだ。
まるで祈るように、あるいは大切なものを抱きしめるように。
「そっか……」
「うん……じゃあ、ナーサリー・ライムにも、ポストの小人さんにも……ばいばいじゃなくて、またね、って言おうかな」
トネリコは頷いた。
「ふふ、いい言葉です。別れではなく、続きを願う“またね”。きっとふたりとも、喜びますよ」
その瞬間、部屋の灯りが落ちる。 カチリ、と小さな音を最後に、空間を覆うのは柔らかな暗闇だけになった。
しんとした静けさ。
でも、それは冷たい無音ではない。
物語を読み終えたあとに訪れる、余韻に満ちた静けさだった。
そしてその中で。
どちらからともなく、ふたりの声が同時に漏れる。
まるで約束のように、ぴったりと重なるそのひとこと。
「 「 ――またね 」 」
それは、物語と向き合った姉妹が交わした、心からの別れの言葉だった。 でも同時に、新しい物語を信じるための、一番やさしい“つづき”の合図でもあった
「……ねえ、お姉ちゃん」
「はい」
「次の本もさ、また一緒に読もうね」
「ええ。もちろんです」
「へへ……ありがと」
最後の言葉は、すっかり眠気に引っ張られていた。布団の中で、アルトリアの寝息がしだいに整っていき、やがて規則正しく響き始める。
その音を隣で聞きながら、トネリコはそっと目を閉じた。心の中に、ナーサリー・ライムの帽子と小人さん、空想の旅路が浮かんでは消えていく。
――次の物語も、きっときっと、あたたかい。
本棚の前に正座したアルトリアは、なぜか神妙な顔つきをしていた。
床にきちんと座り込むその姿勢だけは真面目なのに、膝の上には絵本。
表紙を両手で握りしめたその顔には、どこか困惑と使命感が入り混じっていた。
「お姉ちゃん……ちょっと、相談があるの」
トネリコは読書の手を止めて顔を上げた。
姉としての経験から、だいたいこの時点で“まともな相談”でないことを察してしまうのが少し悲しい。
「……はい。なんでしょう」
アルトリアは真剣な顔で頷き、絵本を差し出した。
昨日借りた『ポストの中に住んでる小人の妖精王』――幻想的なタイトルが印象的な一冊だ。
「でね、この本の最初に『朝、手紙が届いた』って書いてあったの」
「ええ、導入としては普通です」
「でも次のページで、妖精王が『封筒に乗って旅をする』って書いてあって……あのね、これって……」
トネリコは、背筋に寒気のような予感を覚えた。
――来る。
「これってさ! 妖精王がさ! 手紙と一緒にポストに投函されたってことじゃない!?」
「……違います」
即答するトネリコの声には、微妙な疲労と諦念がにじんでいた。
「でもさ、もしそのまま郵便局まで流されたら、妖精王パニックじゃない!? 『住所が読めない! ああ! 雨が降ってるぅ!』みたいな!」
「読み取り以前に、妄想が暴走してます」
「しかも封筒だよ? 濡れたらふにゃふにゃになるし、風で飛ぶし、郵便受けに落ちたら……!」
「幻想物語です。リアルさは求めなくていいんですよ……」
「でもでも! このページ見て! これ、ポストじゃなくて、牛乳箱じゃない!? 絵の角度、どう見ても四角い!」
「……タイトルを否定しないでください。作者の気持ちが迷子になります」
トネリコはそっと眼鏡を外し、額を押さえる。こめかみがじんわりと熱い。 もはや頭痛というより、微笑ましい疲労感。
「あなた……昨夜あれだけ、“成長した”とか言ってたのに」
「読んでたらさ、気になっちゃって。もう想像が止まらなくて……」
アルトリアは少し頬を赤らめて、照れ笑いを浮かべた。
その顔はまるで、いたずらがバレた子どもみたいで――けれど、どこか誇らしげだった。
「でもね、最後のシーン、妖精王が一人で夜の空を見上げてるところ……なんかすっごく、胸がきゅってしてさ」
そう言って、絵本の最後のページをそっと開いた。 そこには、ポストの縁に腰かけた小さな妖精王が、街灯の明かりに照らされながら、遥か遠くを見つめる挿絵が描かれていた。
「――読んでる途中で、ちょっと泣きそうになった」
今度の声は、先ほどまでの騒がしさと違って、真っ直ぐでまっすぐで、少し震えていた。
トネリコは静かに頷いた。
「……それは、あなたがちゃんと物語に触れた証ですよ。
たとえ想像が脱線していても――その気持ちは、本当に大事なものです」
「へへ……ありがとう。変な妄想しちゃったけど、読めてよかった」
「ええ。読んだあとに何かが残るなら、それは“いい読書”です」
アルトリアは嬉しそうに絵本を抱きしめ、ふんわりと頬を緩めた。
その様子はまるで、本と心で会話をしているみたいだった。
ページの向こうにいた妖精王は、今ごろどこか別の誰かに読まれているかもしれない。
けれどこの子の中にも、確かに“あの旅の夜”が残っている――それが、何よりも尊いと、トネリコは思った。
午後。
雲ひとつない空の下、ふたりは庭に出て、竿から洗濯物を一枚ずつ丁寧に取り込んでいた。
風に揺れたタオルがふわりと顔に触れるたびに、アルトリアがくすぐったそうに笑う。
けれど、手は止まらないまま、口だけはいつまでも動き続けていた。
「ねえお姉ちゃん。この妖精王さ、夜になるとポストからこっそり出てきて、家の中に入ってきたりするんじゃない?」
唐突に飛び出した妄想話に、トネリコは軽くため息をつく。
それでも手を動かしながら、目はきちんと妹を見ている。
「また始まりましたか……」
「でね、冷蔵庫のドア開けてプリンを探したり、洗濯物の中に潜り込んでくすぐってきたりするの! ほら、ふわふわのタオルの中、絶対気持ちいいじゃん?」
自分で想像して楽しくなったのか、アルトリアは取り込んだタオルを抱きしめて、くるくると回ってみせる。
白いタオルの端が風になびいて、彼女の笑顔をやわらかく包んでいた。
「……それはもう、小人というより完全に妖精か精霊の類ですね。もしくは、夜な夜な台所をうろつく妖怪です」
「でもさ、そういうのいたら絶対楽しいと思うなー」
トネリコは思わず笑ってしまいそうになるのを、喉の奥で抑えながら、タオルを畳んだ。
アルトリアの空想はいつも突拍子もないのに、なぜだか心をくすぐる優しさがある。
「……物語の続きを自分で想像するのも、読書の大切な楽しみ方ですから」
「でしょー! だからさ、次の本もそういうやつがいいな! 続きが気になって、ちょっとドキドキするような!」
洗濯かごにタオルを入れながら、アルトリアはキラキラした目でこちらを振り返る。
その無邪気な期待に満ちた視線に、トネリコは肩をすくめた。
「その前に、まだ今の本を読み終えていませんよね?」
「あと半分! でもね、お姉ちゃんと読んでると進むの早いんだよ」
得意げに指を立てて言うその声に、トネリコは少しだけ目を細める。
「……読み終えたら、次はもう少し落ち着いた内容のものを選びましょう。あなたの心が、あまり波立たない程度のものを」
「むぅ〜〜……そっか。じゃあ、お姉ちゃんが選んでよ」
風が少し強くなって、シャツの袖がはためく。
アルトリアはそれを追いかけるようにして駆けていきながら、振り返ってそう言った。
「ええ。今度は“ふたりで読む”つもりで、私も一冊、探しておきます」
「やったー! それ、めっちゃ楽しみ! じゃあ、今夜もまた一緒に読もうね!」
アルトリアの声が空に抜けていく。
トネリコは洗濯かごを手に、空を仰いだ。
真っ白な雲のない午後、ふたりの時間は今日も穏やかに、けれど確かに流れていた。
夜。
窓の外には風の音もなく、虫の声すら遠慮しているかのような静けさがあった。
薄明かりの中、並んだ布団の中にふたりの姿があった。
その夜は、トネリコが選んだ絵本を読む番だった。
読み手はアルトリア。
彼女は布団に寝転びながら、表紙をそっと撫でるようにして開いた。
「……えっと、タイトルは……『星のゆりかご』……だって」
最初は少し照れたような声だった。けれど、ページをめくるごとに、言葉はやさしく丸くなっていく。
語尾に迷いがなくなり、間の取り方も自然になり、やがて彼女の声は、部屋の空気に溶けるような静けさへと変わっていった。
絵本の中では、ちいさな星が、夜空のなかを旅していく。
出会いと別れ、きらめきと影、光の波に揺られながら―― そして、最後のページで、その星は眠るように空へ還っていく。
「……ここで、終わりだって」
アルトリアが本をそっと閉じたとき、その音がやけに深く響いた。 それはページの終わりというより、ひとつの夢がゆっくり幕を閉じたような感覚だった。
「……お姉ちゃん」
読み終わった余韻の中、アルトリアはぽつりとつぶやく。
その声は、眠気と少しの感動に包まれていた。
「なんか……眠くなってきた……」
「それが、絵本の力というものですよ」
横になったまま微笑みを浮かべるトネリコの声も、少しだけ柔らかい。
それは妹の読む声を最後まで聞いた、静かな満足の響きだった。
「……読んでよかったな」
アルトリアが呟くその言葉には、飾り気のない素直さがあった。 トネリコは静かに頷く。
「ええ、あなたが読んでくれたから、なおさらです。とても、いい選択でした」
アルトリアはふうっと息を吐きながら、トネリコに背を向けた。
それは安心のしるし。心を許している誰かの存在があるからこそ、背を向けられる。
「……明日も読んでいい?」
小さな声が、布団の向こうから届く。
「もちろんです。何度でも、何度だって」
そう言って、トネリコは枕元の灯りに手を伸ばし、ぽつりと照明を落とす。 真っ暗ではない、ほんのりと残る明るさのなかで、ふたりの呼吸だけが静かに重なっていく。
世界はもう、言葉を必要としていなかった。
ページを閉じた夜の向こう側――今度は、夢の中でふたりの物語が始まる番だった。
翌朝。
食卓の上には、湯気の立つ湯飲みがふたつ。
まだ朝の光が完全に差し切らない薄曇りの窓の向こうで、鳥たちが控えめにさえずっている。
トネリコは新聞を手にしていた。だが、その視線は紙面を貫き、その向こう――アルトリアの手元へと向いていた。
湯飲みに口をつけることも忘れたかのように、妹はじっと絵本に見入っている。
「……ふむ。今日は珍しく、きちんとページを開いてますね」
からかうでも、試すでもなく。 ただ静かに、穏やかに、その事実を肯定するような声だった。
「えへへ、読んでるよ。昨日の続き」
アルトリアは笑って頷くと、ページの2段目にそっと指を添えた。 その指先はなぞるように、まるで文字の意味をなぞり、自分の中に染み込ませていくかのようだった。
読み進める間、彼女の表情はころころと変わる。
眉をひそめ、首を傾げ、「あっ」と小さく声を漏らす。
そのひとつひとつが新鮮で、見ていて飽きなかった。
読書は本来、個人の静かな営みのはずなのに。アルトリアが読んでいると、それ自体が小さな劇のようにも感じられる。
「……小人さんが、お手紙に“帰り道がない”って書いてる」
不意に、ぽつりと語る声が聞こえる。
「そこが、今回の物語の核になります」
トネリコは湯飲みを手にしながら、ゆるく頷いた。
言葉にしない想いが、姉妹の間でひとつ、ふわりと交差した。
「そうなんだ……。じゃあ、ちゃんと最後まで読まないと」
そう言ってページをめくる手には、小さな決意がにじんでいた。 誰に強いられたわけでもなく、自分の意思で読み進めようとするその姿勢に、トネリコは静かに目を細めた。
* * *
しばらくの後。
ページを閉じたアルトリアが、ぱたんと絵本を伏せて顔を上げた。
その目には眠気もなければ、読み終えたあとの空虚さもなかった。 あるのは、何かを得たあとの、穏やかで柔らかな光。
「ねえ、お姉ちゃん」
「はい?」
「今度、私も……物語を書いてみたいなって」
声の中には、ほんの少しの照れと、たっぷりの期待が混じっていた。
「あなたが、ですか?」
驚きはしたが、それは否定ではなかった。
むしろ、トネリコの目に宿ったのは、少しだけ誇らしげな輝きだった。
「うん。読んでばっかりじゃなくてさ、自分でも、小人の続きを作ってみたくなったの」
アルトリアの声には、幼いながらも確かな意志が宿っていた。 ページを読み切るということは、誰かが創った世界を最後まで辿るということ。
そこに心を重ねたとき、人はきっと「自分ならどうするか」と考える。 その芽吹きが、今まさにここにあった。
「ふふ……それは素敵なことです。もちろん、手伝いますよ」
そう応えるトネリコの声は、どこまでも優しかった。
「やった!」
アルトリアはぱあっと顔を輝かせる。 けれど次の瞬間――
「ただし、前回のような『冷蔵庫でプリンを探す妖精』のような展開は、避けてくださいね」
「えええーっ!? 面白かったのに!」
「……そこは相談しましょう。内容によっては、ファンタジーではなくコメディになりますから」
「コメディもいいじゃん! 妖精王がプリン好きって、ちょっと可愛くない?」
「妖精王の威厳が崩れます」
テーブルの向こうで、姉妹の笑い声が重なった。
湯気がゆるく立ち上るその朝、食卓にはいつもより少しだけ多くの未来が乗っていた。
小さな物語の読者が、今度は書き手になろうとしている。
そのはじまりを、トネリコは何よりも嬉しく思っていた。