トネリコとアルトリアの田舎日和   作:イモ

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チョコと勇者と悪の女王

台所に立つトネリコは、流しに並んだ洗い物を一つひとつ丁寧に片付けながら、窓の外をそっと見やった。

 

 真っ白なカーテンがゆるやかに揺れている。その向こうで、アルトリアが何やら夢中になってノートに向かっているのがちらりと見えた。

 

 あの子は、夢中になると他のことが見えなくなる。  それは悪いことではないけれど、少し心配にもなる。食事も、水分も、気がつけば忘れてしまうのだから。

 

 「……まったく、もう少しだけ、自分の身体も大事にしてくれればいいのに」

 

 小さくつぶやき、ふっと笑みを浮かべながら手を止めると、トネリコはエプロンの紐を外し、静かに台所をあとにした。

 

 廊下を抜けて庭に出ると、アルトリアの小さな背中が木陰のベンチで揺れていた。膝の上には分厚いノート、手にはいつもの鉛筆。

 

 「そろそろ休憩にしませんか。喉も渇いているでしょう?」

 

 声をかけると、アルトリアはびくりと肩を震わせて顔を上げた。

 

 「えっ、あ、うん……あれ? 私、どのくらい書いてたんだろう……」

 

 「お昼を少し過ぎた頃からです。もう夕方になりかけていますよ」

 

 「うそっ!? 全然気づかなかった……」

 

 アルトリアは慌ててノートを閉じようとして、その途中で、ふと動きを止めた。

 

 「でもね、お姉ちゃん。今、すごくいい場面が浮かんだの。妖精王が、落ち葉の村で見つけた、秘密の泉の話……」

 

 「ええ、あとでゆっくり聞かせてください。紅茶を淹れましたから、一緒に飲みましょう」

 

 そう促すと、アルトリアは少し照れたように頷き、ノートを大切に抱えたまま立ち上がる。

 

 二人で縁側に腰を下ろすと、柔らかな陽がふたりの間を包んだ。手渡された湯気の立つ紅茶を受け取ったアルトリアは、ふぅ、と一息ついてから小さく笑う。

 

 「なんだか、物語を書いてると……私じゃない誰かになれる気がするんだ」

 

 「それは、きっと想像の力です。誰かの立場で世界を眺めるというのは、素晴らしいことですよ」

 

 トネリコはそう言って、優しく微笑む。

 

 アルトリアの目は、まだ遠くの何かを見ているようだった。夢の続きの中にいる、そんな顔だった。

 

 「妖精王は、どうして村に来たんだろう? ただ旅をしていただけなのかな。ううん、きっと、何か理由があるはず。たとえば……」

 

 思考を言葉にしながら、アルトリアはまた物語の世界へと沈んでいく。

 

 それを、トネリコは黙って見守った。過干渉にならぬように、けれど手を差し伸べる距離にいてあげられるように。

 

 ふたりを包む空気は、どこまでも静かで優しかった。

 

 

 朝の静けさが、家の中を包んでいた。

 

 カーテン越しの光が柔らかく差し込み、まだ誰の足音も聞こえない時間。トネリコは食卓の片隅に座り、紅茶を一口すすりながら、そっと机の上に置かれた紙束に目を落とした。

 

 そこには、アルトリアが夜遅くまで書き続けていた物語が綴られている。寝息を立てながら机に突っ伏して眠る妹を見て、彼女はそっとその原稿を手に取った。

 

 「……巨大な猫に、小人の勇者。村を守るための戦い、ですか」

 

 ページをめくるたびに、アルトリアの想像力の奔流が押し寄せてくる。文法や言葉遣いこそ拙いが、それでも彼女なりに丁寧に言葉を選び、精一杯に世界を築いているのが伝わってきた。

 

 ――大きな猫が、村の中央でうなり声を上げる。  ――勇者は、落ち葉で編んだ剣を構えて立ち向かう。

 

 トネリコは、思わず微笑んだ。

 

 「少し飛躍が過ぎますが……けれど、面白いです」

 

 そこには確かに、彼女の中にある純粋な善意と想像の翼が息づいていた。勇敢で優しく、でも少しおっちょこちょいな小人の勇者は、まるでアルトリアそのもののようだった。

 

 そのとき、背後で小さなあくびが聞こえた。

 

 「んぅ……お姉ちゃん、おはよう……原稿、読んでる……?」

 

 「はい。なかなかの冒険譚でした」

 

 トネリコの声に、アルトリアは少し照れたように頬をかいた。

 

 「えへへ……あのね、思いついちゃったんだよ。夢の中で、小人の村に迷い込んで……それで、猫が『おまえのチョコをよこせ』って……」

 

 「その猫、悪役のはずなのに、食べ物の好みがやけに具体的ですね」

 

 「チョコは命より大事なんだよ! だから、それを守るために、勇者が立ち上がるの!」

 

 勢いよく立ち上がったアルトリアは、床に散らばった原稿をばさばさと拾い始めた。その瞳は真剣そのもので、もはや眠気などどこかへ吹き飛んでいる。

「……というわけで、今日は演劇です。リーディング・プレイ、いってみよー!」

 

 原稿用紙の束を両手で掲げながら、アルトリアが勢いよく宣言する。声には眠気の名残すらなく、その全身からは「やる気しかない」という気迫がみなぎっていた。

 

 トネリコは湯気の立つ紅茶をひとくち啜り、静かにまばたきをひとつ。

 

 「……また、突飛な展開ですね」

 

 彼女の声には、呆れと諦めが絶妙な比率で混ざっていた。とはいえ、本気で止める気などさらさらない。こうして物語の続きを始める妹の背中を見るたびに、なぜだか肩の力が抜けて、思わず笑みがこぼれてしまう。

 

 「私が勇者で、お姉ちゃんは……悪の女王!」

 

 アルトリアが得意げに指を差す。

そう高らかに宣言すると同時に、アルトリアは椅子の背に掛けられていた大きめのバスタオルをひょいと手に取った。ほつれかけた縁取りと、うっすら花の模様。どこにでもある、ふかふかの家庭用タオルだ。

 

 「はいっ、じっとして!」

 

 「……え?」

 

 返事をする間もなく、トネリコの肩にタオルがばさっとかけられる。

 

 「これで悪の女王マント、完成っ!」

 

 軽やかな動作で、アルトリアは後ろからトネリコの首元に手を回し、タオルの両端をきゅっと結んだ

どこか誇らしげなその口ぶりに、トネリコはつい眉をひそめた。

 

 「なぜ悪役なのですか」

 

 肩まで掛かったタオルマントをひと撫ですると、視線をそっと妹に向ける。彼女がこの手の遊びに全力投球することはよく知っていたが、よりによって“悪の女王”という役どころには納得がいかない。

 

 「見た目がそれっぽいから!」

 

 即答だった。迷いなど一切ない、極めて純度の高い直球の理由。

 

 「……なるほど」

 

 トネリコは目を伏せ、少しだけ肩を落とした。

 

 「否定できないあたりが悔しいですね」

 

 それでも、彼女の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。面倒だと思うどころか、こんな風に誰かに役を与えられることが、ほんの少しだけ、嬉しく思えてしまったから。

 

アルトリアの瞳はまっすぐで、物語に命を吹き込むことに、真摯だったから。

 

 「よしっ、始めます! 女王様、村のチョコを返してもらおうかっ!」

 

 「……そのセリフ、語調だけはやけに堂々としていますね」

 

 トネリコは深いため息をつきながらも、柔らかく微笑む。

 

 「わたしは、チョコを独占する悪の女王。そしてあなたは、それを取り返す勇者……ふふ、なかなか筋は通っています」

 

 「でしょっ! だから、ちゃんとハッピーエンドにしようと思って……その、女王様も、実は寂しかっただけで、最後は仲良くなるの」

 

 その言葉に、トネリコは目を細めた。

 

 「ならば、悪役とはいえ、役を引き受ける価値もありそうですね」

 

 「えへへ、ありがとう。お姉ちゃんがいると、物語がちゃんと前に進む気がするんだ」

 

 そう言って、アルトリアは手元の原稿に目を落とし、ペンを走らせ始める。

 

 こつ、こつ、と鉛筆が紙を叩く音。

 

 その音が、またひとつ、新しい物語の扉を開いていく。

 

 静かな部屋に、その優しい音がいつまでも響いていた。

 

 

午後の光がゆるやかに傾き、窓辺のカーテンがそよ風にゆらめく。

 

アルトリアは、机に向かったまま、原稿用紙の上に顔を寄せていた。鉛筆の音は止まらない。彼女の中にある物語は、まるで泉のように溢れ出ていた。

 

 トネリコはというと、悪の女王のマントを肩にかけたまま、食卓の椅子に座っていた。台詞回しに苦戦したせいか、肩の力がすこし抜けている。

 

 けれど、その横顔は満ち足りていた。

 

 「――猫は、勇者に向かってこう言いました。『チョコが欲しいのではない、誰かと一緒に食べたいのだ』……ふふ、我ながら名台詞です」

 

 ぽつりと呟いたトネリコに、アルトリアがちらりと視線を向けた。

 

 「それ、採用。お姉ちゃん、天才」

 

 「恐縮です、勇者さま」

 

 茶化すように頭を下げると、アルトリアは小さく笑った。

 

 やがて、アルトリアがぱっと顔を上げる。

 

 「ねえ、ちょっと続きをやらない? 今度は、猫と女王が勇者にお礼を言いに来る場面!」

 

 「アドリブ、続きますか……? また変な即興を要求されそうな予感がしますが」

 

 苦笑しつつも、トネリコはマントを正し、立ち上がった。

 

 アルトリアが立てたのは、段ボール箱でできた即席の“台”の前。そこに、役者ふたりが再び並ぶ。小道具は紙の杖、背景は想像。けれど、心だけは真剣そのものだった。

 

 「では……」

 

 トネリコは低く声を整え、すっと演技へと入った。

 

 「――勇者よ。我が城に来るのは、久方ぶりですね」

 

 「うん! 今日はね、お土産があるんだ!」

 

 アルトリアは、見えないかごを抱えるような仕草で胸を張る。

 

 「チョコだよ! みんなで作った特製の。猫と一緒に、分け合うために!」

 

 「ほう、それは……嬉しい申し出です。ですが、我が城の門番は甘い物が苦手でして。まずはそこを説得しなくてはなりませんね」

 

 「よし、交渉は任せてっ!」

 

 そして、すかさずアルトリアは姿勢を変え、目つきと声色を切り替える。

 

 「私は門番! チョコ? 甘すぎて鼻が曲がるから通さないぞ!」

 

 「さすがに忙しすぎではありませんか、その役の切り替え」

 

 トネリコが思わず吹き出しそうになるのをこらえると、アルトリアは真剣な顔で言った。

 

 「劇っていうのはね、誰かがやらないと進まないの! 私は語り部であり、勇者であり、門番でもあるの!」

 

 「なるほど。つまり“主役至上主義”ですね」

 

 そう言いながら、トネリコは再び舞台に戻る。

 

 「では……門番殿。これが、民の手で作られた、村のチョコです」

 

 「……む。う、うまそう……ひとくちだけ、くれるなら、通してやってもいい……」

 

 そう言って、アルトリアは小さな手でチョコを食べる真似をしてから、嬉しそうに胸に手を当てる。

 

 「なんて優しい味……これが、みんなの心……!」

 

 「勇者よ、あなたの働きには心より感謝いたします」

 

 トネリコが膝を折り、丁寧に頭を垂れる。

 

 「この国には、もう争いはいらない。これからは共に、平和とチョコを分け合いましょう」

 

 「うん、女王さま!」

 

 ふたりは視線を交わし、そっと手を取り合う。

 

 観客はいない。ただ、優しい時間と、想像の舞台がそこにあるだけだった。

 

 「これにて、幕。……ついでに、私たちもおやつの時間、ということでいい?」

 

 「演技が終わったら、現実に戻るのが早いですね」

 

 けれど、そんなふうに笑い合える空気が、トネリコにはなによりも尊く感じられた。

 

 

 「ねえ、お姉ちゃん。物語の中では、すごく勇気が出せるの。怖いことも、寂しいことも、ちょっとだけ平気になるんだ」

 

 その言葉には、年齢以上の真剣さがにじんでいた。

 

 「きっと、それが物語の力というものでしょう。読んでも、書いても、誰かの心を少しだけ支えてくれる。……と、私は思っています」

 

 「うん。私、もっといっぱい書いてみる。登場人物を増やして、村のひとりひとりにも名前をつけて……季節が巡って、祭りがあって、みんなで……」

 

 そこまで言ったところで、アルトリアの声が小さくなった。

 

 「……ちゃんと、幸せな終わりが来るお話にしたいな。ぜんぶ、きちんと、最後まで」

 

 「ええ。あなたなら、きっと書けます。だって、あなたはとても優しい子ですから」

 

 優しく微笑む姉の声に、アルトリアの肩が、少しだけ震えた。

 

 言葉にならない気持ちが、胸の奥で泡立っていた。けれどそれは、悲しみや苦しみではなく、ただあたたかいものだった。

 

 しばらくして、アルトリアはすっと立ち上がり、机の上の原稿を両手で大事そうに抱えた。

 

 「お姉ちゃん、これ……あとで、また読んでくれる?」

 

 「もちろん、喜んで。……その代わり、今夜は早く寝ること。約束です」

 

 「むぅ、それは……善処しますっ!」

 

 そう言って、アルトリアは逃げるように部屋を飛び出していった。廊下の先でつまずきかける音が聞こえて、トネリコは思わず苦笑した。

 

 「……相変わらず、元気な勇者さまですね」

 

 窓の外には、茜色がほんのりと空を染めていた。

 

 物語が終わっても、日常は続いていく。けれど、この日々のひとつひとつが、いつかアルトリアの物語の一部になっていくのだろう。

 

 そう思うと、胸の奥が、そっとあたたかくなるのだった。

 

 

 

翌朝。

 

 朝食もそこそこに済ませると、アルトリアはぱたぱたと駆け出して、机に置いてあったノートと手作りの小道具を抱えて戻ってきた。紙の冠、画用紙で作った剣、毛布をくるりと巻いたマント。それらを腕いっぱいに抱えて、息を弾ませながらトネリコの前に立った。

 

 「お姉ちゃん、今日はいよいよ――本番です!」

 

 「……本番、ですか?」

 

 「うん! 昨日の続きを演じたいの。悪の女王と、小人の勇者と、巨大な猫! ちゃんと台本も用意したよ!」

 

 そう言ってアルトリアが差し出した紙には、鉛筆の走り書きで「第二幕 チョコの涙と願いの剣」と書かれていた。

 

 トネリコは一瞬言葉を失い、次に小さく笑った。

 

 「ずいぶん詩的な題ですね……それで、私はまた悪役ですか?」

 

 「うん! でもね、今回はちょっと違うの。最後に心を入れ替えて、勇者と一緒にチョコを配る女王になるの!」

 

 「随分と都合の良い改心の仕方ですね」

 

 そう言いながらも、トネリコはすっと立ち上がり、昨日と同じように毛布のマントを肩に掛けた。

 

 アルトリアは一歩引いて、舞台の“中央”に立つ。

 

 「よし……はじまりはじまりっ!」

 

 小さな掌で手を打つと、彼女の声が高らかに響いた。

 

 「むかしむかし、小人の村に、一人の勇者がいました。名前は……うーん、アーサー!」

 

「……随分と王道な名前ですね」

 

 

「しーっ。ここからが本番!」

 

 そう言って、アルトリア――もとい、アーサーは段ボールの裏に描かれた“村”の前に立った。背中にはくしゃくしゃの画用紙剣。胸を張り、まるで舞台袖から登場する主役のように、堂々と前に出る。

 

 「悪の女王よ! 村のチョコを返せーっ!」

 

 その叫びに合わせて、アルトリアは段ボール剣を勢いよく掲げ、足を開いて腰を落とす。決戦前夜の勇者そのものの構えだ。

 

 一方のトネリコも、芝居に付き合いながら、ゆったりと椅子に座ったまま仰々しく顎を持ち上げ、重々しい口調で返す。

 

 「ふふ……愚かなる勇者よ。このチョコは私のもの。甘くて、とろけて、ひとりじめしたくなるほど美味しいのよ?」

 

 彼女の声はいつになく艶やかで、わざとらしく肩を揺らしてみせる。マント代わりのバスタオルをひるがえしながら、悪の女王らしい威厳をまとおうとする姿には、どこか本気の演技が滲んでいた。

 

 「でも、それじゃあ誰も笑えないよ! チョコは、分け合ってこそ、もっと美味しくなるんだ!」

 

 アルトリアが、かっと目を見開いて前に踏み出す。声に力がこもる。

 

 「僕は知ってる! みんなで食べたチョコは、世界一の味なんだ!」

 

 「ふむ……その言葉、まるでどこかで聞いたような……」

 

 トネリコがわざとらしく顎に手を当てて首を傾げると、アルトリアはさらに一歩、間合いを詰める。段ボールの地面がきしむ音までもが、戦場の演出のようだった。

 

 「勇者アーサーは言いました。悲しむ人がいなくなるように、チョコは村のみんなで食べるべきだと!」

 

 高らかに宣言するような声が、居間の空気を震わせた。アルトリアの表情は真剣そのもので、胸元に抱えた原稿をぐっと握りしめていた。

 

 それは、どこかで見たヒーローのような立ち姿。けれど、きちんとアルトリアの言葉で、アルトリアの物語で、誰かを幸せにしようとするその一歩は、間違いなく“彼女だけのもの”だった。

 

 そして、そこまで言い終えると、アルトリアは一歩前に出て、そっとトネリコの手を取った。

 

 冷えた指先の感触が、掌を通して伝わってくる。その震えはほんのわずか――だが、確かにあった。

 

 

 「だから、女王さま。あなたも一緒に、チョコを食べよう?」

 

 

その瞳はまっすぐで、迷いのない光を湛えていた。けれど、微かな震えすら隠していない。言葉の裏にあるのは、不安や照れではない。きっと、「届いてほしい」という、切なる願い。

 

 トネリコは一拍の沈黙ののち、そっとまぶたを伏せ、やがてゆっくりと頷いた。

 

 

 「……ならば、私もその輪に加えてもらえますか。ひとりきりは、少し、寂しかったものですから」

 

 

その声には、物語の登場人物だけではない、トネリコ自身の感情が滲んでいた。差し出された手は、さきほどとは反対に、アルトリアの指先を包むように優しく握り返される。

 

 その瞬間、空気が少し揺れた気がした。まるで、本当に物語のなかで、氷の女王の心が溶けるように――そんな錯覚が訪れるほどに。

 

 ぱち、ぱち、とアルトリアが自分で拍手を打ち、即席の演劇は、ゆるやかに幕を下ろした。

 

 舞台も音響も衣装もない、小さな家の居間での演劇。

 

 けれどそこには、まぎれもない“物語”が息づいていた。

 

 手作りの王冠、タオルを巻いたマント、紙に鉛筆で描かれた手書きの台本。それらすべてが、この家のなかだけの、唯一の劇場を作り上げていた。

 

 「ありがとう、お姉ちゃん。やっぱりお姉ちゃんがいると、うまくいくんだ」

 

 声に浮かんでいたのは、達成感と、ほんの少しの恥ずかしさ。それでも、心から楽しんでいたことが、その頬の紅潮と笑みにすべて現れている。

 

 「演技の質というより、あなたの勢いで押し切られた気がしますが……でも、楽しかったですよ」

 

 そう答えたトネリコもまた、自然と口元を綻ばせていた。

 

 立ち上がり、台所に向かうと、トネリコはふたりぶんの紅茶を改めて淹れ直す。小さなカップから立ち上る湯気が、演劇の余韻をやさしく包んだ。

 

 ふたりの間には、きっと次の幕も用意されている。

 

 ――勇者と女王が、今度はどんな旅に出るのか。

 

 想像の続きを、また一緒に紡いでいけるのなら。

 

 

 その未来が、とても楽しみに思える。

それは、悲しみや苦しみではなく、ただあたたかいものだった。

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