トネリコとアルトリアの田舎日和 作:イモ
縁側に、小さな影がふたつ。
まだ朝の静けさが残る庭先で、トネリコは湯呑を両手に包み込むように持ち、湯気の向こうで揺れる葉の気配をぼんやりと眺めていた。
隣ではアルトリアが、もこもこの毛布を肩から羽織り、まだ寝ぼけまなこのまま、むにゃむにゃと口を動かしている。
「……お姉ちゃん、今日さ、なんか遊びに行かない?」
不意に放たれた言葉に、トネリコはゆっくりと視線を隣へ向けた。
妹の顔には、どこかむずがゆそうな、それでいてほんの少し期待をにじませた表情が浮かんでいる。
「急にどうしました?」
「ちょっとだけ……外の空気、吸いたくなって。ほら、最近ずっとおうちで、本ばっかだったから」
言葉に嘘はなかった。けれど、その奥にあるものを、トネリコは見逃さなかった。
窓の外を眺めていた瞳が、ほんの少し遠くを見つめるように揺れている。そんなアルトリアの変化に、トネリコはほんのわずか口元を緩めた。
「いいでしょう。たまには気分転換も必要ですから」
ぱっと、花が咲くようにアルトリアの顔が明るくなる。
「やった! じゃあ、どこ行く?」
「人が多すぎない場所が望ましいですね。……そう、あの神社の裏手にある雑木林などはどうですか?」
「いいねいいねっ! あそこ、落ち葉とかいっぱいあって楽しいよ!」
靴をつっかけ、並んで玄関を出る。
舗装されていない細道を歩けば、足元にかすかな湿り気が残る土の香りが漂ってきた。頭上からは葉のすき間を抜けて、やわらかな光が差してくる。
「お姉ちゃん、この葉っぱ、ちょっと耳みたいじゃない?」
「本当ですね。リスがつけていそうです」
「じゃあこれは……羽根っぽくない? 妖精の!」
「相変わらず、想像力が豊かですね」
「えへへー。……あっ、見て、ほら! あの木のとこ、キノコが生えてる!」
ぱたぱたと駆け出して、地面にしゃがみこむアルトリア。
トネリコは少しだけペースを落としながら、後ろからそっと追いつき、彼女の肩越しにそっと覗き込んだ。
「食用ではありませんから、触らないでくださいね」
「わかってるってば。でもさ、このキノコにも名前とか、物語とか……あるのかな」
目の前にあるのは、ただの地面からぴょこんと顔を出した、小さな傘のようなキノコ。
でも、アルトリアの目には、それが何かもっと別の――物語の入り口にすら見えているようだった。
「きっとありますよ。誰かに見つけてもらうために、ずっとここでじっとしていたのかもしれません」
トネリコの言葉に、アルトリアはしばらく沈黙してキノコを見つめた。
そのまなざしは真剣で、どこか優しく、そしてほんの少し切なげでもあった。
「……私も、そういうの書いてみたいな」
「物語を、ですか?」
「うん。小人とか妖精とか、キノコの家に住んでるみたいな話……お姉ちゃん、手伝ってくれる?」
「もちろん。あなたの物語を一緒に紡ぐのは、私にとっても喜びです」
トネリコの静かな微笑みを受けて、アルトリアはふにゃっと照れたように笑い、立ち上がる。
「よーし、まずは帰ったら、妖精が主役のお話、書いてみる!」
「その前に、手を洗って、温かいものでも飲みましょう」
「えー、それもセット?」
「当然です」
笑い声が落ち葉の上を転がっていく。
帰り道、踏みしめるたびにふわりふわりと跳ねる落ち葉が、まるでふたりを祝福しているようだった。
その先に広がるのは、まだ知らない物語たち。
どこまでも静かで、やさしくて、あたたかい世界が、そっと待っている――そんな予感がした。
帰り道の途中、アルトリアはふと立ち止まり、小さな枝を拾った。
「お姉ちゃん、これ、ペンに見えない?」
「……確かに、そう言われてみれば」
指先で木の表面をなぞりながら、アルトリアは満足げに頷いた。
「この木のペンでさ、妖精たちのことを書くの。ちゃんと物語にして、ちゃんと終わりまで書くの。今度こそ」
その「ちゃんと」という言葉の繰り返しに、少しだけ決意がにじんでいるのが分かった。
「それなら、まずは下書きからですね。題名は決めましたか?」
「うーん……『森のポストと妖精王』って、どう?」
「ふふ、それはあなたらしくて、いいと思います」
そうしてふたりは、家の門をくぐった。
トネリコはそのまま台所へ向かい、手を洗って湯を沸かす。アルトリアはリビングで、枝ペンを握りしめながら、真剣な顔でメモ帳とにらめっこしていた。
やがて、湯気の立つマグカップを両手で抱えながら、アルトリアがぽつりとつぶやく。
「……物語って、難しいね」
「最初から完璧なものを書こうとしなくていいのです。大事なのは、最後まで書いてみることですよ」
トネリコはそう言って、メモ帳をそっと覗き込む。そこには、まだ数行だけの短い文章が、走り書きのように並んでいた。
『ある日、森のポストに手紙が届きました。それは、妖精王からの、たった一行の挨拶でした――』
トネリコはその文を読み、ほんの少しだけ、口元を綻ばせる。
「悪くありません。とても良い導入です」
「ほんと!?」
「ええ。読んでみたくなりますから」
アルトリアは照れくさそうに笑って、マグカップの中に顔を埋めた。
その背中を見つめながら、トネリコは思う。
物語はいつも、静かに芽を出して、誰かの中でゆっくりと育っていくものだと。
そしてその夜、ふたりはまた並んで布団に入り、読みかけの絵本を開いた。
けれど、アルトリアの頭のなかはすでに、自分だけの世界のことでいっぱいだった。
「……ねえお姉ちゃん、もし妖精王が出した手紙に、返事を書くとしたら、どんな言葉がいいかな?」
「そうですね……“ここに、ちゃんと届きました”などはどうでしょう」
「それ、いいね……うん、書いてみよ……」
寝息が聞こえる前の、最後のひとこと。
まるで、夢の扉をノックするように、優しい声がふわりと闇に溶けていった。
翌朝。まだ少し寝ぼけ眼のまま、アルトリアは居間のテーブルに広げたノートと枝のペンを前に、じっと物思いにふけっていた。
トネリコが湯気の立つ紅茶を運んでくる。
「おはようございます。もう執筆再開ですか?」
「おはよ、お姉ちゃん。うん、昨日の続き、書こうと思って……けど、止まっちゃった」
ページの隅には、昨晩の文字がそのまま残っていた。
『――そこには、ただ、ひとことだけ書かれていました。「ここに、ちゃんととどきました」』』
トネリコはそっと隣に腰を下ろす。
「続きを考えているんですね」
「うん。でもさ、この手紙を受け取った人が、誰かわかんなくて……妖精王が誰に手紙を出したのかって考えると、どうしたらいいか……」
アルトリアは眉を寄せ、指先で枝ペンをくるくる回した。
トネリコは少し考え込んでから、そっと提案する。
「たとえば、誰でもない『あなた』に宛てた手紙、というのはどうでしょう。読み手が、その手紙の続きを自分で探していくような物語にするのです」
「……それ、いいかも。私が読んでるみたいに、誰かも、この話を読んでくれるかもしれないし」
枝ペンの先を軽く紙にあて、アルトリアは息を吸い込んだ。
「じゃあ、続きを書いてみる……」
トネリコはその横顔を見つめながら、そっと紅茶をひとくちすする。
言葉を紡ぐというのは、いつだって勇気のいることだ。小さな想像が、小さな物語を生み、それが誰かの心に届くかもしれない。
ふたりの間に流れる時間は、本当に静かだった。
やがてアルトリアが小さくつぶやく。
「……ねえ、お姉ちゃん。この話、もし完成したら、誰かに読んでもらいたいな」
「もちろんです。わたしも読みますし、図書館に相談すれば、小さな展示だってできるかもしれません」
「えっ、本当に!? 私の本が、他の人の目に触れるかもしれないの?」
その驚きと喜びに満ちた顔を見て、トネリコは微笑む。
「もちろん。物語とは、読まれることで生きるものですから」
アルトリアは、胸の奥からじんわりと湧いてくる嬉しさを噛みしめるように、深く頷いた。
どこまでも続く白紙のページの先に、まだ知らない物語が待っている。
そしてその物語は、きっと姉妹ふたりの手の中で、静かに息づいていくのだった
帰り道、雑木林を抜けて細い坂道を下っていく。アルトリアはまだ何か考えているらしく、時おり思い出したように独り言を漏らしていた。
「やっぱりさ、妖精が暮らすなら、キノコの家っていいよね。あったかくて、ほんのり甘い匂いがして……」
「それでは住居というより、お菓子のようですね」
トネリコはくすりと笑う。けれどその声には、妹の空想に寄り添うような柔らかさがあった。
「じゃあ、妖精の家はどんなふうがいいと思う?」
「そうですね……苔に覆われた丸い屋根に、小さなランプ。入り口には、落ち葉で作ったカーテンが揺れている。風の音に耳を澄ませながら眠りにつけるような家……でしょうか」
「わぁ、それ、絶対いい! もうそれ、第一話の舞台にしよう!」
興奮気味に話すアルトリアの横顔に、トネリコは小さく目を細めた。こうして、何かに夢中になっている妹の姿を見るのが、何よりも好きだった。
やがて家に着き、靴を脱ぐと、アルトリアは早速部屋の隅の机に向かい、ノートと鉛筆を広げる。
「えーとえーと、タイトルは……『妖精王と落ち葉の村』。どう?」
「良い響きですね。落ち葉の村とは、なかなか風流です」
「でしょ? ねえ、お姉ちゃん、序章の書き出しって、どうやって始めるのがいいの?」
「それはあなたの心が最初に動いた場面を、まず言葉にすることです。たとえば、あのキノコを見たときの気持ち。そこから広げてみましょう」
「……んー。じゃあ、こうかな」
アルトリアは鉛筆を握り直し、そっと紙に文字を刻みはじめた。
「“その日、妖精王はひとり、静かな森の端で、落ち葉を集めていた。”」
その一行を書いた後、アルトリアは手を止めた。何かを噛みしめるように、ゆっくりと息を吸って吐く。
「……なんか、緊張するね。自分の物語を書くって」
「それはきっと、あなたの中に大切なものがあるからです。それを形にするには、少し勇気が要りますから」
アルトリアはこくりと頷いた。
「でも、がんばる。だって……お姉ちゃんが見ててくれるし」
「ええ。あなたが紡ぐ物語を、誰よりも近くで楽しみにしています」
再び鉛筆が動き出す。こつん、こつんという筆記音が、部屋に小さく響いていた。
その音はまるで、誰にも知られていない小さな世界の扉を、ひとつひとつ開いていくようだった。