ようこそパンドラの教室へ 作:人生とは何か
突然のことに驚く生徒たちだが、果たしてこの小テストの結末はどうなるのだろうか。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
もっと素早く走らなければと思っても、これ以上のスピードを出すことはできない。私は、まだ幼く、元々の体力も少なく運動が嫌いな人間だった。そんな人間が15分も走りっぱなしなのだから、これ以降は足が遅くなるばかりだ。
「早く追え!アイツを逃がすな!」
後ろから聞こえてくる怒声と足音に、今にも足が止まってしまいそうになる。しかし、それでも私は走り続けた。生きるために、私の未来のために。
体中の筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼け付くように痛む。それでも、この一歩一歩が、私をあの闇から遠ざける唯一の手段だった。
「助けて!助けて!」
ポツリポツリと畑が見えてくると、遠くにある小さな光が目に入る。そして数秒後、その光が民家の玄関に設置されたライトから放たれているものだと分かる。私は今までの疲れが嘘のように全速力で走り、大声で叫んだ。
「助けてええ!誰かぁ!」
「うるせぇ、黙れ!」
相変わらず後ろからは悪人共が追い掛けて来ているが、私は構わず叫び続ける。そして民家の前に着くと何度もチャイムを鳴らす。
ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン
「……お、お願いだから、早く、出て」
「……おや、一体どうしたんだい?」
チャイムの音と共に、玄関のドアがゆっくりと開かれる。そこに立っていたのは、白髪の優しい目をした老紳士だった。彼の顔には驚きと、不安の色が浮かんでいた。
「助けて!あの人たちに追われてるんです!」
助けを求めると、民家の主である老紳士は私を優しく抱き締め、中へ入るよう促す。その後、民家の壁や窓を男達は何度も叩き、壊そうとするが数分後警察がやって来て事なきを得た。
「……ええっと、とりあえずお嬢さんのお名前と年齢をお教えいただけますか?」
「は、はい……松平瑠璃と申します」
これは、私が孤児院に入所して初めて外出をした日のことだった。家族になることが決定していたわけではないが、彼らは私を大切にしてくれた。
「お会いするのは2度目ね、瑠璃ちゃん。私たちのことは……おばさん、おじさんって呼んでね」
「そうだな。よろしくね、瑠璃ちゃん」
「はい、よろしくお願いします!おばさん、おじさん!」
明るく、それでいて礼儀正しい私はすぐに彼らを虜にした。彼らは何度も私と面会を行い、少しずつ信頼関係を築いていった。
孤児院に入ってから、私は孤児院という新たなコミュニティから排斥されないよう、人の当たりの良い、明るく賢く懸命な少女として振舞ってきた。同年代の少年少女たちにはやさしく接し、孤児院の職員たちには率先して家事を手伝い、年下の子供たちの面倒を見る優しい少女としての一面だけを見せ続けた。
だから私は、孤児院に入って一月もすれば、私を養子に迎えたいと言う人々が増加し、ある意味人気な養子候補として注目された。
その中でも、何度も面会をしたこの夫婦に私は強い安心感を覚えたのだ。優しげな顔、記憶の中の母に似た澄んだ小川の様な美しい声が、彼女に母の面影を感じた。
4回目の面会を終えて、5回目の面会で私は外出許可をもらった。彼ら夫婦と共に日帰りでドライブに出かけることになった。
「私、ドライブって初めてなんです。とっても楽しみだなぁ……」
「まあ、そうなの?」
「今日は、夕日が綺麗な海を見に行く予定なんだ。あの海の近くには、人気のチョコレートショップもあるから、着いたらそこに行ってみようか」
私はおじさんの言葉に、ついだらしなく口元を緩め涎が溢れそうになってしまう。チョコレートは私の大好物だ。
「はい!」
しかし、ドライブの帰り道、何者かの車が衝突事故を起こした。おじさんの男性が車を降りると、突然加害者の車からでてきた男が殴り掛かり、彼は崖から転落した。その後、おばさんの女性の手を握り走った。故障した車を置いて、何故か豹変した相手の男から逃げるように山を下るが、彼女のヒールが折れてしまった。
「きゃっ!」
「お、おばさん!大丈夫?」
私が慌てて駆け寄ろうとすると、彼女は一度私を強く抱き締めて靴を脱ぎ、私に背を向けてこう言った。
「すぐに追いつくから、この下にある村まで走るのよ。そしたら大人に助けを求めて。大丈夫、怖いことは何も無いからね」
「わ、分かりました」
母親候補の女性に言われるがまま、振り返ることなく走り続けた。後ろでドタバタと大きな音がしても、女性の悲鳴が聞こえても、目をきつく閉じて必死に足を動かし続けた。
その後は彼女の言う通り、男に追い付かれそうになりはしたが、何とか村の外れにある民家まで辿り着き、保護された。その後すぐに警察がやって来て問題は解決したが、男は逃走し、候補者の夫婦はどちらも亡くなっていた。
「……ゴッドマザー、私、逃げてしまいました。怖くて、泣き叫びたくて、でも2人を助けたかった。こんなに優しくしてもらったことがなくて、本当に嬉しくて」
情緒不安定な私にゴッドマザーは優しく寄り添い頭を撫でる。
「……神は、あなたをお救い下さったのです。瑠璃、あなたはあなたの人生に責任を持って全うしなければいけません。それが、あなたを救った彼らにとっての救いなのです」
「……はい、分かりました。私は私の人生を必ず全う致します」
いつか、私の犯した罪が許される日が来ることを願って、私は神に祈った。
「ああ、神よ。あなた様は何故、純粋で心優しい瑠璃に試練をお与えになるのでしょうか。私は、不思議で不思議でなりませんわ」
◇◇◇
賭けを始めてから約ひと月が経過しようとしている頃、私たち新入生は突然3時間目の真嶋が担当する国語の授業で突然テストを受けることになった。
「おはよう。全員揃っているようで感心だ。今日は君たちに重要な連絡がある」
真嶋はいつになく真剣な面持ちで、生徒たちを一瞥してから話す。
「今日は君たちに小テストを受けてもらう」
「……」
突然の発言にもAクラスの生徒たちは動揺することなく、落ち着いた様子で話を聞いている。
「突然のことで驚いた者もいるだろうが、今回のテストは成績に反映されるものでは無いので安心して欲しい。だが、真面目に受験することを推奨しておく。この意味は……君たちであれば分かっているはずだ」
そう念を押し、真嶋は試験に関する詳しい説明を行なっていった。受験科目は現在学んでいる教科と同じで、出題範囲は全クラスで統一されているそうだ。小テストは一枚で五教科の問題が全て含まれているようで、これは一年生全体で行われるらしい。
「では、試験を始める」
真嶋の合図で試験が始まる。
問題の難易度は簡単な基礎レベルから難しい難問レベルまで様々だが、問題の多くは基礎から発展レベルで入試に比べれば簡単だ。といっても我が校の入試自体、低レベルな問題が多く、国立の国が運営している進学校に相応しくないものだ。やはりこの学校は様々な学力レベルの生徒の入学を受け入れているみたいだ。
「……」
チラリと教卓の横に立つ真嶋を見ると、彼は生徒たちの様子を複雑そうな顔で見ていた。一体何をそんなに恐れているのだろうか。
「……時間だな。全員ペンを置いてくれ。試験終了だ。答案用紙を後ろから上に重ねて前へ送ってくれ」
試験が終わると真嶋の指示通り、生徒たちは答案用紙を上に重ねて後ろから前へ手渡していく。そして全ての列の答案用紙を真嶋が回収し、端を合わせてトントンと2回教卓で叩いて揃える。その紙を大きなB4サイズの封筒に入れる。
「これにて試験を終了する。結果は来月1日のホームルームに判明するので、もうしばらく待っていてくれ。では、解散とする」
休み時間を言い渡して、真嶋は教室から去っていった。生徒たちは不思議そうな顔でテストについて、あれこれ感想を言い合う。
「めっちゃ簡単で表紙抜けだったなぁ」
「それな!あのレベルで学力調査なんて、何言ってんだろうね」
「基礎学力レベルもいいとこだよ。教科書さえ覚えれば解けちゃうレベルだからがっかりだよ。国立の学校だから、すごい教育してるんだろうなって期待してたのに」
生徒たちは好き勝手にテストの難易度について文句を言い、我が校をバカする言動を繰り返す。彼らの発言は我がクラスの品位を落とす物言いだが、彼らの意見には賛同だ。このレベルのテストで学力を測るだなんて、冗談も甚だしい。非常に不愉快である。
この学校は、ただの「実力至上主義」を謳うだけの場所ではなさそうだ。何か、もっと深い意図が隠されている。
「……」
「今回行われた小テストに、随分と不満そうだな、小鳥遊」
教室内の様子を観察していると、後ろから普段聞かない珍しい声が聞こえる。振り返ると、普段坂柳に付き従っている鬼頭が無表情で真後ろに立っていた。
「うわ、ビックリした。突然後ろに立たないでよね……ちょっとこの低レベルな問題を出されるのは舐められてるとしか思えないな。私も国立の学校だから、教育内容にすっごくワクワクしてたから、残念だよ。まあ勝手に期待されて学校側からしたら迷惑なだけなのかもしれないけどね」
私が鬼頭にテストの愚痴を零すと、彼は腕を組みうんうんと頷いた。
「確かに、入試問題や全国模試に比べれば遥かに易しい問題だろう。しかし、最後の三門はかなり難しかったと記憶している。お前は解けたか?」
「最後の一門は無回答、残りの2問は一応答えは記入したけど、当たるかは微妙かな」
鬼頭にそう答えると、彼はフッと口角を上げ小さく笑った。その顔は正直笑顔とは程遠く、不敵な笑みを浮かべた悪役だと言った方が信じれるほど恐ろしいものだ。
「そうか。だが、ほとんどの生徒は解答することすら、できていないはずだ。学力が高い生徒でも解答が合っているかどうかすら予測できないんだ、その問題を用意した学校の教育は全てダメというわけでは無いと思うぞ」
鬼頭はこの学校の教育も捨てたものじゃないと考えているようだが、彼の意見に私はまだ賛同できないでいた。
「……そうだと良いけどね」
「鬼頭君、少しよろしいですか?」
遠くで坂柳が鬼頭を呼んでいる。
「呼ばれたので俺は行く」
鬼頭は坂柳の方に向かって素早いスピードで向かっていく。その様は少し怖いが、彼の忠誠心は大したものだと再評価をした。
誰かの傍に仕え、その人物の意のままに従う人間は人間としての意志が欠如していると考えていたが、今日改めて鬼頭を見て私は考えを変えた。
鬼頭は、坂柳に付き従い彼女の命令を遂行しているが、彼は道具となる道を選んだのではなく、彼女に心酔しているのだ。彼女という人間を信じ、彼女こそが勝ち馬だと確信を持っている。これが彼の意志でなければなんと言うのだろうか。洗脳とでも呼べば良いのだろうか。
「……洗脳、じゃあ無いよね。まあ洗脳も人心掌握術と呼べなくもないし、脅してる訳でもないし、私が介入する理由にはなり得ないかな」
現在、私と坂柳はとある賭けをしている。坂柳が退学を賭けたとても重要で楽しい賭けだ。
2ヶ月以内に坂柳がAクラスを国家として纏めあげることができれば、私は彼女と友達にならなければいけない。もしこの賭けに坂柳が負ければ、その時彼女は退学する。
この賭けには制限もあり、暴力と脅迫による支配は禁止だ。この状況で坂柳は生徒たちのトップに立つべく、様々なものが必要だ。それらを自分で用意し、活用してどのようにリーダーになるのか、非常に楽しみである。
「さて……次の授業の準備しよっと」
私は教科書と資料集、ノートと問題集を机の上に置き、その上に筆箱を乗せてからそれらを持ち上げ、教室を出た。
廊下を歩きながら、私は今日のテストと、坂柳との賭けについて深く考える。
この学校は、私に何を求めているのだろう。そして、私はこの「箱庭」で、本当「父の期待」に応えることができるのだろうか。
◇◇◇
4月が終わり、5月がやってきた。坂柳との約束の日まで残り1ヶ月だ。
「あ、おはよう!久しぶりだね。綾小路君は、いつもこんな早い時間に登校しているの?」
約3日ぶりに綾小路と会った。彼は意外とコミュニケーション能力が低そうだと思っていたのだが、予想外に例の無機物である堀北と仲良くしているようだ。
「おはよう、小鳥遊。この時間って早いのか?家に居ても暇だから、起きたらすぐ登校するようにしているんだ」
「へぇ、そうなんだ。通学路で君に出会うのは初めてだから、なんだか新鮮だな」
綾小路と会うのは放課後か昼休みか休日の日だけだ。普段の休み時間や通学中に会うことはなく、学生証端末で簡単に連絡が取れるため、わざわざ会って話すことはあまりない。予め連絡を取ってから会うため、通学中に出会ったのは入学初日を除いて初めてだ。
「……そういえば、今日はこの前受けた小テストが返却されるそうだな。小鳥遊は自分の結果についてどう思っているんだ?お前は今回のテスト、自信はあるのか?」
綾小路の疑問に私はどう答えるべきか思案する。1科目4問の100点満点のテストだ。最後の3問を除いた全ての問題が満点であれば、85点は得られるだろう。しかし、問題の難易度が簡単なため、この点数を取れる人間は多いはず。であれば、まあまあと答えるのが無難だろうか。
「……まあまあ、かな。最後の3問はとても難しかったし、一応2問は解いたけど、最後の問題だけは解けなかっから白紙で提出したんだよね。綾小路君、君はどうだった?」
「……」
綾小路は何やら考え事をしているのか、空を眺めながら口を開いた。
「俺は平均点くらいは取れているはずだ」
「平均点にもよるけど、君がもし50点以下だったのなら、今後は私が勉強を教えてあげるよ。傲慢な言い方かもしれないけれど、私ね、勉強はそれなりに得意だと思っているからさ」
「……そ、そういうものなのか」
綾小路はなんだかショックそうな顔で、当たりを見回してから小さな声で呟いた。心做しか、顔が青くなっているように見える。体調でも悪いのだろうか。
「ねぇ、大丈夫?顔色悪いけど」
「だ、大丈夫だ。問題無い」
「そっか!それなら良かった!」
それから数分後、私たちの前に無機物である堀北が立ち塞がった。
「あら、今日は偽善者と一緒に登校?お似合いの組み合わせね」
「……」
私は堀北に怒りを通り越して呆れた。彼女は本当に人への思いやりは勿論、人の感情に無関心な人間だ。そんな人間はいくら優秀でも組織に入れば孤立してしまう。人が人を相手にし続ける限り、彼女の存在は邪魔でしかない。早く社会に揉まれて排斥されてしまえば良いのに、と強く願った。
「堀北、小鳥遊に謝れ。お前の言葉は相手を傷付けるだけだぞ」
「何偽善者に偽善者といって何が悪いのよ。彼女は真に人を思いやる人間ではないわ」
「……私が偽善者なら、堀北さんは悪人……化学物質で例えるなら硫黄だね」
「はぁ?」
「なんでだ?」
私の言葉に堀北は怒り、綾小路は不思議そうな顔をしている。堀北が硫黄だと思った理由、それは───
「……堀北さんって、すぐ人を馬鹿にするよね。馬鹿にして、罵って、挑発して、本当に忙しい人だよね。空気と混じれば粉塵爆発の可能性もあるし、自然発火して硫化水素を発生させたり、周りに迷惑をかけてばかりの君にそっくり。違うかな?君の存在自体が、周りの空気を汚染しているように思えるんだけど」
「な、なんて学のない人なの?こんな人と同じ学校だなんて、自分が恥ずかしくなってくるわ」
ここまで言われても彼女は口を開き続ける。この程度の挑発はへっちゃらなようだ。彼女の声は頭に響いて、だんだんと目眩がしてくるほどだ。ならばもう一度攻撃する他無い。
「まあ、他の化学物質でも表すことはできるけど、今思いついたのはこれだから、君は硫黄と同じなんだよ。いや、硫黄の方が貢献度は高めだから、やっぱりこの話はなかったことにしようか」
「……ふ、不愉快よ!私は先に行くわ」
堀北は綾小路に向かってそう告げると、そそくさと退散していった。ようやく危険物が消えて安堵し、肩の力が抜けていく。
「彼女、早くあの性格を"矯正"しないと大変なことになるよ。あんなんじゃあ、社会に排斥されちゃうよ」
「そうだな。本当にすまない、小鳥遊。悪いヤツではあるんだが……今のところは目を瞑ってくれると助かる」
綾小路は遠い目をしながら、私に堀北を許すよう求めてきた。彼女は不愉快だったが、綾小路はまともな男だ。そして信頼できる友人でもある。ならば、今回は私が大人にならなければいけない。
「仕方ないね。まあ期待しないけど、彼女が自分の性格の悪さに気付く日が来ることを、心から祈っておくよ」
「お前の寛大な心に感謝する」
私たちは何事も無かったかのように歩き始める。
「そういえば綾小路君、君は哲学とは一体なんだと思う?」
「……また、難しい質問をするな」
「でも、こうやって何かのテーマを決めて話すのは嫌いじゃないでしょ?それとも、私に言い負けると思ってるのかしら?」
綾小路に挑発的な言葉を掛けると、彼はため息をつきながらも私との"お喋り"を素直に受け入れた。
「哲学とは"知を愛する営みのこと"だと思っている」
綾小路の出した結論は、抽象的で曖昧、スタンダードで模範解答、至ってシンプルな回答だった。しかし、それだけで終わらせるにはつまらない。あまりにも味気ない。
「へぇ。で"知を愛する営み"って一体何なのかな?説明してくれるよね?綾小路君」
「……ああ、分かった」
しぶしぶ、といった様子で綾小路は説明を始めた。
「哲学は、人生や世界、宇宙の本質を論理的な思考や原理によって解明しようとする学問だ。英語で哲学を意味する「philosophy」の語源は、古典ギリシア語の「philosophia」に由来し、直訳すると「知を愛する」という意味がある」
「ふうん?で、哲学って一体何を追求する学問なのかな?」
「……」
哲学を齧った人間であれば、哲学とは何かを追求されるのは承認欲求を満たされはするが、非常に面倒で不快だと感じるだろう。何故なら、哲学は文系であり、理系であり、場合によっては体育会系だからだ。
「……哲学は地域と分野で様々な形に細分化され、この先も人が謎を抱き続ける限り未来永劫その数は増殖していく学問だ。それを勝手に定義し、俺が決めつけることは不可能だ」
綾小路は逃げた。自分の思考を隠そうとした。それは到底許される行為ではない。勿論、私は許さない。
「君にとっての哲学とは一体何?それが正解でなくても構わないから、教えてくれないかな?」
「……なら、聞かせてくれ。お前は"正義"とは一体何だと思う?」
主導権を握っていたはずが、突然私が意見する側になるとは夢にも思わなかった。そのターンはもう少し遅くやって来ると考えていたが、予想外に早かった。
「……正義とは、悪人を裁く為の大義名分だと思っているよ」
「大義名分?」
「そう。世間には様々なルールがある。ルールを守らなければ罰されてしまう。そのルールを定めたものが法律であり、法律の元に罪を裁く。でもそれだけじゃないの。例えば、革命だって腐った政治や世直しを掲げ、民衆や貴族の支持を得て行うもの。でもそれは大義名分で、革命後に民の暮らしが良くなり、それが継続しているケースってほぼ無いのよ。つまり、革命も正義という大義名分を持って行われる、私的な行為なの。正義って便利な言葉で、使えばすぐに正しくなれる。だから私は正義とはとても不平等で不公平なものだと思っているの」
法律を正義だと呼んでも良いが、法律だって万能じゃない。法律以上の結論を出すのは、中立たる裁判官たちだ。そして彼らも人間であり、絶対的な中立とは言えない。つまり、この世に真の正義も中立も存在しないのだ。必ず何かが得をし、その分何かが損をするのである。中立の立場なんてとんでもない、そんなもの存在しない。
「正義を大義名分と考えているのは面白いな」
「綾小路君は、正義についてどう考えているの?」
「俺は、正義とは悪にもなりうる存在だと考えている。正義を掲げた人間が全て正しい訳では無い。正義は誰かにとっての悪であり、悪もまた誰かにとっての正義になることがある。つまり、どちらも所詮同じものであり、立場や視点が変われば正義や悪も逆転する。そんな曖昧なものだと考えている。」
「曖昧なもの、か。私の考えに似ている部分もあるけど、それでも私たちの主張は違う。あなたは"正義"の意義を否定し、私は"正義"を変化するものだと言った」
綾小路は足を止め、私の方へ向き直る。
「哲学とは物事の本質を突き詰める学問だ。そしてその方法は無数に存在し、視点や状況により幾つもの答えが出てくる。つまり哲学の絶対定義は存在せず、哲学は誰にも縛られない自由な学問なんだ」
「……それが君の考える哲学なのかな?」
「そうだ」
綾小路の主張が終わると、私は思わず笑みが零れそうになる。
「哲学は最も理性的な学問だと思ってる。何故なら、本質を追求するには余計な感情という装飾を削ぐ必要があるから」
自分の思考を吐き出しつつも、私は綾小路の考える哲学というものを気に入ってしまった。
「でもね、綾小路君の考える哲学は嫌いじゃない。何故なら、哲学がここまで発展した背景には、制約はもちろんあったけれど、それ以上に自由を愛する者たちの存在があったからだと考えているからね」
綾小路は驚いたような顔をした。
「自由を愛する者たち、か」
綾小路はもう一度足を止め、私の顔を見つめてきた。今度は私も立ち止まって彼の顔を見る。すると、彼は何かを決めたようで私にゆっくりと口を開く。
「小鳥遊は自由な振る舞いをしているように見えて、意外と縛られた人生を送っているな」
「何言っているの?私ほど自由気ままに生きてきた人間はいないよ」
私は今までの人生を好きに過ごしてきた。欲しい物がなんでも手に入ったり、出掛けたい場所に好きに出掛けられたりしたわけではないが、可愛らしい子供たちと優しいシスターに愛され、素敵な家族候補者や家族に迎えられ、ハプニングはあってもいつも五体満足で生還してきた。
思想を制限されることなく、表現の自由が守られ、私を虐待していた親族に復讐を果たすことができた。私はとても恵まれた人生を送ってきたのだ。だから、私は縛られていない。
「……私は自由な人生を送ってきた。縛られてるなんて言うのはやめて欲しいな」
「そうか、悪かった」
それから、私たちは他愛ない話をしながら校舎に向かって歩き続けた。綾小路の言葉が、私の心に小さな波紋を立てていた。
本当に、私は自由なのだろうか?
この「箱庭」の中で、どこまで自分の意志で選択できるのだろうか。
彼の言葉は、まるで私の心に潜む、見えない「檻」の存在を告げているようだった。
小鳥遊と綾小路って似ているようで、全く違いますよね。
小鳥遊は孤児院、綾小路はホワイトルーム。
綾小路には親が近くにいて、小鳥遊には親が近くにいない。
特殊な環境にいながら、綾小路は驚異的な頭脳と身体能力を養い、小鳥遊は自身の過酷な過去の経験から独自の哲学を持ち、孤児院で経たキリスト教の教えと融合させ、自身を神として盲信できるような新たな思想を生み出した。
作られた天才と、後天的な経験に基づく哲学者。
しかし、2人の思考タイプはかなり似ています。
綾小路が効率や成果を重視するのに対して、小鳥遊は過程や人間心理を大切にし、どちらも物事の本質を綾小路は圧倒的な知識から、小鳥遊は彼女の持つ哲学的思考から探ろうとします。
彼らの手段は違えど、最終目標はほぼ同じだと言って良いでしょう。
それぞれにないものを持っているからこそ、お互いに思考の補完ができる関係性。
それが現在の綾小路と小鳥遊の関係性だと思ってます。
綾小路からしたら、小鳥遊は人間性を学ぶ教材であり、小鳥遊からしたら綾小路の真逆の意見や思考を持つ存在です。
だからこそ、2人の掛け合いは書いていて面白いんですよね。